2021年9月30日木曜日

黒猫・白猫 Chat noir, chat blanc 1998

クストリッツァ監督、仏、独、ユーゴ、130分。

ドナウ川河畔のジプシーの物語である。まずそういう場所、人々の映画を観たことがないので新鮮である。もちろん現代が舞台で、放浪物語ではない。極めて世俗的であり、三代にわたる親子が出てくる。老父はゴッドファーザー、マフィアのボスのような男と旧知の仲、その息子である父親は金儲けを企むがうまくいかず、成金やくざのような男と駆け引きし、自分の息子をやくざの妹と結婚させる約束をする。

もちろん息子は好きな女がいて絶対に嫌である。しかし準備が着々と進められ結婚式当日となる。老父が突然死ぬ。これでは結婚式は挙げられない。息子は喜ぶ。父親はやくざにそれを告げる。するとやくざは老父の死を隠して挙式しようと言い出す。老父の身体は屋根裏部屋に運ばれる。氷で冷やす。そうこうするうちに結婚式が開かれ、結婚の誓いをさせられる。新婦の方もこの結婚が嫌で結婚式が密かに逃げ出す。新婦失踪で大騒ぎになりやくざその他は捜索に出る。

ゴッドファーザーは孫の青年が運転する車から置き去りにされ、その後、孫は逃げてきた新婦を見つけお互い意気投合、相思の仲になる。やくざは追ってきて孫と戦いそうになるが、その時、ゴッドファーザーがやって来て、やくざは恐れ入る。結局好き合った同士、当初の新郎は好きな女と、孫の青年も当初の新婦と結婚することになる。死んだと思っていた老父も生き返り、孫の結婚を祝福する。

ともかく破茶滅茶な展開で、日本だったら起こりそうにない場面が続く。

大林宣彦『ぼくの青春映画物語』集英社新書 2000

映画監督大林宣彦の映画論及び自伝である。

映画論では自分が尊敬する黒澤明と淀川長治の名を良く出している。映画論としては、最近の映画は良くない、昔はこれこれで良かったとある。このように要約すると、良く聞く年寄り談義のように聞こえるかもしれないが、そういう面がある。

また自伝では元々コマーシャル・フィルムを多く撮っていたと分かった。映画人の歩みの一種として読む価値はある。

2021年9月29日水曜日

ブリティッシュ・サウンズ(1968)、イタリアにおける闘争(1969)、ジェーンへの手紙(1972)

いずれもゴダールほかが「ジガ・ヴェルトフ集団」の名で発表した映画である。劇映画ではなく、政治主張の映画である。映画では常にお喋りまたは演説が続く。それもマルクス主義の主張である。

『ブリティッシュ・サウンズ』では車組立工場を背景として延々と政治主張を聞かされ、場面が変わると全裸の女が出てきて意味もなく(?)動いている。更に男たちの議論の場。実際の経済について論議している、など。『イタリアにおける闘争』ではマルクス主義の女子学生が理論やその実践について自分の考えを喋っていく。『ジェーンへの手紙』のジェーンとは女優ジェーン・フォンダを指す。反戦家として名高いジェーンは結局のところ、資本主義の中でのブルジュワに過ぎないとの糾弾である。

いずれも観ていて本当につまらない映画である。延々と政治主張を聞かされる。その内容ときたら陳腐というより、当時の左翼知識人の幻想に過ぎなかったと現在では分かっている。正直なところ、偉大な映画監督として評価されるゴダールが制作しているので、今でも残っているのではないか、鑑賞の対象となっているのではないかと思ってしまうくらいである。もちろん資料的な価値はある。1960年代から70年代にかけて西側諸国の左翼知識人がどう考えていたかの記録である。年配の者は懐かしさを覚えるかもしれない。

アリータ バトルエンジェル Alita Battle Angel 2019

ロバート・ロドリゲス監督、米、122分。未来を舞台にした漫画と実写の合成映画。

遠い将来、戦争が起こり地上は荒廃している。空中に浮かぶ宇宙船のような都市からは地上にごみなど排出されている。地上が舞台である。地上の人間は空中都市に憧れている。ある日科学者がごみの山から少女アンドロイドの頭を見つけ出す。そこから全体の身体を復元する。少女はアリータと名付けられた。少女の以前の記憶はない。少年と知りあい、仲良くなり色々現在の状況に教えてもらう。あるきっかけで少女が優れた身体能力を持っていると分かった。全く戦士のように機敏に動け、破壊能力を持つ。少年は空中都市に行きたいと思っておりお金を貯めている。少年が好きなアリータは協力したいと思っている。悪人どもをやっつけ、少年の危機には駆けつける。空中都市には全体を操る悪人がおり、アリータはそれに挑むつもりである。

