2015年2月28日土曜日

虹の兵士たち 2008年

インドネシアのリリ・リザ監督による総天然色映画。『夢追いかけて』の前編というか、別の話なのだが登場人物はかぶり主人公の名前も同じ、小学生時代が背景となっている。
つまりこの『虹の兵士たち』をみなくても『夢追いかけて』は独立した作品なのである。


舞台はインドネシアのブリトン島というスマトラとボルネオの間にある島。ここで小学校を開く。ただ児童が十人集まらないと開校できない。なんとか集まり小学校が開く。校長と若い男女の先生という三人だけの教師。

この学校での個性ある子供たちの生活が生き生きと描かれる。
題名の虹の兵士というのはこの子供たちのことで、みんなで虹をみている時名づけられた。

独立記念日のパレードに奇抜なインディアンもどきの格好で参加し優勝したり、学校対決のクイズ大会でも一位になったりしてわずか十人しかいない学校は大いにその存在感を高める。
筋の上では主人公が恋心を抱く話も重要。教師がやめたり校長が亡くなったりして若い女の先生が苦労する。また家庭の都合で優秀な子供が学校に来れなくなる。時代が1970年代であってまだインドネシアが後進国であったとわかる。現在このような事情で学校へ行けない子供がいるかどうか知らないが、そんなに昔でもない時代はこうであったようだ。

フロベール『三つの物語』Trois Contes 1877

題名のように3つの短編からなる。『素朴な女』『聖ジュリヤン伝』『ヘロデヤ』の三つ。

このうち最初の『純朴な女』は他にも訳名があり、『純な心』とか『まごころ』とかの題もある。上に挙げた訳名は中央公論社世界の文学、山田稔訳による。
『素朴な女』を最初に読んだのは、子供の時、児童向けの文学全集で『まごころ』と題されていた。この訳名が自分には懐かしい。原題はUn cœur simple

『まごころ』はフェリシテという女中の一生を描いたもの。若くして恋に破れ、女中になってからはひたすら女主人に忠実に使え、その子供たち、特に女の子の成長を楽しみに生きる。子供たちが家から離れてからは女主人と友達のようになる。また鸚鵡をもらってからはその鸚鵡が彼女の生きがいとなる。その鸚鵡の死後は剥製にして傍から離さない。

『聖ジュリヤン伝』は中世が舞台。狩りに明け暮れていた貴公子ジュリヤンが後半生は聖人になるという西洋によくある話。そのきっかけには自らの親を殺めるという悲劇があった。

『ヘロデヤ』は、聖書外伝を元にしたワイルドの『サロメ』の話を、フロベールが書いたもの。

『まごころ』の女主人公フェリシテの若い日の挿話として恋人ができ、ふたりで逢引きをする場面がある。二人で道を歩いている。いつまでもこの道を歩いていきたいとフェリシテは思った、という説明が子供の時の読書の記憶として残っていた。完訳版で読み直すとこの言葉とおりの文は見当たらなかった。記憶間違いか、子供向きの訳なので訳者が自分の文を書いたのか。見つからないのはやや残念であった。

夢追いかけて 2009年

インドネシアのリリ・リザ監督による総天然色映画。



パリへ行こうという夢を追いかける若者たちを描く。三人の若者の話だが特に語り手と楽観的で前向きな友人の間が中心。

作家志望の主人公が大学を出たものの、郵便局で仕分けの仕事しかやっていない場面から始まる。彼は郵便局が嫌いだと言う。過去の回想になる。

彼の実直な父親は錫の工場に30年以上勤めていたが下っ端にすぎなかった。ある日昇進の連絡が来て勇んで父子その式典に出席する。最後まで名を呼んでもらえず結局郵便局の誤配とわかる。

少年時代に孤児である友人と出会い、その後ずっと付き合う。もう一人の仲間は馬が大好きな吃音の少年である。

話は高校へ入ってからの生活の部分が長い、頑固で厳しい校長と生徒に人気のある熱血漢タイプの若い教師。若い教師は盛んに夢をもてと生徒たちを煽る。好きな言葉を挙げてみろと彼らに言わせる。パリのソルボンヌこそ文明の中心の学校。そこを目指せと言う。このあたり今の日本にはこんな教師いないだろうと思わせる。多分戦前なら子供へ大志を抱けと煽っていた先生は結構多かったと思う。このあたりまだインドネシアが若い国というか発展途上にあるとわかる。しかも国際化時代、パリの大学を目指せというわけである。

