サム・ウッド監督、英、114分、白黒映画。
本作は1969年制作のピーター・オトゥール主演のミュージカル映画が有名だが、これは戦前のイギリスの映画。主人公チップス先生の赴任当時という若い時から、結婚、妻の死、戦争によって多くの教え子を失うなどを経験する、その生涯を追っている。
本作は第二次世界大戦が欧州で始まる年の制作である。戦争を悲惨なものと描き、敵方のドイツ人の教師にも理解を示すなど、後の年の制作では難しかったではないかと思わせるところが今となって目につく。サム・ウッド監督、英、114分、白黒映画。
本作は1969年制作のピーター・オトゥール主演のミュージカル映画が有名だが、これは戦前のイギリスの映画。主人公チップス先生の赴任当時という若い時から、結婚、妻の死、戦争によって多くの教え子を失うなどを経験する、その生涯を追っている。
本作は第二次世界大戦が欧州で始まる年の制作である。戦争を悲惨なものと描き、敵方のドイツ人の教師にも理解を示すなど、後の年の制作では難しかったではないかと思わせるところが今となって目につく。家城巳代治監督、独立プロ、100分、白黒、野添ひとみ、中原ひとみ主演。
野添と中原は姉妹、姉の野添は高校生、妹は中学生である。今は学校に通うため、町の親戚の家に住んでいる。両親は山中の発電所の社宅に住む。中原は何でも率直に意見を言い、行動する。姉の野添がたしなめる役である。映画は素直過ぎる中原の考えがなぜ実現できないかを問うように進む。
野添には好きな男がいる。発電所に勤めている。姉妹の知りあいの若い女が不幸な暮らしをしているので、その家に助けに行く。喜んでいる両親の前で、帰宅した若い女は姉妹にもう来てくれるなと言う。その一家は結核に感染していたからだ。
正月には山の両親の元に行く。戻ってみると、世話になっている親戚では伯父が賭博で捕まったりして、町の生活も安泰でない。姉に結婚話が持ち上がる。姉は好きな人がいるのに、親の勧める条件のいい相手との結婚を承諾する。中原は野添を問い詰める。また相手の男のところへ行くがその男も頑丈な嫁を考えているとしか言わない。中原自身も高校へ進学するようになった。修学旅行へ行く予定だった。父は、金に全く余裕がないわけではないが、仲間が整理の対象になっているので娘を修学旅行に行かせる気にならないと言う。中原も受け入れる。野添の結婚の日、中原は姉と話し、何かあれば自分は駆けつけると告げる。バスに乗って去る花嫁姿の姉を中原は走って追う。
金語楼と浦部粂子の夫婦には非常に多くの子供がいる。戦時中の産めよ増やせよの国策に従って多く子供をなしたので、一ダースもいる。結婚した子には孫がいる。娘が本欲しさに万引きしたり、子供、孫たちには苦労をさせられる。
隣の家の親爺が花菱アチャコで、子供ばかり多い金語楼を馬鹿にしている。金語楼が長年勤めた銀行の守衛を辞めると、早速結婚した子供らが金をせびりに来る。水着姿の集団見合いなるものを海岸でやる。金語楼の娘とアチャコの息子がお互いを好きになる。また美空ひばりも幼い娘役として出演し、劇中歌を披露する。親戚の家に引き取られる。隣家の息子に妊娠させられた娘もいて、これにはアチャコが怒り、二人を結婚させる。あれやこれやで心労がたたって妻の浦部粂子は亡くなる。
クロスランド監督、米、88分、無声、発声混合映画。
主人公はユダヤ人の教会で宗教歌を歌う家に生まれた。子供の時に酒場で歌っているのを父に見つけられ、𠮟られた。歌は好きだがユダヤ教会の歌い手になる気はなかった。家を飛び出す。成人してその歌声を褒められる。若い女の理解もうれしかった。ニューヨークのブロードウェイで歌う機会ができた。自分の故郷である。喜んで行く。