全体の枠組みが他の映画にもある、既視感がした。また途中で終わっており続篇を前提として映画である。

鈴木宏昭『認知バイアス』講談社ブルーバックス 2020

人間の判断やそれに基づく行動は思うほど理性的、合理的でない。なぜそのような判断なり行動をとるのか。心には様々な偏り(バイアス)がある。それを認知科学の立場から明らかにする。認知とは心の動き全般を指す言葉とある。

注意や記憶のバイアス、リク認知に潜むバイアス、概念あるいは思考のバイアス、自己決定、言語、創造に関するバイアスが論じられる。多くの人間が常識、当然と思っている事柄にバイアスがあって気が付かない。途中にパズル(クイズ)があって初めはちょっと分からないものが多く、それも認知バイアスのせいだという。言葉で説明するとは、分解して説明するわけで分解できないものは、説明しにくいといったところは面白かった。

検察側の罪人 2018

原田眞人監督、東宝、123分、国民的なアイドル、木村拓哉と二宮和也が主演を勤めている。

木村が上司の検事で、二宮は部下の検事である。まず殺人事件の容疑者がいる。訊問をしても無罪と言い張る。しかしこの容疑者に過去、既に時効になっている事件の真犯人ではないかとの疑惑が出てくる。その過去の事件の被害者は木村の知り合いで親しくしていた少女だった。迷宮入りになったこの事件の犯人が今の別件の容疑者なら、木村は何としても許せない。そこで容疑者を陥れるため画策する。これが検察側の罪人である。

正直いって映画としての出来は良くない。致命的なのは言葉がよく聞き取れないのである。役者の声が小さいにしても聞こえるようにしないと、映画としては欠陥品である。また余計な本筋に関係ない、実はこうだったとの夾雑物が多すぎる。笑ってしまうのは現在の日本の体制に命を懸けて批判するのが、検事の木村や元親友で、体制批判者なら検事など官僚にならない。現在の社会の欠陥を足元から改善していこうというのが官僚や保守であって、抽象的な糾弾をするのは左翼である。
また二宮が容疑者に声を張り上げるところを評価する人が多いようだ。検事役の大沢たかおが女医の草刈民代を怒鳴りつける『終の信託』でも、そのところで大沢を評価していた人がいた。日本人は容疑者を怒鳴りつける検事が大好きなのか。ジャニーズファン向きの映画に思える。

島田裕巳『キリスト教入門』扶桑社新書 2012

著者は宗教学者で、キリスト教の適当な入門書がないため執筆を思い立ったと言う。宗教学者という立場から、つまりキリスト者でない立場からの書である。キリスト教のあらましを書いた本はいつくかあるが、キリスト者が書いている物がほとんどではないか。本書は学者として書いているので、キリスト者が読むと不快に思うところがあって不思議でない。

本書で面白かったところは、新約聖書は時代順に並べてあるが、執筆順は異なるというところである。福音書中マルコ福音書が一番古いとは誰も知っているが、パウロの書簡はもっと古いそうである。ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙などは有名であろう。この福音書より古い文献にはキリストの死と復活は述べられているが、福音書に多くある奇蹟は書いていない。だから奇蹟は後の創作ではないかとあって興味を持った。更にキリスト教は一神教と言われているが、三位一体の他、マリア信仰や聖人も信仰の対象とされ本当に一神教と言っていいのかとある。前から気になっていた預言者と予言者の区別についても記述がある。名画『禁じられた遊び』についても新しい見方が示してあって面白かった。

ただ素人が読んでいても気になるところがある。復活祭(イースター)にイースター・バニーという物がある。卵の方は知っていても兎は知らなかった。ところがこのイースター・バニーは「ウサギはやはり月にいるとされていて、月の満ち欠けが死と復活を象徴するということで、イースターのシンボルとして取り入れられました。」(p.154)とある。兎が月にいると信じているのは日本人だけかと思っていたので驚いた。ここの記述は本当か。

2021年9月28日火曜日

悪人伝 악인전 2019

イ・ウォンテ監督、韓国、110分。

連続殺人犯がいる。車で追突し、相手が出てきたところを刺し殺す。この殺人犯、たまたまやくざの親分の車に追突した。やくざを刺すが、相手も負けていない。格闘になり、やくざの親分は重傷を負い、殺人犯も怪我をして逃げる。殺人犯を追っていた刑事は、やくざの親分を刺した相手が目指す殺人犯であろうと推測する。ここで全く敵同士である刑事とやくざは殺人犯を追う点で協力し合うこととなる。この協力した刑事とやくざ、追われる殺人犯と三者の戦いが映画の中心である。
最後に殺人犯をやくざから横取りした刑事は捕まえ、裁判にかける。しかし十分な証拠がない。そこでやくざの親分に証人として出廷してくれと頼む。これで殺人犯には死刑の判決が下った。しかし実際に死刑の執行はまず行われない。やくざの親分は証人として立つ条件を一つ提示してあった。それは殺人犯と同じ拘置所に入れる、であった。親分は先に殺人犯が入っている拘置所に入所する。二人が顔を合わせる場面で終わり。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド Once Upon a Time in Hollywood 2019

