2020年10月31日土曜日

バルザック『砂漠の情熱』 Une passion dans le desert 1830

 短篇小説。野獣の見世物の後、語り手は以前、老兵から聞いたアフリカの話をする。ナポレオン時代、アフリカ、エジプトに進攻した兵士は敵方に捕まる。逃げ出し、砂漠の中で一人になる。なつめ椰子の実で腹を満たす。近くの洞穴で休み寝る。起きてみると近くに豹がいるではないか。驚き怯えるが、その雌豹はおとなしい。近くに馬の死骸があり、それで食欲は満足しているためだろう。以降の日々、兵士と雌豹はまるで恋人同士のような仲になる。しかし最後が来る。豹が脚に食いつく。短刀で豹を刺す。仲間の兵隊らがやって来て助かる。

猛獣との極限状況をよく書けたものだと感心する。

高山鉄男訳、世界文学全集第21巻、集英社、1978

大村大次郎『お金の流れでわかる世界の歴史』KADOKAWA 2015

 


古代から20世紀まで世界の歴史の推移を経済的な観点から説明する。古代のエジプトやローマの盛衰に徴税が果たした役割は面白い。ユダヤ人の金融での活躍、これは有名だろう。中国、イスラムの寄与の金融発達への寄与。スペイン、ポルトガル覇権時代経済的側面、英のエリザベス女王時代は奴隷貿易で儲けた等。ナポレオンの興亡も徴兵制による節約など金銭的な要因が大きかったと説く。イギリスの隆盛を英欄銀行の役割などの他、アヘン戦争などその汚い面から描く。ユダヤ人金融資本家ロスチャイルド家に一章あてている。その後、日本は明治以降戦前まで高度成長をしていたとか、第一次、第二次世界大戦の要因等、経済面からの説明がある。米の他、ソ連など共産主義国家の興亡がある。

時々、感情的な言葉が入る。かわいそうとか。全体として昔の時代の記述ほど面白い。20世紀以降、例えばソ連がなぜ滅んだかなど、読者は別の説明をしたくなるかもしれない。

2020年10月30日金曜日

波の塔 昭和35年

 中村登監督、松竹、99分、総天然色映画。松本清張原作の映画化である。

検事になり立ての青年と恋に落ちた人妻は、夫に構ってもらえず寂しい日々を送っていた。単なる不倫ではない。相手の検事が汚職で追っていた容疑者の一人が、妻の夫だったのである。妻は何度も離婚を頼んでいたが夫は相手にしない。

夫は妻の目の前で、妾を優先しているくせに、自分の妻が浮気したらしく分かると、執拗に調べその証拠を集め出す。相手が担当検事と突き止める。自分が容疑者として捕まると、弁護士を通じて、検事が不倫をしていると検察側を追求し、検事の名や写真が新聞にでかでかと載る。検事は辞職した。妻は捕まっている夫に会いに行った。好きなようにすればよいと言われる。元検事は妻に向かい二人でどこか誰も知らない所へ行こうと誘う。東京駅で待っていたが妻は来ない。妻は甲州へ行く列車に新宿から乗っていた。以前教えてもらった富士山麓の樹海に行くため、そこへ入れば誰も出られない場所と聞いていたところへ。

小説はずいぶん前読んだ。この映画では検事役を津川雅彦、妻役を有馬稲子がしている。二人とも当然若く、津川は老年になるまで映画に出続けいたが、有馬は中年以降は映画出演していないではないか。若い頃は美人女優として有名だったものの、理由はよく知らないが、その人となりと色々言われたとか。今となっては過去の話である。

バルザック『サラジーヌ』 Sarrasine 1830

 

バルザックの中編小説。パリの貴族の館で行なわれる舞踏会。そこに奇妙な老人が時々参加している。館の夫人など少数の者しか扱えない。

語り手が招待した貴婦人に、この老人がいかなる者かを話す内容が小説の中心である。

以前、サラジーヌという彫刻家がいた。優れた才能を持ちイタリアに行った。そこでザンビネッラという歌姫に会い、すっかり惚れ込む。歌だけでなく、彫刻家の眼でみた肉体の素晴らしさ、まさにサラジーヌには理想の女に見えた。

サラジーヌはザンビネッラに迫るが相手は消極的である。自分のような者を好いてもしょうがないと。ますますサラジーヌの恋は燃え上がる。しかし最後に真相が判明する。ザンビネッラは女形、カストラートだったのである。絶望したサラジーヌはザンビネッラを殺そうとするが、その後援者の貴族の者によって殺される。ザンビネッラは、小説の始まった貴族の館の家の者で今は百歳の老人となり、舞踏会に顔を出すこともあるわけである。

高山鉄男訳、世界文学全集第21巻、集英社、1978

ナボコフ『記憶よ、語れ』 Speak Memory 1960


 『ロリータ』で有名なロシア出身の作家、ウラジーミル・ナボコフの自伝である。ただ普通の自伝とはやや異なるように見える。単なる自分の経験の記述で終わらない。

荷風の『断腸亭日乗』は日記の形を借りた公表用作物のように、このナボコフの作品は自伝の姿を借りたエッセイである。過去の自分の眼に映った世界をどう見ていたのか、著者自身の意見表明が続く。プルーストの『失われた過去を求めて』を思い出してしまった。ただプルーストの方が小説であってだけ読みやすい。

