2018年12月31日月曜日

ドストエフスキー『未成年』 Подросток 1875

ドストエフスキー晩年の長篇小説。『悪霊』(1871~1872)と『カラマーゾフの兄弟』(1879~1880)の間に位置する。
ドストエフスキー晩年の長篇小説群の中ではあまり読まれていない。五大小説などと言われるが『罪と罰』以降の長篇小説の総称であり、内容の出来栄えからいったら『未成年』を除く四大小説と言うべきであろう。

一人称小説で語り手のアルカージイが成年になったばかりの時点で、一年前の未成年時代を回想する形をとる。語り手はヴェルシーロフという貴族と、農奴だった母親の間に出来た私生児である。
小説の舞台となるペテルブルクに来る前はほとんど両親を知らなかった。やって来て会ってみると両親及び妹は落ちぶれた生活をしている。語り手は幼い時の印象等でヴェルシーロフを立派な男と思い込んでいた。

語り手はペテルブルクで様々な人間に会い、経験をする。老公爵の秘書をしたり、その娘将軍未亡人に思いをよせたり(この女とはヴェルシーロフとの恋愛沙汰もあった)、友人たち(ずいぶん悪人もいる)との関係など。また語り手の戸籍上の父親マカール老人は肯定的な人物とされカラマーゾフのゾシマ僧正などに連なる。

他の長篇小説ほど評価されていない、また読まれていない理由は、小説として十分練られていない、殺人事件など刺激的な要素がないということか。
ただ長篇であり、ドストエフスキー的な要素が多く盛り込まれているのは確かである。そのためドストエフスキー好きに、どのようにこの作品の良さを理解するかという課題をつきつけ、それで気になる小説である。ドストエフスキーが『未成年』しか書かなかったら名を残すことはなかったであろう。

2018年12月30日日曜日

首 昭和43年

森谷司郎監督、東宝、100分、白黒映画、小林桂樹主演。
戦時中に実際に起きた変死事件を元にした、弁護士の物語。

原作は正木ひろし、刑事裁判で有名な弁護士であり著書も多い。本映画は同氏著『首なし事件の記録』を原作とする。主演である弁護士も正木がモデルである。

戦中、反骨弁護士は時の権力の横暴に腹を立てている。知り合いから電話があり事件の相談依頼である。茨城県の炭鉱の鉱夫頭が、警察留置中に変死した。警察は脳溢血と言っているが殺された疑いがある。最初は解剖すればすぐわかると言って簡単に思っていた。検察は異様なまでしつこく事件との関わり合いを弁護士に確かめる。それで弁護士もかえって事件に興味を持ち、現場まで鉱主と共に行く。行ったら既に解剖は済んでいた。警察や解剖した医者に聞くが釈然としない。東京に帰り、弁護士会を通じて再解剖の要請をしようとなる。そのための必要書類を執筆していたが、問題点に気づく。このような手続きをしているうちに死体が腐ってしまうではないか。知り合いの東大教授に相談すると首だけ持ってこればよいではないかと言われる。死体損壊は犯罪である。その危険を犯して現場の田舎に赴き、秘密裡に借埋葬の墓を発掘、死体の首を切って持ち帰るのである。この間、非常な緊迫感で映画は進む。

犯罪映画で実際の犯罪を基にしたものは、作り話にない迫力感がある。

2018年12月22日土曜日

娘とヒヤシンス Flicka och hyacinter 1950

スウェーデン映画、ハッセ・エークマン監督、89分、白黒映画。
若い女が自殺する。その原因を探る。
「Flicka och hyacinter 1959」の画像検索結果
映画は戦後間もない頃、酒場での男女の会話、顔は見えない、で始まる。カメラが移動し、浮かない顔の若い女になる。この女は無気力そうで、結局、自分のアパートで自殺する。
向かいの部屋の作家夫婦はほとんどこの女を知らなかった。刑事が来て夫婦あての遺書があると告げ渡す。遺書には、誰も身内がいない、それで家具等凡て贈与する、葬式代は貯金で賄えるだろうとある。
作家夫婦は部屋を見て「娘とヒヤシンス」という絵を知る。作家は興味を持ち、なぜ女が自殺に至ったかを調べる。