友人は好きな女生徒ができ、なんとか気を引こうと必死になる。
語り手は外国への憧れから船に乗って外国航路に出たいと思い出し、勉学を怠けるようになる。父親を落胆させる彼を校長は厳しくたしなめる。

勉強に必死になり、語り手と友人はインドネシア大学に受かる。しかし大学卒業後、郵便局にしか勤め口がなく、友人も姿をくらましてしまった。

最後はハッピーエンドとなるわけだが、こういう夢を追いかける話はさすがにまだまだ貧しいところがある国の方が作りやすいと思う。かつての多くの名作映画が貧困を原因として作成されている。映画は作られる世界の反映でもある。

砂塵にさまよう 2003年

イランのアスガー・ファルハディ監督による総天然色映画。


主人公の一人である青年は、好きな女性と結婚するものの、彼女の母に関する噂などお互いの家で認めず、離婚させられる。そのため相手方に離婚の慰謝料を払わずにいられない立場となった。また過去の借金等で逃げている。たまたま友人の手引き等で、バンの荷台に隠れ追手から逃げおおせる。この古ぼけたバンは砂漠を目指していた。運転するのは砂漠で蛇を捕まえことを仕事としている老人。砂漠に着いた後老人に見つかりバンから追い出される。灼熱の砂漠で青年は盛んに老人へ悪口雑言を叩く。老人は蛇捕りに出かける。老人と青年のやりとり、といっても前者はほとんど無言で、若者が喚き散らすといった感じなのだが、この部分が結構長い。

若者は自分でも蛇捕りはできると言い出し、出かけるがかえって蛇にかまれてしまう。ほっておくと毒が体にまわり死んでしまう。噛まれた指を切り落としバンは都会の病院目指して駆ける。この車中で苦痛を訴える若者と老人の会話で、老人の過去がわかってくる。

現代日本では考えられないような砂漠の蛇捕りなど強烈な印象を与えるし、青年とその妻、あるいは老人の過去の挿話など印象に残る映画である。

2015年2月24日火曜日

ゲーテ『タッソオ』 Torquato Tasso 1790

ゲーテの戯曲である。題品は主人公の詩人で実在の人物。


主人公のタッソオはイタリアのある宮廷に招かれている。詩人ということで領主やその妹たちから尊敬され賞賛されている。しかし一方で現実的な大臣からは批判される。
芸術家そのものであるタッソオはこの雰囲気に耐えられず、当地を去ることを決心する、という内容である。

理解されない芸術家の悩みといってもいいし、大臣側からすれば気儘な詩人のわがままに付き合っていられないということになる。
主人公に対してゲーテは自分自身と重ね合わせ、共感を覚え書いたようである。

理解されない芸術家の悩みを描いた作品としてはシェリー夫人の『フランケンシュタイン』が有名だがこの作品では直裁に書かれている。
実吉捷郎訳岩波文庫1950年

河の女(ベトナム映画) 1987年

ダン・ニャット・ミン監督のベトナム映画。総天然色。



河の女というのは舟で春を売る商売をしている女、主人公のことである。

主人公を好きな青年がいるが女の方は乗り気でない。彼を追い出した後、河の中から男が舟に乗り込んでくる。その後軍人を乗せた船が捜しにやってくる。男は舟に隠れて難を逃れる。女は困るが男は市外まで出てくれと頼む。男を送り届けた後、彼のことが気になる。

休戦後、女が道路工事をしていると自動車に乗ったあの男を見つける。後を追うと某役所にいるらしい。彼女は訪ねる。面会所を通して話してもらったが人違いと言われ帰るしかなかった。

