2024年4月28日日曜日

現代仁侠道 兄弟分 昭和45年

村山新治監督、東映、89分、菅原文太主演。賭場に警察の手入れが入った。菅原が責任をとり自首し、その場は収まった。

菅原が出所した後、親分の渡部文雄が引退し、後任に他の者を選んだ時、菅原は約束のシマをくれる約束はどうなったかと聞く。渡辺は不快になる。大阪の自分の組から飛び出して上京した待田京介は渡辺の組に草鞋を脱ぐ。渡辺は待田に、邪魔になった菅原を消せと命じる。待田は菅原と会ってその人間が気に入り、東京から逃げてくれと頼む。菅原はその気になったが弟子が渡辺に捕まっていると聞き、戻って渡辺に切りつける。その時現れた大親分が仲裁する。菅原は自首、服役した。

その間、待田は暴れ勢力を伸ばしていた。菅原のいない間、渡辺は弱味につけ込み菅原の妻に手を出していた。菅原出所後、妻は自殺する。大阪から待田を連れ戻しに鶴田浩二が上京してきた。渡辺は待田に、自由になりたかったら大親分を倒せと命令する。大親分、待田とも倒れる。菅原は鶴田と共に渡辺の組に乗り込み全滅させる。

井奥陽子『近代美学入門』ちくま新書 2023

西洋の近代の美学観念の変遷を追う。

artに当たる語の意味は古代では技術、近代以降芸術の意味が加わった。自由七芸でなかったartはむしろ職人の手になる技術とされた。近代以降、芸術家が確立し藝術視されるようになった。artの対象はまず美、これは均斉のとれたもの、更に崇高、これは自然の荒々しさ、最後は「絵になる」もの、これは対象は不均一だが構成によって整える。これらの美、崇高、絵になるがartとして認識されてきたのが近代である。17世紀から19世紀までの時代になる。

2024年4月27日土曜日

ジャイアント・スパイダー 巨蜘 Giant spider 2021

リー・ヤードン監督、中国、84分。秘密の研究所での研究は蜘蛛を巨大化させ、研究員をほとんど殺す。

救出に特殊部隊が赴く。また研究所を知っている博士とその護衛役の女戦闘士、アンドロイト風、日本刀のような刀の使い手が一緒に行く。荒涼たる地にある研究所に着いてみると巨大蜘蛛に襲われ部隊員の大部分が死ぬ。研究所の女所長の野望による研究が悲惨な結果をもたらしたのである。その女所長も殺され、何とか数名の者が逃げる。研究所そのものは爆破される。

ザ・レイク The lake 2022

リー・トーンカム監督、タイ、108分。タイの田舎の池或いは湖に怪物が現われ、人々を襲う。アマゾンの半魚人風?で、後ゴジラ風になる。沢山の者が犠牲になる。

幼い娘が怪物に攫われたか行方不明になる。若い姉弟のうち弟は怪物に傷つけられる。すると怪物の考え(?)が分かるようになる。捕えた小さい方の怪物を人々がやっつけようとしていると、止めに入る。幼い娘は無事だったが大きな卵を抱えている。

刑事には言う事を聞かない娘がいる。学校に迎えに行く。反抗期のような娘は父親に反発して口もきかない。怪物が現れたとの通報で娘を乗せてそこに向かう。幼い娘と卵も車に乗せる。大きい怪物が現れた。卵を取り戻しに来たと推測がつくが、怪物を仕留めるためボンベを銃で射ち大爆破となる。自分の娘が死ぬ。後に怪物の居所を捜しに、洞窟のような所に行く。

2024年4月26日金曜日

ブラックサイト 危険区域 Black site 2021

ソフィア・バンクス監督、豪米、91分。イスタンブールで病院爆破があり、それで夫の医師と娘を亡くしたCIA分析官(ミシェル・モナハン)が主役。

砂漠の様な人里離れた場所に基地があり、そこにテロの首謀者の男が移送されてくる。取り調べ中に一人で叛乱を起こし、基地の人間を次々と殺していく。この殺人者をいかにして取り押さえるかの映画。最後になって真相らしきものが分かり、ミサイルを打ち込んで基地全体を秘密保持のため爆破するが、主人公は寸前に脱出する。

清水幾太郎『現代思想』上下 岩波全書 1966

内容は次の様である。第一章「二十世紀初頭」1芸術家たち2哲学者たち3社会主義者たち、第二章「一九三〇年代」1.ナチズム2人民戦線3スペインとインテリ、以上が上巻である。以下は下巻で第三章「一九六〇年代」のみ。1.イデオロギー2電子計算機3レジャー、である。

はしがきにマルクス主義、プラグマティズム、実存主義のような有名な思想は扱わないと言っている。一体何が書いてあるのか。初めの芸術家の部分は清水による現代芸術論である。機械の発達が影響を与えたとある。哲学者のところは認識と価値の問題が書いてある、社会主義者のところはベルンシュタインを論じる。第二章のナチズムは言うまでもないが、人民戦線と聞いて懐かしく思った。忘却の彼方の話とは言わないが、こんなことを論じているのがいかにも当時らしい。それにスペイン内戦の問題。これも昔はよく本などが出ていた。

下巻は執筆している時代、その半ばの1960年代を対象とし、イデオロギー、電算機、レジャーの話である。何が書いてあるか、興味を持つ者もいるだろうが、あまり読み進める気が起こらない、著者の本を何でも読みたいと思う人向きではなかろうか。1960年代半ばにはこのように論じる人がいたという記録である。

2024年4月25日木曜日

パニッシャー The punisher 2004

ジョナサン・ヘンズリー監督、米、123分。FBI捜査官が家族を殺されたので相手の悪党どもに復讐する物語。

主人公は潜入捜査官で、悪党どもを捕まえる際、殺された男がいた。その父親が悪党の親玉ジョン・トラボルタで、復讐を企てる。捜査官の家族は殺される。捜査官はFBIを辞め、復讐する鬼となる。ギターを弾く殺し屋やロシヤ人の大男の殺し屋などは面白い。それらを倒し、最後はトラボルタをやっつける。トラボルタは身体を鎖で縛られ、車に引きずられながら燃えて、爆破に巻き込まれ死ぬ。

ゾディアック Zodic 2007

デヴィッド・フィンチャー監督、米、158分、実際の連続殺人事件を元にした映画。1968年に若いアベック襲撃事件が起き、新聞社宛犯行声明と暗号が送られてきた。次に来た手紙にはゾディアックという署名があった。その後も事件が続く。

担当する刑事と新聞社で漫画を描く男(ジェイク・ギレイホール)が主となって事件を追っていく。実際にあった事件でいまだ未解決であるため、犯人を示唆して終わる。ギレンホールが事件に熱中して家族を顧みないので、妻は子供を連れて実家に帰る。

2024年4月24日水曜日

ジャッカル The Jackal 1997

マイケル・ケイトン=ジョーンズ監督、米、124分、ブルース・リー、リチャード・ギア出演。『ジャッカルの日』を翻案した映画。

モスクワで悪党を米FBIとロシヤ捜査官のチームを逮捕しようとし、最後は悪漢を殺す。殺された悪漢の兄であるマフィアのボスは腕利きの殺し屋"ジャッカル"を雇い、復讐を図る。ジャッカルはブルース・リーが演じるが誰もその名は知っていても顔を知らない。知っている筈の今は刑務所にいるリチャード・ギアをFBI捜査官(シドニー・ポアチエ)とロシヤの女捜査官は尋ねる。別れた妻が知っているとギアは言い、捜査協力のため一時的に刑務所から釈放される。ジャッカルはギアの元妻の再婚した家を襲い、護衛していたFBI捜査官らやロシヤの女捜査官を倒すが、元妻は助かった。

ギアは推理し、ジャッカルが狙っているのは米大統領夫人と突き止める。間一髪でポアチエは大統領夫人を守ることが出来た。逃げるジャッカルをギアは追う。地下鉄線内での逃走劇がある。ギアはジャッカルにもう少しで追いつくと思われたが、逆にジャッカルに銃を向けられ最期かと思う。その時銃声が鳴り、ジャッカルは倒れる。ギアの元妻が倒したのである。後にポアチエはギアを秘密裏に逃がしてやる。

田中美知太郎『時代と私』

ギリシャ哲学で名高い田中美知太郎の自伝である。もっとも自伝と言っても普通の自伝とはかなり異なる。自分の幼い頃の回想から始まるというのではない。過去の事件や自分の経験に対する意見を述べているところが多い。

最初の章は「合間」という題である。これは大学卒業後、東京に出て職を得るまでの期間をそう読んでいるのである。そういえば田中は京大の哲学の教授で、てっきり関西の人間かと思っていたら、新潟の出身で東京で中学校(旧)を卒業した後、上智の予科に入りそこから京大を受験し関西に行ったようだ。大学を出てからも職を得るため東京に出て、法政大学、次いで文理科大学の教員になった。戦後になって京大に招かれたわけであるが、ここではそこまで書いていない。本書の第二章は三木清がドイツに留学してあちらでどう勉強、研究したかと長々と書いてある。三木清の名は今でも知られているが、戦前は大変な有名人だったらしい。その三木清も京大の教員に採用されず、東京に行き法政の教授になった。

田中は日記をつけていて当時の日記を引用し、回想している。今では知る人もいないだろうが、法政で昭和十年前後に教員間の騒動があった。自分の敵方の教員を追い出そうとした騒動である。田中は教員だったから影響を受け、その経緯が書いてある。当時の法政の教授陣は有名人が多いと知った。本書で最も痛快なのは軍人に対する忌憚ない批判である。ニ・二六事件の首謀者やその後、戦争を推し進めた軍人連中を私利私欲で行動した、などと書いてあり、このような軍人批判は見たことがない。終戦の年の五月の東京空襲で田中は被災しもう少しで死ぬところだったらしい。焼夷弾からか、酷い火傷を負った。その辺りの事情が最後の方にある。(文藝春秋、昭和59年、新装版)

2024年4月21日日曜日

オンリー・ゴッド Only God forgives 2013

ニコラス・ウィンディング・レフン監督、仏丁、90分。タイが舞台の暴力映画。

バンコクで、暴力的な白人は未成年の娼婦を殺す。警官は父親に復讐をさせ、親としての義務を怠ったと片腕を斬りおとす。日本刀の使い手の警官は容赦ない。殺された男の弟は父親を追い詰めるが、兄の行為がひどかったため、復讐を止める。米から母親が飛んでくる。弟になぜ殺さなかったかと怒り、刺客を差し向け父親を殺させる。警官も兄殺しに絡んでいたと聞き、母親はその男の殺しを命ずる。

警官が同僚と食事をしていたところに殺し屋が現われる。激しい銃撃で客を大勢殺すが、警官は殺し屋を追って捕える。命令した者を聞き出し、日本刀で成敗する。命令した系統を追ってキャバレーの経営者の白人をナイフ状の食器で手足を刺し、息子を殺された女からだと答えさせる。弟は警官と素手で一対一の闘いをするが、叩きのめされる。母親は警官の一家を皆殺しにする命令を出す。子供を殺そうとする刺客は弟が殺した。警官は母親も剣で刺し殺す。最後に弟との幻想的な場面が出てきて終わり。

