2020年8月30日日曜日

バルザック『浮かれ女盛衰記』 Splendeurs et misères des courtisanes 1838~1847

 

バルザックの後期の長篇小説。美青年リュシアンに恋する娼婦のエステル、リュシアンを後援する悪党のヴォートラン、その他の人物がいれ乱れ、前々の作品から登場するヴォートランがどうなったか語られる。

社交界で話題の美青年リュシアンと高級娼婦エステルは相思の仲である。リュシアンを高い地位につけるため貴族令嬢の結婚が必要だが、それには巨額の金がいる。リュシアンを後援する悪人のヴォートランは本小説ではスペインの司祭エレーラと名乗っている。エステルに入れ揚げているユダヤ人の銀行家ニュシンゲン男爵を手玉にとり、エステルの下女をしている身内の女を通じて巨額の金を巻き上げる。

しかしエステルは自殺する。これを毒殺と見なした警察によってヴォートラン、リュシアンともに逮捕される。小説の後半は、ヴォートランが官憲といかに戦うかの展開となる。

ヴォートランは天才的な悪人で、官憲と渡り合う能力がある。しかし世間知らずのリュシアンは自分の余計な自白で、ヴォートラン共々窮地に陥らせたと悩み、監獄内で縊死する。ヴォートランは頭を働かせ、役人どもと丁々発止の戦いをし、掣肘を加えようとする貴族の夫人や役人の権力抗争の間を泳ぎ抜け、処刑どころか最後は出世までする。

最後の方で当時のフランスの司法の実態は、機械的に刑法が適用される世界とはほど遠いと分かる。有名なヴィドックのように泥棒から刑事になった実例があるから、当時はそれほど不思議ではなかったのであろう。(東京創元社、藤原書店で訳が刊行されている)

緋色の街 Scarlet Street 1945

 フリッツ・ラング監督、米、102分、白黒映画。中年男が娼婦に惚れ、利用される。


主人公は戦前のギャング映画でお馴染みのジョージ・ロビンソン。実直な会計係で長年の勤続により社でお祝いを受ける場面から映画は始まる。終わってその帰り道、ロビンソンは若い女が暴力を受けているところを見る。駆け寄り男を倒し警官を読んでくる。戻ってみると女しかいない。遅い時刻でロビンソンは女を送っていく。茶を飲む。女に職業を訊かれ、趣味の絵描きから画家と答える。ロビンソンは家庭では恐妻家だった。女は娼婦で、殴っていたのは恋人の男だった。

男は女にロビンソンから金をせしめようと持ち掛ける。ロビンソンは女に惚れているので、なんとか苦労して金を持って来る。家では妻から文句を言われている絵を持ち出し、アトリエ用の家を借りそこに女を住まわせ自分も好きな絵を描く。ロビンソンが持ってきた絵を男が売ろうとして持ちだす。専門家から評価される。作者を訊かれ、女だと答える。女の名で絵が売れ、女は画家として有名になる。ロビンソンは二重に騙されていたわけである。絵を女の名で売りその金額を男が着服している、男は女の愛人である。

ロビンソンは絵が女の名で売られていると知り、女に問い詰める。それしかしょうがなかったと。ロビンソンは承諾した。だが後に女の愛人が男と知ると嫉妬に狂い、女を殺す。男が容疑者として捕まり死刑になる。しかしここで映画は終わらない。ロビンソンは死んだ女の声の幻聴に悩まされ、自首しようにも聞き入れられず、惨めな人生を送る。

素人画家の絵が本人に知らずに高く評価され、陰で儲ける男がいるという松本清張の短篇小説があり、それを思いだした。また自分の絵が他人の名で売られていると知れば、普通はかなり怒るのではないかと思った。

2020年8月28日金曜日

その女を殺せ The Narrow margin 1952

 

フライシャー監督、米、70分、白黒映画。裁判の証人を刑事が列車で護送する。

シカゴからロサンジェルスまで、裁判の証人(女)を列車で護送する。二人の刑事が女のアパートに着く。階段で降りるところを狙撃され、刑事の一人は殺される。残った刑事一人で女証人を連れていく。列車には女を消そうとする悪漢どもが乗りこむ。悪漢たちは女の顔を知らない。刑事をつけ回し、女の居所を捜そうとする。

刑事が偶然会った婦人やその幼い息子、更には巨漢の乗客とのからみがある。悪漢どもは女を見つけ探害する。しかしどんでん返しがあり、真相が分かり悪人どもも逮捕される。

刑事が証人を護送するアメリカ映画は多くあるが、初期の作品だろう。列車内の緊迫した描写が比較的短時間におさめられ、映画だから変に感じるところは当然あるが、観やすい作品である。

2020年8月27日木曜日

ケルベロス、紅の狼 O Doutrinador 2018

 


グスタヴォ・ボナフェ監督、ブラジル、108分。警官がガスマスクをつけ、悪徳政治家連を退治する話。

主人公は警察特殊部隊で汚職知事を逮捕する。のち釈放される。幼い娘と一緒の時、銃撃を受け娘は亡くなる。絶望した警官は目の所が赤いガスマスクをかぶり、悪徳政治家等を狙撃し片付けていく。これには若い女ハッカーの助けがあった。大統領に立候補した実業家側にハッカーを人質に取られ、相手候補をテレビ討論中に殺さないと、ハッカーの命はないと脅かされる。警察側も狙撃犯が警察官ではないかと突き止め、狙っていた主人公は、友人の警官に邪魔される。結局、大統領候補の殺害はなかった。ハッカーの女も自力で逃げだす。主人公は警察に捕まった。

