2014年10月31日金曜日

暗黒の恐怖 Panic in the Streets 1950

エリア・カザン監督のフィルム・ノワール、題名のパニックは伝染病の蔓延を指す。


 主人公の衛生局担当官はリチャード・ウィドマーク、悪役でおなじみだがまだ若い。ここでは伝染病を防ぐべく警察と組んで病原菌保有者を捜す正義漢を演じている
港町に病原菌を持つ密入国者がやってきてならず者たちに殺される。その死体から悪性の伝染病がわかる。犯人たちに感染しているはずなので街全体、また国全体に蔓延する前に捕まえようとする。

 ドキュメンタリー的で迫力ある構成となっている。考えさせられたのは一般への広報の問題である。記者が嗅ぎつける。市民に知らせるべきと言う。犯人逃亡を恐れる主人公や警察に阻止され記者は拘束される。ジャーナリズムなら市民は知る権利があり自らを守るため、知らせるべきというのは当然であろう。結果的に映画だから最悪の事態は避けられるわけだが、現実ではどうなるかわからない。

2014年10月29日水曜日

有名になる方法教えます It Should Happen to You 1954

ジョージ・キューカー監督、主演はジュディ・ホリディ。相手役はジャック・レモン。彼はこれが映画初出演とか。


 ニューヨークの中央公園。少し変わった若い女性に、ドキュメンタリー映画を撮っている青年が会う。聞けばモデルを失業したところとか。前向きに生きろと励ます。女性は繁華街の街角に大きな看板を発見する。広告募集が出ているので、大金を払って自分の名前をそこに載せる。ここへ自社の広告を載せる予定だった会社の青年重役が、替えてくれと説得するが女性は降りない。最後は他の6か所の広告用看板と交換で了承させる。映画青年は女性に好意を持っており、広告で自分の名を売るなどすべきでないと言うが聞かない。女性の名が街角のあちこちに載るので話題になる。テレビに出演依頼がありそれから売れっ子になっていく。青年重役は彼女を仕事と言って連れ出し迫るが嫌がって逃げ出される。最後には彼女も自分の売れ方が嫌になり、映画青年と結ばれる。

 ジャック・レモン演じる青年が主人公に、有名になるより毎日の日常の生活を大切にする、これが重要だと言う。こういうこと映画で言われると、演じている俳優にとって有名になることこそ一番重要じゃないかと思ってしまう。こんな矛盾を考えていたら映画なんて作れないのだろうが。

2014年10月28日火曜日

真昼の暴動 Brute Force 1947

ジュールズ・ダッシン監督、バート・ランカスター主演、白黒映画。刑務所の暴動を扱う。



 舞台となる刑務所では受刑者に対し過酷な作業や管理側による虐待が行われている。特に看守長は嫌われていた。作業で死者が出るほどであり一時出所の見込みも少ない。主人公は病気の恋人が心配である。また同室の仲間も夫々恋人との思い出がある。恋人たちとの回想シーンは刑務所を舞台にした映画としては特色。脱獄を企て準備する。実はこの計画は密告者により看守長に知られており、刑務所側は待ち構えていた。

 刑務所脱獄を扱った映画は多い。これも大まかな荒筋はそれほど大差ない。有名なアルカトラズ監獄で前年に暴動があり、それに触発されているそうだ。ドキュメンタリー的で非常に迫力ある出来となっている。

2014年10月27日月曜日

雲晴れて愛は輝く Paid to Love 1927

ハワード・ホークス監督の無声映画である。恋愛喜劇というか、西洋映画で良くある話である。



 欧州の小王国へアメリカの銀行家が融資のためやってくる。国の経済を活性化する必要がある。同国の皇太子は堅物というか女に興味がない。女に興味を持たせ結婚して国を富ませようとする(話が十分つながらない、記憶違いかも)。国王は米人の銀行家とパリへ出かけ皇太子を誘惑する役の女芸人を見つける。その彼女が王国に来る。宮殿に向かう途中、皇太子に遭遇する。お互いに身分や用向きを知らずに好意を持ち合う。遊び人の従兄の王子が仕組んで、なり替わり女に会って皇太子と思わせる。純粋に恋した皇太子は結婚を申し込む。王子はふざけたことを明かし、女も身分違いで結婚できるはずもないとパリへ帰る。女が忘れられない皇太子は国王に彼女を貴族にしてもらい、会いにパリの店まで行く。