2024年4月20日土曜日

デュ・モーリア『愛はすべての上に』 The loving spirit 1931

ダフネ・デュ・モーリアの処女作である。作者24歳時の出版である。題名のThe loving spiritは題辞に掲げられたエミリ・ブロンテの詩(ブロンテの詩は全体だけでなく、各章の初めにもある)から来たのであろう。「愛する心 代々伝わりて/永遠(とわ)に絶ゆることなし」一家に代々伝わる生きる情熱が主題の小説とも言える。原題でも訳名でも内容は分からない。内容に沿った訳名としては『クーム家の人々』が考えられる。トーマス・マンの処女作『ブッデンブローク家の人々』を思い出したからだ。また親子代々の物語ではバックの『大地』も思い出した。『ブッデンブローク家の人々』を20歳代前半で良く書けたものだとの感心を読んだことがあるが、本書についても同様に言えるだろう。

コーンウォールの田舎の港町に住むクーム家。小説の初めは19世紀の前半で、ジャネット・クームという女、男まさりで男に生まれたかったという女の物語である。青年と結婚する。子供を何人も授かるが、その中でジョゼフという男児を特別可愛がり、ジョゼフと母親の間には緊密な愛情が生まれる。第二部はこのジョゼフの物語である。逞しく成長したジョゼフは船乗りになる。男性的であるが粗暴で専制君主である。結婚して生まれた長男が次の主人公になる。ジョゼフは最初の妻を亡くしてから、老年に近い歳になって激しい恋愛をする。これは不幸をもたらした。更にジョゼフの末弟フィリップは計算ずくの不快な男であり、小説の最後まで登場する。ジョゼフの長男クリスは父と全く似てない文弱であり、船乗りなど成りたくない。父親をいたく失望させる。何とか決意して船に乗ったが、船酔いその他船に怖れしか感じず、途中のロンドンで船を下り行方をくらます。ロンドンで下宿に住み、そこの娘と結婚する。不況で財産を亡くし、妻と田舎の港町に帰る。クリスは兄弟や親戚が経済的に困っており、叔父のフィリップに援助を頼むがにべもなく断られる。クリスは「英雄的」行為で命を落とす。クリスの妻は田舎を嫌い、ロンドンに子供を連れて帰る。クリスの娘ジェニファーが最後の主人公である。成長したジェニファーはロンドンを嫌い、父の田舎に帰る。そこで従兄に会い親しくなる。また吝嗇漢の叔父フィリップに仕返しを企てる。

小説の最後、p.335に家系図が載っており、必要に応じて参照したらいいだろう。(大久保康雄訳、三笠書房、1974年)

2024年4月15日月曜日

ヴォルテール『カンディード』他五篇 岩波文庫(植田祐次訳) 2005

題にある他五篇とは『ミクロメガス』『この世は成り行き任せ』『ザティーグまたは運命』『メムノン』『スカルマンタドの旅物語』である。Amazonにも書いていないので、補足する。このように入っている著作名全部が記されていない場合が結構あるが、不親切である。特に『ザティーグ』は『カンディード』と対で言及される物語である。

さて『カンディード』(1759)は『カンディードまたは最善説』(本書の訳名)が全体の著名である。主人公の青年カンディードは師パングロスの説く「最善説」を信じていたが、遍歴で様々な苦難に会い、最後は現実的になり、最善説への盲信はなくなる。この最善説を「この世のすべては善」と理解し、カンディードが最善説から目覚める話、とよく目にする。しかしこの世のすべてが善ではない、とは子供でも知っている。そんな当たり前が教訓の話?と思わないか。結論は常識でもヴォルテールの古典で論じているから意味があるのである、と言われそうだ。それでもこの最善説という言葉は気にかかる。これは当時の哲学者ライプニッツの論で、ヴォルテールは『カンディード』でそれに反論したという。ライプニッツによればこの世は神が作ったものだから可能性の中で一番いいものを作ったはずである。悪があるとしてもそれは善を引き立てるためにある。神の作った世は予定調和が実現する。この考えへの反論だそうだ。しかしよいとか善との言葉からの連想は適当だろうか。この翻訳の解説p.527には次の様にある。「最善説(オプティミスム)は当時まだ耳新しい造語であったから、ヴォルテールの秘書も口述筆記の際にこの語の綴りを知らなかったという。この語はまだ、物事をよいほうに考える楽天的な心理傾向を意味してはいなかった。」岩波文庫の旧訳(吉村正一郎訳、1956年)の扉の題は「カンディード 或は 楽天主義説」となっているが、この解説からすると適訳とは言えないようだ。

本書の原題はCandide, ou l'Optimismeであるが、当時はオプティミスムに「物事をよいほうに考える楽天的な心理傾向を意味してはいなかった」ので、むしろこれを見てoptimalという語を思い出した。これは最適と訳され、工学や経済学では良く使う。目的に適っている、適応しているという意味で、無駄がない、効率的、につながる。そこには正義が実現しているとか、道徳倫理的に見て望ましい、といった基準は一切ない。もしパングロスの説くオプティミスムをそのように解釈すると、後年のヘーゲルの『法の哲学』序にある次の句を思い出す。

「合理的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ合理的である。」

訳書を見ると「理性的であるものこそ・・・」と書いてあるが、現実との対応だから合理的と言った方がいいのではないか。哲学者は理性という言葉が好きなようだが。これは非合理なものはいつまでも続かない、存在している以上何らかの理由(合理性)がある(望ましいという意味ではない)はずである、と解釈すればごく普通の考えではないか。そういうとリンカーンの言とされる次に続かないか。

「すべての人を一時的にだますことはできる。一部の人をいつまでもだますことはできる。しかしすべての人をいつまでもだますことはできない。」

自分にはヘーゲルもリンカーンも同じような事を言っているように見える。非合理なものがいつまでも続くはずがない。パングロスをこのヘーゲル、リンカーンの流れで考えると、パングロスだけ違う。リンカーンにあるように、非合理は続かない、と言っているだけで世の中すべてが合理的、最適とは言っていない。パングロスは世の中は最適である、目的合理的であると主張している。この考えにしたところで首肯できない。世の中むだが多いし、改善の余地がある。それでも自分には世の中すべてが善である、と言うよりましな感じがする。

以下は蛇足である。自分が初めてパングロスという名を聞いたのは、経済学者がパングロスと同じだという評である。経済学では完全競争が実現していれば資源配分が効率的(最適)になる、それを基準にして考える。あくまで理論上の基準、仮説で、完全競争が普通実現しているわけでない。それを経済学者は経済が現実に完全競争の状態にあるとみなしている、という「批判」を時々見る。無知からか悪意からか、多分前者であろう。全く現実は最適とは言い難い。


2024年4月13日土曜日

レイジング・ファイア 怒火 2021

ベニー・チャン監督、中・香港、126分、軽擦映画、かつて刑事だった男たちの復讐譚。香港とヴェトナム人の麻薬取引の現場をおさえるべく警官隊が乗り込む。しかし覆面の複数の男たちが現れ、取引当事者だけでなく、警官隊もほとんどやられる。

主人公の刑事は堅物で金で懐柔しようとする悪人のいいなりにならず、警察内部でも上司からの受けが悪い。映画は数年前に戻る。要人銀行家が誘拐され、身代金が要求される。警察上部はいかなる手段をとっても解決しろと命令する。容疑者らを暴力的に叩きのめし、銀行家は救助されたが、犯人の一人が死亡する。警察内部の査問会が開かれる。主人公の刑事は部下の刑事らが死亡者に暴力をふるったか問われ、その現場を見ているので、肯定する。これによって刑事らはブタ箱送りとなった。後に出所してから警察と銀行家に復讐すべく、組んだのが映画の初めの方に出てきた覆面団である。

主人公は悪漢のアジトとなっている街に単身乗り込み、奪われた麻薬があるので問い詰めるが白を切られ、悪漢のボスは逃げる。追っかけ劇があり、最後にボスは車に轢かれて死ぬ。この車は復讐団の一人が運転していた。復讐団のボスは主人公の刑事のかつての部下で、査問会で庇ってもらえず、刑務所送りになったので恨んでいる。復讐団はかつて責任を取ると言ったが、査問会では知らぬ存ぜぬで通した警察幹部を捕まえた。爆弾をその首に巻きつけ主人公の妻が働く学校に行き、妻を人質に取る。主人公が駆けつけ、妻を救う。幹部は爆死する。復讐団の遠隔操作だった。最後に復讐団は自分らがかつて救った銀行家の銀行を襲う。大金を奪い、銀行家を殺す。車で逃げ、警察が追う。街中で銃撃戦となる。主人公は部下だった復讐団のボスを追い、教会で格闘となり最後には逮捕に至る。

2024年4月12日金曜日

太陽を盗んだ男 昭和54年

長谷川和彦監督、東宝、147分、沢田研二、菅原文太出演。沢田演じる中学の理科教師が原爆を作り、爆破させると脅すので刑事の菅原が阻止しようとする映画。

映画の初めの方、伊藤雄之助演じる老人が武器を持って、沢田らの乗るバスをバスジャックし、皇居前広場で天皇に会わせろと要求する。菅原演じる刑事が来て取り押さえる。見ていた沢田は感心する。それ以降、沢田は原爆製造に打ち込む。東海村から原料を盗み出し、他の材料を集め原爆を作る。これを使ってどうするか。まず本物の原爆を持っているのを証明するため、一つを置きそれを調べさせる。沢田は野球中継が途中で終わってしまうので、最後まで放送しろと要求する。叶い、試合終了まで放送となった。他に要求がないかと考え、たまたまラジオのDJをしている池上季実子に目をつけ、何かして欲しいことがあるか聞く。ローリングストーンズの日本公演と言われ、それを警察に要求する。また借金返済のための数億円を要求する。菅原はそれまで沢田からの電話の逆探知に失敗してきた。今度は電電公社の協力を得て沢田の居場所が渋谷の百貨店屋上だと知る。警官や菅原が追いかける。車で逃げるところは警察の追っかけがある。

ローリングストーンズの武道館公演の日、原爆を持った沢田を菅原は科学技術館の屋上まで追い詰める。いくら沢田が銃を撃っても菅原は死なない。最後は二人とも屋上から落ち、菅原は死に、沢田は助かって原爆を持って逃げる。沢田は街中を歩いている。原爆爆破の音だけ鳴って終わり。

2024年4月10日水曜日

清水幾太郎『わが人生の断片』 昭和48年~50年

著者の清水幾太郎は評論家で多くの著作を物し、また専門であった社会学を初め西洋の著作の翻訳も多い。清水は戦後のある時期まで進歩的文化人として、特に平和運動の指導者として名高く、それ以降はかつて自分の属していた左翼陣営を批判する論客となった。ある時期とは60年安保騒動時である。なぜこのように急に変化を遂げたか、転向したか、ほとんど知らなかった。本書は著者の自叙伝で(昭和48年から50年に発表)、自伝はこれ以外もあるが、なぜ転向したかの理由が書いてある。それが本書の大きな特色である。