タランティーノ監督、米、161分。レオナルド・ディカプリオが俳優役で、ブラッド・ピットがそのスタントマン役で出ている。

舞台は1969年のハリウッド、同年に起きたシャロン・テート殺人事件を大きな素材として用いている。ディカプリオは既に盛りを過ぎたアクション俳優である。かつてテレビの西部劇物で有名だったが、今では新人俳優に殺される引き立て役になっている。ディカプリオが落ちぶれた役者を演じ、俳優という仕事が流行に翻弄される実際にあって、身につまされる話になっている。当時の映画製作状況が背景になっていて、そういう意味でも面白い。

登場人物は実在の映画関係者が多い。映画で普通に見られる俳優である、スティーブ・マックィーンやブルース・リーなどを今の俳優が演じている。映画の中でブルース・リーがケイトーと呼ばれるのは、リーが『グリーン・ホーネット』というTVドラマにケイトー(加藤の英語読み)役で出ていて、知られていたからである。実在俳優のうちシャロン・テートは話の進行に重大な役割を果たすわけではないが出番は多い。

当時のハリウッドに留まらず、社会状況が分かれば映画はより面白く観られる。ヒッピーにディカプリオが軽蔑的な口をきく。これはヒッピーのカルト集団である、チャールズ・マンソン率いる一味がシャロン・テート殺人事件を起こした事実への伏線である。映画の途中、ブラッド・ピットが郊外の牧場のようなところに行き、若干悶着を起こす。この牧場もマンソン一味に関係のあった場所である。映画はこのように観客を引っ張っておいて意外な展開を見せる。

2021年9月27日月曜日

カールじいさんの空飛ぶ家 Up 2009

ピート・ドクター監督、米、96分。漫画映画。

主人公カールの少年時代から始まる。映画で南米に冒険を試みた飛行家を観て、自分もそのような行動に憧れる。たまたま廃屋で同じような嗜好の少女に会い、意気投合する。二人は長じて結婚する。廃屋をきれいに整備しそこを自宅とする。更に時は流れ、妻は死ぬ。

一人になったカール爺さんの家の周りは高層ビル群になった。立ち退きを勧められるが、頑として聞かない。ある事故で爺さんは養老院行きを余儀なくされる。迎えにくる。少し待ってくれと爺さんは言う。すると家の煙突から風船の束、それも厖大な数の風船が出てくる。これによって家が地面から持ち上げられ、空中に浮かぶ。家の中で爺さんが操縦し、空飛ぶ家は南へ向かう。っその間、爺さんは一人の少年が潜り込んでいたのを発見する。ボーイスカウトで、前に爺さんの家を訪れていた。爺さんに協力し、バッジをもらおうと頼み込んで断られたが、密かに乗りこんでいた。爺さんはこの少年と南米に向かって風船家を進める。

南米の憧れの地に着く。そこでおかしな鳥を発見したり、喋る犬に会ったり、最後は子供時代の英雄であったあの飛行家にも会う。もっとも随分勝手が違い、冒険を余儀なくされる。

2021年9月26日日曜日

春日太一『時代劇入門』角川新書 2020

著者は1977年生まれの映画史、時代劇研究家。最近の若い人は時代劇が何たるか知らず鑑賞の機会も少ない。時代劇に無知な若い人を主に対象にした時代劇の入門書ある。だからマニア向きの本ではない。現代の若い人はそもそも時代劇とは何かを知らない。そういう人を対象に時代劇の初歩的な知識を提供する本である。目次は次の様である。

第一部 時代劇への接し方、第一章 ガイダンス、第二章 時代劇ってなに?、第二部 時代劇の歩み、第一章 戦前の時代劇、第二章 戦後の黄金時代、第三章 映画の衰退、テレビの登場、第四章 パターン化とジャンルの衰退、第三部 とりあえず知っておきたい基礎知識、第一章 ジャンルとヒーロー、第二章 時代劇ヒーロー、第三章 スター、第四章 知っておきたい監督10、第五章これだけは知っておきたい原作者10、第四部 もう少し掘り下げておきたい重要テーマ、第一章 「忠臣蔵」超入門、第二章 忍者の変遷、第三章 大河ドラマってなんですか?、第五部 チャンバラの愉しみ、第一章 殺陣はプロレスである!、第二章 ラブシーンとしての決闘、第三章 殺陣の入門としての『ガンダム』、《特別インタビュー:富野由悠季監督が語るチャンバラ演出の極意》

