2014年9月28日日曜日

十誡

1923年にセシル・デミルが監督した無声映画。のちに再映画化している。ただし無声映画時代の本作は聖書の話の映画化というより、現代(当時)を舞台にしてその教訓を教えるという部分が要である。


全体の筋は次のよう。
映画は聖書の出エジプト記から始まる。モーゼを追うエジプト軍が割れた紅海が戻って飲み込まれる有名なシーンまでやる。題名から想像する聖書の挿話はここまでで、全体からみて時間もあまりなく現代劇の前座みたいなもんである。
聖書を語って聞かせる信心深い老婦人の二人の息子。長男はまじめな建築家だが次男は放蕩者である。たまたま家に招いた若い女性に長男は恋するが打ち明けられず次男に譲ってしまう。次男は材料のセメントに砂をまぜるような不正なやり方で大儲けするようになった。教会を建てることになり長男にその棟梁として仕事を頼む。建築途中でセメントが粗悪と気づいた長男は次男に詰めよるが相手にされない。たまたまその時母親が建築中の教会を見に来ていた。壁に亀裂が入り崩れ下敷きになって母親は死ぬ。臨終間際に次男を許す。話はここで終わらない。次男は建築代金支払いのため支那系仏人の愛人に援助を懇願するが断られ殺してしまう。妻のもとで警察から匿ってもらい外国に逃げようとする。しかし船は嵐で難破してしまう。妻は長男のもとに行き打ち明ける。

のち1959年に総天然色でデミル自身により「十戒」を作っているがこれはご存知のように聖書の部分だけのスペクタクル巨編となっておりむしろ別の映画。

無声映画版の『十誡』は説教臭くその意味で非常にアメリカ的なのかもしれない。
ところでこの映画について淀川長治の解説を見たのだが、話す荒筋が実際と結構違っている。何十年も前に見た記憶で話しているとそうなるのであろう。

殺人容疑者

昭和27年の映画。大部分は鈴木秀夫監督、俳優はこれが丹波哲郎の初出演になり、その他土屋嘉男も出ている。ともかく若い。それと大部分知らない人。これはドキュメンタリー的な映画で登場人物も無名を集めて作成したとか。全編ロケなので当時の東京を見られる。


ドキュメンタリーと言ったが警察の捜索方法など当時のやり方についてナレーションが入り、記録映画を見ているようだ。まず駅の混雑や街頭風景から始まるが、占領時代の記録フィルムを見ていると同じ。独立間もないころだから当然である。

渋谷で殺人が起こり、さらに被害者が行ったと思われる飲み屋の女将も殺されてしまう。関係者を洗っているうちに怪しげな事務所へ行くとそこの社長が丹波。彼が実際の黒幕で映画の主人公。推理小説的な謎解きが映画の興味でなく、犯人を追いつめる緊張感ある展開が見もの。

この映画についは、次の「映画の國コラム」というサイトで土屋嘉男にインタビューしていてどう作成されたかわかる。面白いので映画を見たら参照するとよい。

2014年9月24日水曜日

雇用、利子および貨幣の一般理論

言わずと知れたケインズが1936年に出版したマクロ経済学の古典。ヒックスの『価値と資本』とならんで経済学の古典となっている。次いでに言うと経済学の古典と聞かれ『国富論』と『資本論』なら素人でも挙げる。『一般理論』と『価値と資本』を挙げるのは経済学を勉強した人。もちろん『国富論』『資本論』が偉大な古典であることはかわりない。


 それまでいわゆるミクロ経済学的な発想で現実経済を解釈していた、ケインズが古典派と呼んだ考えに対し挑戦した、マクロ経済学の嚆矢となった著作である。貨幣が現実の経済に与える影響を明らかにした。流動性選好という人々が貨幣を保有する動機、また限界効率という資本収益率と利子率との関係で決定する投資、その投資が乗数として経済に与える影響などマクロ経済を分析する概念を書いている。