その後女は病院でジャーナリストに以上の話をする。記者がその話を雑誌に載せようとすると、圧力がかかり不可能になる。

男も訪ねてきた女を気づいていたのだが、今更関わり合いになるのは迷惑だったのである。雑誌の停止も彼の仕業であった。

字幕の背景が白地になることが多く、十分読み取れなかった。工夫が欲しいと思った。
大筋はなんか『飢餓海峡』を思い出した。助けた女が後年その相手に会いに行くと知らないと言われるあたり。もちろん殺されたりはしないが。

きのう、平和の夢を見た 2009年

ダン・ニャット・ミン監督のベトナム映画。総天然色。
フィルムセンターの企画「現代アジア映画の作家たち」の一。


ベトナム戦争で野戦病院に勤めていた女医の日記を米兵が持ち帰り、戦後数十年して公開、遺族へ戻ったという実話の映画化。

戦争シーンは冒頭に出てくる。女医の野戦病院での活躍の尺はそんなに長くない。爆撃後、病院跡を訪れた米兵が日記を発見する。帰国し内容を翻訳して公表しようかと考えるが、家族の反対もありそのままになる。その後30年以上経ち、ベトナムへ戻る元兵士に頼み、女医の家族を捜してもらう。

老いた母親や姉妹は初めて日記のコピーを読み、女医が亡くなった事実を確認する。

日記の内容の物語というよりも、それが米国に渡り、長い年月後戻るという日記を巡る話であり米国の場面も多い。

2015年2月22日日曜日

七つの宝石 昭和25年

佐田啓二主演の佐々木啓祐監督による犯罪・活劇映画、白黒、松竹映画。


元となった原作はルブランのルパンもののようであるが、設定は当時の日本でありルパンが出てくるわけでない。

タイトルは当時の東京の俯瞰風景を背景。低い家が多くたまにある相対的に高い建物、場所がどのあたりか現在では全く不明。大きな堀とそれにかかる橋が出てくる。埋立てが始まる前の風景である。

元華族が殺され、七つの宝石が奪われる。宝石には夫々一文字が書いてあり、これと図絵を合わせると宝物の隠し場所がわかるという。奪ったギャングも調べると宝石が紛失していた。この華族の家に出入りし宝石強奪事件に関心のある者は、殺された主人の友人である高田稔演じる中年と、佐田啓二演じる青年。

盗まれた宝石はギャングの一員である大阪志郎演じる麻薬中毒の男が横領しており、薬入手のため売っていた。個々の宝石の入手者はギャング団に見つかり奪われていく。調べ回っている佐田をギャング団のボスは消せと命じ、キャバレーで佐田とギャング団の格闘が行われる。そのキャバレーの踊り子は佐田に好意を持ち、危険なことはするなと諌める。

佐田はこの踊り子を使いギャング団の鍵を入手させる。一味の家に入り、ギャング団が取り戻していた宝石を奪い返す。元華族の家で佐田はこの宝石による宝の隠し場所の謎を解く。しかしその時ギャング団が闖入し佐田やその家の娘を誘拐していく。娘に対する脅迫で謎を吐かざるを得なかった。最後は宝の隠し場所である京都の滝で、ギャング団と警官の撃ち合いになり、ギャング団のボスの正体もわかる。

当時の貧しかった我国の雰囲気はよく見て取れる。ただし映画の出来となるとあまり上等とは言えない。昔のテレビの活劇物の感じである。最後の宝物は文字通り海賊船にあるような箱(ただし小さい)に入っていて、中身は首飾り等の宝石類である。突っ込みを入れたくなる映画は珍しくないが、これはその気も起きないくらいの出来である。

2015年2月10日火曜日

東遊記 昭和15年

李香蘭主演、大谷俊夫監督による満洲映画協会、東宝提携作品。



満洲の田舎町。二人の青年が日本へ行っている友人から東京に招かれる手紙を受け取る。二人は日本へ旅立つ。東海道線で切符を失くし歩いて東京まで行こうとする。十国峠で映画のロケ隊に会う。臨時で参加し、東京まで車に乗せていってもらう。この映画隊の中に原節子がいる。東京の中華料理店に行くと主人は留守という。帰るまでたらふく注文をする。友人が主人だからカネの心配はないはずだった。ところが主人が帰ってくると別人。実は友人はコックにすぎなくもう辞めていた。肩を落とし、街をさまよい歩く二人。

