2019年6月27日木曜日

シェクター『オリジナル・サイコ』 Deviant 1989

アメリカの殺人犯エド・ゲインの生涯と犯罪の記録。殺人は2件のみであるものの、死体の盗掘もあって、類を見ない猟奇犯罪として記憶されている。

1906年に生まれ、人生のほとんどをウィスコンシン州の田舎で過ごした。母親は狂信的な信仰家であり高圧的人格の持ち主、父親の存在感が薄かったなど、他の犯罪者にも同じような事例がある。
母親は他の女のふしだらさを攻撃し、性愛を徹底的に嫌悪する教育をゲインに施す。その母親をゲインは崇拝し慕っていた。母親の死後、一人住まいとなったゲインは周囲の住民から気のいい男と見なされ、農作業の補助等に使われていた。

1957年に中年の酒場の女主人が失踪する。明くる1958年に雑貨屋の女主人をゲインが連れていく現場を目撃した男から真相が発覚する。ゲインの家に入り込んだ連中は、女主人の死体が屠殺場の動物のように吊り下げられているのを発見。更に前年失踪していた女の身体の一部も出てきた。それにとどまらず、かなり数の死体の破片がゲインの敷地から発見された。
ゲインに訊問すると墓場を発掘していたとのこと。実際に墓を開けてみると空であった。

殺人2件と暴かれた死体は凡て中年女性が対象であった。これはゲインの母親に対するアンビヴァレントな感情の反映であった。
死体を素にしたあまりに猟奇的な行為は全米を震撼させ、犯罪史上に名を残す。
ゲインは精神異常とされ裁判では無罪、精神病院で77歳の天寿を全うした。彼を担当した保安官は40歳代で病死、裁判官もゲインより早く死んだ。

本件を基にした有名な映画が2件あり、精神異常面に注目したヒッチコックの『サイコ』、猟奇性を扱ったトビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』、と普通言われる。もっともフーパー自身は否定しているそうだ。
柳下毅一郎訳、ハヤカワ文庫、1995

デス・バレット Laissesz bronzer les cadavres 2017

ベルギー、フランス映画、エレーヌ・カテト、ブルーノ・フォルザーニ監督、90分。
金塊を盗んだ連中は城の廃墟のような砦に立てこもり、警官等との銃撃戦をする。

映画は銃声の非常に大きな音で始まる。的を狙って射撃の訓練なのだが、その音が大きい。たぶん実際の音を再現しようとしているのだろう。しかし何回もの銃声、うるさくなってくる。
輸送車を襲い、金塊を奪う。廃墟のような城塞に住む芸術家の家に行く。そこへ警官らがやってきて銃撃戦になる。また仲間でも不信が生じる。城塞に住む女などもいる。

映画は同じ時刻の場面(時刻も表示される)が何度も視点を変え、映される。

筋の展開を観る映画というより、映画の美学を狙っているのかと思わせる。難解な映画が好きな人向き。

2019年6月24日月曜日

撃たないで! iet Schieten 2018

ベルギー、オランダ映画、ステイン・コーニンクス監督、139分。
1985年に実際に起きたスーパーマーケット銃撃事件を基にした映画。

祖父母には娘とその夫、孫娘と孫息子がいる。
お祝いの日、そばのスーパーマーケットに娘夫婦と孫たちが行く。銃声が聞こえる。祖父は見に行く。銃撃戦が起こっているようで、警察から子供たちの世話を頼まれる。家に戻ると妻から自分たちの子供はどうなったか訊かれる。

娘夫婦と孫娘は銃殺されていた。孫息子だけ脚を撃たれたが残った。映画は祖父が事件を解決してくれるよう警察、憲兵隊にかけ合う。また取材する記者からも協力を得て真相究明に取り組む。

驚くのは役所仕事はどこにでもあるが、この映画の舞台のベルギーの警察を主人公の祖父は全く信用していない。それは事件解決のために対応してくれなかったことから来ている。独裁国や開発国なら警察は当てにならないとわかるが、ベルギーのような西欧でそう言うのである。
映画制作時には、まだ解決されていなかった。
現代は先進国といえども安心して暮らせる社会ではないと思わせる。

キオスク Der Trafikant 2018

オーストリア、ドイツ映画、ニコラウス・ライトナー監督、113分。

1937年から明くる年にかけてのオーストリアが舞台。主人公の青年は田舎の湖の畔に母と住んでいたが、就職のためウィーンに行く。叔父が営むキオスク、あるいは煙草屋に着く。煙草以外にも新聞や雑誌、文房具を扱う。

