2020年7月31日金曜日

アイ・スピット・オン・ユア・グレイブ 2 I spit on your grave 2 2013

ジェマ・ダーレンダー監督、米、105分。超絶残酷復讐映画でシリーズ化されており、2を観た。

ニューヨークに女優志望で来た女主人公は、無料をうたう写真スタジオに行く。そこでヌードを断ると、そのスタジオの男が夜、主人公を部屋に襲い暴行を働く。騒ぎを聞きつけてきた隣室の男を暴行魔は殺す。スタジオの仲間(兄弟だった)を呼ぶ。女はいつの間にかある部屋に監禁され鎖で繋がれている。壮絶極まる暴行を受ける。運よく脱走する。街を走っていると知らない言葉を喋る者たち。ブルガリアだったのである。警察署に行く。そこへ来た暴行を受けた女たちを世話すると称する中年の女が来る。助けてくると思った女は、実は悪党一味の母親で再び地獄のような部屋に戻される。また残虐な暴行が続く。

箱に入れられ、埋められる。これで死んだはずだが、女はそこから這い出す。地下道を通って地上に出る。アメリカ大使館の前まで来る。しかし中へ入らず、復讐をしに元の場所に戻る。自分が受けた暴行の仕返しである。

まずこのような映画は普通の映画と同等に扱えない。残虐な場面を見せつけるのが目的か、あるいは女が受けている悲劇を描いたのか、女でもこんなに強く行動できるのだと言いたかったのか。以上のうち、後2者を選択したい。それにしても欧州映画の残酷描写は驚くばかりである。

2020年7月30日木曜日

ノーベル殺人事件 Nobels testament 2012

ペーテル・フリント監督、スウェーデン、90分。

ノーベル賞の授賞式のダンスの場で、受賞者が狙撃される。受賞者は負傷、ダンスの相手の、選定委員会の委員長は死んだ。記事を取りに来ていた女記者が主人公である。暗殺の直前、不審な女の動作を見ていた。それで記者は警察から重要参考人として取り調べされ、また記事を書くことも禁止される。新聞社では女記者をこの事件のチームから外し、文芸部へ移す。

受賞者が標的になったとみんな思っているが、実際に殺された選定委員長(女)が最初から狙われていたのではないかと女記者は疑問を抱く。

選定委員会の委員たちに取材し、真相を探ろうとする。意見の対立があり、記者に情報を提供しようとした院生や、委員会の他の委員も殺されていく。最後に真相が分かり、またその際には記者も暗殺者の標的になるが、からくも逃れる。

ノーベル賞の選定に関しては様々な憶測がなされるが、本映画はこれを題材にしたスウェーデンならではというか、スウェーデンではどういう評判だったのかと思わせる。

仁賀克雄『リジー・ボーデン事件の真相』河出書房 2004

189284日、マサチューセッツ州で起こった老夫婦事件、リジー・ボーデン事件の記録である。映画『モンスターズ 悪魔の復讐』を観て本事件を知り、邦書では最も詳しい本書(と言っても日本ではあまりこの事件を扱った本が出ていない)を読んだ。

リジー・ボーデンはこの事件の容疑者である。19世紀末、日清戦争より少し前に発生した本事件はアメリカ人なら誰でも知っている有名な事件だそうだ。事件のあったボーデン家は資産家で、ボーデン老夫婦殺害の容疑者となったのが、同家の娘リジー(30)だった。なお母親はリジーにとって義母である。閑静な住宅街で白昼堂々と起こり、誰も目撃者はいない。斧で十回以上叩くという恐るべき殺害方法だった。

当時家にいたのはリジーと召使いだけである。リジーに容疑がかかったのは、他に該当者がいないという理由である。召使いのブリジットは窓ふき等で外にいてアリバイがある。それに反して、リジーでないという理由は本人の言だけである。

名家の夫婦が殺害され、その娘に容疑がかかるなど、当時全米を震撼させた事件で、国中からマスメディアが殺到したとか。でっち上げと分かっている記事も沢山書かれ、市民の関心に答えた。時代を感じさせるのは、きちんとした家の娘が殺人など犯すはずもないという当時の常識であり、今なら名誉棄損で訴えられる噓八百の新聞雑誌記事が横行したなどである。

犯罪の理由として、義母とリジーの仲が悪かった(リジーが嫌っていた)、実の父親では財産目当てが挙げられる。

リジーが被告として裁判が行なわれた。結果は無罪であった。状況証拠のみで、決定的な証拠はなかった。しかも当時の捜査方法は今と違って未発達で、現在なら分かることも分からなかった。リジーは無罪で姉と共に親の莫大な財産を相続した。同じ町の別の場所に住んだ。町の者たちはリジーと距離を置き、付き合いはほとんどなくなった。リジーは67歳まで生き、事件が起きてから30年以上経ってから亡くなった。

現在では犯人はリジーだろうという見解が大勢である。他に殺人を犯せる者がいないからである。ただ返り血を浴びたはずの服、及び凶器の斧はどうやって処分したかは未だに謎である。


