2021年5月31日月曜日

非常線の女 昭和8年

小津安二郎監督、松竹、100分、無声映画。

主人公の田中絹代は、会社の社長のどら息子から盛んに誘われている。夜の田中は全く別人で、不良(岡譲二)の恋人として、チンピラ仲間の姉御のような存在であった。その岡を頼んで仲間にしてほしいと来たのが青年の三井秀夫である。粋がっている三井にはレコード店に勤める姉(水久保澄子)がいた。岡は清楚な水久保に惹かれる。それを知った田中はやきもきする。水久保は弟が不良化しないよう、兄事している岡に頼む。岡は三井を諫める。田中は水久保の真似をして岡の気を引こうとするが、馬鹿にされるだけである。

三井が使い込んだ金を取り返すべく、岡と田中はどら息子を銃で脅し金をせしめる。水久保、三井宅に金を届けてから岡と田中は逃げる。しかし警察の非常線がはられ、もう逃げられそうにない。田中は2,3年の辛抱でまた会えるから自首しようと岡を説得するが、聞かない。一人で逃げようとする岡を田中は拳銃で撃ち、脚に負傷をおわせる。警察が来て二人を逮捕する。二人は抱き合ってまた会える日を期待する。

戦前のアメリカ映画の影響の強い小津の映画で、全く洋装、洋風の部屋ばかり出てくる。

ジョニー・ベリンダ Johnny Belinda 1948

ジーン・ネグレスコ監督、米、103分、白黒映画。

漁村に赴任してきた医師、農場主と知り合いになり、その娘ベリンダを知る。聾唖者である。ベリンダに関心を持った医師は手話を教える。それまで馬鹿と呼ばれていたベリンダは垢抜けする。そのせいで悲劇が起こる。今なら処置できるような悪運も当時は価値観が違うので、考えもしない。生まれた子供の名がジョニーである。医師に責任があると村で噂が流れ、後に村を去る。また新たな事件がベリンダにふりかかる。

どう考えても昔の映画と感じる。実際にあった事件が元らしいが、あまりに驚くべき展開で進み、現代の映画の感覚からして呆れてしまう。相手役の男も人間離れして理想的に描かれている。絶対に現代では作れるはずもない映画である。だからこそ価値があると言うべきか。主人公は賞をとったらしいが、一語も台詞がないから「こそ」取れたのだと思う。

2021年5月28日金曜日

アクショーノフ『星の切符』 Звёздный билет 1961

1960年代初頭というまだソ連が健在で、日本を含む資本主義の諸国も、共産主義に憧れる者が結構いた時代の小説である。一口で言えば青春小説である。

主要人物は若い兄弟。兄は学者を目指している20代後半の青年、弟はそれより10歳ほど下で、日本式に言えば高校生くらいの歳。形式としてはまず兄の一人称で始まる。後に三人称を経て、弟ディームカの一人称の部分が長い。実質的な主人公はディームカであろう。学者になるつもりだった兄は教師らに反抗してそうはいかなくなる。更に悲劇が待ち受けていた。弟は友人らと一緒にモスクワを出て地方に行き、更に漁業のコルホーズで漁船乗りになる。モスクワ時代に恋人と別れるような形になったが、最終的に夢が破れた恋人はまた戻ってくる。題名の星の切符とは四角い天窓から星が見え、それが星の切符だという。兄弟そろってそう感じる。

ソ連時代の青春劇なので、共産主義が否定されソ連も崩壊してしまった今、顧みられなくなっているが、青春はどこでもいつでも普遍的である。

新集世界の文学第45巻、中央公論社、工藤精一郎訳、昭和46

河合幹雄『日本の殺人』ちくま新書 2009

法社会学者の著者が日本の殺人の現況、更に逮捕後の犯人の扱い、殺人そのものを考察し死刑制度についても意見を述べている。まず最初に、統計でいかに各種の犯罪の実態を掴もうとするのが難しいかと語る。殺人がどの位あるのかを調べようとしても、普通考えられる殺人が複数の項目に渡っていたり、ある項目中にその項目名だけで想像する概念以外が入っているなど錯綜している。ともかく本書執筆の時点では年間千件近い殺人があるようである。

