2024年3月31日日曜日

シルヴェット・ミリヨ『弦楽四重奏曲』 1986

フランスの著者による弦楽四重奏曲の歴史や名曲についての手頃な解説である。個人的な思い出を書く。今から半世紀ほど前、LPレコード時代の名曲名盤選を見ていた時、バルトークの弦楽四重奏曲の項に「バルトークの弦楽四重奏曲はベートーヴェンのそれと並ぶ傑作である」と書いてあり、びっくりした。弦楽四重奏曲というのはベートーヴェンからバルトークまでの間、ろくな曲がないのか。何という底の浅い、奥行きのない、数で見ると貧弱な音楽なのか。しかし関心はあったので、それ以来、色々な弦楽四重奏曲を捜し、鑑賞してきた。ベートーヴェンとバルトーク以外にも聞くべき曲は当然ある。本書でもそのヒントを得られて鑑賞の幅が広がった。

本書は『弦楽四重奏曲』と題されているが、扱うのは弦楽四重奏曲に留まらず、その他の室内楽も考慮に入れている。例えばブラームスは弦楽四重奏曲よりもその他の室内楽に有名曲が多いのではないか。弦楽四重奏曲に限って言えばブラームスよりシューマンの方をよくきく人がいても不思議ではい。しかし本書ではブラームスはベートーヴェンと並び19世紀の室内楽に君臨すると述べている。ベートーヴェンについては言うまでもないが、ブラームスは室内楽のほとんど凡ての形式を作曲したからだと言う。(本書47)なるほどこのように言えば室内楽へのブラームスの貢献は大きい。つまり狭く弦楽四重奏曲に限定されないのである。その一方で本書ではヴァイオリン・ソナタへの言及がない。ここではヴァイオリン・ソナタは室内楽の範疇にないようだ。クラシック音楽は18世紀から19世紀の中欧、ドイツ語圏の作品が主要と見なされている。ただ室内楽の愛好家はフランス音楽をきく頻度が大きい。解説で「フランス人の著作であるので、フランスの室内楽曲についての説明が物足りないということはない。」(p.174)とあるが、どこの国の人間が書いても、19世紀後半以降のフランスの室内楽については相当取り上げなければいけないと思う。

先にベートーヴェンとバルトークの弦楽四重奏曲が双璧だとの、半世紀前の指摘に驚いたと書いたが、バルトークの重要性についてはこの本でもp.144以下に書いてある。ただバルトークは6曲しか弦楽四重奏曲を書いていない。ベートーヴェンの、特に後期とバルトークについては最近ではあまりきく気がしない。丁度交響曲が好きで様々な交響曲をきいている人が、毎日ベートーヴェンの有名交響曲をききたいと思わないであろうと同じである。やはり弦楽四重奏曲は多く書いている作曲家がいい。そういう意味でハイドンなど特に好きだし、また本書p.165にある20世紀の作曲家で弦楽四重奏曲を多くものしている、ショスタコーヴィチ、ミヨー、ヴィラ=ロボスのうちショスタコーヴィチは一番好きな作曲家(交響曲なぞは全くきく気がしないが)と言っていいし、最近はヴィラ=ロボスをよくきいている。ブラジル風バッハ風ではないが、好きである。ミヨーは以前全集も出たらしいが、今では廃盤になっている。(山本省訳、文庫クセジュ、2008年)

土砂降り 昭和32年

中村登監督、松竹、104分、白黒、岡田茉莉子主演。岡田茉莉子は役所に勤め、同僚の佐田啓二といい仲で婚約し、課長に仲人を頼む。

佐田が岡田の家に行って親に挨拶しようと言うと岡田は遮り、こちらからいい時に頼むと答える。実は岡田の家は連れ込み旅館で、母の沢村貞子は山村聡の二号、旅館は山村が沢村にさせていたのである。岡田と弟妹は山村の庶子だった。山村は時々旅館にやって来て沢村や子供たちと会う。岡田は実家に帰る途中の山村に会い、自分の婚約を告げる。ただ父親は昔死んだことにしてあると山村に説明する。正式な親でないから。佐田の母親(高橋豊)は息子から岡田との婚約を聞いて、自分から沢村の旅館に挨拶に来た。近所で聞いてそれが連れ込み宿、しかも沢村は二号と分かり呆れて帰る。佐田の母親は役所に連絡して破談にさせる。