喜劇のお決まりである、勝手に勘違いしてそれが発展していくとか、王子と庶民の娘との身分違いの恋の問題とかがあり、その他細かいところで様々な工夫がこらしてある。邦題もいかにも古き無声映画ならではのものである。

2014年10月24日金曜日

俗人説教師の生涯 Evangeliemandens Liv 1915

1915年デンマーク映画、ホルガー=マッスン監督。



 屋外で住民に向かい説教する牧師、その時若い男が牧師は以前刑務所に入っていたと糾弾する。それは無実の罪だと答える。
若い男は恋人がいるが悪い仲間から抜けられず、犯罪に参加するよう強制される。拒否して逃げ出す。牧師を見つける。追いかけてくる連中は牧師に殴打され警官が来ると退散する。
若い男は真人間になりたいと言う。牧師は自分の経験を参考にしてくれと話し始める。
牧師は若い頃裕福な生活を送り、女性と付き合っていた。その女性に他の男がつき男同士で争う。相手が撃った銃は女性に当たってしまう。相手は逃げ出し茫然としていると警察がきて逮捕される。刑務所で聖職者から諭される。再審があり釈放となる。

牧師は語り終えて若い男と彼の婚約者のところへ行く。女性は自殺を図るところだった。二人の結婚を民衆の前で行う。

 極めて宗教的なというか日本ではあまり考えられない、いかにも欧州的な映画でキリスト教信仰により立ち直るという話である。全体として敬虔な雰囲気が漂う。

2014年10月23日木曜日

奈落(深淵) Afgrunden 1910

1910年のデンマーク映画。最も早い時期の女優であるアスタ・ニールセン主演。ガーズ監督。



 路面電車で青年が若い女性(ニールセン)に惹かれる。後をつけプロポーズする。青年は両親と会わせ別荘へ連れていく。その土地にサーカスが来ていた。カウボーイ姿の男がニールセンに目をつける。彼女の部屋へ梯子を使って忍び込み、連れ出してしまう。サーカスのカウボーイと駆け落ちしたニールセンは舞台にたち、彼と踊りをする。これが煽情的と話題になったシーン。他の女優と喧嘩し二人はサーカスを追われる。もともとニールセンはピアノ教師であったため、庭園レストランで余興のピアノを弾くことになる。たまたま来たかつての婚約者の青年が見つけ、個室へ来てもらうようはからう。カウボーイの男は無理にニールセンを部屋に入れる。婚約者と知った彼女は驚く。しばらくして部屋に入ったカウボーイは彼女がかつての恋人と一緒にいるので逆上し、ニールセンともみ合う。はずみでナイフでカウボーイを刺してしまう。警官がやってくる。元婚約者は悄然と立ち去る。

 ニールセンはこの後、ガルボを有名にした『喜びなき街』などにも出演している。この映画ではまだ若く妖艶な魅力を振りまいている。男との踊りのシーンは、当時の基準としてはかなり際どいものだったらしい。

2014年10月22日水曜日

人生の乞食 Beggars of Life 1928

ルイーズ・ブルックスがドイツへ渡る前年の1928年の米映画、監督は『つばさ』が有名なウェルマン。この映画はトーキーで作られたらしい。もっともセリフは少なかったようだが。見たのは音楽付きの無声版である。



 浮浪者の青年がたまたま覗いた一軒家で死んでいる男を見つける。二階で音がする。見上げると少女(ブルックス)がいる。里親が乱暴しようとしたので銃で撃ったと話す。家から二人は逃げる。少女は男装というか少年の服装で。青年は自分と逆方向へ逃げろというが結局同じ汽車に飛び乗って同行することなる。『サリバンの旅』の主人公とヴェロニカ・レイクを思い出した。車掌に見つかって降ろされる。浮浪者の仲間のところへ行く。この浮浪者仲間で少女は男装を見破られ、また警官隊も追ってくるのだがなんとか逃げ出す。浮浪者のボスが二人に好意的になる。警察は男装の少女を追っているので女の服を買ってくるなど算段してくれる。さらに殺人の罪をもみ消すために工夫をしようとする。その際警官に撃たれてしまう。若者二人は用意してもらった車で逃げていく。