大統領に当選した悪党を始末するため、主人公は警察を脱獄する。その前に上司たちも賄賂を受け取っていると分かり、警察内の腐敗を知る。敵の護衛たちを片付け、大統領も射殺する。乗ってきた自動車には爆弾を仕掛けてあり、ビルごとふっとぶ。

非常に単純な筋であり、ブラジルの汚職構造を反映しているのだろう、決してなくならないと映画内でも言っている。ともかくブラジルのアクション映画を観られて貴重な体験だった。

2020年8月26日水曜日

吸血髑髏船 昭和43年

 松野広軌監督、松竹、81分、白黒映画。

悪漢どもに乗っ取られた貨物船上。西村晃とその妻松岡きつこを初め、乗客は銃殺される。3年後になる。殺された妻の妹がいる。松岡の二役、双子という設定。松岡は恋人がいるが姉が忘れられない。

あの悪漢どもの前に、殺した松岡の幽霊のようなものが現れ、次々と死んでいく。妹が頼みにしていた神父は実は悪党で、妹を絞殺し西洋甲冑に入れる。神父らはあの自分たちが皆殺しにした貨物船を沖に発見する。ボートで船に着く。そこで死んだはずの西村に一人の悪漢は殺される。西村を殺した偽神父へ松岡が降りてくる。妹は死んでなく、復讐に来た。偽神父も死に、西村も船と運命を共にする。実際はもっと長かったらしいが、編集で大幅に削られたらしい。主演松岡のエキゾチックな美貌と、悪漢どもはやくざ映画の悪役ボスが勢ぞろいで、筋より登場人物を見る映画だろう。

2020年8月25日火曜日

デュマ『千霊一霊物語』 Les Mille et Un Fantomes 1849

 

アレクサンドル・デュマによる怪奇小説集。形式は枠物語、大勢の話者が夫々話を語るというもので、短篇集に近い。内容は死んだ者が生者に働きかける、という点で一貫している。小説は妻を殺した者が自首してくるところから始まる。斬首した妻の首がしゃべった、というので下手人は恐怖におののいた。居合わせた者たちは、実際にそんなことがありうるかと議論になる。

デュマの時代はギロチンで首が胴と離れてもまだ生きているのではないかと議論があった。小説はその反映である。小説中、それを否定する医師が出てくる。俗物と描かれ、最後の方では出なくなる。当時の議論の反映だから、こんな人物を出したのである。人々は自分の経験等を物語る。その話の章名は以下のとおり。

「シャルロット・コルデーの頰打ち」「ソランジュ」「アルベール」「猫、執達吏、そして骸骨」「サン=ドニの王墓」「ラルティファイユ」「髪の腕輪」「カルパチア山脈」「ブランコヴェアヌの城」「ふたりの兄弟」「ハンゴー修道院」

本邦初訳である。デュマの小説は「三銃士」「巌窟王」ばかり繰り返し出され、他の小説はたいして出ていない。解説にあるようにデュマ名義の小説は何百もあるのだから、もっと未訳の作品を出して欲しい。文庫でこれまで出た小説は、三銃士の続篇小説群、「王妃の首飾り」「王妃マルゴ」「赤い館の騎士」「黒いチューリップ」などか。黒いチューリップはアラン・ドロンの映画があったせいか何度も出版されているが、デュマ愛好家でこの映画を観た者はどのくらいいるのかと思う。電子書籍のKindleではDelphi Collected Works of Alexandre Dumasという英訳集が出ており、これには31編の長篇小説の他、短篇、ノンフィクション、伝記などが入って99円で買える。電子書籍が出て以来、日本が翻訳大国とは噓と分かった。英語だから時間をかければ読める。もっとも日本語で読めればこしたことはない。ただ売れそうもないから出さないだろう。デュマ愛好家には英訳での読書を勧める。

前山悠訳、光文社古典新訳文庫、2019

2020年8月23日日曜日

『グラン=ギニョル傑作選』 2010

 

フランスはパリ、グラン=ギニョル劇場という劇場で、20世紀前半に上演された恐怖演劇の集成である。劇自体もグラン=ギニョルと呼ばれた。その台本集、戯曲集である。収録は以下のとおり。モーリス・ルヴェル「闇の中の接吻」、アンドレ・ド・ロルド/アンリ・ボーシュ「幻覚の実験室」、ガストン・ルルー「悪魔に会った男」、 ウジェーヌ・エロ/レオン・アブリク「未亡人」、シャルル・メレ「安宿の一夜」、ピエール・シェーヌ「責苦の園」、マクス・モレー/シャルル・エラン/ポル・デストク「怪物を作る男」。

ここに収められたグラン=ギニョルは日本式に言えば、ほぼ大正年間に上映された劇である。古い時代ならではのおどろおどろしさがある。筋は単純、視覚的には刺激的、まるで無声映画を観ているような感じになる。現代の恐怖小説や映画のように凝っていて、込み入った筋、斜に構えた視点とは対照的である。加えて古き良き時代のフランスの劇なので、我々にはエキゾチックな魅力も感じさせる。

真野倫平訳、水平社、2010

2020年8月22日土曜日

デュ・モーリア『人形』デュ・モーリア傑作集 2017

 イギリスの女流作家デュ・モーリアの初期短篇を集めている。「東風」「人形」「いざ、父なる神に」「性格の不一致」「満たされぬ欲求」「ピカデリー」「飼い猫」「メイジー」「痛みはいつか消える」「天使ら、大天使らとともに」「ウィークエンド」「幸福の谷」「そして手紙は冷たくなった」「笠貝」が収められている。

デュ・モーリアの短篇を読んでいると、こういう人がいる、こういうことがある、と読者に思わせる。決して楽しい話ばかりでないというか、覚めたような書きぶりで、明るい気分にさせてくれる話でない。デュ・モーリアの初期の作品ということで、若い時期の執筆なのだろうが、随分達観したような、老成した印象の小説群である。