逮捕された後、そもそも殺人でも刑務所服役は割合が少ないようである。十年とか入っているとたとえ釈放されてもその後の人生の施し方が困難になってくる。家族も故郷も凡て見放している。民間の有志がこれまで世話をしてきたが、今ではそのなり手が少なくなっている。最後に死刑制度についての著者の考えが書いてあり、参考になった。

2021年5月27日木曜日

ジャンヌ・ダルク裁判 Le Proces de Jeanne d’Darc 1962

ロベール・ブレッソン監督、仏、65分、白黒映画。

ジャンヌ・ダルクの裁判にのみ焦点をあてた映画であり、そういう意味ではドライエルの『裁かるゝジャンヌ』と形式的には同じである。本映画はジャンヌ裁判の四半世紀後に行われた名誉回復裁判も考慮に入れている。映画の最初は歩いていく足、その足だけ映す。それはジャンヌの母親が名誉回復裁判で、娘の無実を訴えるところなのである。後はジャンヌの裁判に遡り、宗教裁判でのジャンヌが描かれる。一度教会側の言い分を認め署名するが、また翻し、最後に火刑に処せられるまで。映画の出演者は凡て素人で、職業俳優は使わなかったという。

殺人漫画 더 웹툰: 예고살인 2013

キム・ヨンギュン監督、韓国、104分。

主人公の女漫画家が描く漫画と同じ殺人が起こっていく。後から判明するのは、主人公の漫画家がかつて知り合いだった少女の作を使っているらしい。もうその少女は死んでいる。漫画が電子メールで送られてきて、それを基に描いた漫画によって主人公は有名になった。ただそれと同じ殺人が起こる。何か仕組みがあるのか、あるいは超常的な映画ならではの怪奇譚なのか。事件については謎解きのような、以前了解していた事実が覆される展開になる。そもそも死んだ少女と漫画家の実際はどうだったのか。観ている者を引き付けていくが、最後の方など良く分からなくなってくる。実際の殺人事件が作り話と類似しているところは『氷の微笑』を思い出した。

2021年5月26日水曜日

橋本幸士『物理学者のすごい思考法』インターナショナル新書 2021

物理学者の著者が日常生活や社会について、科学者の立場で見たり解釈したりする文を集めたエッセイ集。例えば、エスカレーターの並び方、数字を見るとそこに何かがあると考える、スーパーを歩く経路の分析、更には物理学者にいかに奇人変人が多いか、等々科学者ならではの視点が分かって面白い。

科学者特有の思考法を読んでいるうちに、経済学がまさにこれと同じ方法で経済を分析していると思いついた。もちろんここは経済学の話が書いてあるわけではない。著者もそんな気は全くないだろう。ただ抽象的な考え方の類似である。つまり世の中の経済現象を科学的に捕え、分析していくという方法である。経済の場合は毎日経験しているので、抽象的に見なして分析する経済学は、道具に過ぎないモデルを経済学者は現実をそう思っていると解釈され、評判が悪い。物理学で類似を捜すと、本書にも書いてある牛を球だとするなどがその例で、そもそも知っている人は少ない。

具体的な章、初めのエスカレーターの並び方について私見を述べる。本書では片側だけ立つより二人並んだ方が沢山さばける、それも高速にすれば早く着けると書いてある。

著者は1973年の生まれだそうで、当時の東京のエスカレーターは乗る人の勝手で二人の場合は並んで立つのが普通だった。そうすると早く着きたい人が、上るなり下ったりしていると二人並んでいる手前で、止まる。エスカレーターは止まっている方が優先するという考えが共有されていたのである。なぜそうなるかという疑問を、有名な大学の先生が新聞のコラムに書いていた。急いでいる者をなぜ優先的に通してやらないのか。この頃の交通の標語で「そんなに急いでどこに行く」というのがあった。急がないと親の死に目に会えないかもしれないのに、事情を知らない赤の他人の余計なお説教に聞こえた。そのうちに片側に立つという習慣が生まれ、急いでいる人を通してやれるようになった。それから50年経った。最近では別の見方が出ているようである。一つは上り下りを駆けて事故が起こるおそれ。もう一つは本書にあるように、立つ側に長い行列ができる場合が生じる。後、高速化にする案は今の日本のような高齢社会では高齢者にやさしくない、問題だと批判が出てきそうである。著者がいかにも若い人だと感じた次第。

