2019年3月31日日曜日

モラティン『新作喜劇』 La comedia nueva 1792

2幕の喜劇。当時の演劇状況への皮肉が強く感じられる。

劇場近くの喫茶店が舞台である。劇作家は今日、初演になる劇が心配である。妻は励まし、友人は彼の才能を衒学的な言葉をふんだんに使い、誉めそやす。成功すれば自分の実入りもあるからである。もっとも作家の妹は現実的で期待していない。
他の、人の好い芝居好きはあまり本当の意見は言わずに作家に好意的な発言をする。その中、中年の頑固おやじといった融通のきかない男は、演劇自体や昨今の状況をこき下ろす。

さて上演された。評判は散々である。あの減学者は逃げだす。作者も自分の才能のなさを思い知らされる。上演前は劇を攻撃していた中年は作家が家庭の経済状況のために書いていたと分かり、仕事を世話する。感激した作家は二度と劇作なんかしない、うちにある本は全部処分すると答える。

いつの時代にも文学に熱中する者がいる。当時の、劇作へ入れ込む者の多い様子がわかる。
佐竹謙一訳、岩波文庫、2018

モラティン『娘たちの空返事』 El sí de las niñas 1806

スペインの劇作家モラティン(1760~1828)の代表作。

老紳士は独身であり、何とか裕福な彼と娘を結婚させたい母親の要望で、十代の若い娘と婚約する。娘には他に好きな男がいる。しかし母親に逆らえず受諾し、老紳士との会話でも彼の言いなりになっている。
老紳士には頼りにならないが、人のいい甥がいる。軍隊をサボっているようで、老紳士は叱る。早く軍隊へ戻れと命令する。実はこの甥が婚約者の若い娘と相思の仲なのであった。
甥は好きな娘に会うため戻ってくる。娘が会おうとする男が誰かを老紳士は見つける。それが自分の甥だとわかる。物分かりのいい老紳士は二人を娶せ、カネも十分に保証してやる。

主人公の老紳士は作者モラティン自身を反映しているという。モラティンも若い時恋が成就しなかった。自らの体験や思いが反映されている。

なお本作は以前『娘たちの「はい」』という翻訳名で出ていた。この旧訳は読んでいない。しかしこの訳名は心に残り、覚えていた。今回の新訳名は原題により忠実なのか、昔と差別化を図りたくそうしたのか知らない。ともかく昔の訳名は、印象深い題名であったと思う。昔の訳名を踏襲してもらいたかった気もする。
佐竹謙一訳、岩波文庫、2018

ティルソ・デ・モリーナ『緑色のズボンをはいたドン・ヒル』 Don Gil de las calzas verdes 1635

ティルソによる3幕の喜劇。

女主人公ドニャ・ファナの恋人は、カネのある別の女性と婚約しようとしている。恋人を取り戻すため、ドニャ・ファナは男装してその女性に近づく。それが緑色のズボンをはいたドン・ヒルである。ドン・ヒルという名はドニャ・ファナの恋人がこの町に来る時使った名である。

ドン・ヒルことドニャ・ファナを見たその女性は彼女に恋してしまう。名を聞くとドン・ヒルと答えられる。元々の恋人よりドニャ・ファナと結婚したく思ってしまう。父親はドニャ・ファナの好きな男を勧めるが見向きもしない。しかしその男がドン・ヒルと聞いて喜ぶ。それが実際会ってみると自分の知っているドン・ヒルとは全く違う男である。

一方でドニャ・ファナは名を変え、今度は女として恋人が好きな女の隣に住み、親交を温める。女をドン・ヒルと称する男に奪われそうな元々の恋人は自分もドン・ヒルと名乗る。更にドニャ・ファナ扮するドン・ヒルに恋した別の女も、自分をドン・ヒルと名乗る。このようにドン・ヒルだらけになるが、最後にドニャ・ファナは真相を明かす。元の恋人を取り返し、また別の組もうまく収まる。