務台夏子訳、創元推理文庫、2017

明日では遅すぎる Domani e Troppo Tardi 1950

 

レオニード・モギー監督、伊、102分、白黒。

『格子なき牢獄』のモギー監督の戦後の作。教師役としてヴィットリオ・デ・シーカが出ている。日本で言えば中学から高校への時期、男女とも青春の異性にたいする関心、悩みに満ちている。主人公のアンナ・マリア・ピエラアンジェリは同じ建物に住む年長の男子を好いている。相手の男子は恰好をつけるため年上の女にデートを申し込み、ピエラアンジェリには関心がなさそうである。学校で劇を行なう。当初は男女別々に劇をする予定だった。教育熱心な若い女教師の提案があり、男女共同で劇を行なうことになった。劇の中心は吟遊詩人と女王である。詩人にあの男子が、女王役にピエラアンジェリが決まった。この時以来、男子はピエラアンジェリを好きになる。

林間学校を城館で行なう。女校長は若い女教師の言い分に我慢ができず退職を命じる。ピエラアンジェリは他の女の子らと共に女教師を追う。男子たちも同様に群れをなして追いかける。天気が悪くなる。雨の中、他とはぐれた男子とピエラアンジェリは森の中の建物に逃れる。いなくなった二人を先生らは捜す。二人を見つける。城館に戻ってきた二人に女校長は責めまくる。ピエラアンジェリは非難に耐えかね、一人逃げだし、湖に行って投身する。後から追ってきた男子は湖から救い出す。先生らもやって来る。ようやく息を吹き返したピエラアンジェリに、君は何も悪くないと教師は言う。

2020年8月21日金曜日

修道女 La Religieuse 1966


 ジャック・リヴェット監督、仏、135分、アンナ・カリーナ主演。意図に反し修道院に入れられた女の苦難の物語。原作はディドロで、舞台は18世紀のフランス。

主人公のカリーナ(役名シュザンヌ)は修道院に入る際の宣誓で、入りたくて入るのでないと答え、周囲を驚かせる。姉たちの結婚で持参金を使い果たし、親は金がない。母親は父親は別にいる、今の父は実親でないと言い渡す。厄介払いの恰好で修道院に入るしかない状況になる。

最初の修道院長は優しく、カリーナはその下で従っていた。しかし院長が死に、新院長は偽善的で厳しく、カリーナにつらくあたる。カリーナは修道院などに居たくない、自由になりたいと言い出し、院長のいじめは更に度を増す。カリーナの申し出が弁護士を通じて教会の上層に届き、審査に来る。カリーナの言い分は分かったものの、院長は有力者の家系で処分できない。

計らいでカリーナは新しい修道院に移る。そこの院長はさばけた、というよりカリーナに気があるところを露骨に見せる。困ったカリーナは神父に懺悔する。しかし新しい神父もカリーナに思いを寄せ、自分も神父が嫌いだ、一緒に逃げようと誘う。二人は逃げる。神父は捕まったようだが、カリーナは逃げる。変転の後、高級娼婦にされる。客たちが集まる会合で、神に許しを請い窓から身投げする。

修道院、教会批判が濃厚で、本作はカトリックから攻撃を受け、すぐには上映できなかったと言う。

2020年8月20日木曜日

007ドクター・ノオ Dr. No 1962

 テレンス・ヤング監督、英米、105分。007シリーズの第一作映画。

ジャマイカの英諜報機関が襲われる場面から始まる。連絡がとれない英本部は、007ジェームズ・ボンドを派遣する。現地で謎の島、クラブ・キーが怪しいと分かり、007は乗りこむ。若い女と会う。島に基地があり、その主ドクター・ノオは中国と欧州の合いの子で、ソ連側と組み、悪事を企んでいた。007は島を破壊し、若い女と逃げる。

ショーン・コネリー演じるジェームズ・ボンドシリーズの第一作で、色々興味深い。まず当然ながらショーン・コネリーは若い。島で捕まったり、眠り薬入りの茶で寝込んでしまったり、ドクター・ノオの部下から殴られるなど、後の超人007に比べ、人間的である。美女といい仲になる設定は後と同じ。冒頭の007が出てくるパターン化された場面では音楽が異なる。ドクター・ノオは中国人の子とあるが、普通の欧州人が演じている。中国人の悪人科学者フー・マンチューは20世紀初頭の小説の有名な登場人物だった。それに影響されているかどうか知らない。

2020年8月19日水曜日

マシュー・サイド『失敗の科学』 Black Boxx Thinking 2015

 


内容は、失敗から学ぶことの重要性、また思い込みによる判断は実際の所当てにならない、逆が正しいことさえあり得る、などが書かれている。

最初の方の事例では医療ミスと航空事故の対処方法を対比する。医療ミスは外向けに明らかにされず、そのため失敗から学べない。航空事故は反対に組織的に対応し、将来の同じような危険に対応できるようになっていると述べる。本書に記されていないが、航空事故は被害が甚大で組織的に対外説明が要求されるのに対し、医療の場合は過失か、不可避の事態だったか医者以外には不明な場合が多い。それが理由ではないかと思う。

後半の記述では犯人さがしを戒めているところが共感できる。すぐに誰かのせいにしたがる者は多い。将来、同様の不祥事を招かない、が最大の責任の取り方である。特定の者の過失にしてしまえば、将来的な防止策を講じないままに終わる。それでは事故から何も学ばない。生贄の山羊捜しに終始してはいけない。

