2015年1月30日金曜日

若さま侍捕物帖鮮血の人魚 昭和32年

大川橋蔵主演による深田金之助監督の総天然色映画。


島から逃げだす男たち。一人はからくも逃げおおせたようだ。舞台変わって両国の川開きの花火。鍵屋の花火職人が今までにない豪勢な花火を打ち上げる。早々に去る。その彼が死体となって見つかる。検分した若さまは鉄砲で撃ち殺されていることを指摘する。明くる日その殺された職人の親方も殺される。

これらの裏には強力火薬があり、それを入手しようとする悪徳商人一味とそもそも開発した尾張屋敷の画策があった。尾張では乗っ取りを企む藩の重臣が再興をめざす人魚島の一族をたきつけて城を襲撃するつもりでいた。その人魚島の中心の姫が江戸の藩邸から尾張へ戻る。行列は見せかけで姫はお供と巡礼姿で帰郷する。それらを追いかける悪徳商人一味、また若さまも取り巻きの岡っ引きを連れて後を追う。

道中で姫に会った若さまは人を不幸にするような騒ぎは避けるべきと諭す。島に着いた姫と重臣たち。家来に名古屋城襲撃を指示するが姫は躊躇している。この間若さまは療養中の城主に知らせ早々に名古屋城に戻るよう伝える。一方島に着いた悪徳商人一味は火薬を盗もうとするが撃ち殺されてしまう。襲撃を止めようとする姫は重臣たちに取り押さえられるが若さまが助けに入る。鉄砲で狙われる若さま。その時爆発が起こる。岡っ引きが火薬庫を爆破したのだ。若さまは重臣一味を切り捨てる。

大川橋蔵が新吾十番勝負の前に出ていたシリーズの初の総天然色ワイド版だそうだ。

鳳城の花嫁 昭和32年

松田定次監督による大友柳太朗主演の総天然色映画。


大友演じる鳳城の若様の嫁を決めるため大勢の姫様が集められている場面から始まる。どれも気にいらない。自ら嫁を捜しに江戸に行くと城を出る。殿様衣装のまま街道を歩き、茶店では代を支払わず出ていこうとする。田崎潤演じる浪人に払ってもらう。着物を交換し、自らの着物等を売った代金は大部分田崎が懐へ入れる。

江戸で悪徳旗本たちに絡まれていた豪商の姉妹二人(長谷川裕見子と中原ひとみ)を助け、その家に厄介になる。妹は手代といい仲であり彼女は姉と大友を一緒にさせようと企む。お互いに好き合っているものの世間知らずの大友は切り出し方もわからない。物干し台で二人を対面させ、大友が聞きたいことがあると言うので何を言い出すかと思ったら蛸が好きかとの質問。自分は蛸が嫌いで女房になる者が同じ趣味でないと困ると。姉は怒り出す。

国元で殿様が病気になり若様を捜しに家老以下江戸へ出てくる。悪徳旗本たちはこの噂を聞き、姉妹をその若様がお呼びだと騙して二人を自分たちの屋敷に連れこむ。大友は店の者から若様が姉妹を呼んだと聞き、驚いてその屋敷に駆けつける。悪徳旗本たちを成敗して、その場にやって来た家老等から大友こそが若様とわかる。最後は国へ帰る。その際に姉に迎えに来るからと約束していく。

大友の持ち味が世間知らずの若様という設定とうまく合い、よい仕上がりとなっている。中原ひとみの可愛い娘役もいい。映画を見る楽しさを十分味わせてくれる。

任侠清水港 昭和32年

松田定次監督によるオールスター任侠映画。総天然色。



次郎長(片岡知恵蔵)一家は凶状持ちの男を捜している。東野栄次郎演じる一家は次郎長のライバルである月形龍之介演じる親分の指図で匿っている。それがわかり踏み込む。東野を斬ってしまう。自分たちが凶状持ちとなったので一家は旅に出る。知り合いの親分(大友柳太朗)の家に厄介になる。貧乏な大友は借金に出かける。新藤英太郎は自分の惚れた相手を次郎長に取られたので協力を断る。次郎長の妻もやってくるが旅の疲れで寝込む。介抱のかいがあり次郎長一家は旅立つ。その後新藤は大友を斬る。これを知った次郎長は新藤を討つ。

