2014年8月28日木曜日

不均衡動学の理論

岩井克人が岩波のモダン・エコノミックスの一冊として昭和62年に出版した本。元々彼が英語で出版した”Disequilibrium Dynamics”の日本語版であり、日本語化にあたって数式等は簡略化したという。それでも簡単に読める本でない。


この著書の面白さは経済学の常識に真っ向から挑戦し、著者としてその考えを示していることである。すなわち現代の経済学の標準的な考え方からすれば経済が正常に機能しているのは価格調整が行われ、経済が均衡に向かう力が働くためとされる。ところが岩井からすればもし調整が速やかに進めば、均衡に向かうどころかハイパーインフレーションや恐慌に陥る。それを防いでいるのはむしろ調整をさせない不均衡な要因のせいであるという。

見えざる手によって市場均衡が得られるというが、その見えざる手のメカニズムとはどうなっているのか、実際にどのように動いているはずか著者はモデルを示している。

いずれにせよ経済学の標準理論が当然視している前提から検討し、通常の理解と全く異なる見方を整然と説明しており、感心させられる。

内容は高度であり咀嚼が十分でないにも関わらず刺激的な著書である。

2014年8月27日水曜日

新しき土

日独共同制作で名高い昭和12年の映画。ドイツの監督がアーノルド・ファンク、日本側が伊丹万作で共同制作と普通言われるが、意見が合わず別々に監督して2つ制作したのだとか。出来栄えはファンクが圧倒的に評判がよかったそうだ。今回見直したのは日独語併用版でファンク監督のもののようだ。


今日この映画の価値は原節子、デビュー間もない1617歳ごろの姿を見られることか。
ドイツがこの映画を作ろうとしたのは同盟国の日本の紹介という意図があった。そのため外国人の目からみたエキゾチックジャパンの映画となっており日本人が見ていると呆れる設定、場面が次から次へと出てくる。批判するより面白いと思ってしまう。主人公原節子の家の裏が安芸の宮島であり鹿がいて、また富士山も近くにある。その他日本の名所を映すのだが、もうばらばらの寄せ集めである。紡績工場の場面ではむやみにMADE IN JAPANという文字が繰り返し出る。同盟国は産業も発達しており、珍奇なだけでないとドイツ国民に知らせるためか。

全体のあらすじは次の通り。
欧州に留学していた小杉勇が帰国する。知り合いになったドイツ人の女性ジャーナリストも同行している。小杉は洋行の費用を出してもらった養父の早川雪舟に義妹の原節子との婚約を解消したいと言い出す。洋行してすっかり西洋かぶれになった小杉は自由を論じ、ドイツ人の女性に惹かれているのである。この女性は金髪の典型的な西洋美人で小杉より背が高い。小杉勇は頑丈な感じだが田夫野人にしか見えず、当時の日本にはもう少しましな俳優はいなかったのか。父親役の早川はさすがに堂々としており見栄えがする。最後では火山に婚約解消で絶望した原が身投げをしようと登るが小杉に救助される。二人は新しい土である満州の開拓に励んでいるところで終わり。

映画そのものとしては傑作と言い難いが今日の目でみると面白いと言ってよい。


2014年8月25日月曜日

セックス・チェック第二の性

題名だけをみると何か妄想してしまうのではないか。そういった効果を狙った題名であろうが、実際はスポーツ根性ものの体裁をとった怪作である。


増村監督の昭和43年の映画であり、緒形拳と安田道代が主役を務めている。緒形はかつて名短距離走者、今は落ちぶれて女のヒモになり飲んだくれの生活をしている。その緒形が安田の才能を見出し、オリンピックに出場できるよう鍛える。『ミリオンダラー・べイビー』のイーストウッドとヒラリー・スワンクに対応している。ただし「体裁をとった」と述べたように鍛錬が話の主題でない。女のままでは期待できない。安田をなるべく男に近づけるよう鍛えるのである。元々安田は自分の性が本当に女かどうか悩んでいた。オリンピックや国内の大会でもセックス・チェックが課せられている。受けると驚きの結果となる。最終的な結末は映画でよくあるパターンになっている。

それにしても元になる実話があったらしいが、良くこんな映画作ったものだと思わせる。

2014年8月23日土曜日

ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険


ソ蓮のクレショフ監督が1924年に作成したサイレント映画。
米国のジャーナリストがボリシェヴィキの支配する、生誕まもないソ連へ出かけそこで経験する出来事。


全体のあらすじは次の通り。
ウェスト氏はボリシェヴィキに対する当時のイメージから危険で野蛮な国と思っており、ソ連には部下のカウボーイ(のち監督として名をなしてバルネットが演じている)を連れていく。着いてそうそうウェスト氏とカウボーイははぐれてしまい、ウェスト氏はならず者の一味に狙われ、金を巻き上げられそうになる。ならず者たちは(ウェスト氏信じる)ステレオタイプ通りのボリシェヴィキを語って聞かせソ連がだめにされたと吹き込む。カウボーイは知り合いのアメリカ人女性と巡り合い(運よくというか運がよ過ぎ)、ウェスト氏の捜索をする。最後に救出されたウェスト氏は「本物の」ボリシェヴィキを紹介され、モスクワ市内を案内されボリシェヴィキ軍の堂々たる行進を見て祖国へソ連を絶賛する報告を書く。