自宅に戻る。母親に再会し共に喜ぶ。しかし歌っている最中、父親が帰ってくる。父親は息子にこの家でそんな歌は歌わせないと言い渡す。息子はもう帰ってこないと言い去る。息子は黒人に扮しジャズを歌う。ミンストレル・ショーの名残だろう。父親は病気になっていた。知り合いが劇場にやって来て、父親が歌えないから教会で代わりに歌ってくれと頼む。息子は見舞いに戻る。しかし劇場での出番があり、歌は歌えない。盛んに母親や知り合いは父親代わりに歌うよう頼む。劇場からも女や支配人がやって来てこの機会を逃したら、もう眼は出ないと脅す。息子は板挟みになって悩む。結局、父親代わりに歌い、その晩の劇場はキャンセルした。父親は息子の歌唱中に亡くなる。数が月後、劇場で息子は黒人の扮装で歌い、観客席には母親や知り合いがいた。
題名のSuddenlyという名の田舎町での大統領狙撃騒ぎ。三人の狙撃者とは、大統領を狙う悪党が三人いるからだろう。
田舎町の駅に緊急の連絡が入る。大統領がこの駅に来て車に乗り換え目的地に向かうという。早速シークレットサービスや州からのパトカーが来て騒然たる雰囲気になる。駅の近くの丘の上の家は、狙撃にむいている。家は退職した元シークレットサービスの老人、後は娘と孫で旦那は戦死している。知り合いの保安官も来ていた。その家にFBIの捜査官を名乗り三人の男が来る。家を調べる。一方、シークレットサービスでこの町に来た男の一人は、かつての上司だった老人のいるこの家にやって来る。するとそのシークレットサービスが家に入り次第、FBI捜査官は撃ち殺す。実はFBI捜査官と名乗る三人組こそ大統領暗殺を企む悪党だった。そのボスをフランク・シナトラが演じる。悪人三人は、家族、保安官、後から来たテレビ修理屋を銃で脅し大人しくさせる。大統領の列車が来る。
中平康監督、日活、94分、白黒映画。加賀まりこ主演。
横浜が舞台、娼婦の加賀は誰とでも寝るのに接吻はさせない生き方をしている。世話をしてくれる中年、好きな男、その他の男との間で、傍目には何を考えているのかよく分からない生活をしている。
愛人の中年男が家族と買い物を楽しんでいるのを見て、自分も同じようなことをし、愛人を楽しませたいと思う。好きな若い男からそんなことで喜ぶかとけなされる。日曜は家族との日だと言われ、それでは月曜にしようと決める。自分と同じ職業の母親を連れて(家族での楽しみを期待していたから)、ホテルに客といる中年男を訪ねる。男は商談中に来られ加賀らを追い返す。楽しみはおじゃんになった。夜、若い男が来て結婚しようと言う。二人で住むにはどの位費用がかかるか。十万円くらいか。愛人の中年男が来るので若い男は逃げる。中年男は謝り、頼む。商売相手の外人の船長と寝てくれと。十万円もらうと言い承諾する。明くる日、若い男は死んだ。
港の大きな船に加賀は連れていかれる。ことが始めると、キスは嫌だと叫ぶ声がする。その後、中年男と埠頭で踊る。相手が海に落ちる。
デフレが凡ての原因という認識がそもそも間違っていたのである。金融政策に焦点が当てられてため、今世紀に入ってからは金融の分析ばかり出ていた。本書は久しぶりに金融に限らず、経済全体を対象とした分析である。章は「課題先進国としての苦悩とその克服に向けて」「鈍化した経済成長」「大きく変化した日本経済の部門間バランス」「変貌する経済循環」「労働市場からのアプローチ」「企業戦略からのアプローチ」「家計の貯蓄率はなぜ低下したのか」「平成の財政・金融政策の機能不全」「低成長・低温経済の自己実現の打破を目指して」に分かれる。分析手法は正統的であり、それで平成以降の経済の問題点を洗い出す。現在日本の経済問題の整理に役立つ。
登場人物はわずか3人、そのうち二人は男、女は一人の妻である。本戯曲の特色は何と言っても、時間の流れが(基本的に)逆という点である。すなわち第一場は1977年、第二場は同じ年のその後、第三場は1975年、第四場は1974年、第五場は1973年、第六場は同じ年のその後、第七場は、同じ年のその後、第八場は1971年、第九場は1968年となっている。