今度は月形の一家と全面的な戦争になりかける。川端で対峙する両一家。そこへ現れたのが市川右太衛門演じる侠客で仲裁する。

次郎長もその後やくざ稼業を見直し、農作等に一家を励ませるようにする。これで次郎長発狂かと噂が広まる。彼は讃岐の金毘羅神宮へ刀を奉納させに森の石松(中村錦之助)を出す。帰りに友人(東千代之介)に会おうと思っていると山形勲演じる親分から誘われ同行すると騙し討ちに会い手傷を負う。東の家にたどり着きた手当を受ける。山形たちが捜しているので錦之助は早々に立ち去る。山形たちに見つかり惨殺される。
これを知った次郎長はいきりたち、自分たちを襲おうと計画していた山形と月形の一家と斬り合い彼らを成敗する。

知恵蔵が主演で右太衛門の出演時間はわずかであるが、重厚な役どころを演じているのは『赤穗浪士天の巻地の巻』と逆。若手のうち錦之助が石松役でひょうきんさを持ち合わせながらいい役を演じている。千代之介や橋蔵は脇役であまり出番はない。

2015年1月29日木曜日

赤穗浪士 天の巻 地の巻 昭和31年

 
松田定次監督による忠臣蔵映画。東映は何度も忠臣蔵を映画化しているが、これは初の総天然色映画だそうである。
何しろ最初から討ち入りまで一つの映画でやるとしたらどう工夫して収めるかの問題が出てくる。この映画は151分と長尺であるがそれでもあっさりしている感はどうしても出てくる。
また忠臣蔵と言えば誰がどの配役かが関心であろう。大石内蔵助は市川右太衛門、浅野内匠頭は東千代之介、吉良は月形龍之介である。それでは東映のもう一方の雄、片岡知恵蔵は?立花右近役なのである。内蔵助との睨み合いの場面は迫力があるとされている。

先に書いたように全編を一つの映画としているためシーンの切り替わりが多く、次々とエピソードをこなしていかなければならない。

他の忠臣蔵映画と比べての特色を述べたい。大仏次郎の小説を原作としているため、敵方というべき上杉家の家老千坂(小杉勇)の策謀に結構ウェイトがある。彼に操られ浪士の動向を探る役に虚無的な浪士堀田隼人(大友柳太朗)や泥棒(新藤英太郎)、目明し、女間者。大友や新藤の役は反幕府的であり、特に大友は敵討ち自体に批判的である。浪士たちを義士と見做していない。つまり赤穗浪士の美化に水を差す役割となっている。

時間の制約で、内匠頭の失態続きはあっさり、内蔵助の妻を豊岡へ帰す際の別れの場面はない、女に吉良家の図面を盗ませる話もない、討ち入りも短い、吉良は簡単に見つかるなど。
特に南部坂雪の別れの場面がない。瑶泉院は出てこないのである。正直私見であるが、立花左近の挿話とならんで南部坂は人気があると思うのだが。日本人というは言わなくてもわかってくれるというのが大好きなのである。

