2014年5月17日土曜日

ニコラス・ニクルビー


ディケンズが26歳から27歳にかけて(1838年~1839年)に出版した長編第三作である。ようやく翻訳が出版された。といっても10年以上前になる。平成13年にこびあん書房から出版された。だが現在では絶版、図書館を通じて読むことができた。ただし都内でもこの上下本を所有している公立図書館は1館のみという有様である。
 

ディケンズファンにとっては以前からなじみのある題名である。昭和30年代の百科事典でディケンズの項目をみると長編小説の題名が並んでいるにもかかわらずそのほとんどは翻訳がない、という以前に邦訳名さえ定まっていなかった。例えばBleak Houseが『さびしい家』とか『荒涼たる邸』となっていたり。それに比べニコラス・ニクルビーは個人名なのでこれ以外に表記しようがない。

ディケンズは「英国最大の文豪」などとレッテルを貼られながら、長編の翻訳は遅々として進んでいなかった。漱石の『吾輩は猫である』を読んだ者は作中、ニコラス・ニクルビーの名が出てくることを覚えているかもしれない。ただしニコラス・ニックルベーと書いてあり迷亭が与太を飛ばす際に言っているだけで内容云々はない。漱石以来百年経って21世紀になって初めて完訳が出た。ただし抄訳は『開拓者』という題名で戦前に出ている。登場人物も日本名だったと思う。以前入手したのだが今手元にない。

さてその『ニコラス・ニックルビー』だが解説でもディケンズの失敗作と見做されることさえあったとか。読んで自分がディケンズファンなので読むこと自体に感激したのだが、一般の読者はどうであろうか。いかにもディケンズ的といえばディケンズ的である。登場人物が型にはまっていて他の小説のあの人物と同じと思ったりする。教養小説の類と言えるのであろうか。主人公のニコラスはたいていの他の小説(ディケンズと限らない)の善人と同じくインパクトが乏しい、というよりない。悪人のラルフの印象が強いのは当然であってそれをこの小説の欠点と見做すのはそんな批判が型にはまり過ぎている。善人=優等生なのだから面白くないのは当然なのである。

むしろラルフ・ニックルビーとスクィアーズ校長の描き方が書き分けられているのか。スクィアーズ校長は有名(悪名)な人物なのだそうである。少なくとも英国では、ひどい教育者の代名詞として。
正直この作品がディケンズの代表作として(今後そんなことがあったとして)文学全集に収録されるような機会は乏しいであろう。すぐには面白味がわからない分、それだけこの作品の面白さを発見していきたい、そう思わせる小説である。

むすめ お光の縁談


松竹の映画「むすめ」と「お光の縁談」をみた。前者が昭和18年、大庭秀雄監督、後者は昭和21年、池田忠雄と中村登監督である。

ある意味似ている映画である。両者とも好き合っている恋人同士がいる。しかしそれを口に出さない。そうしているうちに娘に縁談が持ち上がる。親が子供の結婚に口を出す、というより勝手に決めていたことさえあった時代である。親も悪気はない。娘も好きな人と結婚したいのだが、親を考えるとそういう行為自体が何か「自分勝手」と思われてしまう、親不孝をしている気持ちになってしまう。

以上のあらましは共通である。娘役は高峰三枝子と水戸光子であるが、父親が河村黎吉と坂本武という配役は同じである。展開でちょっと意外だったのは戦時中の映画の「むすめ」で父親の河村、気が良い男という設定だからそうなのだろうが物わかりがいいことである。昔の父親というのは自分勝手の権化のようなイメージが強いから。全部が全部そうでなかったのも当然であるが。
「むすめ」の冒頭で高峰が出てそのあと河村が登場する。なんか随分若い奥さんをもらった中年男かと思ったが父娘なのである。高峰は若い頃からよく言えば落ち着いているというか、娘というより奥さん的な雰囲気が強い。

2014年5月10日土曜日

家庭日記

昭和13年の松竹大船映画。清水宏監督で出演は佐分利信、上原謙、桑野通子、高杉早苗など。


まず冒頭、学生服姿の佐分利信が出てくる!連れ添う相手の三宅邦子が娘役である。実際家の佐分利は好きな三宅でなくカネのため養子になり高杉と結婚する。友人の上原は家から反対されている女給の桑野と結婚し満州に行く。何年か経ち息子のために東京に帰ってくる。佐分利と再会する。優柔不断の上原は強気で奔放気味の妻に手を焼いている。

佐分利と別れた三宅も満州へ行き桑野と知り合いになっていた。彼女も東京に戻って美容院を開いている。その三宅と佐分利のかつての仲を桑野が高杉に告げて疑心暗鬼を生じさせる。また桑野は自分を嫌っている上原の両親に息子をとられそうになる。

いかにも大衆小説的なご都合主義の展開だが(吉屋信子作)、戦前の雰囲気を味わえる。最後がやや納得できない(現代の感覚ではということだろうが)ものの、懐かしい松竹のスターも見られるし全体として楽しめた。

白い魔魚

昭和31年の松竹の総天然色映画、主演は有馬稲子、石浜朗。それに上原謙と高峰三枝子が共演している。主演の二人は若い。


大学生の有馬は岐阜の田舎から家が倒産しかけているので帰郷を促される。債権者である中年男の上原は有馬に好意を持ち、助けることを申し出る。それには感謝するが結婚を申し込まれると家のために自分が犠牲になるのはいやだし大学生の石浜を慕っている。思いのほか上原が良さそうな人物と思われ余計悩む。

色つきで見られる背景の昭和中期の日本が懐かしい。家のため娘が犠牲になるのがしょうがないような発想がいまだ生きている時代である。かつての「古き良き」時代を舞台にした映画が作られることままある。ただし現代では一蹴されるような悩みが現代映画で扱われることはありえない。実際そういう結婚をせざるを得なかった人がいたのである。