2014年11月28日金曜日

サラリーマン目白三平 昭和30年

千葉泰樹監督特集のフィルムセンターで見る。主演は笠智衆である。



 主人公の目白三平は国鉄本社に勤める平凡なサラリーマン。笠は老けてみえる俳優である。設定では45歳となっているが現在の感覚では50代後半くらいに見える。一般に当時の40歳代と現在の50歳代が同じくらいかもしれない。

妻は家で内職をしている、靴の穴が開いてもなかなか買い替えない、家で雨漏りがする、その修繕は自らやっているとか日本全体が貧しかった当時の様子が伺える。
大きな事件はないものの、抽選で1万円の商品券が当たったら家の者だけでなく、散々同僚にたかられるとか、若い友人の小林桂樹から頼まれ、彼の知り合いの靴屋に修繕を依頼するが出来が悪くて苦労するなどさもありなんといった挿話がいろいろ面白い。

あとこの主人公が国鉄職員という設定である。公務員のようなものである。今と違い、当時は公務員といったら安月給というイメージであった。時代が変わるとこういう点もわからなくなってしまうのだろう。

2014年11月27日木曜日

女の闘ひ 昭和24年

千葉泰樹監督による、高峰三枝子、木暮実千代主演の映画。

 高峰の新婚旅行、ホテルに着くところから始まる。階段のところで待っているのは木暮。わけありで夫が知っていることは明らか。部屋に入って夫に質す。明確な返事が得られない。潔癖な彼女は事情が明らかになるまで一緒になれないと言って東京に帰ってしまう。木暮が勤める銀座のカフェへ向かう。そこで彼女に会い、かつて夫と関係があったことを知る。カフェから出てきたところで夫と出くわすが、彼は運悪く車にはねられてしまう。

早々に未亡人となった高峰は河津清三郎演じる画家の下で絵の修業を始める。高峰の兄を演じるのは若き日の山村聡。大学の教師で例のカフェに通っているうちに木暮と愛し合うようになる。彼女の過去がどうであれ不幸な境遇から救いたいと思う。結婚を決意した彼は妹に話す。相手の名を知って驚く高峰。彼女の元へ木暮が訪ねてくる。数冊の日記を渡す。これを高峰にも兄の山村にも読んでもらいたいと言う。自分の過去が凡て書いてある。これを承知の上でもいいのなら結婚してくれと頼む。高峰はもらった日記は読まずに直ちに焼却してしまう。その後木暮と山村は結婚する。

一方高峰も画家の河村から求婚され承諾する。二人の個展が開かれる。招待されてやってきた木暮。実は来たくなかった、と言う。日記をみればわかるはずと補足。高峰が河津と結婚する予定だと言うと驚き、彼は色魔であって絶対にいけないと主張する。その時河津がやってくる。河津と木暮は二人で言い争う。また山村も来ていて話が聞こえてくる。河津も木暮の過去の男の一人であり本性がわかった高峰は、河津と別れることにする。木暮に向かって実は日記は読まずに焼いてしまったと告白する。そこへ山村も来て過去にとらわれず生きていこうと二人に言う。

 いかにも通俗小説的な展開で、映画にありそうな筋である。作り話的な感じがするが面白いことは面白い。

2014年11月26日水曜日

美しき豹 昭和23年

千葉泰樹監督が戦後の闇屋が幅を利かせていた時代を背景に女の生き方を描く。

かつて軍人だった父親は戦後すっかり元気をなくしている。主人公である妹娘は活発で、闇商売を営む会社に勤め、やり手として活躍している。未亡人となった姉が息子を連れて戻ってくる。近所に住む中年会社員は結婚を控えている娘がある。この男と姉が仲良くなり、息子も男になつく。男は妹娘とは仕事でも知り合うが、闇商売に物を売ろうとせず対立する。男が姉と結婚したいと申し出るが、父、妹とも反対する。羽振りを利かせていた闇商売だが旅行先の熱海で警察に摘発される。姉は警察から通知が来るが父は寝込んでおり、男に妹の引き取りを頼む。男と姉の結婚を父、妹とも今回は認めることとなった。

 脱線だがこの映画をみて思ったことは闇屋の機能である。違法の取引をしていたので度々摘発にあったとは知っている。ただ物資不足の中で重要な経済機能をはたしていたわけである。実態を無視した法規での取り締まり自体に無理がある。関わった者たちが問題であったとか、ただ容認することはできないものの、闇取引が生じざるを得ない時代であった。違法というだけで非難するのは経済の原則を知らないというしかない。