まず本書は第二次世界大戦当時、南方へ派遣された話から始まる。三木清(当時、彼は知的ジャーナリズムの頂点に立っていた、とp.12にある)、中島健蔵と共に徴用され、清水はビルマに行った。向こうでは高見順その他の知識人と会った。ビルマでは本を読んだり、街を歩いたり、ともかく何もしていなかったとある。ここら辺りを読むと日本の軍は全く無能のように見える。活用するあてもなくただ知識人を徴用し、何もさせない。これでは戦争に負けるはずである。

その後は自分の生い立ちへと戻る。東京日本橋に生まれ育った。後に本所に移るが同じ下町でも天地の開きがあるように書いてある。本所なぞは貧民の住むところと言わんばかりである。一体明治の東京生まれは非常に誇りが高く、誇りが高いだけならいいのだが、田舎を見下す傾向が強い。他の著で田舎出身の高校生(当時)を馬鹿にしていた。本書でも戦後の進歩的知識人による声明を著者が一次的にとりまとめ、東京だけでなく京都の文化人たちと調整する必要がある。それで関西とのすり合わせ、往復でへとへとになる。次のような当時の感想がある。「田舎者は嫌ひだ。」「・・・田舎者多くイライラするのみ。」(本書p.341)同じ日本橋出身の谷崎潤一郎の文を読んでも同じような印象を与えるところがある。

戦後、清水が活躍するようになってから、自分を評した記事の抜き書きがある。「清水は秀才である」「頭の回転が速い」「雄弁である」「長身である」「お洒落である」「苦労人である」「名文家である」「江戸っ子である」「貴族的である」「庶民的である」「教祖である」・・・(本書p.346)どの文章もこういった点を列挙しながら、その後は自分を攻撃する結論を出している、とある。また同じページに昭和27年4月に「図書新聞」が行なった、どんな人に書いてもらいたいかのアンケート結果が載っている。その順位は1)清水幾太郎、2)中野好夫、3)山本有三、4)志賀直哉、5)谷崎潤一郎、6)小林秀雄、7)南原繁、となっている。いかに人気のあった評論家であったかが分かる。

清水の不満と言えば他の知識人との比較である。他の者らは大学、それも最高学府の東大の教授(法学部が多い)として納まり、そこに安住できて都合が悪くなったら戻れる、自分はそうでないとある。次の様な文もある。「東大の研究室の窓から眺めると、安保反対の運動で飛び廻っている私は、土方か人足のように見えるのではないか」(p.441、断片的な引用だが、本音が現れているように思えた)しかし清水自身も学習院大学の教授を20年(昭和24年から44年)している。これは知人の久野収に教授の席を世話してもらいたいと依頼され、学長の安倍能成に頼んだら、だったらお前も教授になれと言われ、なったと言う。その教授職を嫌がっている文が多くある。

昭和30年前後にヨーロッパに数か月間、行った記録が書いてある。海外旅行など一般人からすると夢の夢であった時代である。随分奇妙な事が書いてあるが、一番驚いたのは「西側の諸国を訪れる最大の楽しみは、キオスクで諸国の新聞を買い込んで、それをホテルの部屋でポツポツ読んで、切り抜きを作ることである」(p.397~398)という文。わざわざ外国まで行って新聞を読んでいるとは。当時は全く外国のreal timeの情報が日本では入手出来なかったのである。現在と天地の開きがある。西洋諸国との比較で日本をけなす文が書いてある。昔はこういう批判が多かったと思い出した。

60年安保騒動時の回想がある。自分で読んで理解した、なぜ「転向」したかの理由は次の様である。反対闘争を指導した共産党がまるでなっていなく、それで安保改定を阻止出来なかった。安保改定阻止が無理と分かると他の知識人たちは民主主義擁護を目標にした。しかし民主主義に反対する者などいない。闘争の目標に掲げる物ではない。安保改定阻止が無理でも政権に徹底的に抗議し、自分らの主張を貫くべきである。それが官邸に首相に会いに行ったら面会は無理だと言われた。その時同行した他の知識人(鶴見和子、丸山眞男)が清水の頑なな座り込みも辞さない態度を批判したので、怒っている。

ともかく共産党への批判が大きい。次の様な文があってこれも驚いた。「・・・ツベコベ言わずに、共産党を信頼して、黙って見ていればよい、と友人たちは言った。或いは、言いたかったのであろう。彼らにとって、共産党は、神聖なもの、絶対のもの、不可謬のものであった。」(p.456)マルクス主義者以外も含め左翼全般がこれほど、この時期まで共産党を絶対視していたのか。この五年前の六全協(共産党の大会)で共産党は方向転換をした。六全協ではそれまでの極左冒険主義を捨て、穏健な現実路線(清水の表現ではニコニコ路線)を方針とした。(脱線だが六全協での極左冒険主義批判で、それまでそれを信じて活動してきた青年らの屈折した心情が柴田翔の『されどわれらが日々』に書いてある)

共産党の穏健路線で安保反対運動を軟化させ失敗させたのだとある。それに対して学生、全学連(全日本学生自治会総連合)への称賛は凄まじい。これほど全学連を称賛した文を読んだことがない。学生らの純粋な反対運動を評価する。安保阻止運動をダメにした共産党、そして「現実」に適応した軟弱な知識人らは清水には我慢できなかったらしい。清水は平和運動の指導者を長年してきた。それは清水にリーダーシップがあり、行動力があったからだろう。だから清水からすると安保反対運動のやり方やその終わらせ方は我慢できなかったようだ。もちろんこれらは安保以前の平和運動でも感じていた。安保騒動でその不満が頂点に達し、全くそれまでと袂を分かった。(清水幾太郎著作集第14巻、講談社、1993年)

2024年4月9日火曜日

『怪樹の腕』〈ウィアード・テールズ〉戦前邦訳傑作選

戦前に米の怪奇小説雑誌(pulp magazine)Weird talesから邦訳(翻案を含む)された小説を集めている。内容は以下の通り。

「深夜の自動車」アーチー・ビンズ/「第三の拇指紋」モーティマー・リヴィタン/「寄生手─バーンストラム博士の日記─」R・アンソニー/「蝙蝠鐘楼」オーガスト・ダーレス/「漂流者の手記」フランク・ベルナップ・ロング/「白手の黒奴」エリ・コルター/「離魂術」ポール・S・パワーズ/「納骨堂に」ヴィクター・ローワン/「悪魔の床」ジェラルド・ディーン/「片手片足の無い骸骨」H・トムソン・リッチ/「死霊」ラウル・ルノアール/「河岸の怪人」ヘンリー・W・ホワイトヒル/「足枷の花嫁」スチュワート・ヴァン・ダー・ヴィア/「蟹人」ロメオ・プール/「死人の唇」W・J・スタンパー/「博士を拾ふ」シーウェル・ピースリー・ライト/「アフリカの恐怖」W・チズウェル・コリンズ/「洞窟の妖魔」パウル・S・パワーズ/「怪樹の腕」R・G・マクレディ/「執念」H・トンプソン・リッチ/「黒いカーテン」C・フランクリン・ミラー/「成層圏の秘密」ラルフ・ミルン・ファーリー

いずれも戦前ならではの、現代なら書けるはずもない、人権意識に照らして問題のありすぎる諸作である。解説が充実している。夫々の作品ごとの解題は理解に役に立つし、巻末の解説は翻訳者に至るまで説明してマニア向けに凝っている。(会津信吾、藤元直樹編、東京創元社、2013年)

ハガード『愛の守護精霊』 Benita 1906

ハガード得意の秘境冒険小説で、題名になっているベニータという女が主人公の物語である。

ベニータは南米の父親の元に船で行こうとしている。船上で知り合った男から求婚される。その時に船はぶつかり沈没する。男はベニータを救助艇に乗せ、自分は母子を助けるため席を空け海に入る。男は死んだと思われた。ベニータは南米に着き父親と再会する。父親は以前から宛てのある、莫大な財宝を捜しており、それにドイツ系ユダヤ人と組んでいる。ベニータはその男を好きになれなかった。

父親らが財宝捜しに出るので一緒について行く。ようやく何百年も前、ポルトガル人が隠したという財宝のありそうな場所に着く。現地の者らはベニータを女神と信じる。ベニータと父親、ユダヤ人の財宝発見の苦労が延々と描かれる。最後に悪徳ユダヤ人が死に、ベニータは船で生き別れた男に会い、財宝を発見する。(菊池光訳、創元推理文庫、1976年)

2024年4月6日土曜日

ワイルド・タウン/英雄伝説 Walking tall 2004

ケヴィン・ブレイ監督、米、80分、ザ・ロック主演。ドウェイン・ジョンソンはこの映画ではレスラーの名、ザ・ロックで出ている。

軍人を辞めたロックは故郷の町に帰ってくる。就職するつもりだった製材所は廃業していた。家族に、また友人たちに暖かく迎えられるロック。友人の一人で製材所の息子だった男は今ではカジノを経営していてそのカジノが町の中心事業になっている。招待されて友人らとそのカジノに行く。知り合いの女子がストリップで働いているので驚く。相手はもっと驚いた。ルーレットでイカサマをしているのをロックは見抜く。店の者、用心棒と喧嘩になり店で暴れる。また幼い弟が麻薬で補導される。その麻薬はカジノの用心棒から入手したという。ロックは怒り狂い、カジノを破壊する。裁判にかけられる。証人らはロックの乱暴ぶりを証言するが、ロック自ら自分の弁護をする。自分が保安官になったら町を改革すると言って聴衆から拍手喝采を浴びる。

その後選挙が行なわれ、ロックは保安官になった。麻薬を扱っていた男を逮捕する。カジノの言いなりになっていた前保安官とその手下がロックとその家族を襲う。それらとカジノの経営者と対決し、粉砕する。

2024年3月31日日曜日

シルヴェット・ミリヨ『弦楽四重奏曲』 1986

フランスの著者による弦楽四重奏曲の歴史や名曲についての手頃な解説である。個人的な思い出を書く。今から半世紀ほど前、LPレコード時代の名曲名盤選を見ていた時、バルトークの弦楽四重奏曲の項に「バルトークの弦楽四重奏曲はベートーヴェンのそれと並ぶ傑作である」と書いてあり、びっくりした。弦楽四重奏曲というのはベートーヴェンからバルトークまでの間、ろくな曲がないのか。何という底の浅い、奥行きのない、数で見ると貧弱な音楽なのか。しかし関心はあったので、それ以来、色々な弦楽四重奏曲を捜し、鑑賞してきた。ベートーヴェンとバルトーク以外にも聞くべき曲は当然ある。本書でもそのヒントを得られて鑑賞の幅が広がった。

本書は『弦楽四重奏曲』と題されているが、扱うのは弦楽四重奏曲に留まらず、その他の室内楽も考慮に入れている。例えばブラームスは弦楽四重奏曲よりもその他の室内楽に有名曲が多いのではないか。弦楽四重奏曲に限って言えばブラームスよりシューマンの方をよくきく人がいても不思議ではい。しかし本書ではブラームスはベートーヴェンと並び19世紀の室内楽に君臨すると述べている。ベートーヴェンについては言うまでもないが、ブラームスは室内楽のほとんど凡ての形式を作曲したからだと言う。(本書47)なるほどこのように言えば室内楽へのブラームスの貢献は大きい。つまり狭く弦楽四重奏曲に限定されないのである。その一方で本書ではヴァイオリン・ソナタへの言及がない。ここではヴァイオリン・ソナタは室内楽の範疇にないようだ。クラシック音楽は18世紀から19世紀の中欧、ドイツ語圏の作品が主要と見なされている。ただ室内楽の愛好家はフランス音楽をきく頻度が大きい。解説で「フランス人の著作であるので、フランスの室内楽曲についての説明が物足りないということはない。」(p.174)とあるが、どこの国の人間が書いても、19世紀後半以降のフランスの室内楽については相当取り上げなければいけないと思う。