岡田と佐田は会うが仲直りはできず別れ、岡田は関西でキャバレーに勤める。家族は岡田が行方不明になり心配する。佐田は別の結婚をする。数年後、役所の汚職に関わり、逃げて関西の岡田のところに行って会う。犯罪者なので匿ってくれと頼む。一方佐田の母親は沢村宅に乗り込み、警察からの情報で息子が岡田のところにいるらしいが、岡田に丸め込まれた、騙されたと非難する。

岡田の弟と妹は百貨店で、箱根に行くと行って自分らと共にしてくれなかった山村が、実の子供たちに買物をしてやっているところを見つける。妹(桑野みゆき)は腹が立ち、嫌になり逃げて去ってしまう。沢村は妹の桑野も、雨の中、返ってこないので心配していると玄関に現われたのは岡田と佐田だった。ともかく二人を入れ宿で泊まらせる。

沢村は岡田に別れろと言い、それは佐田の母親から言われたからである。岡田は沢村に、それでは山村と別れてくれ、それが条件だと言い出す。佐田は自分の家に戻りたいと母親に手紙を書いている、と沢村は岡田に告げる。それを聞くと岡田は佐田の寝ている部屋に行く。夜中に岡田は佐田を殺し自殺した。

葬儀で沢村の家は佐田の家族に散々嫌味を言われる。帰宅後、妹の桑野が沢村に山村と別れてくれ、自分たちみんなで働くからと言う。山村が来た。山村にもそう言う。山村は了解し帰る際、沢村が送っていくがいつまで経っても帰ってこないので子供たちは心配して沢村を迎えに行く。沢村を見つけ、弟妹は一緒に帰る。

オペラ・ハット Mr. Deeds goes to town 1936

フランク・キャプラ監督、米、115分、ゲイリー・クーパー、ジーン・アーサー出演。映画は道を飛ばす車が崖から落ち大破する場面から始まる。乗っていた富豪は死に、その財産は誰が相続するのか。田舎に住む甥のクーパー(役名がディーズ)と分かる。

弁護士らはクーパーの住む田舎に行きニューヨークに連れて来る。田舎者のクーパーなど簡単に丸め込めると思っていたら、したたかなので周囲は驚く。新聞社では記事にすべく女辣腕記者のアーサーを送り込む。アーサーは弱い女のふりをしてクーパーに近づき、クーパーから好意を持たれる。アーサーはクーパーを記事でシンデレラ男と書き、この言葉が有名になる。クーパーは金に執着はないが、たかろうとする連中を見抜き、いいなりにならない。

ある日クーパーのところに失業した男がやって来て、クーパーを新聞で読み、馬に食べ物を喰わせたとあったので飢えている人間はどうなるのだと脅迫する。一旦銃を取り出すが収める。クーパーは貧しく困っている人たちが多いのに気が付き、自分の金で農業事業を起こそうとし、失業者らから参加者を募る。クーパー宅に押しかける。クーパーに財産を蕩尽されては叶わないと思っている連中は弁護士を通じ、クーパーは精神がおかしく入院させる必要があると裁判を起こす。一方クーパーはアーサーに結婚を申し込もうとしていた。

ある男がクーパーに暴露する。アーサーは新聞記者で記事を書くためクーパーに近づき、クーパーを嘲笑した記事はアーサーによるものだと。これを聞いてクーパーはショックで裁判などどうでもよくなる。裁判で何を言われてもクーパーは何も答えない。アーサーが真実を話し、謝罪しても無駄だった。最後にアーサーがクーパーを愛しているのだろうと尋問され、アーサーが肯定すると、クーパーは目が醒めたように喋り出し、自分が全く正常であると笑わせる例えをふんだんに使って演説を始める。これで裁判の結果はクーパーは正常だとなり、最後にクーパーはアーサーを抱き上げ抱擁する。

