2020年6月30日火曜日

江戸川乱歩『闇に蠢く』 大正15年~昭和2年

乱歩が初めて挑んだ長編小説だそうだが、怪奇趣味が勝っている、後の諸長篇に比べてもその猟奇性は驚くばかりである。

画家の野崎は気に入った踊り子を連れて長野県の旅館に行く。踊り子は何か心配事があるようで、またその旅館も不自然な気配がある。踊り子は行方不明になる。底なし沼に落ちたらしい。
この踊り子の素性を調べる。野崎の友人の植村という男も、浅草の踊り子だった当該女を知っていた。女には進藤という胡散臭い男が付きまとっていた。友人植村も進藤も信州の旅館に来る。新藤は旅館の主人を知っているらしい。野崎が主人に聞くと新藤はかなりの悪人だという。外に出た野崎と植村は洞窟に閉じ込められてしまう。出ようと努力するが無理のようである。更に後になって、上の穴から新藤が落ちてくる。新藤から凡ての悪事は旅館の主人によると分かった。その後、三人は洞窟から脱出しようと死に物狂いになる。
飢餓に苦しむ三人は恐るべき行為に及ぶ。運よく出られた野崎は、主人を追い、最後は地獄絵となって小説は終わる。

これほど悪趣味、では言い表せない作品は、乱歩の中では『盲獣』以上かもしれない。

飢える魂、続飢える魂 昭和31年

川島雄三監督、日活、79分、96分(続篇)、白黒映画。
丹羽文雄の小説がラジオドラマ化され、更に映画化されたもの。続篇とは映画の後半といった感じで、全体で一つの話。当時は映画一本の長さはあまり長くなかったので、分けたのであろう。

三橋達也と南田洋子の恋愛物語が主であり、平行して轟夕起子、大坂志郎の関係も進む。
南田は20歳以上年上の男(小杉勇)と結婚しており、小杉は典型的な自分本位の男で、妻など省みない。ある日小杉と同業(不動産)の三橋に会う。三橋は南田をすっかり気に入り、積極的に南田に迫る。
また轟は未亡人で兄妹の二人の子供がいる(大学生を若き日の小林旭が演じる)。大坂志郎は病弱な妻がいるが、以前より轟を好いており、轟一家にも入り浸っている。子供たちは大坂が母を好いているのは知っているものの、再婚相手になって欲しくないと思っている。

徹底的に利己主義の夫と比べて、三橋に南田は惹かれる。しかし離婚して再婚は恐ろしく困難に思える。また轟は大坂を憎からず思っているが、最終的には子供のことを考え、大坂の妻の死後、大坂との関係は断ち切る。日本では子供のためという理由は、水戸黄門の印籠のごとく有無を言わせぬ。
三橋は過去の女との関係を清算し、南田も思い切って離婚を要求するつもりでいた。しかし過去の女が破壊要因となるのは若尾文子の『女の小箱』と同じである。

通俗小説であるから、嫌われ役は徹底的に不快な人物として出てくる。
この映画より三年前の『君の名は』に似ているところは、日本全国の観光地を舞台にしてその紹介を兼ねているのも挙げられる。

2020年6月29日月曜日

ゴーリキー『どん底』 На дне 1902

ゴーリキーによる四幕の戯曲。
木賃宿を舞台にそこに住む人々が織りなす群像劇。

様々な登場人物が盛んに管を巻いているような劇であり、主人公などはいないと言っていい。山場としては、宿主夫妻の妻が夫を片付けたく、若い男に頼んで夫を始末してもらう。それは二人一緒になる約束だった。しかし夫が殺されると、妻は若い男が殺したと叫び、男が言い寄っていた妻の妹は、男と姉の罪をあばく。これで妻と男も捕まる。
またこの宿に来た巡礼のルカという老人はみんなに生き方を教え、肯定的な人物として描かれる。

非常に有名な劇であり、なぜこの劇の名が自分にとって耳慣れているか良く分からないほどである。しかし実際に檄を読んでそれほど感銘を受けなかった。
戦前にルノワール(1936)、戦後に黒澤明(昭和32年)と巨匠たちが映画化している。本書読了後、黒澤の映画を久しぶりに観直したが、これまた黒澤映画としては面白味を感じなかった。
神西清訳、河出書房世界文学全集第37巻、昭和37