二組の夫婦がいて、お互いに他の配偶者と関係しているのである。その様子を過去に遡って、なぜならといった具合に展開するのである。形式的にあまりない試みである。ないから価値があるのだろう。
『ソーの舞踏会』は、高い地位を得る男との結婚を逃した貴族の令嬢の物語。ソーはパリ近郊にあり、ここでの野外舞踏会が有名だったそうだ。19世紀初頭のフランスの貴族社会の話だから、現在の感覚で物を言ってもしょうがないが、有利な者と結婚できたかどうかが、幸福の基準ではない。お互い結婚してよかったと、長年暮らしてそう感じられるかどうかだと思ってしまった。
『夫婦財産契約』は、一言でいえば世間知らずの青年が結婚詐欺に引っかかる話である。本作は正直言ってあまり面白くなかった。それは途中まで読むと結末が分かってしまうからである。大筋や結末だけでなく、細部を味わうのが小説の読み方かもしれない。公証人同士のやりあい、また最後の方で婚約者の娘が書く手紙が優れているなどとあるが、どうもバルザックの小説の中であまり評価できない。夫婦財産契約とは当時のフランスの法律で、そういう昔の決まりに関心があれば読める話かもしれない。小説の初めの方で友人が主人公に結婚の下らなさ加減を諭しているが、ここでの主人公の悲劇は本人が頓馬過ぎて、相手方がずるかったからである。結婚一般の問題ではない。
『禁治産』は夫が愛人等に浪費しているので、禁治産宣告をさせ、財産管理を狙う貴族夫人が判事に頼みこむ話である。19世紀のフランスは貴族の力が強く、その貴族夫人が有力者に働きかけ司法を動かそうとするさまは『浮かれ女盛衰記』でも描かれている。19世紀は何度も革命騒ぎがあったが、普仏戦争までフランスは大体王政で、ブルジョワが力をつけてきたものの、貴族支配の時代だったのだろう。
本書は貴族の婦人らの困った実態とでも言えそうな話が集めてある。
小津安二郎監督、松竹、83分、田中絹代、佐野周二出演。
田中は夫である佐野の、戦争からの帰りを待っている。幼い子供が病気になる。病院に入れ回復するが、お金がない。その捻出のため知り合いに頼み、売春をする。佐野が帰ってくる。喜ぶ田中。何かなかったかと佐野にきかれ、子供の病気を話す。どうして費用を賄ったかと問われ嘘がつけない。佐野は怒り、不愉快な気分になる。田中を叱責しその場所を聞く。自らそこへ出かける。女をよぶ。来た若い女にどうしてこんなことをしているんだと問い詰める。女の家ではその女以外に働き手がいない。まともな仕事を捜してやると言い、別れる。
佐野は勤務先の同僚で友人の笠智衆に、女にさせる仕事はないかと尋ねる。あるだろうと笠は答える。佐野の家の事情を聞き、許してやれと言い、佐野も許しているが気分がつかないと。
帰宅する。田中は佐野にすがり赦しを請い、家にいて休んでくれと頼む。その田中の態度を強硬と感じた佐野は、田中を押し倒す。階段の上から田中は落ちる。驚いた佐野は大丈夫かと声をかける。起き上がった田中は階段を上る。坐っている佐野に声をかける。佐野は忘れよう、これからもいろんな事が起きると言う。
ちくま文庫『オノリーヌ』には表題作ほか、『二重の家庭』『捨てられた女』の中篇3作が収録されている。いずれも結婚を経験した上での男女間の恋愛模様である。
『オノリーヌ』は枠物語で、幾重になっている構造。表題の女主人公を貴族の夫が愛し贅沢をさせるが、妻は出奔する。妻が愛人に捨てられた後、夫は手を尽くして捜し出す。本人に自分が世話しているか分からないようにし、十分な生活をさせる。しかしオノリーヌの心は夫になびかない。あくまで自分を捨てた愛人しか愛の対象にしない。オノリーヌは自らの信念に忠実である。読んでいてスタンダールの『ヴァニナ・ヴァニニ』を思い出した。あの小説の最後の男のつれなさは男ならこんな者がいると思わせる。それが本作では女主人公オノリーヌが信念の人である。別に本作を女版の『ヴァニナ・ヴァニニ』と言うわけではない。しかしオノリーヌの思考と行動はあまり小説ではお目にかかれない。十分な理解ができているだろうかと心配になってくる。