2014年11月24日月曜日

海猫の港 昭和17年

千葉泰樹監督の戦争中の映画。明治20年代の九州唐津を舞台にした親子の話。

町全体で祝賀会が始まる。唐津港が特別輸出港に指定されたので祝う。これは明治22年のことだそうだ。
港の居酒屋を経営する頑固者の父親。彼には息子二人がいる。下の子はまだ少年。祝賀会の剣道大会で負けて家に戻りにくくなっている。みんなで捜す。
少年は鉄道に憧れている。上の長男は隣のだんご屋の娘と相思の仲だが、彼は船乗りになりたいと思っている。下の子には東京の鉄道学校に入学を許す。長男は好きな子と結婚していいが、親父は何代も続いた居酒屋を継がせるつもりでいる。相手の娘に縁談が持ち上がる。娘が長男に相談に行くと今は外国へ行きたいから、待っていてくれと言う。父親は息子の好きな娘の母親から、船乗りに娘はやれないと言われ、初めて息子の願望を知る。息子に怒る。息子は世界の列強の中で日本の船はまだ一番でないと話し、日本にとって海事の発展がいかに重要かを説明する。父親は友人たちとも話し息子の希望を叶えてやることに同意する。最後は居酒屋で一人になった父親が寂しく座っている。

この話はフランスのマルセル・パニョル原作の戯曲「マリウス」の翻案だそうだ。元の戯曲やその映画等を知らない。父親が自分の希望と対立する子供たちの願いを最後には受け入れる、という点でミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」を思い出した。

海運や海軍等の発展が重要であるということで父親が納得するあたり、映画が作られた戦争中の雰囲気を反映しているかもしれない。

2014年11月22日土曜日

アチェベ『崩れゆく絆』 Things fall apart 1958

アフリカ文学の近代的起源と位置づけられている小説である。作者は現在のナイジェリアの東南部で1930年に生まれキリスト教徒の家で育った。イボ族という民族出身であるが、原書は英語で書かれている。



19世紀後半のアフリカが舞台。主人公とその部族の生活が、白人とキリスト教の影響により崩壊していく。前半の3分の2は部族の生活が描かれる。主人公は伝統的価値観に生き、戦士として評価され家庭では専制君主である。数人の妻を持っている。長男が軟弱なのが気になる。他の部族からの人質である男の子を養う。その子供を気に入るようになる。部落の決まりで殺すことになった時は自ら手にかける。祭りの最中に誤って仲間の子供を死なせてしまう。その罰として部落を追放され7年間妻の里で暮らさなければならなくなった。その間に自分が支配するつもりでいた元の部落では変化が起きる。白人がキリスト教を布教に来たと聞く。自分たち古来の神々を信じている彼は、最初は鼻で笑うが改宗者が増えていく。7年たって里に戻る。様変わりしておりキリスト教の教会も建った。なおかつ自分の軟弱な長男までキリスト者になる。教会の指導者の白人は、最初は柔和な人物で妥協的であったが、交代して来た者は独善的で攻撃的であった。主人公その他の者が交渉に行くと捕らえられ屈辱的な扱いを受ける。釈放された後、部落へやって来た教会の者を主人公は切り捨てる。最後に主人公は自ら命を絶つ。

 白人の側から見れば未開の民族の啓蒙であるが、原地の者から見れば勝手な宗教等を押しつけてくる侵略者である。この作品ではもちろん民衆への圧迫に対する抗議、とかそういった単純な観点から書かれていない。かなりの部分が白人侵入前の生活や習慣を記述することに割かれている。西洋文明に直面したアフリカの対応が描かれ興味深い。

2014年11月21日金曜日

空想部落 昭和14年

千葉泰樹監督による白黒映画。尾崎士郎の原作による。昭和初期、現大田区馬込にあった馬込文士村をモデルにして文化人たちの交流と時代の推移を描く。


 牛追村と呼ばれる東京郊外の田舎には作家、絵描きやその卵たちが集い、仲良く自由に暮らしている。かなりいい加減な生活をしているのも文士らしい。話の中心人物は千田是也演じる「国士」で、大言壮語癖があり安南独立を手助けしていると言っている。ある日この村へ女性がこの千田を「先生」と呼び訪ねてくる。かつての千田の虚言を信じ慕ってきたのである。妻をお手伝い呼ばわりして格好つけ、大金を与える空約束までする。女性は一旦帰るもまた牛追村へやって来て家を借りると言い出す。これには千田も逃げ出すしかなかった。