2020年6月28日日曜日

ツルゲーネフ『ルージン』 Рудин 1857

ツルゲーネフの長篇第一作。主人公ルージンは、もっともらしい議論で周囲を感嘆させるが、実行力はない。ロシヤ文学の典型的人物の一つである「余計者」を描いた小説である。

田舎の女地主宅に集まっている人々、新しく参入したルージンは単に嫌味ばかり言っている男をへこまし、説得力ある理屈を展開して人々を魅了する。
その家の娘であるナターリアに恋の告白をする。女もその気になるが、母親はそれを知って娘を厳しく諫める。ルージンとナターリアは二人で会う。ナターリアが母からもう会うなと禁止されたと告げる。ルージンはそれなら仕方ないと答える。娘は自分を攫っていってくれると期待していた。二人は別れる。
後日談もそれなりにある。最後はパリの革命騒動に参加してルージンは命を落とす。

妨げられた恋の打開策の男と女の対応は、『けむり』と正反対である。本編のほうが女の役割としては良く聞くであろうか。
工藤精一郎訳、集英社世界文学全集第37巻、1978

ツルゲーネフ『けむり』 Дым 1867

ドイツの保養地を舞台に、かつての恋人との再会がもたらす顛末。
1862年、ロシヤの上流階級が多く集まっているバーデンバーデンにリトヴィーノフは来る。婚約者のタチヤーナが来るのを待っている。ロシヤ人たちは議論にふけり、リトヴィーノフはあまり議論に参加しない。その中でポトゥーギンというロシヤ人とは会話を交わす、というかその男の議論を聞く。ポトゥーギンは西欧派でロシヤの遅れた面を容赦なく指摘しけなす。

リトヴィーノフの昔に小説は移動する。落ちぶれた公爵家の令嬢イリーナを好きになり、相手からも好かれる。婚約する。両親はリトヴィーノフが平民なので歓迎しないが、娘が望んでいるのでやむを得ないと思っている。そのイリーナにペテルブルグの上流社会に出る機会が出来、イリーナの美は絶賛される。リトヴィーノフとの婚約は解消され、イリーナはペテルブルグに去る。
時代は元に戻り、バーデンの古城でリトヴィーノフはイリーナに再会する。既に高官の夫人である。イリーナはリトヴィーノフに謝りたいと言って接近してくる。当初は複雑な気持ちで接しているが、すっかり元の自分のようにイリーナに惹かれる。ぜひ一緒になりたい、今の婚約は捨ててもいい、相手のイリーナも夫を捨てて自分についてくると言う。リトヴィーノフはやって来た婚約者と別れる。イリーナに最後の手紙を出すが、その返事は一緒に行けない、というものであった。リトヴィーノフは一人で故郷のロシヤに帰る。帰りの汽車で流れる煙を見て凡ては煙だと呟く。故郷に帰り、領地を管理して数年たった。自分が捨てた、いいなづけに再会する。あのイリーナは今でも社交界で話題のようだ。

本書は当時のロシヤを批判し、その改革を論じると言った議論と恋愛小説の両面を持っている。ロシヤ議論の面では保守派、進歩派双方から批判されたそうだ。また恋愛小説と見ても主人公リトヴィーノフがあまり魅力的に描かれておらず、ツルゲーネフの小説としては面白みが少ないように思う。
神西清訳、河出版世界文学全集第9巻、昭和37年

2020年6月26日金曜日

アルバレス『ありえない138億年史』 A most improbable journey 2017

いわゆるビッグヒストリーの一冊である。特徴は読み易く、また他の同種の本に比べ相対的に短い。
ビッグヒストリーは対象が大きいので大部になりやすい。本書は簡潔である。
著者は地質学者で、地球惑星科学の教授をしている。そのため他のビッグヒストリー本では、いわゆる歴史で習う時代まで含めている場合が多いが、本書は違う。

本書は範囲を絞っている。地球史の後、生命の誕生、人類の誕生について記述し、最後は、人間の特徴として言語、火、道具の使用を挙げている。
山と出ている歴史の分野まで手を広げる必要はないと思う。一冊で歴史分野まで覆う必要はない。そのために知りたい事柄を書き、簡潔に出来た。
山田美明訳、光文社、2018