先にベートーヴェンとバルトークの弦楽四重奏曲が双璧だとの、半世紀前の指摘に驚いたと書いたが、バルトークの重要性についてはこの本でもp.144以下に書いてある。ただバルトークは6曲しか弦楽四重奏曲を書いていない。ベートーヴェンの、特に後期とバルトークについては最近ではあまりきく気がしない。丁度交響曲が好きで様々な交響曲をきいている人が、毎日ベートーヴェンの有名交響曲をききたいと思わないであろうと同じである。やはり弦楽四重奏曲は多く書いている作曲家がいい。そういう意味でハイドンなど特に好きだし、また本書p.165にある20世紀の作曲家で弦楽四重奏曲を多くものしている、ショスタコーヴィチ、ミヨー、ヴィラ=ロボスのうちショスタコーヴィチは一番好きな作曲家(交響曲なぞは全くきく気がしないが)と言っていいし、最近はヴィラ=ロボスをよくきいている。ブラジル風バッハ風ではないが、好きである。ミヨーは以前全集も出たらしいが、今では廃盤になっている。(山本省訳、文庫クセジュ、2008年)

土砂降り 昭和32年

中村登監督、松竹、104分、白黒、岡田茉莉子主演。岡田茉莉子は役所に勤め、同僚の佐田啓二といい仲で婚約し、課長に仲人を頼む。

佐田が岡田の家に行って親に挨拶しようと言うと岡田は遮り、こちらからいい時に頼むと答える。実は岡田の家は連れ込み旅館で、母の沢村貞子は山村聡の二号、旅館は山村が沢村にさせていたのである。岡田と弟妹は山村の庶子だった。山村は時々旅館にやって来て沢村や子供たちと会う。岡田は実家に帰る途中の山村に会い、自分の婚約を告げる。ただ父親は昔死んだことにしてあると山村に説明する。正式な親でないから。佐田の母親(高橋豊)は息子から岡田との婚約を聞いて、自分から沢村の旅館に挨拶に来た。近所で聞いてそれが連れ込み宿、しかも沢村は二号と分かり呆れて帰る。佐田の母親は役所に連絡して破談にさせる。

岡田と佐田は会うが仲直りはできず別れ、岡田は関西でキャバレーに勤める。家族は岡田が行方不明になり心配する。佐田は別の結婚をする。数年後、役所の汚職に関わり、逃げて関西の岡田のところに行って会う。犯罪者なので匿ってくれと頼む。一方佐田の母親は沢村宅に乗り込み、警察からの情報で息子が岡田のところにいるらしいが、岡田に丸め込まれた、騙されたと非難する。

岡田の弟と妹は百貨店で、箱根に行くと行って自分らと共にしてくれなかった山村が、実の子供たちに買物をしてやっているところを見つける。妹(桑野みゆき)は腹が立ち、嫌になり逃げて去ってしまう。沢村は妹の桑野も、雨の中、返ってこないので心配していると玄関に現われたのは岡田と佐田だった。ともかく二人を入れ宿で泊まらせる。

沢村は岡田に別れろと言い、それは佐田の母親から言われたからである。岡田は沢村に、それでは山村と別れてくれ、それが条件だと言い出す。佐田は自分の家に戻りたいと母親に手紙を書いている、と沢村は岡田に告げる。それを聞くと岡田は佐田の寝ている部屋に行く。夜中に岡田は佐田を殺し自殺した。

葬儀で沢村の家は佐田の家族に散々嫌味を言われる。帰宅後、妹の桑野が沢村に山村と別れてくれ、自分たちみんなで働くからと言う。山村が来た。山村にもそう言う。山村は了解し帰る際、沢村が送っていくがいつまで経っても帰ってこないので子供たちは心配して沢村を迎えに行く。沢村を見つけ、弟妹は一緒に帰る。

オペラ・ハット Mr. Deeds goes to town 1936

フランク・キャプラ監督、米、115分、ゲイリー・クーパー、ジーン・アーサー出演。映画は道を飛ばす車が崖から落ち大破する場面から始まる。乗っていた富豪は死に、その財産は誰が相続するのか。田舎に住む甥のクーパー(役名がディーズ)と分かる。

弁護士らはクーパーの住む田舎に行きニューヨークに連れて来る。田舎者のクーパーなど簡単に丸め込めると思っていたら、したたかなので周囲は驚く。新聞社では記事にすべく女辣腕記者のアーサーを送り込む。アーサーは弱い女のふりをしてクーパーに近づき、クーパーから好意を持たれる。アーサーはクーパーを記事でシンデレラ男と書き、この言葉が有名になる。クーパーは金に執着はないが、たかろうとする連中を見抜き、いいなりにならない。

ある日クーパーのところに失業した男がやって来て、クーパーを新聞で読み、馬に食べ物を喰わせたとあったので飢えている人間はどうなるのだと脅迫する。一旦銃を取り出すが収める。クーパーは貧しく困っている人たちが多いのに気が付き、自分の金で農業事業を起こそうとし、失業者らから参加者を募る。クーパー宅に押しかける。クーパーに財産を蕩尽されては叶わないと思っている連中は弁護士を通じ、クーパーは精神がおかしく入院させる必要があると裁判を起こす。一方クーパーはアーサーに結婚を申し込もうとしていた。

ある男がクーパーに暴露する。アーサーは新聞記者で記事を書くためクーパーに近づき、クーパーを嘲笑した記事はアーサーによるものだと。これを聞いてクーパーはショックで裁判などどうでもよくなる。裁判で何を言われてもクーパーは何も答えない。アーサーが真実を話し、謝罪しても無駄だった。最後にアーサーがクーパーを愛しているのだろうと尋問され、アーサーが肯定すると、クーパーは目が醒めたように喋り出し、自分が全く正常であると笑わせる例えをふんだんに使って演説を始める。これで裁判の結果はクーパーは正常だとなり、最後にクーパーはアーサーを抱き上げ抱擁する。

2024年3月30日土曜日

不死身なあいつ 昭和42年

斎藤武市監督、日活、87分、小林旭主演、他に浅丘ルリ子、二谷英明、東京ぼん太。『不敵なあいつ』に続く作品。

映画の冒頭、雨の中、車から男(小林)が引き出され海の中に捨てられる。やくざの仕業だった。鹿児島に舞台は移る。東京ぼん太が生きていた小林に再会する。小林は劇場の看板を見るとそこに浅丘の出演看板があった。小林はかつて浅丘といい仲だった。久しぶりに再会する。浅丘は小林の幼馴染である二谷と結婚していた。二谷は昔刑事で小林に更生するよう説得していた。今何をしているかを聞いてもはっきりした答えは返ってこない。二谷は土地のやくざの一味になっていたのである。小林は二谷と再会し事情を聞く。二谷はかつて事故を起こし、それをやくざにもみ消してもらった後はやくざのいいなりになっていた。

色々迷惑を土地にかけているやくざと小林はもめごとになる。土地のやくざは小林の正体を知り、邪魔なので消そうとする。神戸からも消すための殺し屋が来ていた。東京ぼん太が攫われ助けに行く。最後にはやくざとの対決になる。二谷は小林を助けたためやくざに殺される。小林はやくざや殺し屋を一掃して鹿児島を去る。

新婚道中記 The awful truth 1936

レオ・マッケリー監督、米、90分、アイリーン・ダン、ケイリー・グラント主演。典型的なスクリューボール・コメディと言われる。

ダンとグラントは夫婦。ちょっとした嫉妬と誤解等から言い争いになり、離婚になる。裁判所で離婚が決定され90日後に離婚が成立する。(女の子供ができたら父親をはっきりさせるためか)もちろん内心では二人とも相手を好いており、最後によりが戻るとは見る前から分かる。その間、相手を忘れるため他の異性と交際したり、ドタバタが続く。見せてはいけない男を隠したところ、そこには先客がいたりして、などはモーツァルトのオペラにもドストエフスキーの短編小説にも使われている。映画の類でも何度も見ただろう。結局相手に素直になれず、格好つけてばかりの様子を延々と見せられる。

若い時に見たら面白く思えたかもしれない。出演名ではダンの方が先に出てくる。戦前は人気があった女優のようである。

2024年3月29日金曜日

アイランド The Island 2005

マイケル・ベイ監督、米、136分、ユアン・マクレガー、スカーレット・ヨハンソン主演。近未来、大気は汚染されていて、人々は地下の工場で働いている。アイランドと呼ばれる夢の島への移住をみんな望んでいて、抽選に当たるよう祈っている。

マクレガーはヨハンソンとたまに会い話すのが楽しみだが男女の交際は禁じられている。ある日マクレガーは舞い込んだ蝶を見て、大気が汚染されているのに変だと思う。また抽選に当たり、アイランドに行ったはずの男女が殺されているのを発見する。

実は働いている人々はみんなクローンであった。クローンを開発したのは、注文主が不治の病を患っているなどの場合、その臓器等、身体の一部をクローンから取り注文主に売るためである。マクレガーは抽選に当たったヨハンソンを連れて逃げる。工場の外(地上)に出ると大気は汚れていなかった。やはり工場で働いている、クローンでなく人間のスティーヴ・ブシェミに外部の彼の家で会い、注文主のところに行く手伝いをしてもらう。追手が来てブシェミを殺す。マクレガー、ヨハンソンはマクレガーの注文主、即ちマクレガーと外見がそっくりな男と会う。男は工場に連絡し追手を寄こす。しかし追手は間違え注文主を殺してしまう。

マクレガーは逃げる前に工場で働いているクローンたちに真相を知らせるべく、工場に戻ってくる。工場を運営している連中と戦い、やっつけ、みんなと、ヨハンソンと共に工場を去る。

AVA/エヴァ Ava 2020

テイト・テイラー監督、米、96分、ジェシカ・チャステイン主演。チャステイン扮するエヴァは女殺し屋である。

フランスに来たイギリス人をエヴァは車の中で殺す。殺す前に殺される理由を被害者に聞いていた。エヴァの属する組織の長であるコリン・ファレルはエヴァを買っておらず、エヴァを始末するつもりだった。エヴァを贔屓にする仲間のジョン・マルコヴィッチはファレルと対立する。

エヴァは病気の母、妹の家族がおり自分の仕事は明かしていない。久しぶりに会った妹は自分の以前の彼と婚約する仲になっていた。ファレルとマルコヴィッチは殺し合い、マルコヴィッチが殺される。その映像をファレルはエヴァに送った。エヴァはかつての恋人に未練があったが、既に妹が妊娠していると知り、妹、彼氏に金を与え遠くに逃げろと命令する。エヴァはマルコヴィッチの仇を討つため、ファレルと対決する。ファレルを倒した。そのエヴァの後をファレルの娘がつけていくところで映画は終わり。