最後はロボット漫画映画ガンダムの監督へのインタビューである。つまりチャンバラとガンダムの魅力は同じであると著者は考え、それで映画の富野監督に時代劇についてインタビューしたというものである。その内容は面白いところはあるが、ガンダムとは名前しか知らないのでそういう意味でよく分からない。ガンダムと聞けばよく知っている人向けの入門書なのであろう。

2021年9月23日木曜日

巨人獣プルトニウム人間の逆襲 War of colossal beast 1958

バート・I・ゴードン監督、米、69分、白黒映画(一部色付き)。

『戦略! プルトニウム人間』1957の続篇である。前篇では核実験で放射能を浴びた主人公は巨大化し、軍隊によって攻撃されダムに落ちた。死んだかと思ったその巨大男が復活するのが本作である。映画はメキシコから始まる。トラックを駆けて逃げる少年。後で分かるが巨大男に追われていたである。アメリカから妹がやってきて巨大男は兄ではないかという。巨大男は捕まえられ、ロサンゼルスに送られる。
鎖で縛っておいたが、案の定、ちぎって逃げ出す。公園にいると発見される。おりしも児童生徒が天文台に見学に来ていた。子供たちの乗ったバスを掴んで持ち上げる。妹の説得で下に降ろす。これまでと悟ったか、高圧線の電線に自ら触れ自殺する。
この最後の場面だけ、色がつくのである。高圧線に触れる場面は後のゴジラでもあったが、ゴジラと違い人間が巨大化した獣なので高圧電流には耐えられない。

狂気の精神病院 Bedlam 1946

マーク・ロブソン監督、米、80分、白黒映画。

18世紀の精神病院が舞台。何しろそんな昔だからイメージする気違い病院そのままである。院長をボリス・カーロフが演じる。もう一人の主人公が正義感に燃えた若い女。こんな意識が高い女がいたのかと詮索してもしょうがない。映画だから。女は実際の精神病院を見てそのひどさに驚き、改革しようと燃える。宗教家などの精神的支援はあるが、一人で改革を目論んだ女は罠に陥り、精神病院に入れられてしまう。そこでも環境の改善や患者に誠意をもって臨むなど孤立奮闘する。すっかり病院は良くなったが、更に女が勝手に振る舞っては困るので、カーロフは女に注射しようとする。女は拒む。

カーロフを患者たちが捕まえる。驚いたカーロフが脅してもダメである。症状の軽い患者がなぜ今まで横暴に振る舞ってきたか、カーロフに尋ねる。自分がやっと得た地位でありそれの保身だったと小心ぶりが明らかになる。フランケンシュタインを作った博士や『モロー博士の島』のモロー博士と同じく、暴君はかつて奴隷なみに扱っていた連中から制裁を受ける。まだ息があるカーロフはポーの『アモンティリャードの酒樽』よろしく煉瓦を積み重ねた向こうに閉じ込められる。若い女は宗教家と結婚するだろう。

昔作られた映画であるし出来は良いと言えないが、古い時代の精神病院観が今さらながらあってそういう興味はある。原題のベドラムはロンドンに実在した精神病院。精神病院の代名詞になった。昔なので映画にあるように見物料を取って見世物にしていた。映画はそんなひどい時代を背景にしている。

2021年9月22日水曜日

ピアニストを撃て Tires sur le pianist 1959

フランソワ・トリュフォー監督、仏、92分、白黒映画。主人公はシャルル・アズナヴール。

男が二人連れに追われている。アズナヴールがヒアノを弾いている酒場へ逃げてくる。男はアズナヴールの兄(弟)で、匿ってくれと頼む。二人連れの追跡者をアズナヴールは邪魔し兄(弟)を逃がす。酒場の女給はアズナヴールを好いていた。ある時アズナヴールが有名なピアノ奏者だったと知る。アズナヴールの過去が語られる。
妻がいてレストランの女給をしていた。やって来る客の中に興行主がいた。アズナヴールが優秀なピアノ奏者と知り、売り出しに協力するという。アズナヴールは有名になる。しかし妻はうかない様子である。不満を述べる。最大の要因が、興行主にアズナヴールの売り出しと引き換えに、身体を求められたと分かる。目を離した隙に窓から飛び下り自殺していた。それ以来、アズナヴールは酒場のピアノ弾きになっていたのである。
女給はアズナヴールを一層好きになる。しかし店主も女給に恋慕していたのでアズナヴールと喧嘩になる。最後にアズナヴールは店主を刺す。女給と逃げ出す。
アズナヴールの他の兄弟たちもお尋ね者で、それらがいる別荘に逃げる。女給はいったん帰す。あの二人連れの男たちがアズナヴールの一番年少の弟を人質にとって別荘にやってくる。兄弟たちと二人連れの撃ち合いになる。流れ弾に当たって、戻ってきた女給に当たる。兄弟たちや追手は車で逃げる。酒場で一人うつろにピアノを弾くアズナヴールの姿が最終場面。