2021年5月23日日曜日

甲賀三郎『強盗殺人実話』河出書房 2018

「明治大正実話全集」第3巻(平凡社)昭和4年刊行のうち、10編選んだ集成。内容は以下の通り。

お茶の水おこの殺し/二本榎惨劇/小名木川首無死体/お艶殺し/小石川七人斬り/鈴弁殺し/名古屋駅行李詰め屍体/大井堀事件―疑問の十月二日/女優一家の怪死/ピス健

本書の副題には「戦前の凶悪犯罪事件簿」とあるが、上にあるように明治大正期の犯罪で、昭和戦前は入っていない。

「お茶の水おこの殺し」は明治30年、御茶ノ水の神田川で女(名がおこのと後に分かる)の死体が見つかった。他殺で配偶者の仕業と判明するまで。「二本榎惨劇」は明治42年芝区二本榎町で一家5人が皆殺しに会った。警察の捜索にもかかわらず迷宮入りになったところ、3年後の大正元年に同じ町内で、一家3人皆殺しの事件がまた起こった。最終的に若い男の犯行と分かるまでの捜査。「小名木川首無死体」は明治43年、深川の小名木川で首無しの女の死体が見つかった。死体解剖で年齢の推定を誤り、捜査に影響した。「お艶殺し」は明治43年、今の東京駅前、当時は三菱ヶ原と称した寂しい原っぱで、若い女の死体が見つかった事件。「小石川七人斬り」は東京小石川の東電出張所で七人も殺害された事件。「鈴弁殺し」は本集中、最も有名であろう。実話集成に良く収録されている。大正8年、農商務省のエリート官僚による、商人(鈴木弁蔵)殺しである。バラバラにしてトランクにつめ、信濃川に流したがトランクが浮いてきて発覚したという、秀才にしてはお粗末な結末となった。「名古屋駅行李詰め屍体」は大正10年、名古屋駅で受けた行李に死体が入っていた。発送地が東京であったためそちらで殺されたらしい。鮎川哲也の小説を思い出させる。「大井堀事件」は仙台郊外の七郷村の大井堀という小川で男の死体が見つかった。容疑者との尋問、調書の写しが延々と続く。「女優一家の怪死」は大正13年、女優・歌手(「船頭小唄」を歌った)中山歌子の、当時は郊外であった東京大岡山の家で家人3人が殺害された。中山は療養で留守のため難を免れた。「ピス健」は我が国ピストル強盗のはしり。大正14年、大坂茨木町の飲食店で夜中、銃で中居が殺害された。これ以前から関東でもピストル強盗が出没していた。

何しろ昭和初期に書かれた明治大正の実話集である。当時の警察は捜査が今と比べて未熟だっただけでない。拷問で自白させ犯人と見なしていた。例えば「二本榎惨劇」では容疑者の男が留置場で縊死した。冤罪である。後に真犯人が分かった際、誣告した男も自殺したという。著者の甲賀が参照した資料使い、今の者が書けば、相当程度記述は変わってくるはずである。

2021年5月18日火曜日

『江戸川乱歩と13人の新青年』<文学派>編、光文社文庫 2008

雑誌『新青年』誌に発表された13編の短編小説を収録。内容公表年は以下の通り。
『情獄』(大下宇陀児)昭和5年
『押絵の奇蹟』(夢野久作)昭和4年
『杭を打つ音』(葛山二郎)昭和4年
『柘榴病』(瀬下耽)昭和2年
『テレーロ・エン・ラ・カーヴォ』(橋本五郎)大正15年
『レビウガール殺し』(延原謙)昭和7年
『B墓地事件』(松浦美寿一)昭和2年
『面影双紙』(横溝正史)昭和8年
『偽眼のマドンナ』(渡辺啓助)昭和4年
『本牧のヴィナス』(妹尾アキ夫)昭和4年
『胡桃園の青白き番人』(水谷準)昭和5年
『ジャマイカ氏の実験』(城昌幸)昭和3年
『リビアの月夜』(稲垣足穂)本書に公表年が書いていない、1920年代らしい

