2015年8月31日月曜日

ティボー『ヴァイオリンは語る』 Un violon parle 1947

20世紀前半のフランスの代表的なヴァイオリン奏者ジャック・ティボーの自伝的回想。

ティボーはボルドーの音楽家の息子として生まれた。ティボー自身は最初ピアノを習っていたそうだ。兄弟が何人かいてヴァイオリンを習っていた兄は少年時代に夭折してしまう。兄からヴァイオリンの手ほどきを受けていたジャックは兄の死後、父の前でヴァイオリンを弾き、驚かれる。
 
その後有名なヴァイオリン奏者からも絶賛され、パリの音楽院で学ぶ。とびぬけた才能によって余裕ある順風満帆な生活をしていたわけでない。暮らしのためティボーは場末の音楽団で色々な音楽の演奏をする。それが勉強になったと語っている。

本の題名にあるようにティボー自身はヴァイオリンによって何でも語ることができる、むしろ言語の方が不便だと言っている。いかにも天性の音楽家ならではの言である。

また動物に音楽がわかるのか、効果があるのかと思い、様々な動物の前で演奏を試みているのも面白い。
粟津則雄訳白水社1992

栄光 What Price Glory 1926

ラォール・ウォルシュ監督による第一次世界大戦を描いた戦争映画。無声映画。

二人の米海兵隊員、最初は共に軍曹で後片方は大尉に昇進する。彼らはライバルで特に女を巡って争いをどこでもやっている。映画は中国、次いでフィリピンでの二人の恋の鞘当てから始まる。

第一次世界大戦が勃発する。米海兵隊は参戦後、フランスへ配属される。そこでの宿泊施設である宿屋の若い娘に二人とも惚れる。ドイツとの戦闘命令が下る。激しい戦闘シーン。戦闘後、宿のある町へ戻り娘との再会を喜ぶ。二人とも相手を出し抜こうとする。

アメリカ映画らしく娘を巡る二人の競争はユーモアがある。恋の場面と冷酷な戦闘シーンとの対比が特徴である。何度か戦闘、娘を巡る競争の後、最後にもう帰って来れないのでないかと娘が危惧する中、二人は揃って戦闘へ向かう。
まず無声映画として制作された後、音響効果を入れた版ものち公開されたそうだ。

2015年8月30日日曜日

サンライズ Sunrise 1927

ムルナウがアメリカで撮った映画の第一作。もちろん無声映画である。

主人公は、妻(ジャネット・ゲイナー)と田舎で平和に暮らしていたが、都会からやって来た女に惑い、妻を亡き者にし、女と一緒に都会に逃げる計画を立てる。

舟で偽装転覆を図るが、寸前に気を取り直す。岸へ着くなり怯えた妻は逃げ出す。妻を追って都会への路面電車に乗り込む。着いた都会で結婚式に遭遇し、妻に改めて悔い、許してもらう。その後、二人は都会で享楽の日を過ごす。帰りに舟で湖を渡る途中、嵐になり舟は転覆、夫は助かるものの、妻は行方不明になる。村人と妻の捜索に出る夫。

傑作と喧伝されている作品であるが、正直それほどよいのかと思った。ムルナウならノスフェラトウや最後の人の方が普通に良いと思う。

花と嵐とギャング 昭和36年

石井輝男監督による、高倉健主演の白黒ギャング映画。

石井監督の東映移籍第一作だそうだ。
刑務所を出た高倉は以前の組の者たちと銀行強盗を計画する。強盗自体は成功したものの、義理の弟が盗んだカネを持ち逃げしてしまう。

当然組はその弟とカネを取り返そうとする。高倉の妻は自分の弟を殺されないよう、ボスに掛け合ってくれと頼む。高倉の、今は出世している同僚が、銀行強盗中に仕組んで仲間うちを殺そうとしていた。その弱みがあるため、ボスへの高倉の義理の弟の命乞いに同行する。

いずれにせよカネを取り返すことが第一の使命となった。義理の弟は恋人と一緒に、実兄の大物のギャングである鶴田浩二を頼り逃げようとしていた。母親である清川虹子も最愛の末子を何とか救おうとする。

最後は弟と恋人が逃げていた田舎の牧場を、高倉と組の者が見つけ出す。それだけでなく組の他の者たち、鶴田もその牧場へ駆けつけ激しい銃撃戦になる。

見ていて気になったのは、奪ったのが五千万という当時としては天文学的なカネであるにも関わらず、取り返そうとするギャング団にあまり熱意が見られない。問答無用で殺すべきなのに、奪い返そうとするにもあまりに間抜けでドジを踏む。ボスもそれほど熱心に見えない。
弟も奪ってから五千万なんてどうでもいいと投げやりなことを言い出す。
最後の銃撃戦は派手で見せ場なのかもしれないが、子供向きの探偵テレビなみに見えてくる。
このような映画について欠点を並べてもしょうがないのであろう。