2021年9月21日火曜日

『山田宏一映画インタビュー集 映画はこうしてつくられる』草思社 2019


映画評論家の山田宏一による映画人へのインタビュー、相手と初出時は以下のとおり

クロード・ルルーシュ(1967)/マルセル・カルネ(2000、一部)/アラン・レネ(1967)/ジャン=リュック・ゴダール(1867)/バルベ・シュレデール(製作者)(1973)/ジャン=ポール・ベルモンド(1975、一部)/アレクサンドル・トローネル(芸術監督)(1987)/ピエール・ブロンベルジュ(製作者)(1988)/ルイ・マル(1988、一部)/クロード・ミレール(1990、一部)/サミュエル・フラー(1998)/イヴ・ロベール(1991)/サム・レヴァン(肖像写真家)(1992、一部)/ルネ・リシティグ(編集、修復)(1992、一部)/シャルル・アズナヴール(2003)/マドレーヌ・モルゲンステルヌ(トリュフォー夫人、1994、一部)/キム・ノヴァク(1996)/アンナ・カリーナ(1997、一部)/ラウル・クタール(キャメラマン)(1997-8、一部)

全体的にフランス関係が多い。この中で特に面白いのが、サミュエル・フラーにしたインタビューである。フラーの映画は他の映画のどこそこの部分を基にしたのではないか、とかオマージュとしてやったのか、などと聞き手が尋ねた。これがフラーからしてみれば、真似をしたのかと言われた気分になったらしい。それでお冠になった。評論家だから自分が良く知っているところを、ひけらかしかったのか。自分より相手の意見をきくべきだろう。著者は恥をしのんで公開するなどと書いているが、もっと文字通り、聞かれた側が怒っているインタビューを読んだことがある。
他にもゴダールのインタビューはつっけんどんな回答である。
映画関係者は自分を悪く思われたくないため(自分自身や作品の評価につながるかもしれない)、外交辞令的な回答もあるような気がした。

2021年9月20日月曜日

鬼火 le Feu follet 1963

ルイ・マル監督、仏、108分、白黒映画。

主人公の男が自殺するまでを描いた小説。男は人生を拒絶し、周囲に我慢ができない。病院に入っていた。久しぶりに旧友などに会う。しかし彼らの俗悪ぶりにうんざりする。病気が全快していないせいか、身体の調子が悪く、周囲は敬して遠ざけているように見える。心配してまた来てくれと申し出る者もいる。のちに自宅で本を読んだ後、銃を胸に当て引き金を引く。

死、自殺を観念的に捕えた映画で、主人公の気持ちは、もっと若く気分が同様の時に観ていたら印象は変わっただろう。

メイド・イン・USA Made in USA 1966

ジャン=リュック・ゴダール監督、仏、90分。

主人公のアンナ・カリーナはアトランティック市と呼ばれる町に来る。呼んだ恋人は既に死んでいた。その死因を探るべくカリーナの冒険が映画の枠である。といっても映画の細かい筋は観ていても良く分からない。色んな人物が死んだり、カリーナ自身も男たちを殺す。題名のメイドインUSAとは当時、欧州をも席巻したアメリカ文化を指すらしい。また色彩が鮮やかなところも本映画の特徴とされる。難解なフランス映画らしい作品。

2021年9月17日金曜日

アメリカン・ジゴロ American Gigolo 1980

ポール・シュレイダー監督、米、117分、リチャード・ギア主演。                                         

ギアは上流階級の婦人たちを相手にする男娼である。多くの女と関係していても心は満たされていない。ある日、レストランで魅力的な婦人に会う。近づいて話す。相手かいかにも男を買うように話して来るので、ギアは嫌になって帰る。後日、女はギアの家に訪ねてくる。二人は愛し合い、心を通わす。女の夫は上院議員で、妻を政治の手段にしか思っていない。

ギアが相手にした婦人の一人が殺される。容疑がギアにかかる。自分の潔白を証明する手段がない。知り合いにかけあうが見込みが立たない。真相は他の男が殺したのをギアに罪を被せようとしたのである。仕事の斡旋をしている黒人の仕業だった。ギアが怒り、ベランダにいるその男に突進するので、ベランダから落ちそうになる。ギアは靴を掴んで助けようとするが、黒人は下に落ちる。警察に逮捕される。黒人の墜落は目撃者がいて救助を試みたと分かるが、婦人殺しは犯人にされたままである。警察に上院議員の妻がやって来る。事件の夜、ギアは自分と一緒にいたと話す。ギアに面会する。女と会い、自分が求めていたのはこの女だとギアは言う。