有枝春訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2016

2020年8月18日火曜日

ロゴパグ Ro.Go.Pa.G 1963

 ロベルト・ロッセリーニ、ジャン=リュック・ゴダール、ピエル・パオロ・パゾリーニ、ウーゴ・グレゴレッティ監督によるオムニバス映画、伊・仏、111分、白黒の場面が大半、一部総天然色、題は四人の監督の頭文字。

第一話はロッセリーニによるストーカー男の話。イタリアの旅客機で、タイに着いたアメリカ人のセールスマン。その中年禿親爺はスチュワーデスが気に入り、文字通りのストーカー行為を働く。最期はスチュワーデスの映像の前で踊り、映像の女に抱きつく。現在なら論外のストーカー行為を延々とする。

第二話はゴダールによる架空の戦争。パリの上空で原爆が爆発したと新聞に出る。しかし現実の街はそのままである。不条理劇というべきか。

第三話パゾリーニ篇は、郊外でキリスト受難の映画ロケをしている。映画内の監督はオーソン・ウェルズが扮する。記者にインタビューを受ける。フェリーニはどうですかと聞かれ、ダンサーだと答える。キリスト役は小太りの男。腹が減って撮影の合間に食べ物にかぶりつく。みんなが次々と食べ物を投げてよこし、笑いものになる。お偉方が撮影の見学に来る。キリスト役は十字架にかけられる。台詞を言えとつつかれても無言である。見ると死んでいた。イタリアでは上映禁止になった篇だそうである。

第四話は、郊外に土地を購入しようと思って、レジャーを兼ね車で下調べにやってくる一家。案内役から色々聞かされる。話は並行して米の有名な経済学者によるイタリア経済の講演会が、一家の行動とかわりばんこに出てくる。当時のイタリアの経済事情を映し出しているのか。

2020年8月17日月曜日

シーラッハ『罪悪』 2016

 


『犯罪』に続くシーラッハの第二短篇集。「ふるさと祭り」「遺伝子」「イルミナティ」「子どもたち」「解剖学」「間男」「アタッシュケース」「欲求」「雪」「鍵」「寂しさ」「司法当局」「清算」「家族」「秘密」を収める。

まず収録作品数が多いのは、短い作品が多数占めているである。現実を切り取ったというか、全部書かなくて、必要なところだけ書いてある。説明も釈明もなし。普通の短篇小説を読みなれている人には物足りない感じがしても不思議でない。しかしそこがこの短篇集の特徴なのである。

また不気味な雰囲気の小説が多い。これはドイツの現実の反映なのであろう。読後感が爽快とはほど遠い。創作であるにせよ、このような点から社会や時代を映し出しているのが文学である。酒寄進一訳、創元推理文庫、2016

2020年8月16日日曜日

バッド・ジーニアス 危険な天才たち ฉลาดเกมส์โกง 2017

 ナタウット・プーンピリヤ監督、タイ、130分。高校生たちの大掛かりなカンニング騒動。

秀才の娘が自慢の教師は、ある高校に娘を転入させたく校長と面接している。カネがかかると言うと校長は負担はなしにすると言う。主人公の娘がこの高校で知り合った女友達に頼まれ試験中に答えを教えてやる。カネがある家の男子生徒は自分にも教えろと、主人公に迫る。金を取ってかなりの生徒たちにカンニングさせる。それに留まらない。外国への留学試験に出来の悪い金持ち子息、及びその他生徒をどうやって合格させるか。そのための案まで考え出す。それにはもう一人の秀才の男の協力が必要である、というので金を約束して、カンニング大作戦を練る。

観ていて面白い映画と言えよう。興奮させる場面が続く。自分たちが登場人物らに近い年齢層であれば感情移入もしやすいであろう。

ただ気になる点が当然ながら出てくる。登場人物たちに全く倫理が欠如している。凡てが金である。合格して外国留学の名誉を勝ち取るにはどんな不正も気にしない。また天才たちと言いながら、こんな綱渡りの大博打をどうしてやるのか。失敗する可能性は非常に高い。いや現実にはほとんど無理である。つまり失敗すれば元も子もなくなる、で済まない。犯罪者として一生その烙印が押される。そのような危険性の極めて高い冒険に「天才」が賭けるのが分からない。普通人が犯罪を犯さない最大の理由は、捕まった時の犠牲というか費用があまりに大きすぎるからである。

気になる点はあっても全体として面白いから観る価値はある。超人の出てくるアクション映画を観ていても上のようなところがあるから、とやかく言うこともあるまい。

それにしてもカンニングというねたが面白さをもたらした最大の理由である。実際に中国であった事件を元にしているらしい。中国と言えば、科挙であらゆるカンニングが発達したと以前読んだ。なぜ中国でこのような面白いねたの映画を作らないのだろう。

ゾラ『水車小屋攻撃』岩波文庫 2015

ゾラの短篇小説集。「水車小屋攻撃」「小さな村」「シャーブル氏の貝」「周遊旅行」「ジャック・ダムール」「一夜の愛のために」「ある農夫の死」「アンジュリーヌ」の8篇を含む。

水車小屋攻撃は普仏戦争が平和な村の幸せな人々を破壊した様、小さな村はスケッチ風に戦争の災禍を一般的に述べる。シャブール氏の貝は若い妻が土地の青年といい仲になるが、自分の健康しか頭にない中年の夫。周遊旅行はお仕着せの観光コースにうんざりする若い二人。ジャック・ダムールはパリ・コミューンに参加し、後に島送りになった男が十年ぶりに故郷にパリに帰って発見する家族のあり様。一夜の愛のためには隣家の美人に惚れている男が、その女に不祥事の後始末を頼まれて被る災難。ある農夫の死は田舎の老人が死んでどう家族が葬式を出すか。アンジェリーヌは古い屋敷にまつわる少女の死に関する顛末。