2020年7月29日水曜日

ザ・スピリット The Spirit 2008

フランク・ミラー監督、米、102分。

監督は元々漫画家で、監督作は初めてとか。『シン・シティ』の原作者だそうだ。本作も事前情報なしに観ても『シン・シティ』のような画像で、同じような作品かと思ってしまう。

主人公スピリットは死んだ警察官の生き返りで、バットマンなみに悪の退治をする。悪の親玉はサミュエル・ジャクソンが演じ、主人公スピリットもこの悪党ジャクソンもどれだけ叩きのめされ、死んで当然の重傷をしても死なない。この謎は映画の最後の方で明かされる。スピリットは街の英雄であり、多くの女から憧憬の対象となる。スピリット自身も女たらしである。

映画の背景として、スピリットの少年時代の部分があり、そこで街の少女と仲良くなる。しかし街の治安の悪さ、汚さに愛想をつかした少女は街を去る。映画の現在ではこの少女が街に戻って来て、物質的な欲望を遂げようとする。スピリットはかつての彼女と知り、なんとかしてよりを戻そうとする。

映画としての出来は良いとは言えず、わかりにくいところがある。それでも難しく考えなくて済む映画なのはよい。

2020年7月28日火曜日

末木文美士『日本思想史』 岩波新書 2020

歴史的は飛鳥・奈良・平安初期から現代に至る日本の思想を対象とする。第一章では「日本思想史をどうとらえるか」として、本書の方法論を述べる。

王権と神仏の対照、また学芸と生活を対照して日本思想をみていくとしている。時代的には前近代と近代と戦後に分ける。本書では夫々、大伝統、中伝統、小伝統と呼んでいる。このように明治以降の期間を、近代と戦後に分けるように意識的に取り上げている。

思想史だからと言って、仏教、儒教などの専門家、更には明治以降で言えば学者の思想の説明だけを書いているのではない。本書では社会背景を、思想に関する限りでかなり詳しく書いている。そこの部分は歴史と言ってよく、歴史書と銘打つ本よりも面白く読めた。思想の取り上げ方について評価できる立場ではないが、読みやすい本である。また近代以降では、社会背景として風俗の解説しているところが結構ある。これは知らない事項を教えられるところが多かった。

素人が概観を得るためには、本書のような新書といった形で出してくれるとありがたい。

2020年7月27日月曜日

悪魔を見た 악마를 보았다 2010

キム・ジウン監督、韓国、144分。

犯罪復讐もので、描写がどぎつく、日本では作りえない作品である。

道端で止まっている車、中の女は婚約者(主人公)に電話する。エンコしてレッカー車を待っている。そこへ窓ガラスを叩く中年男。事情をきき、直してやろうかと尋ねるが、女は断る。しかしその男は窓ガラスを棒で叩き割り、女を襲う。自分のアジトに女を連れてくる。縛られている女は命乞いをする。男は無情に殺害する。数日後、川でバラバラになった女の死体が見つかる。婚約者は警察関係者であり、休暇をとって復讐に向かう。

犯人は女の暴行殺害の常習者で、少女を手にかけようとしていたところ、主人公が見つけ、二人は激しい戦いをする。主人公は犯人を痛めつけたものの、殺さない。婚約者がひどい目にあった、その痛みと同様の苦しみを犯人に与えようとしていた。

映画はこの後も主人公が犯人を痛めつけ、殺したかと思われるくらいだが、まだ犯人は死んでいない。それが主人公側に大きな悲劇をもたらす。被害者の父、妹がいいかげん復讐はやめろと諭すがきかない。犯人は主人公の正体を探り当て、その身内である義理の父と妹に魔手を延ばす。最期には主人公は犯人を捕らえ、今度こそ本当に命を取る。終わった主人公は微笑みをもって運転していく。

2020年7月26日日曜日

砂漠のシモン  Simon del desierto 1965

ルイス・ブニュエル監督、墨、51分、白黒映画。
実在した聖人シメオンの伝に基づく。柱頭の上で長期間、修行したという。

シモンは砂漠の中に立つ円筒形の塔に登る。周りに集まってきた群衆に説く。
両手を無くした男がやってきて、治してくれと頼む。言葉はやめよとシモンは言い、男の手を取り戻す。修道院から聖職者たちが訪れ、導きを求める。
中にはインチキだと公言する者が出てくる。少女の姿に変え、惑わす悪魔も来る。
悪魔が再度やって来た時には普通の女になっている。シモンの祈りも効かない。いつの間にか、ニューヨークの摩天楼にある、ダンスクラブに来ている。本能の赴くまま踊り狂う若者たち。その中にシモンと悪魔は座っている。訳の分からないシモンは、悪魔にきく。何の踊りだと。