 ブルックスはほとんど出ずっぱり。前半の汽車や乾草などの逃走場面では少年姿が魅力的である。後半はただ出ているだけの脇役のようになる。後半では浮浪者のボスがむしろ主人公である。このボスは好人物ということであろう。若者二人に別れて逃げた方が安全と説教する。少女が一緒にいたいと言う。真の恋を初めてみたと感動するのだが、少し話が良過ぎ。このボスはヴィダァ監督の『チャンプ』で主人公をつとめている。

2014年10月21日火曜日

黙示録の四騎士 The Four Horsemen of the Apocalypse 1921

イングラム監督による1921年の映画。ルドルフ・ヴァレンティノが有名になり、第一次世界大戦の悲劇を告発した世界初の反戦映画として知られる。

 舞台はアルゼンチンから始まる。ここへスペインからやってきて成功した地主の一家。ヴァレンティノが躍るタンゴシーンは有名だそうである。
一家の娘二人はフランス人とドイツ人と結婚していた。祖父が亡くなり欧州へ戻ることとなった。夫々フランスとドイツへ帰る。話はフランスを主として進む。遊蕩な息子として育ったヴァレンティノは、不幸な結婚をしている夫人と愛情を持つ。それが夫に発覚し離縁しようと言われる。そのとき第一次世界大戦が始まる。夫は出征し負傷して失明する。看護婦として参戦した夫人はヴァレンティノが迫るも不幸になった夫を捨てて置けないという。ヴァレンティノの父がこもるフランスの城にドイツ軍がやってくる。相手方に従軍している甥に遭遇する。戦闘に巻き込まれ散々なめに会う。参戦を決意した息子に会う。自分の祖国でもないから必要ないと諭す。戦闘でヴァレンティノと従兄は敵味方として対面する。その時そこへ爆撃があった。

 この映画が作られた1921年は第一次世界大戦が終わってまだ3年目である。まさに終戦直後の作品ということになる。当時大ヒットしたそうである。戦争の生々しい傷跡がそのままの時にみた観客の感想は今では想像できない。ちなみに日本初の反戦映画と言われる村田実監督の『清作の妻』はこの3年後の1924年である。

題名の『黙示録の四騎士』は聖書に出てくる災害や死などをもたらす騎士で第一次世界大戦の惨禍を象徴している。作中にもキリストを表す人物が登場する。

2014年10月17日金曜日

全線

エイゼンシュタインの1929年の映画。別名『古きものと新しきもの』。『戦艦ポチョムキン』より4年後。いかにソ連の共同農場は発展したかを描いた映画。



 ロシヤの農村では古いやり方で農業を営んできた。各人が自分の領地を囲い込む。畑を耕すにも馬か自力でやるしかない。共産党員がやってきて協同組合の必要性を説く。これまでの農法ではうまくいかないと知る農婦は賛同する。ただし大部分の農民は冷やかな目で見て取り合わない。酪農が村では盛ん。協同組合が牛乳の分離器を取り入れるとその効果に感心し組合員が増える。売上が多くなってその収益を農民間で分配しようとする。指導者の共産党員はそれをたしなめる。カネは組合に戻る。より発展させるためには機械が必要である。機械即ちトラクターを購入するため農婦らは都会へ行く。工場では官僚主義でろくに対応もしてくれない。責任者をどなると署名がもらえトラクターが村でも入手できた。トラクターが来て試運転をする。泥にはまって動かなくなる。農婦のスカートを運転手が破りそれをトラクターに詰めて動くようになった。最後は象徴的に多くのトラクターが大地を耕し、個人領地間の垣根を取っ払っていく。

 これも主題はソ連の集団農法の宣伝映画とすぐにわかる。それだけならその後を知る今では鼻白むし、ソ連見解の歴史的資料としての価値は認めるものの、映画としては歴史資料だけかになってしまう。そういった見方(だけ)をするのでなく、農民たちがより良い生活のため闘う、また面白い場面が出てくる映画として鑑賞すればよい。結婚式が行われる。どんな新郎新婦が出てくるかと思ったら牛のかけあわせなのである。雲の中に浮かぶ牛のイメージとか、あとむやみに個人の顔の大写しが出てくる。当時のソ連映画の特徴でもある。