ナボコフは1899年、ロシアのペテルブルクの貴族の家に生まれた。父親は当時の政治その他で活躍した大物らしい。また家系を遡り、大物、有名人がいたと説明がある。こうした偉人の自伝を読むと、いかに出自が優れているか、同時代の中でも優れた家柄の出身かが分かる場合があり、ナボコフもまさにその例である。

大津栄一郎訳、晶文社、1979

2020年10月29日木曜日

バルザック『ざくろ屋敷』 La Grenadière 1832

 短篇小説、トゥールのざくろ屋敷と呼ばれる館に住む、異国の婦人とその二人の息子。婦人の名はウィレムセンス夫人、子供のうち一人は比較的大きく、弟は幼い。夫人は上の子供に期待している。そのうち夫人は病で身体が弱る。兄を読んで弟の世話を頼む。もうすぐ死ぬから。また異国に手紙を出す。二人の息子は異国の男との間に出来た子供だった。

夫人の死後、上の子はかねての予定とおり、軍艦に乗り見習い水夫として乗る。出世して弟を学校に行かせるつもりである。

高山鉄男訳、世界文学全集第22巻、集英社、1979

2020年10月27日火曜日

キャンフィールド、ハンセン『こころのチキンスープ』 Chicken Soup for the Soul 1993


 「愛の奇跡の物語」という副題から分かるように、いわゆる感動する実話を集めた本。一話あたり2,3ペ-ジの話が多く読みやすい。

日本向けの著者の序で、題名の意味を説明している。欧米では身体の調子が悪くなった時、母親などが、チキンスープを作ってくれる。身体を癒す食べ物とされている。ここでは精神に利くだろうとして、実話を集めた。感動する話を求めている向きには手頃な書物である。

木村真理、土屋繁樹訳、ダイヤモンド社、1995

チャム、ホワイトソン『僕たちは、宇宙のことぜんぜんわからない』 We Have No Idea 2017


 この世で一番おもしろい宇宙入門と副題がついているように、宇宙の謎の解明を極めてやさしく書いている。狭い意味の宇宙論だけでない。物理学の基礎事項、これは初歩的という意味でなく、基本的な事柄を研究の最先端までを分かりやすく説明しいている。若い者に語りかけるような語り口である。それに挿絵が多く見た目は簡単そうに見えるが、深い内容である。

著者のうちチャムは挿絵担当、ホワイトソンはCERNやカリフォルニア大学教授で研究している。

水谷淳訳、ダイヤモンド社、2018

2020年10月26日月曜日

何かいいことないか子猫チャン What's New, Pussycat? 1965

 クライヴ・ドナー監督、英仏米、106分。

主人公役のピーター・オトゥールはプレイボーイで女にもてまくりの男。ロミー・シュナイダー演じる女と婚約する。しかしこれまでの女関係がある。精神科医のピーター・セラーズのもとを訪れる。ともかく出てくる女はみんなオトゥールを好きになる。当然オトゥールも応える。シュナイダーは気が気でない。精神科医は自分にも女に好きになってもらいたいがそうはいかない。若き日のウッディ・アレンも端役で出る。最初アレンが書いた脚本はかなり書き直されてしまったという。

出てくる女を1960年代の美女たちが勤め、女の登場人物は美人と決まっている。いわゆるドタバタ劇である。正直映画としては面白くない。出演俳優と60年代の風俗、バカラックの音楽を楽しむ映画である。

2020年10月24日土曜日

サイデンステッカー『流れゆく日々』 2004

 


源氏や川端の英訳で知られるサイデンステッカーの自伝である。勝手な事前の思いこみで、アメリカに居た時から日本の文学や文化に関心があったのかと思っていたが全然違う。

著者は1921年アメリカのコロラド州で生まれた。コロラド時代の記述は当時のアメリカの様子が伺える例の一つになっている。青年時代は、戦時である。著者は通訳になれば通常の軍人にならなくていいので、日本語学校に入り恐育を受け士官として対日戦争に赴く。戦後は日本に来る。これ以降が日本滞在記になる。

日本での地位を得るための米に戻っての修行があった。その後文学的業績として、川端や谷崎らと交際、翻訳した。川端のノーベル賞受賞に尽力した。ノーベル賞受賞の裏側などに関心がある向きには情報が書いてある。

日本についての評価は率直に書いてある。ある意味わかるが、日本が貧しかった時代を高評価する。その後不愉快極まる時代になる。どういう意味かというと進歩的文化人の連中がのさばり、日本の言論界を席巻するからである。当時のそれら文化人を含む左翼勢力は反米で、親ソ、親中であった。中国へ行ってきて理想の国だと絶賛する。

