2015年10月31日土曜日

青空娘 昭和32年

増村安造監督、若尾文子主演の総天然色映画。

明るく前向きに生きる娘を若き日の若尾文子が演じている。昭和30年代初期の東京が色つきで見られる。

田舎に住む若尾は高校を卒業する。祖母の臨終の際、実の父親と母親が東京にいることを知らされる。上京する。実父は会社の社長である。そこの義理の母や兄姉から邪険に扱われ、女中の仕事をやらされる。

しかし姉が憎からず思っていた川崎敬三が若尾に恋したことなどから苛めに耐えかね、家を出る。高校の教師の菅原謙二も絵の勉強のため上京し、彼女に協力しようとする。彼も若尾を好きだったのである。いったん故郷に戻ったものの、実の母親が東京にいることがわかり捜しに帰京する。

菅原や川崎の尽力により実の母と再会を果たし、父の家とも完全に別れを告げ、新しい未来に向かって生きるようになる。

若尾の若々しく明るい主人公が見もの。また制作当時は特に注意してもいなかったであろう背景、当時の東京がカラーで見られてそういう意味でも価値がある。

真剣勝負 昭和46年

内田吐夢監督、中村錦之助主演の宮本武蔵シリーズの番外編。総天然色。

この映画は東宝で作られている。
錦之助の武蔵が鎖鎌の名人、三国連太郎及びその妻を相手とする対決が中心であり、尺的には短い。

武蔵が名人三国の家に一泊するが、実は三国扮するその家の主人は恨みを持っており、夜襲をかける。手下どもは難なく片付けるが、三国とその妻は鎖鎌の使い手であり、この二人に対しては簡単にすまない。そこで武蔵は驚く奇策に出る。

対決の迫力に関しては最近の映画に慣れた者にはやや物足りなさを感じるかもしれない。しかしこの映画の見どころはそういうことではない。剣道とか特に武蔵と言えばかなり精神的なものをイメージするのではないか。それを否定している映画なのである。そしてそれが剣の本質と言っているのである。

最後もけりをつけることなく終わり、これも意表をついた。

正直、宮本武蔵の正編シリーズよりこちらの方がはるかに印象に残った。

2015年10月30日金曜日

辛いご時世 Hard Times 1854

ディケンズの長編小説。彼の長編小説では最も短いという。他との比較であるからそれなりの長さである。『荒涼館』と『ドリットちゃん』の間に書かれた。


かなり社会的な背景を持つ。すなわち当時のイギリスの産業革命下での鉱業町を舞台とし、人間的な感情が欠如し即物的になった登場人物が目立つ。

コークタウンという町の工場主グラッドグラインドは学校も経営しているものの、生徒たちには事実の重要性のみを強調し、情操教育的な要素は一切排除しようとしている。
サーカスの道化の娘シシーを引き取り自らの理想に沿って育てようとする。グラッドグラインドには娘ルイザと息子トムがいる。

友人の銀行家バウンダビィーの要望を受け、娘を彼の嫁にやる。ルイザは味気ない結婚生活を送っていた。やくざな弟が気がかりである。若い議員のハートハウスがバウンダビィーに近づき、バウンダビィーは彼をもてなす。ハートハウスはルイザに関心を持つようになる。

銀行のカネが盗まれる。バウンダビィーのところで働いていた職工が容疑者となった。彼はバウンダビィーに首にされ、今は行方不明となっている。

この謎を解き明かす犯罪小説的な趣向と、謎の登場人物の正体が最後に明かされるなど、いかにもディケンズらしい展開である。

ディケンズの小説の中では知名度が低いものの、十分楽しめる。

翻訳は戦前の新潮社世界文学全集中(1928)の柳田泉訳(『世の中』)がインターネット上にあり、それで読んだ。
最近の翻訳では、田中、山本、竹村共訳の『ハード・タイムズ』(2000)、田辺洋子訳の『ハード・タイムズ』(2009)がある。

『辛いご時世』という訳名は、以前どこかの文献でみた名称である。これが個人的にはふさわしいと思い使った。

最後の命令 The Last Command 1928

スタンバーグ監督、エミール・ヤニングス主演による無声映画。

ヤニングス演じる主人公はかつて帝国ロシヤの将軍であった。今はハリウッドのエキストラとなってしのいでいる。

ロシヤ出身の監督が映画の出演者の候補を選んでいる際、ヤニングスの写真を見つけ、将軍職をやらせる。帝政ロシヤ時代に将軍に痛めつけられた経験がある。監督と一緒にいた女優は将軍と愛し合うようになり、革命軍から将軍を救ったことがあった。