2021年9月14日火曜日

深夜の告白 Double Indemnity 1944

ビリー・ワイルダー監督、米、106分。原題は倍額保証の意味。

保険会社の営業員である主人公が深夜、会社を訪れ、録音機に自分の罪を告白する。男は契約更新に訪れた家で、そこの主婦から話を持ち掛けられる。夫に内緒で保険に加入できないかと。夫殺しで捕まった妻がいくらでもいると女の意図を見抜き、帰る。しかし女の魅力に惹かれ、再度訪問した際に夫殺しに協力するようになる。脚の悪い夫をあらかじめ殺しておき、列車から落ちて事故死したかのように見せかける。身代わりには自分自身がやる。列車で他人から話しかけられる。それを追い払い自分が列車から飛び降りる。そこに夫の死体を運んで置いておく。
翌日、警察の見解は事故死だろうとなり、保険金が下りると期待できた。しかし保険会社の社長は自殺ではないかと妻を問い詰める。主人公の上司は時速25kmの列車からでは死なない可能性が高いとその考えを否定する。頭の切れる上司は、計画的な殺人ではなかろうかと、真相の枠組みは推理する。しかし真犯人がまさか自分の同僚とは思いもよらない。男は女に会いに行き、危ないから大人しくすべきと説く。しかし女はすぐに金が欲しい、訴訟でも起こすと言い出す。
一方男は、死んだ夫の娘から話があると言われる。自分の実際の母を殺した犯人は当時の看護婦の仕業の疑いが強い。その看護婦とは後に妻になった女だと言う。更に自分の恋人だった男が今では母(女)と付き合っており、二人で共謀して父を殺したのではないかと疑いを話す。男は女が非常な悪人と分かり、その家に赴く。ばれたと分かった女は銃を用意しておいた。男が話すので銃を撃つ。倒れる男は自分の銃を取り出し、女を撃ち殺す。
その後、会社に来て経緯を録音したのである。冒頭の場面に戻り、上司が来て聞いていたと分かる。上司は自首を勧めるが男は去る。しかし銃による傷で出口のところで倒れる。

2021年9月12日日曜日

空井護『デモクラシーの整理法』岩波新書 2020

本書の目的は冒頭にデモクラシーを理解するコツ、とある。しかし読み始めると非常に分かりにくい。読みにくい。著者はできるだけ分かりやすく書こうという気が全くない。序章の終わりごろにルソーの文を引用して、簡単に読める書ではないと宣言している。だから本書は、デモクラシーや政治学の書なら何でも時間をかけても読む、著者にどこまでもついていく、という読者が対象である。書名に惹かれて、デモクラシーについて分かりやすく書いてあると思ってはいけない。

2021年9月11日土曜日

宇野功芳『モーツァルトとブルックナー』 2002

人気、影響力のあった音楽評論家宇野功芳の論著である。本書の初版が出た時、福永陽一郎(宇野と意見を異にした指揮者、評論家。本書でも名が出てくる、悪く言っているわけでない)の書評が確か「レコード芸術」誌に出た。

そこには本書は、題名は作曲家論のようでありながら、内容は演奏者論のようでありながら、内容は宇野功芳その人が書かれている、とかあった。また宇野功芳ほど幸せな人はいないなどと書いてあったと記憶する。記憶なので確かでないが、まさに本書はそのとおりであろう。

もともと昭和48年に出され、増補改訂版が2年後に出た。本書は増補改訂版の再発行である。古くなった資料の削除はある。

書名にある二人の作曲家は宇野のお気に入りの作曲家である。まずモーツァルトでは「モーツァルトの人と作品」として、管楽器のための協奏曲、モーツァルトの娯楽音楽、シンフォニー、宗教音楽、ピアノ・ソナタ、K488k595、魔笛と宇野お気に入りの作品を特に解説している。続いて演奏家論である。指揮者、ピアノ奏者がずらりと並ぶ。夫々の演奏家の演奏について宇野功芳調の批評が並ぶ。続くブルックナーでは、第八交響曲、第九交響曲、その他の交響曲とあり、特に好む二つの交響曲を詳しく解説する。演奏家では指揮者について批評する。モーツァルトほど多くない。今では信じられないが、当時は今ほどブルックナーは聴かれず、難解な交響曲という印象があった。まさに隔世の感がある。

モーツァルトにしてもブルックナーにしても演奏家論が主である。懐かしい名がある。リリー・クラウスはモーツァルト弾きとして宇野絶賛のピアノ奏者だった。宮沢明子、この人の名は当時、オーディオ雑誌でも見た。この本にあるように録音プロデューサーでオーディオ評論家でもあった菅野沖彦によって録音されて記事になっていた。