『二重の家庭』は妻と家庭を築いている貴族が、信仰に凝り固まる妻を敬遠し、卑しい身分の女を情人にする。ここまで書いた限りではよくある話と思われよう。しかし小説の最後で、貴族は不幸な目に会う。この意味は何かと問われても良く分からない。
『捨てられた女』は地方の町にパリから若い貴族が来る。そこに住む、愛情沙汰を起こして世間から見放されている貴族の夫人に近づきになりたいと思う。青年貴族と貴族夫人が会う模様は、男ならいかにして女に格好をつけ、自分に好意を持たせるか、女は年上の夫人としていかに若い男をあしらうか、の丁々発止の駆け引きである。それをバルザックは微に入り細を穿って延々と描写する。感心する。小説では更に十年後のこの二人の関係まで書いてある。どうなるかは、あまり現実的とは思われないが、それが小説というものであろう。
いずれも男女関係で女が勝る様が描かれている。
心理学、特に社会心理学また日本人論の分野で高名な南博(大正3年~平成13年)の自叙伝である。
医学部に入るも、哲学専攻の文学部に入学し直す。哲学と並んで心理学の勉強をする。昭和15年にアメリカのコーネル大学に留学。心理学を専攻する。日米開戦では級友らの親切を受け、そのままアメリカに留まり、勉学を続ける。日本への帰国船乗船も打診されるものの、滞米を続けた。戦後日本に帰る。
アメリカについた当時、全く英語が分からなくて困ったなどの記述がある。私的な面についてはあまり書かれておらず、他の自叙伝と異なる。例えば一橋大学教授を長く勤めたが、大学就職関係の記述はない。自分の学問業績をアメリカの大学院時代から書き、戦後に至るまで専らその方面の記述が多い。
戦後の活動の思想的背景はアメリカでの経験や、当時の風潮もあろうが、進歩的であると分かった。
小説を書く側を相手にしており、より面白く読める、あるいは理解が深まる読書の仕方が書いてあるわけではない。例えば「羅列」という章で、対照的な者を並列して、いくつもの例を次々と挙げて、十行以上続く文章を「こういうものを「出鱈目に書いている」と思って評価しない人は、一度自分で書いてみればいいのである。いくら時間をかけても想像力が追いつかず。なかなかこれだけ書けるものではない」(p.104)と言っている。読み手にとっての評価は面白いかどうかである。出鱈目に書いているとか、批評家に言われたことがあったのか。自分で書いてみればいい、とはまさに別の書き手に対して言う反論である。読み手にいう言葉ではない。このように本書は書き手に対する書である。
読み手にとっても面白いところは当然ある。ただ小説創作の苦労を聞いて、小説の理解が深まるであろうか。これは読む者によって異なるだろう。しかし関心のある話題(ここでは小説の創作)をより深く知りたいと思うのは当然である。だから読書好きにも一読を勧めたい。
笠智衆の娘が原節子と有馬稲子である。母は出奔していない。原は結婚しているが、夫が嫌で小さい娘と実家に帰ってくる。妹の有馬はまだ未婚で、不良のような生活をしている。映画らしい偶然で、山田五十鈴演じる実の母親と有馬は再会する。大陸から帰って来て麻雀屋を新しい夫と経営していた。ただし有馬は親の顔を覚えていない。色々山田は有馬に尋ねる。帰宅して原に、母親だったのではないかと疑問を言う。原は、山田の麻雀屋を訪ねる。母を知っている原は山田に、母と名乗ってくれるなと言う。父親が可哀想過ぎると。
