2015年7月28日火曜日

白昼の死角 昭和54年

高木彬光原作の映画化である。村川透監督。夏木勲主演。

光クラブがモデルになっている事件の終末から始まる。その後、生き残り仲間が仕掛けた詐欺事件の数々を描く。戦後の混乱期から朝鮮戦争期までが背景である。

映画だから可能性がかなり低いことが起きても不思議でない。ただこのように60年も前を舞台としていると、当時起こっても不思議でないのかの判断もむつかしい。

騙される側やその他脇役に結構有名な俳優が出ていて、そういう意味で見る価値がある。
映画の終わり方に関しては他の工夫もあったのではないかと思わせる。

この映画、封切時ではないが何十年も昔、池袋の文芸坐で見たことがある。覚えていたのは島田陽子の台詞一言だけだった。

2015年7月21日火曜日

最後の人 Der Letzte Mann 1924

ムルナウ監督による無声映画。カール・ヤニングス主演。

大都会の立派なホテルのドアマンが主人公。将校の軍服みたいな大時代的な制服をきて、堂々とホテルの玄関に立つ恰幅のよい彼は見栄えがする。自分もこの職業に誇りを持っている。しかし長年やってきていい歳になっている。

制服が彼の誇りの源泉であり、通勤もこの制服でとおし、アパートの住人たちからも一目置かれている。

ある朝いつものようにホテルに着くと別のドアマンが立っていて驚愕する。ホテルの支配人に質すともう歳だからもっと楽な仕事に替わってもらおうと言われる。実は長年の慣れによるドアマンの素行に感心していなかったのだ。制服を残念そうに脱いで返す。

新しい仕事とはトイレの世話係。即ち客にタオルを出したり掃除をしたりする役である。すっかり打ちひしがれてしまった主人公。家に帰っても恥ずかしくて言えない。しかも娘の結婚式がある。堂々たる制服で出席しなければ様にならない。夜ホテルに忍び込み、制服をこっそり持ってくる。

後日アパートの住民が弁当を届けにホテルに来るとドアマンが違うので驚く。聞いて主人公の本当の仕事を発見し更に驚く。ついにばれてしまったのだ。アパート中に広まってしまう。誇りを完全に打ち砕かれてしまった主人公。

実はここで映画は終わるはずであった。しかしト書きの字幕が入って、後日談が付いている。それは空想的なhappy endになっている。

これはアメリカ輸出用に付け加えたとある。監督は積極的でなかったという情報もある。アメリカからの要請なのか。映画制作会社からの注文なのか。よくわからない。ともかくこの付け足しの後日談は映画としての出来栄えからいうと蛇足にしか見えない。

中間字幕はト書き用には2,3か所入るが台詞の字幕は全くない。凡て動作でわかるようになっている。ベティ・アマンの出た『アスファルト』は一切中間字幕はなかったと思う。

制服ごときに誇りを持つとは嘲笑する人もいるかもしれないが、今の日本でも同じようなことしている人多いだろう。会社をクビになっても毎日家を出て家族にはさも出勤しているかのように見せかけている人。大企業から無名の小企業に退職出向してもまだ以前の大会社勤めを名乗っている人。この主人公と同じようなものである。

2015年7月19日日曜日

トラック野郎 御意見無用 昭和50年

鈴木則文監督による菅原文太主演のシリーズ第1作。
 
デコトラの運転手の菅原とその仲間の愛川欽也がレギュラー出演で、寅さんのパターンをとり毎回マドンナに恋するという設定で10作続いた。

この回ではマドンナ役に中島ゆたか。昭和40年代後半に出ていた女優さんと名は知っていたが、実際に映画でみるのは初めて。スタイルの良い人である。菅原を恋している女運転手に夏純子、この人も当時知られていて他の映画でも見た気がする。ライバルのトラック運転手に佐藤充。

かなりの下品な言動が目立ち今なら作れないのでないか。毎回警察と衝突があり、それらも観客にカタルシスを感じさせ、人気が出たのであろう。

孫文『三民主義』 1924

中国の革命家孫文の主著。広州での講演を文章化したもの。

辛亥革命の13年後の記録である。革命の後の進展は事前の期待と全く違っていた。この状態を打開するため、中国で欠けている、あるいは未だならずの民族主義、民権主義、民生主義の確立の必要性を聴衆にやさしく、熱く語ったものである。

孫文は革命家でありカリスマであった。革新的な思想家でない。そのため解説でも触れられているが、内容は新規なものはなく所々首をかしげるような記述もある。
いかに自分たちの文明が優れていたかの強調も多く中国人らしい。

当時の政治経済社会状況による制約が感じられるのは当然。しかしそれが欠点というよりむしろ当時の状況を伝えていて価値があるというべきであろう。

ともかく講演なのでわかりやすく読み易いという点が良い。
岩波文庫上下2冊、昭和32年、安藤彦太郎訳

2015年7月18日土曜日

死闘の伝説 昭和38年

木下惠介監督の戦争末期、疎開先での地元民との死闘を描いた異色作。


冒頭と最終の現代場面のみ色つきで、舞台となる昭和20年8月は白黒。岩下志麻やその母田中絹代など一家は、元々田舎である北海道の僻地に疎開している。兄の加藤剛が負傷で戦場から戻ってくる場面から始まる。
 