そういった連中や風潮を、嫌うなどという言葉では済まされない、罵倒しつくす。なぜこれまで激昂するか不明である。感情的になっている。もう米有力大学の名誉教授になっている身だから怖いものなしだろう。実名を挙げて攻撃している。(実名を挙げる点は良い)日本人、日本社会への罵倒も気兼ねすることなく、思っていることを書いている感じ。

当時の社会の言論界は(日本に限らず、欧州やAA諸国も)親左翼であったのは確かである。しかし今となって振り返えば左翼の意見が全く的外れであったことはわかっている。だから現在では左翼に対して、嘲笑するなり馬鹿さ加減を言えばいいだけのような気がするが、もうそんな生易しい話でない。何しろこのため(だけと思えないが)日本が嫌になり、運よく渡りに船で、スタンダード大学から日文学の講座の声がかかる。それで日本を離れた。後は短期間滞在で日本に来たらしい。

実をいうと自分は本書を表する資格はない。途中、三分の二くらいまで読んで我慢ができず、読むのをやめてしまった。なぜなら日本(人)への嫌悪感表明に嫌気がさしてしまったからだ。引用する気にもなれない。本の途中で吉田健一(吉田茂の息子の評論家、東大教授で吉田精一という人物も出てくるが別)から著者の人格を良く言われなかったとある。本書を読み進めていくうちに吉田の言葉の意味が分かるような気がした。日本人を悪く言う口実を必死に捜しているように見えてしまった。正直、こんな日本人侮蔑に満ちた書を読んだのは初めてである。

安西徹雄訳、時事通信出版局

2020年10月21日水曜日

マキァヴェッリ『マンゴラーゴラ』 La Mandragola 1518

 政治思想家として有名なマキァヴェッリが書いた戯曲。パリ帰りの青年が法律家の妻に恋し、なんとかして愛を得たいので、友人らと計画を企む。医者に化けて法律家に近づく。男の子が欲しい法律家は、青年らの仕組んだ罠に陥り、また恥ずかしいことを貞節な妻にさせるため骨をおる。『デカメロン』の中にありそうな話である。マキァヴェッリの傑作とされ、現在でも上演されている劇だそうである。

脇功訳、マキァヴェッリ全集第4巻、筑摩書房、1999

2020年10月20日火曜日

ストレイチー『フローレンス・ナイチンゲール』「ヴィクトリア朝偉人伝」より 1918

 


20世紀初期、イギリスのストレイチーは四人のヴィクトリア期の偉人伝を発表した。マニング枢機卿、ナイチンゲール、アーノルド博士、ゴードン卿である。このうち特に有名なナイチンゲールの伝記について述べる。

ナイチンゲールといえば看護婦の代名詞的な存在である。ストレイチーはナイチンゲールの実際の姿はイメージと異なるという。どういう意味か。ナイチンゲールは優しくて献身的、犠牲的精神に溢れた白衣の天使という看護婦ではない。もっと男勝り、女だてらにという形容が相応しい戦闘的な人物だった。クリミア戦争に赴き、獅子奮迅の働きをした。有名になったため権力を備えるようになった。理想とする病院施設を造るため、陸軍省に圧力をかける。ナイチンゲールに従った男たちもこき使われる。

少し考えてみると、ナイチンゲールのような名を残した者がただの従順的な看護婦であったはずはない。もしそうなら(そういう看護婦は沢山いたであろう)使われて終わっただけである。

本書を読んで思うのは、ナイチンゲールの人物像でなく、著者の態度である。ナイチンゲールの活躍した時代は題にあるようにヴィクトリア朝であり、その時代の女性像はいわゆる伝統的で良妻賢母が理想とされた。また本伝記が著された時代は20世紀の前半である。まだ今と比べ保守的な世界観の時代である。

だからナイチンゲールが理想的な看護婦像でないとする著者は、現在のフェミニスト的な立場からすると偏見と解釈されよう。だから悪いと言っているのではない。どんな著でも書かれた時代の制約がある。それが今読むと興味深いと思うのである。

中野康司訳、みずす書房、2008

2020年10月19日月曜日

バルザック『トゥールの司祭』 Le Curé de Tours 1832

 主人公の司祭補佐のビロトーは、トゥールの古い館に他の司祭と住む。元々友人だった司祭が亡くなり、希望していた部屋に後釜で入居した。実は同じ館に住むもう一人の司祭はその部屋を望んでいた。遺書の指示でビロトーが入ったことを快く思っていない。また館の女主人である老嬢もビロトーに恨みを持っていた。

ビロトーは人の好い人物と小説にあるが、全く気が利かない、他人の心が分からない世間知らず、端的に言えば馬鹿である。だから老嬢が自分を邪見に扱っていると分かった時、驚く。更に司祭が自分の部屋を乗っ取ろうとするので信じられない気になる。ビロトーの知り合いである貴族らに話す。みんなはビロトーに同情し、何かしてやりたく思う。しかし相手の司教はより高い地位に就任する。戦っても勝ち目はなく、手を引くしかなくなる。更にビロトーにとって大打撃だったのは、期待していた参事職にも就けないと分かった時である。居心地の良い部屋から追い出され、なって不思議でない職にも就けない。