有馬が妊娠しそれをどうするかが結構大きな筋になっている。親戚などにお金を借りようしたのは堕胎の費用のためである。済ませた後、恋人に再会、鈍感で勝手な態度に有馬は怒り平手打ちを食わせる。怒って店を飛び出した後、路面電車に惹かれる。病院にかけつける笠と原。死にたいくないと言いながら有馬は死ぬ。後日談で山田は夫ともに北海道に引っ越しする。山田に怒る原は、山田が焼香に来ても上げず、言葉もかけない。原は家に帰ると笠に言う。
非常に暗い話で小津作品では異色。その異色さが評価の対象となろう。パリの胃袋とはパリの中央市場で、青果から肉、魚の類までおよそ食材は凡て扱っていた。1970年頃に取壊しになり、今は駅や買い物施設になっているそうである。本書の執筆される20年近く前に施設が新築された。本小説は、革命騒動に連座して南米に流された男が脱出して、パリに帰ってくる、弟の家に厄介になりながら、再び改革のための行動を起こそうと計画する、あたりが背景となる筋である。しかしながらゾラの執筆する中央市場のあり様、様々な食材の細かい説明、うごめく店の者たち、その確執、育つ子供などがつぶさに描かれ、中央市場はさながら小宇宙を形成している。主人公は題名とおりパリの胃袋たる中央市場と言いたくなる。
ゾラは執筆するにあたり徹底的に調べ尽くし、当時の中央市場が書かれているので、歴史資料にもなっている。主人公と言える男は無欲で清廉かもしれないが、優柔不断で世間知らずに見える。本書で生き生きと描かれている人間は、何と言っても中央市場で働く女たちである。お互いに敵愾心むき出しで対立、罵詈雑言を尽くす。また金棒引きの老婆が更にあおる。女の一面がどぎついまでに描かれている。これらあたりまさにゾラの面目躍如である。
感心するのはそういう公の経歴よりも、生き方である。ともかく行動的で色んな体験をやってみる、多くの有名人と会う、有名人でなくとも人間として興味深いというか人格的に優れた人々と交流してきた。更に困難な経験も当然ながらしている。自分のような凡人は圧倒されるばかりの人生である。西洋の知的巨人の一生の例として読める。
劇では劇中の弁護士役が、ギリシア劇の説明役のような役割をしている。倉橋健訳、ハヤカワ演劇文庫、2017
もう一つ問題があったとわかる。娘の父親は刑務所に入っている。それは戦時中不良品を戦闘機製作に納入し、そのため多くの者が死に、罪を問われているのである。娘の兄がやって来る。この家に抗議に来たのだ。この家の主人と兄妹の父は、共同で戦時中製作していた。不良品納入の罪は、むしろこの家の主人にあると分かった。家の主人は知っていながらみんなやっていた、状況が許さなかったと言う。まだ戻らない息子の手紙を娘は持っていた。それによると不良品製作の罪が自分の父にあると知ったので、息子は責任をとって死ぬ気でいた。
倉橋健訳、ハヤカワ演劇文庫、2017
本書は事件発生後14年目の出版で、著者も読者もこの事件当時を知っている世代である。事件の当事者に聞き込みも出来た時代である。これが本書の特徴の一つである。著者は二人とも医学博士で、宮城音弥はかつて岩波新書などに心理学関係の本を出していた。松本清張の他殺説は既に出されており(本書より3年前)、本のカバーに松本清張氏に挑戦する、とある。学者として推理科学の立場をとるとあり、創作家の本とは違うと言いたいようである。
本書は「発端」の章で事件の概要を書き、続く「自殺?」の章では自殺説の立場から論じる。ここを読むと自殺説に傾きそうになる。その後の「他殺?」では他殺説を裏付ける論をはり、他殺説が説得的になる。続く「犯人は?」では他殺だった場合、犯人は誰かを論じ、松本清張による米軍説、また国鉄副総裁だった加賀山之雄による共産組織説の検討である。共に批判的に論じる。以上、全体として他殺関係のページが多い。