男装した女に別の女が恋するといえばシェイクスピアの『十二夜』を思い出すが、当時のスペインも男装女性の話は多かったそうだ。

なおスペインでは貴族の敬称として男にはドン、女にはドニャをつけるが、題名のヒルとは田舎臭い名だそうだ。女ではテレサがそう聞こえるとか。
佐竹謙一訳、岩波文庫、2014

ティルソ・デ・モリーナ『セビーリャの色事師と石の招客』 1630

17世紀のスペイン黄金世紀演劇の代表的作者の一人、ティルソによる劇は女たらしの代名詞、あの有名なドン・ファン物語の原典である。

ドン・ファンがナポリ(当時スペイン支配下)で女公爵を騙し、スペインに逃げるところから始まる。スペインに着けば早速、村娘をたぶらかす。次に領主の娘を騙そうとする。怒った父親と決闘し斃す。今度は田舎の結婚予定の女を獲物にする。自分が決闘で殺した男の石像がある。石像も不敵に扱い、そのため地獄に堕ちる。

モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』でもおなじみの筋である。解説によると、石の招客は古くからヨーロッパで知られ、罰を与えるか懺悔させる役目を果たす存在であるという。
佐竹謙一訳、岩波文庫、2014

ロペ・デ・ベガ『オルメードの騎士』 El Caballero de Olmedo 1620-5

17世紀のスペインの代表的劇作家ロペ・デ・ベガによる3幕の劇。

オルメード在の騎士ドン・アロンソは祭りで若い女を見つけ惚れる。うまく彼女の心を射止めえる。しかし彼女に恋する他の騎士もいた。闘牛で競い、恋敵をドン・アロンソは破る。怒った相手は、ドン・アロンソがオルメードに帰る途中待ち伏せし、飛び道具で斃す。

17世紀のいわゆるスペイン黄金世紀演劇の最高傑作とされているようだ。ただ筋は単純で、どこが傑作と言われるのか、その意見に反対するかは各自が読んで判断するしかない。
長南実訳、岩波文庫、2007

アクト・オブ・キリング The Act of Killing 2012

ジョシュア・オッペンハイマー、クリスティーヌ・シン、インドネシア人の匿名、監督。イギリス・デンマーク・ノルウェー映画。121分(他に166分版もある)
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インドネシアで1965年に起きた930日事件(スカルノ大統領が失脚しスハルトが政権を握る)を基にした記録映画である。
といっても当時の記録映像ではない。また事実を再現した映画でもない。

同事件ではスカルノ大統領の支援勢力であった共産党が大量虐殺された。その数は百万人以上にも及ぶという。その殺戮に関わった当時の軍人等、現在では年老いた人々である、その人たちに殺戮の様子をインタビューするという映画なのである。また殺人を再現する演技をそれらの人々にやらせる。
何より驚くのは殺人者たちが全く罪の意識を持っていないという点である。共産主義勢力の殺害は悪人を退治した、そういう自負なのである。罪の意識を持っていないどころか、愛国の英雄と自己評価をしている。

更に映画を観て初めて、当時のインドネシアでそんなに大量殺戮が行なわれたと知り、衝撃的であった。例えば1970年代後半のカンボジアのポルポト政権による大量殺人、またソ連や中国など社会主義諸国で反対派の大量の処刑が行なわれたとは周知の事実であろう。しかし自分だけなのか、インドネシアの共産主義者への処刑は全く知らなかった。

映画として観ていて、正直それほど面白い映画ではない。話を聞いたり、彼らに再現演技をさせていても、そんなに映画的な興味は起きない。こういう事実を知ったのは驚きであったが。

2019年3月30日土曜日

罪の手ざわり 天注定 2013

ジャ・ジャンクー監督による中国映画、日本も出資。
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中国で実際に起きた四つの事件を基にした記録映画的なつくり。
四つの事件は実話から作ってあるので、よくあるように別々の話が最後にまとまる、といったものではない。