2020年7月25日土曜日

ありふれた事件 C'est arrivé près de chez vous 1992

ベルヴォー、ボンゼル、ポールヴールド監督、ベルギー、96分、白黒映画。
記録映画風に制作された犯罪映画。全く良心を持っていないような主人公の男は、次々と殺人を重ねる。一つには金を強奪するためであり、もう一つは注目されたいためのようである。殺人を記録する映画制作班がいて、当初は撮影のためにいるようだが、次第に殺人の片棒を担ぐ。老人や、あるいは両親の殺害を目撃した少年も手にかける。

死体は袋の詰め、水溜まりに放り込んでおくが、後から干上がりその処理もする。
他のギャングと抗争になり仲間は殺され、殺人の失敗から主人公は捕まる。後に脱獄するが最後は破滅する。
白黒映画で記録映画風なので、迫力がある。残酷描写は欧州映画ならではである。

初等科国史 復刻版     昭和18年

国民学校(小学校)の5、6年用の歴史教科書(昭和18年)の復刻である。
戦時中の教科書であるから、現在とは大きく異なる内容である。
相違点は、まず天皇の記述がかなり多い、更に日本を肯定的に捉えているところである。

古事記等にある神話から始まる。その後の日本の歴史は天皇の偉業によるという。例えば、江戸時代など幕府支配で、皇室は実質的に何も政治に関与していなかったと理解していた。それが本書では何々天皇はこうやった、とか誰それの尊皇の行為などが書かれている。逆に明治以降で歴史に疎い自分のような者でさえ覚えている、自由民権運動や民撰議院設立建白書など何も書かれていない。
第二の日本を肯定的に捉える視点、これは戦後の書からは全くなくなった。
山中峯太郎という、戦前、少年向けの読み物で人気だった作家がいる。この山中の本を読んだら、日本賛美の精神で貫かれていて、驚いてしまった。日本という国はなんと美しく献身的な国でしょうと自己陶酔かと思わせる。あれと同じである。

現代の我々からすれば驚くべき内容である。しかしこのようなあり方が世界標準なのである。
そもそも歴史の教育を国家が施す、その理由は自分の国を好きにさせる、守る気にさせるためである。だから翻訳されている外国の教科書を見ればいい。みんなこの戦前の教科書のような立場で書かれている。
何十年か前、新聞で次のような記事を読んだ。国連かどこかに世界の少年たちを集めた。自分の国の紹介をさせた。みんな自分のお国自慢をする。ところが、日本の少年は日本をぼろくそに言って周りを驚かせたというか凍りつかせた。
この戦後教育の成果は自称良心的な教育者たちを狂喜させたであろう。自分の国を良く書けば夜郎自大の排外主義者を産み出すと思っている連中は自分がそうだからである。

最後に本書の最大の特徴を挙げておく。それは読みやすく面白いことである。正直自分は歴史の本は苦手である。なぜなら事実の羅列だけでちっとも面白くないからである。世の中に歴史ほどつまらない本が溢れている分野はなかろう。それでも売れるのは世に歴史好きが多いからである。
本書の内容は現在では受け入れられない。しかし本書のような読みやすく面白い(興味深い)歴史
書を望みたい。

2020年7月24日金曜日

皆殺しの天使 El angel exterminador 1962

ルイス・ブニュエル監督、墨、99分、白黒映画。

不条理劇として名高い映画。ある上流階級の屋敷で召使いたちが次々と辞めていく。そこの家の主人は歌劇鑑賞の後、音楽家や観客であった仲間のブルジョワたちを招く。上流階級ならではの退廃と偽善的な交わりが描かれる。夜遅くなりみんなその家に泊まっていく。朝、起きたら外へ出られないので騒ぎ出す。閉じ込められた状況は何日も続く。

西洋人的な自己主張が飛び交い、疲労と空腹、中には病人までで出す。屋敷の外では、警官たちがいる。なぜこのような状況になったか、観ていても分からない。最期に屋敷を出る方法が分かる。しかしその後、教会に行ったらまた不明な状況になる。外では警官たちが発砲し、群衆が逃げ惑う。

題名からしてよく分からないが、映画の内容について定説的な解釈はないらしい。

2020年7月23日木曜日

帰って来た若旦那 昭和30年

青柳信雄監督、東宝、91分、白黒映画。鶴田浩二主演。

銀座で張り合う2軒のパン屋。一方は老舗で柳家金語楼が主人、もう一方は洋風で大阪から来た清川虹子が経営する。金語楼側は最近押されている。金語楼の息子、鶴田浩二は米へ留学している。鶴田と義理の妹との婚約を親が決めてしまっている。鶴田は清川の娘、司葉子と相思の仲である。また妹は、店の職人と将来を約束している。

借金がある金語楼の証書を、悪人の平田昭彦が清川に持っていると言い、これで金語楼の店をものにできると話す。平田は司と結婚したく告白するが、司はにべもない。清川は司を説得するが効果はない。鶴田が米から帰国すると連絡がある。狂喜する金語楼。金語楼は鶴田と妹の結婚を明くる日に設定していた。

