2015年3月27日金曜日

石川達三『青色革命』 昭和28年

社会派と言われた石川達三による戦後の状況を描いた小説。


小説の主人公は元大学教授で、戦時に時局をわきまえない発言で左翼教授扱いされ、辞職を与儀なくされた。状況に迎合せず自分の信念を貫くことをよしとし、戦後になって大学から復職の話があっても、かつての世渡り上手の同僚や優柔不断な学長に反発して失業のままでいる。設定は50歳少し前なのだが、今みると還暦過ぎの老人のイメージしか浮かんでこない。妻は現実的で楽天的で、男が持つ単純な女のイメージとおりのままである。
 
息子は二人いて上の子は大学卒業の歳なのだが就職も決まらず、ブルジョアに奉仕することを嫌悪する左翼的言辞を弄して格好つけている。下の子は現実的感覚が発達しており、友人へ金貸しをしていたのを発展させ親に資本金を出してもらい、高利貸しもどきの商売を兄と始めるまでになる。
 
同居させている若い男は話し方が女のようであり、にやけたというより柔弱が服を着ているような感じである。姪の若い女はアプレそのままの現実的行動的な性格である。主人公の妻は、若い同居人か知り合いの大学助教授とこの姪を結婚させようとしている。

主人公の夫はこれらの風潮に理解あるように努めており、教育を通して世の中に貢献したい理想に燃えている。その一方で自分の歳を考え、もう一回青春の花を咲かせたいと思い、自由が丘にある飲み屋の女主人にいれ込む。このあたり同じ石川の『四十八歳の抵抗』と全く同じである。

著者自身がこの小説を観念小説と呼んだことがあったそうだ。実際現実の戯画化というべき登場人物が織りなす世界である。しかし戯画化とはいえ、60年前にはその戯画の元になる現実があった。その現実が今から見ると時代離れして見える。現在とあまりに違っていて、今後この小説が新たに印刷の機会に恵まれることは少ないと思われる。時代遅れという批判もできる。

しかし現在とあまりに違うからこそ、60年前の日本の雰囲気を味わう一つの社会的な材料として読めば面白いのではないか。もちろん人間の本性のような時代を超越した要素もあるから今でも感情移入できるところもある。

石川達三『日陰の村』 昭和12年

小河内ダムの建設に伴い湖底に沈んだ小河内村を描いたドニュメンタリー的な小説。

ダム即ち東京市へ水道供給のため貯水池建設で、山梨県堺にある東京小河内村は湖底に没することになった。この交渉が東京と村で始まったのが昭和6年。建設開始は13年、そして戦争による中断を経て、工事が再開したのは戦後の23年、完成は32年になった。

この小説は昭和12年というまだ工事が始まる前に発表されている。小説には建設は決まったものの、なかなか工事が始まらない状況で、村民の対応や東京との折衝が描かれている。

工事が約束とおり始まらないので村長は何度も東京へ足を運ぶ。しかし市の対応は煮え切らず、また多摩川にダム建設で影響を受ける神奈川県からの抵抗もあり、当初予定より何年も遅れていく。補償費をあてにし、また湖底に沈むというので村民は農作業もやらなくなる。しかし予定がずれにずれるので生活さえ苦しくなってくる。

村民全体で集会を開き、市へ集団交渉をしようと決定される。しかしこのような示威行動は特に戦前では許されず、駅で警察に阻止されてしまう。
示された補償は極めて低く、村へ信託会社や開発業者が出入りして生活は変わり、食えなくなった村民は自主的に離村するか若い娘を働きに出すしかない。

日本の発展の歴史の上でこのような事例は多くあったのであろう。お上の方針に従わざるを得なかった一般の庶民の苦労が良く描かれている。

2015年3月25日水曜日

ストリンドベリ『令嬢ジュリー』 Froeken Julie 1888

スウェーデンのストリンドベリによる戯曲。

構成はかなり単純で、登場人物は令嬢ジュリーと下男、料理女の三人だけ。特に最初の二人の場面がほとんど。

ヨーロッパの階級社会を前提とした話。祭りの日、高慢な令嬢がかなり観念的に下男に近づき、ことが起こってから外国へ逃げようかと話すが、もう現実的になった下男は醒めている。このような話は現代の日本では縁のない出来事であろうか。階級の差がないというか、階級概念で考えることのない日本では起こりえない。戦前はどうであったろうか。明治時代などまで遡るまでもなく貧富の差が大きく、かなり意識の差が金持ちと貧乏人にあったと思うが、欧州の階級社会にどの程度似ていたのか、違うとすればどう違うのか。