数年後、牛追村は東京に併合され都市化が進んでいる。ここに新しくできたホテルへやってきたのは千田である。たまたまそこでかつての仲間の一人と会い、今までの冒険譚を披露する。相手の仲間も作家であり自分の原稿を取りに来た出版社の担当に千田の話をする。編集者はすっかり乗り気になり専門家を集め座談会を開こうと言う。開かれると千田の話は内容は何もなくごまかしのみで、同席者たちは呆れ次々と退席してしまう。
また千田は自分が安南独立運動に関わっているため刺客に狙われているという。実はこの「刺客」は彼にだまされた借金の取り立てであった。再び千田は外国航路の船上の人となり、自分と同じ山師に会い交歓する。

さらに数年後。かつての仲間たちに帰朝し家を新築した千田から招待の手紙がくる。みんなで行くと豪邸である。彼にもてなされ、大いに楽しみ一同引き揚げる。仲間が戻ったのち千田は成功した旧友の山師に礼を言い、家に掲げてあった自分の名の表札をはずしてドブへ捨てる。

登場する俳優は戦後も活躍した人が多く、若い日の姿を見られる。主人公の法螺吹きを演じる千田是也は髪も黒く非常にスマートな体つきである。村長兼作家の三島雅夫は後年と大差ない。作家の殿山泰司はまだ髪の毛がある。その妻役の沢村貞子は変わらない。その他小澤栄や信欣三も若い。夫々役にはモデルがいるらしく、千田の主人公にはジャーナリストでそういう人がいたらしい。
文士だから普通の人とは違い、だらしなくても不思議でない。ただここに描かれたおおらかというかいい加減な暮らしぶりはいかにも古き良き時代という感じがする。

2014年11月20日木曜日

愛は輝く 昭和9年

フィルムセンターの千葉泰樹監督特集で上映された。欠落の多い30分程度の無声映画であり、普段見られない。センターのパンフレットには愛国婦人会後援の宣伝映画とある。

田舎町で娘と老いた母親が手紙を受け取る。姉からかと思ったが先に出した手紙が宛先不明で戻ってきたのだ。就職先を斡旋した近所の店のおばさんに尋ねるが自分は知らないとの返答。娘は帰りに知り合いの若い女(友達か女先生(?))に会う。事情を話すと愛国婦人会へ行って相談すればいいと言われる。ともに訪ね、県庁へ行ったりして行方を捜すうちに東京へ行ったとわかる。上京する。上野駅で降りる。滞在先と思われた店へ行くともう辞めたと言われる。また一方でフィルム欠落のため詳細不明であるが姉の夫が出てくる。姉は妊娠していたのだ。最後は赤ん坊を抱いた姉夫婦、家族そろって過ごせるようになる。

 昭和一桁は農村が不況で多くの娘が売られたと歴史にある。この姉も身売りか就職か知らないが田舎から都会に行って家族には行方不明となってしまった。映画では幸福な結末となるが、現実ではこのように家族と別れそのままになったか不幸な目にあった者が沢山いたのであろう。

出演者名には山路ふみ子、深水藤子、近松里子とある。前二者は知っているが、見ている最中わからなかった。インターネットを見てもこの映画の情報は一切得られなかった。女友達役の女優さんが非常に綺麗であった。

嬉しい娘 昭和9年

千葉泰樹監督による十代の山田五十鈴が主演する映画。

簡易保険の宣伝映画。某商事のドラ息子は次期社長に父から指名されるが怠け者で頼りにならない。彼が娘(山田五十鈴)を見初める。ストーカーとなって後を追う。自宅に着くとその家から保険勧誘員が転がり出されてくる。彼女の父親が保険と豆腐が大嫌いだと言って出てくる。それを見た息子は勧誘員に頼んで服装を替えてもらう。そのいでたちで彼女の家に再び勧誘に訪れる。案の定父親からどやしつけられる。生憎娘に見られていない。また性懲りもなく訪れ同様に投げ出される。今度は帰って来た娘がそれを見て同情する。父親の保険嫌いを説明する。それに自分は既に簡易保険に入っているという。息子は娘からあれやこれやと世話してもらうので喜ぶ。

次に来たときは食べ物のお土産を持ってくる。娘と話すとなんと彼女の勤め先が自分の父親の商事である。次期社長に内定している息子が白痴じゃないかと言われている、と彼自身の社内での噂、評判を聞く。彼が持ってきた食べ物は幼い弟がみんな食ってしまい、病気になる。医者にかかるお金もないと父親が心配するが、娘は簡易保険に入っているから治療費は無料と安心させる。

最後は新社長の挨拶が社員の前で行われる。娘はあの青年が社長とわかり驚く。彼はこれまで自分の評判が良くなく白痴と言われていたが、これからは努力してよい社長になると演説し拍手を浴びる。