2024年3月30日土曜日

不死身なあいつ 昭和42年

斎藤武市監督、日活、87分、小林旭主演、他に浅丘ルリ子、二谷英明、東京ぼん太。『不敵なあいつ』に続く作品。

映画の冒頭、雨の中、車から男(小林)が引き出され海の中に捨てられる。やくざの仕業だった。鹿児島に舞台は移る。東京ぼん太が生きていた小林に再会する。小林は劇場の看板を見るとそこに浅丘の出演看板があった。小林はかつて浅丘といい仲だった。久しぶりに再会する。浅丘は小林の幼馴染である二谷と結婚していた。二谷は昔刑事で小林に更生するよう説得していた。今何をしているかを聞いてもはっきりした答えは返ってこない。二谷は土地のやくざの一味になっていたのである。小林は二谷と再会し事情を聞く。二谷はかつて事故を起こし、それをやくざにもみ消してもらった後はやくざのいいなりになっていた。

色々迷惑を土地にかけているやくざと小林はもめごとになる。土地のやくざは小林の正体を知り、邪魔なので消そうとする。神戸からも消すための殺し屋が来ていた。東京ぼん太が攫われ助けに行く。最後にはやくざとの対決になる。二谷は小林を助けたためやくざに殺される。小林はやくざや殺し屋を一掃して鹿児島を去る。

新婚道中記 The awful truth 1936

レオ・マッケリー監督、米、90分、アイリーン・ダン、ケイリー・グラント主演。典型的なスクリューボール・コメディと言われる。

ダンとグラントは夫婦。ちょっとした嫉妬と誤解等から言い争いになり、離婚になる。裁判所で離婚が決定され90日後に離婚が成立する。(女の子供ができたら父親をはっきりさせるためか)もちろん内心では二人とも相手を好いており、最後によりが戻るとは見る前から分かる。その間、相手を忘れるため他の異性と交際したり、ドタバタが続く。見せてはいけない男を隠したところ、そこには先客がいたりして、などはモーツァルトのオペラにもドストエフスキーの短編小説にも使われている。映画の類でも何度も見ただろう。結局相手に素直になれず、格好つけてばかりの様子を延々と見せられる。

若い時に見たら面白く思えたかもしれない。出演名ではダンの方が先に出てくる。戦前は人気があった女優のようである。

2024年3月29日金曜日

アイランド The Island 2005

マイケル・ベイ監督、米、136分、ユアン・マクレガー、スカーレット・ヨハンソン主演。近未来、大気は汚染されていて、人々は地下の工場で働いている。アイランドと呼ばれる夢の島への移住をみんな望んでいて、抽選に当たるよう祈っている。

マクレガーはヨハンソンとたまに会い話すのが楽しみだが男女の交際は禁じられている。ある日マクレガーは舞い込んだ蝶を見て、大気が汚染されているのに変だと思う。また抽選に当たり、アイランドに行ったはずの男女が殺されているのを発見する。

実は働いている人々はみんなクローンであった。クローンを開発したのは、注文主が不治の病を患っているなどの場合、その臓器等、身体の一部をクローンから取り注文主に売るためである。マクレガーは抽選に当たったヨハンソンを連れて逃げる。工場の外(地上)に出ると大気は汚れていなかった。やはり工場で働いている、クローンでなく人間のスティーヴ・ブシェミに外部の彼の家で会い、注文主のところに行く手伝いをしてもらう。追手が来てブシェミを殺す。マクレガー、ヨハンソンはマクレガーの注文主、即ちマクレガーと外見がそっくりな男と会う。男は工場に連絡し追手を寄こす。しかし追手は間違え注文主を殺してしまう。

マクレガーは逃げる前に工場で働いているクローンたちに真相を知らせるべく、工場に戻ってくる。工場を運営している連中と戦い、やっつけ、みんなと、ヨハンソンと共に工場を去る。

AVA/エヴァ Ava 2020

テイト・テイラー監督、米、96分、ジェシカ・チャステイン主演。チャステイン扮するエヴァは女殺し屋である。

フランスに来たイギリス人をエヴァは車の中で殺す。殺す前に殺される理由を被害者に聞いていた。エヴァの属する組織の長であるコリン・ファレルはエヴァを買っておらず、エヴァを始末するつもりだった。エヴァを贔屓にする仲間のジョン・マルコヴィッチはファレルと対立する。

エヴァは病気の母、妹の家族がおり自分の仕事は明かしていない。久しぶりに会った妹は自分の以前の彼と婚約する仲になっていた。ファレルとマルコヴィッチは殺し合い、マルコヴィッチが殺される。その映像をファレルはエヴァに送った。エヴァはかつての恋人に未練があったが、既に妹が妊娠していると知り、妹、彼氏に金を与え遠くに逃げろと命令する。エヴァはマルコヴィッチの仇を討つため、ファレルと対決する。ファレルを倒した。そのエヴァの後をファレルの娘がつけていくところで映画は終わり。