脱線したがこの劇そのままの設定は現代では考えにくい。ただし読んでいて他人事とは思えない状況も想像できる。現代では人はほとんどそれなりの暮らしをしている。そこから冒険をしてみようと思い、あるいはともかく今の状態から抜け出したいと思い危ない状況になってしまう。これまでの生活が危うくなる、どう対応すべきか。自分の意思では後戻りできないまでになったら、前に進むしかないのか。

こんなことを考えさせる劇であった。
毛利三彌訳、講談社版世界文学全集58

2015年3月24日火曜日

二代目はクリスチャン 昭和60年

井筒和幸監督による、志穂美悦子主演の角川映画十周年記念映画。志穂美演じるシスターが結婚する相手がやくざの2代目であり、夫に代わってやくざの抗争に巻き込まれる話。

話は大きく二つの部分に分かれる。志穂美に恋する二人の男、一人はやくざの岩城滉一、もう一人は刑事の柄本明。志穂美を得ようとして二人が競争する前半。前半は喜劇的な作りである。後半では岩城と結婚した志穂美がやくざの二代目を継がざるを得なくなり、手下の「教化」と最終部分では敵役やくざとの暴力闘争、殴り込みとなる。

映画の作りとして見た場合、不自然さを感じた。志穂美のシスターは、まさに絵にかいたようにキリスト信者の言う理想を説き、行動も犠牲的・理想的に振る舞う。それが最後には大立ち回りとなり相手方を切り殺していく。この転換が納得的でない。理屈としてはわかるのである。つまりあまりに多くの仲間が惨殺されたからである。しかし理屈と映画をみて感じる自然さとは別である。見ていて納得的でなかったからである。

最後の立ち回りで相手方をどんどん斬っていくことも現実にはあり得ない。しかしこういう非現実さは何も不自然と感じない。それが話のつながり(転換)については気になるのである。これは自分だけの好みの問題であろうか。

ルソー『孤独な散歩者の夢想』 Les Reveries du promeneur solitaire 1778

ルソーが晩年につづった随想。

有名な『告白録』では幼年期からの出来事を告白しているわけだが、この晩年の作は事実の叙述(もちろんあるが)より、自らの思いを徒然なるままに書き綴っている。未完で生前は出版されていないが、感想を主体にした日記のようなものである。

自分はまだルソーに対する自分なりのイメージを確定していない。そのためこの作品もルソーの思想全体の中での位置づけとかはできていない。

単純に読んだ感想をいうと、老齢に達した者の達観という感じは全くしない。自分は理解されなかった、自分は善人なのに周囲は自分を迫害し続けたというような、悪く言えば被害妄想的な調子なのである。

実際にルソーは迫害を受けた。禁書になり亡命した。正直ルソーの偉大さは生前十分理解されなかったと思う。しかしながらベストセラーも出しているし、何より迫害を受けたのも自らの思想開陳による。他人に理解されないのは常ではないのか。正直に不当さを訴えているのは純粋さの表れかもしれない。老いては誰もが孤独を感じるものではないか、とも思った。
もしこれが偉大なルソーの著作でなければ今まで読み継がれてきたのでろうか。

細部についてはいろいろある。また読み返したい。その時はまた違った感想を持てるであろう。
青柳瑞穂訳、新潮文庫版

2015年3月17日火曜日

男人四十 2001年

香港のアン・ホイ監督による映画。題名は40歳になった男を主人公にしているから。

主人公は40になる国語の教師である。教え子の女高生がこの教師を好きになる。当然ながら悪い気がしない。といっても、にやつくわけでなく良識あるように振る舞う。男には妻がいてそれなりに大きい二人の男の子もいる。何か妻との間がぎくしゃくしている。その訳は最後にわかる。それまでに伏線を張るように過去の映像も出てくる。