相手の司祭や館の老嬢は確かに悪者である。だがそれより主人公ビロトーのあまりのナイーヴ(英語での意味)ぶりに驚く。いい歳して自分が何も悪いことしていないから、ひどい目にあうはずがないと決めつけている。納得できないほどである。『セザール・ビロトー』の主人公の兄という設定である。

富永明夫訳、集英社文学全集第22巻、1979

2020年10月18日日曜日

バルザック『セザール・ビロトー』 César Birotteau 1837

 

セザール・ビロトーは主人公の香水商で、区の助役といった公職にもついている。真面目な商人で自分の発明した香水によって事業は順調であった。妻と娘にも恵まれた。

しかし事業の拡張、不動産取引を計画し、それに伴い舞踏会を開き大勢の者を招く。客観的にこのような手の広げ過ぎが仇になった。また馘にした店員が深くビロトーを恨み、自分で事業を始めた後に、ビロトーが失脚するよう画策する。

ビロトーは借金が嵩み、しかも自分が貸していた公証人が逃げてしまう。破産に向かって事態が悪化し、遂に破産する。

店員のうち真面目な男がいてビロトーの娘と相思の間柄だった。この男は独立し別の場所で店を始めていた。その男とビロトーの義父が破産した香水商を助けるため奔走する。なんとかして借金を返して元通りにしようとする。彼らの努力が実りビロトーは元の地位を取り戻すが、最後の展開になる。

当時の経済取引の実態に基づき、ビロトーの盛衰を描いた小説である。

大矢タカヤス訳、藤原書店、1999

2020年10月16日金曜日

スティーヴン・キング『書くことについて』 On Writing 2010

 


高名な恐怖小説作家、スティーヴン・キングによる自伝と小説の書き方についての講義である。自伝のところではメイン州に1947年生まれた。兄がいる。父親はいない。ベビーシッターの思い出。怪我(病気)をしてひどい目に会った。漫画を写した物語を書き、母親に自分のものを書け、それならもっといいものが出来ると言われた。無限の可能性を感じたという。自伝の他の部分では、何度も投稿した、結婚相手には恵まれた、などという所が心に残る。

小説の書き方では、アイデアはひとりでに湧いてくる。そのための方法などない。細かい技術も書いてある。福祉を省け、受動態は避けろ、と。ともかく小説を書くためには、たくさん読み、たくさん書け、これがキングの教えの要点である。最後に自分が読んでいる本の一覧がある。有名な古典から名前も知らない、訳されてもいない本が並んでいる。

なお本書執筆中、キングは散歩中、車にはねられ大怪我を負った。これについては新聞か何かのニュースで読んだ記憶がある。本書にはその際の記録も載っている。

田村義雄訳、小学館文庫、2013

2020年10月14日水曜日

横溝正史『三つ首塔』 昭和30年


 音禰という若い女の一人称形式の小説である。女子大を出て間もない時、伯父の還暦祝いの席に招かれる。そこで驚くべき事情を聞く。米に渡り成功した曽祖父の百億円という財産の相続者に指名されていると。その条件は会ったこともない男との結婚と知らされる。アメリカに渡った遠戚からの膨大な遺産。よく聞く設定である。しかも結婚が条件と、これまた既視感丸出しの話。しかも百億円の遺産とか、昭和30年頃の百億など絵空事めいた数字である。

それだけではない。その席で、殺人が起こりその被害者の一人は音禰と結婚が想定されていた男だったと分かる。更に驚くべき暴力沙汰、語り手音禰にとってこの上ない悲劇が起こる。正直びっくりしてしまった。その後も莫大な財産の相続資格者が次々と殺される。連続殺人は横溝小説で毎度の話であるが、本編は語り手音禰にとって悪夢のような、煽情的、エログロ的、カストリ誌的な展開が続く。こんな小説とは知らなかった。自分は横溝の作品ときたら評価の高い『本陣殺人事件』や映画化された有名小説群、また戦前の『真珠郎』くらいしか読んでなく、このような小説がまともな文庫本で出ているとは驚きの体験だった。

小説の後半になり、色々な事実が明らかにされ音禰の悲劇も薄れていくが、非現実性や既視感を感じさせる設定は変わらない。何よりまず本編を読んで感じるのは、語り手音禰が全く男の拵えた女、女とはこういう思考行動だという男の空想上の産物、という点である。また最近LBGTの人権について議論が多くなっているが、本編p.306に「それは世にもあさましい、人倫にももとることなのだ」などと記述があり、現代の人権擁護の見地からして云々という本書最後のページにある弁解は必要であろう。

さて本編にも金田一耕助は登場する。ただし最初の方と最後でいい役で出てくるなどがほとんどである。金田一耕助といえば最も無能な探偵として知られる。何しろ金田一が事件に関わってから次々と殺人が起こり、何もできない、しない。その癖最後には偉そうに謎解きをする。無能を通り越して疫病神のような存在である。事件が起きたら金田一だけには関わってもらいたくないと思わせる。その金田一の出番が少ないので、本編は無能の上塗りをせず済んだ。