今は立場が逆転した将軍と監督。監督は将軍に突撃命令を下すよう指示する。将軍は映画のエキストラでその役を演じているうちに、かつての本当の将軍と思い込むようになり、精神も異常をきたす。

地位あるものが落ちぶれて惨めな姿をさらすのはヤニングスの『最後の人』に通じるものがある。

2015年10月28日水曜日

思ひ出 Old Heidelberg 1927

『アルト・ハイデルベルク』の映画化である。ルビッチ監督最後の無声映画だそうだ。

若い王子がハイデルベルクに遊学する。そこで知り合った宿屋の若い娘との恋。やがて王子は国務のため帰国し、王に就く。何年かしてハイデルベルクに戻り娘に再会する。若い日のときは深く自覚せずに済んだ、身分の違いを今更ながら確認する。

いわゆる身分違いの恋を描いた古典をイメージとおり情緒豊かに描いている。

原作であるマイヤーフェルスターの『アルト・ハイデルベルク』は小説版を若い時、角川文庫で読んだ。Amazonで検索したら今は絶版になっているようだ。ただし表紙の画像が載っていて懐かしかった。

なまけ者 Lazybones 1925

ボーゼキ監督による無声映画。

田舎町。人はよいがなまけ者と見做されている若者。恋人との結婚は彼女の母の反対で進みそうもない。ある日いつものように川端で寝ていると身投げする女を見つけ、救い出す。この女は恋人の姉で私生児を産み、故郷へ帰って来たものの、自殺を図ったのだ。事情を聞いた若者は赤ん坊を引き取り事情は隠して自分が育てることにする。このため恋人との結婚は破談になる。
 
年月が経ち赤ん坊は美しい娘に成長した。第一次世界大戦が始まる。彼は従軍する。彼は自分が育てた娘と結婚を密かに望んでいた。しかし戦争から故郷へ帰り、娘に若い恋人がいることを知る。

ボーゼギの映画はアメリカ映画というより昔の日本映画に似ている。ドラマチックな展開で自分の意思を通す人間でなく、与えられた状況のなかで最善を尽くす善良な者を描いている。

2015年10月23日金曜日

殴られる彼奴 He who gets slapped 1924

ヴィクトル・シェシュトレーム監督のアメリカ時代の無声映画。

若い科学者(ロン・チェイニー)は男爵の庇護を受け大発見をする。ところがその業績だけでなく、妻までも男爵に横取りされる。

数年後、彼は曲馬団の道化師になり下がっている。自分が打たれ、それで観客の笑いを誘う芸が売り物である。

そこの曲馬団に伯爵夫人と呼ばれる若い曲馬の乗り手がいる。彼女は相方の若い男と相愛の仲である。道化師も彼女に好意を寄せている。

ある日道化師は自分を陥れた男爵を観客の中に見つける。男爵は今度は伯爵夫人に目をつける。伯爵夫人は男爵を拒む。彼女の強欲な父親と話をつけ、彼女をものにしようとする。道化師が男爵に挑む。彼がかつて侮辱を受けた科学者であると知る。男爵は嘲笑う。しかし道化師は男爵と父親を部屋に閉じ込め、そこへ獅子が襲う工夫をする。

主人公は男爵に人生を踏みにじられ道化役になった。道化師は客を笑わせる役であるため、かえって悲愴な雰囲気を持つ。道化師が本来的に持つ悲劇的な要素を利用した初期の映画。

懦夫奮起こせば The Fighting Coward 1924

米ジェイムズ・クルーズ監督による無声映画。

南部へ戻ってきた主人公は、恋人を巡る争いで決闘に応じなかったため、臆病者の烙印を押されてしまう。

武者修行(?)に出た彼は西部の荒くれ者の集まる酒場でひょんなことから、大物扱いされ、「伝説的」人物になる。かつての家に戻るとすっかりさびれている。彼を追い出した男に任せたものの、結局使い物にならなかったのである。すっかり変わった彼を見ても最初は誰もわからず、今度は強者になった彼が追い出す。

喜劇につきものの調子が良過ぎるところがあるものの、強者=マッチョ的な男を礼賛しがちなアメリカ文化の中で、腕力、暴力を揶揄しているところは面白い。
監督は『幌馬車』(1923)が有名。