女高生と付き合うようになり行くところまでいくようになる。これが一人の筋でもう一つは妻の過去である。これの全貌が最後に明かされる。

中年男と若い、ここにあるように高校生くらいの女の子との恋愛は、映画や小説によく出てくるような気がする。随分非現実的な設定と思ってしまう。そんなにオジサンがもてるか。映画では俳優が演じており魅力的なので中身のない若者より好かれても当然かもしれない。しかし映画で非現実的な設定は普通ではないのか。それを中年男と女の子の恋愛に関して不自然に感じるのは、多分男なら歳とっても若い子にもてたいという願望があるものの、現実にはありえない。それを映画の中では実現している。自分には起こりえないので非現実的と思ってしまうのである。

そこに光を 1996年

トルコのレイス・チェリッキ監督によるトルコの民族間の争いを描いた映画。

トルコでのクルド人と、対するトルコの軍人間の戦闘が主となっている。こういう良く知らない他国の民族闘争をみると、世界情勢に関する自分の知識が足りないことを実感する。
ともかくトルコではクルド人とトルコ人の争いがある。

クルド人の過激派というか戦闘集団がバスを止める。そこで逃げ出そうとした乗客の一人を射殺してしまう。虐げられたクルド人の闘争に参加しない奴は敵とみなすという、かつての我国の過激派を思い出させるような集団である。

この征伐に軍人たちが派遣される。雪一面の冬山で両者が撃ち合いとなる。それが雪崩を引き起こし、クルド人一味は二人だけ、軍人たちでは隊長のみ生き残る。クルド人のうち女性は負傷しており、一味の首領が背負っていかなければならない。軍人隊長は銃をつきつけ二人を捕虜とするが吹雪が吹き荒れる冬山で、連行するのも楽でない。眠っているうちにクルド人は逃げ出す。しかし女性は亡くなる。この後クルド人と隊長は激しい意見のやり取りをする。

トルコでの民族闘争、同じ国の者同士が戦い、そこで共存を探るという日本ではあまり考えられない課題を描いている。

2015年3月8日日曜日

人魚伝説 昭和59年

池田敏春監督、白都真理主演の総天然色映画。夫を殺された若い海女が復讐する話で、昔みたことがある。

てっきり日活ロマンポルノの一つと思っていた。再見したらディレクターズカンパニー、ATGの作品だとわかった。
随分前に見た映画の内容をすっかり忘れていることは珍しくない。それでもこの映画の筋は覚えていた。今回見直してシーンでも懐かしく思った場面が幾つかある。

一番変わったのは印象である。

この映画の見せ場というか山場は、映画の後半というか終盤近くで女主人公が復讐のため大量殺戮をするところである。当然印象が強く、またこれについてはいくらでも突っ込みとかはできる。いくらなんでもあんなに大量殺人を銛だけでできないだろうとか、またそもそも復讐のきっかけとなった夫殺しでも、なんでわざわざ殺しまでしたのとか。

そういった細部について何か言うつもりはない。そのあたりの現実性とか関心ない。

これは女の情念というか執念を描いた映画と今回感じたからだ。

自分の愛する夫を奪われた女の凄まじいまでの復讐心。理屈も何もあったものでない。だからこそ何か言ってもと思ってしまう。全体に漂う哀愁とか悲しさも印象深い。

この映画が日本映画の名作に数えられることはないだろうが、自分にとってそういう名作扱いされている浅丘ルリ子の『執念』とか若尾文子の『清作の妻』と同じ系譜の作品である。

頬にキス 2002年

インドのマニラトナム監督による総天然色映画。

自分を養女と知った少女が生みの母親捜しをする映画。この原因はスリランカの内戦による。

スリランカで結婚してすぐに戦火を逃れてインドへ渡る女性。そこで女の赤ん坊を産む。これが映画の幼い主人公というべき少女。映画自体は数年たって少女に成長した時から始まる。自分が養女と知ったので両親にその経緯を尋ねる。