目黒冬弥『メガバンク銀行員ぐだぐだ日記]三五館シンシャ 2022

著者はバブル期に大手都市銀行に入行、その後合併したメガバンクに今も勤める行員で仮名。銀行の内部事情が書いてある。銀行ではこんな業務をしているという紹介ではない。こんなに人間関係で、あるいは仕事で大変だという体験談である。

本書を読んで驚いたとか評があるが、正直全部ではないにしても、しんどさの大半は日本の組織であれば似たようなものではないか。上司が嫌な人間でひどい目に会ったとか、あるいは信じられないような卑劣漢が同じ支店にいて煮え湯を飲まされたなど、程度は違っても組織ならある話である。嫌な上司は勤め人の苦労するところだが、本書では全く人間性を疑うような罵詈雑言を部下に向かって言う上司が出てきて呆れた。銀行はエリートの集団ではないのか。

この著者は出世コースを外れた理由が分からないと言っている。営業がエリートコースで事務は外れたコースとのこと。泣いたとある。上司や同僚など外からの妨害が色々書いてあり、自分の無能や失敗はあまりないらしい。結構有能な人物なのだろう。いや一所懸命に仕事をしていれば自分が認められ、出世して当たり前と思うのは普通であろう。何か出世を俗物根性の現われであるかのように批判する評論家の類が昔からいるが、そんな事を言っていられるのは出世が目的かどうかは別にして、頑張って仕事をしている人間が大半だからである。今の日本の社会が外国に比べてましに暮らせるのもそのおかげである。組織で働いていて出世を望む最大の理由は、自己実現を図るためである。一日の大半をそれに費やして、認めてもらいたいと思うのは当然ではないか。

それにしても銀行員は昔から今に至るまで日本ではエリートと見なされている。それなのに日本の金融機関は世界的にみて大したことない。なぜだろう。ここに書いてあるような日本の社会横断的な人間事情では説明できない。

またシステム障害の話も書いてある。自分の従事した仕事は金融関係ではないが、やはりそれなりにシステム開発の必要があり、専門の会社に作らせたのだが全くいい印象がない。システムが素人には分からないからといって法外な金を取り、ひどいものがあった。システム障害で銀行が非難されるのは当然だが、開発した会社が欠陥システムを作ったからである。システム開発も社会基盤の産業なのだが、これに関して暗い気になる。

2024年3月25日月曜日

J・M・スコット『人魚とビスケット』 Sea-wyf and biscuit 1955

海洋冒険小説が中心部分なのだが、小説は戦後間もない時期のロンドン、新聞に出た不思議な個人広告から始まる。

これにいたく興味を持った語り手はその謎を解きたい。何やら裏の話があるようだ。これを書いて出版したい。それで関係者に接触し、ようやく納得してもらえ、スコットランドの島にある屋敷まで行く。そこで聞かされた話が中心である。第二次世界大戦中、避難船を攻撃され救命艇で同乗する二人のイギリス人の男、一人のイギリス人の女、それから混血の乗組員の物語である。インド洋の漂流の描写が延々と続く。ようやく島にたどり着くが・・・。

人間同士の感情のもつれ。女ならではの調和能力などが描かれる。最後に生き延びた人々の若干の謎明かしがある。(清水ふみ訳、創元推理文庫、2001年)

2024年3月23日土曜日

清水幾太郎『論文の書き方』岩波新書 1959年

論文を書く際の心掛けが述べられている。岩波新書中、古典と言っていい書と思っていて、何十年ぶりかに読み返してみた。

自らの経験に基づいて書き方を述べているのは清水の他の著にも通じる。覚えている箇所が幾つかあった。尤もだと思うところも多い。接続の「が」を警戒しようとか、「あるがままに」書くのはやめようなどである。しかし今回の読み返しで、どうも全体として古いと思うところや、あまり納得できないところもあった。出版が昭和34年という60年以上も前であるからしょうがないだろう。

最終章の「新しい時代に文章を生かそう」など、当時の問題意識を書いており、こんな考えをしている時代があったという歴史文書である。またp.116以下で序論と結論が必要ないと書いているが、賛成できない。論点を読者に間違いなく伝えるためにも明瞭に書いておいた方がいいと思うし、ここはワープロなど全くなく、頭から文章を書くしかない時代の発想である。著者には後の時代に書いた文章の書き方を述べた著書があるのでそちらの方がいい。

ネイビー・シールズ Navy seals 1990

ルイス・ディーク監督、米、113分、チャーリーシーン主演。特殊部隊シールズの活躍を描く。

米軍のヘリが過激派に撃墜され、乗組員らは捕まる。処刑されようとしていた時にシールズが現われ助ける。その際に米国製の小型ミサイルを発見したが、爆破させる暇がなかった。このミサイルを爆破しなかったので、後に隊長は上司らから叱られる。ミサイル発見を課題としているシールズは情報を持っているらしい女ジャーナリストに接近する。この情報をもとにしたテロリストへの攻撃で、シーンが早まり、そのせいで仲間は殺されてしまう。隊長はシーンをどやす。

遂にミサイルの在り処を掴んだシールズは爆破作戦に出る。何人かの仲間を失い、隊長も負傷するがシーンが助けに行き、待機していた潜水艦で帰還ができた。

2024年3月22日金曜日

The Batman   ザ・バットマン 2022

マット・リーヴス監督、米、176分、全く新しいバットマンシリーズになっている。

バットマン即ちブルース・ウェインが両親を殺されて悪人に復讐を始めてからそれほど経っていない時期である。市長が殺害される。続いて警察の本部長、更に検事まで殺される。犯人はリドラーで現場にバットマン宛ての謎を残していく。後に判明する真相は、いずれも殺された者たちは裏で金をとる悪事を働いていた。その金の出所はブルース・ウェインの父親だった。市長に立候補するつもりの父親は、自分の妻の醜聞を嗅ぎ付けた新聞記者を何とかしてくれるようマフィアのボスに依頼していた。その結果は記者の殺害だった。父親も母親もその後殺された。そのため孤児院に出すつもりの巨額の金がマフィアのボスに思いのままになり、悪事に使われていた。

全体的に社会の悪を暴くといった暗い映画でヒーローが悪人ばらをかっこよく懲らしめる映画とは程遠い。

インヴェージョン The invasion 2007

オリバー・ヒルシュビーゲル監督、米、99分、ニコール・キッドマン主演。過去何回か映画化されたボディ・スナッチャー物である。宇宙人に身体を乗っ取られる。

キッドマンは精神科医、患者から夫の様子が最近変だと聞かされる。キッドマンの元夫に会うが、同様に変である。宇宙人に乗っ取られたと医者仲間の分析で分かる。既に多くの人間が乗っ取られている。キッドマンは幼い息子を捜す。息子は免疫があって元夫といても感染しなかった。しかしキッドマンは元夫と感染した仲間によって菌を吹きかけられる。眠ると身体が乗っ取られるという。それでキッドマンは睡魔と闘いながら、息子を捜し助け、宇宙人支配下の者たちから逃げる。キッドマンの恋人役のダニエル・クレイグも感染した。何とか逃げおおせ、対ワクチンが開発され問題は解決する。

不敵なあいつ 昭和41年

西村昭五郎監督、日活、90分、総天然色、小林旭主演。小林はあるやくざの組織にいた。無理な殺しを渋っていると、弟分の藤竜也が引き受ける。小林は藤に殺しなどやめて女と逃げろと勧める。藤がそうすると女共々殺される。怒った小林は組と縁を切る。

横浜に着く。若い女の手引でその家が経営するバー兼ホテルに泊まる。そのホテルは暴力団から脅しを受けていた。ギターで流しをしていると同業者の東京ぼん太に会う。ぼん太はやはり暴力団から脅されていた。小林は関わろうとしなかったが、ぼん太及び泊っているホテルを守るため、暴力団と敵対せずにいられなかった。暴力団は小林の正体を知り、質らなぬ相手なので腕利きの殺し屋を手配する。暴力団のボスの女(蘆川いづみ)がバーのホステスをしていて、小林に好意を持つ。暴力団側の情報を小林に流すので、車ごと海に突き落とされ死ぬ。

小林は相手の暴力団、また過去に在籍していたやくざとの闘いになる。相手側を倒し、腕利きの殺し屋も倒すが、実はその男は泊まっているホテルの昔失踪した息子だった。

2024年3月21日木曜日

H・R・ハガード『クレオパトラ』 Cleopatra 1889

『ソロモン王の洞窟』『洞窟の女王』など秘境冒険小説で名高いハガードの歴史小説である。題名にあるようにクレオパトラを描いた小説なのだが、クレオパトラが主人公ではない。

語り手で過去を回想する、ハルマキスという男が主人公である。エジプトのファラオの末裔で神官の地位にある。エジプトをよそ者のクレオパトラが支配している。エジプト人はクレオパトラを嫌っている。それで本来のエジプトの支配者となるべき者だと、ハルマキスは成人してから初めて父親から告げられる。そのためにクレオパトラを倒し、自らがファラオだと宣誓する使命を達成すべく都に向かう。クレオパトラに仕える女官カーミオンはハルマキスに恋し、そのクレオパトラ打倒を助ける。クレオパトラと一対一になったハルマキスはクレオパトラを剣で倒すべきなのに、その色香に迷い失敗する。クレオパトラはハルマキスの企みを知っていたのだった。大失敗しただけでなく、ハルマキスはピラミッドにある財宝もクレオパトラの頼みによって、一緒に取りに行く。苦労して盗み出した財宝は凡てクレオパトラの物となる。クレオパトラは自分の恋するアントニーと一緒になり、用無しとなったハルマキスは捨てられ、今や全エジプト人の恨みを一身に集める敗残者となる。故郷に帰ると父親は死んでいた。

残りの章は如何にしてハルマキスがクレオパトラとアントニーに復讐をするかに充てられる。それが達成されたとしてもハルマキスはエジプトへの裏切り者、エジプトを地に貶めた罪悪人に違いはなく、その罪を背負わなければならない。(創元推理文庫、森下弓子訳、1985年)

千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書 2022

ここで解説する「現代思想」とはフランスのポスト構造主義の哲学である。

特にデリダ、ドゥルーズ、フーコーの三人を中心に書いている。その思想は二項対立の脱構築が鍵の概念だそうだ。二項対立とは良し悪しを二つの概念の対立として捉える。秩序と無秩序、能動と受動など、対立する概念を二項対立と言う。どちらが望ましいか、正しいかは普通常識的には分かっている。その対立の良し悪しをいったん保留にするのである。脱構築と言い、どちらが常に正しいとは必ずしも言えない場合があろう。どちらともいえない灰色領域こそ現実的ではなかろうか、と考えるのである。デリダは二項対立からのずれを差異といい、これを重視する。普通の常識的判断に反対しているのではない。他にドゥルーズは存在の脱構築、フーコーは社会の脱構築を考えたと言う。

2024年3月20日水曜日

傷だらけの天使 昭和41年

吉田憲二監督、日活、81分、総天然色、西郷輝彦主演。鹿児島が舞台である。

西郷は以前起こした、暴力沙汰の責任を一人でとり、少年院(刑務所)に送られた。出所してきた。故郷の指宿に戻る。自分の家がやっていた旅館はなくなっている。西郷の姉はなぜか自殺していた。その姉の婚約者だった家は大きなホテルを経営しており、そこの娘、松原智恵子は西郷の帰りを待っていた。松原の両親は娘の西郷との付き合いを快く思っておらず、後には禁止する。

