2015年4月30日木曜日

鞍馬天狗 昭和34年

マキノ雅弘監督、東千代之介主演のシリーズの最終作。総天然色。

京のまちに勤王党を名のる盗賊が出没、商人を襲っていた。実はこの盗賊の正体は新撰組であった。新撰組、こんなあくどいことしていたのか?

新撰組は料亭で勤王の志士たちを襲う計画を話していた。これを聞いた芸者の美空ひばりが鞍馬天狗に伝え危機を防いだ。

角兵衛獅子をしている姉妹を助けたことから、鞍馬天狗の居場所が新撰組に知られる。

また勤王方が集まる鞍馬山の火祭りを新撰組が襲おうとしている。ひばりは鞍馬天狗に身の安全のため行かないでくれと頼むが、天狗は馬を駆ける。火祭りに銃を放ち駆け込む天狗。

本作はシリーズ物の一作のためか、多分当時見ていた観客にはよくわかったと思うが常連の登場人物たちが活躍するものの、大きな山場的なチャンバラの見せ場はあまりない。最後の鞍馬山への駆けつけにしても馬で乗り込んで蹴散らすが戦闘の場面はない。

本作では美空ひばり扮する京芸者との恋の語らいの場面などが一番の見ものかもしれない。

天草四郎時貞 昭和37年

大島渚監督、大川橋蔵主演による島原の乱を描いた白黒映画。

美男子であったという天草四郎を橋蔵が演じるとなれば、多くの観客が期待して見に行ったのであろう。そして呆れてしまったであろう。現在でも何の事前知識もなく見れば同様の感想ではないか。記録的な不入りとなり予定されていた大島監督の次作まで制作中止になったとか。

島原の乱を描いていることには変わりない。しかしこの映画は悲惨な結果に終わった乱を悲劇的美学として描くのでもなく農民等下層の抵抗運動自体に力点を置くものでもない。むしろ反乱側の乱れや内部抗争のようなものに関心がある。

ここで大島監督といえば安保騒動を元にした『日本の夜と霧』を思い出す。まさにあの討論劇をこの島原の乱を材料にした映画に無理やり組み込んだような出来なのである。

戦略方法を延々と反乱側で議論する。そして籠城へと出かける組との別れの場面、ここに乱で何万人処刑されたという字幕が出て映画は終わり。あまりの唐突感というか、それまで戦闘の場面とかあったものの、尻切れトンボ感は拭えない。

先に書いたような監督の関心によって作った映画が観客に受け入れられない。それは十分わかる。
しかし制作後五十年以上たった。現在みる我々は上に書いたような事情を知っている。その後世界的に有名になった大島監督の問題作であることも。そういう状況を踏まえて見ると違った感想を持てることもできるようになった。

およそ映画的な娯楽とは隔たりがある、製作者の自己満足のようなものと知っていても、また関心を持てるのである。

侍ニッポン新納鶴千代 昭和30年

佐々木康監督、東千代之介主演による白黒映画。原作は『侍ニッポン』という小説で何度か映画化されているようだ。

主人公の青年新納は母と二人だけで暮らしている。相思の相手がいたが、自らの出生があいまいで破談にされてしまう。亡くなったという父の素性を母に問い詰めるが明確な回答は得られない。剣道仲間の妹が芸者に出ており、かつての恋人と瓜二つなので入れ込む。

仲間はある密使を帯びていると言う。日本を良くするためとの意図で水戸浪士一味と井伊大老の暗殺を企んでいた。新納はたまたまその一味の頭を助け、自らも仲間に加わる。しかし暗殺計画を聞くとそれが日本にとって望ましいか悩む。
 
当日になっても逡巡している新納を捨て一味は暗殺に向かう。直前に妹が新納の母に話し、それで井伊大老が新納の実父と知る。暗殺を止めに押っ取り刀で駆けつけるが、井伊だけでなく新納も一味に斬られた。

以前見た同じ原作の三船敏郎主演の『侍』(こちらの方が制作は後)と細部でつくりは異なる。

東千代之介は柔弱不断な感じで暗殺すべきか悩む、あるいは好きな女と結婚できないと酒を飲んで自棄になるなど、およそ男性的とはほど遠い。あまり魅力的な人間には描かれていない。武士制度を批判する意図であるからそういう意味では良いのであろう。