ここでは禁欲的なイメージが強い高倉健が、妻の尻に敷かれあまり頭のよくないギャングを演じていて、こういう役もやっていたということに価値があるのであろう。

2015年8月28日金曜日

イノセント L'innocente 1976

ヴィスコンティ監督の遺作映画。イタリアの貴族の夫婦の「不倫」を描く。

主人公の貴族はプレイボーイであり、妻の前で平気で情人ののろけを物語る。現在はともかくこの映画の舞台となった昔であれば、夫の「浮気」は寛容視され、妻の「不義」は許されないというのは、日本と同じく向うの国でも同様であったのか。

ともかく主人公の夫は身勝手であり、自分の浮気を当然視している。それに耐える妻だけなら問題がなかった。しかし妻も美男の流行作家から恋せられる。

ここで男と女の生理的違いが出てくる。妻が妊娠してしまったのである。不義の子と知った夫は堕せと迫る。拒否する妻。しかも不倫の相手の作家は外国で病死してしまう。

赤ん坊が生まれる。妻はこの子が憎いと口先では言う。夫は極端な行動に出る。その結果、妻から完全に拒否され、憎悪されるに至る。情人の夫人と生きたいと持ち掛けても捨てられてしまう。

主人公の勝手な行動が大きな原因を作り、妻の不倫による妊娠、出産などいわば偶然的な要素も強いものの、非行に走った夫は同情されないだろう。しかし彼は最後まで自分の行動を後悔していなかったのではないか、そうであれば自分自身を憐れんだままであったのか。

グリード Greed 1924

シュトロハイム監督による無声映画。人間の強欲の様を描く。

主人公は黄金狂時代に金鉱の採掘夫をしていたが、出世を夢み歯科医になる。
友人の従妹と恋仲になりめでたく結婚。しかしその式の最中、花嫁に高額の宝くじが当選した知らせが来る。

これによって花嫁は手に入れたカネを無くすことを恐れ、極端な吝嗇家になる。また友人は元々恋人だった従妹を譲ってしまったことが、宝くじを手に入れ損ねた原因と考えるようになり、主人公に邪見になる。

悪質な友人と手を切ったものの、この友人は主人公がもぐりの医者だと通報する。そのため失業する主人公。失業者になった彼は職を捜すものの、なかなか見つからず、妻にカネを無心するがにべもなく断られる。悪化の一途を辿る夫婦仲。

まず悲劇は妻に起こり、奪ったカネを巡って主人公といまや完全な敵となった元友人が砂漠で有名な結末を迎える。

巨額のカネを入手したことが、かえって不幸を招いてしまうという主題に対し、最も早くとりくんだ作品であろう。
しかしカネの無意味さを説くという、やや説教的なところが今となっては陳腐に思われるかもしれない。

2015年8月24日月曜日

小島政二郎『眼中の人』 昭和17年

芥川龍之介や菊池寛と親交のあった作家の、若き日の自伝小説である。

今、小島政二郎という名はどれ位、覚えられているのであろうか。大正時代から作家生活を始め、一時期は大衆作家として非常に有名であったとか。戦後も芥川賞や直木賞の委員を務めたり、食道楽の随筆が有名になったときもあると言う。

19世紀の終わりに東京の下町に生まれた著者は小説家を志し、『羅生門』で感激した芥川に兄事というか親交を求めるようになる。同時期、菊池も新進作家として注目を浴びるようになる。
 
著者と芥川は東京出身で馬が合ったこともあろうが、四国出身の菊池のやること、行動方針は江戸っ子の著者から見るとあまりに東京風と異なる。東京出身者に見られる自らの出自を誇り田舎風を見下す傾向のせいか、菊池を色々批判する。

著者は人に合わせて生きてきたと述べるが、自らの信念には随分頑固である。文学に対する考え方など青臭いといえるが、いかにも青年らしい。ただ理論や信念だけで文学をものせるものでない。
この著書では菊池に比較的多くのページが割かれ、彼に反発していた時代から圧倒されるまでに至る様子がわかる。

大正文学史としての資料の価値もあるようだ。ただし著者が長編小説と断っているように、第二次世界大戦戦中になってから、大正以前を振り返った自伝小説なので脚色等もあろう。もちろん過去に対する解釈は常に主観的なものである。
岩波文庫1995

2015年8月20日木曜日

小野紀明『西洋政治思想史講義 精神史的考察』 2015

京大で政治思想史を講義した著者による講義録。

かなりユニークな政治思想史である。通常の政治思想史とは一線を画する。
精神史とは、通常の思想史で扱うような大家の思想内容の説明に留まらず、哲学はもちろん芸術や文学等を含めて、その時代の思想の全体な状況を把握していく方法を言うらしい。
そのため内容構成はかなり通常の思想史と異なっている。