目黒冬弥『メガバンク銀行員ぐだぐだ日記]三五館シンシャ 2022

著者はバブル期に大手都市銀行に入行、その後合併したメガバンクに今も勤める行員で仮名。銀行の内部事情が書いてある。銀行ではこんな業務をしているという紹介ではない。こんなに人間関係で、あるいは仕事で大変だという体験談である。

本書を読んで驚いたとか評があるが、正直全部ではないにしても、しんどさの大半は日本の組織であれば似たようなものではないか。上司が嫌な人間でひどい目に会ったとか、あるいは信じられないような卑劣漢が同じ支店にいて煮え湯を飲まされたなど、程度は違っても組織ならある話である。嫌な上司は勤め人の苦労するところだが、本書では全く人間性を疑うような罵詈雑言を部下に向かって言う上司が出てきて呆れた。銀行はエリートの集団ではないのか。

この著者は出世コースを外れた理由が分からないと言っている。営業がエリートコースで事務は外れたコースとのこと。泣いたとある。上司や同僚など外からの妨害が色々書いてあり、自分の無能や失敗はあまりないらしい。結構有能な人物なのだろう。いや一所懸命に仕事をしていれば自分が認められ、出世して当たり前と思うのは普通であろう。何か出世を俗物根性の現われであるかのように批判する評論家の類が昔からいるが、そんな事を言っていられるのは出世が目的かどうかは別にして、頑張って仕事をしている人間が大半だからである。今の日本の社会が外国に比べてましに暮らせるのもそのおかげである。組織で働いていて出世を望む最大の理由は、自己実現を図るためである。一日の大半をそれに費やして、認めてもらいたいと思うのは当然ではないか。

それにしても銀行員は昔から今に至るまで日本ではエリートと見なされている。それなのに日本の金融機関は世界的にみて大したことない。なぜだろう。ここに書いてあるような日本の社会横断的な人間事情では説明できない。

またシステム障害の話も書いてある。自分の従事した仕事は金融関係ではないが、やはりそれなりにシステム開発の必要があり、専門の会社に作らせたのだが全くいい印象がない。システムが素人には分からないからといって法外な金を取り、ひどいものがあった。システム障害で銀行が非難されるのは当然だが、開発した会社が欠陥システムを作ったからである。システム開発も社会基盤の産業なのだが、これに関して暗い気になる。

2024年3月25日月曜日

J・M・スコット『人魚とビスケット』 Sea-wyf and biscuit 1955

海洋冒険小説が中心部分なのだが、小説は戦後間もない時期のロンドン、新聞に出た不思議な個人広告から始まる。

これにいたく興味を持った語り手はその謎を解きたい。何やら裏の話があるようだ。これを書いて出版したい。それで関係者に接触し、ようやく納得してもらえ、スコットランドの島にある屋敷まで行く。そこで聞かされた話が中心である。第二次世界大戦中、避難船を攻撃され救命艇で同乗する二人のイギリス人の男、一人のイギリス人の女、それから混血の乗組員の物語である。インド洋の漂流の描写が延々と続く。ようやく島にたどり着くが・・・。

人間同士の感情のもつれ。女ならではの調和能力などが描かれる。最後に生き延びた人々の若干の謎明かしがある。(清水ふみ訳、創元推理文庫、2001年)

2024年3月23日土曜日

清水幾太郎『論文の書き方』岩波新書 1959年

論文を書く際の心掛けが述べられている。岩波新書中、古典と言っていい書と思っていて、何十年ぶりかに読み返してみた。

自らの経験に基づいて書き方を述べているのは清水の他の著にも通じる。覚えている箇所が幾つかあった。尤もだと思うところも多い。接続の「が」を警戒しようとか、「あるがままに」書くのはやめようなどである。しかし今回の読み返しで、どうも全体として古いと思うところや、あまり納得できないところもあった。出版が昭和34年という60年以上も前であるからしょうがないだろう。