岩下は村の地主の息子である、菅原文太から求婚される。気が進まないものの、戦争末期のやけな気分も手伝い承知してもいい気になっている。兄の加藤剛は嫌ならいくなと諭す。また菅原に会い、中国戦線での彼を思い出す。そこでの残虐な行動を。

はっきりと断ると菅原は嫌がらせを始める。それだけでなく村人も作物を盗むのは疎開者の一家と勝手にみなし思い込むようになる。

その村の中で疎開一家の味方はかつての家の使用人であった加藤嘉とその娘加賀まりこであった。

ある日、岩下が一人で道を歩いている時、馬に乗った菅原が見つけたことが、悲劇のきっかけとなる。
映画の後半は文字通りの死闘である。

見たのは二度目である。以前は同じフィルムセンターで木下恵介特集をやったときだ。強烈な映画なので覚えているつもりだったが、冒頭の色つきの現代の場面など覚えているものと違った。ブルドーザーが林を開拓しているような記憶だったが違っていた。
人の記憶がいかにあてにならないものか再確認した。

日本侠客伝 雷門の決斗 昭和41年

高倉健主演、マキノ雅弘監督によるシリーズ第5作。高倉は浅草の興行主役。総天然色。


大正終わりの浅草。若旦那高倉が帰って来る。父の興行主はやくざへの借金のため自決を遂げる。興行会は遺書では解散する予定であったが、仲間たちの強い要望で、高倉は主に就く。

敵役のやくざの嫌がらせのため、思うように興行ができない。かつての親友である村田秀雄が高名の浪曲師に出世しており、そのよしみで彼の小屋に出てもらうが、やくざの妨害にあう。

様々な妨害だけでなく、仲間が殺されたりして、堪忍袋の緒が切れそうになっている。高倉の仲間のうちでも特に人気のある女役者が慕っている、やくざ(長門裕之)が帰ってくる。高倉の恋人、藤純子の父という設定の元老やくざと、戻ってきた風来坊やくざが敵のやくざに切り込む。しかし老やくざは殺されてしまう。

高倉は震災復興記念の興行を任される。興行が終わろうとする時、彼は子分の藤山寛美と敵に殴り込みをかけボス初め一味を皆殺しにする。

やくざや興行のことは良くしらないが、今までの理解では昔は興行の仕切りは凡てやくざがやっていたと思っていた。しかしこの映画では高倉側は、以前はやくざであったものの、今は堅気になり興行に専念しているという設定である。その権利を敵のやくざが手に入れ興行面でも高倉側と張り合っている。堅気の興行主とやくざの興行主と二種類あり、その対決となっている。そういうものかと思った。

2015年7月16日木曜日

萬世流芳 1942

阿片戦争百年を記念して同戦争の中国の英雄、林則徐を描いた映画。

主人公の林の苦学生時代から映画は始まる。阿片中毒に陥っている友人を助ける。阿片窟で阿片を非難するので騒ぎとなる。たまたま通りかかった政府高官が見とがめ自分の家に連れていく。中国を堕落させているは阿片であるという、彼の言い分を聞くともっともである。すっかり惚れ込んだ主人は彼を家の書生としておくことする。令嬢の婿に迎えようと考える。
 
息子とつるんで阿片にはまっている従兄が、家の令嬢に言い寄る。危ういところを林により助けてもらう。逆恨みした従兄は讒言をし、怒った主人は林を追い出そうとする。身の潔白を晴らすが林は家を出ていくことを決心する。
主人の友人である学者の家に住み、そこの令嬢と結婚することになる。

林が出世する一方、かつての林の友人であった男は未だ阿片にはまっている。その恋人役が李香蘭である。彼女の家も父が阿片で潰れ今は飴売りをして身過ぎしている。
李は阿片窟で阿片の悪を訴える歌を歌うので非難される。彼女の恋人は怒り二人で逃げ出す。
 
男は心を入れ替える。李は阿片中毒を直す薬を手に入れる。これを作っているのはかつて林と噂になった家の令嬢である。事情を李が聞くと兄は阿片で父の遺産を食いつぶしてしまったとのこと。

林は出世を続け広州の総督となる。阿片の輸入を禁止したものの、密輸が依然続いている。今は海軍の兵士となった李の夫は、密輸をしているかつての友人、つまり令嬢の兄やその従兄を騙し情報を入手し一網打尽とする。

怒った英国側は中国相手に戦争を仕掛ける。広州以外にも各地で戦闘が続き南京条約が結ばれる。林は広州の総督の地位を追われるが民衆は彼を応援する。

林が主人公であるものの、映画的には彼に関係のある三人の女性に関心がある。最初令嬢で、後に阿片治療薬の開発や対英戦でも活躍した女優が最も英雄的に描かれる。
妻となった女性は良い役ということもあってむしろ印象が相対的に薄い。