この年はレーニンが死んだ年であり、最後の行進の場面はニュース映像の流用であるが、トロツキーらしい顔が出てくる。

2014年8月19日火曜日

飛ぶ教室

エーリッヒ・ケストナーの有名な児童小説。学校を舞台にした小説としてはデ・アミーチスの『クオレ』に並ぶ傑作と理解する。


発表があったのは1933年だが、ドイツが舞台で学校のありかたの現在との違いなどこちらは知りようもないので、全く古さを感じさせない。

少年たちの友情とか争い、行き違いなどいつの世も変わらない内容で永遠性を感じさせる。

ところでこの作品初めて読んだのは子供のとき、中学生くらいであったろうか。その際上に書いたような感想をもち、それ以来愛好する小説の一として自分の中で位置づけていた。今回何十年かぶりに再読した。もういい歳になってしまっている。残念ながらかつてのような感激は味わえなかった。歳をとり学校生活があまりに遠い日の思い出となってしまったからか。少年の日に読んで大人になってから読み返すとかつて気がつかなかった良さ、面白さがわかる作品は多い。いやたいていはそうだ。『飛ぶ教室』は子供のとき読んでおく小説だと思った。
 
それにしてもケストナーの小説を読んでいると全くディズニーの映画を見ているような気分になる。『ふたりのロッテ』などは実際に映画にしているし。

2014年8月17日日曜日

愚かなる妻

シュトロハイムが監督・主演として1921年に作成したサイレント映画。


内容はシュトロハイム演じるインチキ貴族が上流階級夫人をたらしこみカネを巻き上げようと算段する話である。

舞台はモンテカルロ、アメリカ公使夫妻が赴任してくる。ならず者の主人公は従妹と協力し、ロシアの貴族に成りすまして、女たらしの手腕を発揮しカネをだまし取ろうと計画する。
召使の女にも空約束の結婚の履行を迫られ閉口していた。そのため最後にうまくいきそうになったところで、この召使が公使夫人との仲を嫉妬したせいで失敗する。その後性懲りもなく以前贋金作りをさせていた男の娘の部屋に忍び込むのだが・・・

この映画の紹介ではむやみにお金をかけて作成したとか(モンテカルロのセットをみんな作ったとか)、出来上がりは6時間か8時間の超長尺になり当時の上映でさえ大幅にカットされ、現在見られる版も100分程度か140分程度のものしかないなどが必ず書いてある。
こういったどれだけ苦労したことも大切だが、やはり映画は出来た作品で評価されるべきであろう。それにしても残っているフィルムを見ているだけでは話が飛ぶと思われるところがあるのは確か。

2014年8月12日火曜日

仮装人物

徳田秋声が晩年というか後期に公表した長編小説である。昭和1013年にかけて発表された。
今どき徳田秋声まだ読まれているのであろうか。日本文学史の中での評価はどうなっているのであろうか。もちろん自然主義を代表する作家の一人とは誰でも知っている。しかし今でも大作家として、つまり現在の読者に読まれているかどうかということである。評論家や文学研究者の関心をひいているかの話でない。

若い時、というより中学生の頃徳田秋声の小説を読もうとした。しかし男女の所帯じみたという言葉がそのまま当てはまる、日常生活をダラダラと描くというまさに私小説のイメージそのものの展開に興味がわかず途中で投げ出してしまった。
 

今度読んだ『仮装人物』は秋声のなかでも初期の私小説らしい地味な作風でなく、もっと読み易い部類に入るのだという。それでも作家を、すなわち自分自身を主人公とした自らの体験に基づいた小説である。しかもそれが妻の死後、若い女性とのスキャンダルで当時はかなり騒がれた、今でいう週刊誌ネタになった事件をもとにしている。自分はこのスキャンダル最近知った。相手は作家志望の若い女性で押しかけ弟子、結婚して子供までいるのに作家志望がやみがたく、家庭を放り出して秋声のもとへ転がり込む。女性の弟子志望者が押しかけることは明治以来珍しい話ではないであろう。
ところがこの女性、山田順子(ゆきこ)は類まれな美貌の持ち主だったのである。そのとき秋声の妻が亡くなった時であり、それを狙ってきたのかもしれないが、二人は愛人関係になる。秋声はすでに名を成した大家であり、しかも中年、相手は艶やかな美人であったのでマスメディアがほうっておくわけがなく、散々騒がれたとか。山田は秋声との関係のあと、画家の竹久夢二と関係をもち、その美貌によって世渡りをしていったのである。もちろん作家志望といったが幾つかの小説は書いており、当時は雑誌等に掲載されたのである。これも彼女の美貌を武器にした賜物であろう。ともかくその男性遍歴によって文学史に名を残している女流作家なのである。
この『仮装人物』は秋声が愛人と別れてからその当時を題材にしたものである。以上の事情を知って読んだのでその分興味深く読めたのかもしれない。小説そのものは秋声の作であり大波乱のロマンスではなく、淡々と話が進んでいく。