色々わかるが、画家と数年夫婦生活をしていた、画家は女が尽くしてくれて幸福な生活を送れるようになった、それで芸術がだめになった、お前のせいだとなじるような男である。女は出ていくしかなかった。娘とヒヤシンスは、画家が女と知り合った当時に描いた絵である。

また以前、人気があった歌手との関係もわかる。歌手は二度、女と知り合う機会があった。その俗物のような歌手によると、自分に振られたから自殺したのだろうと。映画冒頭の場面が再現になる。今度は顔も出る。歌手は女の以前からの友人(女性)と話していた。女はそばのピアノの前に座っていた。
作家は、自殺の原因が歌手への失恋なら、随分つまらないものだと言う。妻が夫に女の友人の名を問い、作家も知らなかったので、歌手に電話する。その名を聞くと、妻は思い当たるものがあった。

愛されなかった女の悲劇で、全体は謎を解く推理小説のような作りである。薄幸な女の物語であるが、女優がやっているので当然ながらというか、美人である。もっと良い生活が出来たのではないかとつまらないことを思ってしまった。

ガールズ Flickorna 1968

スウェーデン映画、マイ・セッテリング監督、100分、白黒映画。
ウーマンリブを描いた映画。
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アリストファネスの『女の平和』を上演する女優たちが、劇の内容である、男への主張を現実の生活と重ねていく。
『女の平和』は戦争ばかりしている女たちが性ストライキで、男たちの戦争をやめさせようとする劇である。それと結婚生活の男支配の現状への反抗、発言、実行が並行する。

国立FAのパンフレットには「過激な風刺性は、当時の批評家と観客の反感を買い、その後18年にわたりセッテリング(監督)をスウェーデンでの映画製作から遠ざけることとなった。」とある。
50年前の映画と感じさせる。当時は進んでいる印象のある北欧でも、今なら当然と認められている女の権\利にも、これだけの議論があったのだ。実際の扱いではまだ問題が残っているが、建前としては性的嫌がらせの言動は、できなくなくなっている。それが当時はそれが男の主張に使われていたのである。

2018年12月20日木曜日

母というだけ Bara en mor 1949

スウェーデン映画、アルフ・シューベリ監督、101分。
農村の下層の女の一生。
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20世紀初頭から第二次世界大戦まで、スウェーデンには移動小作人という人々がいた。地主に雇われ近くの小屋で生活をし、農作業に従事する。
そのような小作人たちが仕事をしていると騒ぎが起こる。若い娘が裸で水浴しているのである。みんなの知っている娘で大騒ぎになる。本人はあまり気にしていないようだ。

娘には恋人の青年がいたが、そののち会うと知らん顔で他の女と踊っている。癪にさわった娘は適当な男に声をかけ、二人は木の下で結ばれる。
後になって恋人の青年が娘に謝り、仲直りしようと申し出る。娘はもう遅い、妊娠してしまった、男と結婚すると答える。

結婚後、男はおよそ理想的とは程遠く、仲間とふざけた際に気前がいいところを見せたくて、赤ん坊に硬貨を投げる。それを赤ん坊が飲み込み、のどを詰まらせ亡くなる。
監督官が家に来て、女に掃除婦をしてくれと頼む。女は乳搾りをするのが仕事だが、白い笞と言われるほど重労働であった。掃除婦はより楽である。掃除婦とは名目で監督官は情人にするつもりである。女は掃除婦になっても自分の身は守っていた。
監督官のところへ来たよそ者の男とは親しくなり、関係を持った。
年月が過ぎ、4人の子供は成長する。最後の死の床で女は夫に向かい、懺悔をし、いい夫であったと言う。
スウェーデン版女の一生である。