宇野は自分にとって「面白い」文を書く人であった。演奏の好みは違っていて、あまりレコードを買う際の参考にならなかった。初めに書いたように宇野に対する人気は絶大であった。好き嫌いをはっきりさせ、素人っぽい書き方で断定調の文をものす。宇野は音楽評論界の新興宗教の教祖のようであった。自分としては教祖の宇野よりも宇野教信徒の方に関心がある。洗脳されたかのように盲従追随していた。当時は今よりレコードの実質価格(他の物価と比べた価格)が高く、おいそれと買えなかった。だから評論家の威信が高かった。断定調で白黒をはっきりさせてくれる宇野に人気が出たのは不思議でない。しかしあれほど宇野に熱狂する必要があるのかと思っていた。特定の演奏家に熱狂するファンはいるが、評論家で熱狂的な人気を集めたのは宇野くらいだろう。宇野の後、または他では、吉田秀和が特に人気というか威信の高い評論家であるが、アカデミック寄りで毛色が異なる。

ともかく今では見られない評論集で、一読の価値はある。言い分に賛成反対という次元でなく。

2021年9月9日木曜日

誰が為に鐘は鳴る For whom the bell tolls 1943

サム・ウッド監督、米、170分、総天然色映画。

ヘミングウェイの有名な小説の映画化。第二次世界大戦前のスペイン内乱が舞台である。ゲイリー・クーパー演じるスペイン在住のアメリカ人学者は共和国側につき、橋梁爆破の任務をこなしてきた。今回来た山奥の橋の爆破で、現地のジプシーたちの協力を得る。首領の男は、かつては猛者でならしたが、今は慎重派になっている。むしろその妻がジプシーたちを仕切っている。そこにイングリッド・バーグマン演じる若い娘がいた。髪の毛が短い。相手方に両親を殺され髪の毛を切られた。救出され、今はこのジプシーたちの仲間になっている。クーパーとバーグマンは恋仲になる。任務で命を落とすかもしれない。バーグマンはクーパーを痛く心配する。橋爆破の任務は元首領の男が怖気づいて、爆破装置を壊すなど妨害が起こる。橋にクーパーは直接ダイナマイトを仕掛け、近くで爆破させるようにする。敵方の戦車などがやってきた。銃撃戦になる。ジプシーたちは逃げるが、クーパーは脚を撃たれた。バーグマンは傍にいると言うがクーパーは仲間と逃げさせる。機関銃で敵方を撃ち続ける場面で終わり。

原作の小説も以前は良く読まれた。本映画は80年くらい前の作品で、やはり古い感じがする。展開など今ならもっと魅せる作りにすると思う。ヘミングウェイの友人であったというクーパーとこれまた当時の人気女優だったバーグマンの共演を観る映画だろう。

2021年9月7日火曜日

ひとり旅 昭和43年

池広一夫監督、大映、83分、市川雷蔵主演。

股旅物である。一匹狼の雷蔵は冷徹で感情のない男のように見える。無敵の剣で相手を斬っていく。たまたま知り合った長門勇は、雷蔵から頼まれる。田舎の親爺に金を渡してくれと。後に雷蔵はその田舎に行く。子供がいじめられているので助ける。その子の世話をしていると母親が通りすがる。礼を言おうとして雷蔵と目が合う。その女(小川真由美)はかつての恋人だった。とするとこの子供は、となる。小川は子供を連れて早々に立ち去る。知り合いの親爺の家に行く。金は小川に渡してくれたかと。全く受け取らない、以前からずっとだと、答えが返ってくる。

雷蔵の回想になる。雷蔵は小川が娘だった侍の家で育てられた捨て子だった。その雷蔵が小川と慕い合うようになる。小川の父は激怒する。小川は既に誓いを交わし合い、お腹には子供までいると答える。父親の怒りは増し、そんな子供が幸せになれるかと問い詰める。小川は再考する。後に雷蔵が来て一緒に逃げようと約束を言うと、小川は逃げないと答える。なぜなら子供の将来を考えると逃げられないと言う。雷蔵は驚き怒り去る。今の時点に戻る。雷蔵と小川は再会する。小川はそんな姿では父親を名乗れない。子供は京都に学問に出す予定である。雷蔵はやくざ同士の喧嘩の一方に味方する。相手側には長門がいた。雷蔵方のやくざは卑怯な男であり、それで長門が諭しても雷蔵は意に介しない。やくざの喧嘩の後、雷蔵は親分へ礼金を貰いに行く。ところが林の中で、小川の実家方の侍たちが待っていた。小川とその子供を人質にして雷蔵に襲い掛かる。雷蔵は子供に見ておけと命令し、侍どもを斬り殺していく。雷蔵は満身創痍になりながら去っていく。長門の回想でどこかにいるだろうと終わる。