角川文庫。昭和48年、平成8年改版。

ユン・チアン『ワイルド・スワン』 Wild Swan 1991


 中国生まれの張戎(チアン・ユン)著。著者の祖母、母、自分の生涯を描いて、19世紀末以降の中国史がそこに生きた者の眼を通して綴られる。上下全体の文庫本のうち、前の方約三分の一が祖母や母の生きた時代、残りは著者自身の自叙伝になっている。

祖母は20世紀初頭、日本式に言えば明治末期に満洲で生まれた。十代の時、当時勢力があった将軍(地方の実力者)の妾になる。父親の出世につながるための政略結婚だった。中国では(中国に限らないが)女性の権利など微塵もなかった。一緒に生活できない夫を思い、一人娘(著者の母)の誕生ほど幸せな時はなかった。将軍死亡後は実家に帰った。

その後、60歳代の医師と再婚する。これには医師の子供たちが大反対し、長男は自殺(脅すつもりが死に至ったらしい)までして抗議した。1930年頃生まれの著者の母(将軍と祖母との子)の少女時代は日本との戦争期である。国民党と共産党が協力して日本軍に対抗したと教科書に書いてある頃である。共産党に忠実な戦士が著者の父で、母とは好き合い結婚した。しかし父にとって人生の目的は、共産党に忠実であることであり、母は父の冷たい仕打ち(自分を全く大切にしてくれない)により辛い日々を過ごさなければなかった。

戦後になり共産党は中国を制圧した。著者は1950年代初めに生まれた。姉の他、弟三人のきょうだいである。毛沢東が中国の救世主で、共産党により中国は幸せな社会になると、著者は頭に叩き込まれて育った。中国は完全な階級社会で(時代を問わず)、両親とも共産党幹部というので、かなりの厚遇があった。しかし社会全体は恐ろしい蛮行の時代だった。すなわち大躍進、文化大革命、下放の時代である。大躍進時は著者は子供で、親が幹部で都会生活であったため、伝聞による記述である。しかし文化大革命と下放は著者自身の経験が書いてある。

文化大革命は、大量の左遷人事だけでなく、徹底的な伝統文化の破壊、自然破壊を極めた恐ろしいなどという形容では尽くしきれない悪行であった。下放では著者は地方に行かされ苦労をなめる。共産党の最も忠実な僕であった父親は権利を剝奪され惨めな死を迎え、やはり幹部であった母親もひどい目に会う。毛沢東への盲目的な忠誠に疑義が生じても不思議でない。毛沢東の死(1976年)は中国にとって希望になった。著者は中国の開放政策により1978年にイギリスに留学する。共産中国始まって以来、九千万の四川省で初めてという。それには著者が圧倒的に成績優秀であったのはもちろんだが、やはり恵まれた境遇の家だった点もある。以来イギリスに在住し本書を英語で出した。

まず本書を読んで最初の方から驚くのは中国社会の実態である。旧態依然では済まされない。正直19世紀以降、列強に半植民地化されたり、日本の侵攻を受けたりして惨めな国家となったのも驚かない。日本の侵攻を正当化する気は全くない。しかし中国社会はあまりにひどすぎる。共産国になってからは、人々の嫉妬心など人間の汚い心(どの社会にもある)を徹底的に利用し制度化し、相互監視、足の引っ張り合いで恐ろしい管理社会となった。

本書はあくまで著者の見た、理解した中国社会である。客観性はない。しかし歴史の客観性とは何か。多数派を指すわけでないことは確かである。自分は著者とほぼ同じ年代で、文化大革命を朝日新聞などが絶賛していたことを覚えている。また良心的(に見えた)な知識人の多くは共産化した中国を、それだけで高く評価し贔屓にしていた。欧米の若者などのマオイズムも当時の流行だった。あの頃の朝日新聞の幹部や知識人を当時の中国に送ってやりたいと思う。思えば当時でも社会主義の実態を知らせる事件があった。連合赤軍事件(1972)である。あまりに異常に見えた事件だが、共産(社会)主義国とは、あの事件を国家大にして常態化している社会なのである。

土屋京子訳、講談社+α文庫、上下、2017

2020年10月13日火曜日

よそかぜ 昭和20年

 佐々木康監督、松竹、60分。

主題歌「リンゴの唄」で有名な映画である。主演の並木路子の他、佐野周二や上原謙が出ている。歌がうまい少女がデビューするまでの映画で、主人公と佐野の恋愛関係など男女の仲も描かれる。本来は好き合っている佐野と十分な意思疎通ができず、主人公はリンゴ園がある田舎の実家に帰ってしまう。後で佐野や上原など仲間が迎えにくる。

映画冒頭から「リンゴの唄」が歌われ、当然、映画の最後にも出てくる。戦後の開放的な雰囲気が出ていると言えるが、正直たいした映画ではない。リンゴの唄の大ヒットで記憶されている映画である。