2015年4月29日水曜日

幕末残酷物語 昭和39年

加藤泰監督、大川橋蔵主演による「実録」新撰組物語というべきか。白黒映画である。


主人公演じる橋蔵は、かつてのアイドル的な美青年より素に近いのであろうか、やや太った感じで新撰組の新参者役である。

新撰組にやっとのことで入隊させてもらった純真な田舎者の青年が新撰組の現実に直面し、強面に変貌していく様を描く、といった映画に最初は見える。もっとも最後に種明かしがあるのだが。映画上このようなどんでん返しはどうなのであろうかと思ったりした。やや不自然な気がする。
ともかく最初のうちは軍隊で初年兵が鍛えられていく様を見ているようだ。主人公を助ける役で藤村志保が若い娘役で出ている。

旗本退屈男捕物控 前篇七人の花嫁・後編毒殺魔殿 昭和25年

旗本退屈男シリーズの戦後第1作。松田定次監督白黒映画、東横映画であり、東映の設立は翌年。

この話では旗本退屈男は結婚しており、新婚早々という設定。嫁の父親が月形龍之介扮する目明しで、娘に身分違いの結婚は許さないといきまく。早乙女主水之介自体、武士が嫌で気儘な旗本をしているので気にしていない。主水之介の父が奉行で新藤栄太郎が演じており善人役で出ている。

雲州藩の殿が毒殺され、大友柳太郎扮する弟君が代わりに藩主になる。毒殺犯の疑いをかけられた侍の婚約者の頼みで、主水之介は真相究明に乗り出す。

いくら旗本だろうがあるいは江戸の奉行だろうが、各藩の内部まで探れないはずである。それをこの映画では顔見知りの新藩主からの依頼で、退屈男が活躍するという設定にしている。

後編では、藩屋敷に招かれそこで捜査を進めるという話になっている。ともかく銀山の毒によって多くの登場人物が毒殺される映画で、必ずしも悪人でない者も次々と倒れる。戦後間もない時期でまだ殺伐とした雰囲気の時代であったのかと思ってしまう。

2015年4月26日日曜日

小林秀雄『ドストエフスキイの生活』 昭和14年

読んだのは新潮文庫版で初版は昭和39年、平成17年に改版され活字が大きくなっている。内容は『ドストエフスキイの生活』のほか、『カラマアゾフの兄弟』『「罪と罰」についてⅠ』、『「罪と罰」についてⅡ』、『ドストエフスキイ七十五年祭における講演』の諸編である。

表題作の『ドストエフスキイの生活』が本の約半分を占める量である。
まずこの文庫版で気になったのは、書誌情報がない。初出がいつどのような形で出されたか一覧をつけるべきでないか。解説を昭和39年に江藤淳が書いており、たまたま表題作が昭和10年から雑誌に発表、14年に単行本として出されたと書いてあった。あと一部の論文は注に初出が書かれていたが、このような基本的な情報は必ずつけるべきであろう。

表題作は小林によるドストエフスキーの評伝であり、ネタ本は解説によるとカーの本らしい。書簡からの引用が極めて多い。内容的に不正確なことが判明している娘エーメの伝記からの引用も多く戦前の著作らしく古めかしい。また筆の勢いで書いたのであろう、どうかと思われる記述もままある。あるいは昔は一般的な情報が少なく、適当なことを書いても差支えない時代であったのかと思わせる。

これらの論文は歴史的な価値はともかく、内容の事実に関して専門家の吟味をしてもらいたい。

日本人によるドストエフスキーに関する著作として最も有名なものであろうが、小林の書いたものはなんでも読みたい人向けであろう。

2015年4月25日土曜日

賀川豊彦『死線を越えて』 大正9年

戦前のベストセラーと前から名前は知っていた本。ようやく読めた。

実は勝手に書名から戦争もの、それも記録物と思い込んでいた。実際は神戸の貧民窟での布教活動を描いた自伝的な小説であった。

小説は、明治学院に学ぶ主人公の生活から始まる。いわゆる哲学青年そのものの生き方、考え方が描かれる。父親は故郷の徳島及び神戸で事業を営み、また市長も務める。俗物の塊のような父に対して率直に意見を述べるものの、世間知らずの青臭い青年という感じである。父の死後、彼は神戸の貧民窟でキリスト教の布教に務める。それはまさに聖人君子でしか可能でないと思わせるような犠牲的生活のようである。

普通歴史の表面に出てこない、明治から大正にかけての貧民窟での生活、人々の生き様が描かれ資料的にも貴重であろうと思った。

続編があるようでそれも読みたいと思った。

2015年4月24日金曜日

大喧嘩 昭和39年

山下耕作監督、大川橋蔵主演による任侠総天然色映画。錦之助の『関の弥太っぺ』に感銘した橋蔵が山下監督ととった映画だそうだ。それで十朱幸代も出ている。また相手役で丹波哲郎も出演。題名はおおでいりと読む。