朝比奈弘治訳、岩波文庫、2015

2020年8月15日土曜日

ストッパード『コースト・オブ・ユートピア』 The Coast of Utopia 2002

 


チェコスロヴァキア生まれの劇作家トム・ストッパードの戯曲。19世紀ロシヤの進歩思想家、ゲルツェンとバクーニンを中心として、当時のロシヤの知識人たちがいかに社会の革新や改良を模索したかの群像劇である。実際の人物を描いているわけだから、創作は当然あるが、大きな流れは事実に基づく。ゲルツェンの自伝『過去と思索』は多いに利用されたようである。

進歩派といっても貴族、上流階級の者たちである。ロシヤの体制に縛られ、祖国に自由がなければヨーロッパへ行ける。夢見ていたパリを初め、ヨーロッパの現実も理想とは程遠い。各国へ移動しながら議論を戦わすロシヤの知識人たち。

極めて長尺の劇であり、上記の二人以外にも、当時の進歩派知識人が数多く登場する。進歩派内部の議論なので、ドストエフスキーのような保守反動は登場しない。それにしても21世紀、ソ連が過去となってからの創作である。もし70年代以前のようにソ連が「健在」だった時期に書かれたらどう描かれていたのか。その当時に書かれていないので無意味な疑問だが。

広田敦郎訳、ハヤカワ演劇文庫、2010

2020年8月14日金曜日

少女は悪魔を待ちわびて 널 기다리며 2016

 

モ・ホンジン監督、韓国、108分。

父親を殺された少女の復讐劇である。若い殺人鬼は複数の殺人の犯人と見なされていた。しかし証拠のある一件のみで裁判は行なわれ、15年の懲役になった。他の被害者の遺族たちは怒る。犯人を追っていて殺された刑事の娘(主人公)はその時幼い少女であった。復讐を誓う。

15年後、犯人は釈放される。殺された刑事の部下で、今の班長刑事は犯人の前に現れ、他の犯罪も立証すると言う。被害者の刑事の娘は成長していた。自分の母が再婚相手から虐待されているので、少女はその相手を殴り殺す。

少女は出所した犯人を追うのだが、ややこしいのはもう一人、追っている者がいる。犯人のかつての仲間で、犯人逮捕の密告者だった。犯人は以前の仲間が密告者と気づく。少女は犯人を逮捕させるために、密告者を殺害して犯人のしわざと見せ掛けようとする。一旦犯人は捕まるものの、無罪らしい。また犯人は自分を追っている女がかつて殺害した少女の娘と突き止める。少女宅に犯人は向かい、少女と犯人の最終的な決戦になる。

韓国映画らしい執念に満ちた人物たちの残酷な戦いであって、全体として明るい映画とは言えない。

ルヴェル『夜鳥』 2003


 フランスの小説家モーリス・ルヴェルによる短篇集。収録作品は、或る精神異常者/麻酔剤/幻想/犬舎/孤独/誰?/闇と寂寞/生さぬ児/碧眼/麦畑/乞食/青蠅/フェリシテ/ふみたば/暗中の接吻/ペルゴレーズ街の殺人事件/老嬢と猫/小さきもの/情状酌量/集金掛/父/十時五十分の急行/ピストルの蠱惑/二人の母親/蕩児ミロン/自責/誤診/ 見開いた眼/無駄骨/空家/ラ・ベル・フィユ号の奇妙な航海、である。

ルヴェルはフランス(1875~1926)の作家で、その作風はひねっており、意表を突く、犯罪関係の話が多い。ポー、O・ヘンリー、ビアスなど混ぜ合わせた感じか。上記のいずれの作家にしても、その者だけ取り上げても似ているとは言えない。ルヴェルならではの世界である。

本書は昭和3年に春陽堂から発売された『夜鳥』田中早苗訳、という単行本からほとんどが取られている。現代仮名使い、新字に直している。言い回しや使用漢字は現在と異なっている。なお書名の「夜鳥」という作品はない。

本書の付録として、江戸川乱歩、夢野久作など当時の探偵小説家がルヴェルに寄せた文が収録されている。このように昭和初期の刊行で、戦前の作家たちの好みである。すなわち当時の怪奇小説風味の諸短篇と言えるだろう。戦後的でない。翻訳も戦後はほとんどないようで、人気があるならもっと沢山の小説(長篇もある)を新訳すればいいと思う。田中早苗訳、創元推理文庫、2003

2020年8月13日木曜日

ムロディナウ『人類と科学の400万年史』 The Upright Thinkers 2015


 科学史の本である。数ある科学史の中でも読み易く、面白い本と言える。まず第一部では書名と同じ「直立する思索者たち」と題され、総論になっている。

第二部以降が科学史そのものである。第二部は「科学」、第三部は「人間の五感を超えて」である。現在の学問領域で言えば物理、化学、生物の諸科学がいかに発展してきたか、その発展に貢献した西洋人科学者たちの挿話が興味深く説明されている。ニュートンやアインシュタインについて多くのページが割かれているのは当然である。ただ電磁気学のマックスウェルについてはほとんど書かれていない。読者によって特定の科学者をもっと書けという感想は出てくるだろう。

日本についての記述がある。ラザフォードが原子の構造を明らかにするのが遅れたら、量子論の発展も遅れた。そうだとすると「原子爆弾の開発は遅れ、日本に原爆が投与されることはなく、罪のない大勢の日本人の命は救われたろうが、代わりに連合国軍の侵略によってたくさんの兵士の命が失われていたかもしれない」(本署p.329ここの部分はどう解釈すべきか。読者の問題になるだろう。

水谷淳訳、河出書房、2016

2020年8月11日火曜日

狂人ドクター The Institue 2017

 