まず江戸川乱歩の名が使われている理由について。乱歩が『日本の探偵小説』という評論を昭和10年に書いた。そこで言及されている作家のうちで『新青年』誌に掲載された作品を集めている。乱歩は「論理派」と「文学派」に探偵小説を分けた。これはよく聞く「本格物」と「変格物」に対応しているだろう。本格と変格では価値の序列がはっきりしすぎている(当時からそう見なされていた)が、論理派と文学派の分類なら中立的である。ここでは文学派の小説集。

『情獄』は漱石の『こころ』を思い出すかもしれない、恋人を巡る男同士の争い。夢野の『押絵の奇蹟』と横溝の『面影草紙』は本集中、最も有名であろう。幼い日の回想など雰囲気も似ている。葛山の『杭を打つ音』は列車で出会った者から話を聞く。瀬下の『柘榴病』はポーの『赤死病の仮面』を思い出す。橋本の『テレーロ・エン・ラ・カーヴォ』という意味不明のカタカナ題名。解説に何も書いていないのは不親切。インターネットで調べると穴の中の手紙といったエスペラント語らしい。許されない恋人同士の手紙のやり取り、それを穴に入れて交換しようとする。小説は専ら女の方の手紙だけを載せている。最後に驚きの種明かし。延原の『レビウガール殺し』は赤坂溜池で起きた事件に関係ある車が、当時は郊外だった長崎町(池袋西南)に停まっていた。レビュー・ガールは乱歩の小説にも出てきた。人気があるところは今のアイドルのようなものか。松浦の『B墓地事件』は死んだ友人の復讐に知らず手を貸す語り手。渡辺の『偽眼のマドンナ』はパリで会った片目が義眼の娼婦に魅入られ、捜そうと追っかけて行くが・・・。妹尾の『本牧のヴィナス』は横浜本牧がまだ郊外だった時代、そこでポーのデュパンのような隠遁生活を送ろうとする。崖下に管理人の家があり、その男がとんでもない事をやらかす。水谷の『胡桃園の青白き番人』の、幼い日の回想のところは谷崎潤一郎の『少年』を思い出す。またディケンズの『大いなる遺産』の初めの方も似ていると思った。更にポーの『アモンティリャードの酒樽』を連想する場面が出てくる。城の『ジャマイカ氏の実験』は駅のホームで空中散歩をしている外人に会い、後からその家に押しかけ再度やってもらうよう頼む。『リビアの月夜』の稲垣足穂は本集中、一般の小説家である。探偵小説も書いていたのかと思ったら、アフリカの砂漠で発見した物の話で尻切れトンボのような作品であった。

上に読んでいて似ていると思った小説の名を挙げているが、もちろん批判する気は毛頭なく、ただ自分が思い出した作品を書いただけである。昭和初期の雰囲気が味わえる作品集である。

同じ光文社文庫から出ている「幻の探偵雑誌」シリーズの「新青年傑作選」と重複する作品はない。

2021年5月16日日曜日

スプラッター・ナイト 新・血塗られた女子寮 Sorority Row 2009

スチュアート・ヘンドラー監督、米、101分。

ふざけて、実際はふりをしているだけなのに、自分が殺したと男に思わせる女たち。その「死体」を運んで処理するふりをしていたら、男が実際に擬似死体にナイフを何度も刺し、本当に殺してしまう。さてどうするか。自分たちの将来を考え、結局死体を隠し知らぬままにしておく。

さて後になって卒業間際になる。犯人の女たちが次々と殺されていく。犯人は誰か。この辺りは『スクリーム』調になる。映画の出だしは極めて興味深かった。冗談が悲劇を起こし、自分たちの良心が問われる。どうなるか期待していると後半は、犯人捜しの別の映画になってしまう。残念であった。ふざけが悲劇になるとは、アメリカでは現実味がある。何よりも冗談が好きな国だから。これに類した実話を知っている。副題に新がつくように1980年代の映画の再映画化。