行き違いで帰宅した鶴田は、妹から結婚の話を聞き、隣家の芸者置屋に隠れる。そこの芸者も鶴田に惚れていた。芸者屋から隣家の自宅に鶴田は電話をかけ、妹が好きな男と結婚するよう、説得するが金語楼は聞かない。金語楼は借金の件で清川を色仕掛けで説得しようとしていたが失敗した。

実は鶴田が帰国したのは、平田から清川の家の改装設計をする技師として米から呼ばれたからである。鶴田は平田と仲間の話を立ち聞きし、その悪事を知る。司はまだ鶴田と会う前に金語楼から鶴田は明日結婚すると聞かされ、本気にし、一旦平田との結婚を承諾する。金語楼に電話し鶴田は、妹の結婚をようやく説得させる。清川の店では平田が暴力団の仲間を引き連れて来て本性を現し、店を開け渡せと脅迫する。そこへ鶴田がやって来て、暴力団どもや平田を、店を散々ぶち壊して(米映画の影響か)退治する。

鶴田と司は晴れて仲良くでき、金語楼と清川も仲直りして終わり。

2020年7月22日水曜日

ザ・ウォード/監禁病棟 The Ward 2010

ジョン・カーペンター監督、米、99分。恐怖及び謎解き要素のある映画。

少女が農家に放火し、パトカーに連行される場面から映画は始まる。1959年の設定。連れていかれたのは、精神病院の監禁病棟(この英語がward)に収容される。仲間の少女が数人いる。連れてこられた主人公は、何か霊のようなものに襲われる、また病院側の治療に疑問を感じるが、相手にされない。前からいる少女たちは何か秘密を持っているようだ。聞けば過去にいじわるな少女を処刑したと。その少女の幽霊が病院に憑りついているとしか思えない。幽霊は次々と少女たちに復讐していく。最期に真相が明かされる。

この映画以外にも使われるネタである。しかし映画は全体として評価するものであって、ネタが他で使われているから、だけで判断するものではない。結構、観られる映画になっていた。最後の場面はこういう手の映画でお決まりのものだが、必要だろうかと思ってしまった。

2020年7月21日火曜日

モンスターズ 悪魔の復讐 Lizzie 2019


クレイグ・ウィリアム・マクニール監督、米、113分。

19世紀末に米で起こったリジー・ボーデン事件の映画化。邦題やポスターを見ると猟奇・ホラー映画としか見えない。原題は単に主人公の名Lizzieで、ポスターも主要な二人の女が写っているだけのものである。
有名な事件なので何度も映像化、舞台化、本のネタ等にされてきた。クリスティーナ・リッチがやったテレビ映画もあり、これも邦題にモンスターという言葉が使われていた。原題もモンスターとなっているのは全く別の話の、シャーリーズ・セロンとクリスティーナ・リッチが出ていた映画である。配給会社の売らんかなは分かるが、モンスターという邦題で売れるのだろうか。

先に書いたように犯罪実録映画である。19世紀終わり頃、日清戦争より少し前の時代、米マサチューセッツ州で裕福な家の老夫婦が殺害された。容疑は娘のリジーにかかり裁判になった。
何でもアメリカで本事件は、イギリスで言えば切り裂きジャックなみに有名らしい。日本で言えば津山事件(1938)がそれに近いか。
だからアメリカ人にとってはあの有名な事件をどう映画化したかの関心だろう。
古い事件なので、登場人物の名は実名を使っている。事件の真相の部分はこの映画の創作だろうが、できるだけ事実を取り入れている。鳩を残酷な目に会わす場面が出てくるが、実際にもあった。ただ理由は映画と事実では異なるようだ。
映画としては、これも創作であろう、主人公と召使いの間に焦点をあて、その関係を追っているところが中心か。

実際の事件を基にした映画は、創作にない迫力がある。もっとも実録と知っていての話だが。

華氏119 Fahrenheit 11/9 2018

マイケル・ムーア監督、米、128分。
トランプが大統領に当選したのはなぜか、アメリカの問題は何か、人々が改善のためにどう立ち上がっているか、の記録映画である。

マイケル・ムーアであるから、そのイデオロギーは分かっている。だからと言って最初から一方的な映画で、言いたいことは分かっている、で終わりの映画ではない。
様々な問題がある。それに対して、人々が改善しなくてはならない、何か行動を起こすべきだと感じ、実際に動く。積極的行動的であるべき、見過ごしてはいけないというアメリカの価値観が改めてわかる映画である。

華氏119という題は、同じ監督による同時多発テロとアメリカの対応を描いた映画『華氏911』から来ており、11/9はトランプ大統領の勝利宣言の日だそうだ。また元々はブラッドベリの小説『華氏451度』である(映画化もされている)。