最終章の「新しい時代に文章を生かそう」など、当時の問題意識を書いており、こんな考えをしている時代があったという歴史文書である。またp.116以下で序論と結論が必要ないと書いているが、賛成できない。論点を読者に間違いなく伝えるためにも明瞭に書いておいた方がいいと思うし、ここはワープロなど全くなく、頭から文章を書くしかない時代の発想である。著者には後の時代に書いた文章の書き方を述べた著書があるのでそちらの方がいい。

ネイビー・シールズ Navy seals 1990

ルイス・ディーク監督、米、113分、チャーリーシーン主演。特殊部隊シールズの活躍を描く。

米軍のヘリが過激派に撃墜され、乗組員らは捕まる。処刑されようとしていた時にシールズが現われ助ける。その際に米国製の小型ミサイルを発見したが、爆破させる暇がなかった。このミサイルを爆破しなかったので、後に隊長は上司らから叱られる。ミサイル発見を課題としているシールズは情報を持っているらしい女ジャーナリストに接近する。この情報をもとにしたテロリストへの攻撃で、シーンが早まり、そのせいで仲間は殺されてしまう。隊長はシーンをどやす。

遂にミサイルの在り処を掴んだシールズは爆破作戦に出る。何人かの仲間を失い、隊長も負傷するがシーンが助けに行き、待機していた潜水艦で帰還ができた。

2024年3月22日金曜日

The Batman   ザ・バットマン 2022

マット・リーヴス監督、米、176分、全く新しいバットマンシリーズになっている。

バットマン即ちブルース・ウェインが両親を殺されて悪人に復讐を始めてからそれほど経っていない時期である。市長が殺害される。続いて警察の本部長、更に検事まで殺される。犯人はリドラーで現場にバットマン宛ての謎を残していく。後に判明する真相は、いずれも殺された者たちは裏で金をとる悪事を働いていた。その金の出所はブルース・ウェインの父親だった。市長に立候補するつもりの父親は、自分の妻の醜聞を嗅ぎ付けた新聞記者を何とかしてくれるようマフィアのボスに依頼していた。その結果は記者の殺害だった。父親も母親もその後殺された。そのため孤児院に出すつもりの巨額の金がマフィアのボスに思いのままになり、悪事に使われていた。

全体的に社会の悪を暴くといった暗い映画でヒーローが悪人ばらをかっこよく懲らしめる映画とは程遠い。

インヴェージョン The invasion 2007

オリバー・ヒルシュビーゲル監督、米、99分、ニコール・キッドマン主演。過去何回か映画化されたボディ・スナッチャー物である。宇宙人に身体を乗っ取られる。

キッドマンは精神科医、患者から夫の様子が最近変だと聞かされる。キッドマンの元夫に会うが、同様に変である。宇宙人に乗っ取られたと医者仲間の分析で分かる。既に多くの人間が乗っ取られている。キッドマンは幼い息子を捜す。息子は免疫があって元夫といても感染しなかった。しかしキッドマンは元夫と感染した仲間によって菌を吹きかけられる。眠ると身体が乗っ取られるという。それでキッドマンは睡魔と闘いながら、息子を捜し助け、宇宙人支配下の者たちから逃げる。キッドマンの恋人役のダニエル・クレイグも感染した。何とか逃げおおせ、対ワクチンが開発され問題は解決する。

不敵なあいつ 昭和41年

西村昭五郎監督、日活、90分、総天然色、小林旭主演。小林はあるやくざの組織にいた。無理な殺しを渋っていると、弟分の藤竜也が引き受ける。小林は藤に殺しなどやめて女と逃げろと勧める。藤がそうすると女共々殺される。怒った小林は組と縁を切る。

横浜に着く。若い女の手引でその家が経営するバー兼ホテルに泊まる。そのホテルは暴力団から脅しを受けていた。ギターで流しをしていると同業者の東京ぼん太に会う。ぼん太はやはり暴力団から脅されていた。小林は関わろうとしなかったが、ぼん太及び泊っているホテルを守るため、暴力団と敵対せずにいられなかった。暴力団は小林の正体を知り、質らなぬ相手なので腕利きの殺し屋を手配する。暴力団のボスの女(蘆川いづみ)がバーのホステスをしていて、小林に好意を持つ。暴力団側の情報を小林に流すので、車ごと海に突き落とされ死ぬ。