2020年6月25日木曜日

ジョルジュ・サンド『スピリディオン』 Spiridion 1842

ジュルジュ・サンドの30代前半の作品。イタリアの修道院を舞台にした異色作。物欲の世界から精神性の世界へという副題を持ち、宗教小説とはこういうものかと思わせる。

アンジュロという名の修道士の一人称小説で、修道院の生活を描く。もっとも小説の大部分はアンジェロが師と仰ぐ神父アレクシの回想である。
アレクシは俗化した修道院で、自ら信じる道を進もうとした。この修道院のかつての院長スピリディオンの残した意を知りたい。修道院の中での超常的な出来事を含め、かなり浮世離れした著述も多く、読み進めるのにしんどく思うようになる。ただ権力欲旺盛な神父と次期修道院長を争うこととなった経緯などは面白い。
アレクシはキリスト教、ユダヤ教の系譜だけが真実の教えでなく、その当時のキリスト教からは異端であったプラトン等のギリシャ思想、更にインドなどの思想さえ、重要だと説く。

小説の題材もそうだし、そもそも若いサンドがよく書けたと思う異色作である。
大野一道訳、ジョルジュ・サンドセレクション2、藤原書店、2004

2020年6月24日水曜日

犯人は21番に住む L'Assassin habite au 21 1942

アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督、仏、84分、白黒映画。

連続殺人が起きていた。犯人はいつもムシュー・デュランという名刺を残していく。
宝くじに当たった男が酒場で散財し、その後殺される場面から映画は始まる。警察は早く犯人を挙げろと催促されている。
犯人がミモザ館という21番地のアパートにいるとはわかった。下宿人のうち誰が犯人か。次々と殺されていき、容疑者は拘束される。しかし容疑者取り調べ中にまた殺人が起き、釈放される。その繰り返し。

刑事が神父に変装して下宿人たちを調べる。最後に明かされる犯人は、推理小説としてはやや凝っている。しかし映画の進行そのものは特に面白いとも思えないのである。

2020年6月23日火曜日

ツルゲーネフ『貴族の巣』 Дворянское гнездо 1859

貴族のラヴレーツキーはパリで妻に不貞を働かれ、ロシヤの田舎に帰ってくる。
そこで19歳のリーザに会う。親のいう結婚をしようとしていた。リーザに惹かれたラヴレーツキーはつまらない男との結婚はさせないようにしたい。ラヴレーツキーの妻の死亡のニュースが来た。これで自由になったラヴレーツキーはリーザに心を打ち明ける。リーザもラヴレーツキーを好いていた。

その後、ラヴレーツキーの妻がいきなりその田舎にやってくる。ニュースはデマだったのである。妻はラヴレーツキーに赦しを懇願する。また親戚一同に取り入り、すっかり自分の存在を認識させ、好きにさせる。あのリーザの婚約者だった男は、リーザから断れていたので早速ラヴレーツキーの妻と親密な仲になる。

ラヴレーツキーは田舎を去る。リーザは修道院に入れてくれと頼み、俗世間から離れる。
8年後、ラヴレーツキーは田舎に戻ってくる。親戚、知り合いの多くは亡くなっていた。若い人たちの楽しみ様を見てすっかり自分が歳をとったと感じる。かつてのリーザとの思い出にひたる。リーザは今でも修道院にいる。その後、二人の修道院での再会では、リーザはラヴレーツキーを見ようとしなかったという。

小説の多くのページは当時のロシヤの、俗物な貴族の描写に割かれているが、やはり悲恋に終わった不幸な男女の恋愛を描いた作品と思う。
小沼文彦訳、岩波文庫、1952

2020年6月22日月曜日

危険な場所で On Dengerous Ground 1951


ニコラス・レイ監督、米、82分、白黒映画。

映画の前半では街の刑事が悪党どもを痛めつけるので、上司から譴責される。心がすさんで他人に容赦ない人間になっていた。そのため北の田舎で起きた殺人事件の手助けに行けと命令される。
雪深い田舎で少女が殺害された。父親は怒り狂い、犯人を殺しやると息巻いている。刑事の助けなど全く不要と怒鳴る。