2020年7月20日月曜日

北西への道 Nothwest Passage 1940


キング・ヴィダー監督、米、126分、総天然色らしいが観たのは白黒。

18世紀の半ば、北米で英軍がインディアン(及び仏軍)と戦っている時代。軍隊(rangers)を率いる隊長はスペンサー・トレイシーが演じる。統率力に富み、決断力あるまさに軍人の鑑で、あまりに理想化され過ぎでないかと思ってしまう。部下たちは、その隊長に最後はついていけなくなるほどである。
映画は大学を辞め、聖職者にならず画家になりたい青年が、家族や結婚相手の父親にどやされるところから始まる。青年らは逃げて森でトレイシーに会う。最初は軍隊の指揮官と知らなかった。トレイシーは青年が地図を描けると知ると自分の軍に入れる。

トレイシーは、散々白人を暴行虐殺してきた残虐極まるインディアンを成敗に出かける。映画中、人類始まって以来の極悪非道な連中がインディアンと言わんばかりの台詞や場面が何度も出てくる。
行軍はかなり苦労し、この困難ぶりが映画の見どころといっていい。インディアンの部落を攻撃、灰燼にする。その後も非常な困難、予想以上に辛い目に会いながら、トレイシーは部下を叱咤激励して率いていく。

北西への道とは西部を開拓していく道を指すが、映画の途中でも最後でも日本へ行き、帰ってくると言っている。真珠湾攻撃の前年の作であり日本とは一発触発の時代であった反映である。日本を成敗するという意味。また仏軍と戦う場面は出てこない。これも製作当時、友軍の仏が独に占領されていたからである。

2020年7月18日土曜日

ツルゲーネフ『処女地』 Новь 1877


ツルゲーネフ最後の長篇、ナロードニキを描く。

主人公ネジダーネフは請われて田舎の貴族の屋敷に家庭教師として赴く。ロシヤならではの議論ばかりする連中に交じって、その家に住むマリアンナを知る。言葉を交わすことはほとんどなかったが、お互いに惹かれ合うものを感じる。
ネジダーネフは理想主義で人民のために貢献したいと思っていたが、当時のロシヤ知識人で夢想はしても行動力はない。マリアンナも自分と同じ理想に燃えていると知る。また女として好きになる。マリアンナは意志の強い女である。

更に家の義兄に当たる男は革命運動の指令を待っていると分かる。義兄が行動を起こす。それにネジダーネフも加わろうとするが、ほとんど戯画に終わる。ネジダーネフは一人で勝手に思い悩む、ツルゲーネフの小説でおなじみの男の一人である。
小説は悲劇に終わるのでその点、心に残るかもしれない。まだ主人公に共感を覚えられる若い人を除けば、ナロードニキ運動が当時の知識人の勝手な自己満足に過ぎなかった、と思わせてしまう小説である。

前作『けむり』もそうだったが、本作も当時不評さくさくだったという。
ツルゲーネフの小説では当時のロシヤの社会への批判部分と恋愛部分が混ざり合っている。前者の比重の大きい小説は、ロシヤの社会や文学史に関心のある者でなければ今ではあまり評価の対象にならない。本書も『父と子』と並んで社会小説である。

解説は、文庫が最初出された戦前に書かれた文と、1970年代以降再版された時の文が載っている。戦前の文では当時の親ソ知識人の見方が分かる。
湯浅芳子訳、岩波文庫、1974

2020年7月17日金曜日

その夜の妻 昭和5年

小津安二郎監督、松竹、65分、無声映画。
東京駅近くの銀行で強盗が入る。警察が犯人を追う。タクシーに乗って犯人、岡田時彦は逃げる。その頃、妻の八雲恵美子は幼い娘の看病をしている。今夜が峠だと医者から言われる。八雲も娘も父親の帰りを待っている。

岡田は帰宅する。喜ぶ娘。岡田は盗んできた金と銃を卓の上に出す。扉を叩く者がいる。岡田は隠れる。入ってきたのは刑事だった。良人は帰っていないと八雲は答えるものの、刑事は岡田を追ってきたのだと言う。隙をみて夫が持ってきた銃を刑事に突きつけ、刑事の銃も取り上げる。岡田が出てくる。娘の看病が必要である。夫婦起きていて、看病と刑事の見張りをしようとする。
何日も寝ていない八雲は寝てしまい、目が覚めると刑事に銃も金も取り上げられていた。岡田も寝ていた。朝になり医者が来るまで待つと刑事は言う。

医者が来る。娘は問題ないと医者が言う。喜ぶ八雲と岡田。見ると刑事は寝ている。その間に岡田は逃げだす。岡田を送って八雲が部屋に戻ると刑事は起きている。べつに逃がそうとしたわけでない。寝ていたのだと刑事は弁明する。刑事が帰ろうとする。扉を開けると岡田が待っていた。もう逃げるのは嫌だ。勤めを終えてから娘に会いたいと。刑事と岡田は一緒に帰る。

2020年7月16日木曜日

白い恐怖 Spellbound 1945

ヒッチコック監督、米、110分、グレゴリー・ペック、イングリッド・バーグマン主演。

バーグマンは病院の精神科医、現院長が引退し、新しい院長が来る。その新しい院長がグレゴリー・ペックである。バーグマンはペックに惹かれる。しかしペックの様子は少しおかしい。ペックは病院から出てホテルに隠れる。バーグマンも後を追う。
その間、ペックが新院長でないと分かる。本人が不明なので、ペックが殺して自分でなりすましていたのではないかと疑いがかかる。