2020年10月11日日曜日

壁あつき部屋 昭和31年

 小林正樹監督、松竹、110分、白黒映画。

戦後、巣鴨の拘置所で収容されているB級、C級の戦犯たち。いずれも上官の命令に従ってやっただけなのに、などと収容された事実は納得できない。その中でも小沢栄太郎演じる上官が命令したのに、小沢は自分は知らないとうそぶき、その犠牲になった者がいる。ただ被害者からの観点だけではない。戦時中にやった海外での行為が映画中何度か回想される。現地の者たちへの残虐行為が映し出される。戦後の日本人は、銃後の国民に至るまで、占領軍からいかに日本軍が戦時中、残虐行為を働いたか散々聞かされていた。これは戦後の日本人の自己認識の基礎となった。たんに指導者たちに騙されていたと言ってすまされる問題でない。戦後十年も経っていない時期に製作され、公開は数年後になった。非常にイデオロギー闘争や戦争責任論が激しかった時代である。だからそれはこの映画にも反映されている。ただしイデオロギー論争だけではプロパガンダ(宣伝)映画になってしまう。

映画では個人の内面の問題に入り、特に自分の母親の死で一時的に釈放された者の行動は一つの焦点である。自分を陥れた元上官に復讐を考えていた。その顛末は・・・ということで脱走もせず拘置所に戻ってくる。個々人だけではどうにもならず、また政治のせいだけにしても正しくない問題を扱った映画である。

2020年10月10日土曜日

長屋紳士録 昭和22年

 小津安二郎監督、松竹、72分、小津監督の戦後第一作。

築地本願寺近くの長屋、笠智衆が男の子供を連れて帰ってくる。一人でいて親が見つからない。それで連れて帰り、誰か面倒見てくれないかと長屋の住人に声をかける。河村黎吉や坂本武ら、みんな嫌だと言う。飯田蝶子も嫌と答えるものの、結局引き受けた。朝、寝小便の蒲団が干してある。子供がしたのだ。飯田は文句を言う。子供の親を捜しに行く者を籤を引いて決める。飯田が当たる。実はみんな当たるようになっていた。行っても見つからない。飯田は友人の吉川満子にこぼす。何日も一緒にいるので次第に情がうつり、動物園に連れて行ったりする。面倒を見る気になった。すると父親が訪ねてくる。父親も子供を捜していた。親が連れて帰った後、飯田は泣く。誰か他の子がいないかと八卦占いの笠にきく。上野方面だろうと答え。最後は西郷隆盛の像の近くにたむろする戦災孤児らが映る。

2020年10月9日金曜日

丸谷才一『文学のレッスン』 2010

 


丸谷才一による文学評論。元編集者が聞き手になり、丸谷が答えるという形式。丸谷は文学を形式的に論じるのもいい趣向と考え、この書の対談(主に丸谷の発言)になった。目次は次の通り。

【短篇小説】もしも雑誌がなかったら/【長篇小説】どこからきてどこへゆくのか/【伝記・自伝】伝記はなぜイギリスで繁栄したか/【歴史】物語を読むように歴史を読む/【批評】学問とエッセイの重なるところ/【エッセイ】定義に挑戦するもの/【戯曲】芝居には色気が大事だ/【詩】詩は酒の肴になる

丸谷の意見は面白く、読んでいて楽しく勉強になる。もちろん何でも賛成でなく、そういう理解もあるのかと思うところが多い。思うに文学への態度、理解に正解はないはずだから、別の見解を聞くのは面白い。何か役に立つというより(そういう面はあるが)、同好の士の意見を聞いている感じがまずする。

新潮選書、2017

ホフマン『マドモワゼル・ド・スキュデリー』 Das Fräulein von Scuderi 1819

 


E.T.A.ホフマン原作の中編小説。副題にルイ十四世の時代の物語とあるように、当時のパリが舞台。怪奇小説で探偵小説としての面があるが、主題は若い恋の成就にスキュデリー嬢という国王の覚えめでたい老嬢の活躍であろう。

当時のパリでは犯罪が頻発していた。特に宝石装飾品を奪われ、場合によっては殺される事件も珍しくなかった。捜査のため特別な機関が創設された。しかるに犯人は捕まらない。

ある夜、スキュデリー嬢の家の扉を激しくたたく者がいる。女中は怯えて開けない。警察が来そうになったのでその者は逃げる。扉の外に箱が置いてあった。翌朝開けると首飾りなど宝石が入っている。スキュデリー嬢はそれを友人の侯爵夫人のところへ持っていく。夫人はこの細工が出来るのは、匠カルディヤックしかいないと言う。後にスキュデリー嬢は馬車に乗って渋滞に会い、その時手紙を馬車に投げ入れる者がいる。手紙を読むと宝石類は、カルディヤックに返せ、さもないと災難がふりかかるとある。