2015年10月20日火曜日

砂糖菓子が壊れるとき 昭和42年

今井正監督、若尾文子主演によるマリリン・モンローの生涯の翻案映画化、総天然色。

若尾扮する売れない女優はたまたま老映画プロデューサー(志村喬)に会う。彼から見初められ、結婚と引き換えに全財産を贈ることを提案される。財産狙いと言われることを嫌がり断る。すぐに志村は亡くなる。その後、若尾は映画女優として成功し、引っ張りだこになる。自分の学問のなさに劣等感をいだき、大学教授(船越英二)に惹かれるが強要されると拒む。その後有名野球選手(藤巻潤)、作家(田村高広)などを虜にし、結婚離婚を繰り返す。

ここはマリリンのあの挿話のところか、と思いながら見ていく映画である。

正直、今井正、若尾文子の両名の映画としては、それほど出来は良くないと思う。映画の与える感銘が薄いのは大筋がわかっているからだけでなく、なんとなく精彩を欠く感じを与えるからか。それでも有名俳優たちが多数出ているので一見の価値はある。

2015年10月18日日曜日

総会屋錦城 勝負師とその娘 昭和34年

島耕二監督による城山三郎の小説の映画化。白黒映画。

引退した大物総会屋である内藤錦城が乞われて乗っ取り防止のため株主総会で活躍する。それと並行して嫁にやった娘の離婚話が進む。

総会屋錦城に志村喬、その娘に叶順子、妻に轟夕起子、錦城の弟子役で片山明彦が扮している。

昭和30年代半ばの話で、株主総会の制度も今と全く違って、この映画でかつての総会にどの程度忠実なのか、誇張がどの程度か今ではわからない。また理屈も良く理解できないところがあった。それでも志村喬の総会屋の活躍ぶりは鮮やかに描かれている。
娘の離婚話はいかに総会屋が嫌われていたかを強調するためのつけたしのようなものであった。

志村が総会屋は会社のダニだと言い切る場面がある。しかしこの映画を見ている限り違和感を覚える。なぜなら志村は乗っ取り防止をしたのであり、会社とgive and takeの関係にあるからだ。もちろん総会屋というのが会社の醜聞等につけこみカネをせびっていたという実態を考慮すればその通りである。しかしそういう知識のない、現代ではやや歴史的な存在になってしまった総会屋について無知な者からすると、あまり総会屋を悪者と思えない作りの映画になっているのである。これは先に述べたように総会屋は悪いものだという共通認識(それは間違いではない)を前提として成り立つ。

それにしても公開当時のポスターを見ると最初に叶順子、続いて叶の恋人役川崎敬三、三番手に志村が挙がっている。川崎などカメオ出演なみに一瞬しか出てこない。どうみても志村が主演の映画であり、タイトルではその通りになっている。当時の叶や川崎の人気って凄かったようだ。

2015年10月16日金曜日

ハラキリ Harakiri 1919

フリッツ・ラング監督による無声映画。


題名だけ見ると驚くかもしれないが、中身は『蝶々夫人』である。ほとんど同じで細部は当然違う。だから音楽ファンには筋的には新味はない。
ちなみにプッチーニの『蝶々夫人』は1904年の作である。

もしこれが日本が舞台でなく、東南アジアのどこかと設定されていたら日本人が感じる「キワモノ感」はほとんどなかったのではなかろうか。当時の実際のそこの国と風俗や振る舞いがどれだけずれていたとしても。

正直日本人なら見ていて気になる点は出てくる。そういう意味では日本人には評価しにくい映画なのであろう。

ところで『蝶々夫人』は有名な歌劇で、昔からよく演じられていた。以前は欧米人に見せるため欧米人の上演であった。だから今みたいに日本人が海外に出ることが少なかった時代にはとんでもない演出が行われていたようだ。今から40年ほど前に欧米で舞台の『蝶々夫人』を見ていた日本の婦人が不快になって帰ってしまったという挿話を読んだことがある。それに比べて第一次世界大戦後、百年ほど前ならおかしなところがあっても当然のような気がする。

それでもあえて気になったところを一点だけ挙げれば、お辞儀する時両手をそのまま頭のところまで上げてお辞儀する。ちょうど日本人が作る映画で南洋の土人が礼拝しているのと同じやり方である。何度か出てくるので目についた。