ジェームズ・フランコ、パメラ・ロマノウスキー監督、米、99分。病院で女患者が洗脳治療を受け、別の人格になっていく。

19世紀末、郊外の病院(研究所)に兄が妹を連れてくる。両親の死で心を痛めている妹(女主人公)を治して欲しい。医者からの紹介で来たと兄は告げる。この施設は女子患者ばかりの施設で、精神にかなりの支障をきたした患者がいた。実はここは、作り話にあるような秘密組織が運営する施設で、女子患者を人身売買することさえしていた。

女主人公は医師から薬や暗示による洗脳治療を受け、次第に自分を失い、別の人格になる。他の女患者と芝居や儀式を、秘密組織の会員たちの前で演じる。変装して助けに来た兄を縛り上げるよう命令し、自ら刺し殺す。その後になって友人の助けで自分を取り戻した主人公は、まだ操られているふりをして、会員たち、医師等を撲滅する。その中で自分をこの施設に紹介した、ぐるだった医師の殺害は映画でよく出てくる、ポーの『陥穽と振り子』の大鎌の振り子を使っている。

映画の最後はどうなるかというと、悪人たちを始末した後、雑用係だった傴僂の男がきちんとした身なりで女主人公の前に現れる。自分が会の幹部だ、悪い連中は始末してもらったから、今後はこの施設の運営を頼みたい、というのである。女主人公は了解する。

最後はこの病院の沿革が写真で紹介される。ごく最近まで存在したと言う。本映画もかなりの脚色は当然ながら、こういった施設が実際にあったのである。

2020年8月10日月曜日

ジョルジュ・サンド『モープラ』 Mauprat 1837

 


サンド33歳時に発表した長篇小説。粗野な男が純粋な女の愛情によって成長する物語。モープラはこの男及びその一族、また女主人公も親戚であり、の苗字である。主人公の個人名はベルナール、女主人公はエドメである。

主人公の属するモープラ家は田舎の圧政的な有力者だった。主人公も極めて乱暴者であった。ある日自分の一族が、たまたま通りかかった女主人公エドメを攫ってくる。暴行を意図していたが敵方の襲撃があり、主人公はエドメを助け、そこから逃げる。戦いでモープラ家の多くは亡くなった。

エドメの美しさにすっかり惚れ込んだ主人公は、何とかしてものにしたい、そういう欲望を抱く。エドメをその父の家まで送り、親戚でもある主人公は同家に留まる。何としてもエドメに気に入られたい、その心が粗野の塊のような主人公を感化していく。猛勉強する。話の途中で主人公が首都パリに行く、アメリカ独立戦争に加わるため渡米するなどの経験をする。主人公は自分のような者が、気高いエドメに好かれるはずはないと思い込んでおり、無知で野蛮な男にある劣等感に苛まれる。

小説の最後の方ではエドメは災難に襲われ、ぞの犯人として主人公が捕まり、裁判になるという展開になる。冤罪で裁判になるなどドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を思い起こす。もちろんサンドの小説の方がずっと早い。

2020年8月9日日曜日

デュ・モーリア『美しき虚像』 The Scapegoat 1957

 ヒッチコックの映画で有名な『レベッカ』『鳥』の原作者ダフネ・デュ・モーリアによる長篇小説。

語り手のイギリス人がフランスで、自分と全く瓜二つの人物に会い、その人間と入れ替わるという話である。似た人物が入れ替わる話なら、例えば『王子と乞食』や『二都物語』などすぐに思い浮かぶ。他にもあるだろう。『王子と乞食』は御伽噺と思い許容できる。『二都物語』は19世紀の小説で、ディケンズは今なら許されないご都合主義の作品を多く書いている。それが本作は20世紀、戦後の作である。家族が見ても全く気が付かないほど似ている2人の人物。この基本的な設定自体、抵抗を感じても不思議でない。

語り手のイギリス人はフランス旅行中、自分と見分けのつかないフランス人に会う。その男は語り手の車を盗み、どこかに行ってしまう。残された自分はそのフランス人、貴族だったのだが、の田舎の故郷に戻り、屋敷でなりすまして生活を始める。家族は誰も気が付かない。幼い娘も、老母も兄弟も妻も義妹、使用人みんな気が付かない。ただ愛犬だけが違いが分かった。こんなこと可能か、あまりに非現実ではないかと思ってしまう。

なぜ語り手はフランスの貴族になったのか。それまでの自分に嫌気がさしていたとある。元のフランス人は変わり者で嫌われ者だった。家族は変わったと気づくが、元がおかしな男だったので何とかなる。更に小説ならではというか、危ない場面もうまく切り抜ける。逃げた男が家族にとって不快な人物だったが、語り手はこの家庭にそれまでより、好意的に接するのである。

小説はどう終わるかの興味で読み進めた。フランス人は帰ってくる。また語り手はイギリス人に戻る。幸せな終わり方かどうか、細かくは書いていない。ともかく不思議な小説である。

大久保康雄訳、三笠書房、1974

2020年8月8日土曜日

シーラッハ『犯罪』創元推理文庫、酒寄進一訳 2015

 


ドイツの刑事弁護士フェルディナンド・フォン・シーラッハによる短篇集。

「フェーナー氏」「タナタ氏の茶碗」「チェロ」「ハリネズミ」「幸運」「サマータイム」「正当防衛」「緑」「棘」「愛情」「エチオピアの男」の諸編を含む。

これまでにない犯罪小説集で、現代のドイツの諸相ともいうべき事件、それも凝った事件というか凝った取り上げ方でもって、乾いた文体でスケッチするといった感じか。いわゆる本格推理とは方向が違う。新しいトリックというか、謎というか優れた推理小説とされる基準とはずれているのではないか。