西郷は姉の自殺の原因を突き止めようとする。松原の両親は自分の息子と西郷の姉の婚約をよく思っておらず、ならず者に姉を暴行させた。それで姉は自殺したのだった。この事実が明らかになったので松原の両親は罪に問われ、松原も好いている西郷を諦めた。最後の方の真相が非現実で、好いている者同士が一緒になれないなど変わった終わり方であった。

猟銃 昭和36年

五所平之助監督、松竹、98分、総天然色、山本富士子、岡田茉莉子、佐分利信出演。

井上靖原作の小説の映画化である。原作は昭和24年という戦後間もない時期の発表であるが、映画の方は制作時に近い時代設定。また原作では3人の女の回想する手紙から成るが、映画は時間の進行に合わせている。佐分利信は20歳も年下の岡田茉莉子と結婚している。岡田の従姉で、佐田啓二(医師)と結婚している山本富士子は夫の佐田が看護婦と情交があって子供までなしたと知り、離婚を決意する。その元看護婦(音羽信子)が置いて行った少女を自分で育てる(この辺りも原作と異なる)。佐分利は山本にいたく惹かれる。独り身になった山本に迫り、深い仲になる。たまたま岡田が二人を目撃し、どういう関係か知る。

それから8年経った。少女は女高生になりセーラー服の鰐淵晴子が演じている。8年間も不倫を隠し続けてきた。山本はもし岡田に知られたら自分は生きていけないと思っている。たまたま山本が着ていた羽織が、8年前の佐分利と一緒の時と同じだった。それを見て当時の目撃を思い出した岡田は、二人の仲を知っていると山本に告げる。衝撃を受ける山本、ついには自殺を図る。岡田は佐分利に離婚してくれと言っていた。

この話で理解できないのは、なぜ8年間も不倫を続けていたかという点である。佐分利は岡田から心が離れ山本一筋なら、時間をかけて岡田に説明し離婚して、今は独身である山本と一緒になればいいのではないか。不倫が始まった時、悪人になろうと佐分利は山本に言う。その悪人役を続けていたかったのか。岡田も最初から二人の仲を知っていたが、二人がだますなら自分もだまそうと決意したと言う。それにしても8年間、夫と従姉の不倫を知りながら、佐分利とどういう夫婦生活をしていたのだろう。全く想像できない。

恋も忘れて 昭和12年

清水宏監督、松竹、73分、白黒、桑野通子主演。桑野は横浜の酒場で働く女である。他の女たちと共に待遇改善を女主人に迫るが相手にしてもらえない。

桑野には幼い息子がいる。その息子は母親が酒場で働いているので、他の子供たちから馬鹿にされる。他の学校に転校する。その学校に桑野は付いてこなくていいと、息子は言う。桑野に気がある佐野周二がやって来て、息子に馬鹿にされていてはいけないとけしかける。次に子供たちが来た時、息子は病気だったが、それをおして相手になって喧嘩を始める。これが元となって息子は病死する。桑野は絶望に陥る。

スタイルが良いので有名だった桑野であるが、この作では洋装でなく着物姿である。

清水幾太郎『本はどう読むか』講談社現代新書 昭和47年

著者は評論家、戦後ある時期まで平和運動の指導者だった進歩的文化人、それ以降は左翼陣営を批判する論客になった。ある時期とは60年安保騒動時である。

本書は読書に際しての心掛けを述べている。筆者の個人体験を元に書いてるのが特徴であり、また実用的な読書方法について述べている。実用的読書と書いたのは、世の読書論は全く趣味としての読書についてのみ述べているものが少なくないからである。以前作家が書いた読書論を見たら「面白くなければ読書でない」などとあった。これは小説など趣味的な本を前提としているのであろう。実際に書店に行ってみると、文学書のコーナーなどはあまりなく、大部分は実用書、つまり広い意味で知識を求める本になっている。

本書では書籍を実用書、娯楽書、教養書に分けている。小説などは娯楽書であろう。自分を高めるのが教養書と言っている。本書で書いている本への接し方は賛成できるものが多いが全部ではない。例えば必要なくなった本を売るよう勧めているが賛成できない。それにこれは「本を買え」という勧めと矛盾する。本を買っておかないと後で買えなくなる場合が多いからその通りだと思う。この理屈でいくと売ってしまうと、その後にまた欲しくなっても買えないかもしれない。今いらないと思っても将来は分からない。好みや関心は変化するからである。これは著者が物書きだから売れと言っているのだろう。つまり本を書くために購入する本が多いわけで、本が完成してしまえば材料となった本は売っても差し支えない。普通の人とちょっと違う。

また本は速く読めと言っている。速く読めたのにこしたことはないが、速く読めない本はどうするのか。つまり難しい本である。速く読めるのは本の内容(と書き方)が自分の知識、理解の範囲内にあるものである。難しい本は飛ばしても良いというのか。速く読めるのは自分の実力の範囲及びそれ以下の本になるので、つまり易しい本ばかり読めとなってしまわないか。本を全部読む必要はない、ただし洋書は分からなくても全部読めといった提案は賛成できる。

最後にマスコミ時代の読書という章があるが今では時代遅れである。専らテレビラジオと印刷物がマスメディアであった時代の話である。今ではインターネットが従来のマスメディアを破壊しつつあり、その流れは加速していくだろう。本書はテレビ全盛時代の議論である。

2024年2月8日木曜日

アイアンマン Iron man 2008

ジョン・ファヴロー監督、米、126分。主人公は天才的な頭脳を持つ兵器産業の社長。

西アジアで自分の開発したミサイルを披露する実験をする。軍隊とジープに乗って移動していると攻撃を受け、テロ組織の捕虜になっていた。生きていたのは、身体の中心部分が器械化され、それをした医者と一緒だった。テロ組織のボスは新ミサイルを自分のために作れと命令する。断ると拷問にかけられる。承諾したが実際はそこから脱出する人造の人間型被服を作っていた。同僚の医者は殺されるが、その人造被服でテロ組織を倒し、空を飛んで脱出し米軍に助けられる。

帰国してから記者会見で兵器製造を止めると宣言し驚かせる。主人公を長年助けてきた補佐役は実はテロ組織と通じ、兵器を売って儲けていた。主人公は戻ってから作成した人造被服を着て空を飛び、西アジアの戦闘で被害者らを助けていた。この人造被服を悪漢の補佐役は作りたく思う。主人公を動けない状態にし、自分は会社に作らせた人造被服で中に入り暴れ出す。主人公はからくも助かり、自分も人造被服で悪漢の補佐役と闘い倒す。

ウトヤ島、7月22日 Utoya 22, juli 2018

エリック・ポッペ監督、諾威、97分。2011年7月22日に起きたノルウェイのテロ事件のうち、ウトヤ島の惨劇の映画化。記録映画ではなく、一人の少女の行動を描き悲劇の典型とする。

少女には妹がいてテントで妹と話した後、建物に行ってみんなと話しているうちに銃声が鳴り、逃げてくる少年少女がいる。分からないまま建物に閉じこもる。しばらくして他の者と逃げる。ひっきりなしに銃声がする。逃げ惑う若者たち。犯人が実際に銃撃している場面はない。少女は妹が心配でならない。元いたテントのところに戻る。いない。少年がいて諭す。後に負傷した少女の手当をする場面がある。その少女は死ぬ。主人公の少女は海岸に逃げる。そこで他の者と退避する。救助の警察の船が来たようだ。その直前に少女は撃たれる。

2024年2月7日水曜日

清水幾太郎『私の読書と人生』講談社学術文庫 昭和52年

初出は昭和24年、社会学者で評論家の清水幾太郎の自伝であり、書名にあるようにどのような読書をしてきたかに重点が置かれている。

著者は東京日本橋薬研堀の生まれである。山の手が大嫌いという。それでも同じ下町といっても、後に移り住んだ本所とは日本橋は全く違う。江戸の繁栄と趣味をとどめている日本橋と工場地帯でスラムの本所である。下町生まれを非常に意識している。後に高等学校に入ると下町の人間はおらず、山の手と「モタモタした田舎の青年たち」しかいない。それらが勤勉であると言っているが、どうしても昔の東京生まれの自尊心と言えばいいが、何か他を見下しているように見えるのである。本筋とは全く関係ない些細な点だが気になった。

2024年2月1日木曜日

メッセージ Arrival 2016

ドゥニ・ニルニーヴ監督、米、116分。世界各国に巨大な宇宙船が現れる。凸レンズか水晶体のような形である。主人公の言語学者である女は政府から呼ばれる。他の学者と共に宇宙船が何しに来たかを探るためである。

音声が聞こえる。絵で書くと墨で書いた丸のようなものになる。何か言いたいのか。侵略する気ではないかと他の国も疑心暗鬼になる。女は宇宙人の時間が流れるものでなく、今と同時に未来や過去も含むと理解する。映画は同時並行的に女の娘など未来の出来事も映し出される。宇宙人の意図は分かったが、中国が攻撃を始めようとしていた。女は中国の将軍に電話する。これも未来が同時並行的に現われ、将軍が女とパーティで会い、女からの電話で攻撃を中止したと話す。

宇宙人の目的(将来助けて欲しい)が分かったので宇宙船は飛び立ち帰る。女は将来の悲劇が分かっているものの、求婚された男の学者と結婚する。

ニトラム Nitram 2021

ジャスティン・カーゼル監督、豪、112分。1996年、オーストラリアの南、タスマニア島のポートアーサーで起きた大量殺人事件の犯人を描いた映画である。

犯人が犯罪に至るまでの成長の映画なので殺人そのものは出てこない。その直前で映画は終わる。犯人は小さい時から火遊びが好きで、ともかく普通でない、変わっているで留まらない人格である。芝刈りの仕事をしようと家々を回る。雇ってくれたのは中年の裕福な女である。気に入れられる。見栄えが良かったせいかもしれない。自分の家の両親からは持て余されていた主人公は、その中年女と意気投合し、その家に移り住む。金があるので高級車も買ってもらう。アメリカに一緒に旅行に行こうと計画する。空港まで行く時、女の運転する車のハンドルをふざけて(?)回し、車は事故を起こしひっくり返る。女は死亡、主人公も怪我をした。女の遺産をもらい金持になる。父親が欲しかった家を、先に買っていた老人夫婦のところに行き、大金で買い取ろうとするが相手にされない。

銃器屋に行って大量の銃を買う。犯罪の決行日になる。まず老人夫婦の家に行き発砲する。観光地のレストランに入る。食べてからおもむろに銃を取り出す。次の場面はテレビで事件のニュースをしており、母親が外で煙草を刷っている。そこで映画は終わり。

2024年1月30日火曜日

モービウス Morbius 2022

ダニエル・エスピノーサ監督、米、108分。ジキル博士とハイド氏ものの映画である。幼い日に出会った二人は共に不治の病に侵されていた。

一人が成人して天才的な頭脳を持つ科学者になった。研究を進め、身体を強靭にする薬を開発しようとしていた。成功したようで自分にうつ。すると身体は超人になったが精神もおかしくなり、知らないうちに殺人を犯していた。これは血がエネルギーで血を補給しないと薬が切れた麻薬患者のようになるからである。自分の犯罪におののく。