 古典とは名ばかり有名でそれを読んだ人がいない著作らしいが、『一般理論』はその資格を完全に備えている。今回初めて通読したのだが、全く何が書いてあるか不明、理解できない部分が多すぎる。ただ字面だけ追っていて理解できないのなら読んだ意味がない。宇沢弘文の『ケインズ「一般理論」を読む』(岩波、1984年)を併読し、一章読む毎に宇沢の本の説明を読んだ。基本的に岩波文庫の『一般理論』(間宮訳)を読んだのだが、後半は山形浩生訳の講談社学術文庫版も章毎に岩波文庫、宇沢解説本の後に読むことにした。
良く『一般理論』は当時の若い世代の経済学者に熱狂的に受け入れられたと書いてあるが、当時の学者連中はきちんと理解できたのだろうか。

2014年9月23日火曜日

M

フリッツ・ラングによる1931年の映画。ラング初の発声映画である。殺人鬼を描いた映画として名高い。

 
子供たちが歌を歌って一人を負けとする遊びをしている。歌詞が悪趣味で大人が注意する場面から始まる。その頃少女の誘拐殺人が続いており懸賞金がかけられていた。少女がある男に手なずけされ誘拐される。彼女も犠牲者となったのだ。犯人はグリーグの『ペールギュント』を口笛で吹くのが癖だった。犯人は少女を連れていく前に風船を買って与える。その口笛を風船売りのめくらの老人が覚えていた。警察は度重なる犯罪に総力を挙げて取組み、方法についても侃侃諤諤の議論をする。同時にならず者の集団もこの犯罪を議論していた。警察は街中を監視するため乞食の集団を利用することにする。犯人がまた誘拐を企てたとき口笛を聞いためくらの老人が気づく。若者に伝え、彼は手に白墨でMの字を書きそれを犯人にぶつかったとき背中に印として残しておく。彼はボスに電話で伝える。ならず者たちが犯人を追いかける。あと一歩でビルの中に逃げられてしまう。夜にそのビルに忍び込み捕まえる。犯罪者の集団は彼を吊し上げ、私的裁判にかける。犯人がやりたくなかった、そうせざるを得ない自分だと弁解するが聞き入れられず、ならず者たちに襲われそうになるが・・・

 映画をみてまず感じたことはラング初の発声映画であり非常に饒舌に思える。無声映画を見慣れているせいかそう感じる。警察や犯罪者たちが議論するところなど喋りまくりである。この映画はフィルム・ノワールの先駆けとなった作品だそうだ。犯人がならず者集団に追われる部分が結構長い。正直今みるともう少し緊張感のある作りを期待してしまう。この映画が作成される直前というかその最中に「デュッセルドルフの吸血鬼」と呼ばれたキュルテン(1930年逮捕)の連続大量殺人事件があり世間を恐怖のどん底を陥れていたので、その映画化かと思ってしまわれたようだ。ラング自身はいろいろの連続殺人から着想を得たと語っている。

2014年9月22日月曜日

ドクトル・マブゼ

フリッツ・ラングによる1922年の無声映画。全体で4時間以上に及ぶ大作である。第1部、第2部に分かれ別の映画として上映されたが、話は続いており前篇、後篇である。

 
話は第一次大戦後の経済社会が混乱したドイツが舞台。マブゼ博士という精神分析医が悪の統領となって起こす犯罪とそれに立ち向かう検事の闘争が中心となって進む。
マブゼ博士は策略によって株式市場で大儲けをしたり、贋札を製造したり(超インフレ期なので意味があったのかと思うが)、また催眠術をかけて賭博で儲けたりする。
手下がつかまると発覚を恐れ殺害してしまう。博士は変装の名人で検事をだますなど怪人二十面相と明智小五郎の闘いの原型かと思ってしまう。
マブゼ博士は催眠術で破滅させた伯爵の夫人に懸想し誘拐する。博士こそ悪党の首謀とわかった検事は警官隊を引き連れ家を襲い銃撃戦となる。