犯人らしき者が車を盗んで逃走した。刑事と父親も車を借りて後を追う。雪で滑り転倒する。犯人の車も空だった。近くを捜す。一軒家がある。行くと盲目の女の一人住いだった。ここに隠れているのではないかと家捜しするが見つからない。
盲目の女の弟が犯人で、匿っていた。刑事は女と話し、自分なら弟を殺さず警察に渡せると説得する。父親に殺させないようライフルの銃弾は抜いておいた。
弟は姉の言うことを聞かず、自首するつもりはないので逃げる。それに気が付いた刑事がまず追い、後から来た父親は銃をぶっ放すが弾は出ない。二人で弟を追う。岩上に逃げた弟は手を滑らし落下、死亡する。父親も犯人を見て子供じゃないかと言う。

残された姉に刑事は何かしようとするが、姉は拒む。刑事は街へ帰る。街の灯りの中、思う。後になって刑事は姉のところに戻り、女の手を取り、今度は女も受け入れる。

2020年6月21日日曜日

エドワールとキャロリーヌ Edouard et Caroline 1951

ジャック・ベッケル監督、仏、85分、白黒映画。
若い夫婦が喧嘩し、また元の仲に戻る映画。

ピアノ奏者の夫と若い妻はパーティに行く用意をしている。夫のベストが見つからず困っている。大家の小母さんが来て甥が来るからピアノを聴かせろと頼む。追い出されないためには承諾するしかない。ベストは妻が処分してしまっていたと思い出す。今夜のパーティを開催する伯父さんのところに行って借りてこいと言う。親戚に頼み事は嫌なのだが、しょうがないから借りに行く。そこの伯父宅でパーティが開かれる。伯父が若い夫を売り出してやろうとの気づかいだった。
ベストの貸借に時間がかかった。夫が自宅に戻ってみると、妻はドレスの裾を切って短くしていた。驚き怒鳴り平手打ちまで妻にくわせる。妻は良くなると思った措置が、これほど夫から罵倒されたので離婚を決意する。夫は一人だけでパーティに行く。

すでに多くの上流階級の夫婦が集まっていて、ピアノ奏者の到着を待っていた。ようやく来る。妻がいないので伯父が聞くと具合が悪いと答える。夫は上流の婦人たちに気に入られ、いつまで経ってもピアノの演奏は始まらない。その間、妻の従兄であるこの家の息子は、従妹が病気ときいて家まで具合を見に行く。夫はある婦人と話しているうち、もし妻を殴ったらどうなるかを聞き、離婚だと答えを聞き心配になる。ようやくピアノ演奏が始まり、拍手を受けるが妻が心配になり帰ると言い出す。病気の妻の心配は当然だと一人の婦人が言い出す。帰ろうとしたら妻が従兄に連れられてきた。これで戻る必要はなくなった。あの婦人は馬鹿にされたと言って帰る。
夫と褄の仲はまだぎくしゃくしている。夫は再度ピアノに向かったが、うまく弾けず今度こそ帰ってしまう。あとから妻も帰る。
家に戻ってから、またお決まりの言い合いがある。金持ちからの電話で演奏会の計画を立てようと言われ夫も気分が良くなる。最後に仲直りの接吻で終わり。

夫が妻の服装を罵倒して喧嘩になるわけであるが、個人的に、服装に全く興味のない自分には縁のない話に見えた。またなんとしても相手をねじ伏せ、自分の意に従わせようとするところなどはいかにも西洋的だと思った。

2020年6月20日土曜日

野良犬 昭和24年

黒澤明監督、新東宝、122分。

「野良犬」は黒澤の映画のうちでも観た回数の多い映画である。
今回の見直しで制作の時期を良く反映した映画と再認識した。
初めの方で三船が銃の販売屋を捜して東京中を歩く場面は、その頃の東京の風景が良く分かる。当然ながら貧しかった当時を反映した家の作り、街の様子などは記録映画にも見える。
淡路恵子の初出演作と知りながら観たのは初めて。まだ16歳だったとは聞いて初めてわかる。最初の出演者一覧でもかなり初めの方に名が出ていて、高い序列の扱いになっている。

日本の刑事物の走りとなった映画らしい。特に二人組の刑事ものという形式を世界的に言っても確立した。

2020年6月19日金曜日

太陽の季節 昭和31年

古川卓巳監督、日活、89分、白黒映画。石原慎太郎原作。

長門裕之扮する青年は、ボクシング部に属している。仲間と一緒に街に出た際、会った女連れに声をかけ、いわゆるナンパをする。女の中でも南田洋子に惹かれ、二人は付き合い、更に肉体関係を持つようになる。
南田は長門にこれまで男に感じなかった愛情を感じ、好きになる。長門は知らんぷりをして恰好つけているつもりか、特定の女に縛られたくないのか、相手に対する執着をあまり見せない。自分の兄に金で南田を一晩売る、といった行為さえする。

