2017年1月31日火曜日

小谷野敦『『こころ』は本当に名作か』新潮新書 2009



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副題に「正直者の名作案内」とあるが、この著者は正直者というより自分が気に入らないものが賞賛されていると、悔しくて我慢ならない人なのだろうと思った。
自分の基準で評価する、それはその通りであり、望ましい。しかしそういったら、自分はとんかつが嫌い、さばの味噌煮が好きと言っているのと同じだ。赤の他人の好き嫌いを聞いてもしょうがない気がする。誰でも言えるし書ける。正直ブログにでも書けばよい。著者はそれを本にして売れるのだからよほど特権階級か偉い人なのだろう。文学好きが多いのでこのような本も出せる。

30ページに文学等が「分かる」とは単に「面白いと思う」の意味とある。これにも賛成。
ところが著者は日本人はキリスト教徒でないからドストエフスキーは分からないという理屈を述べる。
しかしドストエフスキーが読まれているのは、それが面白いと思われているからである。
日本がキリスト教国でないから、大部分の日本人がキリスト者でないからわからない、と思う人はあまりに思想というか理屈に寄せて考えている。

異文化の理解がむずかしいというのはその通りである。しかしなぜ宗教というか、キリスト教に「だけ」こだわるのか。それを言ったら宗教も含む文化一般、社会通念、慣習の違いなどもあるだろう。いっそのこと

「文化の異なる外国の文学なぞ理解できない!!」

と言ったらどうか。我々日本人は仏教徒だから(?)、仏典の理解はできるが、欧米人はできないと言うのか。自分はそう思わない。
もちろんドストエフスキーはキリスト教の教義を広めるために書いたのでない。小説である。自分に合わなければ読まなければいいだけである。
 
現代日本に全く縁のない世界を描いている『源氏物語』を評価できるわけもないはずだ。それなのにそれを賞賛しているのは説得的でない。

2017年1月28日土曜日

大川周明『日本二千六百年史』毎日ワンズ(2008)



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元々は昭和14年の出版で当時も大いに読まれたそうである。
大川周明と言えば右翼の思想家というイメージがある。この本の出版も戦前、もう戦時下であったわけであるから、天皇中心主義の記述と予想されるのは当然であろう。
しかしながら右とか左とか、保守反動とか進歩派とかそんなイデオロギーで割り切ること自体今では意味がない、古臭い発想である。

読んだ感想としてこの本は面白いのである。
こんなに面白い歴史の本は初めてである。実はあまり歴史の本を読んでいないせいかもしれない。なぜなら歴史の本ときたら事実の羅列を「中立的」とか称して(あるいは著者自身も信じているかもしれないが)、並べているだけの読む気を起こさないようなものが多い。世に歴史好きが多いから、そんなものでも売れるためであろう。
なぜ歴史がこのようになってきたかを知りたいのである。

この本は読んでいて歴史の流れがわかるように、読者に説得させる書き方をしている。
歴史の記述は否応なく、ある価値観がなくては書けない。いや、本人が中立のつもりでもどうしてもある立場にたっているのである。
それは以前多かった、まるで左翼学生のアジ演説に過ぎないような煽動的な書き方、マルクス主義の公式に当てはまるかだけを検討しているような歴史本を指しているのではない。

鴻巣友季子『明治大正 翻訳ワンダーランド』新潮新書 2005



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著者は今評判の翻訳家とのこと。明治以降の例を挙げてかつての翻訳の「すごさ」というようなもの、今なら許されない、考えられない事情を描く。
例として挙げられているのは、小公女、涙香の鉄仮面、小金井喜美子ほかほか。

読んでいて楽しい本であることは確か。少し違和感を覚えたのは翻訳という言葉の使い方である。自分としては、原語の内容を間違いなく、他言語へ移すという位で理解していたからだ。
しかしここで挙げられているうち、黒岩涙香など元々原語通りに訳す気はなく、自由訳であり翻案と呼ばれ、翻訳ではないだろうと思っていたからだ。また洋画の邦題が原題と全く異なっている例も挙げているが、これなど配給会社の宣伝政策だろうと。

つまりこの本の翻訳とは外国文化の移植全般を意味しているようである。

その他若松賤子は今でも有名だが小金井喜美子はそうでない、とか。そう?と思ってしまう。森鷗外の妹として名前は良く出てくるし。実際この本でも鷗外の妹としての彼女を描いている。
どうでもいい、細かいところばかり挙げたようだが自分として気になった点を書いた。