2014年10月16日木曜日

救ひを求むる人々

オーストリア出身のスタンバーグ監督の処女作、1925年。もちろん無声である。


 港の場面から始まる。中間字幕がやたらと多い。ゴミが浮かぶ海面とか。浚渫のクレーンが何度も出る。若者は失業していて港で職を捜しているが見つからない。知り合いの娘も同様。また幼い男の子、親を事故で亡くしている。ゴロツキのような男がからんでくる。若者はろくに抵抗も出来ない。港の暮らしは泥の中で生活をしているようだ、というので三人は街へ出る。明るいはずだと期待して。街に行っても仕事がないのは同様。不良の青年が寄ってきて自分のところへ住むよう誘う。彼の関心は若い娘であって客引きをさせようと目論んでいる。幼い子が空腹を訴えるので見かねた娘は自分から仕事を申し出る。ただ客を前にすると尻込みして踏み切れない。不良青年は彼ら三人を郊外へ車で連れ出す。夢が叶う場所という宣伝文句のある土地の売地へ行く。そこで休憩をとる。そのうち青年が幼い子がうるさくなって邪見に扱うので、若者は青年に躍りかかり喧嘩になる。青年は喧嘩で青年を倒す。もう自分自身に自信がついた。三人で胸を張って道を歩んでいく。

 映画として極めてストレートな主題である。空想で夢を描くのではなく、自分がやれるという自信、自分自身に対する自信こそ重要。このようなわかりやすさは初期の映画ならではと思う。

2014年10月15日水曜日

メニルモンタン

ロシヤ出身の監督キルサノフによる1925年のフランス映画。フランス印象派に分類される。


 ショッキングな場面から始まる。男二人と女が争っている。そのうち一人の男が斧を振り上げ打ち下ろす。場面は変わって二人の幼い少女が戯れている。姉妹である。田舎の道をうちへ戻ってくると目をむいて立ち尽くす。先ほどの争いは二人の母親が不倫の最中、夫が帰ってきたことによる惨劇であったのだ。何年かたつ。パリあたりか都会。二人の姉妹は成長し若い女性になっている。孤児となったが助け合って生計を立てている。妹が恋人の青年に求められ関係を持つようになる。その恋人を待っていると自分の姉と同じように逢っているので衝撃を受ける。自分の時と同じ建物へ姉を連れ込んでいく。産科の建物の前。妹は赤ん坊を抱いている。当てもなく川沿いの街をさまよう。川面を眺め自殺を考えているのか。公園のベンチに座る。息が白い。寒い時期とすぐわかる。隣に座った老人がパンを食べ始める。様子を察した彼は無言でパンを置く。妹はそれを食べる。赤ん坊を抱いて路地に佇んでいると向うに街娼が見える。良く見ると姉である。姉もこんな姿になっていたのだ。妹が子供を見せる。姉妹揃って子供をあやす。少し離れたところからこれを眺めていたのが二人を捨てた青年であった。その青年に後ろから声がかかって見ると別の若い女である。連れの男がとびかかる。二人は殴り合いとなる。若い女が青年の頭に石塊を投げつける。

 無声映画である。中間字幕が全くない。元からない。筋は大体わかる。ただし冒頭の争いで犠牲となったのが二人の親、その原因が不倫とか、後からインターネットで知った。最後に現れる女性はやはり青年に騙されたので復讐に来たのだろうと想像できる。主人公である妹役は監督の妻、ナディア・シビルスカイヤが演じた。目の大きな、人形のような美人である。極めて印象的な映画である。

2014年10月10日金曜日

路上の霊魂

松竹キネマ第1回作品で映画史上の記念的作品。それまでの時代劇中心の活動写真から芸術性の高い映画を作ろうとした運動の中で生まれた。大正10年制作、小山内薫指揮、出演、村田実監督、出演、ほかに若き日の鈴木伝明、英百合子などが出演している。



 全体の荒筋は次のとおり。
山奥で伐採所を経営する政界を引退した老人。彼にはヴァイオリニストになりたくて家出をした息子がいた。結婚して娘も生まれるが演奏活動で人気を失い食べるものにも欠くありさま。乞食同然となった彼は妻子を連れて故郷の実家へ戻る。しかし老人はかつて息子に帰宅を促したにもかかわらず無視され、餓えている息子一家を怒って受け入れようとしない。失望した彼らは吹雪の中に出て小屋にたどり着いた。

刑務所を出たばかりの男二人組は路上で、実家に向かう息子一家に会い、娘にパンを与えた。そのため空腹がひどくなり別荘を見つけそこへ押し入ろうとする。しかし別荘番の老人に見つかり打擲される。それを見た令嬢は不憫になり食事を与え、クリスマスパーティにも招待する。この別荘で二人組は雇われることになった。