伯爵一家と別れ、マイスターは座の運営により関わっていくが、盗賊に襲われる。マイスターが回復した時には、座は事実上解散していた。のちみんなと再会し、座長の妹アウレーリエと恋仲になる。マイスターは自分の息子を見つける。アウレーリエも亡くなる。医者が以前入手したという『美しい魂の告白』という回想が読まれる。マイスターは最後にナターリエという理想の伴侶を得る。ミニヨンは亡くなる。
教養小説の代表と言われ、主人公には作者自身の若き日の姿が投影されている。多くの女と恋愛し、またゲーテの演劇、芸術等に関する意見が聞かれる。
ただ小説としての感銘度はどうだろうか。文豪ゲーテの有名な小説である。ただし正直、称賛しようとか他人に勧める気はおきない。なぜか。本作と限らずゲーテの小説の登場人物は魅力が乏しい、といったら適当でない。何か切紙細工か張子の虎のようで、血が通っていないのである。昔『親和力』を読んだ時、登場人物があまりに機械人形みたいで驚いた。この感じはウェルテルにも通じるし、本小説もそうである。『ヘルマンとドロテーア』は短篇だからかそんな気はそれほどしなかった。『ファウスト』は詩だから基準が異なる。戯曲はそれ自体がこさえ物っぽいからまだ読める。
本作で人間が描かれていると感じるのはミニヨンである。ミニヨンは副主人公でも女主人公でもない。しかし永遠の少女性として記憶されるのは、唯一生命感ある人物だからである。
ゲーテの小説は前近代的なのである。近代の小説の最大の特色は人間が描かれていることである。大昔の創作は話の筋を追う、作り話を語る、という形で作られている。近代になって人間そのものを描くようになった。これが我々が知っている19世紀の西洋小説群である。それ以前でもそう言える創作はある。ゲーテの小説はそうでない。
別に近代の読み方だけが鑑賞の唯一ではないだろうし、何しろ文学史上燦然と輝く大文豪ゲーテの小説というので感心して読める人はそれでよい。
小沢茂弘監督、東映、91分、千葉真一主演のアクション映画。
死刑囚を坊主に化けた千葉真一が助ける。その弟たちの依頼だった。謝礼金が足りず、怒った千葉と弟たちの戦いとなり、弟は死ぬ。映画後半では千葉は石油王の娘を攫おうとする悪漢どもから娘を守る役になる。また自分が助けた悪党は弟を殺され、千葉に復讐を誓う。この悪党との対決も大きな筋である。全体として筋は込み入って分かりやすい映画ではない。
本書は珍しく『存在と時間』の内容が分かりやすく説明されている。その秘密は何か。それは著者が学者でなく、自分の理解のありのままを書けたからであろう。入門書と銘打っても学者は他の学者を意識して書くため、書名につられて入門書だろうと期待する素人には分からない書が多すぎる。本書は筒井の講演記録に手をいれたもので、話す場合は易しくせざるを得ないという長所も活きてくる。更に巻末に大澤真幸の補足解説があり、これも役に立った。
キム・ドク監督、韓国、99分、韓国へ侵入した北朝鮮工作員一味の顛末。
四人家族が車で旅行している。偶然隣の一家も旅行先で近くにいた。家族間で争いが絶えない一家といかにも仲が良さそうに見える隣家。実は仲の良い家族は北朝鮮の工作員の一団の偽装で、祖国からの命令を受け、反北朝鮮の者などを暗殺していた。祖国への忠誠だけでなく、不穏な言動をすれば、北にいる家族に危害が及ぶ恐れがある。
班長の女は生温い他の連中の行動を厳しく叱咤していた。しかし赤ん坊を殺す段になって躊躇し他の者から批判される。隣家は相変わらず喧嘩ばかりしている。そこの若い息子が班員の若い女を好きになり、積極的に接近してくる。また隣家の老母は、工作員の老人を好きになる。