その後二人はサンドイッチマンになったり、そこから化粧品の宣伝マンになってすっかり有名になる。この会社に友人の義妹(李香蘭)が勤めていた。彼女は通訳を務めた。ある日中華を食いたくなった二人が入った店は、友人が経営していて遭遇する。友人は自分の職業がたいしたことないので恥じて名乗り出なったと打ち明ける。また李香蘭が義妹とわかる。二人は美人の彼女に密かに恋していた。しかし彼女に婚約者がいると知りがっかり。友人一家は満州へ戻るという。青年二人も自分たちがやっていることを空しく思い一緒に帰郷する。最後は満州の大地で農作に勤しむ彼ら。

中国人(満州人)は原則として中国語しか喋らないので字幕が入る。背景が白っぽいところが多く読みにくかった。

中国の観客を意識したのか、東京の各地で地名が字幕で出てくる。浅草とか日比谷とか。戦災を受ける前であり現在みるとどの辺か不明のところが多い。似ているのはお茶の水の聖橋からお茶の水橋を眺めたあたり。聖橋の石の欄干、以前はこの映画通り造られた当時のままで低かったが現在では高くされている。

2015年2月8日日曜日

折れた矢 Broken Arrow 1950

デルマー・ディヴィス監督、ジェームス・スチュアート主演の西部劇。総天然色である。


話はインディアン・白人間の和平を求める主人公と同様の考えを持つインディアンの酋長がその理想に向けて努力する話。

ジミー・スチュアートは傷ついたインディアンの少年を助ける。そのためアパッチ・インディアン達から見逃される。当時馬車や郵便夫がインディアンに襲われていた。アパッチとの争いを避けたいジミーは自分が交渉に赴き、郵便の配達の安全を確保すると言い出す。単身丸腰でアパッチの部落へ行く。酋長(まだ若い)は彼の言い分を聞き、郵便の安全を保障すると約束する。白人の仲間達は信用していなかったが郵便が安全に届くようになる。アパッチの若い娘とジミーは相思相愛の仲になり結婚する。

将軍は大統領の代理としてアパッチとの和平条約を結びたいと考えている。ジミーと酋長に話すが、酋長だけでは決められずアパッチ全体で協議する必要があるとの答え。集会を行い他の者の意見を聞く。ジェロニモというアパッチとその仲間は賛同できず、酋長から離れる。3か月の試験期間を設けてみることになる。

馬車が襲われることは原則としてなくなったがジェロニモ達は攻撃を仕掛ける。
白人の一味がジミーとその妻、酋長を騙し銃撃戦になる。ジミーの妻が撃たれる。ジミーは怒り狂うがこれも平和のための犠牲と諭される。

この映画の舞台は19世紀の後半、そして作成されたのは1950年である。舞台となった時代も制作された時代も現代とはあまりに価値観が異なる。

舞台の時代には白人から見ればインディアンは野蛮人で獣と同じであった。制作された時代も少なくともそれ以前の西部劇を見ればわかるように成敗すべき野蛮人であった。

この映画の酋長が平和に努力しているので、インディアンらしからぬ好人物に描かれているという意見があるが、何といっても理想化されているのは主人公のジミー・スチュアートである。和平を固く信じ、その信念のため身の危険も顧みず行動する。ジミーなら理想化されて当然というわけか。ジミーと酋長が理想なら白人もインディアンも悪人を登場させている。悪人というより当時の常識からみれば現実的に対応している。

騙す白人たちは現代の感覚からすれば文字通り悪人であるが、当時なら不思議でない(これが正当化できるという意味でない)行動である。白人ばかり悪者にすると制作当時の観客に評判が悪いのでジェロニモたちという悪いインディアンを登場させている。これも白人を信用しない好戦的な者ということである。