主人公が好きになるボヘミア出身の少女、また煙草を買いに来るフロイトとの交流が描かれる。時代だけにオーストリアにもナチスの手が伸びてきて、ドイツに併合、ナチ信奉者からの嫌がらせなどが起きる。青年の成長が当時の社会背景で綴られる。
国立FA623日上映の終了後に、原作の翻訳者の説明があった。話もうまく聞いてわかった事項等ある。

ところで本作が今年のEUフィルムデーズの初日に上映された際には満員で入れなかった。今回2回目の上映なのに、自分の整理券の番号で、入場者数が足りるか確認のため止まってしまい、入れてもらうのに時間がかかった。整理券を配っているのだから、実際に入れる際、入れないといったら困る。ほぼ満席であった。
もちろんつまらない映画ではないが、ナチ当時の社会を描いた映画によくある筋で、別に今年のEUフィルムデーズの最高傑作でもなかろう。入場に手間取ったので、そう思ってしまった。

2019年6月18日火曜日

イヴァン Ivan 2017

スロヴェニア、クロアチア映画、ヤネズ・ブルゲル監督、95分。

病院で女主人公が出産する場面から映画は始まる。実際に赤子が出てくるところを映している。ヨーロッパ映画は日本なら絶対に映さないところをそのまま映して驚く場合があるが、これなど典型。

母親は生まれた子供イヴァンに愛情を持てない。父親は政治家でその家にイヴァンを連れて押しかける。父親は刑務所に入っていたから出産に立ち会えなかったが、自分の子供と認めると、その妻は激怒する。女は追い出される。後に暴力団のような男が弁護士を連れて女の家を訪れ、子供は政治家の子でないという書類に、腕ずくで署名させられる。

女はイヴァンを連れて担当施設に行き、そこで住む家を紹介される。父親の政治家から連絡がある。凡て妻の企みである、イヴァンと共に施設を出て一緒に来いと。車で逃げる。男の妻が出した追手が追いかける。一度まいたが駐車場で見つかる。男は女がいない隙に、警察に赤ん坊が捨てられていると告げる。女とまた逃げるが、女は怒り狂う。そうしないと赤ん坊は連中に連れ去られたと男は言う。また施設に赤ん坊は戻され、そこから里子に出される。既に里親といる他の子供たちは、自分らが追い出されるというので、赤ん坊を処理しようと企む。

女は施設にかけ合うが、赤ん坊を置き去りにする親に渡せないと担当官は頑固である。
男が掛け合い、赤ん坊の居所を教えてもらう。そこへ行く途中、男が買い物をすると車を出ると女はカネの入った袋を置いて、一人車で去る。里親の家に着く。イヴァンは無事だった。赤ん坊を抱きしめ、去っていく。

2019年6月15日土曜日

アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場 Tuntematon sotilas 2017

フィンランド、ベルギー、アイスランド映画、アク・ロウヒミエス監督、132分。

第二次世界大戦当時のフィンランドとソ連の戦争を描く映画。当時の事情をよく知らないため、両国の戦いについて教えられた。まず冬戦争なる戦争があり、それによってフィンランドは領土をソ連に奪われた。その奪還のための戦争は、第二次世界大戦でドイツがソ連に戦いをしかけたため、ドイツと組んで行なった。取られたカレリア地方に進攻し、更に旧国境を越えてソ連領に進める。
主人公は取られた土地を取り返したい、家族を守るためと言ってひるむことなく戦闘を行なう。最後はソ連に敗退し、平和条約を結ぶまでとなる。数々の苦難を乗り越え、主人公は家族のもとに帰る。

ソ連に負けてから今度はドイツと戦ったそうで、このあたりイタリアに似ている。最後に第二次世界大戦の敗戦国のうち、戦後、占領されなかったのはフィンランドだけだという字幕が出る。どうしてなのか知らない。
日本は敗戦でそれまでの日本が否定されているから、ろくな戦争映画はないような気がする。