逆に省略の多い内匠頭切腹の際の片岡との田村邸の別れはあった、これは記憶に残った。
最後の場面は浪士たちの凱旋行進で多くの映画と同じ。

2015年1月28日水曜日

歌舞伎十八番 鳴神 美女と怪龍 昭和30年

吉村公三郎監督による歌舞伎を元にした白黒映画。



江戸時代の小屋で歌舞伎を演じているところから始まる。そこから劇中劇となって過去の時代へ戻る。雨が降らず農民たちは暴動を起こそうとするまでになっている。これは天皇に世継ぎができるよう祈祷した鳴神上人が、約束を破られ復讐として龍神を閉じ込めたためである。宮廷では対策を喧々諤々と議論している。漢文の巻物を解読すれば法力は解けるというが学者でも読めない。そこへ雲の絶え間姫(乙羽信子)が自分なら読めると言い出す。その代わり意中の人(東千代之介)と結婚されてくれと頼む。明くる日読めと言われ、宮廷でなく上人のところで読み法力を解くと答える。山へ登り上人へ会いに行く途中、巻物はあっさり谷に捨てる。あんなもの読めないし読んでも法力が解けるわけでないと言う。

山に籠っている上人とその弟子二人。弟子は侍女に任せ、自ら上人へ近づく。色仕掛けで迫ろうとするのである。すっかり女の術中にはまり酔った上人は注連縄を切れば解けることまで話してしまう。夫婦の杯を交わし上人が寝ている途中に小刀で縄を切る。たちまち龍神が現れ洪水のような大雨になる。

色仕掛けで堅物を誑し込むという古今東西に見られるお話である。元々の筋がそうなのだから、かなり笑える作りになっている。怪龍がいかにも作り物の龍でよい。特撮映画のような怪獣では困る。ジャケ写は千代之介が主であるが、主人公は乙羽と上人である。

2015年1月22日木曜日

江戸っ子判官とふり袖小僧 昭和34年

片岡知恵蔵と美空ひばりによる時代劇、沢島忠監督による総天然色映画。


知恵蔵が遠山金四郎、振袖小僧をひばりが演じる。振袖小僧は義賊なのだが、名を騙る悪党一味は強盗殺人を働き小僧は役人に追われる。逃げ込んだ料亭で遊んでいたのは仮面を被っていた金四郎。一喝をくらい小僧は逃げ出す。江戸は危ないので子分らと旅に出る。そこで遭遇したのは変装した金四郎。彼から子分は掏ろうとして失敗する。宿屋で寝ると小僧たちは金四郎をコケにする夢を見る。江戸から目明したちが小僧を追ってくる。また女掏りの思い込みで金四郎が小僧とされてしまう。新婚の二人連れの笠を盗み、新婚に成りすました金四郎と小僧。悪徳高利貸しから証文を盗み焼き捨てる。金四郎と小僧は来年、日本橋で会う約束で別れる。当日小僧が待っていると目明しがやってきて捕まる。更に遠山奉行の登場。小僧は彼が遠山奉行と知って驚く。奉行所で裁きを受ける小僧。ここで金四郎がもろ肌脱いで桜の刺青を見せ、啖呵を切って真相がわかる。

以上の話は劇中劇となっている。最初の場面で入牢した脚本家が振袖小僧や名主の前で話を聞かせるのが本編である。話終わって振袖小僧は役人から呼ばれ、牢から出ていく。

この話は再映画化だそうである。最初驚いたのはこの牢の中で劇中劇が語られる、最後に主人公が去っていくという構造はミュージカル『ラ・マンチャの男』と同じということ。

かなりユーモアを織り込んだ作りである。映画中に聖心出身とか言うセリフが出てきてミッチーブームの頃とわかる。
それにしても時代劇では大見得を切る場面がよく出てくる。本編のように歌舞伎出身の主人公だとそうなるのだろう。今、見ていると恥ずかしくなるくらいである。