 ともかく2部に分かれているもの夫々が2時間以上の長尺なので見通すのは結構疲れる。次々とエピソードが続く連続もののテレビ活劇のようである。しかしながら映画をみていると第一次大戦後のドイツの混乱した状況、まさかこれが典型的、普通だったと思わないが実感できる。パプスト監督の『パンドラの箱』についてもそう感じた。これも昔の映画の鑑賞がもたらす楽しみの一つであろう。

2014年9月21日日曜日

大地(ドヴジェンコ)

ウクライナのドヴジェンコ監督による1930年の無声映画。ソ連初期の農民の姿を描いている。


筋は次のようである。
映画は生涯農民として送った老人が皆に看取られながら大地の上で亡くなる場面から始まる。その孫の主人公は新しい農業を推進するためトラクターを導入し張り切っている。しかしながら富農は良く思わない。主人公は恋人と逢引きをした後夜道を踊りながら帰っていく。突然倒れる。誰かが発砲したのだ。父親は息子の突然の死に衝撃を受け怒り狂う。神はもういないと叫びキリスト教の葬儀を拒み、新しいやり方で息子を弔おうとする。葬列はまるでデモ行進のように民衆が集まってくる。その中である富農が叫ぶ。自分が殺したのだと。誰も関心を示さない。

ドヴジェンコ監督の代表作とされている作品であり、確かに自然の描写は美しいものの、現代からみてややわかりにくいところがある。きちんと見ていないと筋がつかみにくいかもしれない。富農を批判し小農民の努力を賛歌するソ連体制の宣伝効果など、現在ではまるで遠い世界の出来事になっているし。

2014年9月20日土曜日

ミス・ヨーロッパ

ルイーズ・ブルックス主演のフランス映画、トーキー(発声)映画である。フランス語を喋り歌うブルックス。と思うかもしれないが吹き替えである。1930年、ジェニーナ監督によるトーキー初期の映画でブルックス in French film

筋は次のようである。
ドイツのパプスト監督によるものと違いはじめの方は明るい感じで展開する。新聞社のタイピストをしている主人公は同じ社の植字工と婚約関係にある。プールで目立つ婚約者に嫉妬する彼氏。たまたま美人コンテストを知った主人公は応募するとミス・フランスに選ばれてしまう(写真審査のみで!)。婚約者に黙っていたので辞退しようとするが説得され、次のミス欧州へ進むことになる。婚約者に断る暇もないまま出発する。ミス・フランスになったことを後から知った婚約者はミス欧州大会へ主人公を追って行く。各国のミスを圧倒しミス欧州に選ばれる。追ってきた婚約者は自分とミスとどちらか選べと迫り、主人公は平凡な生活を送る妻となる。ミス欧州になった主人公にはその後も芸能界への勧誘が来る。嫉妬に狂った夫の行為はそれを拒絶するだけでとどまらなかった・・・

 自分より成功する妻に嫉妬する夫を描いた作品は多い。最後はちょっと極端。ここまでする必然はなかろう。いかにも映画的だが。

2014年9月18日木曜日

淪落の女の日記

『パンドラの箱』に続くルイーズ・ブルックス、パプスト監督の作品であり、結局この2作がブルックス出演のドイツ映画すべてになってしまった。発表は『パンドラの箱』と同じ1929年、同様に無声映画である。


 この題名から連想される話の展開は、主人公が堕ちていき惨め不幸のどん底に突き落とされるようなイメージではなかろうか。前作『パンドラの箱』はそうであった。しかし本作はむしろ社会派映画というか不幸な女を生み出す社会を糾弾する体裁をとっている。