多和田葉子『献灯使』講談社文庫 2017

表題作の他、4篇が収録されている。表題作は未来の社会を描く。人間は超高齢でも生きていられるが、社会は鎖国で寂れている。よくある未来を舞台にして、今の人間がタイムマシンでそこに行ったかのような感じで色々批判する。ここではタイムマシンで行ったわけでなく、超高齢の曽祖父がその役目を果たしている。現代人の代弁者。

文明批判をしたかったのだろう。作者の愚痴のようなものも多い。正直なところついていけなく、途中で止めた。おかしな記述がある。それが理由ではない。

外国で賞を取った作品だそうだ。一般的に、知らない国のおかしな生態(生活)が描かれていれば面白く思うものである。残念ながらこれは外国の作品でない。ちっとも面白く思わなかった。

2021年5月13日木曜日

カウントダウン 合衆国滅亡の時 Jerusalem Countdown 2011

ハロルド・クロンク監督、米、91分。

アメリカに小型核爆弾が持ち込まれた。いかに阻止するかのFBI捜査官ほかの活躍。最初は迫っている危機がどんなものか不明であった。携帯できる核兵器と分かる。聖書などから手がかりが分かってくる。イスラエルとアラブ側で和平交渉が行なわれている。これを阻止するためイスラエル首脳の乗る飛行機爆破計画があった。また持ち込まれた核兵器は、いつ爆破されるか不明である。早く捜し出し、止める必要がある。

2001年の同時多発テロを受けて、通常兵器によらず相手国に打撃を与える危険性を基礎にしているのは現代的である。ただ映画として見ると、最後の不明な終わり方を別にしても、本道の作り方をしているにもかかわらず感銘が大きいと言えない。

2021年5月12日水曜日

太陽の下の10万ドル Cent mille dollars au soleil 1964

アンリ・ヴェルヌイユ監督、仏、130分、白黒映画。

北アフリカを舞台にした、トラックの追いかけっこの映画である。同じフランス映画で白黒も同じ『恐怖の報酬』を思い出してしまう。ただ『恐怖の報酬』と違い、喜劇色の強い作りである。主人公のトラック運転手は、ジャン=ポール・ベルモンドとリノ・ヴァンチュラ。二人とも腕扱きの運転手である。ある日新型のトラックが運送会社に来る。ベルモンドもヴァンチュラも惹かれる。ある物資を輸送するためで、新しい運転手が任命される。その日朝早く予定通りにトラックが会社を出発したと思ったら、実はベルモンドが勝手にトラックを運転して逃げ出したのだ。後から知った社長は怒り、ヴァンチュラに追いかけろと命じ、2万ドルの報酬を約束する。最初予定していた新しい運転手も同乗する。ベルモンドは恋人を同乗させ、目的地まで到着すれば10万ドルを得られる話に乗ったのである。途中のトラック同士の追っかけが見物の中心である。トラックの車輪が砂に絡まり動かない場面なども『恐怖の報酬』を思い出させる。最後は喜劇らしく落ちがあって二人とも再び仲が良くなる。

2021年5月11日火曜日

わが命尽きるとも A Man for All Seasons 1966

フレッド・ジンネマン監督、米英、120分。

ヘンリー八世の離婚をトマス・モアが承認せず、最後は処刑された歴史を、モアを主人公として描く。当時のイギリスの風俗は見物であるし、モアの信念を貫く生き方、特に最後の裁判で堂々と自説を述べるところなど感銘を与える。

全体の大枠は歴史的事実であるし、とやかく言ってもしょうがないのだが、どうしても疑問がわく。なぜその地位を剝奪し、もう何の権限のなくなったモアの承認をなぜ、あれほどまでにどうしても必要とするのか。単なる一私人となった者が反対しようが賛成しようが関係ない気がするが。