小林は相手の暴力団、また過去に在籍していたやくざとの闘いになる。相手側を倒し、腕利きの殺し屋も倒すが、実はその男は泊まっているホテルの昔失踪した息子だった。

2024年3月21日木曜日

H・R・ハガード『クレオパトラ』 Cleopatra 1889

『ソロモン王の洞窟』『洞窟の女王』など秘境冒険小説で名高いハガードの歴史小説である。題名にあるようにクレオパトラを描いた小説なのだが、クレオパトラが主人公ではない。

語り手で過去を回想する、ハルマキスという男が主人公である。エジプトのファラオの末裔で神官の地位にある。エジプトをよそ者のクレオパトラが支配している。エジプト人はクレオパトラを嫌っている。それで本来のエジプトの支配者となるべき者だと、ハルマキスは成人してから初めて父親から告げられる。そのためにクレオパトラを倒し、自らがファラオだと宣誓する使命を達成すべく都に向かう。クレオパトラに仕える女官カーミオンはハルマキスに恋し、そのクレオパトラ打倒を助ける。クレオパトラと一対一になったハルマキスはクレオパトラを剣で倒すべきなのに、その色香に迷い失敗する。クレオパトラはハルマキスの企みを知っていたのだった。大失敗しただけでなく、ハルマキスはピラミッドにある財宝もクレオパトラの頼みによって、一緒に取りに行く。苦労して盗み出した財宝は凡てクレオパトラの物となる。クレオパトラは自分の恋するアントニーと一緒になり、用無しとなったハルマキスは捨てられ、今や全エジプト人の恨みを一身に集める敗残者となる。故郷に帰ると父親は死んでいた。

残りの章は如何にしてハルマキスがクレオパトラとアントニーに復讐をするかに充てられる。それが達成されたとしてもハルマキスはエジプトへの裏切り者、エジプトを地に貶めた罪悪人に違いはなく、その罪を背負わなければならない。(創元推理文庫、森下弓子訳、1985年)

千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書 2022

ここで解説する「現代思想」とはフランスのポスト構造主義の哲学である。

特にデリダ、ドゥルーズ、フーコーの三人を中心に書いている。その思想は二項対立の脱構築が鍵の概念だそうだ。二項対立とは良し悪しを二つの概念の対立として捉える。秩序と無秩序、能動と受動など、対立する概念を二項対立と言う。どちらが望ましいか、正しいかは普通常識的には分かっている。その対立の良し悪しをいったん保留にするのである。脱構築と言い、どちらが常に正しいとは必ずしも言えない場合があろう。どちらともいえない灰色領域こそ現実的ではなかろうか、と考えるのである。デリダは二項対立からのずれを差異といい、これを重視する。普通の常識的判断に反対しているのではない。他にドゥルーズは存在の脱構築、フーコーは社会の脱構築を考えたと言う。

2024年3月20日水曜日

傷だらけの天使 昭和41年

吉田憲二監督、日活、81分、総天然色、西郷輝彦主演。鹿児島が舞台である。

西郷は以前起こした、暴力沙汰の責任を一人でとり、少年院(刑務所)に送られた。出所してきた。故郷の指宿に戻る。自分の家がやっていた旅館はなくなっている。西郷の姉はなぜか自殺していた。その姉の婚約者だった家は大きなホテルを経営しており、そこの娘、松原智恵子は西郷の帰りを待っていた。松原の両親は娘の西郷との付き合いを快く思っておらず、後には禁止する。

西郷は姉の自殺の原因を突き止めようとする。松原の両親は自分の息子と西郷の姉の婚約をよく思っておらず、ならず者に姉を暴行させた。それで姉は自殺したのだった。この事実が明らかになったので松原の両親は罪に問われ、松原も好いている西郷を諦めた。最後の方の真相が非現実で、好いている者同士が一緒になれないなど変わった終わり方であった。

猟銃 昭和36年

五所平之助監督、松竹、98分、総天然色、山本富士子、岡田茉莉子、佐分利信出演。

井上靖原作の小説の映画化である。原作は昭和24年という戦後間もない時期の発表であるが、映画の方は制作時に近い時代設定。また原作では3人の女の回想する手紙から成るが、映画は時間の進行に合わせている。佐分利信は20歳も年下の岡田茉莉子と結婚している。岡田の従姉で、佐田啓二(医師)と結婚している山本富士子は夫の佐田が看護婦と情交があって子供までなしたと知り、離婚を決意する。その元看護婦(音羽信子)が置いて行った少女を自分で育てる(この辺りも原作と異なる)。佐分利は山本にいたく惹かれる。独り身になった山本に迫り、深い仲になる。たまたま岡田が二人を目撃し、どういう関係か知る。