 全体の筋は次のようである。
ブルックス演じる薬局の娘が主人公。父親の薬剤師が手をつけた家政婦を家から追い出す場面から始まる。その女は自殺する。父親は後から雇い入れた家政婦とすぐに懇ろになる。ここで働く助手もとんでもない男で主人公を「淪落」させてしまう。そのせいで娘が妊娠すると親族会議を開かれる。助手と結婚しろと迫るが断わられる。勝手な父親は赤ん坊を産婆にやり娘を感化院に入れてしまう。この感化院は絵にかいたような「矯正」施設で少女たちをいじめている。友達とそこを脱出した主人公は赤ん坊が預けてある産婆へ赴く。死亡したと知らされ愕然となる。友人のつてで男を「接待する」クラブで働くようになる。そのクラブへ父親がやってきて驚愕する。父娘は話し合いもできず別れる。3年後父が死んで遺産が入り裕福になった主人公はかねてから好きだった貴族の若者と結婚しようとする。この若者は無気力で文無しであった。薬局へ戻ると父が再婚した家政婦は二人の幼い子供とそこから追い出されようとしていた。義弟妹に同情した主人公は手にした金をやってしまう。カネがなくなったとわかった無気力青年は衝動的に自殺してしまう。青年の叔父は裕福な貴族でこれまでダメな甥を見放していたが心を入れ替え主人公の世話をするようになる。上流階級の仲間入りした主人公はかつて収容されていた感化院へ他の婦人たちと訪れる。以前の仲間と会い、感化院でやっていることの偽善を非難する。

 『悲しみは女だけに』という日本映画があった。男女間の問題が起こると女が不利になる、今でもそう言われているが昔はもっとひどかったのだろう。日本だけでなく、西洋でも同様であったことには変わりない。


2014年9月17日水曜日

パンドラの箱

ルイーズ・ブルックス主演のパプスト監督による1929年のドイツ映画。主演のブルックスはアメリカ人でドイツ語は知らなかったが無声映画なので問題なかった。


ともかくブルックスの魅力を堪能する映画である。映画そのものも第一次大戦後の混乱したドイツが舞台となっており、作品として十分見ごたえがある。それにもかかわらず黒髪おかっぱ頭がトレードマークの主演のブルックスの存在感は抜きんでておりどうしてもそちらに目がいってしまう。男を虜にして破滅させてしまう妖婦なのだが、妖婦という言葉とは正反対の無邪気であどけない笑顔をとりおり見せる。ふさわしい主演を求めて監督のパプストは奔走したらしいが、その努力は十分報われ、映画史に残る名画が生まれた。

クラシック音楽ファンなら知っているベルクの歌劇『ルル』と同じ原作である。
踊り子のルル(ブルックス)は中年の紳士を虜にし、それまでの婚約を破棄させ自分と結婚する約束までさせる。ルルの父親と称する怪しい老人などが出入りし紳士は心休まらない。実は紳士の息子の若い男まで籠絡していた。披露宴の日に絶望した紳士はルルに自殺を迫るが暴発的に自らが命を落としてしまう。裁判でルルは有罪判決を受けるが取り巻き連によって逃亡する。その後船での賭博、列車での逃走などを経てロンドンにたどり着く。もうルルの一味は惨めな暮らしを送るしかなかったので・・・。

 繰り返すがルイーズ・ブルックスは素敵である。これほど主演女優に魅せられた映画はない。
 

2014年9月15日月曜日

国境の町

バルネット監督の1933年の作品。発声映画である。この監督の最も有名な映画とか。
自分としてはこれまで見た中ではそれほど優れた作品かなという気がした。見ていて思い出した。この映画以前見たことがある。ただ大昔なのでほとんど忘れてしまっていた。少女が捕虜の兵士とベンチで心通わすあたりは記憶にある。


 おおよその話の筋は次の通り。

第一次世界大戦、すなわち革命勃発時のロシヤの国境の町が舞台。町の産業は靴の製造。女主人公の父は同居しているドイツ人とチェスをするのが楽しみ。しかし戦争が始まり、ドイツ人は母国へ帰ってしまう。兵が収集され戦争に駆り出される。愛国者も左翼運動家も。ドイツの捕虜たちが収容所に収容しきれず町で昼間は働くことになる。その中の一人の若いドイツ兵士と女主人公はお互い好意を持つようになる。しかし町人は良く思わない。迫害しようとするのを助けたのは一人の靴職人。そこで捕虜は自国でも靴作りだったので手伝う。ところがその靴職人の息子が戦死したとの知らせが来る。職人は捕虜を追い出してしまう。女主人公も父から捕虜との交際は一切禁止される