2021年5月10日月曜日

ノーソフ『ビーチャと学校友だち』 Витя Малеев в школе и дома 1951

ソ連時代の児童作家ニコライ・ノーソフの作。少年が友だちと学校や家庭で送っている生活を描いた小説。主人公の語り手ヴィーチャは転校してきたシーシキンと仲が良くなる。もちろんヴィーチャも勉強が嫌でできれば遊んでいたい、好きなスポーツをしていたいと思っている。しかし先生や親に言われ、勉強するようになる。それに対してシーシキンは頭が悪いと思い込み、動物の飼育に熱心ながら勉強はできないし、やらない。さぼって学校に行かなくなる。ヴィーチャは頼まれて学校に行っていない事実を隠している。嘘をついているわけだが、友達を裏切るのは良くないという発想である。誰かが悪いことをして、それを知っていても先生等に言わない。仲間を裏切る告げ口とみなしているからだ。この考えについて妹と口論する。この悪い事であっても裏切りは良くないという発想、西洋の映画などでもこういう議論が出てくる。メリメの『マテオ・ファルコーネ』もそうだ。日本人はこういう「葛藤」はないような気がする。それならなぜか。どちらがいいかの問題ではない。

大人が読んでも色々考えさせる。残念なことにソ連時代の制度を背景とし、スターリン賞をとったという今では悪いだけしかない章を受けている。ただ『クオレ』や『飛ぶ教室』などとおなじ系列の話で今でも面白い。著者は今では『ネズナイカ』の作者としてまず説明される。

福井絢介訳、平塚武二文、少年少女世界の名作文学第37巻、昭和42

2021年5月8日土曜日

久米正雄『受験生の手記』新潮文庫『学生時代』所収、昭和43年改版

大正7年に刊行された『学生時代』に収められている短篇である。語り手は旧制高校の一高を受ける男である。一高は第一高等学校で東大教養学部の前身。当時の実質的な大学受験である。去年合格できず浪人して今年受験し直す。当時は7月受験、9月入学であったようである。語り手は田舎に住み、受験のため結構早く上京する。東京の親戚宅で受験勉強する。そこのお嬢さんが、語り手が恋している相手である。弟も後から上京してくる。浪人したので同じ一高を共に受けるのである。同じ部屋で受験勉強するのもと思い、友人のいる寺に移る。入試を受けた。結果はどうであったか。

百年も前の作なのに、ここで描かれる受験勉強模様は今とあまり変わらない。実際に本作のように受験そのものを主題にした小説もあまりない。この語り手に共感を得る者もいれば、全く自分と正反対で馬鹿にしか見えないと思う者もいるだろう。語り手は勉強の必要を感じるものの、毎日たいして何もせず過ごす。ずいぶん同じような受験仲間が多く、有名学校受験なのに勉強しない。他の者が勉強しないのをみて安心する語り手である。もう一つに大きな主題である恋愛の方は、語り手は自信家らしい。自分の好きな相手も自分を好きなはずだと思い込んでいるようである。

正直なところ、作家の生涯を調べてその創作の理解につながるか、微妙な気がするが大抵作家の生涯を調べて云々する場合が多いようである。ただこの著者の生涯を見ると、まさに本作の語り手そのままの男に見える。自信満々で自分がもてると思い込んでいる。だから本作でも最後は相手の女を悪く言っている。自己正当化の塊のような語り手であり作者である。

2021年5月7日金曜日

赤と黒 Le Rouge et le noir 1954

クロード・オータン=ララ監督、仏伊、総天然色、192分。

スタンダールの原作をジェラール・フィリップ及びレナール夫人役でダニエル・ダリューが演じる。マチルド役は伊の女優アントネッラ・ルアルディである。19世紀前半のフランスの再現で、場所など書き割りのような背景の場面がある。実際の当時はこれらと似ていたのだろうかと思いながら観ていた。

黒澤明の『白痴』の運命と似ているところがあり、文芸大作であり当初完成した長さはカットされ公開された。その後見つかった分を含め今のところでは192分版が最長となっている。

チェイサー Mort d’un pourri 1978

ロートネル監督、仏、124分。政治の汚職物で、アラン・ドロンがその鍵を握る役。

ドロンの知り合いの政治家が駆け込んでくる。同僚の議員を殺害した。一緒にいたと現場不在証明をしてくれと頼まれる。問題は被害者が持っていた、大物政治家たちの悪事をあばいた書類である。それを血眼になって追う政治家たち。殺害した政治家も殺された。ドロンが書類を握っているので、警察だけでなく政治家たちの標的になる。車の追っかけがよく出てくる。ドロンと殺された政治家の愛人が一緒に逃げるところが後半の見せ場である。最後に謎解きのような場面が出てくる。これだけ多くから狙われてドロンたちは、よく逃げおおせたと思うくらいである。