この後インディアンを悪として描き成敗する西部劇は作りにくくなった。当然といえば当然であるがそこに至るまでの一つの里程標ということであろう。

2015年2月7日土曜日

八荒流騎隊 昭和36年

工藤栄一監督、市川右太衛門主演の白黒映画。


右太衛門の一族が支配する信州の某郷。その末弟(河原崎長一郎)が江戸から帰ってくる。次男(東千代之介)は末弟が江戸で軟弱になっていないか早速試す。このあたりの悪代官(平幹二朗)は他の豪族をけしかけて右太衛門一族を亡き者にしようとしている。また彼は養女にした江戸女で末弟を誑し込み、一族の屋敷の構造まで聞き出す。騙されたと気がついた末弟は代官に捕らえられる。
末弟を股裂きの刑に処するとして一族をおびき出す。一族を裏切った末弟を助ける気はないと右太衛門は言い放つ。一族の者は助けに駆けつける。その中には右太衛門もいた

かなりダイナミックな見せ場がある時代劇であり、見ごたえ十分である。
ただこの筋、ゴーゴリの『隊長ブーリバ』を思い出した。町へ行って軟弱になったかと思われる息子と殴り合う父ブーリバは、次男と末弟の戦いに変えられている。末弟が女に恋して裏切るのもその同じ。ただし最後の展開は違う。

2015年2月4日水曜日

神坂四郎の犯罪 昭和23年

石川達三の小説、またこれを原作とした久松静児監督の白黒映画(昭和31年)。



ある雑誌編集者が横領及び心中未遂事件を起こす。その事件の法廷での陳述小説。陳述小説と言ったのは、全編法廷での各証人及び被告の陳述のみから成り立っているからである。即ち芥川の『藪の中』のスタイルを踏襲している。

主人公、雑誌編集者の神坂四郎はカネと女にだらしない男として描かれ、色々女と関係したあげく若い女との心中事件を起こし、女だけ死亡、自分が助かったので罪を問われているのである。

陳述は主人公を雑誌社に紹介した高名な評論家、部下の女の編集員、主人公の妻、主人公と関係していた歌手の女の証人と続き、死んだ女の日記が読まれる。最後に被告神坂四郎の陳述で終わる。

各人が自分勝手にというか自分の解釈を述べ、お互いに大きく違った印象を与えるような証言をする。要するにこれも『藪の中』同様に真実は闇の中ということであるが、そもそも真実自体があるのかという投げかけになっている。

この作品を元に久松静児監督が森繁久弥主演で映画を撮った。かなり原作に忠実である。題名は映画では神坂でなく神阪となっている。

映画では陳述で述べられる回想の場面が多くなってくる。結構有名な俳優が演じている。評論家は滝沢修、妻は新珠三千代、死んだ女は左幸子、歌手の女は轟夕起子、もうこの頃から随分太っている。主人公の森繁は強烈なイメージがあるせいかどうもこの役、まだ若い頃だが抵抗を感じるというか、中途半端な印象をもった。

後それから証言で「今日私が申し述べました真相は、あるいは大部分嘘であるかもしれません」とか「人間社会においては〔真相らしきもの〕が、即ち〔真相〕でありますから」などと言うのである。被告が証言でこんなこと言うか。活字で読んでいる分は何とも思わなかったが、映画で生身の人間が演じている被告の証言としては抵抗があった。元の小説は陳述のみで構成されているから作者の主張を代わりにさせたとはわかっているのだが。

2015年2月2日月曜日

任侠中仙道 昭和35年

片岡知恵蔵主演の次郎長もの、松田定次監督による総天然色映画。



この映画の特色は市川右太衛門が国定忠治で出てくるのである。しかも他の両雄出演の映画のようにどちらかはほんの少しだけ出演でなく、二人とも結構尺をとっているのである。

話の筋は忠治一家が信州へ行き、そこから米を不作の上州へ送り出す、その手助けを次郎長一家がするというものである。次郎長一家が錦之助の家で草鞋を脱ぐ。しかし錦之助は無類の博打好きで逆に次郎長一家の着物まで博打のかたに入れ、裸姿で旅立つという有様。次に大友柳太朗一家に泊まる。忠治一家は上州へ送る資金稼ぎのため賭場を荒らし金を奪っていた。新藤英太郎演じる悪のやくざは上州から娘を売りきている月形龍之介とつるむ。月形の奸計で忠治の名を騙って大友を斬る。次郎長は忠治に挑む。1対1で両雄は対峙する。この後誤解が解け米を上州へ運送する。しかし上州へ入ってから悪代官や月形らに奪われ、これを奪還に駆けつける忠治一家。更に大友の敵討ちとして次郎長一家も助けに馳せ参じ、立ち回りとなる。