息子一家を追い出した老人はさすがに心配になり小屋を見つけ、妻と娘だけでも家に泊まれと言う。嫁はそれを拒否する。老人と息子の間で口論となり息子だけ小屋から出ていく。かつて息子の許嫁であった姪も小屋に来る。良く見ると娘は既に病気と寒さのため死んでいた。明くる日快晴になり雪の中に埋もれている息子が発見される。

 この作品上映当時はあまり人気が出なかったそうだ。設定が当時の日本の実状とかけ離れているのは確かだ。翻訳文学の日本人による演劇のようだ。シュミットボンという作家とゴーリキーの原作を元に話を作ったらしい。冒頭近くでロシヤ語の字幕が出てくる。これはゴーリキーの文。主要登場人物は洋装がほとんど、クリスマスパーティに招かれる庶民の女性は着物だが。室内も洋室、別荘も19世紀のロシヤ文学かと思わせる。最後に教訓を垂れる字幕が入るのだが、これは今日なら入れないだろう。見ていてわかるし。

見た目はともかく、最初に書いたようにそれまでのチャンバラ主体の映画から純粋な映画を作成しようとした意図、話の構成は先駆的であった。
あとつまらんことだが別荘でクリスマスパーティが開かれる。それがいわゆるパーティ、つまり宴会騒ぎなのである。この当時クリスマスとかそのパーティがどの程度日本に浸透していたのか知らない。多分ほとんどの日本人には縁のない行事と思わる。最初から日本にとってクリスマスとは宴会騒ぎのことだったわけか。

フィルムセンターで10月8日にみた。徳川夢声による弁士説明版である。説明が話の前半と後半に入りその中間は残っていないので無声そのままである。これは当日の館からの説明によると昭和29年に『路上の霊魂』の復活上映をした際、徳川夢声に説明してもらった音声の録音だそうだ。徳川夢声は大正10年にこの映画が最初に上映されたときも弁士を担当したとのこと。

2014年10月7日火曜日

不壊の白珠

題名は「ふえのしらたま」と読む。昭和4年の清水宏監督の無声映画。八雲恵美子主演、恋人役に高田稔、妹に及川道子。原作は菊池寛。


 フィルムセンターで以前みたことがある。今回は中間字幕が明瞭になったということ。また原作もずいぶん前に読んだ。

タイピストの八雲は同じ会社の高田を密かに慕っている。しかしその高田から妹と結婚したいと打ち明けられ、ショックを受ける。妹のために結婚を祝福する。その妹は奔放な性格で結婚後固い一方の夫に飽き、男友達と遊び回っている。八雲は高田から頼まれ妹を連れ戻すが、妹の心は既に夫にない。八雲は自分が勤めている会社の専務から結婚の申し込みを受ける。中年で前妻の子供が3人もいる。その邸を訪れると子供から女中と間違われ、職業婦人と馬鹿にされる。高田は外国へ旅経つことになり、港で八雲は見送る。まだ専務と結婚するかどうか気持ちは決まっていない。

八雲美恵子は美しい。デビュー当時大人気であったこともわかる。こういう寂しさを湛えた美人が戦前は人気があったようだ。及川は夭折した女優、ここではモガという、日本的な八雲と対照的な役割を演じている。高田は二枚目俳優で非常に人気があったとか。ここでは化粧の白塗り等もあってややのっぺりした感じを受ける。戦後は脇役の俳優というイメージだが中年以降の渋い高田のほうが見栄えがすると思う。

2014年10月5日日曜日

母(プドフキン)

ソ連のプドフキン監督が1926年に作った無声映画。原作はゴーリキー。

 

荒筋は次のよう。
飲んだくれの亭主、革命運動をしている息子を持つ老いた母。息子は仲間から武器を預かる。隠し場所をたまたま母は見てしまう。工場でストライキによる暴動が起こり、亭主はスト破りの側にいて銃で撃たれてしまう。亭主の死体を前に息子にお前の仲間がやったんだという。軍人たちがやってきて捜索する。息子は白を切る。しかし逮捕していこうとするので、母は秘密を教えれば釈放されると思い武器の隠し場所を言う。それでも息子は引き立てられる。裁判が開かれ有罪判決となる。母は衝撃を受ける。刑務所に入った息子に母は面会で今度デモ隊による脱獄計画があるというメモを渡す。しかしこの計画は広く街中に噂となっていった。当日母もデモに参加し刑務所へ向かう。脱獄を図る囚人へ当局は発砲し大混乱になる。息子はからくも脱走し川の漂氷を乗り継いでデモ隊の母と再会し喜ぶ。ちょうどその時デモ隊を待っていた軍隊が発砲して、息子ほかが犠牲となる。母は倒れた赤旗を掲げて軍隊に向かう。