しかし幼い時からの親友は薬を知ると自分にもくれと言い出す。副作用を怖れ断わると、勝手に薬を自分に注射し、その男も超人になる。男は自分が超人になったので、悪さをしようとする。主人公が止めるがきかない。相手は次々と殺人を犯し、主人公の恋人まで殺す。相手と対決し倒した。最後に次回に繋げるようにして終わる。

2024年1月28日日曜日

清水幾太郎『日本語の技術』中公文庫 2022

著者は社会学者で、戦後の一時期まで進歩的文化人を代表する一人であり、平和運動を牽引した知識人である。

『論文の書き方』(岩波新書)は有名で読んだ者は多いだろう。本著は『論文の書き方』の姉妹編とも言うべき本で、口調が質問に答えて話を進めていく、ですます調なので柔らかい感じがする。また文章の書き方だけでなく、「話し、聞くための方法」、「読み、考えるための方法」の章があり、これが大きな特徴である。書き方の部分に関しては、昔読んだ『論文の書き方』と同じような話題を思い出したりするが、話し方や読み方は今回が初めてである。当然であるが、書き方指南の書であるため、極めて読みやすい。何と言っても読書上の最大の良さである。もともとは昭和51年にごま書房から出た本を改定したもの。

亀山郁夫『悪霊、神になりたかった男』みすず書房 2005年

ロシヤ文学者の亀山郁夫がドストエフスキーの『悪霊』の中の、特に「スタヴローギンの告白」の章を解説した書である。

聴衆に向かって語りかける口調で、途中で個人名を出して質問するところもあり、最後は聴衆に向かい質問を受け付けて終わる。もちろんこの形は著者の創作でそんな講演などしていない。こういった形にしたい著者の好みなのである。芝居じみたことが好きなのか。内容を読んでいくと、随分牽強付会に思われる解釈をしていると思ううちに、何か妄想を聞いているかのような気分になり、最後は著者が『悪霊』を元にした小説でも書いているのか、と思えてくる。著者の解釈は要するに少女がスタヴローギンの不道徳極まる行為の犠牲者ではなく、双方の共謀行為であると言いたいらしい(合っているか不明)。別にありうる解釈であろう。

ところが著者はこれを「ドストエフスキー自身がこの話を聴いたら、卒倒してしまうかもしれませんが、ね」(p.143~144)と言い、「かりにこれが誤読だとしても、私はこの誤読を大きな誇りとし、できるだけ多くのドストエフスキーファンに吹聴したいと思います。」(p.144)と言う。確かにどのように読もうが文学の理解に正解があるわけでないと、そこに書いてある意見はもっともである。それでも、こういう言いを読むと著者の意図は読む者を圧倒したい、アッと言わせたい、鬼面人を脅かせたいに尽きるようである。細かい点で間違いがあったり、不明な点があるのだが、そんな議論を起こす気など失せた。

2024年1月27日土曜日

ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア Knockin’ on heavens’ door 1997

トーマス・ヤーン監督、独、87分。二人の男は病院で検査を受け、余命幾ばくも無い病気にかかっていると分かる。同室になった二人は病院を抜け出そうとする。

その頃、二人組の男がボスから頼まれベンツを目的地に届けるところだった。途中で少年をはねてしまい、病院に連れてくる。少年がごねるので、銃を取り出し医師や少年を黙らせる。病院の駐車場に止まっていたベンツを病気の二人は盗み、走り去る。二人組の男はボスからどやされ、車を取り戻しに行く。病気の二人は金がないので、車にあった銃で銀行を襲い金を奪う。その後、トランクに大金の入った鞄を見つける。

病気の二人は生きているうちに好きなことをしたい、海を見ていないので海を見に行くようにする。ホテルで豪華な部屋に泊まったり、金をなさそうな人々にやっていく。銀行強盗を追う警察や車を取り返そうとする二人組の男をまきながら、最後に二人は海辺にやって来る。

ゴーゴリ『肖像画』 Портре́т 1835

二つの話がある。

第一部では売れない若い画家が画商で老人の肖像画を買ってくる。その絵を帰宅してから見ると怖いくらいである。夜中に肖像画の中の老人が抜け出てくる。老人が袖から袋を取り出すとそこには金が入っていた。こぼれた金の袋を画家は自分の懐にしまう。老人はまた絵の中に戻る。画家は寝、その後夢を見て更にそれがまた夢だったと、夢の繰り返しをする。起きて家主が警察署長を連れて家賃の催促に来る。あの老人の肖像画をいじっているとその額から金貨の入っている袋が落ちる。画家は大金持ちになる。立派な家に住み貴族の令嬢の肖像画を描いて評判になり、大先生、巨匠扱いされるようになる。後に若いイタリアで修行して来た画家の絵が評判になるが、その才能を認めたくない。いつの間にか自分の才能は枯れて凡庸な絵しか描けなくなっていた。自分の金で評判の絵を次々と買い取り、それを引き裂く。画家が死んだ後、そのアトリエで惨状が分かった。

第二部は競りで老人の絵が競売にかけられている。その絵を自分が買い取りたいと申し出た男が絵にまつわる話をする。父親が画家でその老人の肖像画を描いたのだが、老人は悪魔であったらしく次々とその絵の持主は不幸に陥った。だから自分が買い取り処分せよと父親からの遺言がある。そう話しているうちに肖像画は盗まれてしまっていた。(横田瑞穂訳、岩波文庫『狂人日記』1983年)

2024年1月20日土曜日

モーム『要約すると』 Summing up 1938

作家モームの回想録であり、芸術論であり、また人生論になっている。

いわゆる生い立ちを綴っていくという自伝らしい自伝ではない。必要に応じては自分の経歴を書いている。モームが自分の意見を吐露するといった本か。1874年生まれのモームが64歳の著である。普通の感覚で言えば自伝を書いて回想しても不思議ではない。モームは長寿で戦後20年も生き、90過ぎまで生きた。だから戦前の著である本書は人生半ばの記録にも思える。

モームの小説は面白いようにこの回想も面白い。モームの実際の晩年にまた回想録を書いたなら、随分違った内容になったろうか。(新潮文庫、中村能三訳、昭和43年)

2024年1月18日木曜日

禁じられた抱擁 La nola 1963

ダミアーノ・ダミアーニ監督、伊仏、105分、白黒映画。絵を描いていた若い男の隣の部屋に若い女(カトリーヌ・スパーク)が来て目に留める。男は絵が嫌になり、実家に行く。金持ちの母親役がベティ・デイヴィスである。家に戻る気はないと言って金をせびっていく。

自分のアトリエのある建物に戻ると葬式が出ていた。隣の画家が死んだらしい。その部屋に入っているとスパークが来る。画家のモデルをしていたのだ。モデルにすると言って自分の部屋に連れてくる。スパークが用意すると自分はもう絵を描かないという。その後、抱擁する。男はスパークに参っているのだが、偉そうにしたいという男の勝手(ガキ)ぶりを発揮して指図がましい態度である。画家の情人になっていたと分かる。それだけでなく他に男がいるとあっけらかんとして言う。

男はスパークを独占したく、最後は実家に連れてきて、金を見せびらかす。スパークが裸になるとその身体を紙幣で覆う。これだけ金をやると言って、ともかく男は金で釣ろうとする。スアークはもう一人の恋人とカプリに一週間行くと告白する。戻って来てから男に会うが、女優になるためのプロデューサーの約束があるなどと言い、家を出る。嫉妬の塊になっている男は車で後を追う。やけになって車をぶつけ怪我をする。治ってからスパークにまた会う。最後は部屋の窓からスパークが去っていくのを目で追う。

2024年1月16日火曜日

ダンケルク Week-end a Zuycoote 1964

アンリ・ヴェルヌイユ監督、仏、123分、ジャン=ポール・ベルモンド主演。ダンケルクに近いズイコートの海岸に英仏の兵士が多く集まっている。イギリスに渡れる船を待っている。ベルモンドは自分の部隊とはぐれてしまい、仏兵士に声をかけ、知りあいになる。ドイツ軍の飛行機がよく奇襲をかけてくる。

近くに家があってそこの若い娘(カトリーヌ・スパーク)と知り合う。ベルモンドは英国に渡りたく、知り合いになった英将校の教えで、将軍のところに行き証明書を書いてもらう。ところがそれを海岸で船を待っている将校に見せても英国人しかだめだと言われる。また英兵士で仏の女と数日前に結婚した男は、女しか乗せられないと言われる。独軍の飛行機の襲来で混乱しているうちに夫婦は舟で引上船に向かう。ベルモンドは知り合った将校にまた会い、証明書でもだめだと言われたと話すと将校は自分についてこいと言い、ベルモンドも引上船に乗れた。その時独飛行機が来て爆撃を行ない、英兵士と結婚した仏の女は死ぬ。また船が沈み、ベルモンドは泳いで海岸までたどり着く。

若い娘(スパーク)の家に行ったら仏人が二人で暴行を働こうとしていた。ベルモンドは二人を銃で倒す。娘と独の爆撃下、抱き合う。ベルモンドは海岸に戻ってくる、知り合いの兵士たちは歓迎する。水を取りに一人が行く。独軍の襲撃で死ぬ。ベルモンドらは埋葬する。また独軍の攻撃があり、ベルモンドもやられたのか、仰向けに倒れる。スパークが鞄を持って海岸をやって来るところで終わり。

2024年1月13日土曜日

門間一夫『日本経済の見えない真実』日経BP 2022

著者は日銀に勤務したエコノミスト。黒田元総裁の金融政策の評価を初め、日本経済について言われれている通説を批判し、読者に益するところの多い著である。

特に黒田日銀の政策についての見解は感心した。黒田元総裁はいわゆる異次元の金融政策を実施して、当時デフレ下にあった日本経済を、2年間で2%の物価上昇率を達成すると言明した。しかし10年間経っても2%の物価上昇率は実現できず(現在インフレ気味であるが、これは海外要因によるインフレであり、目指したのは賃金、物価の国内要因によるインフレである)、どう見てもその政策達成は出来なかったというしかない。それなのに、黒田元総裁の異次元金融政策について一般にあまり批判はない。なぜか。

それは黒田元総裁の政策は出来ることを凡てやった、その前の白川元総裁のように政策を出し惜しみしているような印象を与えなかった。黒田元総裁は全部やった、やり尽くした、手加減はなかった、それが評価されているという。普通、マックス・ウェーバーを持ち出すまでもなく、政策はあくまで結果によって評価されるべきであろう。ところが結果は出さなかったが、手加減ぜずやり尽くした点が評価されているという。日本では結果は出さなくともその姿勢だけで評価する国なら、努力する姿勢だけで、結果がどうでもいいというのは本当は困るのではないか。