ペックとバーグマンの逃避行になる。ペックは記憶喪失していて自分が実際、新院長を殺し方かもしれないと言う。バーグマンは何とかしてペックの記憶を取り戻したい、また彼の無実を信じている。バーグマンが世話になった精神科医のところへ行く。その精神科医もペックの治療に協力する。ペックの夢を分析する。夢は映画に協力したダリによる。
ペックの幼年時の精神的外傷が影響しているだろうとバーグマンは言う。ペックは白いものを見ると怖がる。白いだけでなく、そこに黒い線が入ったものに怯える。これはスキーの跡と分かり、二人でスキー場に行き、ペックは少年期の事故を自分のせいと思っていたと分かる。

ペックの記憶が戻り、大体が判明した。しかし新院長の死体に銃痕があった。誰かが殺害したのだ。その謎もペックの夢の分析でバーグマンが解く。

米でフロイトの学説が猛威を振るい、支配的だった時期の作品とよく分かる。

2020年7月15日水曜日

ゴースト・オブ・マーズ Ghosts of Mars 2001

ジョン・カーペンター監督、米、104分。
火星で植民者たちがソンビになり襲ってくる。囚人を護送するための警察官一行は、囚人ともどもゾンビたちに立ち向かうというアクション映画である。

主人公と言うか最初に名が出てくるのは、囚人役の黒人、続いて女警官である。この二人が主人公と言っていいだろう。続く役は、女の下の警官、ジェイソン・ステイサムである。まだ頭に毛が残っている頃である。現在では登場人物のうち、ジェイソン・ステイサムが、圧倒的に知名度が高い。今、紹介されるとなるとその名をまず出す。
時代が変わり、役者の番付が変わる例である。

2020年7月14日火曜日

山中峯太郎『世界名作探偵小説選』平山雄一編、作品社 2019

ホームズ物の個性的な自由訳で有名な山中峯太郎による、ホームズ以外の探偵、冒険小説を集めている。現在では原本は入手困難で貴重な集成である。
収録作はポーの『モルグ街の怪声』『盗まれた秘密書』『黒猫』、バロネス・オルツィの『灰色の怪人』、サックス・ローマーの『魔人博士』『変装アラビア王』の6編である。

まず山中によるポーの子供向き再話、このような本があることさえ知らなかった。子供時、山中ホームズに親しんだが、ポーは江戸川乱歩名義訳の『黄金虫』(世界名作全集第59巻、講談社、昭和28年)で読んでいた。山中ポーとはどんなものか、初めての読書であり興味を持って読んだ。
解説によればポプラ社では当時、山中ホームズの好評を受け、ポーの作品を出そうと企画した。「ポー推理小説文庫」といい全5巻の予定で3巻刊行された。今回はその3巻に含まれた小説を収めている。
そもそもポーの作品は短篇であり、それを子供向きにやさしくすると更に短くなる。前記『黄金虫』では表題作以外に『大渦巻』『死頭蛾』『モルグ街の殺人事件』『ぬすまれた手紙』『おまえが犯人だ』『月世界旅行記』が収録されている。しかるにこの山中ポーでは各短篇で一巻を構成しようとする。そのため以下のふくらましや変更をしている。

まずモルグ街では冒頭の分析能力それ自体は分析できないという抽象論はもちろん、デュパンと語り手が街中を歩いている際、語り手の思考を言い当てる、は省略している。
本書では語り手の子供時代から話を始め、なんと被害者のカミーユ・レスパネーと語り手が同級生という設定である。更にデュパンは元新聞記者となっており、かつて大統領の会見を引き出した挿話を加えている。
またデュパンと語り手の出会いが図書館というのは原作と同様であるが、共に捜している本は「ギリシア神話」であった。教養深い知識人のデュパンがここでは文学少年みたいになっている。登場人物に関しては、シャルというおしゃべりで勝気な婦人記者(少女記者という感じ)を追加して、盛んにしゃべらせている。
殺人の記述そのものは大きく違わないような気がする。ただ最後に船乗りが登場してからはかなり詳しく事件に至るまでを書いている。

『盗まれた手紙(ここでは秘密書)』はポーの中でも、簡潔で推理小説の一つの典型と見なされるが、本書では盗んだ高官の自動車を機動隊で襲う、という活劇部分にページを結構使っている。高官の手先である妖女(妖婦と同じであろう、vamp, femme fatale)まで登場させるサービスをしている。更に『告げ口(裏切った)心臓』を加えている。これは作中、デュパン宛ての手紙に書かれた、告げ口心臓を基にした話である。ページを稼ぐため山中は苦労している。