映画はオートバイに乗った男を若者たちが強奪しようとするが、逆に銃で殺される場面から始まる。

山西省の労働者は村長や村の会計が不正を働き、またそれらと結託した村出身の実業家が不当に儲けていると信じる。詰め寄っても相手にされない。かえって手下にやっつけられる。入院した男に実業家は見舞金を持ってくる。ついに猟銃でもって彼らを皆殺しにする。

映画冒頭の男は強盗をしている。実家へ帰ってきても家族とうまくいかない。また故郷を出る。都会で金持ちの夫婦を射殺し荷物を奪って逃げる。

不倫をしている女は相手の男の、妻と別れて一緒になるとの約束を期待していたが、相手は実行しそうにない。その妻から袋叩きにされる。故郷を出て風俗店で働く。客が無理な要求をしてくる。その客を刺す。

工場で働く若者は仕事中、同僚と話している。同僚が機械で怪我をする。若者と話していたせいだ、給料から差し引くと言われる。その工場を辞める。客接待業に勤める。若い女と仲が良くなる。あの怪我をした元同僚が仲間と脅しに来る。ひどい目に会わずに済んだが、他の悩みもあり、アパートから飛び下りる。

映画の最後は客を刺した女が田舎に戻ってくる。京劇のような芝居をやっている。その台詞に我が身を重ね涙する。
中国では上映禁止になっているそうで、成長し変化する中国の一面を描いている。

コルネイユ『ニコメード』 Nicomède 1651

5幕の劇、これも最後は大団円で終わる。

古代小アジアの一国。国王には二人の腹違いの王子がいる。兄がニコメード、弟はこれまでローマで育てられた。今の国王の妻は、自分の息子を何としても次期国王につけたい。ニコメードを排除したく思う。弟の王子がローマから帰ってくる。最初は兄がわからなかった。

王やその妻、弟らのニコメードを亡き者としようとするが失敗、ニコメードは凱旋し国に君臨できる。
だがニコメードは自分を陥れようとした両親や弟凡てを許す。弟に国を譲り、時分はどこでも国を取るからと言い度量の大きさを見せる。

『シンナ』では皇帝が行なった赦しをここでは主人公のニコメードがする。
伊藤洋、皆吉郷平訳「コルネイユ名作集」白水社、1975

2019年3月29日金曜日

コルネイユ『ロドギュンヌ』 Rodogune 1647

5幕の悲劇。古代シリアが舞台でその女性クレオパートルが主人公である。あの有名なクレオパトラとは別人。

クレオパートルは戦死したと思っていた王が、敵国の王女ロドギュンヌと懇ろになっていると知る。王を殺す。ロドギュンヌは捕虜とする。双子の王子がいる。共にロドギュンヌに恋している。

クレオパートルは権力愛と、夫の王を虜にしたロドギュンヌへの憎悪が激しい。二人の息子にロドギュンヌを殺した者を王にすると告げる。ロドギュンヌも入れ知恵され、自分を愛する二人の王子に、クレオパートルを殺した者と結婚すると言い出す。一人の王子は嫌になって王の座もロドギュンヌももう一方に譲ると言い出す。
残った一方はロドギュンヌから愛されていると知る。放棄したもう一人の王子をクレオパートルは嫉妬によってロドギュンヌらを破滅に追い込もうとする。王子は拒み、クレオパートルに毒殺される。
クレオパートルはロドギュンヌと愛されているもう一人の王子も毒薬で亡き者にしようとするが、失敗し自滅する。

夫や息子まで殺してもしがみつきたい権力欲、女への憎悪の塊であるクレオパートルはこれほど悪女という言葉がふさわしい人物はなかろうと思わせる。
伊地智均、竹田宏訳「コルネイユ名作集」白水社、1975