ブッツァーティ『タタール人の砂漠』 Il deserto dei tartari 1940

主人公のジョヴァンニ・ドローコは将官に任命され、北方にある砦に勤務に赴く。初めての仕事であり、砦の防衛に期待、夢を抱いていた。

途中で同じ砦に勤務する将官に会い、連れて行ってもらう。砦の雰囲気は期待とはかなり違い、司令官以下やる気がなく随分つまらなそうな職場にしか見えなかった。もし帰ろうとすればすぐにも帰れるが、それも手続きが必要であり、医者の診断書を書いてもらって出ていった方が後のためにもいいと言われる。ただそれには四か月待たなければならなかった。砦の同僚の士官や部下と付き合う。四か月経って軍医と面会する。軍医は診断書を書いてよいと言ったのだが、なぜかその時今砦を出るのは止め、留まると答える。それから幾年か砦で過ごす。休暇がとれて故郷の町に帰る。町や友人は変わっていた。結婚するつもりだった恋人とも会うが、お互いにぎこちなく会話の後、別れる。砦に戻る。

何十年も経つ。主人公は五十代半ばになり、砦の副司令官になっている。身体の調子を崩す。寝て療養している。その時に砦の北方から敵がやって来る。主人公はこの時のために、今まで備えていたのだ。ところが身体が悪いので、司令官は町に帰って治療を受けろと言う。主人公はこの時のために何十年も待っていたのだ、敵との闘いに参加したいと希望を述べるが聞き入れられない。馬車で運ばれ、途中の宿屋の一室で身体を横たえ、死ぬのを待つばかりになる。(岩波文庫、脇功訳、2013年)

真夜中の刑事/Python357  Police Python357 1976

アラン・コルノー監督、仏西独、116分、イヴ・モンタン主演。モンタンはオルレアン警察の刑事、銃がうまく、原題のpython357はモンタンの持っている銃である。

ある若い女と知り合う。お互い惹かれる。ところがこの女はモンタンの上司である警察署長の情人でもあった。モンタンは女に恋人がいるらしいので気にしてつきまとう。女はもう一人の情人である警察署長からも浮気の疑いをかけられる。感情を爆発させた署長は女を灰皿で殴り殺してしまう。当日も女と会っていたモンタンは他人に目撃される。事件をモンタン自身が担当することとなるが、目撃者に会わないようにする。目撃者にスーパーで遭遇し、相手が警察に通報しようとするので、目撃者を殴って倒してしまう。自分の顔も火傷をし包帯で巻いて分からないようにする。死んだ女のアパートに侵入して部屋をかき回し実際の犯人の証拠品はないかと捜す。実際の犯人である署長は自分自身以外に容疑がかかっていると分かり、妻のシモーヌ・シニョレからその男を犯人にしてしまえばいいとそそのかされる。

最後にはモンタン、署長とも相手が犯人であり、情人であったと分かる。署長がモンタンを撃とうとするのでモンタンは銃で相手を倒す。シニョレは真相を知っているので、夫が死んだと知ると自殺しようとするが、自分では出来ずモンタンに頼んで殺してもらう。これをモンタンの部下が見ていて上司に報告しようとするが、その時スーパーで起こった銃を持った強盗事件に駆り出される。モンタンはその場にやって来て、自分の危険も顧みず強盗どもを倒していき、事件を解決する。負傷したモンタンは救急車で運ばれる。

2024年1月7日日曜日

ヴェンデッタ Vendtta 2022

ジャレッド・コーン監督、米、96分。将来ある娘がいて幸福な家族。その娘が父親が店に入っている隙に、悪漢どもが来て射殺される。

殺した若い男の父で悪漢どもの親玉がブルース・ウィリスである。若い息子に一人前の男となるため殺人を行なわせた。相手は誰でも良かった(のか不明)。両親は絶望し、更に犯人が刑務所に入っても数年で出てくるだろうと言われ、父親は激怒する。裁判では容疑者が殺したか見てないと証言し、釈放される。その男をつけ車ではねた後、撲殺する。悪漢どもは誰がやったか、娘の父親だろうと見当つける。

この後、父親と悪漢たちとの殺し合いになる。妻が危ないので警察に言って護衛をつけてもらう。しかし護衛警官が他所に行っている隙にブルース・ウィリスと殺された男の兄が家に侵入してくる。妻を殺し父親も撃ったが奇蹟的に助かる。手当を受けた病院から抜け出し、手下の一人を殺し敵方の本拠地に乗り込む。手下どもが捜しに行っている隙にウィリスを殺す。息子のうち兄と手下たちとの銃撃戦になる。父親も味方をつけ、最終的に相手を全滅させるが自分も死ぬ。

2024年1月6日土曜日

太陽の下の18才 Diciottenni al sol 1962

カミロ・マストロチンクェ監督、伊、92分、カトリーヌ・スパークが出ているが、主演というより多く出ているカップル役の一人である。

ナポリ近郊の観光用の島にやって来る。スパークは船で自分の席に他人の男が座っており、そこに置いてあった帽子がぺしゃんこにされる。これを映画で何回か繰り返される。相手の男が自分とほぼ同じ姓名であったため、ホテルで同室をあてがわれてしまい、部屋でのドタバタや、スパークが禁じられているヌードをしたというので、同じ名の男が警察に引っ張られるなど。外国人の女に迫ろうと何度もやって失敗する男、兄弟で巨額の借金返済のため、あれこれ試す者らなど。若者たちの休暇を過ごす様子が描かれた映画。

2024年1月5日金曜日

モーム『雨』 Rain 1921

サモアの港、パゴパゴに降りた医師夫妻、そこで宣教をしている牧師夫妻に会う。牧師は現地人の土人の教化に苦労してきた話をする。雨が降り続いている。

医師や牧師の住む白人用の宿泊施設に女が泊まっていた。その女は大きな音で音楽をかけ、騒いでいる。その女は娼婦であり、男どもを相手にしている。謹厳居士である牧師は止めさせるよう押しかける。しかし女は動じない。牧師は相手を正しい道に導こうと怯むことなく努力を続ける。このような女と一緒では耐えられない。総督に女を島から追い出してもらうよう働きかける。女はアメリカに戻りたくない。帰ると過去の犯罪で逮捕されるからだ。女は泣いて頼み込む。牧師に対して心を入れ替えたように従順になる。

その後、牧師が行方不明になる。剃刀で喉を切っている死体が見つかる。それから女は以前と同じように音楽をかけ、派手ないで立ちになる。男なんてみんな同じだと叫ぶ。本作はジョーン・クロフォードが主演した映画が1932年に作られている。

2024年1月4日木曜日

不壊の白珠 昭和4年

清水宏監督、蒲田映画、101分、八雲恵美子主演、菊池寛の小説の映画化。主人公の八雲恵美子には妹(及川道子)がいる。会社でタイピスト兼専務秘書をしている。

同じ会社に勤める高田稔を好いているが、積極的な妹は高田とデートし、八雲の手紙を誤解した高田は妹に求婚する。ひどく衝撃を受ける。ただ妹のために結婚を祝福してやる。八雲の仕える専務は男やもめで、かねてから八雲に懸想していた。亡妻の三人の子供がいるし年齢差があるが、八雲に求婚する。八雲は迷う。妹は結婚生活が退屈で以前から知っている軽薄な男に誘われ遊ぶ。八雲は専務からの誘いでその家を訪れるが、専務はゴルフに行っていて留守で待っていると、そこの子供から新しくきた女中だろうと言われる。後に専務宅に行った際も家族からからかわれる。

高田は妻とうまくいかず、ある日帰っても妻がいないので実家だろうと家を出ると妻が車に乗せてもらって帰ってくるところだった。高田は妻にあの男は何だと詰め寄る。結婚前からの友人だと答え、高田がうるさいので家出する。なかなか妻は戻らず、高田は八雲に会う。八雲は妹を取り戻してくると約束する。ダンスホールで踊っていた妹を見つけ、強制的に家に連れ戻す。妹は高田と会っても和解する気はなく、姉の諫めも聞かずまた飛び出す。後になって高田は八雲に外国に行くつもりだと話す。映画の最後の見送りで、八雲は高田に帰国した時には妹が迎えに来るだろうと言う。

2024年1月2日火曜日

プロフェショナル The professionals 1966

リチャード・ブルックス監督、米、117分。メキシコ革命まもない20世紀の初頭。テキサスの富豪は自分の妻、クラウディア・カルディナーレをメキシコの山賊に奪われたので、リー・マーヴィンに取り戻してくれるよう頼む。

仲間の二人の他、ダイナマイトの名人としてバート・ランカスターをマーヴィンは指名する。二人は以前の仲間である。山賊の名を聞くとメキシコ革命を共に戦った同志なので驚く。四人でカルディナーレを救いに行くが、山賊の基地を襲った時、実は女は山賊を好いていると分かる。それでも女を連れ出しアメリカに戻ろうとする。山賊は追ってくる。女は元から山賊と恋仲で、むしろテキサスの富豪こそ自分を攫った者だと言う。

追手の山賊を食い止めるため、ランカスターが待ち伏せし、他の者は女を連れて帰国を急ぐ。ランカスターは山賊たちを多くを倒す。マーヴィンらに後から追いつく。その時に傷ついた山賊の首領、カルディナーレの恋人を馬に乗せてくる。富豪が仲間と来て取り戻してくれたので喜ぶ。しかしマーヴィンは女を富豪に渡さず、好きな山賊の首領とともに逃がしてやる。富豪は怒るがマーヴィンらも賞金を取り損ねたわけで、四人揃って去っていく。

マーベラス The protege 2021

マーティン・キャンベル監督、米、109分。女殺し屋のアクション映画で、死んだとされていたという者が実は生きていたというトリックが2回も使われている。

1990年のベトナム、殺し屋のサミュエル・ジャクソンは殺しに行った家で人がみんな死んでおり、押し入れにいた少女を見つける。その少女を引き取り育て30年後、少女は殺し屋になる。ルーマニアの殺人王の殺人を請け負い、まず息子を誘拐し身代金を取りにいってその殺人王を殺す。

サミュエル・ジャクソンの代わりにある男を捜しに行った留守にジャクソンは殺された。その捜しに行った男がジャクソン殺害に関係があるとして女は探っていく。マイケル・キートンはその黒幕の手下であるが、女と半分相手を異性として意識するような関係になる。死んだと思われていたジャクソンは生きており、また30年前に死んだと思われていた黒幕は名を変え慈善実業家の顔を持っていた。黒幕を倒し、最後は傷ついた女はキートンとさしで銃を撃ち合い、相手を倒したように終わる。

2024年1月1日月曜日

レベル 16 服従の少女たち Level 16 2018

ダニシュカ・エスターハジー監督、加、102分。カナダ版少女版約束のネバーランドという映画。

少女たちが寄宿学校、それも病院か牢獄のような場所で教育を受けている。婦徳を教え、今時のフェミニストが聞いたら卒倒しそうな教育である。毎日、ビタミン剤として飲まされている薬は睡眠薬で、寝ている間に守衛が少女たちの身体を触りに来たりている。ビタミン剤を飲むなと友達に言われ、寝たふりをしていると夜中に担がれて別の部屋に連れて行かれた。そこにやって来た老年夫婦にもう一人の少女とどちらがいいかと品定めされ、選ばれる。

選ばれてどうなるのか。後で分かるが顔の皮を剝され、高齢者に移植し若返りをさせるという手術を受けるのである。これを知った二人の親友はみんなに報せ、逃げ出そうと企む。追いつかれるが、顔が大事なわけで顔を傷つけて追手を絶望させる。後に助けだされる。