 若い山田五十鈴が出ている現代劇ということで価値のある映画である。また面白い仕上がりになっており、楽しめる。見始める直前に昔見たことを思い出したが、改めてみて良さを確認した。

2014年11月19日水曜日

義人呉鳳 昭和7年

千葉泰樹監督の台湾を舞台にした無声映画。共同監督に安藤太郎。


何か儀式かお祭りをしているかのような男たちの群れ。日本人とは見えない。これは台湾の蕃社民族の祭り。場面は変わって住民たちが叫んでいる。蕃社人に殺され首をとられた、と。復讐を叫び手に手に武器を持って駆り出す。それを聞いた上級官僚というか長官のような支那人、彼が呉鳳であり、復讐を止めに入る。住民たちは怒っているがなんとかなだめる。自分が蕃社人に首狩りは辞めさせると約束する。蕃社人たちと交渉する。呉鳳は首狩りのような野蛮極まる行為は許せないと言う。しかし蕃社人は首狩りは先祖に捧げるためで昔からの習慣だと反発する。説得できず肩を落とす呉鳳。

そのうち蕃社人で伝染病が流行る。これを呉鳳が癒す。感謝される彼は首狩りを辞めさせる。代わりに髑髏を捧げればいいと言う。その後四十年間平安に過ぎた。四十あった髑髏はなくなった。また首狩りが始まるのか。呉鳳は蕃社人に、明日の夜明けに赤い服を着た男が峠を通る。彼の首を取っていいが、これを最後にしてくれと頼み蕃社人も納得する。呉鳳は自宅に戻り妻と息子に別れを告げる。これから遠くへ行くが何があっても覚悟せよと告げる。明くる朝、蕃社人が男を打ち取るとそれは呉鳳であった。いたく悔やみこの後首狩りはなくなった。

 台湾では有名な話だそうである。時代は18世紀。台湾を舞台に支那人と原地民族との抗争を日本人が映画にしている。台湾は当時日本の植民地だったからある意味不思議でない。フランスでも同様な映画が多くある。もっともあれらの多くはフランス人を描いているのだが。これは話の上では日本人が出てこない、日本人の俳優たちが演じる映画である。
この呉鳳が首狩りを辞めさせた話は、インターネットによると戦前の日本の教科書にも載っていたらしい。原地人側から見ればまた解釈は別であり、現在では作れない映画である。

2014年11月17日月曜日

デッドライン~USA Deadline-USA 1952

ハンフリー・ボガード主演、リチャード・ブルックス監督の米白黒映画。悪を暴くべく徹底的に戦う新聞の編集長を描く。



 ボガード演じる新聞の編集長は、気骨があり社会の木鐸という新聞の使命の権化のような正義漢である。全裸の女性の死体が川から上がっても煽情的になる写真は載せない、裏付けの取れない記事は載せないという方針である。しかしその新聞が身売りに出されるという情報が入ってきて記者たちは動揺する。

おりからマフィアのボスのような権力者が不正をいろいろ行っているという疑惑が話題になっていた。しかし証拠がつかめず逮捕もできない。取材に行った記者が暴行に会う。女性死体の身元が判明するが、洗っていくうちにこれも、記者暴行と同じく権力者につながることがわかる。新聞の売却には創業者の子供たちが進めている。故人の妻は新聞が廃刊となるなら嫌だと言い出す。編集長は仕事と新聞の存続で休まる暇もないが、前妻の家に行く。あまりに仕事中毒の夫に嫌気がさして離婚したのだ。編集長はまだ気がある。新聞が終わるなら再婚してともに過ごしたいと思っていた。しかし前妻から別の男と結婚するつもりと聞かされる。

死体で上がった女性の兄を見つける。元ボクサーでやくざ者である。この男から事情聴取をして記事にするはずだった。しかし権力者の部下が警官を装い、編集長の留守中に強引に連れ出す。兄は暴れだし新聞社の中で偽警官に撃ち殺される。
権力者を追い詰める記事も書けない、編集長自身も権力者自身から恐喝を受ける。新聞の身売りについて裁判が再開される。創業者の妻の反対にもかかわらず売却決定の判定が下る。明日で廃刊となる。死んだ女性の母親が編集長に会いたいとやってくる。自分の娘から預かったとして権力者の大金と、彼との関係を綴った日記を持ってくる。これによって記事が書けるとして新聞の印刷を命じる。最後に権力者から編集長に電話がかかってくる。脅しに対して全国の新聞を止めることはできないと答える。

息をつく暇もないくらい話が強烈に展開していく。迫力のある映画だ。ボガードがあまりに理想的というか超人として描かれているのが気になる。一方で最後にハッピーエンドで終わりでなく、新聞の廃刊が決まるとか厳しい面も見せている。