プラトン、マキャベリ、ホッブズなど大家の思想の説明で構成されているような思想史は珍しくないが、これは全く異なる。あまり政治思想史では扱われない項目の説明が続くとか、政治思想の大家も標準的な内容が省略されたりしている。
例えばギリシャ悲劇の解説に結構ページを割くとか、まえがきで著者も断っているが、なぜ法学部の政治思想史で扱うのか読者が不思議に思うようなところが多い。
ともかく通常の思想史と競合するような著書でなく補完的な著書と言わざるを得ない。

もう一つの特色は、内容が高度で難易度が高い。例えば本著で扱われている思想家の概略を知ろうと思って読む本ではない。特に近現代の思想家について感じた。それらの思想家の概略的一般的知識を前提のうえ、著者の関心事項が述べられているので、あまり基礎的な知識のない読者は難しく感じるであろう。入門的な説明でなく、著者の研究論文と言った体裁である。

正直、一応読了したものの、理解できていないところが多かった。そういう意味では批評のようなものを書く資格はないのだろうが、このような感想を持ったところを述べた次第である。

2015年8月17日月曜日

カラヤンとともに生きた日々 エリエッテフォンカラヤン回想記 2008

カラヤンの夫人であったエリエッテによるカラヤンとの生活の回想。

まずエリエッテ自身の生まれからカラヤンに出会うまでの自伝的回想。カラヤンと出会い、結婚してからは音楽家としての夫と生活を共にした日々を綴る。

そもそもカラヤンはインタビューでも私的生活に言及することがなかったようだ。カラヤンのような有名人、そしてその妻がモデル出身の美人ということであればジャーナリズムの注目の的にならずにおかない。それでも『自伝を語る』でも私生活は一切触れていないようにこれまで不明であった事情がこの本でわかる。結婚するまでのラブ・ロマンスは物語のようだ。あれだけ音楽家として精力的に活動したカラヤンがどれだけ妻を、私生活を大事にしていたか、よくわかる。

もちろんここは妻からみた偉大な芸術家としての夫の評価であり、そこにかなり妻としての思い入れがあるであろう。しかし客観的な、人への評価はありえず、どう思うかは当然そ主観的なものである。

とんでもなく意外な挿話とかあるわけではないが、面白かったのはバーンスタインが非常に虚栄心が強かったとか、またカラヤンと共同のツァーを提案したこととか、カラヤンの死後、どれだけ本気か不明だがエリアッテに結婚を申し出たなどである。

エリアッテがカラヤンの代表的録音を挙げているが、我が国で普通の代表と見做されている盤と結構違っているのは面白い。
松田暁子訳アルファベータ社2008

エンドラー『カラヤン 自伝を語る』 1988

カラヤンが自ら語った内容を批評家のエンドラーがまとめたもの。

カラヤンはまえがきで「わたし自身のことを、わたしは書くことはできない。それは語ることができるだけだ」と言っている。
まとめたエンドラーはアンチ・カラヤン派であったという。

形式は、カラヤンが語った部分は小説のせりふのように一部であり、地の文というかト書きをエンドラーが書いている。この地の文が多いため、表題は自伝を語るとなっているが、エンドラーによるカラヤンのインタビューを使った評伝のような本である。

エンドラーによる解説というか補足のような部分はそれなりに情報を提供しているのは確かであるものの、やはりカラヤン自身の語りのみで著書を作るべきであった。別の本でエンドラーがカラヤンの評価を書けばいいのである。

語られている内容で特に面白かったのは他の音楽家に対する評価である。フルトヴェングラーとカラヤンについては散々言われているものの、ここでカラヤンがフルトヴェングラーを優柔不断と言っていることだ。こういう面については知らなかったので面白く読めた。
吉田仙太郎訳白水社1989

2015年8月15日土曜日

ベーム『回想のロンド』 1968

オーストリアの代表的な指揮者カール・ベームの回想録。

ベームの名が記されているが、彼が執筆したのでなく語った内容をまとめたものである。その引き出し役となったのはハンス・ヴァイゲルという人である。本文は凡てベームの語りなのでベーム著でおかしくないのであるが、その話題の触媒役を務めたわけである。

回想録は故郷グラーツの幼年時代から始まり、父の勧めで法律の勉強をしたこと、またベームが正式に音楽の勉強をしたのはピアノや作曲などであって、指揮法自体は学校の教程で学んだものでないなどわかる。

指揮者としてのデビューは他の偉大な指揮者にも例があるように偶然というか命令されて行ったところ好評で、それから他からも引き合いがあり務めるようになったというものである。その後、ワルターやリヒャルト・シュトラウスなど偉大な先達との交遊、彼らから薫陶を受け指揮者としての出世階段を昇っていく。