2日後、スキュデリー嬢がカルディヤック家を訪ねると、その死体が運び出されるところだった。容疑者は弟子のオリヴィエで引き立てられる。カルディヤックの娘のマドロンは悲嘆の極で、オリヴィエが犯人の筈がないと言う。オリヴェエを愛していた。オリヴィエはこれまでの連続殺人事件の犯人に仕立てられる。しかしオリヴィエは誰かをかばうためか、自分が無罪と主張しても、それ以上は黙して話さない。オリヴィエの無罪を信じ、スキュデリー嬢は奔走すする。最後には真相、これまでの謎、連続殺人事件がなぜ起きたか、犯人などが明らかになる。

スキュデリー嬢は実在の人物、またパリの連続殺人事件も実際にあった。本編は殺人事件の真相解明という点から見れば探偵小説である。探偵小説の嚆矢とされているポーの『モルグ街の殺人事件』(1841)よりも20年以上早い時期の公表である。

中野孝次訳、河出書房世界文学全集第3期第10巻、昭和40

2020年10月8日木曜日

ホフマン『金の壺』 Der goldne Topf 1814

 


E.T.A.ホフマンの中編小説。幻想的、超常的な物語で主人公の学生アンゼルムスが恋を成就するまで。

ドレスデンが舞台。アンゼルムスは市場で老婆の籠をひっくり返して恨まれる。逃げ出した後、木の上の歌う三匹の蛇を見て、その一匹に恋心を抱く。蛇は若い美女の変身である。副校長から仕事を斡旋してもらう。副校長の娘ヴェロニカはアンゼルムスに恋している。アンゼルムスは文書管理官のところへ仕事に行った。文書管理官は実は火の精霊であった。蛇に身を変えた美女は文書管理官からその娘であると知らさせる。恋に落ちた蛇は末娘セルペンチーナであった。頼まれた難しい筆写もセルペンチーナの助けによってうまくいった。文書管理官は追放された精霊で、救済にはその娘を好いてくれる男が必要で、金の壺を与えることになっていた。

アンゼルムスを自分の物にしようとするヴェロニカは、魔法の手を借りアンゼルムスにセルペンチーナは幻想であったと思わせる。罠にかかったアンゼルムスはヴェロニカを選ぶようになる。金の壺を盗もうとした老婆は、文書管理官との戦いで破れ、またアンゼルムスの眼は覚める。

ヴェロニカは枢密顧問官になった男と結婚し、アンゼルムスはセルペンチーナと結ばれる。

中野孝次訳、河出書房世界文学全集第3期第10巻、昭和40

2020年10月7日水曜日

ホフマン『悪魔の美酒』 Die Elixiere des Teufels 1815

 


E.T.A.ホフマンの長篇小説。カプチン会の修道士メダルドゥスの遺稿という形をとる幻想小説。怪奇小説と言ってもいいかもしれない。

修道院の若いメダルドゥスは聖遺物等の監督を任命される。その中にあったのが題名の悪魔の美酒である。これを一口飲めば精神が活発化し昂揚する。メダルドゥスはローマの法皇のもとへ派遣される。途中で滞在した男爵家。ここで主人公は美しいアウレーリエ、誘惑的なオイフェーミエのような女のほか、ヴィトクリン伯爵というメダルドゥスに酷似の男に出会う。伯爵は邪悪な人間で、メダルドゥスは崖から落下させる。メダルドゥスは逃げる。その身を偽り、山林官の家に厄介になったりする。殺人についての噂を聞くが、誰もメダルドゥスを犯人と思っていない。この後、メダルドゥスの正体が知れたとして犯人視されるが、誤解であったとなる。

ローマに着き法皇に謁見する。ローマの総本山も堕落している。かつて修道院で上にいた僧に会い驚く。メダルドゥスは罪を逃れたが、上司の僧は処刑される。メダルドゥスは修道院に戻る。以前の愛し焦がれた女との再会がある。小説はメダルドゥスの死まで描く。

本の最初にメダルドゥスの系譜とあるが、小説のほとんどは下の方、2,3行の登場人物で進む。小説の後半の章になって系譜全体の経緯が説明される。

中野孝次訳、河出書房世界文学全集第3期第10巻、昭和40

2020年10月6日火曜日

アメリカン・サイコ American Psycho 2000


 ハロン監督、米、102分。クリスチャン・ベール主演。

投資会社の副社長であるベールは自分と同じような境遇の上流層の男達と付き合っている。高い店で食事し、名刺をどれくらい凝ったかを競い合うような、虚栄を絵に描いた生活を送っている。この上ない選良である。ただ精神は病んでいて、浮浪者や商売女、許せない知人その他多くの人間を残虐に殺しているのが裏の顔である。見かけを完璧にし、他人を出し抜くのが目的であるような生活を送る選良であるからこそ、傲慢この上ない歪んだ人間になってしまったのか。

映画の終わりの方ではやや混乱させるような展開になる。主人公がうまく切り抜けられたかどうか、秘書が秘密を探っているようで、それがどうなったか分からない終わり方にしている。