好きな十朱と別れて3年ぶりに修業から故郷へ帰ってくると、一家は敵役の組に押され傾いているだけでない。十朱は友人と結婚していた。愕然とし虚無感に陥る橋蔵。

落ち目の一家と相手方のやくざを争わせ、漁夫の利を得ようとする別のやくざ一家。そこに雇われている浪人丹波哲郎は、かつて妻が暴行を受けやくざ一般に嫌悪感を抱いている。彼もやくざは滅びればいいと思っている。

最後のやくざ同士の大喧嘩はやくざ同士の争いの惨めさ、虚しさを強調したものとなっている。爽快とはほど遠い雰囲気の映画だ。それが持ち味であろう。

丹波ほか西村晃などの脇役も記憶に残る。

十三人の刺客 昭和38年

工藤栄一監督、片岡知恵蔵主演による有名な集団抗争時代劇。白黒映画である。

明石藩の主君は暴君である。しかし将軍の弟であるため誰も諌められない。しかも次期に幕府の要職に就く予定である。

この暴君を成敗すべく参勤交代の帰路で襲って亡き者とする秘密の指令が、老中から手練の士へと下った。その首領が片岡知恵蔵であり、仲間と組んで暗殺計画を立てる。

山深い部落で待ち伏せし、大名一行と暗殺者十三人の斬り合いが映画の最後数十分にわたって続く。

この映画の設定、大名を参勤交代の途中で暗殺するとか驚く。各藩での内部の抗争によって殺された大名もいたのであろう。しかし公然と暗殺者が大名行列を襲うなど実際にあったであろうか。少し考えるとあっても不思議でない気がしてきた。また公然と、と述べたがこの映画でも表向きは帰藩後病死として処理したとある。そうなれば誰もお咎めなしということになる。

この映画は最後の長尺の立ち回りが有名であるが、参勤交代最中の暗殺という話に改めて新鮮な感じを受けた。

2015年4月19日日曜日

瞼の母 昭和37年

中村錦之助主演、母役は木暮実千代で、加藤泰監督によるおなじみ長谷川伸原作の総天然色映画化。

映画では前半に、錦之助がやくざの仁義といってはやる弟分の松方弘樹を諌める話がある。
松方には妹(中原ひとみ)と老いた母親があり、二人のことを考えろと錦之助は諭す。敵方やくざを討っても自分だけの所業とし、母のいる松方にかたぎになることを約束させる。

後半は江戸へやってきた錦之助が母との再会と別れという瞼の母そのもの。

この話、菊池寛の『父帰る』と逆の構造を持っていることを今回改めて感じた。

また親子の感情、特に母と子の間は、通常言われるようなきれい事ばかりでないのは実は多く見られるはずである。親の子への犠牲的な献身という美談が当然視され過ぎていないか。

この話でもカネをゆすりに来たと勘違いしたことから悲劇が始まるが、カネだけでなく深い暗い裂け目が結構あるはずである。そういうことも考えさせられた。

金田一春彦『日本語』 昭和32年

岩波親書の一。昭和32年は初版で、その後新版を同じ岩波新書から昭和63年に上下2冊で出している。

今回読んだというより、読み直したのは旧版である。これは随分前に読んだ。読んでいて思い出した個所がいくつもある。正直よく覚えていた箇所が多い。

再読して驚愕した。若い時に読んだときはそんなに思わなかったのに。著者は国語辞典の編集などでおなじみの国語学者であり、本著は日本語の特色を外国語との比較などを交えて書き綴った本である。
 
いったい何を驚いたかというとあまりに偏見に満ち満ちているから。西洋中心思考、それ以外の国は西洋と違いがあるほど未開である、という以前よくあった発想法を元に論を進めているからである。

著者がどれだけ偏見を持とうと自由だがこれほどあからさまに差別意識丸出しの著書がいまだ読めるとは驚き(もっとも新版はまともになっていると思うが)。そういう意味で貴重な本である。再度言う。これほど凄い本は近時経験なかった。

2015年4月16日木曜日

若さま侍捕物帖 黒い椿 昭和36年

大川橋蔵が新吾十番勝負より前にシリーズで出ていた若さま侍捕物帖の一。沢島忠監督、これはシリーズ第9作目にあたる作品だそうだ。


舞台は伊豆大島。休養に来ていた若さまは謎めいたアンコを知る。彼女は私生児で、父親は江戸の侍、母は捨てられて自殺という蝶々夫人めいた出生で何かと島で噂されている。多くの男たちから狙われている。