南田は最近の言葉で言えば、ストーカーまがいに長門にまとわろうとするので、長門はますます冷めていく。南田は妊娠したと長門に告げる。産んでもいいのか、と長門に問いただす。どうでもいいと気のない返事。南田は中絶を決意する。しかし手術の途中、死んだ。
長門は南田の葬式に行き、額の南田の写真に対してものを投げつけ、何で死んだのだと叫ぶ。
当時太陽族という言葉を生んだ、若者の生態を描いている。

2020年6月18日木曜日

ポー原作、山中峯太郎『モルグ街の怪声』 昭和37年

山中峯太郎がポーの『モルグ街の殺人』を基に、子供向きに再話した作品。
山中のホームズ物は有名で子供の時、親しんだ者は多い。そのホームズ物の好評を受けて、山中による「ポー推理小説文庫」がポプラ社から全5巻の予定で発売されることになった。予定と書いたのは、3巻までで第4巻以降は発売されず終いになった。

『モルグ街の怪声』はその第一回の発売である。子供向きの文庫なのに『モルグ街の怪声』だけで一巻を使っている。ポーの小説は短篇で、それを子供向きにやさしくすれば更に短くなる。だから普通ポーの作品のみで一巻を出す場合は複数の作品を入れている。
江戸川乱歩名義の『黄金虫』(世界名作全集、講談社、昭和28年)も表題作以外に『大渦巻』『死頭蛾』『モルグ街の殺人事件』『ぬすまれた手紙』『おまえが犯人だ』『月世界旅行記』が収録されている。
元の発売された本そのものは知らない。ただある程度のページ数が必要になってくるはずである。それをどう解決したか。

この『モルグ街の怪声』では、原作冒頭の分析能力それ自体は分析できない、という抽象論もデュパンが語り手と街を歩いている時、語り手の思考を言い当てるところ、共にない。
それは子供向きなら当然であるが、本書では語り手の子供時代から話を始め、なんと被害者のカミーユ・レスパネーと語り手が同級生という設定である。
またデュパンは、以前は記者で大統領の会見を引き出すという挿話を作り、それで結構ページを使っている。
またデュパンと語り手の出会いは図書館というのは原作と同様であるが、共に捜している本は「ギリシア神話」であった。教養深い知識人のデュパンがここでは文学少年みたいになっている。
登場人物に関しては、シャルというおしゃべりで勝気な婦人記者(少女記者という感じだが)を追加して、盛んにしゃべらせている。
殺人の記述そのものは大きく違わないような気がする。ただ最後に船乗りが登場してからはかなり詳しく事件に至るまでを書いている。

さてこの山中『モルグ街の怪声』の出来はどう評価すべきか。正直山中のホームズ物に比べポーの再話はあまり有名でない。自分も今回、「世界名作探偵小説選」が発売されて初めて知った。原本が発売された当時は全く知らなかった。ポーは専ら前記乱歩名義本で親しんでいた。
だから子供の時に読んでいた山中ホームズは懐かしさで今も読んでいるが、このポーは初めての体験である。子供の時読んでいたら印象はかなり異なっていただろう。

原作のホームズについて、推理作家の由良三郎は、ホームズの推理という名の独断にワトソンがいちいち感心している様をまるで漫才だと書いていた。ホームズ物にはそういう軽妙さがある。ホームズが世界的に人気作品となっている理由の一端はそこにあるだろう。
フッフフーの山中ホームズは原作のホームズの延長線上、拡大版といえるかもしれない。

それに対してポーの基調は全く異なる。むつかしい、わけではない。真面目である。ゴシック小説の系統で陰鬱な雰囲気で満たされている。だから山中ポーは原作とはかなり異なった印象を受ける。
山中の「ポー推理小説文庫」が完結しなかった理由について解説には何もないが、想像するに売れ行きがあまり良くなかったからではないか。
ともかく全くその存在すら知らなった山中によるポーの再話が読めるのは結構なことである。
平山雄一解説「世界名作探偵小説選」作品社、2019