2021年9月4日土曜日

KUBO/クボ 二本の弦の秘密 Kubo and the Two Strings 2016

トラビス・ナイト監督、米、103分。

米製作の近代以前の日本を舞台にした漫画映画。

クボとは主人公の少年の名である。映画は嵐の海をクボの母親が舟を漕いでいるところから始まる。舟は砕け、母は浜辺にうちあげられ、赤ん坊のクボを捜す。泣いている赤ん坊は片目がなかった。クボが少年になった時期に移る。クボの母は病身で臥せっている。クボは母の世話をして、稼ぎとして村中で大道芸をする。クボが弾く三味線で折り紙が鳥などの立体の物になり空中を舞い、見物人はやんやの喝采である。日が暮れそうになる。あわてて芸を止め、家に帰る。暗くなるまで外にいてはいけないと言われているからだ。

映画の始まる前に起こった出来事は次の様である。クボの父を倒しに月の帝国から3人の姉妹が派遣された。しかしそのうち一人はクボの父(半蔵という)と相思の仲になり結婚してクボが産まれた。しかし帝国側からすると反逆であり、クボの母の父である帝国の支配者は、クボの片目を奪い、また半蔵を倒した。クボの母がクボと逃げているところが映画の冒頭である。

彼岸の精霊流しを見て、死者を呼び寄せられると知る。クボは父を呼びたい。父の声は聞こえない。灯籠を流しているうちに日が暮れた。すると辺り一体真っ暗になり、魔物が襲ってきた。これはクボの母の姉妹で、裏切り者の母やクボを退治に来たのである。逃げまとうクボの前に母が現れた。元々魔術使いで自分の姉妹とクボを助けるため戦いに来たのである。クボが目を覚ますと雪の中、猿がいる。母の持っていた人形の猿が母により生命を吹きまれた。猿はクボに母が死んだ。防衛のため三種の武具(剣、鎧、兜である)折り紙の鎧武士が先導し、武具捜しの旅に出る。途中で鍬形が巨大化したような黒い鎧武士に会い、仲間にする。武具捜しの旅で苦労し、最後に鍬形の武士は父親、猿は母親の生まれ変わりと知る。祖父である帝国の支配者とクボはみんなと力を合わせ戦う。いつのまにか、以前の村に帰っている。祖父は村の老人になっていた。

2021年9月3日金曜日

エクストリーム・ジョブ 극한직업 2018

イ・ビョンホン監督、韓、111分。

犯罪喜劇である。麻薬のボスを追う、警察の担当班長とその部下たちの奮闘物語。

映画の初めは犯人を捕らえようとして、現実では有り得ない、しかし映画でなら有り得る場面が続き最終的には、警察のドジになる。署長から説教を喰らい、後輩にも出世で抜かれた班長は、敵のアジトの前のチキン屋に陣取り見張りをする。そのチキン屋が閉店するというので、張り込みのため、その店を買い取り偽装でチキン屋を始める。ところがこのチキン屋が大繫盛して捜査よりも、警察官全員そちらに忙しくなる。映画の後半では、悪党どもとの戦いがあり、それも山場になっている。

映画の見せ場の一つである、偽装の店が大繫盛して忙しくなり、予定から脱線するところ。この展開はどこかで観た、と思いながら鑑賞していた。思い出したのはウッディ・アレンの『ブロードウェイと銃弾』(1994)である。もっと他にもより直接的に似ている映画があったかもしれない。

2021年9月2日木曜日

ムービー43 Movie 43 2012

スティーヴン・ブリル他、多数の監督、多数の有名俳優出演のオムニバス映画。

内容はいかに下らない話にするか、に躍起にやっているかのよう。下品で下ネタ満載、どれだけふざけられるか、禁止用語をいかたくさん使うかを競っているような話が続く。何か食べながらの鑑賞は勧められない。以前からつくづく思っている、日米の大きな違いの一つは、ジョーク、冗談に対する態度ではないか。米ではジョークは機転の表れとし、面白がって評価する。それに対して日本では不真面目極まる態度として徹底的に嫌悪、攻撃され、冗談を言おうものならオヤジギャグとばかにされる。日本では絶対に作られない映画、というか頭の片隅に作ろうかという気が絶対に浮かぶはずもない映画である。映画の中で日本の金で作ろうとしているという台詞が出てくる。ジョークから一番かけ離れた人種として、これも笑いを取ろうとしているのかと思った。

さすがにここまでやると本場のアメリカでも不評だったのは分かる。それにしても貴重な映画である。こんなに下らない映画を、人生でそれほど観る機会があるものではない。