2015年9月30日水曜日

警察日記 昭和30年

久松清児監督による白黒映画。

東北地方(会津地方)の警察署を舞台にした様々な人間模様。
田舎町の警察署だが結構色々な事件が起こる。それをこなしていく警官たち。

当時は高度成長が始まろうとしていた時期であり、まだ日本は貧しく、特に田舎はそうであった。高年齢層には懐かしさを覚える映画であろう。

淡々とした話は、やはり警察署を舞台にした米ワイラーの『探偵物語』(1951)のドラマチックな展開と対照的である。

穢れなき悪戯 Marcelino Pan y Vino 1955

スペイン映画、監督はハンガリー出身のバホダ(ハンガリー語読みではヴァイダ)、白黒映画である。

過去の修道院にまつわる伝説的な話。
修道院の前に赤子が捨てられていた。引き取って育ててくれる家庭が見つからない。修道僧たちによって育てられることとなった。

そのマルセリーノと名付けられた赤子が少年になる。親切な修道僧たちに囲まれているものの、やはり母を恋しく思う。

ある日入ることが禁じられている屋根裏部屋に上る。物置となっているが、キリストの像がある。誰もいないはずのその部屋で男の声が聞こえる。少年は会話をし、空腹であろうと思い、パンと葡萄酒を届けるようになる。何度も屋根裏部屋で会話を続けるうち、男は少年に何か希望があるか尋ねる。少年は母に会いたいと言う。
 
最後のところをみるとアナトール・フランスの『聖母と軽業師』を思い出した。

奇跡の人 The Miracle worker 1962

アーサー・ペン監督によるヘレン・ケラーの幼少期の物語。白黒映画。

主人公はサリバン女史、アン・バンクロフトが演じる。

有名な水を認識するまでのサリバン女史とヘレンとの「格闘」が描かれる。あまりに有名な話であるから、筋はわかっているのである。それでも感動的な映画であることは変わりなく、それは元々ヘレンの「めざめ」自体が劇的なものであるからか、あるいは演技や演出が優れているかのためか、区別できない。

サリバン女史の幼いころの悲劇が回想される。これがヘレンの躾を諦めない要因になっていることがわかる。

1950年代から1960年代のアメリカ映画は言葉通りに意味で感動的な古典が多く作られている。これもその一つ。

2015年9月8日火曜日

どん底 Les Bas-Fonds 1936

ゴーリキー原作の戯曲を元にしたルノワール監督の映画。

原作の人物を借りているものの、脚色によってかなり自由に制作している。

貧民向けの宿屋を舞台にした群像劇。原作では誰が主人公と呼ぶべきか不明だが、映画ではジャン・ギャバンとルイ・ジューヴェがはっきりとした中心人物である。ジャン・ギャバン扮する泥棒とジューヴェの男爵の交流が結構な割合を占める。原作では回想として語られる男爵の落ちぶれが映画ではまず描かれる。更にその男爵の家へ泥棒として入ったジャン・ギャバンがすっかり男爵と意気投合してしまい、男爵は差し押さえをくらった後、貧宿屋へ移る。

原作で大きな役を演じる巡礼ルカはその他大勢の一人の扱いである。ある意味、この劇のクライマックスとなる宿の主人が殺される場面は、原作と同様に映画でも大きい山場となっている。

なんといっても、この映画が原作の『どん底』と一番違うのは明るい。前向きに生きていこうとする姿が描かれていることである。最終場面などはチャップリンを真似たのかと思わせる。
フランスの名優ジャン・ギャバンとルイ・ジューヴェの共演が一番の売りかもしれない。

2015年9月5日土曜日

第九交響楽 Schlussakkord 1936

ドイツのデトレク・ジールク(ダグラス・サーク)監督によるメロドラマ。


ニューヨークの大晦日から話は始まる。公園で男の死体が見つかる。ドイツ人で彼の妻を捜しあてる。彼女は夫の自殺を驚かない。金額拐帯でドイツから米国へ逃げて来ていたのだ。愛する幼児を残して。

その頃ドイツで評価の高い指揮者による第九交響曲がラジオを通じて世界に放送される。この第九を聞いた妻は絶望から立ち直り、ドイツへ愛する幼児に会いに帰ることにする。

指揮者は夫婦仲が良くなかった。妻は夫が音楽に係りきりで自分は愛されていないと思っている。それを紛らわすため占星術師と浮気をしている。夫は妻との仲を取り戻すため養子をとることにした。友人が院長をしている孤児院で男の子を気に入り、養子にする。その子こそ米国に渡っていた夫婦がドイツに残してきた幼児であった。