奇妙な扉 The Strange Door 1951

ジョセフ・ペヴニー監督、米、81分、白黒映画。
ロバート・ルイス・スティーヴンソン原作The Sire de Maletroit's Doorを原作とする。

18世紀当たりのフランス。酒場でならず者を物色している貴族。大がかりな計画を立て、酒場で決闘騒ぎを起こさせる。殺人を犯させ、男は馬車で逃げる。それを追う男たち。ようやく城館に逃げ込む。そこは入ると出られない場所だった。貴族が男を待っていた。その貴族が凡て仕組んだ劇だった。
男は何のためにこんなところへ寄こしたか聞く。貴族の姪と結婚させるためだと。男はとんでもない女をあてがうつもりだろうと拒否するが、部屋に閉じ込められる。
実際に会ったその姪は美人で驚く。実際には女には好きな男がいたのだが、貴族は強制的に自分が連れてきた男と結婚させようとする。女は拒否し、男も自分で相手は選ぶと断る。しかし貴族は自分の計画を進めるつもりでいる。

貴族は自分を捨て兄と結婚した女、それが姪の母親で、もう本人は死んでいるのにその娘に復讐しようとし、嫌な男をあてがうつもりなのである。姪が好きだった男は始末していた。
ならず者の男と姪は好き合うようになる。また男は貴族の出身で放蕩生活を送っていたのである。披露宴のため招かれた貴族の中に男の知り合いがいた。館から脱出する手助けを頼んだ。娘と二人で脱出できたかと思いきや、あの貴族にまた捕まる。手引きをしてくれた貴族は殺される。貴族は姪に復讐しようとしているのに、相思の仲で結婚されては形無しである。

貴族は男と姪を、自分の兄を入れてある牢にぶちこむ。初めての父と娘の体面。仕掛けがあって牢屋の壁が動き、中にいる者を潰そうとする。姪に忠実な名使いにボリス・カーロフがいた。自分も手傷を負いながら敵をやっつけ、また巨大な水車によって壁が動く訳だが、あの悪漢貴族を水車に放り込み一時的に壁の動きを止める。鍵を奪ったカーロフにより囚われの三人は逃れ、壁に潰されずに済んだ。男と姪は結婚する。男はもうこの館から出たくないと言う。

元々は短篇で、小説として読むのならあまり感じないかもしれないが、こうやって映画として視覚化されると不自然に感じるところが出てくる。

2020年6月17日水曜日

ジョルジュ・サンド『ジャンヌ』 Jeanne 1844

ジャンヌは田舎に住む純朴な娘である。あまりに純粋過ぎるジャンヌを巡り、その美貌に惹かれる男たち、また利用しようとする周りの者たちが引き起こす悲劇である。

田舎で母親、叔母と住むジャンヌ。母親が乳母をしていたこの地方の貴族ギヨームが来る。ジャンヌの母が死ぬ。貧乏で金もない。ギヨームは援助する。その晩火事が起きジャンヌの家が焼ける。母親の遺骸を運び出しただけで後は崩れ落ちる。ジャンヌは満足している。俗物の塊のような叔母には金などくれてやる。
ギヨームはジャンヌとその友達を自分の館に招き、牛の世話などさせる。ギヨームには老いた母と妹がいる。ある日、ジャンヌと友人に奇麗な衣装を着せる。あまりのジャンヌの美しさに周りは驚く。ギヨームの友人であるイギリスのアーサー卿は、すっかりジャンヌを同じイギリスの令嬢と思い込む。現実を教えてやってもアーサーのジャンヌに対する思いは変わらない。

ギヨーム自身も内心ジャンヌを慕っていた。自分の娘の結婚の邪魔になると思った知り合いの副知事夫人は、ジャンヌにうそを言う。ジャンヌは家を黙って出る。後からギヨーム、アーサーは捜しに行く。品行のよろしからぬ弁護士に捕まっていたジャンヌは逃げだそうとする。ギヨーム、アーサーが来て扉を開けようとしても弁護士は開けない。そのすきにジャンヌは逃げだすが塔の上であり、そこから飛び降りる。ギヨーム等が見つけた際には、何ともないと返事をする。元の館に帰る。しかしそれが元でまもなく死ぬ。