『黒猫』は黒猫と『お前が犯人だ』が入っている。黒猫を基にした話の後に、お前が犯人だが入っている。書名を黒猫としたのは黒猫の方が有名だからだろう。推理小説文庫という以上、『お前が犯人だ』を優先すべきと発想で解説が書かれているが、自分はそんなに気にならない。

山中のポー推理小説文庫は3巻までで後2巻は出していない。『マリー・ロジェの謎』と『黄金虫』が出ていない。理由は解説にはないが、あまり売れ行きが良くなかったのかと想像してしまう。
山中ポーはどう評価すべきだろうか。ポーの作品は怪奇、陰惨な雰囲気のゴシック小説である。それが山中ではがらりと変わっている。
正直、フッフフーの山中ホームズは原作の延長線上、拡大版といえるかもしれない。(原作のホームズについて、推理作家の由良三郎は、ホームズの推理という名の独断にワトソンがいちいち感心している様をまるで漫才だと書いていた。ホームズ物にはそういう軽妙さがある。ホームズが世界的に人気作品となっている理由の一端はそこにあるだろう。)
それが山中のポーは原作とかなりかけ離れた印象を受ける。元のポーになじめない者はこの山中版に共感を得るかもしれない。


バロネス・オルツィの『灰色の怪人』The Man in Gray, 1918はナポレオン直属の探偵が活躍する、当時を舞台にした冒険小説。バロネス・オルツィはハンガリーの男爵家に生まれた女流作家。バロネスは男爵の女性形。個人名は英仏語でエンマEmmaに当たるハンガリー語である。

フランス革命を背景にした冒険小説『紅はこべ』が有名。なお本書解説に「海外で彼女は(中略)『隅の老人』の著者というよりも、『紅はこべ』シリーズの作者として知られている。」(本書p.634)とありびっくりした。今では日本では「隅の老人」の方が有名なのか。昔から『紅はこべ』は少年少女世界文学全集によく収録されており「隅の老人」を知ったのは後になってからである。

サックス・ローマーはイギリスの作家。中国人の悪人科学者のフー・マンチュー博士のシリーズで有名。世紀末の黄禍論を基にしており、現在では絶対に書かれることのない小説なので貴重。収録作『魔人博士』はシリーズ第2作でThe Devil Doctor、またはThe Return of Dr. Fu-Manchu1916である。
『変装アラビア王』The Sins of Séverac Bablon1914は、アルセーヌ・ルパンばりの義賊小説である。

本書は、ポーは言わずもがな、またローマー『魔人博士』も完訳があるようだが、オルツィなど邦訳が出ていない作品が収録され、そういう意味でも価値がある。

2020年7月13日月曜日

九十九本目の生娘 昭和34年


曲谷守平監督、新東宝、83分、白黒映画。

岩手県の山奥。二人の若者が老婆を捕まえるところから映画は始まる。派出所へ連れていこうとしたが、途中で老婆は逃げてしまう。警察署で若者は話す。東京から来た娘二人と遊んでいた。気味の悪い老婆がこちらを見ている。そのうち若い娘はいなくなった。犯人は老婆だろうと思いひっとらえた、と。
若い警察官を菅原文太が演じる。因習的な山奥の部落では十年に一度の祭りというか儀式が行なわれる。神社にいる、先生と呼ばれる沼田曜一は、その祭りの際には山から下りろと言われているのに肯んじえない。沼田を慕う若い娘や、万が一に備えるという菅原の頼みにもきかない。そのため沼田は最後に村落民からひどい目に会わされる。

その前に沼田や菅原は部落に代々伝わる多数の刀、あるいは白骨を見つける。調べてわかったのは、部落では十年に一回の祭りで刀を作る。それに処女の血を入れる。失踪した東京の女たちはその犠牲になり、殺されたのである。しかし血が不純で新しい女が必要になる。沼田を慕う娘が候補になったが、その親と称する老婆は、女を捕まえてくると言って、山を下り村に行く。警察署の娘で、菅原の恋人の女が攫われた。警察一行は娘を取り返しに山に登り部落に向かう。
警官隊を迎えるべく、部落民たちは矢や落石で攻撃する。警官隊の銃と部落民の矢での戦闘になる。最後は所長の娘を助け、部落の長は自殺する。

昔の片田舎であれば、迷信がはびこり、こんな儀式も行なわれていた、とこういう映画を作れたのであろう。警官隊と部落民の壮絶な戦いは、いくら昔でもあったのかと思わせるが、そこが新東宝の映画ならでは、である。

淑女と髭 昭和6年

小津安二郎監督、松竹蒲田、74分、無声映画、岡田時彦、川崎弘子主演。

岡田は髭面の剣道部員である。試合では相手方を打ちのめす。
ある日、道で不良女に絡まれている川崎弘子を見て、不良女を諭す。不良の仲間の男どもがやって来るが、岡田は簡単に片付ける。
親友の妹の誕生日に招かれるが、妹もその女友達も髭面を見てうんざりし、全く好かれない。
就職の面接を何度やっても受からない。その中の一つの会社で、川崎に再会する。自宅でぼやいているところへ川崎が来る。川崎はお礼を言いに来たのだが、忠告をする。その髭面のせいで就職面接を落ちている。剃ったらどうか。これを聞き入れ、早速就職はうまくいく。