元々、問題にもなかったろうが以下は気になる。最後の新聞印刷開始の場面で前妻が編集長を訪ねて来る。よりが戻ることを期待させている。ただこのような仕事のみの男は、正直今どき賞賛されないのではないか。それとも無能でだらしない家庭主義者よりはましと言うべきか。

2014年11月16日日曜日

ケストラー『真昼の暗黒』 Darkness at Noon 1940

ハンガリー生まれのユダヤ人アーサー・ケストラーの小説。ヨーロッパ人の国籍の考え方はわかりにくいが、このケストラーも後にイギリスへ帰化し、本編も英訳しか残っていないそうである。


 ソ連では多くの「反革命」者に対する裁判が行なわれた。そのうちの一つ、かつてのソ連の指導者の一人、ブハーリンに対する粛清裁判にヒントを得て書かれたそうである。

小説では個人の本名は出てこないが、明らかにモデルがすぐわかる。
ルバショフというかつての党幹部が投獄されている。何度か尋問に呼び出される。隣室の囚人との壁叩きによる意思疎通、彼のかつての幹部時代の回想、尋問でのやり取りが主な内容である。
国の目的のためには手段を選ばない、目的のためにはいかなる手段も正当化されるといった発想でいったん反革命者と烙印を押されると、もう自由も場合によっては命も失う。そういった共産主義体制という暗黒社会の恐怖を描いている。

この小説はオーウェルの『1984年』が書かれた1948年よりも早い時期に書かれている。実際のモデルがあるものの、この小説で描かれた社会はその後のソ連をも見通している。実際にケストラーも当初は共産主義に共感していたものの、ソ連の実態に触れて考えを変えたという。
この小説の価値はその後のソ連を予測したと言うより、人間の実態を描いていることであろう。権威による正当化、お墨付きを得られれば、どんなことでも何でも使命感に燃えてやれるのである、やりたいのである。

2014年11月14日金曜日

カフェ・エレクトリック Café Elektric 1927

ウチツキー監督のオーストリアの無声映画。監督はあの画家クリムトの息子だそうで、ルノワールの息子の監督は誰でも知っているが、有名画家の息子監督の別の例である。



 なんでもマレーネ・ディートリッヒと当時の映画界で有名だったヴィリ・フォルストの二人が主役級の扱いとなったことで知られる映画らしい。ディートリッヒはこの後スタンバーグ監督の『嘆きの天使』(1930)で超有名になるが、その前の時期の映画である。

主役級と書いたがこの映画の主役は、素直に見れば別の二人であろう。その後ディートリッヒがあまりに有名になってしまったため今ではディートリッヒで語られる。

やくざ者の青年がウィーンの街角で親切に女性に近づきそのバッグを奪う場面から始まる。放蕩者の彼は、夜は酒場カフェ・エレクトリックで遊び女性と戯れる。夜の女で彼に執着な者もいるしかつて愛人だった女もいる。ここにディートリッヒ演じる建設会社の社長の娘も遊びに来ていて二人の仲は満更でなくなる。カネに窮している青年は無心をする。娘も品行方正とは言い難く父親の指輪を、隙をみて盗み出す。それを目撃した会社の技師が咎めるが言うことを聞かない。この後社長が紛失に気づき社員を責めるが技師は誰と言わない。

この技師がカフェ・エレクトリックに出入りする夜の女の一人と近づき、愛し合うようになる。彼女は実は不良青年のかつての恋人でまた好きになった彼は彼女に社長の娘からもらった指輪を与える。建設会社の社長も謹厳実直とほど遠く夜、カフェ・エレクトリックで若い女を漁っている。技師が席を外している時に恋人を見つけ口説こうとするがその指輪を見て驚く。どこで入手したかと詰め寄る。ちょうどその時、社長の娘が不良青年と組んでこの店に入ってくる。あの男と女が叫ぶと社長はむしろ自分の娘を発見して驚き、なぜこんな所へやってくるのだと怒り出す。丁度張込んでいた警察に青年は捕まる。彼がつれなくした女が通報していたのである。しかし彼は技師の恋人の仕業と思い込み仕返しをするぞと叫ぶ。
社長は娘をうちに連れていき叱るが、娘は今まで親らしいことをしてくれたことがないと反発し、家を出ると言い出す。