次郎長と忠治の対決、協力とか正直考えると噴飯ものである。しかしながら東映の知恵蔵、右太衛門という二大俳優の配役であり誰も文句言えない。
 
次郎長を助ける大友が殺されるのは『任侠清水港』と同じだし、月形の陰謀で騙そうとするのは『風流使者天下無双の剣』と同じである。ネタの使い回しとか気にしない。ともかくスターの共演を楽しむ映画である。この年の正月映画で同年の邦画配収第一位だったそうである。

風流使者天下無双の剣 昭和34年

市川右太衛門主演、松田定次監督による総天然色映画。



これもオールスター映画であり、沢山の有名俳優が出てくる。大筋は月形龍之介演じる黒幕が天下を覆そうとし、それを阻止する右太衛門、大友柳太朗。大川橋蔵も若衆姿で活躍するなど盛り沢山の内容である。悪人は月形一人で後は善人なので月形が目立ってしまう。
 
なんとなくパロディ的な要素もある。月形は黄門姿で参上、その付き人二人のうち一人が若山富三郎で悪の黄門月形に愛想をつかす。橋蔵は他の映画でよく錦之助がやっていた役である。大友は師匠が右太衛門に殺されたと思い復讐しようとする。これは月形の陰謀であった。何しろ右太衛門は白頭巾白装束で白馬にまたがるというあまりに目立つ格好。いつもの通り鷹揚に構えて、それが主演の風格かもしれないが全体として月形の方に印象が残ると思う。その月形と右太衛門が構え合う場面があって、この緊張感だけでも映画の価値はあったのだろう。

色々文句のようなこと書いたがこれはこの映画が面白く、見る価値があり見るべきと思ったからである。

花笠若衆 昭和33年

美空ひばり主演、佐伯清監督による総天然色映画。


落胤譚と男装の美人の組み合わせ。主人公のひばりは某藩の姫なのだが生誕後、町人として育ち男のなりをしている、という設定。

町衆が花魁道中の見物をしている。町娘に難癖をつける旗本たちがいた。そこへ飛び込んだのがひばり扮するいなせな若者。この闘いに若侍(大川橋蔵)が助太刀した。手出しは無用と返答するひばり。
 
その頃ひばりの家に武家二人が訪れ、父の大河内傅次郎が対応する。武家たちの要求は18年前、但馬の某藩から連れ出した双子の姉姫のありかを聞き出すこと。大河内は娘は死んだと答える。武家の狙いは姫そのものよりむしろ殿が書いたお墨付きの入手である。つまりお墨付きによって偽姫をたて、藩の乗っ取りを企む悪家老の計画であった。国元では江戸の姫捜しの動きに対応して、妹姫(ひばりの二役)の婚約者である江戸在住の橋蔵に調べさせることとした。ひばりは大河内から自分の素性を聞き驚く。大河内は留守中にやくざ旗本に殺されお墨付きを奪われる。
 
父を殺されたひばりは復讐のため橋蔵と国元へ向かう。その一行を落石により亡き者にしたと思い込んだ。城では偽姫を殿に紹介しお墨付きを見せ相続の了解を得た。その時、ひばり、橋蔵が現れ悪事を暴く。立ち回りになり悪人供を成敗したが、ひばりは妹姫に城主を譲り以前の生活へ戻る。江戸の祭りで威勢よく景気をつけるひばりを見守る橋蔵と妹姫。

ひばりが18年間男として育てられて、周囲は誰も気付かなかったのか不思議だが野暮なことを言ってもしょうがない。
最後の城での立ち回りで悪家老の指示によって、城主、橋蔵、ひばりを倒そうとする家来たち。多くは逆にやられてしまう。ただ悪家老という上司の言いつけ通りやって沢山殺されてしまうのは不条理でないか。時代劇を見るとそう思うものが多い。当時の観客は気にならなかったのだろうか。
野暮な意見は置いておいて、ひばりと橋蔵という当時の人気スターを堪能できる映画である。