宿屋を経営するよそ者の女主人と番頭、女主人をくどく名主、ライバルの悪人丸出しの網元、椿油製造の主人、油商人、不思議な老婆、番頭の兄の密航者などが主な登場人物。

網元が夜浜辺で後ろから銛で殺された。アンコの祖父は孫に言い寄る網元に恨みを持っていた。アンコと祖父は隠れ、彼らに疑いがかかる。若様も捜査に乗り出す。

その後殺人が重ねられ、謎は深まっていく。

捕物帖は推理物の一でありながら、謎解きよりも全体の設定や悪者たちをどう捕えるかに興味の中心を置くものが多い。それに対してこの映画は謎解きが主であり、最後にわかる犯人は驚く。いわゆる本格推理小説を読んでいるような気分になる。

江戸時代の大島を背景として(どの程度時代考証的に正しいか別にして)、推理時代劇となっている本作は結構存在感を主張できる。

2015年4月13日月曜日

ひばりの森の石松 昭和35年

これも沢島忠監督による美空ひばり映画。ひばりが森の石松に扮する。女装の石松でない。ひばりが石松役を演じるのである。

もっとも最初と最後は静岡の茶摘み場面で、ここの茶摘み女の一人がひばりで、彼女から他の女たちは石松譚を聞く。そこが映画の本編となっているという、他のひばり映画でも度々とられた劇中劇方式である。

石松は清水の次郎長一家に入るつもりで張り切っていたが、持ち前のおっちょこちょいを発揮し、一家の者をやっつけ悪人を逃がしてしまうなど失策を重ねる。一家入りは許されたものの、自分が逃がしてしまった仇のやくざ捜しが前半の筋。

後半では例の金毘羅参りである。この映画では四国の城へ帰る幼い姫と家老を悪人の家来たちから守る役を演じる。
この姫様役の子、幼いが大人びた顔立ちをしていると思ったら片岡知恵蔵の実娘だそうだ。もちろん帰りに悲劇に会うなどの話にはなっていない。

随所に沢島監督らしい遊びをしており見ていて楽しめる映画になっていた。

2015年4月11日土曜日

江戸の悪太郎 昭和34年

マキノ雅弘監督の戦前の作品の自身による再映画化。総天然色となっただけでなく、主役が嵐寛壽郎から大友柳太朗への変更で、雰囲気が明るくなったそうだ。


インチキ宗教が隣の長屋地域を買収して拡張を図ろうとする。その長屋に住む寺子屋の師匠である浪人が、他の住民と協力しこれを阻止する物語である。

信州の長者の娘が結婚を嫌がり江戸へ出て来て、男装しこの長屋に転がりこむ。浪人の家に同居する。この娘を追って信州から親族が捜しに来る。
 
宗教の教祖は適当な占いで大いに儲けている。この占い師によって長屋の母子家庭の母親が毒牙にかかる。
最初は買収に対し合法的に対処しようとしていたが、最後は浪人が単身で乗り込み占い師や操る武士たちを成敗する。
信州の娘と主人公の結婚で終わり。

時代劇のご都合主義は慣れているものの、子供の母の非業の死という悲劇を避けるため、もっと早く悪人ばらをやっつければよかったのにと思ってしまった。

お染久松 そよ風日傘 昭和34年

沢島忠監督、美空ひばり、里見浩太郎主演の時代劇。ひばり主演なので挿入歌が多い。映画の枠組みは幕が開き舞台の挨拶から始まり、舞台に戻って終わる。その間に映画が挿入される。

ひばりは大阪の油屋の一人娘と田舎の純情な少女の一人二役。一人娘は勝気で積極的。彼女と母親は放蕩者の兄に苦労させられている。ひばりは好きでもない商人の若旦那との縁談を迫られうんざりしている。

一人娘は店の丁稚の一人である里見と相思の仲になる。放蕩者の兄はある芸者に入れ揚げている。その芸者に目をつけているやくざな浪人衆と、ひばりを嫁にしたい若旦那は組んで、油屋を窮地に陥れたが、間一髪で助かる。婚約者がいるということで里見の親は彼を田舎に連れ戻す。その相手が田舎娘に扮したもう一人のひばり。祝言の直前に油屋の一人娘はその田舎の家にやって来て、里見と駆け落ちしようとする。里見の親は止めるものの、凡て知り悟った田舎娘のひばりは彼を一人娘へ譲る。

最後は舞台に戻って、里見や一人娘は大阪へ帰る。それを見送る田舎娘のひばりは泣き崩れる。
一人娘と田舎娘の、里見の取り合いはどう処理するかと思わせたが、田舎娘が身を引く形にしている。一人二役で両方ともひばりなので、出番の少ない田舎娘に悲劇役をさせている。