それだけでなく親友の妹も髭なしの岡田を見たら好きになり、結婚したく思うようになる。
川崎も岡田が好きで、話のあった見合いは断り、母に岡田の意向を聞いてくれるよう頼む。もちろん岡田も好いていたので問題ない。
あの不要女に再会する。女を諫めるため家に連れてくる。そこへ親友の妹が家族と一緒に尋ねてくる。女がいると分かり、帰る。
その後、川崎が来る。女が誰かと尋ねると岡田の婚約者だと答える。岡田は川崎を入れ、女がいても大丈夫かと問う、川崎は信頼しているからと答える。岡田は偉いと言う。

女は岡田と川崎のやり取りを聞いて、自分も信頼できる女になりたいと言い、去る。

2020年7月11日土曜日

ヴォルテール『カンディード』 Candide ou L’optimisme 1759


カンディードと称する主人公の青年が欧州、南米で経験する冒険。楽天主義という副題が付いているように、カンディードは楽天的に生きようとするが、現実はそれを許さない。
この楽天主義は師パングロス博士の教えによる。博士によれば世の中の仕組みは合理的に出来ている、凡てに理由があるから、望ましい状態であると理解する。これはライプニッツの哲学で、それへの反論という面を持つ。

カンディードはドイツ、ウェストファリアの男爵に仕え、そこにパングロスもいる。男爵の娘に恋し、娘との接吻を男爵に目撃され、館を追い出される。
18世紀の欧州大戦というべき七年戦争の時期である。軍隊に入る。戦争による惨禍を目撃し軍隊にはおられず脱走する。落ちぶれた師パングロスに再会する。パングロスによれば軍隊によって男爵邸は焼かれ、娘を含め一族皆殺しにされたという。
ポルトガルに向かう。船は難破し、ポルトガルに着く。リスボンの大地震に会う。地震による審問でパングロスは縛り首にされる。カンディードは助かる。死んだと思っていた男爵の娘に再会する。娘といた婆によって、千夜一夜物語なみの婆の過去の物語を聞く。

南米に向かう。やむなく娘と別れる。カンディードは理想郷のエルドラードに行く。宝石や黄金は全く価値のない場所である。カンディードはそこを発つ際、黄金等を沢山もらう。男爵の娘を捜しに行く。ヴェネツィアにいるらしい。そこにたどり着くまで、死んだと思っていたパングロスに再会し、また宝石等大部分無くした。ヴェネツィアで娘に再会するが、かつての美しさは微塵もなくなって醜い姿になっていた。恋情は失せたが元からの意思のとおり結婚する。労働して生活するしかない。このような状態もパングロスは積極的に解釈するが、カンディードはもう師の教えに共感できなくなっていた。

上記のようにライプニッツへの反論で書かれたにせよ、現在の我々は自分なりの理解で読めばいいわけである。小説としてみても面白い作品である。
丸山熊雄、新倉俊一訳、世界文学大系第16巻、筑摩書房、昭和35

別離 Intermezzio 1939

グレゴリー・ラトフ監督、米、69分、レスリー・ハワード主演。イングリッド・バーグマンが新人として出演者一覧に出てくる。

有名なヴァイオリン奏者のハワードが米の演奏旅行を終え、スウェーデンの自宅に帰るところから始まる。幼い娘のピアノの先生がバーグマンである。娘の誕生日に請われてピアノを演奏するバーグマンの才能に驚く。才能だけでなく、女として好きになる。その後二人は人目を忍んで会う仲になる。これではいけないと悟ったバーグマンは別れを告げる。しかし、ハワードはその後を追い、二人は離れない仲となって、世界中演奏旅行をする。
相思の仲で夢中のバーグマンに奨学金の手紙が来る。ハワードの顔を見てそれが切り出せなくなる。バーグマンの師でハワードの友人の音楽家が来る。喜ぶハワード。友人は離婚届も持って来る。しかしそれに署名はできない。まだ家族に未練があるからだ。更にハワードはその地の若い娘とも仲が良くなる。

バーグマンは師と話しているうちに、自分はハワードにとって間奏曲に過ぎない。彼には家族があると言う。間奏曲は映画の原題で、またハワードが作曲した曲でもあり、映画中何度か演奏される。バーグマンは去る。
ハワードは故郷に帰り、娘の学校に行く。車の中から手を振り、駆け付けようとした娘は車にはねられる。娘の治療が続く。最後には治ると分かる。妻とハワードは抱擁する。

邦題は、バーグマンの悲恋に中心を置いたように見えるが、それよりハワードという男が家族の大切に目覚める、という映画である。バーグマンはその材料に使われるだけである。
戦前の映画で、男優位の社会であるからこういう映画が作られたのであろうと思ってしまう。現代の感覚からいったらハワードはとうしもない自分勝手な男にしか見えない。