喧嘩ばかりしている隣家を見て、工作員らは本当の家族だと羨ましくなっている。工作員の一人の妻が脱北を図ったようで子供とも始末される恐れが出てきた。班長は手柄を立てれば、脱北妻が容赦されるかもしれないと判断し、独断で韓国にいる脱北の裏切り者たちを始末する。それが実際は偽装裏切りに過ぎず、北朝鮮にとって大打撃と分かった。班長は懇願するが、聞いてもらえず隣家一家を皆殺しにすれば、考慮してやると上司にあたる者から言われる。
島に隣家を招待する。上司一味も監視に来ていたが、隣家は殺せないとして、一旦上司らを縛り、事情を話す。上司らは解放された後、船に工作員らを乗せ、そこで始末しようとする。工作員らは隣家の喧嘩の様子を真似して、次々と死んでいく。
明くる日、隣家は隣が引越ししていると発見する。そのうちで若い男が、他の男子たちにいじめられようとしたら、あの娘が助けに来る。娘だけは助かったようだ。
三人姉妹はペギー葉山、芦川いづみ、浅丘ルリ子で、母親役は轟夕起子である。田園調布にある家に住む。父親は亡くなっており、有名なミュージカル作曲家という設定。母親は娘たちのために働いており、娘三人は母親に新しい夫を見つけようと画策する。
候補にあがったのは、浅丘の学校の先生だった。お膳立てをして家で見合いをさせる。この母親見合い騒動と並行して娘たちの恋人(候補)との付き合いも進む。ペギーはフランキー堺、芦川は岡田真澄、浅丘は石原裕次郎である。映画の後半は亡き父親を記念した音楽ショーが開かれる。そこで三人娘とその恋人たち、またこの音楽ショー場面にのみ月丘夢路や北原三枝等が出て歌い踊る。娯楽映画の典型である。
三人姉妹の家は、完全に洋風生活で畳の間などない。この時代とはかけ離れた夢の世界を描いている。轟の見合い相手の先生というのが、やくざ映画の悪党役で有名な安部徹である。若い頃は他の映画でも善人で出ていた。やくざの悪党の親分の印象が強すぎるのでおかしい。
バルザックの短篇集で評論も入っている。所収は『グランド・ブルテーシュ奇譚』『ことづて』『ファチーノ・カーネ』『マダム・フィルミアーニ』及び評論の『書籍業の現状について』である。
『グランド・ブルテーシュ奇譚』では、語り手が興味を持った、朽ちた古い館のいわれを尋ねていく。何人かの話を聞き、女主人の艶聞にまつわる、ポーの『アモンティリャードの酒樽』を思い出すような真相が分かる。最後のところだけをコントにすれば2、3ページで終わらせてしまえるかもしれない。『ことづけ』は旅で知り合った若い男が事故死する。死に際の頼みで、男の恋人であった貴婦人の屋敷に行く。『ファチーノ・カーネ』は同名のイタリア人の盲目の老音楽師から聞いた話。音楽師が若い時代にヴェネツィアで捕えられた際、宝の山の場所を知った。それを取りに行こうと語り手に持ちかける。『マダム・フィルミアーニ』は同夫人の評判を色々な者が語るところから始まる。後半は、若い男と夫人の恋愛物語になる。『書籍業の現状について』はバルザックが当時の出版界の改善案を論じる。
宮下志朗訳、光文社古典新訳文庫、2009バルザックの長篇小説。舞台は19世紀初頭、ナポレオンが執政から皇帝になる時期のフランスの田舎が主である。王党派(こちらが反体制派)と政府側の対立が続いていた時代である。大きな筋は、反体制派の貴族たちに、元老院議員誘拐ないし殺害の嫌疑がかかり、逮捕される。小説で大きな役割を果たす貴族令嬢は逮捕を逃れる。その令嬢ロランスに仕える平民ミシュも逮捕される。裁判の途中で誘拐されていた議員は見つかる。判決は有罪で、ミシュは死刑だった。ロランスは釈放、助命のため奔走し、敵である男まで頼み込む。後の顛末まで描かれる。
以上の筋は後半の(一部の)荒筋で、小説では初めから多くの人物が登場し、後にどういう役割をするのかしないのか、分からない。決して読み易い小説ではない。アランが本作を最も読むのが難しい作品の一つで、最も偉大な作品の一つと言った、と解説にある。(p.442)何しろ本書は解説のところに小説全体の梗概がある。これは本書の分かりにくさから出た配慮である。バルザックならもっと読み易く、面白い小説がある。