技師と恋人は結婚するが、仕事がなく毎日職を捜す日が続く。ある日かつての知り合いに会った妻は夫を連れてこいと夜の時間を指定される。その間に妻を襲おうとしていたのである。辛くも逃れるが、やはりかつてのカフェ・エレクトリックへ行ってなにか捜すしかないと妻は思い出かける。ちょうど知り合いと会ってホテルの前で話しているところを夫の技師が見つけ悪い職業に戻ったかと誤解する。捕まった不良青年は刑務所を出てきた。
これより先のフィルムは紛失。字幕で概要を説明。誤解した夫は妻を追い出す。不良青年は恨みで妻を刺す。夫も自分の過ちに気がつく。

 主役は技師(シム)とその妻(ヴァンナ)である。この映画のディートリッヒはのちに比べ、見た目も随分違う。最初からディートリッヒと知っていなければ気がつかないのではなかろうか。脚線美を見せる場面はある。当時から脚は売りだったのだろうか。

まごころ cœur fidèle 1923

『アッシャー家の末裔』(1928)で有名なジャン・エスプタン監督の仏無声映画。


 マルセイユの酒場で働いているマリー。好きな男がいるのだが、養い親からやくざ者と結婚させられそうになっている。恋人が酒場を訪ねると男と出ていったと言われる。捜して遊園地に着く。マリーは嫌いな男と回転アトラクションに乗っているが虚ろな目つきである。人混みの中からようやく二人を捜しだす。男同士は喧嘩を始める。やくざ者が取り出したナイフを恋人がとって仲裁に入った警官を刺してしまう。その間にやくざ者は逃げ出してしまう。
一年後出所した男は再び恋人を捜しアパートにやくざ者と住んでいることを突き止める。赤ん坊がいて隣室のびっこの娘と一緒に世話をしている。やくざ者は相変わらずカネを取り上げ飲んでしまうような堕落した生活をしている。マリーが男と逢っていると聞いたやくざ者はアパートに戻り男ともみ合いになる。やくざ者が落とした銃をびっこの娘が取り上げやくざ者を撃つ。
最後の場面では恋人同士が遊園地で遊具に乗っている。今度は男の恋人が虚ろな目になっていた。

 多くの場面のショットが印象的である。男の恋人がマリーを想ってその顔が海と重なるとか、遊園地の回転遊具の場面とか、モンタージュと言うのかフォトジェニーと言うのか知らないが、活動写真ならではの素晴らしさを再確認した。

妻の愛人 Der Geliebte seiner Frau 1928

マックス・ノイフェルト監督のオーストリアの無声映画。


 青年貴族は借金のため金持ちの娘と結婚せざるを得なくなった。道楽者である彼は結婚まで自由でいたいと希望し、気儘に暮らすべく偽名で借りているウィーンの街中のアパートへ行く。放蕩のせいで結婚式の日にタクシーに泥酔で発見され警察に留置される。警察に捕まった青年は知り合いの警部に助けられた。ただし隣の席にいた、ならず者に財布を盗まれていた。

花婿を待っている花嫁の娘は待ちくたびれて結婚式を放棄し街へ出る。アパートを捜していると、たまたま主が数日空けている部屋があるので、そこを借りることができた。これが実は自分の婚約者が偽名で借りていた部屋だったのである。男の主が数日空けているからといって見知らぬ女にその部屋を貸してしまう感覚は全く理解できないが。娘が部屋で風呂に入ったりしているうちに男が帰ってくる。ここでよく映画等にあるようになかなか二人が鉢合わせせずに部屋の中を行き交う。しかし最後に出会い口論になる。お互い婚約者なのだが相手の顔を知らない。二人とも偽名を使っているので気がつかない。しかしながら相手に対しそれほど悪い気がしないようになる。また二人とも探偵社に電話して自分の婚約者の素行を調査する。ともに見知らぬ別の者(実は偽名の婚約者)と付き合っていると連絡が来る。

青年貴族の財布を盗んだならず者は、カネを使いまた名刺によって自分が貴族であるかのように振る舞っている。このならず者が捕まるレストランへ、たまたま二人が行っていて最初娘が事情を知り、最後は大団円となる。

 喜劇でよくあるように勝手な思い違いや、現実ではあり得ない偶然の積み重ねによって話が進行していく。お馴染みの展開がどうやって最後に明らかになるかが関心である。

芸術と手術(オーラックの手) Orlac’s Hände 1925

ロベルト・ウィーネ監督による1925年のオーストリアの無声映画。『カリガリ博士』のチェザーレを演じたコンラート・ファイト主演。


 主人公のオーラックはピアニストであり、その妻は夫の帰りを待ちわびている。車で迎えに行ったところ夫の乗った汽車が衝突事故を起こしたと知らせが入る。急いで現場に向かう。瀕死の夫を病院へ連れていく。手術等手当を尽くしたが手だけはどうにもならないと医者から言われる。妻は夫にとって手は命より大事なのでなんとかしてくれと訴える。
手術後何日かしてから包帯を取る日がきた。オーラックの両手とも無事に見えた。しかしその手は実は死刑になった強盗殺人犯の手を取ったものと知ってしまう。これですっかりノイローゼになり、自分の手が意思と関係なく怖ろしく、それに支配されているかのような幻想にまで取りつかれる。