世の中、本格推理小説ファンばかりでない。こういう本を読みたかったという人も多いであろう。いずれも短篇で読み易く、読書に時間をかけない。

君死に給うことなかれ 昭和29年


 丸山誠治監督、東宝、100分、白黒映画、池部良、司葉子主演。戦時中に相思の男女が別れ、戦後に再会できるかという映画。

戦時中の病院から始まる。司は看護婦、池部は母が入院しており、その縁で知り合う。池部の友人の軍人は妹(若山セツ子)を嫁に貰ってくれと頼む。池部は司を好きになる。積極的に出て看護師としての司の仕事の邪魔をしても平気である。司は迷惑顔である。戦時中で個人の恋愛など全く御法度の時代だった。司が病院を辞め、田舎に帰るというと池部は追いかけて列車に乗る。途中で空襲に会う。別の貨車で行こうとすると池部に召集令状が来た。池部と司は再会を約束する。

5年後、戦後になる。司は郷里の広島で看護婦をしていた。自身は被爆していた。院長の志村喬の勧めで東京の病院へ治療に行く。病院で医師らの話を立ち聞きし、自分の病が重いと知る。池部はたまたま図書館で、遠くにいる司を見つける。追いかけるが、司は逃げる。

池部は広島の病院まで行き、志村喬に司の消息を尋ねる。当初は知らぬと言っていた志村も池部の熱意に負け、信州にいると告げる。

ようやく信州で池部は司に再会できた。もう離さないと池部は言う。その夜、池部は起きて司の部屋に行き、いないので捜しに出る。川で沈んでいた司を見つける。医師は大丈夫だと言う。池部は死ぬつもりならなんでもできると怒鳴る。これで二人は結ばれるだろう。

司の処女作で主演を果たした。当初予定されていた有馬稲子が病気で降板したので、代役になった。これには東宝幹部の他、池部良も努力したらしい。戦争を挟んだ男女の再会は他にも作られた。例えば高峰三枝子の『今ひとたびの』が思い浮かんだ。本作は作りが冗長ではないかと思った。特に戦後、池部が追いかけるのに司は逃げてばかりいる。自分が原爆症で結婚できないと思い込んでいるからなのだが、この辺りもう少し簡潔に出来なかったと思う。

2020年8月6日木曜日

コヤニスカッツィ Koyaanisqatsi 1982

ゴッドフリー・レッジョ監督、米、87分。記録映像を使って解説は一切なく、音楽のみで表現する映画。

最初の方は大自然を描き、後半では人間の社会が主に出てくる。都会の映像では、早回しで変化する様子が高速で次々と映し出され、現代社会の諸相を改めて見せつけている。

音楽はミニマル・ミュージックのフィリップ・グラスが担当し、グラスらしい繰り返しの旋律映画に合っている。元々映画よりグラスの音楽として知っていた。

聞きなれぬコヤニスカッツィという題は、ホピ(インディアンの一)の言葉で「常軌を逸し、混乱した生活。平衡を失った世界」などといった意味があると映画の最後に出てくる。

変わった映画であり、一見の価値はある。

2020年8月5日水曜日

ビリディアナ Viridiana 1961

ルイス・ブニュエル監督、西、90分、白黒映画。

修道女のビリディアナは、年長のシスターに勧められて、自分を援助してくれた叔父宅へ行く。叔父はビリディアナに色目を使い、ただおくてで、自分の思いを打ち明けるのに、召使いの手助けを必要とした。ビリディアナは直ちに断った。出て修道院に戻ろうとする。叔父は謝り、なんとか考え直してくれないかと懇願する。ビリディアナはもう相手にしない。すると叔父はその夜、首吊り自殺をしてしまった。

若い息子が帰ってくる。やはりビリディアナに好意を持つ。ビリディアナは貧しい乞食のような者たちを集め、仕事をさせる、或いは教化をする。息子やビリディアナたちが留守の間、乞食連以外にも女など加わり、屋敷の高級な食器等を使い、乱痴気騒ぎを始める。息子たちが帰ってくる。息子を殴り、その後、ビリディアナに暴行しようとする。警官たちが到着した。

翌日か数日後、ビリディアナは物を言わない。息子の部屋を叩く。その前に息子は召使いと情事をしようとしていた。息子は臆することなくビリディアナを中に入れ、3人でトランプをしようと言いだす。初めからこういう時が来ると思っていたと息子は言う。

2020年8月4日火曜日

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ Godzilla: King of the Monsters 2019

マイケル・ドハティ監督、米、132分。

アメリカ製ゴジラ映画の一。最初の場面で、科学者夫妻は息子をゴジラに殺される。その数年後、怪獣の制御が専門機関で進んでいた。環境保護を口にするテロリストは基地を襲い、妻の科学者とその娘を拉致する。テロ集団は怪獣たちを蘇えさせ、世界を攻撃させる。科学者の妻は人間が地球を破壊し続けてきたので、怪獣たちで地球の浄化を図ろうとする。その考えには渡辺謙扮する科学者や、夫も含め、呆れて誰も納得しない。

キング・ギドラ(映画の初めの方ではモンスター・ゼロと呼ばれる。『怪獣大戦争』(昭和40年)で、宇宙人に呼ばれていたのを踏まえたのだろう)を呼び覚ます。キング・ギドラが次々と他の怪獣たちを復活させ、地球総攻撃になる。こんな事態は想定していなかったと、妻の科学者は悔やむが後の祭りである。怪獣たちを制御できるオルカと呼ばれる装置を娘は盗み、逃げだし、その装置でキング・ギドラの操りになっている怪獣たちをおとなしくしようとする。