自分の「本当の」母親をどうしても捜しだしたい。家出までする。両親も一緒に捜そうとなってスリランカまで行く。そこは内戦の地で、彼らと案内してくれたスリランカの友人までも命を落としそうな危険に晒される。

全く映画を見るたびにいつも思うのは、どうして映画に出てくる子供というのは、ああも自分勝手というかわがままな子供ばかりなんだろうか。まわりの都合一切考えず自分の言いたいこと言ってやりたいことやって大人たちを困らせる子供ばかりである。
もしこのタイプでなければそれ自体が映画のテーマとなるような子供になってしまう。

そして他のアジア映画のヒロインと同じくこの少女も自己主張が極めて強い。こんな強気の女ばかりだったら女性差別なんてあまり問題ないのでは思ってしまうくらいだ。

この映画で一番気になったのは、少女が生みの親が別にいると分かった途端、それが本当の親で、それまで育てた母親をほとんど顧みなくなってしまうことである。

日本だったら映画でも成瀬己喜男の『生さぬ仲』を初め、生みの親より育ての親というのが当たり前となっている。記憶にあるほかの映画でもみんな生みの親に今更言われてもという感じなのである。

ところがこの映画ではあくまでも生みの親第一主義の発想なのである。インドではこうなのだろうか?たまたまこの映画での設定の話なのか。教えてもらいたいと思った。

もう一つ映画の本筋と関係ないが登場人物が、日本は平和主義だが世界一の武器大国とか言うのである。どこからのデータだろうか。ウィキペディアの「軍需産業」の項によると会社別の武器生産の世界ランキングでは三菱重工業が世界24位で日本の中で最高。防衛予算では日本は世界6位、世界輸出国ランキングで15位まで名が出ているが、日本は入っていない。ただ他のソースで猟銃や弾薬などの「小型武器」の輸出に限ると日本は世界の9位となる統計がスイスの研究所から出ているそうである。

ザ・デュオ 1997年

インド、タミル地方の監督、マニラトナムによる長編総天然色映画。166分に及ぶ。

映画俳優とその友人である詩人が成功し、更に政治家となって活躍してその最後まで描く。ともかく長い映画であるが、最初無名の主人公が有名スターとなって成功し、詩人兼脚本家の友人とともに政界に打って出、頂点を極めるまでを描くわけだから、これくらい長い時間が必要になるのであろう。

単なる主人公の出世談だけでなく、恋愛も当然大きなウェイトを占める。早々に亡くしてしまう最初の妻とスターになってから共演する女優が同じアイシュワリヤー・ラーイが演じており、インド映画ならではの歌とダンスもふんだんにあって見せ場は多い。
 
それにしてもインド映画の主人公はどうしてデブばかりなのであろう。ブヨブヨしていて現代日本人の好みとは大きくかけ離れていると思う。日本だったら絶対人気が出ないような容姿である。

ジィド『贋金つかい』 Les Faux-monnayeurs 1925年

ジィドの「純粋小説」と言われている長編。実験的な試みという感じがする。



話は要約にしくい。複数の上流階級の青年の間や彼らと小説家の交流が描かれる。出てくる小説家が『贋金つかい』という小説を書いているのである。

純粋小説というのは、この作品の中で登場人物の小説家が書いているところによると「小説から、とくに小説本来のものでないあらゆる要素を除き去ること」らしい。具体的に言えば特定の視点からでなく小説を記述することとよく解説されている。実際、複数の人物の複数の事件等が並行して進み、どのあたりに重点が置かれているかわからない。

小説の手法として目新しい試みであったのであろう。

しかしながら出来栄えが良いかという基準を読んでいて、面白いかと問われれば、あまり面白くもない小説である。手法自体の他との違いに重きを置かなければ、どの程度自己主張できる作品であろうか。
山内義雄訳河出版世界文学全集。

2015年3月7日土曜日

BOL-声をあげる- 2011年

パキスタンのマンスール監督による153分に及ぶ総天然色映画。頑固で保守反動というよりあまりに自分勝手すぎる父親とその犠牲になる娘たち。


題名のBOLはウルドゥー語で「声をあげる」という意味。

話は女死刑囚が絞首刑執行の前にマスメディアを呼び、犯罪の原因を説明しようとする場面から始まる。

家庭はほとんどが女の子ばかり。伝統医術を扱う医師の父親は頑迷固陋を絵にかいたような者。きょうだいのうち一人だけ男がいたが性同一障害。絵の才能があるのでその仕事をさせたら仲間から陵辱を受ける。父親はこの子供を恥じており自ら殺めてしまう。警察に対しては賄賂で片付ける。