ある日の自宅の扉に特徴的なナイフが刺してあるのを見つけ隠す。新聞を見ると金貸しが殺され、指紋は死刑になった強盗殺人犯のものとわかり、またその犯人のナイフがまさに自分が見つけたものであったと知る。これで一層恐怖に陥る。

家庭の経済事情が緊迫し、仲の悪い父親にカネの無心に行くと父の死体を見つけた。警察が調べるが使われたナイフは自分が隠したあのナイフであった。オーラックのところへ不審な男がやってくる。そして「真相」を打ち明ける。ナイフから見つかったのは、まさにオーラックの今の手の指紋なので父殺しの犯人はオーラックしかない。警察に告げない代わりに大金を寄こせとゆする。

この映画は、自分の手が自分のものでなく怖ろしいものとしか感じられず、かえってそれに支配され、罪を犯したのではないかと悩まされる恐怖を描いている。人間が外部のモノに支配され破滅を招く、それが酒であったり麻薬だったり賭博だったり、そういう話はよく聞く。ここではそれが外部でなく自分自身の一部なのである。自分の手という最も重要な身体の一部を悪魔のように感じてしまう。印象に残る作品であった。

2014年11月13日木曜日

喜びなき街 Die freudlose Gasse 1925

パプスト監督の1925年の映画、フィルムセンターの「フィルムアルヒーフ・オーストリアの無声映画コレクション」特集で初めて142分の長尺版を見ることができた。

 

第一次世界大戦後のウィーンの世相を背景にその中で生きようとする人々を描く。普通これはグレタ・ガルボの映画として知られている。以前みたこの半分程度の版ではこの映画のうちガルボの部分のみを取り出して編集したような感じに思える。またそもそも公開当時からあまりに社会を暗く描いており批判的ということで、大幅に検閲で削除され、縮尺版しか見られなかったようだ。フィルムセンターのパンフレットによれば資本主義を批判する材料としてソ連で削除部分が残されていて復元が可能になったとのこと。

 筋は三人の女性とその家族の様が描かれる。グレタ・ガルボの父親は退職して得た金を株につぎ込み一文無しになる。ガルボ自身も勤め先の上司から性的嫌がらせをされ辞めてしまう。収入の口を失ったので貸し間を始める。戦後ウィーンへやってきた赤十字のアメリカ青年がこの部屋を借りる。ガルボに好意を持ち住居手当の金を凡て渡す。これで一息つけると思ったら株の損失の借りを請求され右から左へ消えてしまう。やむを得ずクラブで職をみつけ働こうとするが中々慣れず逃げ出してしまう。

この映画は戦後のウィーンで金持ちや株の操作でぼろ儲けを企む成金などの享楽、退廃ぶりと、餓えに苦しみ肉を買うにも一晩中並ぶ必要があるような一般庶民の対比を軸として話は進む。

ガルボの幼い妹が米青年の部屋から缶詰を盗み出したと疑いをかけられ、それに怒った父親は青年に出ていくよう命じる。家賃収入もなくなったためガルボはクラブへ出ざるを得ない。
アスタ・ニールセン演じる娘、といってもこの映画のニールセンは老けてみえる。『奈落(深淵)』から15年程度たっており、実際にはもう30歳過ぎであったからやむを得ない。もっともこの映画が公開された当時は圧倒的に彼女が有名でスターであったはずである。
彼女の家も貧しく食い物を持たずに帰られない。肉を買えなかった彼女は帰宅をあきらめ恋人のところへ行く。ただこの恋人は不実でもう彼女に関心はないようだ。その後彼女は金持ちから好かれ何でも贅沢をできる身分になったにも関わらず、放心状態のように何事にも無関心になる。聞くと前に隣室であった殺人を目撃したからと言う。その犯人は彼女の以前の恋人だったと告白するので、彼は逮捕される。

この映画をガルボとニールセンの二人が主役と言っていいが、もう一人の家族も描かれる。若い彼女は結婚しており赤ん坊もいる。子供のため肉が必要な彼女は、強欲な肉屋に体を与え買ったこともあった。彼女はヘルタ・フォン・ヴァルターという女優が演じており、他の二人に比べ知名度は低いが、長尺版でそれなりの役を演じている。短縮版ではほとんど出てこないが。