2019年3月26日火曜日

コルネイユ『ポリュークト』 Polyeucte 1643

コルネイユの5幕劇、宗教を扱っている点が異色。
時代は古代ローマ、キリスト教を迫害していた頃、場所はトルコとカスピ海に挟まれた地域であるアルメニア。

ここの総督に任命されているフェリックスの娘ポーリーヌ。彼女は元々ローマ時代、騎士のセヴェールを愛していた。しかし父親の命令でアルメニアの貴族ポリュークトと結婚した。
セヴェールはアルメニアの地にやってき、未だポーリーヌを愛しており、それを彼女に告げる。しかし今ではポリュークトの妻となったポーリーヌは貞節を守る。

ポリュークトは友人に感化されキリスト教徒となっていた。偶像破壊の挙に出て捕まえられる。義理の息子の暴挙に怒り狂うポーリーヌの父親。ポーリーヌはあくまで夫についていくつもりである。愛するポーリーヌの嘆きを見てセヴェールはポリュークトの助命に動く。
甲斐もなくポリュークトは従容として殉死する。それを見たポーリーヌは自分もキリスト教徒になったと告げる。生存中は自分を裏切ったポリュークトを罵っていた義父も、義理の息子の死に様、娘の回心を見て自分もキリスト教徒になると言う。セヴェールも感動する。

殉教が主題の劇であるが、今では自分の娘を出世の具にしか使わない、勝手なポーリーヌの父親が気になる。父親が娘の生死与奪権を持っていた昔の話である。
岩瀬孝訳「コルネイユ名作集」白水社、1975

コルネイユ『シンナ』 Cinna 1643

コルネイユの5幕劇。

ローマ時代、政治家の父を皇帝オーギュストに殺された娘のエミリーは、皇帝に復讐を企んでいる。彼女に思いを寄せるシンナに皇帝暗殺を依頼する。
皇帝はシンナとマキシムという臣下を呼び、自らの進退について意見を聞く。自分に対する信頼を知ったシンナは皇帝暗殺の意志が鈍る。しかしエミリーの願いを聞き入れ実行しようとする。マキシムもまたエミリーに思いを寄せている。シンナを売り、皇帝に暗殺計画を知らせれば、エミリーを得られるとマキシムの奴隷は入れ知恵する。しかしマキシムは耳を貸さない。

奴隷は計画を皇帝側に告げる。エミリーとシンナは皇帝の前に呼び出される。エミリーは自分の計画でシンナは関係ないと庇い、シンナも自分の罪を引き受ける気でいる。マキシムも現れ、奴隷の企みであったと真相を言う。皇帝は凡てを許す。

この劇はモーツァルトの歌劇『皇帝ティートの慈悲』の筋に使われた。解説によればナポレオンは本作を高く評価していたそうである。
岩瀬孝訳「コルネイユ名作集」白水社、1975

コルネイユ『ル・シッド』 Le Cid 1637

5幕から成る。悲劇のような体裁だが最後は祝福のうちに終わる。

カスティリャ(スペイン)の騎士ドン・ロドリーグとシメーヌは相思の間柄。王女も勇士ロドリーグに恋しているが臣下への恋は許されない。
手柄を立てたロドリーグとの結婚を夢見るシメーヌ。しかしシメーヌの父がロドリーグの父を喧嘩から決闘で負かす。その復讐でロドリーグはシメーヌの父を殺す。

最愛の人が父の殺人者となったシメーヌは絶望に陥る。それでも父の恨みを晴らす必要がある。国王の采配で、ロドリーグに闘いを挑む騎士がいればその者と決闘させる。自らの代理となってくれた騎士の剣に血がついているのを見、ロドリーグを殺したのかとシメーヌは怒り、食って掛かる。しかし実際の結果を知る。
題名のル・シッドは、敵方モール人の君主という意味だが、国王が勇士という意味でロドリーグに与えた美称。