2018年12月19日水曜日

貧民街 Kvarteret Korpen 1963

スウェーデン映画、ボー・ヴィーデルベリ監督、101分、白黒映画。
地方都市に住む青年の生活、悩みを描く。
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1930年代末期、地方都市の低所得層用の住宅に住む青年、まだ未成年である。
父親は絵に描いたようなぐうたら、ろくに仕事もせずのらくらしているだけ。母親はそんな夫に苦労させられている。青年は作家志望で小説を執筆している。出版社に送る。連絡がありすっかり出版されるものと思い、家族の期待を背負いストックホルムへ行く。しかしあては外れる。帰ってきた際には出版社員の悪口を散々言う。後にそれは本当でなく自分の無知ぶりで恥をかいただけと告白する。
恋人がいて関係を持ち妊娠させる。結婚の日取りも決まる。

父親から母親がかつて浮気したと聞かされ、母親を軽蔑する。しかし後に母親から真相を聞く。
友人がストックホルムに行く、ついてくるかと言われ、拒否する。しかし帰宅後、思い立ち、出発の準備をする。驚いた母親が聞く。親が嫌になったのか、婚約者はどうするのか。青年はわかっていないと答えるだけ。何も理由を言わない。しまいには母親は父親の方がましだ、お前はひどいという。駅に向かう青年で終わり。

主人公の青年には感情移入しにくい。環境がひどいとはいえ、何も説明せずに婚約者を捨てて行動するような者は映画でもあまりみたことない。

2018年12月17日月曜日

炎は燃える Det brinner en eld 1943年

スウェーデン映画、グスタヴ・モランデル監督、107分。
戦争を始めた敵国の駐在武官と恋に落ちた舞台女優。
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某国国立劇場での演劇を支援する外国の駐在武官。はねた後、演劇一団を自らの主催で晩餐会に招く。主演女優と相思の間柄であった。武官は上司から呼ばれる。この国を占領するつもりだと。驚いた武官は交戦状態になるなら、晩餐会は中止すると言う。上司は予定通りやれ、軍の上層部も呼べと命じる。武官はもし占領したら自分を司令官にしてもらいたいと希望を述べる。この国は良く知っているからと。
晩餐会で浮かぬ顔の武官。恋人の女優は心配する。その間、敵国の軍艦、飛行機等が来襲する。明くる日、戦争状態になった。演劇団の中から戦闘に従軍する者が出てくる。

休戦。占領された後、国立劇場に占領軍がやって来る。上演に理解があると思ったら、占領政策の片棒をかつげとわかり、座長は拒否する。そこへ司令官が来る。あの武官であったので一同驚く。司令官は劇場に理解があるのだが、今や敵国司令官となったかつての友に、劇団員は心を許せない。女優と司令官は今も相思相愛で、二人きりになれば抱擁接吻をする。

劇団員のうち、二人が休戦になっても行方不明である。女優二人のいるところへ一人が帰ってくる。喜び抱き合う。主演女優の兄(か)弟は未だ戻っていない。戻った男がラジオをつける。その頃、夜に自由放送といって国民に抗戦を呼びかけていた。その声はまさしく兄弟である。
この自由放送に業を煮やした占領軍の上司は司令官を呼び出し、なんとしてでも場所をつきとめ、止めさせろと命令する。司令官の寛容な統治を快く思っていなかった。

二人の女優は放送の場所へ行く。外国で活動するよう兄弟とその恋人の女優を逃がせる。占領軍が逃げる二人を見つける。追う占領軍を劇団員のもう一人は自らの死をもって食い止める。恋人の女優に情報を与えていた司令官は、もう自由放送はないはずだと、上司に言う。時間になったのでラジオをつけるとまだやっている。声は恋人の女優だったので驚愕する。
劇団員の中の裏切り者のせいで、占領軍は放送の場所を知り、向かう。放送を聞いた司令官も車を急がせる。放送中に女優は銃撃で斃れる。かけつけた司令官は恋人の亡がらを抱く。