 革命思想については今では時代が変わっている。映画そのものと見れば迫力がある。初期のソビエト映画の作り方である。戦艦ポチョムキンを彷彿させる。実際この映画ポチョムキンと並んでソ連映画の代表作として挙げられていたことがあったそうだ。今でもそうなんだろうか。よく知らない。ただ上に書いたように迫力ある画が多く見る価値はある。

2014年10月4日土曜日

さらば青春

1918年制作のイタリア映画。アウグスト・ジェニーナ監督。

フィルムセンターが世界で唯一持っていたフィルムをイタリアと協力して、残っていた資料から中間字幕を再現挿入し、デジタル処理を行って上映。
ただし元のフィルムが古いだけでなく、経年劣化を防ぐ手立ては今のところないよう。途中で画面が崩れるところしばしばあり、場面も飛んでいる。

話は大学生のロマンスである。田舎からトリノの大学へやって来た青年が下宿先の娘と親密な仲になる。同じ建物に住む裁縫師の女性も青年に惹かれる。青年もまんざらでなくなる。娘はやきもちを焼き、なんとか青年を自分に引き止めておくべく算段し、最後は裁縫師の女性に掛け合い、手を引かせる。ただしこの騒動で二人の仲はまずくなり青年は下宿を変える。大学を卒業し田舎へ帰る日が来る。未だに青年が忘れられない娘は会いに行き二人はお互いに好きなことを確認し合う。戻らないでほしいと娘は頼む。青年はまた会えると言って去る。さらば青春、さらば恋。

 話としてはたいしたことない。しかし最終場面は少し驚いた。お互い好き合っているなら娘も男について行くとか、ともかく一緒になればいいじゃないか。とアメリカ映画に毒されているせいかまずそう思う。ただこのような終わりなので大正時代に日本で上映された際にも日本人には共感できるところ大きかったのであろう。

芸者小夏

岡田茉莉子主演、監督は杉江敏男による昭和29年の映画。岡田の初主演作だそうである。昭和8年生まれの岡田はこの時21歳。原作は舟橋聖一で公開当時は大人気だったそうだ。

 話の筋は次のよう。
富士山の見える温泉の芸者をしている小夏。中学卒業で芸者になって間もない。小学校の同窓会で憧れていた先生の池部良に会う。彼は田舎の学校教師が嫌で東京の会社に就職したく温泉へ療養に来ている会社社長に頼む。その際自分の教えが芸者をしていると述べたので社長は興味をもって席に呼ぶ。その場に先生がいるので驚く小夏。小夏が気に入った社長は落籍せて自分の妾にしようとする。先生は小夏に恋していたので、社長が夜伽のため小夏を呼んだ夜、待ち伏せて自分のものになってくれと頼む。小夏は尊敬していた先生にそう言われたくないと断り、社長のところへ行く。

社長に連れられて東京の妾宅で一人住まいするようになる。社長の来ない日は時間を持て余す。留守中に社長が来て家で待っていると叱られる。ある日零落した先生が訪れる。もちろん社長の会社には入らず、転校した先でも小夏との噂を立てられ辞任したとか、愚痴をこぼして帰っていく。その後は社長が亡くなる、遺産はないようだというお決まりの展開。

 全く芸者というのはモノとして売り買いの対象であったと改めて思った次第。芸者も自分の意思でやっているとか、人の言いなりになって生きることも気楽かもしれない。ただしかつてはそういう状況に否応なく置かれて自分でどうこうできるとは思えない人生を歩んだ人が多かった。

映画で東京へ来てからの下りは余計に思えた。田舎での三角関係をもっと掘り下げた方が良かったのではないか。
池部がこの映画嫌っていたというサイト見つけた。
http://www.eibunsin.com/memory/011.html
それはわかる。この先生優柔不断で愚痴だけの男として描かれている。