2019年6月13日木曜日

ウェスタン Western 2017

ドイツ、ブルガリア、オーストリア映画、ヴァレスカ・グリーゼバッハ監督、121分。

ブルガリアの田舎にドイツ人の工事人たちがやってきて施設を造る。その中の無口な男が主人公である。工事人たちは地元の女などに声をかける。主人公は地元民に好かれ、また若い女と懇ろになる。地元民から白馬を借り、駆ける。その白馬は同僚のドイツ人が夜中に使い、崖から転落させ馬を死なす。主人公はいい目ばかりに会うわけでなく、地元民らから暴力を受けたりする。祭りの最中で映画は終わる。

本作は国立FA開催の2019EUフィルムデーズで上映された。2回目の上映もかなりの席が埋まっていた。
正直どこかいいのか、よく分からない映画であった。ヨーロッパの映画は昔から難解とよく言われる。しかしEUフィルムデーズを見続けて来て、普通に面白い映画が多かった。本作などそういう意味でヨーロッパ的といえるか。
なぜ観客が多く来たのかと思ったら、国立FAのパンフレットに映画誌のベストテンに選ばれたとある。たぶんこんな所を見て来たのだろう。

いかにしてフェルナンド・ペソーアはポルトガルを救ったか Como Fernando Pessoa Salvou Portugal 2018

ポルトガル、フランス、ベルギー映画、ウジェーヌ・グリーン監督、27分。

1927年のリスボン。詩人で会社に勤める主人公は、社長に呼ばれる。アメリカで大流行しているコカ・ローカを輸入販売することとなった。その宣伝文句を考えてくれ。広告と詩の組み合わせは良い。一口飲んだ詩人はまずさに驚くが、詩人は嘘を書くものだから問題ないと言う。
帰宅すると外国にいた友人が一時的に帰っていた。広告の文句の件で相談する。

最初はまずいが、やがて病みつきになるといった宣伝文を社長に伝える。ポスターが作成される。
厚生省の役人は、その飲料が不適当として販売禁止を決める。会社は破産する。詩人は海に向かって呟く。自分がポルトガルを救ったのに、誰も気づいてくれない。

映画の後の解説兼対談があり、この映画はポルトガル人ならわかる挿話を基にしているとあった。そもそもポルトガルが戦前コカ・コーラの輸入を禁止した事実がある。またポルトガルで高名な詩人フェルディナンド・ペソーアがいた。また歴史上の有名な王がいて、ポルトガルを救済してくれると国民は期待していた、といった話がされた。
制作国の常識が分からないと十分な理解ができない、そういう映画があり、これもその一つである。

恐怖の設置 A Instalação do Medo 2016

ポルトガル映画、リカルド・レイテ監督、15分。
女の住まいに男二人が訪れる。「恐怖」を設置に来たのだと言う。トイレを使わせてくれと頼まれる。故障していると女は答える。構わないと言われる。男の一人がトイレに入ると女は棒で打ち倒す。もう一人の男も女に捕まる。風呂の脇で縛られている男が目を覚ます。女が風呂のカーテンを開く。死体が積み重なっている。男に銃を向け引き金をひく。

監視が行き渡る独裁社会の恐怖は既視感がある。それを逆手にとって映画化。

ウォーターパーク Aquaparque 2018

ポルトガル映画、アナ・モレイラ監督、17分。
若い女がプールの跡地に来て、ラジカセをかけ、ローラースケートで踊り出す。それを見ていた若い男が傍に来る。ラジオから宝石店強盗のニュースが流れてくる。撃たれたという。男がその犯人だったのだ。男は横になる。パトカーのサイレンが聞こえる。女は男の持ってきたバッグ(宝石が入っている)を持って去る。警官が来る。死んで横たわる男。

2019年6月12日水曜日

修道士は沈黙する Le confessioni 2016

イタリア、フランス映画、ロベルト・アンドー監督、108分。

海際のホテルでG8の蔵相や中央銀行総裁を集めた会議が開催される。IMF専務理事の発案によった。そこに局外者とも言うべきイタリアの神父と、女の童話作家が招かれた。理事は神父を自分の部屋に招く。告解がしたいと言う。驚く神父。なぜ今か。この二人の会話は映画中、何度もその経過が映し出される。
神父と会った翌朝、理事の死体が見つかる。自殺か他殺か不明。神父は呼ばれて何を話したか訊かれる。告解だから答えられない。

集まった各国責任者の推測などが描かれる。この会議で決定する予定の議題があった。大体は賛成なのだが、反対者がいる。その駆け引き。マスメディアへの発表はどうするのか。
神父は理事から渡された数式の紙で、その案件が分かる。貧しい者らの救済はどうするのか、銀行ばかりの利益保護はどうかといった問題であった。
各国の財政・中銀首脳の会議を主題にした映画はあまりない。その点は目新しかった。