2015年1月20日火曜日

新吾十番勝負第一部第二部総集編 昭和34年

大川橋蔵の代表作の第一作と第二作の合併版である。監督は第一部が松田定次、第二部が小沢茂広。総天然色。



福井鯖江で藩主の行列に飛び出した商人が手討ちにされる。商人の娘(長谷川裕見子)と番頭(岡田栄次)は藩主に敵討ちを試みるが失敗する。娘は藩主のものになる。番頭は剣の道を磨くため侍(山形勲)について修行する。藩主は紀伊に移り徳川吉宗となり、娘との間に生まれたのが後の新吾である。復讐を狙う元番頭は幼い新吾を誘拐する。自らと山形は道場で新吾を育てる。成長した新吾が知り合いの娘を助けるため黒田藩の侍を切り同藩に捕らえられる。将軍吉宗(大友柳太朗)と奥方は新吾の生存を知り喜び対面を希望する。これが悪老中の奸計によって邪魔されそうになる。新吾はこの悪老中を斬り捨てる。そのため親子の再会は叶わず、その代わり新吾が諸国を自由に通行できる手形を吉宗は出してやる。

第二部ではやくざ連中が道場で剣を習っている。鹿島神宮祭礼警固のためであったが悪代官と組んだ相手方のやくざにやられる。鹿島神宮へ駆けつけた新吾は悪やくざ供を蹴散らし、この祭礼に来た輿の中の母親と目を合わせた。一方新吾の育ての親である師匠(山形勲)はかつてからの敵である月形龍之介と斬り合い失明する。この治療のため新吾は師匠を連れて大阪へくる。治療ができない前に再び月形と斬り合った師匠は斃れる。その死骸を前に新吾は月形打倒を誓い、自ら剣士としての目標とする。

総集編なので省略は仕方ないが、見ていて矛盾を感じるところが出てくる。

主演の新吾を演じる大川橋蔵は文字通り美男剣士。いかにも強そうな相手方、月形龍之介もよい。映画の出来とかでなく、ともかくお目当てのスターを楽しんで見れた当時が羨ましい。

2015年1月17日土曜日

千両獅子 昭和33年

市川右太衛門主演で内田吐夢が監督をしている。将軍落胤ものだがひねりが見られる。総天然色。


江戸の裕福な商人を荒らす強盗団の首領は葵太郎と名乗る。将軍の落胤と自称している。この葵太郎の正体は旗本(市川)でないかと奉行は疑う。彼も落胤なのである。市川は悪徳商人に妾にされそうになった姫を救う。この姫は市川と婚約が予定されていたが救ってくれたのが彼とは気がつかない。実は葵太郎は旗本の兄であったのだ。出生後捨てられた葵太郎は幕府に対する恨みから強盗となった。旗本と葵太郎は市川右太衛門の一人二役である。最後は葵太郎は実の母親を、旗本は姫を得てハッピーエンド。

葵太郎は強盗を働き、いくら悪徳商人等とはいえ殺人もしているのである。無事に南洋に向け出帆できるのはおかしくないのだろうか。
兄弟でありながら天と地の境遇に育つ、という話はよくある。それを将軍落胤ものと結びつけた物語である。上に述べた処理は気になった。

快傑黒頭巾 昭和33年

高垣眸原作の小説を戦後、大友柳太朗主演で9作撮影した。これは7作目で初の総天然色映画。監督は松村昌治。

普段は普通の町人でいるが、変装して正義の味方となるお馴染みのパターン。ここで主人公は長屋に住む占い師及びその弟に成りすましている。変装すると黒頭巾で白馬にまたがり二丁拳銃をぶっ放す。

話は西洋の新式銃の設計図を巡る討幕派と幕府間の奪い合いが筋。この設計図を解読するため蘭学者(志村喬)が必要であり幕府方は誘拐する。その同僚の子供、3姉弟の真ん中の男の子を松島トモ子が演じる。彼女が劇中快傑黒頭巾の歌をうたう。

いかにも昭和30年代前半あたりに、テレビでやっていた子供向けの番組の映画版。
こういう映画で客を呼べた古き良き時代が懐かしい。

2015年1月14日水曜日

旗本退屈男 昭和33年

ご存知市川右太衛門演じる退屈男、右太衛門の出演300本記念のオールスター映画。松田定次監督の総天然色映画。


舞台は仙台伊達藩、退屈男早乙女主水之介は妹や町人(錦之助)その他取巻き連を引き連れて藩の動向を探る。藩主(片岡知恵蔵)が女狂いしており、息子の幼い世継ぎは奸計により発病する。この裏にはお家乗っ取りを企む同族と悪家老連中がいた。話はこの世継ぎを守る侍女、あくまで主君に仕える忠臣(大川橋蔵)たち、家老等に操られ主水之介を討とうとする忍者たち(大友柳太朗、東千代之介)、全体を見守る家老(月形龍之介)その他が入り乱れて進む。