それから8年経った。少女は女高生になりセーラー服の鰐淵晴子が演じている。8年間も不倫を隠し続けてきた。山本はもし岡田に知られたら自分は生きていけないと思っている。たまたま山本が着ていた羽織が、8年前の佐分利と一緒の時と同じだった。それを見て当時の目撃を思い出した岡田は、二人の仲を知っていると山本に告げる。衝撃を受ける山本、ついには自殺を図る。岡田は佐分利に離婚してくれと言っていた。

この話で理解できないのは、なぜ8年間も不倫を続けていたかという点である。佐分利は岡田から心が離れ山本一筋なら、時間をかけて岡田に説明し離婚して、今は独身である山本と一緒になればいいのではないか。不倫が始まった時、悪人になろうと佐分利は山本に言う。その悪人役を続けていたかったのか。岡田も最初から二人の仲を知っていたが、二人がだますなら自分もだまそうと決意したと言う。それにしても8年間、夫と従姉の不倫を知りながら、佐分利とどういう夫婦生活をしていたのだろう。全く想像できない。

恋も忘れて 昭和12年

清水宏監督、松竹、73分、白黒、桑野通子主演。桑野は横浜の酒場で働く女である。他の女たちと共に待遇改善を女主人に迫るが相手にしてもらえない。

桑野には幼い息子がいる。その息子は母親が酒場で働いているので、他の子供たちから馬鹿にされる。他の学校に転校する。その学校に桑野は付いてこなくていいと、息子は言う。桑野に気がある佐野周二がやって来て、息子に馬鹿にされていてはいけないとけしかける。次に子供たちが来た時、息子は病気だったが、それをおして相手になって喧嘩を始める。これが元となって息子は病死する。桑野は絶望に陥る。

スタイルが良いので有名だった桑野であるが、この作では洋装でなく着物姿である。

清水幾太郎『本はどう読むか』講談社現代新書 昭和47年

著者は評論家、戦後ある時期まで平和運動の指導者だった進歩的文化人、それ以降は左翼陣営を批判する論客になった。ある時期とは60年安保騒動時である。

本書は読書に際しての心掛けを述べている。筆者の個人体験を元に書いてるのが特徴であり、また実用的な読書方法について述べている。実用的読書と書いたのは、世の読書論は全く趣味としての読書についてのみ述べているものが少なくないからである。以前作家が書いた読書論を見たら「面白くなければ読書でない」などとあった。これは小説など趣味的な本を前提としているのであろう。実際に書店に行ってみると、文学書のコーナーなどはあまりなく、大部分は実用書、つまり広い意味で知識を求める本になっている。

本書では書籍を実用書、娯楽書、教養書に分けている。小説などは娯楽書であろう。自分を高めるのが教養書と言っている。本書で書いている本への接し方は賛成できるものが多いが全部ではない。例えば必要なくなった本を売るよう勧めているが賛成できない。それにこれは「本を買え」という勧めと矛盾する。本を買っておかないと後で買えなくなる場合が多いからその通りだと思う。この理屈でいくと売ってしまうと、その後にまた欲しくなっても買えないかもしれない。今いらないと思っても将来は分からない。好みや関心は変化するからである。これは著者が物書きだから売れと言っているのだろう。つまり本を書くために購入する本が多いわけで、本が完成してしまえば材料となった本は売っても差し支えない。普通の人とちょっと違う。

また本は速く読めと言っている。速く読めたのにこしたことはないが、速く読めない本はどうするのか。つまり難しい本である。速く読めるのは本の内容(と書き方)が自分の知識、理解の範囲内にあるものである。難しい本は飛ばしても良いというのか。速く読めるのは自分の実力の範囲及びそれ以下の本になるので、つまり易しい本ばかり読めとなってしまわないか。本を全部読む必要はない、ただし洋書は分からなくても全部読めといった提案は賛成できる。

最後にマスコミ時代の読書という章があるが今では時代遅れである。専らテレビラジオと印刷物がマスメディアであった時代の話である。今ではインターネットが従来のマスメディアを破壊しつつあり、その流れは加速していくだろう。本書はテレビ全盛時代の議論である。