無限のガーデン Безкрайната градина 2017

ブルガリア映画、ガリン・ストエフ監督、90分。
主人公の兄弟のうち、兄は市長の補佐をしている。ゴミ収集車がストを行ない、街中ゴミで溢れかえる。市長はこの事態で自分の利を図るよう目論む

弟は歌が得意で合唱団に席をおき、花屋に勤めている。店を経営する女性に恋している。その女性は箱庭を店の奥に多く作っている。
兄は最後の方で明らかにされるが、両親の交通事故死に自分の責任があると思っている。既婚だが、弟の勤める店の女性に惹かれる。
心が通い合わなかった兄弟が変化し、また同じ女性に惹かれることで話が展開する。

2019年6月9日日曜日

心と体と Teströl és lélekrö 2017

ハンガリー映画、イルディコー・エニェディ監督、116分。
中年の男と若い女の恋愛劇であるが、映画は何度も林の中の鹿の場面が挿入される。

牛肉のための牛処理施設、そこの部長は臨時雇いになった若い女に心惹かれる。女は人付き合いが苦手で孤立して働いている。部長は声をかける。女は避けているようにさえ見える。
施設で牛用の性欲増進剤が盗難にあう。警察の勧めで職員に対し精神科医の診察が実施される。若い女医は職員に刺激的な質問をする。部長はどんな夢を見たかを訊かれ、林の中に鹿がいる夢を見たと答える。同じ質問を若い女にする。すると女も同じ答えをする。女医は二人を呼ぶ。口合わせをしたのか。これで二人は同じ夢を見ていたのだと知る。映画中何回か挿入される鹿の場面は二人の夢を表していたとわかる。

その後二人は接近する。もともと惹かれ合っていたのである。男女は同じ夢を見ると知り、夜会いましょうなどと挨拶する。二人は同じ部屋に隣り合って、ただし同衾でなく、寝台とその脇に寝ることさえ試みる。
最後には愛を打ち明け合い寝るようになるのだが、そこまで時間がかかる話である。

男はおくてにしては、しょっちゅう女に声をかける。それなのに愛をはっきり伝えない。自分は腕に障碍があり、中年であることを気にしている。勿体つけて格好つけて、自分を好きになってもらいたいと期待している態度が明瞭である。あれほど喋るならもっと早く気持ちを伝えられる気がするが、映画なので時間をかけているのだろう。

映画は視覚芸術である。鮮明な場面、映像は記憶に残る。舞台が牛処理施設なので、牛の屠殺の場面がある。首を切り落とす。それで牛の首が切断面を上にして転がる。その切り口が真っ赤で牛の組織が蠢いている様子が映し出される。強烈である。欧州映画は日本ならまず映さない場面も普通に映す。この牛の首の断面は本映画で一番心に残る。

2019年6月8日土曜日

ヤン・パラフ Jan Palach 2018

チェコ映画、ロベルト・セドラーチェク監督、124分。
1969年のプラハの春の当時、ソ連と当局に対し抗議で焼身自殺した青年がいた。そのヤン・パラフの生き様が映画化されている。

チェコでは社会主義の下での自由化を進める動きがあった。パラフは政治家等に期待した。しかしソ連軍の戦車が侵攻してくる。しかしチェコの当局は手向かえできない。
ヴェトナム戦争で、抗議の焼身自殺した僧侶をニュースで知っていた。映画は友人、恋人、母親との関係を描いていく。最後にプラハの中心部の広場で焼身自殺をするのだが、事実に基づいた映画のため、自殺までの決意がよく納得できないところがある。
いくら抗議とはいえ、自殺までする必要があったのかと感じる。ともかくこの行為によってヤン・パラフはチェコに永遠にその名を残した。

2019年6月7日金曜日

ロミー・シュナイダー ~その光と影~ 3 Tage in Quiberon 2018

ドイツ、フランス、オーストリア映画、エミリ・アテフ監督、115分、白黒映画。
ロミー・シュナイダーが1981年、ブルターニュのホテルに滞在中、ドイツの雑誌からインタビューを受ける。それを中心とした映画。