更に家庭の経済状況が逼迫し、父親は色街へコーランの教師へ出かける。そこの買春業者からなんと自分の女と寝て、女の子を産ませてくれと頼まれる。非常識に聞こえるが、これは子供の性別は父親による。女の子ばかり7人もいるからまた子供ができれば女だろう。買春業としては女の子が欲しいからというのだ。父親は最初呆れるがカネのため引き受ける。

この間、長女は妹のうち一人を恋人と結婚させる。これを知った父親は激怒し娘を打擲する。

やがて思惑通り女の子が生まれる。父親はこの子が欲しくなるが、買春業者から追い出される。生んだ女がこの赤ん坊を父親の元へ持ってくる。家族は初めて事情を知り母親は号泣する。父親は今度はこの赤ん坊も殺そうとする。それを止めるため長女が父親を打ってしまう。

長女はこのため死刑を宣告されたのである。
話をきいた記者の一人が死刑執行停止を求めるが空しく執行されてしまう。

父親の非常識ぶりが目についてあまり冷静に見ていられない映画である。もちろん映画も冷静に見てもらおうと思っているわけだろう。また父親の非難で終わるのでなく、より良い社会へと改善していきたい意図であろう。

ボンベイ 1995年

インドのマニラトナム監督による総天然色映画。ヒンズー、回教の対立に翻弄される男女とその家族を描く。142分の映画。


田舎で若い男女の恋が始まる。しかし男の家はヒンズー教徒、女の家は回教徒で、ともに親が結婚を許さない。男はボンベイへ去る。女もそれを追う。二人はボンベイで結婚する。双子の男の子が生まれる。6年ほど経って、二人の両親がたまたま時を同じくしてボンベイの子供の家を訪れる。鉢合わせした老人たちはばつが悪いが、孫が可愛くしょうがない。

ボンベイでヒンズー教徒と回教徒の衝突が起こる。その暴動により老夫婦たちは災難に会い、親子は離れ離れになる。このボンベイの暴動が後半のやまとなっている。

宗教の対立で、つまり親の都合で子供が結婚できない状況、よくある設定である。後半のボンベイ騒動も宗教対立によっている。やや型にはまってる感じもしないでないが、見せ場はふんだんに作ってある映画。

ロージャー 1992年

インドのマニラトナム監督による総天然色映画、インド映画らしく140分の長尺。
題名のロージャーとはヒロインの名である。

マドラス郊外の田舎。姉の求婚者がやってくる。姉はその青年と見合いをする。彼女は断ってくれと頼む。驚く相手に自分には好きな人がいるからと説明する。相手はそれを受けて断るだけでなく、なんと代わりに妹のロージャーを名指しして嫁に所望する。
本人のロージャーも家族一同も驚愕する。

マドラスで新婚生活が始まる。ロージャーは当初全く納得がいかず不満ばかり言っている。しかし姉から真相を聞くと改心する。新郎は暗号解読を軍から頼まれ、北部の紛争地帯に赴く。ロージャーも頼み同行する。早朝、彼女が寺院へお祈りに行く。夫は彼女を捜しに出かける。その時に敵方のテロ一味に拉致されてしまう。敵は引き換えに捕虜となっているテロ一味の幹部を釈放しろと要求してくる。もちろん簡単に応じるわけにはいかない。

映画の後半はロージャーが夫を救出すべく奔走する様を描いている。

テロ一味に誘拐されるとか現代の日本人も巻き込まれる事件があって、人ごととは思えない題材である。
女主人公は極めて自己主張が強く、行動的である。これだけ言いたいこと言う人が予定もしていない人となぜ結婚したのか不思議に思わないわけでもないが、娘の結婚は親が決めることになっているのだろうか。