一方ゴジラはキング・ギドラとの戦い中、オキシジン・デストロイヤーの攻撃を受け、宇宙怪獣のギドラは何もなかったが、ゴジラは海底深い自分の地で休息をとっていた。キング・ギドラを倒すためにはゴジラを再生させるべきと渡辺謙は主張し、自分で潜航艇に乗り、核爆弾を起こしてゴジラを再生させる。

最後はボストンでの怪獣決戦。キング・ギドラは、オルカを操作する娘に襲いかかる。ゴジラがやって来てキング・ギドラとの戦いになる。娘の父親の科学者は兵隊たちと一緒に娘の救助に来た。母親も逃げた娘を助けに向かう。廃墟のボストンで夫婦と娘は再会する。ギドラをやっつけるため、妻の科学者は自己を犠牲にする。

CG技術の発達もあってか昔の日本製のゴジラと比べ、戦闘場面の迫力は段違いである。

クローサー 夕陽天使 2002

コーリー・ユン監督、香港・米、111分。

悪役(暗殺屋)の姉妹と女刑事の戦いが主になっているアクション映画。最初、女刑事は姉妹を追う役なのだが、最後の方では暗殺屋の味方になり、一緒になって巨悪を成敗する。

日本映画「キャッツ・アイ」(1997)の再見で、この映画を思い出し、久しぶりに観た。「キャッツ・アイ」と同じように三人姉妹かと覚えていたら姉と妹の2人。女刑事役と姉妹の混同があった。娯楽映画として面白い。邦画「キャッツ・アイ」より本作の方が勧められるだろう。

2020年8月3日月曜日

エイリアン2 Alienss 1986

ジェームズ・キャメロン監督、米、136分。

恐怖映画であった第一作と趣向を変え、アクション映画に仕立て、公開当時から話題になった。シリーズ物は第一作が最も出来がよく、二作以降になると評価が下がるのが普通である。第一作の評判がいいので、連続物にしても最初の作品ほど評価されないのは、全体の枠組みは初めの作品で出てしまい、二作以降はその繰り返しで新味がない、が理由の一つであろう。だから本作とか『マッド・マックス』のように第二作で違う作りにすれば、新しい魅力を出せる可能性が高まる。

数十年ぶりの再見で、この時代にこれだけの映画を作ったのは新たに感心した。今の時代に初めて本作を観ても、多くの同様の映画が作られてきたので、初出時の鑑賞ほどの感銘はないかもしれない。

2020年8月2日日曜日

キャッツアイ 平成9年

林海象監督、東宝、92分。

三姉妹がキャッツアイという名の泥棒に化けて、貴重品等盗む。姉妹真ん中の女が刑事と相思である。また末娘は中国からの若い男と恋仲になるが、これも相手の正体が最後にばれる。見ている方は途中から気づくが。元々漫画が原作のようで、当時の人気女優を集めた映画であるが、出来栄えは褒められたものではない。いかにも昔の日本映画らしく、動作が鈍いし見せ所も大してない。好評だったら続篇を作るような終わり方になっているが、これでは作られるはずもなかろう。

観ていて中国映画の「夕陽天使」(邦題は忘れた)を思い出した。三姉妹の泥棒ものならあちらの方が見栄えする。出ている俳優に好きな人がいれば、また当時の日本映画の水準を見たいなら観るべき。

2020年8月1日土曜日

東京の合唱 昭和6年

小津安二郎監督、90分、無声映画。

高校の体育の授業から映画は始まる。その一人、岡田時彦は後に保険会社勤めになる。不況期で、どの位ボーナスがもらえるか同僚と不安がっている。社長室に呼ばれ渡される。岡田は年配の同僚が悲しそうな顔をしているので聞くと、馘になるとの返事。契約した契約者が立て続けに死亡して大金を支払った。責任を取らされるのである。岡田は理不尽だと言い、社長に抗議すべきだとみんなに呼びかける。結局、岡田が代表して社長室へ乗り込む。社長と言い合いをしているうちに相手を突くようになり、岡田は即刻解雇となる。

岡田には妻の八雲恵美子、幼い男女の子供がいる。娘役は高峰秀子がしている。男の子は父に二輪車を買ってきてくれとねだり、岡田は約束していた。岡田が帰ってくる。しかし二輪車は勝ってこず、代用品を買ってきて長男はふくれるばかりである。八雲に岡田は馘になったと告げる。大卒なのでへんな仕事にはつけず、いつまで経っても就職口が見つからない。

高峰が病気になる。入院させた方がいい。幸い入院で高峰は回復するが、治療費のため着物はみんな無くなった。岡田はある日、恩師(斎藤達雄)に会う。食堂を始めようと斉藤は言う。岡田に仕事がなければ手伝わないか誘う。八雲が子供たちを連れて列車に乗っていると、サンドイッチマンをしている岡田を見つける。後で八雲は岡田にあんなみっともないことはしないでくれと頼む。岡田は恩師であると告げ、就職口を捜してくれるかもしれないと返事する。数日後、恩師を囲んでかつての生徒たちの会が、その食堂で開かれる。斉藤の所へ手紙が来た。斉藤は岡田を呼ぶ。就職口が見つかった。栃木県の女学校の英語の教師の口である。岡田と八雲はしばらく黙っている。八雲は言う、また東京に戻れる日がくるかもしれない。恩師と元生徒たちの会合は続いていた。

昭和初期の不況が背景である。大卒なのでサンドイッチマンは恥ずかしい、田舎に行くのは島流しのようなものだと、現在でも内心はそう思うのが普通だろうが、映画で明示的に言わせない。別に偏見という意識は誰にもなかった時代である。現在観ると価値観が変わっているので、そんなところが目につく。