高級ホテルといっても見てくれは3階建てのアパートのような建物、そこにシュナイダーの古くからの女友達が到着するところから映画は始まる。
ドイツの雑誌の取材があり、その雑誌社の記者とカメラマンが来る。カメラマンはシュナイダーの古くからの友人である。女友達は雑誌の勝手なインタビューを心配する。しかしシュナイダーは言いまくる。夜になって近くのバーへ行く。一晩中飲み明かす。カメラマンはシュナイダーの部屋を訪れる。朝になるといない。捜すと岩盤の海岸にいる。そこを飛び跳ねる写真をカメラマンは写す。足をくじく。骨が折れて映画出演は出来ない。パリに戻り最愛の息子と一緒に過ごす。

大女優の人間を描き、評価された映画だそうである。

エッシャー 無限の旅 M.C. Escher - Het oneindige zoeken 2018

オランダ映画、ロビン・ルッツ監督、80分。
だまし絵やデザインで有名なエッシャー、祖国のオランダで制作された伝記映画である。エッシャーは19世紀末に生まれ、長生きした。

本映画は、凡てエッシャー自身の言葉で説明されている。即ち書簡、講演等で残されているエッシャーの言葉による解説で構成される。今では高齢者である息子へのインタビューもある。
正直、エッシャーが比較的最近の人と知った。エッシャーの図案等は勝手に利用されて怒ることもあったようだ。

アン・ルール『テッド・バンディ』(上下)権田萬治訳、原書房、1999年

稀代の殺人者、テッド・バンディ(1946~1989)の伝記である。この伝記というか、殺人犯の記録は通常の犯罪記録とやや異なる。それは著者のアン・ルール(有名な犯罪記録作家)がバンディの知り合い、あるいは親友といってもいい仲であったからである。もちろん連続殺人を犯していく前である。
そのため、できるだけ客観的に事実を記録していくというより、まるで身内の犯罪者を語っているかのような記述が散見される。例えばバンディが犯人でないかと警察から訊かれ否定するところや、刑務所でのバンディの待遇を心配するところなどである。

手にかけた全体の数は、若い女性ばかりだが、分かっているだけでも36人、もっとあるかもしれないという。驚くべきはバンディは2回も脱獄しているのである。特に2回目の脱獄後、数人を殺害している。この辺り、アメリカ人のいいかげんさが影響しているのではないか。
裁判が始まってからも知能の高いバンディは法廷闘争で自分への刑罰を逃れようとする。
最後に処刑になった時には刑務所外で、民衆が歓声を上げたという。

なぜこのような人物になったのか。下巻の最後の方で少しだけ触れている。生まれは複雑である。私生児として生まれ自分の祖父母を父母と、母を姉として育ったという。やがて母は結婚し義理の弟妹が生まれる。しかし自分の出生を知る。

犯罪者は不幸な幼少年時代を過ごした者が多いように思われる。もちろん幼少年時が不幸でも犯罪者になる者は限られている。
ともかくこのような犯罪をできるだけ防止できる(可能性を低下させる)措置が必要である。

2019年6月4日火曜日

岡田暁生『音楽の聴き方』中公新書、2009

著者は「音楽の「語り方=聴き方」には確かに方法論は存在するのだ」(はじめにp.III)という。それならその方法論とは何か。興味を持って読み始める。しかしちっとも面白くない、興味をもって読み進められない。権威ある引用と個人的な体験や感動が色々述べられている。

1章の最後に村上春樹の文章が引用されている。読めばほとんどの人がそのとおり、同意見と思うであろう。著者は「音楽を聴くことの究極の意味について、これにつけ加えることは何もあるまい」(p.33)と言うのである。呆れる。それまで述べてきたことは何だったのか。付加価値ゼロである。

最後の「おわりに」を読む。小説のようにそれを読む自体が楽しみでなく、何か知りたい、目的を持って読む、手段としての読書ならはじめにの後、おわりにを読むといい。俯瞰が得られる、残りを読む際にも分かりやすくなる。
本書の「おわりに」を見ると、箇条書きで要約が書いてある。ここを読めばよい。大体同意できるというか、当然の事柄が書いてある。同意できないところもある。どちらにしろ新味は全くない。
本書を読もうとする人はまず最初に「おわりに」にある要約を見ればよい。これで自分にとって読む意味があるかどうか分かる。