岩瀬孝訳「コルネイユ名作集」白水社、1975

2019年3月20日水曜日

コルネイユ『オラース』 Horace 1640

コルネイユの5幕の悲劇。

ローマの貴族ホラースはアルバ国出身の女を妻としている。オラースの妹は、妻の兄と婚約している。しかしローマ、アルバ両国間に戦争が生じる。
戦争の犠牲を少なくするため、選ばれた戦士の間で闘い、その勝者の国を戦勝国にすると取り決められた。運悪くオラースの三兄弟と妻の兄三兄弟で、戦闘が行われることとなった。

最初オラースの兄弟2人は殺され、オラース本人は逃げたと聞き、オラースの父親は息子の不名誉ぶりに絶望する。しかし後になりそれはオラースの企みで、相手方3人を討ち取ったとわかる。喜ぶ父親、しかし妹は婚約者を殺され、兄やローマを非難する。オラースはその妹を殺す。

愛情と愛国の板挟み、コルネイユは何よりも名誉を重んじる作品を書いた。そのため妹を殺すような展開になり、これは当時から批判されたという。
戸張智雄、橋本能訳、講談社世界文学全集、第11巻、1978

時計じかけのオレンジ A Clockwork Orange 1971

キューブリック監督、米英、137分。
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好き勝手に乱暴を働く不良グループ。その指導者である青年はベートーヴェンの交響曲第9番が好きである。
浮浪者の老人や、作家の夫婦に乱暴を働く。ついに中年女性の家に入り込んだ際、抵抗を受け、その女性を殺害する。刑務所に入れられる。

刑務所で新規の治療法を知る。それを受ければ短期間で出所できるという。青年はその実験治療を受ける。暴力的な映画を、有無を言わせず見せるのである。その間、ベートーヴェンの第9が流れている。この治療ですっかり青年は暴力性をはく奪され、何をされても抵抗しなくなる。釈放される。実家に戻るが親はむしろ迷惑顔である。かつての暴力グループの仲間がなんと今は警官になっている。彼らに会い暴力を受ける。逃げて入ったところはかつて自分が押し入った作家の家である。介抱して作家はやがて青年が自分らに乱暴を働き、そのせいで妻は亡くなった、その原因の男と知る。部屋に閉じ込め嫌いな第9をかける。頭が狂いそうになった青年は窓から飛び出し落ちて大けがをする。

怪我の治療を受けた青年。刑務所で行われた治療は非人間的と非難され政府は責任を問われている。青年に会いに来た野党の政治家は政府攻撃に彼を使おうとし、青年は快諾する。ベートーヴェンの第9が流されても今では何とも思わず、攻撃性を取り戻している。

久しぶりに観た。有名な作品で細部まで筋を覚えていた。しかし今回はかなり疑問を持った。一体この映画は何を言いたいのか。洗脳への反対、やっても無駄だとか、そんなことか。

しかしこの映画の後半で行なう奇妙な治療、こんな実験をやるわけないだろ、とまず思ってしまう。この実験治療がなければその後の話もないわけで、観ていられない。
もっとも映画製作当時はそれほど非現実的でもなかったかもしれない。また後の方でマスメディアや反対の政治家に非人間性を言わせている。しかし現在ではそもそも治療の実施自体ありえない。一つのたとえだと思えばいいと言われそうである。しかし後半は『フランケンシュタイン』のような空想科学映画に思えてしまった。

2019年3月16日土曜日

モーリアック『愛の砂漠』 Le désert de l'amour 1925

マリアという女を愛する父子。息子に焦点が当てられているが、父親の出番もある。小説冒頭のマリアと息子の再会から過去へ遡る。

まだ息子は少年に近い時代。父親は医師でそれなりの地位にある。マリアは、自分の患者だった男の子の母親である。その子が死んだ後、マリアと医師の関係が生じる。息子は市電でマリアに出会い、お互い惹かれ合う。後にそれが医師の息子と知る。少年の激情は実らなかった。その後の長い期間、父子ともマリアとは疎遠であった。息子はマリアに執着していた。しかし再会してみると・・・。