主人公ジャンヌはまさしく理想的な女として描かれる。無欲で献身的、類まれな美貌の持ち主である。こう書くと非現実的にも思えるジャンヌに生命力を与えているものは何か。
それはジャンヌが全くの無知で迷信を信じ、母親と聖母マリアを敬い、ドルイド教とキリスト教の区別もつかぬ信仰心を持つ。一切の世俗的関心から無縁で結婚する気はない。およそ執着するものが皆無なのである。かつての黄金時代の化身である。

バルザックはサンドにこう言ったそうである。「あなたはあるべき姿の人間を求めておられる。この私は人間をあるがままにとらえている。」(訳書解説p.431)
これはサンド自身の認識でもあった。写実主義こそが小説の本道という考えに慣れすぎている現代人に、サンドの小説は再考を促す。
持田明子訳、藤原書店、2006

2020年6月16日火曜日

ベンガルの槍騎兵 The Lives of a Bengal Lancer 1935

ヘンリー・ハサウェイ監督、米、109分、ゲイリー・クーパー主演。

インドのベンガル地方を守護するイギリス軍。率いる大佐はもうすぐ定年である。
ゲイリー・クーパーはその部下。大佐の息子が士官学校を出て赴任してくることになった。また近衛部隊からも来る。二人はクーパーの下で副官を勤める。
大佐は息子を気にしているが、軍の規律に従い、一部下として扱うしかない。クーパーは新しい二人の部下を、色々世話をする。特に慣れていない大佐の息子はそうである。近衛部隊上りは手慣れている。
大佐は軍を率いて反乱を用意しているという敵方に乗りこむ。あくまで表面上は友好的に振舞っている。その夜、魅惑的な女に息子は惹かれる。相手からの誘いで会いに行く。敵方の捕虜になる。クーパーは息子を救いに行くべきだと主張するが大佐は予定通りの行動をするつもりだと答える。クーパーは怒って、大佐には血が通っていないのかと詰め寄る。大佐はクーパーに監禁を命じる。後で別の上官は怒るクーパーに、大佐は心配している、しかし3億のインド人を守るには私情より軍を優先すべきだと諭す。

クーパーは勝手に救助に行く。近衛部隊上がりも同行する。敵の基地に乗りこむが見破られ、息子と同様の捕虜になる。クーパーは拷問に耐える。息子が既に秘密を喋ってしまっているので、向かってくる英軍は不利である。英軍が攻撃を始める。三人は牢屋を抜け出し、敵軍を攪乱する。クーパーは捨て身で敵の弾薬庫を爆破し、自らも斃れる。英軍は勝利した。
生き延びた息子と近衛部隊上りは勲章を授けられる。

映画製作当時はイギリスがインドを統治していた。今では過去となった英軍統治という背景でそれだけでも価値がある。最後の息子の表彰は納得できないところがあるが、クーパーの英雄ぶりは十分に描けている。

2020年6月15日月曜日

トーマス・マン『ゲーテとトルストイ』 Goehte und Tolstoi 1922

トーマス・マンが講演のため執筆した原稿を改定して出版された。

ドイツとロシヤを代表する文豪であり共通点がある。それは古典的であり、調和的で完成度が高い。また芸術家としてだけでなく、それ以外の業績でも抜きん出ていたところも同じくしている。
ただマンはこの両文豪をただ称賛するだけでない。その貴族的な表面に隠された必ずしも好ましくない面についても共通しているという。
以前マンの『ワイマルのロッテ』を読んで、そこでのゲーテの描き方に違和感を持った。この謎について本書を読んで解明した。

またゲーテとトルストイと言えば、その対としてシラーとドストエフスキーも思い起こされるであろう。この両者もやはりゲーテとトルストイと同じように類似点があり、二人についても若干触れ、対照している。大部分と題名とおりゲーテとトルストイについてである。
山崎章甫・高橋重臣訳、岩波文庫、1992

2020年6月14日日曜日

憧れのハワイ航路 昭和25年

斎藤寅次郎監督、新東宝、78分。
同名の歌謡曲が昭和23年に大ヒットしたので、同曲の歌手岡晴夫を主人公としてつくられた映画。他に少女時代の美空ひばりが出演し、歌を披露している。