「あとがき」を見てもボルネオへ行ったとか、ジャズばかり聴いていたとか著者自身の経験をまた延々と書いているが、読者が知りたいのは音楽の聴き方であって著者自身には興味はない。大学の先生は知見経験のない学生を相手にしているからそれで済むことでも、当該事項に関心のある読者には本当に「内容のある」(難しい書き方で煙にまくのでなく)ことを書かないと相手にしてもらえない。正直本書は著者の権威を保たそうとするなら書くべきでなかった。

モーム『シェピー』 Sheppey 1933

モームによる3幕の劇。シェピーとは床屋に勤める主人公である。そつない腕を持ち、評判がいい。そのシェピーに8,500ポンドという巨額の、競馬の一等賞が当たる。この大金になんとかありつこうと周囲の人々は奮闘する。

最初シェピーはある島を買うつもりでいた。しかし貧しい人たちを見て、それらの人々に分け与えようとする。家族等はなんとか止めようと躍起になる。援助を受けた人たちも大して喜んでいないようである。遂に周囲の者たちはシェピーを精神病と診断させ、施設に入れようと画策する。

棚ぼたの大金にありつこうとする人々と対照的なシェピー、分かりやすい劇である。
新潮社版モーム全集第22巻、瀬口城一郎役、昭和30

吉川節子『印象派の誕生』中公新書、2010

マネとモネを論じる。特にマネが中心である。ルネサンス以来の伝統を革新した、近代の絵画である印象派がどのように始まったかを考察する。

まずマネを中心として有名な画家等が描かれている「バティニヨル街のアトリエ」(1870年、ファンタン=ラトゥール作)の説明から始まる。誰がどの画家等なのかの説明の後、絵にある静物等の意味するところが解説される。
続いてマネの有名な「草上の昼食」「オランピア」に移る。大醜聞を巻き起こしてこれらの絵は、伝統的絵画を真似ながら美術上の約束事を破り、当時の社会を批判したのであった。
更に「バルコニー」「鉄道」では人物たちはお互いに目を合わせず、近代の疎外、心の通い合いのない様を描く。

モネはアトリエでなく、戸外に出て日の光のもとで描いた画家である。印象派でいう印象とは、普通はモネの絵がまず浮かぶ。マネ自身も自分の印象を描いていると言っている。その印象とは近代人の心の闇であった。

2019年6月2日日曜日

クイーン・オブ・アイルランド The Queen of Ireland 2015

コナー・ホーガン監督、アイルランド映画、86分。
クィーン・オブ・アイルランドと呼ばれている、ゲイの男(女装している)が主人公で、いかにしてゲイ(のみならずLGBT)の権利を認めさせるまでに至ったか、の記録映画。

主人公は田舎町で生まれた。自分がゲイであると知る。当時では、特に田舎では、全く容赦されない。都会に出る。更にバブル期の東京に来て、ゲイのショーで活躍した。90年代以降母国に戻る。ゲイとして売り出す。マス・メディアにも出る。特別問題ないと思った発言も保守派から総攻撃を受ける。その後アイルランドでは世界初の、LGBT同士の結婚を認める国民投票をすることになった。主人公は何とか認めてもらうよう奔走する。
そして投票、結果によってアイルランドの国民は狂喜する。LGBTの権利にとどまらず、人権が前進したのだと。映画の最後は、主人公は保守的な故郷の田舎に帰ってショーをする。熱烈な歓迎を受ける。

ゲイの映画と聞くと何か特殊な世界が描かれるかと思うかもしれないが、もっと一般的に少数者が権利を獲得するまでの記録と言った感じで、かなり感動的な映画になっている。
国立フィルムアーカイブの上映では、映画の終了で拍手が起こったほどである。関係者が来ていないのに。

古代の森 Sengirė / The Ancient Woods 2017

ミンダウガス・スルヴィラ監督、リトアニア映画、83分。
リトアニアの森に棲息する生き物たちを描いた記録映画。

リトアニアの古代は森に覆われていたが、今では非常に狭い地域にのみその名残がある。森に棲む生物を記録している。自然の記録映画は、俯瞰的というか巨視的に撮ったものは何度か観た。この映画では接近して微視的な撮影をしている。鳴き声も録音している。映像は遠くから望遠レンズで撮影可能だが、鳴き声のような音は簡単に録音できない。かなり苦労してとったようだ。そのため映像と音は必ずしも同時に撮ったものではないそうである。
ともかく普通ではまず見られない生物たちが至近距離で動く、あるいは蠢いている様子が撮影されている。