最後に事情がわかるものの、主水之介はその取巻きを使ってむやみに伊達藩を詮索する。こんなことできるのかと思った。退屈男とは退屈を紛らわせるため手下を好きなように使える男なんだと見ていた。知恵蔵の藩主は忠臣蔵の大内内蔵助と同じ設定か。

最初に述べたように記念オールスター映画で、有名俳優にそれなりの役をつけるために筋を複雑にしている嫌いがあった。右太衛門の着物がどの場面も変わっていることを見る映画だろう。

2015年1月12日月曜日

大地の侍 昭和31年

維新後の武士たちによる北海道の開拓物語。佐伯清監督の白黒映画。


東北の一藩は維新戦争で幕府方についたため新政府後、領地がなくなった。北海道なら開拓地を割り当てるという。家老(大友柳太朗)の進言で若い領主(伊藤久哉)は有志の部下と北海道へ開拓のため渡る決心をする。割り当てられた土地は不毛の地で、苦労するが作物は期待できないとわかった。もっと肥沃な地に替えてもらおうと開拓使へ陳情に行く。これには家老の頼みで領主も足を運んだ。担当の役人(山形勲)は簡単にできないが、希望する替地は未踏であり測量をすれば可能性はあると言う。家老一行は苦労してその地まで辿り着くがこの踏査で、新婚間もない部下の一人(加東大介)は命を落とす。

藩から引き連れてきた家族の中、特に妻たちは、見通しのつかない新地での苦労や連れ合いの落命で嫌気がさしてくる。逃げ出す妻も現れた。

新しい土地で新道建設のための土木工事を請け負う。土木工事など武士の仕事でないと部下は最初不満をこぼしていたが文句を言っていられる場合でない。仕事を取られた地元の業者たちは反感し様々な嫌がらせや邪魔をする。

最初引き連れてきた家族だけでは新領地開拓に足りない。領主、家老は帰郷し新しい移民を募ることにする。帰郷すると昔の藩主には華族の称号が贈られることになった、未開地の苦労など必要ないと諌める部下がいる。領主は自分には華族の称号などより部下との開拓を選ぶと言う。

中々領主や家老が戻ってこないので北海道では見捨てられたのではないかと疑心暗鬼を生ずる。開拓移住を故郷で募ってもわずかしか応募してこない。更に出発直前の脱落者も出てくる。開拓地の者たちが心配しているであろうと帰還を知らせる手紙を出す。しかしこの手紙は北海道の宿で冬のため放置されそうになった。その時かつて開拓地から逃げ、今ここで女中をしている女が聞きつけ自ら届ける。最後はやってくる新規開拓者連を遠くに見つけ歓喜する。

北海道に明治以降、内地から多くの者が開拓へ向かった。実態を描いた映画は初めてで興味を持ってみた。この映画に描かれているように「改易」で行かざるを得なかったのか、あるいは何らかの自発的理由その他で行ったのか、調べてみないとわからない。
この話では意志が強く統率していく家老のほか、若い領主が極めて物わかりがよい設定となっているが、苦難が次々と襲ってくる。いずれにせよ現実の開拓でも多くの苦労が伴ったのは想像に難くない。

2015年1月10日土曜日

水戸黄門 昭和32年

月形龍之介演じる水戸黄門はシリーズとして10作以上作られたが、これは彼の俳優生活38周年記念の東映オールスター映画。総天然色である。



 水戸黄門は江戸近在で人々が野良犬の被害に苦労しているのを目撃する。聞けば将軍綱吉のせいとわかる。綱吉あてに犬の皮を剥いで送る。送られた綱吉(片岡知恵蔵)は驚くが黄門の諌めを理解しあっさり憐みの令を撤回する。