話は次のように終結を迎える。
ニールセンは自家へ戻る。親は喜んでくれるが実は別れを告げるためであった。その後彼女は警察へ行く。実は元恋人の殺人目撃は嘘だったと言う。別の女といるのを見つけたので嫉妬で彼が出てから自分が絞め殺したのだと。
ガルボがクラブで働いていることをたまたま居合わせた米青年が見つけ驚き、なじる。自分が与えた家賃はどうしたと詰める。ふしだらな女と思ったからである。その時父親がやってきて借金の受取状を見て自分も今わかった、彼女が自分の借金を払ってくれたのだと説明する。これで青年も納得、喜んで家に帰ろうという。その時クラブの騒ぎに怒り狂った民衆たちが押し寄せ、クラブの客たちは逃げ出す。
赤ん坊に与えるものもなくなった若い母親は以前と同じように肉屋に掛け合い、肉を貰おうとする。しかし相手にされないので逆上して殺してしまう。屋根裏に逃げた若い夫婦は火を放ち心中しようとするが親の心を取り戻し赤ん坊だけは助ける。

 やはり以前の短縮版しか見ていない人はこの長尺版を改めて見るべきと思う。

2014年11月12日水曜日

薔薇の騎士 Der Rosenkavalier 1925


あの有名な歌劇『薔薇の騎士』と同じ原作の無声映画である。監督は『カリガリ博士』で有名なロベルト・ウィーネ。
 


 歌劇愛好家にはお馴染みの話である。ただしこの映画の制作にあたって原作者のホフマンスタールは話を変えてある。もちろん大筋は同じである。またR・シュトラウスも音楽を元の歌劇用を大部分使っているものの、追加したりしている。このように映画制作に原作者、作曲家とも協力している。
歌劇との違いとして無声映画で歌がないのでアリアや重唱のような歌劇では聞かせどころは省略している。逆に屋外の場面やマルシャリンの夫の公爵が参加する戦闘の場面などどこかのフィルムの流用かもしれないが、追加されている。特に終わり方が歌劇と結構違っている。またこの最終部分のフィルムが欠落しており、静止写真や予告フィルムと文字による解説で補っている。

 正直、歌劇に親しんでいない人がいきなりこの映画を見てもわかりにくいかと思ったりした。そもそも歌劇は舞台芸術で不自然な話のつながりとか許されるが、映画で見るとどうなのかなと思ったりした。

イスラエルの月(奴隷の女王) Die Sklavenkonigin 1924

オーストリアのミハーイ監督による古代エジプトを舞台にした無声映画。原作は『ソロモンの洞窟』で有名なHR・ハガード。


 聖書の出エジプト記が背景である。すなわちデミル監督の『十誡』を思い出させる。しかし『十誡』のように聖書の物語の映画化でなく、出エジプト記をベースにした、そこでのイスラエル人の女奴隷が主人公の話である。
エジプトで奴隷として働かされているユダヤ人の女(彼女がイスラエルの月と呼ばれる)は美人なので監督官が目をつける。エジプトの王子は不正を許さず女を助ける。それだけでなく好意を持ち、わざわざ彼女目当てにユダヤ人地区に入って危険な目に会う。この王子が正義漢で彼女に好意を持ち、ユダヤ人を解放せよと主張するまでになる。そのため王位継承の地位を失う。自分たちに尽くしてくれる王子に感謝して彼を襲うユダヤ人たちの計画を知らせ救おうとする。最後はユダヤ人たちを追った彼の代わりの王位継承者が海で溺れ、イスラエルの月を火あぶりにしようとしたエジプトの神官から救い出す。民衆は王子が新しい王になることを万歳する。

 古代エジプトのセットは『イントラレンス』のバビロンセットほどでなくとも金をかけた映画であろうと思わせる。また群衆もエキストラを大量に使っている。

2014年11月2日日曜日

イタリアン・アメリカン Italianamerican 1974

スコセッシ監督が自らの両親へ、昔の思い出をインタビューした映画である。


だから登場人物は両親と監督の3人だけ。専らいかにイタリアからアメリカに移民してきたか、その当時はどうであったか、また祖父母にあたる人たちの思い出が主で、スコセッシ家伝来のソースの作り方も披露される。スコセッシ監督の親だからというより、一般的な当時のイタリア系移民が経験したアメリカの歴史ということであろう。世紀の変わり目当時、アメリカへ行きたがったイタリア人が多かったとか、先にきていたアイルランド系との衝突など、マフィアを描いた映画と重なり合う。もういい歳になっている両親であるが、いかにもアメリカ的というかイタリア的というか、そう言えば尤もらしく見える夫婦である。