2014年10月3日金曜日

文学趣味

イギリスの作家ベネットが1909年に著した文学談義であり、読書のすすめである。


山内義雄訳、岩波文庫、1943年。
我が国でも読書のすすめはよく書かれているが100年前、イギリス人がものした著作はどんな感じであろうか。そういう興味を持って読んだ。
一言で感想を言えば率直に述べてあり、また具体的な指針として実用的である。ただこの実用的というのは当時のイギリス人にとって、という意味であり今日の我々にとっては必ずしもそう言えない。例えば、全14章のうち3章を使って読むべき英文著作のリスト、17世紀まで、18世紀、19世紀の代表作品を挙げている。それが作者、書名だけでなく、全体で値段は2614志7片とある。漢字は夫々ポンド、シリング、ペンスである。今日の我々にとってこの値段について感覚をもてない。

また当然のことながら今日の日本人にはなじみのない名が多く見られる。散文作家と詩人に分けられ列挙されている。19世紀の詩人の一欄を見るとケブル、ダーリイ、ベトウズ、ベイリイ、ド・ヴィア、パトモア、ドベルなど例に過ぎないが私など名も知らない。もっとも英文学専攻の人なら既知かもしれないが。散文作家ならよりなじみがあるはずである。19世紀は多いので散文作家も想像的、非想像的に分けてある。前者は今の言葉で言えばフィクションであり、後者はノンフィクションということか。19世紀の想像的散文作家の中にもランダー、ハント、ミトフォード、ゴールト、フェリアー、ジェロルド、カールトンなどなど、自分の知識の範囲外が珍しくない。

それに挙げている作家はイギリスばかりのようだ。不明の著者もそうなんだろう。我が国の読書論で読むべき名作を挙げるとき、日本文学ばかりにする人いるだろうか。
実用的という点では第9章「韻文」では苦手な詩に親しむ方法を、順番を追って具体的書名、読み方を説明し指導している。

懇切丁寧というか自信があるというか大英帝国末期の、これが典型でもなかろうが、文学のすすめはかなり異なっている。

2014年10月1日水曜日

寒椿

大正10年制作の無声映画。畑中蔘坡監督、水谷八重子主演。最も早い時期の代表的女優水谷八重子が初めて出演した映画だそうだ。明治38年生まれの水谷はこの時まだ16歳。通っていた女学校からの要請でクレジットに名前は出さず「覆面令嬢」としたそうだ。
今日フィルムセンターで見たのだが、クレジットタイトルが小さくて(出演者一覧が一画面に出ている)、読めなかった。上の情報も映画を見てから調べてわかったのでもし最初からそうならもっと前でよく調べていたかもしれない。

 筋はおおよそ次のよう。
田舎の一軒家に老いた父と住む娘は、たまたま猟にやってきた華族へ落し物を届けたため気に入られ、その屋敷に奉公することになる。父親は娘に執着している若者ともみ合いになる。はずみで若者を殺めてしまう。刑事が奉公している屋敷にやってきて事情がわかる。娘は追い出される。刑事は娘の実家に赴き、自殺しようとしていた父を逮捕する。縄にかけられ引き連れられる父と帰ってくる娘は路上で邂逅、涙の別れとなる。そこへ華族の主人もやってくる。

 みてまず感じたのは中間字幕が恐ろしく少ない。だいたいの筋はもちろんわかる。しかしながら内容がわからないところが出てくる。いったい無声映画では中間字幕はたまにしか出てい。饒舌なトーキーに比べその簡潔さは無声映画の特徴であり長所であると思っていた。でも肝心なところで字幕が出ず、わからないのは困る。これは想像だが弁士が説明するので字幕を簡略化したのだろうか。細かいところで不明だったのは最終場面、華族の主人がやってきて父と話し合う。その内容が不明。想像はできるが。また父が嫌がる娘につきまとう男を殺す前に口論する。その内容がわからない。
家に帰ってこの映画の筋をインターネットで確認しようと思っていたが、こんな古い映画については筋を説明しているサイト等見つけられなかった。


 フィルムセンターの上映は音楽等なく文字通り無声、シーンとしたまま1時間以上みている。前にもこういう経験した。無声映画しかなかった当時は日本なら弁士がいたし外国でも伴奏等していて賑やかだったはず。こういう無声映画の鑑賞の仕方は特殊現代的か。

フィルムセンターはよく経験するが寝ている人がいて、いびきが聞こえる。今日はいびきの音は大きくないのだが無声で人数も少ない。気になる。わざわざやって来て寝る位なら家で寝ていればいいのに。