題名は女優が放送する詩の中にある言葉。国立FAのパンフレットによれば、ドイツに占領された隣国ノルウェイを思わせるとある。スウェーデンは中立国であった。

2018年12月16日日曜日

スエーデン皇太子殿下同妃殿下御来朝 大正15年

大正15年にスウェーデン皇太子グスタヴ・アードルフが来日した際の記録である10分の無声映画。日活製作。

船中の皇太子夫妻及び同行者らの映像から始まる。横浜埠頭の出迎え。白人の女性子供もいる。在日のスウェーデン人であろうか。日本人側はシルクハットの紳士ら、贈呈の花束を持った着物姿の女の子もついてくる。
接岸した船シベリア丸(名を見ると日本の船を使ったのか)に下船用のかなり高いタラップが架けられる。つまり埠頭の地面から船の甲板の高さまである。船に直接、斜めのタラップを架けているのではない。まず水平の橋があり、そこから急斜面の階段がある。降りる皇太子夫妻ら。
貴顕らと握手。また手に日瑞の旗を持った児童多数が旗を振って歓迎。かなり離れたところに並んでいる。

港の近くまで鉄道が来ていて、その列車に乗る。車両最後尾の柵に立ち、手を振る皇太子夫妻。東京駅に着く。今の東京駅である。駅前の丸ビルには多数の群衆。駅前はかなり広々としている。そこから車で霞ヶ関離宮に向かう。沿道にも群衆。行幸通りがかなり広く見える。映像のせいか。
霞ヶ関離宮の正門が映る。まず車が入り、それから人々。更に霞ヶ関離宮に車が入っていくところで終わり。霞ヶ関離宮は国会議事堂南側あたりにあった。コンドル設計の離宮で元有栖川宮邸。

映画は日活製作で、中間字幕は当然日本語である。国立FAのパンフレットではスウェーデン映画協会所蔵のプリントを新しくしたとある。フィルムはスウェーデン側で残されていたのであろう。国立FAのスウェーデン映画特集での参考上映。

見知らぬ港 Främmande hamn 1948

スウェーデン映画、エーリク・“ハンペ”・ファウストマン監督、85分、白黒。
船員たちのナチス協力への反抗を描く。
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1930年代末期のポーランドの港。港が氷結して既に3週間も出航できない。スウェーデン籍の貨物船は保存食をスペインに運ぶ予定。
酒場で時間を潰す船員たち。ユダヤ人の娼婦がいてナチスに追われている。船員は助けてやる。ある男が自分は秘密を知っていると酒場で言い出す。店から追い出される。その男の後をつけていく怪しい人物。男は波止場で撃ち殺される。

船員たちは荷物が本当に保存食か疑いだす。荷物の一箱を開けると手榴弾である。ナチスからスペイン独裁政権への支援兵器だった。船員たちは船長に抗議、船を降りる。代わりの船員たちを調達する。船長も家族のためやむなく引き受けていた仕事だったので、船長職を航海士に譲り、自分も下船する。

先に降りた船員たちは娼婦の案内で隠れ家に住んでいた。しかし波止場で殺された男の弔いの鐘が鳴る。船員たちは危険を顧みず、隠れ家を出て葬式へ向かう。船長は宿で射殺された。
船員たちは葬式の場で船に戻るよう言われる。手榴弾の荷は船主からの指示でスウェーデンに運ぶ石炭に替えられた。貨物船はスウェーデンに向かい出航する。