映画の舞台は1980年代のニューヨーク。アメリカがすさみ、復活させるべくレーガン大統領が誕生した(後からの評価だが)時代である。当時の日本はバブル最盛期でアメリカを追い抜き、世界最高の国であるかのような幻想に酔っていた。映画中、2000年までに日本の会社がアメリカを買収するような台詞が出てきて、当時の一つの回想になっている。例えば1930年代のような戦前であれば、それの再現で観客は理解できるか当然問題になるが、逆にこのようなたかが20年前の時代だと、観客は理解していないことさえ分からないのではないか。

2020年10月4日日曜日

早春 昭和31年

 小津安二郎監督、松竹、144分、白黒映画。

池部良と淡島千景が夫婦、蒲田に住み、池部は丸ビルにある会社に通うサラリーマンである。二人の間には子供があったが病で亡くしている。池部は通勤電車では同寮と一緒で、その中の一人が岸恵子扮する若い独身の娘である。映画の話らしい話は、池部と岸が関係を持つ。会社の同僚で噂になるだけでなく、妻の淡島も気づく。池部に岡山の山中にある現場への転勤話が出る。淡島は夫の不実のせいで、うちを出ていく。転勤も池部が一人で行く。後から淡島は母親から諭された等があり、そこへ行く。池部とまた一緒になった淡島は2,3年なんてすぐだと言う。

小津の映画では東京からの都落ちが何回か出てくる。正直サラリーマンであれば東京、本社にいたい。また池部と岸の仲に気づいた同僚たちは岸を呼び、あてこすりを盛んに言う。岸は怒る。当時のサラリーマンの下種な根性が出ている。今では内心はともかく、このように嫌味を大っぴらに言えない。性的嫌がらせで直ちに処分の対象になる。

可愛い花 昭和34年

 


井田探監督、日活、49分、白黒映画。ザ・ピーナッツ主演。

ザ・ピーナッツのデビューの年に作られた映画。女社長はテレビCMで娘が歌っているので、驚いて調べさせる。娘は歌手志望だったが母親は許さない。自分のかつての夫が歌手で失敗したからだ。その夫、以前の流行歌手は今は別の仕事をしている。レコード会社のディレクターのところへ来る。ディレクターは岡田真澄が扮する。自分の娘が歌手になりたいので聞いてくれという頼みである。この娘と女社長の娘をザ・ピーナッツが演じている。両親が離婚しているので初めて会う双子の姉妹。二人とも歌手志望である。ともに片親と暮らしてきたので、もう一方の親に会いたい。双子なのでもう一人になりすまし、父、母の家に行く。両親は娘の言うことを聞いて、また一緒になる。レコード会社は歌手志望の姉妹なので、二人を組で売り出す。これで岡田扮するディレクターも名目を保ったかと思いきや、競争相手のレコード会社に引き抜かれる。岡田は責任をとって辞め、もとより興味のある株に金をつぎこみ大金持ちになる。ケストナーの『二人のロッテ』の筋を一部使っている。

最後に岡田が株で大儲けをするところは当時の株ブーム以上の意味があったのか。

2020年10月3日土曜日

バルザック『幻滅』 Illusions perdues 1843

 


野心的な詩人リュシアンが主人公で、当時のジャーナリズムや出版界を背景として、恋愛、出世模様が描かれる長篇小説。

田舎町で印刷所の息子は、文学志望の青年リシュアンと仲がいい。印刷所の親爺は強欲で息子に対しても自分の財産を守っている。リュシアンは美青年で、町の夫人に好かれる。その仲を噂する者がいたので夫人の夫は決闘する。夫人とリュシアンはパリに逃げる。

パリではあれほど田舎で美青年だったリュシアンも服装が冴えなく夫人は離れていく。リュシアンは詩人としての願望を満足させるため出版界に近づくが現実は厳しい。芸術志望の他の青年たちと仲間になり、リュシアンはその文学才能を伸ばす機会を待った。彼の書いた批評が受け、ジャーナリズムから誘いがかかる。一躍有名になったリュシアンは、恋人となった女優と自らの虚栄と贅沢を満足させる人間になる。そのため芸術仲間から離れてしまう。自分を捨てた田舎以来の夫人もペンでやっつける。しかし贅沢のため借金をするようになり、敵となった男との決闘で負傷する。リュシアンはジャーナリズムから見捨てられ、恋人の女優も死ぬ。徒歩で帰郷をする。

田舎では印刷所の旧友と自分の妹が結婚して、誠実に暮らしていた。印刷術の革新の研究にいそしみ夢を追っていた。リュシアンの借金が旧友名義で、旧友は逮捕され監獄に入れられそうになる。リュシアンが田舎に戻ってから、かつての友人で今は法律家をしている男は、借金を利用しリュシアンや妹夫婦を陥れようとする。上辺の称賛に踊らされたリュシアンだが、義弟は牢屋に入れられ、自分は自殺するつもりで田舎を出る。途中でスペインの聖職者に化けたヴォートラン(コラン)に会い、その世話になる。

『浮かれ女盛衰記』は本書の続篇で、『幻滅』と『浮かれ女盛衰記』は合わせて読むべき小説である。

生島遼一訳、バルザック全集第1112巻、東京創元社、昭和49