本作がバルザック好きで評価されているなら、読み易くないから、読めばいかにも読んだと実感ができるからではないかと思った次第。
本小説の主人公は貴族令嬢ロランスらしいが、確かに生身の主人公ならロランスくらいしかいない。ただ自分の理解では本作の主人公は政治である。それも政治一般でなく、19世紀初頭のフランスの政治である。これまで本小説をけなしてきたと思われるかもしれないが、そんなつもりはなく、本作を勧めたいのは歴史好きである。特にフランスの歴史が好きなら興味を持って読み進められるであろう。体裁で希望を述べれば、注は巻末でなく各ページに入れてもらいたい。
婚約者の兄たちが次々と蒸発している。憂鬱になっている婚約者の助けたく、主人公の女は神経科医へやって来る。神経科医は探偵となり、主人公の女と共に謎を探ろうとする。そのため婚約者の兄たちの家を訪ね、話を聞く。故郷である九州へ何度も行く。殺されたのか、失踪か不明である。何やら暗示的な要素が多く出てくる。最後に分かる真相は、これまで良く観たような要因がからまっている。映画としての感銘度は薄いのではないか。
鈴木英夫監督、東宝、37年、総天然色映画。宝田明、星由里子主演。
大阪の建築会社に勤める宝田明は、親類の音羽信子のやっている喫茶店で、星由里子を見て一目惚れをする。浜美枝が宝田の結婚相手の候補だった。それを斡旋したのは淡路恵子である。沖縄に出す淡路の店を設計するため、沖縄に飛ぶ。まだ復帰前で観光名所が沢山出てくる。
どの作品も普通の怪奇小説に比べ、筋は単純であり物足りない感じを持つ者がいても不思議でない。これは古い映画、特に無声映画は単純で、最近の映画は内容がすごく凝っていてひねってある物が多い、に比べられようか。20世紀の初頭のパリではこんな劇が鑑賞されていたという懐古的な趣味を持っていれば特に楽しめる。
平岡敦編訳、ちくま文庫、2016
エスメラルダは軽佻で浮気な士官に、色男だけという理由ですっかり惚れ込む。士官の方はエスメラルダを多くの女の一人しか見ていない。エスメラルダに狂ったクロードは、士官を使いエスメラルダをものにしようとした。士官へ嫉妬したクロードは士官を刺す。エスメラルダが殺人の犯人にされる。もっとも士官は死んでいなかった。裁判でエスメラルダは死刑を宣告される。刑の執行間際になってカジモドがエスメラルダを助け逃げる。ノートルダム寺院に隠す。エスメラルダを助けようとした群衆が寺院を襲う。王の軍隊によって暴動は鎮圧される。エスメラルダは逃げ、実の母親に会うが捕まえられ、絞首刑になる。クロードも寺院の上から落ちる。カジモドは墓でエスメラルダの死体と共に一緒になり果てる。
かつて豪華なホテルとして有名だったグランド・ブダペスト・ホテルを巡る物語。何重からの入れ子になっており、話の中心は元ホテルで作家がこのホテルの所有者である移民出身の老人に、いわれを聞く部分である。戦前1930年代に遡る。移民の少年はグランド・ブダペスト・ホテルの名コンシェルジュに見いだされボーイとして勤めるようになる。コンシェルジュが映画の主人公である。
ホテルの所有者である老婦人が亡くなる。その邸宅へコンシェルジュとボーイは駆けつける。遺書が多くの親族の前で披露される。最も高価な絵画がコンシェルジュに贈られると聞き、息子その他の親族は仰天する。屋敷から追い出されたコンシェルジュとボーイはその絵画を持っていく。映画の後半はその絵画を取り戻そうとする息子等との戦いである。様々な経緯の後、コンシェルジュ側が勝つが、戦争による政治の変化などの影響を受ける。コンシェルジュは幸福な終わり方を迎えられなかった。そのボーイが元グランド・ブダペスト・ホテルを受け継ぎ、作家に話した老人である。