監督は左翼映画作家だったそうだ。

2018年12月15日土曜日

カール=フレードリク 統治す Karl Fredrik regerar 1934

スウェーデン映画、グスタヴ・エードグレーン監督、90分。
かつて農民だった男が大臣になり改革をする、題名はその男である。国王の統治などといった映画ではない。
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20世紀初頭、社会主義思想は農村にも及び、農民に向かって演説する男カールがいた。地主の管理人は彼を追い出す。家も明け渡させられる。家族共に村を出る。彼の幼い娘は石を投げられる。
後年、娘は大きくなる。カールの家族はピクニックに来る。川辺にいると青年がやって来て、ここは私有地だと追い出す。青年らの乗った船が故障で困っていると、彼のボートに助けられる。この機会に青年と娘は相思の仲になる。青年はかつてカール一家を追い出した地主の息子である。

カールは政治の才で頭角を現す。新しい社会主義政権の農業大臣に任命される。地主の家は今では破産の危機に瀕しており、管理人が大臣となったカールのところへ請願に来る。救済資金を出すためには、今ある借金の返済が必要と委員会の結論が出た。
娘と青年は農民の家の建て直しの計画を立てている。村の再建のためにカールは借金を自らのカネで返し、救済資金も出ることになった。

村へ帰ってきたカールを裏切り者と非難し、農民を扇動する男がいた。みんなでカールのいる地主の屋敷に押しかける。カールは扇動者を追い返し、農民らと食事の会を設ける。地主である青年の母親は貴族の出身で、誇りが高く、部屋に閉じこもっている。青年が食事会に誘いに来てもなかなか部屋を出なかった。カールの演説が聞こえる。その誠意ある内容に動かされ、来てカールと握手する。

国立FAのパンフレットによれば2年前の社会民主党政権樹立を受けて作成されたとあり、社会主義のイメージがまだ良かった頃の作品とわかる。

2018年12月12日水曜日

露は溢れ雨は落つ Driver dagg faller regn 1946

スウェーデン映画、グスタヴ・エードグレーン監督、103分、白黒。
周囲から反対されている若い男女の、恋を貫き通そうとする話。

激流のほとり、若者がヴァイオリンを弾いている。牧師が来て叱り、ヴァイオリンをやめさせる。若者はこの村の、かつての悲劇で生まれた。よそから来たヴァイオリン弾きが既に婚約していた娘と恋に落ち、子供が産まれる。その子供が今の若者である。ヴァイオリン弾きと娘は河で溺れる。村人たちはヴァイオリン弾きを水魔の使いだと言った。
この不幸な生まれのため、今でも若者は村から疎まれている。

かつて婚約者に逃げられた男は、その後別の結婚をし、今は一人娘がいる。娘には婚約者がいるが粗暴で勝手な男であり、内心好いていない。
田舎の楽しみは週一回のダンスである。若者は頼まれ、ダンス用のヴァイオリンを弾いている。
ダンスに来ていた娘に、婚約者は乱暴な行ないをする。逃げた娘は河の近くに行く。そこで別の乱暴者3人に襲われる。叫びを聞きつけた若者は娘を助ける。それで二人は知り合い、相思の仲になる。

この後、娘が恋しているのは、自分を捨てた女が生んだ男とわかった父親は、娘に会うことを禁ずる。しかし恋する二人は一層愛し合う。若者も最後にこの村を出た方が娘のためになると決心する。娘も父親に若者を迫害しないと約束させ、婚約者との結婚を承諾する。

結婚式で誓いをきかれた娘は嫌と答え、教会から馬に乗り逃げ出す。追う父親の乗った馬車は転倒し、同乗の伯母が脚に怪我をする。
娘は若者と会い、二人で村を出る。最初は幸福であったが、住む家とてなく放浪の身となる。二人は村に戻り、親切な知り合いに助けてもらう。

既成事実となった娘と若者の仲、父親は娘が逃げた当初は自暴自棄になっていたが、今では認めるしかない。ただ若者と父親の仲は依然しっくりしてない。
脚の怪我で寝たきりになった娘の伯母は、若者と娘二人を呼び、家をやるという。決して祝福してではない。
河での漁っを皆でしていた。慣れない若者が舟から落ちる。激流であり先には滝がある。父親は水に飛び込み若者を助ける。目覚めた若者は水魔に捕えられそうになった、あなたは水魔より強いと父親に言う。水魔なんて迷信だと父親は答える。
すっかりわだかまりが解け、みんなでのパーティの席上、父親は演説する。今まで怪物がいた、それは自分であったと。