 この映画をインターネットで調べると当時のソ連の状況から共産主義の宣伝だの色々制作にまつわるイデオロギー的な話が書いてある。しかしもう作られてから80年以上たっておりそもそもソ連自体もなくなっている。純粋に映画として鑑賞してもいいのではないか。何らかのメッセージがあるとすれば反戦映画である。当時だってそう見た人が結構いると思う。

2014年9月12日金曜日

帽子箱を持った少女

ソ連のバルネット監督が1927年に発表した無声映画。バルネットの映画では『トルブナヤ通りの家』を最初に見たのだが、田舎の少女がモスクワへやってきて起こす話という点では共通している。


祖父と暮らす少女は帽子を作成してモスクワへ卸にやってくる。ここで当時のソ連の住宅事情が話にからんでくる。よくわからないのだが、勝手にどこへでも住めるわけでなく住宅委員会が管理していたようだ。モスクワの帽子商の家では少女に一室を割り当てることとなっていたのだが普段いないので帽子商の夫妻が勝手に使っていた。少女が上京途中で会った青年は暮らす場所がなくて困っていた。それで自分の部屋にその青年を泊めようとするのだが結婚していないと泊まれない。そのため偽装結婚をする。偽装結婚した二人はお互いに惹かれ合っていた。少女に渡すべき代金を着服した帽子商の夫は代わりに宝くじを渡す。これで映画のその後の展開は予想できるだろう。

 ソヴィエト革命から10年後のソ連である。当時のソ連の事情等勉強したくなった。いずれにせよサイレント映画ならではの滋味溢れた作品である。

青い青い海

ソ連のボリス・バルネット監督による1936年の映画。発声映画である。


 荒れる海原の場面から映画は始まる。極めて印象的。
カスピ海で難破した二人の青年が漁船に救助される。島で漁師兼技師として働くことになる。そこで会った若い女性に二人は惹かれる。恋敵となった二人。漁に出かけ嵐に襲われ女性は海に落ちてしまう。仲間たち全員が彼女を失ったことを嘆いていると・・・

 青春映画として楽しめる。女性がなぜ結婚できないかを述べるくだりは当時のソ連の体制とか影響しているのだろうか。考えすぎなのか。調べればわかるかもしれないが。

2014年9月8日月曜日

新しき土(日英版)

ファンク、伊丹万作共同制作で知られる日独合作の昭和12年の映画で、専ら伊丹監督がメガフォンをとった版である。ドイツ人の女性との会話が英語によって語られる。話の筋は当然同じではあるものの、若干の部分で異なる場面となっている。



まずこれをみて感じるのは当たり前といえば当たり前だが、日本人が見て不自然というか滑稽に感じる部分が少ない。ファンクが指揮した日独版は外国人のみた日本、外国への日本の紹介ということで観光名所案内のような場面がちぐはぐに繋ぎ合わせられており、それを我々が見るとおかしくみえるわけだが、伊丹版ではそういう不自然なところは少ない。良く指摘される東京あたりのはずなのに阪神電車のネオンが出てくるとか、高級ホテルに虚無僧がやってくるとかはない。もちろん残っているところもある。
また原を助けるために小杉が大正池(?)を泳いでいくところや円谷英二が撮影したという地震の特撮の場面がない。時間も10分程度短縮されている。

このように簡潔であり不自然なところが少ないものの、当時は圧倒的にファンク版が人気であったとか。これは日本人だから外国人の監督を見たかったとか(もっともドイツでもファンク版が人気だったようだが)、見せ所が(例え日本人にとって不自然であっても)多い、などであろうか。他の理由もあるであろう。

ともかく『新しき土』といえば今日ファンク版を指すようである。DVDを見ていないが日独版しか収録されていないようだ。正直なところ日独版だけでなく日英版も合わせてみてほしい。フィルムセンターがこれを上映する際いつも両方の版を上映する意味もわかった。それにしてもやはりこの映画は傑作といえない、ただし我々にとって興味深いことは確かだ。