米国からドイツへ戻った女は、孤児院へ我が子に会いに行く。しかし子供は既に養子に出され、幸せな生活をしていると言う。頼まれた院長は一計を考え、女を養子先には事情を隠して子供の世話係りとして住み込ませるよう計らう。

我が子に再会し世話ができて喜ぶ女。しかし真実を我が子に告げられない不幸。誠実な女に指揮者も心を寄せる。しかし指揮者の妻は夫が子供係りに気があると思い、偶然女の夫が犯罪者と知り、彼女を解雇する。
指揮者の留守中、女は自分の子を連れ出しに屋敷に忍び込む。その際に妻はかつてから縁のある占星術師に付きまとわれ心身とも衰弱していた。この偶然が事故というか不幸を引き起こす。

最終的には大団円で終わるものの、真実を隠してわが子の世話係りを務めるとかメロドラマにお約束の設定、現実にはあり得ないが映画では珍しくない偶然が続くなど、いかにも映画らしい映画を見た思いがした。発声映画以来、戦前までで映画のパターンが確立し、それが映画の枠組みとして頭にあることを再確認した。

2015年9月4日金曜日

仮面/ペルソナ Persona 1966

ベルイマン監督による白黒映画。

登場人物はほぼ二人の女性に限られるというかなり実験的な映画。

舞台女優(リブ・ウルマン)は失語症になる。彼女を世話する若い看護婦。この二人の場面が映画の大部分を占める。設定からわかるように喋るのは専ら看護婦。それもかなり饒舌に喋る。
病院でなく海辺の別荘で療養を続ける二人。看護婦が回想する少年との無軌道な行動。それを女優が医師への手紙に書く。看護婦は女優が信じられなくなる。

この映画を心理学的に解釈することも可能である。しかしそういった分析は映画の「正しい」理解を一つにしてしまい、あまり面白くない気がする。

無声映画を見ていると台詞がなくても映画の面白さは十分伝わると思うことしばしばである。この映画では全く逆に、あまりに饒舌な一方の語り。それがなくては何も成立しない映画と思った。

2015年8月31日月曜日

ティボー『ヴァイオリンは語る』 Un violon parle 1947

20世紀前半のフランスの代表的なヴァイオリン奏者ジャック・ティボーの自伝的回想。

ティボーはボルドーの音楽家の息子として生まれた。ティボー自身は最初ピアノを習っていたそうだ。兄弟が何人かいてヴァイオリンを習っていた兄は少年時代に夭折してしまう。兄からヴァイオリンの手ほどきを受けていたジャックは兄の死後、父の前でヴァイオリンを弾き、驚かれる。
 
その後有名なヴァイオリン奏者からも絶賛され、パリの音楽院で学ぶ。とびぬけた才能によって余裕ある順風満帆な生活をしていたわけでない。暮らしのためティボーは場末の音楽団で色々な音楽の演奏をする。それが勉強になったと語っている。

本の題名にあるようにティボー自身はヴァイオリンによって何でも語ることができる、むしろ言語の方が不便だと言っている。いかにも天性の音楽家ならではの言である。

また動物に音楽がわかるのか、効果があるのかと思い、様々な動物の前で演奏を試みているのも面白い。
粟津則雄訳白水社1992

栄光 What Price Glory 1926

ラォール・ウォルシュ監督による第一次世界大戦を描いた戦争映画。無声映画。

二人の米海兵隊員、最初は共に軍曹で後片方は大尉に昇進する。彼らはライバルで特に女を巡って争いをどこでもやっている。映画は中国、次いでフィリピンでの二人の恋の鞘当てから始まる。

第一次世界大戦が勃発する。米海兵隊は参戦後、フランスへ配属される。そこでの宿泊施設である宿屋の若い娘に二人とも惚れる。ドイツとの戦闘命令が下る。激しい戦闘シーン。戦闘後、宿のある町へ戻り娘との再会を喜ぶ。二人とも相手を出し抜こうとする。

アメリカ映画らしく娘を巡る二人の競争はユーモアがある。恋の場面と冷酷な戦闘シーンとの対比が特徴である。何度か戦闘、娘を巡る競争の後、最後にもう帰って来れないのでないかと娘が危惧する中、二人は揃って戦闘へ向かう。
まず無声映画として制作された後、音響効果を入れた版ものち公開されたそうだ。