話の主要部分は越後高田藩のお家騒動である。家老の一人が乗っ取りをたくらむ。それを阻止しようとしたもう一人の家老(大河内傅次郎)は江戸幕府の裁定で島流しが決まる。これは悪徳家老の幕府老中への買収による。これに使われたのが藩の若い女性、江戸詰めの藩士(大友柳太朗)との婚約を解消されて藩から江戸へ送られてきた。事情を知った黄門の指令により助格は二人を助ける。女を捜してきた役人連は黄門の葵の印章を見せらせひれ伏す。

正義派の藩士たちの中心が市川右太衛門、それを助けるスリの中村錦之助。彼は悪徳家老の藩への乗っ取りの手筈を指示した手紙を盗み、黄門に渡す。黄門はこの手紙を携え、将軍綱吉に面談を申し込む。すっかり事情を知った将軍は自ら高田藩の騒動の裁定を行なうと言い出す。これにより悪徳家老は切腹を申付けられる。残党と幕府老中は黄門一党を闇討ちしようとするが反対に成敗されてしまう。

オールスター映画であって(助格を東千代之介、大川橋蔵)次々登場するスターを見ていればいいので映画としての出来を云々してもしょうがない。この映画が上映された当時は観客は楽しんで見ていただろうと想像される。

気になったのは月形38周年記念というがなぜ38周年なのか。30年とか40年のような切りのいい数字ならわかるが。
また黄門の話でいつも思うのは葵の印章(この映画では印籠でなく袋)を見せられてなぜ簡単に役人どもはひれ伏してしまうのか。偽の印章などいくらでも作れるのではないか。
「この方をなんと心得ておられる。天下の副将軍、水戸の御老公なるぞ」
「なんだと馬鹿ぬかせ。御老公の名を騙る不届き者め、成敗してくれるわ」
「ギャー!」
と言って黄門が成敗される映画を誰か作ってくれないか。

黄門神話、願望によって日本人の心情を分析するのは興味深い。簡単に論じられないのでまたの機会に検討したい。

2015年1月9日金曜日

田園交響楽 La Symphonie pastorale 1919

ジィドの有名な小説。盲目少女と牧師の物語。


村の牧師である語り手は孤児の盲目の少女を引き取る。言葉もろくに喋れない。この少女を自らの理想に沿って育てようとする。男が理想の少女を作り上げたいという願望を持つことは多いのか。文学でも光源氏の若紫を初めとして近代ならショーのピグマリオン以下いくらでもあるだろう。一から育て上げ、しかも盲目。これほど都合のいいことはない、と言って悪ければ理想的な状況であろう。知識欲があっても本を読ませないようにする牧師、自分の理想から離れてしまう危険があるから。この本は牧師の手記という体裁なので、凡て自分のやっていることを宗教的な観点から弁明しているが、読者は彼が偽善者にしか見えない。

美しく成長した娘に恋心を抱くようになる。実の子供は多く元々妻はいい顔をしていなかったのに加え娘に嫉妬する。息子のジャックも彼女に恋をするようになる。それを知った牧師はきれい事を言って離させる。少女自身も自分に献身してくれた牧師に感謝にとどまらず彼のみを愛していると告白する。

題名の田園交響楽は音楽会に連れていって聞かせた曲。その後あんなに見える世界は素晴らしいのか少女が尋ねる。目の見えない世界で想像した現実、それの比喩であり実際は異なることを知らされる。

少女の目は手術によって見えるようになる。現実が見えるようになったため悲劇となる。悲劇の原因は何か。妻の嫉妬を知ったこと、また真実自分が愛していたのは牧師でないとわかったこと、これが答えなのだが正直あまり納得できないだろう。そういうことを詮索する作品でないのだろうが。