正直、ベームなど歴史に名を残す大指揮者は音楽家として並外れた才能の持ち主であり、こういう回想録での記述がどの程度控えめなのか、あるいは本人が語っているように他人にも見えたか、わからない。そもそも評価に関して「客観的」な評価はないとも言えるのだからしょうがない。

この翻訳が出たのは1970年でまだベームが存命中であり、特に日本では熱狂的ともいえる彼の音楽ファンがいた。
あれから30年を閲した今読み直すと感慨深い。
高辻知義訳白水社1970

2015年8月11日火曜日

大いなる遺産 Great Expectations 1946

原作はもちろんディケンズの長編小説である。

何度か映画化されている。有名なのは1997年のイーサン・ホーク、グィネス・パルトロゥ等の出演による作品と、ここで取り上げる1946年のディヴィッド・リーン監督による映画である。白黒映画である。

現代に時代を変えた1997年の映画と違って、ここでは原作とおり19世紀のイギリスが舞台となっており、やはり同監督による『オリヴァー・ツイスト』などと同様に、当時のイギリスの雰囲気を再現している。正直いってこの作品にしても、『オリヴァー・ツイスト』にしても19世紀のイギリスそのもの、空気が見られるのが最大の魅力でなかろうかと思ってしまうくらい。

登場人物ではやはり一番印象に残るのは、エステラの少女時代を演じた十代のジーン・シモンズである。後に知的美人としてハリウッド映画でも活躍する彼女は、冷たくて高慢な美少女を演じて、これ以上のはまり役はないと思ってしまう。どうみても少女時代のヴィヴィアン・リーにしか見えない。

後、主人公ピップの成人後の友人役で、若き日のアレック・ギネスが出ている。当然ながらそう言われなければ気がつかない。
この映画を見て、元の原作を読み直したくなった。

2015年8月6日木曜日

上海から来た女 The Lady from Shanghai 1946

オーソン・ウェルズ監督、主演、リタ・ヘイワース主演の白黒映画。

題名の上海から来た女とはもちろんリタ・ヘイワースのことである。

船乗りのウェルズは港でたまたま出会ったリタに惹かれる。その直後彼女をならず者から助け、彼女から夫の船で働かないかと誘われる。夫は中高年のやり手の弁護士である。

船に乗って大西洋からパナマを通って太平洋へ出る。癖のある執事や夫の友人も同行する。ウェルズは夫の友人から高額で奇妙な殺人依頼を受ける。なんとその友人本人の自殺依頼なのである。もちろん偽装で世の中から姿を消したいのが目的、ただし死体が見つからないので、下手人であるウェルズには罪がかぶらないはずだという。随分危なっかしい話だがリタと駆け落ちしたいウェルズは承知する。

その後想定外の展開となり結末を迎える。
正直言ってわかりにくい映画だと思う。なんでも長時間カットされたらしい。それも影響しているのであろう。

最後の遊園地のマジックミラー(多面鏡)の場面は有名である。随分前に見たのであるが、見直してみると記憶と違ったのはいつもの通り。
怪優ウェルズと当時の配偶者であったリタとの共演ということだけでも価値のある映画であろう。

2015年8月5日水曜日

岩井克人『経済学の宇宙』 2015

経済学者岩井の人生の軌跡、即ち自伝というより本の中で語られているように、知的軌跡、経済学への取り組みの発展をインタビューに答える形で述べられた著書である。

経済学では標準的な仕組みが出来上がっており、これの高度な大学院レベルになると習得だけでも並大抵でできるわけでない。従って標準的な理論に対抗しようとすれば、これまでの経済学を高い水準まで習得して初めて、論理的説得的に体系を構築していく必要がある。単なる世界観の違いを述べていればいいわけでない。

岩井はMITの大学院へ行って当時の最高の経済学者であるサムエルソンやソローの助手にも選ばれ、その後バークレイやエール大学の教師になっている。まさにエリートとして歩んでいたわけである。
 
しかし彼の関心が主流派経済学への疑問となり、その研究に全力を傾ける。業績として必要な論文を出さず、長年かけて研究の成果である不均衡動学の著書を発刊するものの学界からは冷遇された。著者が大学院時代に自分の研究者生活の頂点を迎え、その後は没落の歴史であったと自虐するのは、主流派経済学の序列の中で登って行けなかったことを言う。

日本へ戻ってからは資本主義の利潤がどのようにして発生するか、貨幣の根源的な仕組みは何か、また会社組織はどう捉えるべきかなどの問題について研究し、その成果がわかりやすく述べられている。

主流派経済学の本流を歩まず、自ら精力を傾けた研究もその本場のアメリカで評価してもらえず、米の一流大学の教授になれなかったのは学者としては無念極まりないことであった。ただ従来の経済学の標準的枠組みに挑んで戦ったのは敬服に値する。
日本経済新聞社