なお相手の山田順子については吉屋信子の『自伝的女流文壇史』(中公文庫、初出は昭和30年代半ば)に章があり、より詳しくわかる。吉屋信子は少女小説のイメージしかなかったが、この本は取り上げている他の女流作家の評伝も面白く見直した。

2014年8月10日日曜日

文明の生態史観 インドで考えたこと

両者とも今や古典と言ってよい。終戦後約10年たった時点、昭和32年に梅棹忠雄著『文明の生態史観』は中央公論に、堀田善衛著『インドで考えたこと』は岩波新書として出た。


共に再読である。『文明の生態史観』は今回も前回同様中公文庫で読んだ。ただ版は変わっており活字も読みやすくなっていた。

久しぶりに読んでこの両著は似ていると思った。すなわち外国の中で、欧米先進諸国以外の国々への喚起である。

今なら当たり前である。経済的にも近隣のアジア諸国や石油を産出する中東は今日の多くの人の関心をひいており、重要な国々である。しかしこの時点、いやその後も、また明治以来も日本にとっては外国といえば欧米先進諸国しか念頭になかった時代が続いた。日本をより豊かにすることが目標の時代、西洋以外の外国を考える余裕がなかったのである。

それをこの両著は世界には目を向けるべき西洋以外の国々がある、と訴えたのだ。

だから正直いって例えば『文明の生態史観』を今読むと常識的なことしか書いてないようにさえ見える。それにこの著は随分議論の進め方が雑である。「・・・らしい」とか「・・・ようだ」といったふうに実証をせずに思いつきを並べている。今だったらこんな文章はいくら総合雑誌の評論とはいえ許されないし、書く人もいないだろう。
 

『インドで考えたこと』は作家の堀田がアジア文学者会議出席でインドに行ったときの印象記である。インドの実際やその他のアジア人と触れてさまざまな戸惑いを感じる。これは同じアジア人同士だから西洋人よりは理解し合えるはずという思い込み、岡倉天心の政治的スローガンを「べき」論でなく事実と思い込んでいることから生じる混乱である。
いろいろ批判したが両方とも現在読んでも、当時の著者たちの意図や思いは実感できる。日本が発展するなかで通らなければならなかった経験である。

2014年8月9日土曜日

生恋死恋


『霊魂の不滅』で有名なスウェーデンのシェストレムの映画である。
1918年の制作でより初期の作品。


全体のあらすじは次の通り。
アイスランドで未亡人女地主が牧場をきりもりしている。南部から見知らぬ者がやってくる。頼みで雇う。ところがその者が脱獄囚とうわさになる。未亡人が本人に確かめるとやはりかつて餓えから盗みを働き、捕まったが脱獄してきたと打ち明ける。お互いに好き合う仲になっていた二人は男が逃げるとなると未亡人も牧場を捨てて山についていく。
何年か平和に暮らし二人の間には娘まで出来ていた。しかし追手がやってきて幼い娘を犠牲にして逃げるしかなかった。遂には吹雪に閉じ込められ惨めな最後を遂げる。

凡てを犠牲にして恋を貫いた者の悲劇を描いている。ハッピーエンドと真逆で終わる作品で昔の映画ならではの、見る者に直接に訴えかける。

2014年8月7日木曜日

クウレ・ワムペ(Kuhle Wampe)


ドイツの戦前の映画である。1932年の作品。『三文オペラ』のブレヒトも制作に関わったそうである。発声映画(トーキー)である。


女主人公アニーを演じたヘルタ・ティーレは『制服の処女』の主役も務めた。

作成年代からわかるように世界恐慌の只中の作品である。当時のドイツの苦境に対する主張を織り込んだ左翼映画とされている。

全体のあらすじは次の通り。
若い男たちが職を求めてベルリンの街中を自転車に乗って駆け巡る。その中の一人、アニーの兄弟は絶望し窓から身投げする。家賃も払えず追い出された一家が着いたのは共同居住地のKuhle Wampe(クーレ・ヴァンペ?)である。ここへはアニーの恋人フリッツの助力があった。アニーが妊娠するとフリッツは結婚したくないと言い出す。アニーは女友達の申し出で運動会に参加することにする。それがニュース映画的に俯瞰的にさまざまに撮られている。最後は通勤電車の中で乗客同士の議論の場面。ブラジルのコーヒー廃棄から始まって討論になる。その部分が結構ある。西洋人の議論好きは承知だが見知らぬ乗客同士でこんなに実際に議論するものなのだろうか。客の一人が「誰がこの世界を変えられるのか」と言う。答える「不満のある者だ」
少し驚いたのは電車が満員なのである。日本以外でも満員通勤電車があるのだ。今のドイツはどうだろう。席は伝統的に4人の向かい合わせで、立っている人が詰めている。

制作年の明くる年がナチスの政権獲得時であり、長い間お蔵入りになっていた。比較的最近になって見られるようになった。
ナチス直前のドイツでこういう映画が作られていたのだ。ともかく歴史的価値はある。