映画ファンには戦前の若き日の原節子が演じた、山本薩夫監督の映画が懐かしい。自分が初めてみた戦前の原節子の作品であり、それも山本監督であって少し驚いたことを覚えている。
新庄嘉章訳、河出書房

わが半生 My early life 1930

チャーチルが56歳のとき著した若き日の自伝である。イギリス帝国主義の体現のような人物であったとわかる。


彼は貴族であり政治家であったランドルフ・チャーチルの長男としてブレナム宮殿に生まれた。ハロー校へ通う。自伝ではラテン語等の古典語や数学に対する嫌悪が書いてある。英語等を除けば全般的に成績が悪かったようだ。士官学校に行き軍人となる。

1874年という大英帝国の全盛期に生まれ、第一次世界大戦を経験した後に書かれたこの自伝で、かつての19世紀の戦争を懐かしがっている。ともかく若き日のチャーチルにとって戦争とは、まるでスポーツ選手が出たいオリンピックのようなものであった。戦争大好き人間であった。戦争は職業軍人の名誉ある戦い、騎士道華やかなりし頃の戦いと同様であった。それが第一次世界大戦では婦女子をも総動員した殺戮戦に堕してしまったことを憤慨している。

前期のように学校の成績は悪かったが文筆は冴えていた。多くの戦いで報道の特派員として報告を本国へ送り、それが彼の主な収入源となった。政治家になったのだから当然であるが、目立ちがりやであり自分の言動を正当化、美化する。これがジャーナリストとしての活動とあわせ、軍人として多くの上官に疎まれた。自伝を読んで理解できる。

戦争の体験談が多い。なかでもボーア戦争という世紀の変わり目に南アフリカで行われたイギリスとボーア人(当地へ入植したオランダ人等欧州人)との戦争で捕虜になり、そこからの脱出談は小説のようだ。
また白人やイギリスに対する絶対的な誇りをもっていた。インド人など有色人種への現代なら差別意識と呼ばれるものを当然視していた。

現在の我々はチャーチルがいかに偉大な20世紀の政治家であったかを知っている。好戦家であったが故にナチスドイツを倒せた。ただ彼の活動期にイギリスはかつての大英帝国から没落していった。時代の流れである。チャーチルほど大英帝国絶対主義に生きた男はなく、その彼がそのような時代を迎えねばならなかったのは皮肉と言えよう。
中村祐吉訳、中央公論社

狭き門 La Porte étroite 1909

アンドレ・ジィドの小説。何十年ぶりかの再読。

主人公ジェロームの回想録という形をとる。彼は従姉のアリサを好いている。片思いではない。お互いに好き合っている。周囲も結婚するものと期待している。しかしながらアリサは神に対する愛が強く結婚にふみきろうとしない。最後は小説によくある死をもって終わる。その後の部分はアリサの日記になり、主人公に代わってアリサの側からみた告白となる。そこでもジェロームに対する愛は語られている。しかしながらそういった地上の愛を選ばなかった。

以上のような物語なのだが、別に楽天的なアメリカ映画的な感覚で批判しようとするまでもなく、なぜ結婚できないか突っ込みたくなる。いくら信仰が強いといってそれが男女間の恋愛や結婚に妨げるものなのか。理屈だけならそう思わないか。ただし理屈と実際の行動は別である。好きな人がいながら結婚できなかった人は昔は特に多かった。これが共感できる理由の一つであろう。

それにしても神(キリスト教)への信仰で悩むとは日本人には縁のない世界である。平気で神の問題とかのたまう人が多いが本当にわかって(感じて)いるのか。そういう日本人にはわからない世界を描いているからこそ余計魅力的に思えたのであろう。

ジィドは本当に人気があった。新潮文庫で非常に多くの作品が出されていた。今はほとんど絶版である。かつて日本人に支持された理由がわかったような気がした。
新庄嘉章訳、河出書房