喜劇なのでカタカナの現代語も使い「私の選んだ人を見てください」といった当時の流行語も出てくる。後の時代になるとわからない人が出てくるかもしれない。

2015年4月10日金曜日

殿さま弥次㐂多 捕物道中 昭和34年

フィルムセンターの東映時代劇シリーズ第2弾で、沢島忠監督、中村錦之助、賀津雄兄弟が尾張、紀伊の若殿に扮した時代劇を見た。殿さまシリーズという続き物の一らしい。

二人は殿様稼業に飽き、城から逃げ出したいと思っている。錦之助の縁談に賀津雄が女に化けてやって来て、二人で尾張から紀伊まで町民に扮し道中へ繰り出す喜劇。

大名を荒らす曲者一味(首領が月形龍之介)、彼らが間違えられる義賊、故郷へ帰る親子(娘役が中原ひとみ)、二人を追いかける家来などが伊勢湾、伊勢路を舞台に騒動を起こす。組立は面白いものの、現代から見て正直一つ一つのネタがそれほど洗練されていない。

東海道の宮から桑名までは海路、その船が結構大きいのは少し驚いた。実際ああいう船が運航していたのかと思った。

総天然色だが、リマスター版でなく色があせており、昔の名画座で見ているような気分であった。

2015年4月4日土曜日

ストリンドベリ『痴人の告白』 En Dares Forsvarstal 1888

スウェーデンの作家ストリンドベリの長編小説。最初の妻との出会いから破滅に至るまでの告白小説。


ストリンドベリは生涯3回結婚をしており、これは最初の結婚の顛末を綴ったというか、ドキュメンタリーとしての小説。登場人物は仮名となっているものの、自らの経験を書いているのであろう。もちろん作家である以上意図的な創作部分もあるかもしれない。更に精神がおかしくなって妄想を書いているのかとも思わせる小説である。

軍人である若い男爵及びその夫人と知り合い、やがて親友になる。夫人と相思の仲になる。男爵夫人は舞台女優志望であった。夫と別れ作者と一緒になる。夫人はそれ以降作者の愛人から闘争の相手に変身する。ともかく後半ではあまりに夫人の不実さを攻撃しているので、それが作者にとって真実であったにしても読者の共感を得られなくなっているほどだ。

先に破滅までと書いたが実際に夫人と離婚が成立するのは小説後3年たってからである。
これほど赤裸々に夫が不満を持つ妻への感情をぶっつけている小説は文学史上ないであろうと思わせるくらいで、一般的な文学的感動が遠くなっている。

そのためこの小説は昭和45年の講談社版世界文学全集に収録されて以来一度も出版されたことがない。後に講談社が文学全集を再編集販売した際もイプセン/ストリンドベリ集には『令嬢ジュリー』ほかの戯曲が収められた。
本作はストリンドベリファンでないと付き合いにくいと思われる。
山室静訳講談社版世界文学全集24巻(1970

2015年4月3日金曜日

イプセン『幽霊』 Gengangere 1881

『人形の家』で有名なイプセンの戯曲。『人形の家』のノラは家を捨てる。この劇の主人公の女主人はむしろ家の対面や家族を守ろうとする。


随分前に亡くなった夫を記念した孤児院を建てようとする女主人。外国へ行っていた息子が戻ってくる。その息子は女中に恋をしているようだ。

女主人はかねてより知り合いの牧師を顧問として相談相手にしている。この牧師は「俗世間」を代表するような存在。息子と女中の過ちが起こったと知った時、女主人は過去の幽霊が出たと叫ぶ。

後半でこの竣工直前の孤児院が火事で焼ける。過去の「悪事」が暴かれる。死んだ夫は放蕩者であった。女中も彼の不義の子。義理のきょうだいと恋愛中にあったと知った女中は家を出ていく。それだけでなく夫の放蕩による性病が遺伝した息子は死に至る。

題名の幽霊は女主人が叫ぶことからきているがこれは亡夫の淫蕩(とのちにわかる性病)の遺伝を息子が受け継いでいることを指す。
 
昔の日本人なら「親の因果が子に報い」と言われそうな劇である。

最後にからくりが判明する、という推理小説のようなつくりの劇がイプセンには多い。この劇の他にも『ロスメルスホルム』や『建築師ソルネス』など過去の男女関係が起こした因縁が今の悲劇となって現れるといった構成である。

正直言って初見でこの劇をみても、わかりにくいかもと思った。もう既に古典となっているイプセンの劇だから観客は筋を知っていると想定していいのか。
原千代海訳、岩波文庫