題名は、娘が若者と一緒の時、歌う歌詞の一部である。

ペンション「楽園」 Pensionat Paradiset 1937

スウェーデン映画、ヴェイレル・ヒルデブランド監督、78分。
ペンションを舞台とし、偽装や勘違いで展開する喜劇映画。
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島へ向かう船から始まる。青年は故郷の島に帰って来て、好きな少女と再会する。結婚したいと思っているが、少女の母は彼女を男爵と娶わせるつもりだった。母親が経営するペンション。上流階級の婦人たちが多く泊まる。少女の母、女主人のところへ来た手紙によると、アルゼンチンの有名な歌手である義兄が島に来るという。会ったことはない。

彼女は女中に口やかましい。女中は嫌になってペンションを去り、仕立屋をしている兄の家に戻る。兄とそこで働く青年は歓迎してくれる。しかし彼女は思い出す。アイロンをかけている途中、ペンションを出た。アイロンがそのままになっており、火事になる危険がある。
仕立屋は単車で、アイロンの始末にペンションに行く。夜中に着いてアイロンを取ろうとすると熱いので取り落とし、大きな音をたてる。これで女主人や多くの婦人が起きて騒ぎ出す。兄は椅子の後ろに隠れ夜を明かす。
朝になって逃げようとすると女主人に見つかる。女主人はこれが歌手の義兄と思い込み、声をかける。行きがかり上、歌手で通すことにする。

そこのペンションの住人、自称男爵は実は詐欺師で、兄の元からの知り合いである。詐欺師は盗みを働こうとするが、仕立屋が邪魔しようとする。お互い身分を偽っていることを知っているので女主人のいない時には取っ組み合いの喧嘩となる。

兄が戻ってこない女中は心配になり、働いている男と共にペンションに戻る。女主人に会う時、男は女装してごまかした。仕事を聞かれ仕立てをしていると言うと、娘の水着を見てくれと頼まれる。成り行きで娘とその女友達に、水泳に連れて行かされる。風船を胸に入れて誤魔化す。昔の水着であまり身体を出さないので何とか助かる。
ペンションに戻ってくると、詐欺師に誘われ部屋に連れられる。女中らは娘に詐欺師の正体を知らせるため、同じ部屋に送り込む。同じ場所に女装男と娘が隠れようとするなど、おなじみのドタバタが起きる。

映画冒頭の青年はボートの新キャブレターを発明し、これを搭載したボートの競争で勝ち、会社に認めてもらうつもりだった。娘に応援に来てもらいたい。港の近く娘は詐欺師につかまっていた。青年は詐欺師から娘を離そうとする。来る前に詐欺師は女主人の宝飾品を盗んでいた。

ペンションに本物の歌手、義兄が来る。仕立屋と鉢合わせする。仕立屋は火事を防いでくれたとわかり感謝される。女主人は宝飾品がないと気づく。あの詐欺師だと仕立屋は駆けだす。仕立屋と詐欺師は喧嘩になる。組み合いのままボートに落ちて、その時、ボートレースが開始する。ボートは動き出す。仕立屋は詐欺師をやっつけつつボートを操縦し、新キャブレターの性能で優勝する。青年は会社に認めてもらい、娘と結婚できるようになる。また女主人はすっかり仕立屋を気に入り、これも結ばれる。

戦前の映画で、当時の知識層は女装の男が出てくるような低俗性を非難したと国立FAのパンフレットにある。戦前なら価値観もより保守的であったろう。
ただ観ているだけでは1950年代の映画と言われても納得しそう。服装があまり変わっていないし。日本の映画だったら戦前と1950年代製作の区別はすぐつくだろう。