2014年8月10日日曜日

文明の生態史観 インドで考えたこと

両者とも今や古典と言ってよい。終戦後約10年たった時点、昭和32年に梅棹忠雄著『文明の生態史観』は中央公論に、堀田善衛著『インドで考えたこと』は岩波新書として出た。


共に再読である。『文明の生態史観』は今回も前回同様中公文庫で読んだ。ただ版は変わっており活字も読みやすくなっていた。

久しぶりに読んでこの両著は似ていると思った。すなわち外国の中で、欧米先進諸国以外の国々への喚起である。

今なら当たり前である。経済的にも近隣のアジア諸国や石油を産出する中東は今日の多くの人の関心をひいており、重要な国々である。しかしこの時点、いやその後も、また明治以来も日本にとっては外国といえば欧米先進諸国しか念頭になかった時代が続いた。日本をより豊かにすることが目標の時代、西洋以外の外国を考える余裕がなかったのである。

それをこの両著は世界には目を向けるべき西洋以外の国々がある、と訴えたのだ。

だから正直いって例えば『文明の生態史観』を今読むと常識的なことしか書いてないようにさえ見える。それにこの著は随分議論の進め方が雑である。「・・・らしい」とか「・・・ようだ」といったふうに実証をせずに思いつきを並べている。今だったらこんな文章はいくら総合雑誌の評論とはいえ許されないし、書く人もいないだろう。
 

『インドで考えたこと』は作家の堀田がアジア文学者会議出席でインドに行ったときの印象記である。インドの実際やその他のアジア人と触れてさまざまな戸惑いを感じる。これは同じアジア人同士だから西洋人よりは理解し合えるはずという思い込み、岡倉天心の政治的スローガンを「べき」論でなく事実と思い込んでいることから生じる混乱である。
いろいろ批判したが両方とも現在読んでも、当時の著者たちの意図や思いは実感できる。日本が発展するなかで通らなければならなかった経験である。

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