2021年5月5日水曜日

黒田龍之助『物語を忘れた外国語』新潮文庫 令和3年

著者はスラヴ語を専門とする語学者。

この本はよくあるような、また期待する読者も多いと思われる語学の勉強法、上達法を述べた書ではない。語学勉強法に関する知識を得られたとしてもそれは結果である。物語(文学)と外国語、あるいは語学の関係を書いている本である。最近の風潮に合う、道具としての外国語、特に英語、意思疎通の手段としての英語、ビジネスに使える英語といった内容を論じる本ではない。外国語で文学を読む、それも原語で読むだけでない。日本文学で翻訳されている英語以外の言語で読むといった話題もある。著者は語学者で語学が好きである。その関連で色々な言語の夫々の特徴があり、諸外国の文学を原語で読むべきだ、などと言う観点でなく論じる。文学が好きな者なら面白く読み進められる。

現代は地球化の時代と言われ、外国語特に英語の必要性、また多文化への関心と尊敬すべきだという風潮がある。外国語への関心は今までになく高まっているだろうが、実用主義に走り過ぎているという現状からすれば、本書のような本は大いに存在価値があると思われる。

2021年5月4日火曜日

チェイサー 추격자 2008

ナ・ホンジン監督、韓国、125分。

連続殺人犯を追う元刑事と殺人犯との戦い。実際にあった事件がもとになっているらしいが、気持ち悪さは特にひどい。韓国映画ならではの、死ななくていい、他の国の映画なら絶対にそうしない、女が残酷に殺される場面がやはりここにも出てくる。実際にあったにしろ、例えばもっと実際には残酷であったにしろ、これまでの映画の常識を破るような残酷場面、展開で見せるのが韓国映画のやり方で、それで評価されているのだろうか。

2021年5月3日月曜日

ウィップル『鍾乳洞殺人事件』横溝正史訳 扶桑社文庫 2006


原作はThe Killings of Carter Caveといい1934年に公表と、本文庫解説p.541にある。横溝正史の翻訳は、本文庫解説によれば「探偵小説」誌19325月号に掲載、1935年に単行本として出たそうだ。(本文庫p.540)ところがこれでは上に載せた原作の刊行年より翻訳が先に出たことになる。どこかの数字が違っているのだろうが、出たばかりの小説の訳だったようだ。

アメリカ南部にある鍾乳洞。そこで次々と謎の殺人事件が起こる。犯人捜しの推理小説である。探偵役は地質学専門の学者。その助手である若い女が語り手である。警部がやってきてこいつが犯人だと自信をもって断言するが、外れてばかり。横溝正史原作の映画物に出てくる警部みたいな人物である。推理小説としての出来はどうかは別として、いかにも推理小説好きに好まれる作りになっている。

悪魔の倫理学 분노의 윤리학 2013

 パク・ミョンラン監督、韓国、108分。

若い女が殺され、関係する四人の男の奮闘、喧嘩ぶり。若い警察官は全くのオタクで、隣室の若い女の盗聴、録画をしていた。女の情人が大学教授、それが帰った後、元恋人が怒鳴りこんできて嫉妬のあまり女を絞殺する。警官は凡て録画盗聴で知っていたが自分のやっていることが犯罪なので何も言わない。死体の鑑定で大学教授が容疑者として逮捕される。他に女に金を貸していた高利貸しのやくざのボスがいてこれも介入してくる。盗聴警官、殺人犯の恋人、大学教授、高利貸し、この四人が自分の利益を守るため入り乱れてドタバタする映画。大学教授は完全に犯人扱いで、その夫人に真犯人が分かったと電話がある。高利貸しからである。夫人がその部屋に行ってみると、事故的な展開で一人が死に、他の男達も手傷を負っている。夫人は事情を聞き、他の男達の何人か死ぬ。真犯人は死なずに済み、大学教授は釈放されたが、財産は夫人にみんな持っていかれる。夫人のところには事情を知った女から金を出せという電話がかかってくる。

アメリカの、犯罪と喜劇がごったになっている映画を思い出せる作りである。