主人公の岡の父親はハワイにいて岡は父を慕っている。岡が花売りの娘、美空を助けたことから美空は岡の家に来る。岡は同室の古川緑波と共に花菱アチャコ、清川玉枝の夫婦が営む店の2階に住んでいた。その清川が美空の本当の母親と分かる。清川は感激するが、美空の姉は自分たちを捨てた母親を許せない。
岡は美空の姉を好きになる。姉は日本人形を作り、それを輸出業者に納めている。ハワイにも人形が輸出されると聞き、美空は人形の裏に岡の住所を書く。岡がハワイにいる父に会いたいと知っていたからだ。

古川を慕うパン屋の娘がいて、建築家の古川に安いパンを売っている。パンで懸賞の建築案を修正していた。娘が気を利かせてバターをパンに入れたので、建築図案はダメになる。古川は怒るが娘の誠意が分かり好きになる。また美空の姉も清川への意地をやめ、親子仲良くなる。
ハワイの、岡の父親から便りが来る。それで岡はハワイに向けて立つ。美空の姉を好いていたが他にいい縁談があるのであきらめていた。

いかにも古い時代の映画という感じである。ハワイの映像は途中に観光用と思われるフィルムが挿入されるだけで、日本を舞台にした映画である。ハワイなど外国へ旅行するなど、日本人にとって全く夢だった時代の映画である。同名の曲がヒットしたのもハワイがまさに夢だったからであろう。主人公を務めた岡晴夫、当時は人気が高かったというが、戦後間もない時代の男という感じで、これも時代を感じさせる。

2020年6月13日土曜日

ローランの歌 La Chanson de Roland 11世紀

フランス中世の叙事詩。英雄ローランを歌う。

ローランはシャルルマーニュの配下、甥で並ぶものなき勇者である。回教に支配されていたスペインにシャルルマーニュは軍を進める。ローランの義父で仲の悪いガヌロンは、ローランに復讐するため自分が使者となって赴いたサラセン人の王と組み、偽の約束をシャルルマーニュに持って帰る。これでシャルルマーニュの軍は引き上げることになった。

しんがりを勤め、人数の少ないローランその他の軍勢にサラセン人の軍隊は襲い掛かる。一騎当千の騎士もさしも多数のサラセン人の軍で一人一人倒れていく。盟友オリヴィエも失い、最後に一人となった豪勇無双のローランも獅子奮迅の活躍の後、ついに敵の刃に斃れる。
取って返したシャルルマーニュの軍隊はサラセン人の軍を蹴散らす。また敵が応援を頼んでいた軍も倒す。
裏切り者のガヌロンは手足を馬につながれ、八つ裂きの刑で果てる。

ローランその他フランスの勇士たちとサラセン人の戦いが大半を占める叙事詩である。
佐藤輝夫訳、ちくま文庫、1986

バルカン超特急 The Lady Vanishes 1938

ヒッチコック監督、英、97分。
汽車の中で失踪した婦人を捜すのが中心の映画である。

ヨーロッパが舞台。まず山中のホテルから始まる。列車が来ず満員である。登場人物が多く、初めのうちは誰が主人公なのか分からないくらいである。西洋とは言え、あまりに非常識過ぎる行ないを堂々とやる人物、場面がある。観客を笑わせるつもりなのかもしれないが、唖然としてしまう。
列車出発の前の晩、歌っている男が何もかに殺される。発車の直前、老婦人の頭上にものが落ちてきて、代わりに主人公の女に当たり、少し調子が悪くなる。
主人公の女と老婦人は食堂に行く。戻って来て寝る。起きてみると老婦人がいない。周りの者に聞いても、そんな老婦人は初めからいなかったという返事ばかり。女は捜す。みんな知らないとの答え。前の晩、ホテルでひどい目にあわされた男に出会う。逃げだしたいところだが、女に興味を持つ男は捜索を手伝うと言い、他の者は誰も相手にしてくれないので一緒に行動する。

結局老婦人は誘拐されて列車の中にいた。それを見つけてからも悪漢の手を逃れるために苦労し、銃撃戦になる。最後は老婦人がスパイで、暗号を外務省に届ける役を男女は仰せ使う。暗号は音楽の節に隠されていて、それもネタの一つであった。

高い評価がされている映画らしいが、今観るとごちゃごちゃし過ぎ、展開ももっさりでそれほど傑作に観えない。制作は戦前であり当時は新鮮に観えたのであろう。