2015年3月6日金曜日

小沼文彦『随想 ドストエフスキー』 1997

筑摩版のドストエフスキー全集の翻訳者である小沼文彦が、ドストエフスキーについて書いた文を集めたものである。刊行は1997年5月、近代文芸社となっているが、1960年代からの文が入っている。



読んで面白いと思ったのは、我が国へドストエフスキーがどのように翻訳や紹介されたかをまとめた最初の章「ドストエフスキーの移入、その受容のいきさつ」とそれに続く「人道主義的受容の時代」あたりである。

きちんとまとまった研究文献は他にもあるようだが、簡単にまとまっており読み易い。人道主義的受容とは大正時代の白樺派による解釈で、『貧しき人々』や『虐げられた人々』あたりを主とする。今どきこれらをドストエフスキーの代表とみなす人は少ないであろう。初期はそういう受容の仕方があったのである。

ほかにはパスカルとドストエフスキーの類似を議論している文もあり、パスカルとの親近性など今まで思ったこともなかった。今度パスカルを見直すときには注意してみようと思った。
各章の初出一覧がないのは残念である。

2015年3月3日火曜日

火祭り(イラン映画) 2006年

イランのファルハディ監督による総天然色映画。



現代のテヘランの高級マンションが舞台となった家庭内騒動の映画であり、「先進国」の映画といった感じで、イランらしい(と思い込んでいる?)「エキゾチックな」雰囲気ではない。

結婚を控えた女主人公(『美しい都市』の姉役をしていた女優)はマンションへ家政婦として赴く。在宅していた夫に頼まれ片付けをしていると、妻が帰ってきて別の人がやるから帰れと言われる。マンションを出たところで妻から呼び止められ戻るようと言われる。
妻は調子が悪く寝るので、彼女に時間になったら学校へ子供の迎えに行くよう頼む。また隣の部屋でヘアサロンをやっており結婚を控えた女主人公はそこで髪を整えてもらう。

この高級マンションの夫婦は昨晩喧嘩をしており、それは夫が隣室の女と浮気をしていると妻が疑ったからである。疑心暗鬼の妻はマスコミで働いている夫を監視に行く。気がついた夫は感情的になり衆人環視の中妻を打擲する。

明くる日ドバイへ家族で旅行する予定だったのだが、妻は帰宅するなり子供を連れて出ていこうとする。夫も帰ってきて夫婦で言い合いになり、また女主人公が「助け船」を出したこともあって妻は誤解と納得する。年の瀬の花火大会(火祭り、爆竹をならすなど日本の花火と異なる)に夫は子供を連れていく。

実はこの後さらに話があり、真相がわかるのだが映画のつくりとしてはどうなんだろう。このような、もっていき方は良いのかと思ったりした。

ともかく最初に書いたように上流階級の話なので不思議でもなんでもないのだが、先進国と変わらないイラン人の生活を描いており、そういう意味でも新鮮な感じをした。日本人だって「フジヤマ、芸者」が出ないと納得しないという西洋人がいたら不快だろう。

美しい都市 2004年

イランのファルハディ監督による総天然色映画。


少年院に収容されている若い男が18歳になる。これは死刑にできるということを意味する。その友人と死刑囚の姉が阻止しようと努力する、これが映画の大きな筋である。

死刑を宣告されたのは恋人を殺したため。その父親が死刑を撤回しない限り(許さない限り)執行されてしまう。それで友人と姉はなんとか説得しようとするわけである。
いわば被害者の身内が加害者の刑(それも死刑か釈放か)を決められるのである。日本とあまりに異なる。どんなに被害者の遺族が怒ろうが許そうが、検察と弁護士の間の裁判で刑が決まるのが日本の(そして先進国の)制度だからだ。当然ながら被害者の父親は許そうとしない。

いったん解決したかと思ったらさらに友人には難題がふりかかる。これも細かく説明すると面倒で省略する。簡単に言ってしまえば自分が友人のために犠牲になれるかどうかを迫られるわけである。

題名の「美しい都市」とは少年院(収容所)のある地名である。
異なった仕組みの社会ならでは悩みなので日本では起こらないものの、主人公である友人と姉(この二人は惹かれ合うわけでもある)の苦悩は理解できる。