細部について意味の解釈が可能な作品であり、読んでいて考えさせられる。
遠藤周作訳、講談社世界文学全集第35巻、1970

ドイル『勇将ジェラールの回想』 The Expoits of Brigadier Gerard 1896

ホームズ物で有名なコナン・ドイルによる歴史小説。

ナポレオン時代の准将ジェラールによる回想、8篇収録。比類ない剣の使い手、ハンサムで女にもてまくり、戦闘では超人的な活躍、奇跡的な強運で難事を乗り切る。まさに勇将の冒険譚である。

ドイルが何より歴史小説を自分の本領と考えていたことは有名である。ホームズ物は人気があるのでしょうがなく書いていた。それほど好みでなかったホームズ物が文学史上で特に有名な作品群となった。
それに対してこのジェラール物は確かにドイルが力を入れて書いたとわかる。奇想な素材だが筋は単純なホームズ物に比べ、かなり凝った話の展開となっている。ただし個人的な好みの問題だろうが、このジェラール譚は自分としてはそれほど感銘を受けなかった。なぜだろう。
以前読んで文庫化されていない『白衣団』(White Compay)は面白いと思ったのに。再読してみたい。
上野景福訳、創元推理文庫、1971

2019年3月12日火曜日

櫻井武『「こころ」はいかにして生まれるか』講談社ブルーバックス、2018

著者は筑波大学教授の医者。題名を見ると心理学的、哲学的、あるいは精神病理的にこころの問題に迫っているのかと思うかもしれない。しかし著者は医者であり、神経科学から見たこころであり、身体の機能としてのこころの動きを見る。
「こころ」はいかにして生まれるのか 最新脳科学で解き明かす「情動」 (ブルーバックス)
脳がこころ、精神をつかさどっているとは現代人なら誰でも知っているであろう。しかし脳だけでなく、身体の反応も脳に影響を与え相互依存関係にある。
もちろん脳についても各部とその働きなど詳しい説明がある。脳は一体でなく各部で夫々の働きがあり、進化的に見てより初期にあたる部分が大きな役割をする。

人間を動かす思考は理性的なものだけでなく、情動と言われる感情や身体的反応も大きく影響を与える。情動の動きは表情等のほか、交感神経の興奮等によって測られる。
海馬は陳述記憶の生成に必要だが、これ以外にも情動の記憶は扁桃体による。

また我々を動かす、やみつきにさせるようなもの、報酬体はドーパミンの影響による。この興奮は期待との差で異なってくる。脳内物質やホルモンにはこころを動かす機能がある。

医学者の書いた著であるから、かなり専門用語が出てくる。それらは覚えにくいものが多い。あまり使わない字や熟語でも、まず見ないものが多いからである。
こころに対し科学的接近を行なっている書である。

ナチュラル・ボーン・キラーズ Natural Born Killers 1994

オリヴァー・ストーン監督の米映画、118分。男女二人が逃避行し、各地で殺人、暴力を働く。
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1950年代後半の有名なスタークウェザー=フューゲート事件にヒントを得ている部分がある。ただそれは若い男女二人の殺人行、初めの方で女の義理の親を殺すところくらいか。より直接的に映画化とされている「地獄の逃避行」ほどでない。「カリフォルニア」も少し似ているが、同作で女役をやったジュリエット・ルイスは、本作でもやはり女の役である。この人は狂った女をよく演じている。

殺人を繰り返し、捕まる。しかしそれで映画は終わりでなく、刑務所内でも殺しをし、それが引き金となった暴動で二人は逃げる。

映像も工夫を凝らしている。暴力的な場面が多く、これほど文部省推薦から離れた映画はないといっていいくらいである。