日本人なら李香蘭が最も関心があるだろう。残っているフィルムが完全でないものの、李の役も日本人の贔屓目を除いても印象に残るのではないか。

映画は阿片が諸悪の根源、英国憎しを直接表面に訴えかける。英国人も中国人俳優が戯画的に扮装している。もちろん映画の英国によって当時の対戦相手の日本をイメージしてしまうのも自然であろう。ただそういった軍国主義批判の観点だけでなく映画を映画としてみたいとも思うのである。

2015年7月11日土曜日

イプセン『人形の家』 1879

最も有名な戯曲の一で、ともかく主人公ノラの名ほど人口に膾炙している近代劇の登場人物も少ないのではないか。

読んだことなくとも、この戯曲に対してイメージを持っている人が多いだろう。夫の人形に飽き足らず自立の道を選んで家を捨てたたノラは、女性解放、ウーマンリブの先駆者、象徴であると言ったような。

しかし何十年ぶりに読み直してそういった面からの解釈よりも、むしろ夫婦間の信頼性の問題のように読めた。ノラは夫のためと思ってしたことが、結果的に醜聞になる可能性が出てきた。その際、夫は外聞のみを気にし、最初はノラを非難するものの、穏健に収まるとわかると手のひらを返したような態度に出る。
このような夫に切れたのがノラである。

単に女性の自立とか言うと、現代では今更感があるだろう。男女の間の問題は永遠である。これを扱っているのなら読み継がれる。
杉山誠訳、河出書房版世界文学全集第22巻、昭和44

イプセン『ヘッダ・ガブラー』 1890

イプセンの戯曲。主人公は学者の新妻ヘッダ。二人が長い新婚旅行から田舎の自宅へ帰って来た場面から始まる。

夫は大学教授としての地位が期待されていた。ところがかつての友で今は疎遠の仲の男が帰ってくる。評判の本を執筆して。その男に教授の地位を奪われるらしい。しかしお人よしの夫は彼を賞賛する。それだけでなく彼はヘッダと過去に事情があったようだ。

友人の新著の原稿の紛失を巡ってドタバタが起こる。その際のヘッダの行動は不幸な結果を招くようになってしまう。これが悲劇となる。

ヘッダは高慢な女性として描かれ、その行動はどうも支離滅裂的にも見える。これが「女性」らしいというのかもしれないが。

解説にはこれをイプセンの最高作と見做す人が多いとあった。正直、作り話らしい話の展開はさておいてもヘッダには感情移入しにくい。
杉山誠訳、河出書房版世界文学全集第22巻、昭和44

2015年7月2日木曜日

イプセン『野鴨』 1884

豪商の家で会食が開かれる。戻ってきた息子は父親に批判的である。これは父の過去の「罪悪」を知っているからだ。彼の友人、写真家はその過去の罪悪の犠牲である、豪商の元同僚の息子である。写真家は昔の事情を良く知らない。未だ豪商の世話になっている父を恥じている。しかし更に彼が知らない秘密があった。

豪商の息子は正義漢だが、あまりに自分にとってあるべき姿の実現のため周囲に及ぼす影響について無頓着である。父と衝突した彼は、友人の写真家の家に居候に行く。写真家は妻と娘がいる。写真家の父は変わり者で、軍人に戻る夢を追っている。家で野鴨その他を飼っている。この野鴨は以前負傷したのを介抱して、今は特に娘が世話している。

豪商の息子は友人の写真家に真実を告げることを義務と心得、写真家の妻と豪商の過去を話す。衝撃を受けた写真家は家族が信じられなくなり、家を出ると言い出す。しかし一層の悲劇が待っていた。

イプセンお得意の過去の因果が子に報いという家庭内悲劇であり、悲劇の衝撃さでは特に印象が深い。
山室静訳、河出書房版世界文学全集第22巻、昭和44

日本解放戦線 三里塚の夏 昭和43年

成田闘争を描いたドキュメンタリーシリーズの一。白黒。小川伸介監督は反成田空港建設運動を多く撮った。

これはその第一作で制作年代からわかるようにまだ初期である。そのため反対派農民や支援学生と公団側、機動隊との小競り合いが撮られているが、まだあまり大きな衝突まで至っていない。戸村委員長など懐かしい顔も見える。

しかしそもそも成田闘争はなぜ起こったのか。もちろん農民の中に自らの土地を空港建設に提供することを拒んだ者たちがいたからである。しかしながら一応、空港建設が決まるまで形式的な手続きは踏んだはずである。それが全く納得のいかないものだったか知らない。
しかし決まった以上、それに不満な少数派はいつも出てくる。少数派が多数派に従うべきだと言っているのではない。少数派は自らの意見を言っていい。泣き寝入りをしろとか、民主主義は多数派に従うものだと言っているわけではない。

基本的な考えとして民主主義では、少数派をどう扱うべきとなっているのか。決定の手続きに参加できるなら決まった以上、結果が自分の思い通りでなくても文句を言ってはいけないのか。しかしこの映画でも権力側が弱者の農民を攻撃しているという図式である。

少数派の扱いについて決まったルールがない、それで成田闘争では少数派が抗議、それは当然の権利として認められている。その行動に出たときもう少しましな対応ができなかったのか。