2022年1月31日月曜日

高城重躬『音の遍歴』 共同通信社 昭和49年

我が国のオーディオ発展に寄与したことで知られる、評論家の高城重躬による著書である。その自宅のスピーカー{コンクリート・ホーン}で知られている。

今評論家と書いたが職業は高校の教師、校長であり、自らピアノをよくした。自宅でピアノ演奏その他の音を録音し、それを再生して元の原音と比較していた。オーディオ再生で原音に忠実であるべきとの論が以前は特に多かった。しかしながら、LPCDを再生してどれだけ原音に忠実かどうか、元の音を知らないから何とも言いようがないではないか。こういった論者はオーディオで「作った音」はけしからんという意見を持っていたように思われる。しかしながらオーディオ装置から出た音が、こちらとあちらでどちらが原音に近いと、どういった判定をしていたのだろうか。それに対して高城重躬氏は自分で録音した音を自分が弾いた実際のピアノの音を比較するのだから良く分かる。

本書では音楽をオーディオで鑑賞する際の色々な論点や、興味深い話題が多い。ともかく著者の本はためになる、勉強になると思わせる。

2022年1月30日日曜日

幸福~しあわせ~ Le Bonheur 1964

アニエス・ヴァルダ監督、仏、80分。

若い夫婦、二人の幼い子供がいて幸せである。男は大工である。郵便局に行った時、窓口の若い女を知る。好きになり、相手からも好かれる。関係を持つ。男は女に自分に家族がいると話す。女は了承する。家族でピクニックに行った際、男は妻に秘密を持つのは嫌だと言って、自分が他の女と関係していると告げる。野原で寝た後、起きてみると妻はいない。捜すと池で死んでいるのを見つけた。後に男は関係を持っている女と話す。結婚して欲しいと頼む。子供たちも女になつき、幸せな将来が待っていそうである。

赤ずきんちゃん気をつけて 昭和45年

森谷司郎監督、東宝、89分。

庄司薫の原作も話題になったが、本映画では後に東映の会長となる岡田裕介が主演をしていて、若者の心理を時代の中で描いている。東大の入試が中止になった年、主人公は日比谷高校の高校生である。足にけがをする。その痛い足で外に出る。恋人がいる。醒めた関係に見える。医者に行き女医に妄想を抱く。自分の生き方に疑問を持つが、何をどうしていいか分からない。友人が来て何やら思想、思弁を一席ぶつ。主人公は大学受験自体やめることにした。

若い者の焦燥感と無気力が、当時を背景として描かれている映画である。

放課後 昭和48年

森谷司郎監督、東宝、89分。

思春期にある若い娘の、年上の男への憧れや同世代との付き合いを描いている。主人公を演じる栗田ひろみは知りあいの若い夫婦の男の方が、別の女と一緒にいるところを友人らと目撃する。相手の女は同級生の姉である。その同級生はかっこよくて女生徒の憧れの的である。男の妻に旦那が女と一緒にいたと知らせる。妻の方は気になって、その一緒にいた女が経営している喫茶店に行ったりする。栗田は夫婦の男に関心があるようで、その家に行って世話などをする。更に妻に疑いを深めさせるため、男のポケットに喫茶店のマッチを忍ばせる。妻が見つけ夫婦の口論の元になる。妻はどこかに行っていなくなる。男の方は転勤が決まり、その支度を栗田は手伝っている。妻は帰って来て元の鞘に収まる。夫婦を撹乱させようとした栗田の目論見は失敗し、また同級生の男にも別件で叱られる。

子供と大人の中間にある少女の年上への関心といえば、原田康子の『挽歌』を思い出す。ここの映画は劇的な終末でなく、もっと現実的な終わり方で余計身近に感じられる。音楽に当時新曲だった井上陽水が使われていて、懐かしい映画になっている。

月光仮面(昭和33年)、同絶海の死斗(昭和33年)

小林恒夫監督、東映、(月光仮面、51分)(絶海の死斗、51分)、白黒映画。

テレビで絶大な人気を得た月光仮面シリーズの映画化である。この2作はどくろ仮面が悪役で前後篇になっている。配役はテレビ版と異なっている。

日本の科学者が新型爆弾を発明した。その爆弾の秘密を奪おうとするどくろ仮面一味との対決を描く。月光仮面の初登場であり、知らない者たちに名のる場面がある。科学者には娘がいてそれを誘拐しようとするなど、たいていの活劇物に出てくる要素が次々とみられる。月光仮面が敵方の手下に化けてどくろ仮面に泡を吹かすなどである。月光仮面の登場はご都合主義もいいところで、理屈で考えたら不可能でも現れてくる。これも少年向きの映画ならおなじみであろう。難しい理屈を言わずに楽しむ映画である。

2022年1月23日日曜日

Dance with me 令和元年

矢口史靖監督、103分、ミュージカル映画、三吉彩花主演。

OLの三吉は子供の時の学芸会で、ミュージカルが踊れなかったため、トラウマを持つ。姪の世話を頼まれた三吉は無料券があった遊園地に連れて行く。そこで催眠術をかける魔術師に会う。魔術師が姪にかけた、踊れるようになる催眠術に三吉もかかってしまう。その後、音楽が鳴ると踊り出すようになる。その部分がミュージカルの踊りになる。
会社でもレストランでも音楽が鳴って踊り出す。困った三吉は医者に行って相談する。医者はかけた魔術師に催眠術を解いてもらえばよいと答える。三吉が遊園地に行くと魔術師は夜逃げをしていた。そこで魔術師のさくらをしていた女に会う。女も手伝いをしていたが金を貰っていない。三吉と女は、女の運転する車に乗って魔術師を追い、日本を北へ向かう。
最後に三吉は催眠術を解いてもらうが、踊りに目覚め女と一緒に踊り始める。

2022年1月22日土曜日

月光仮面 昭和56年

澤田幸弘監督、107分。

かつて昭和30年代初頭、テレビで爆発的な人気を呼んだ、『月光仮面』を四半世紀後に再映画化したもの。この映画製作自体も今からすれば、40年前になる。それで映画に現れる昭和50年代半ばの風景は懐かしい。さてこの映画では元の月光仮面と設定が異なり、祝十郎もその探偵事務所も出てこない。月光仮面の正体が誰かはほとんど映画の進行に関係ない。この映画の悪役はどくろ仮面という一味で、その実態は新興宗教団体である。今みるとオウム真理教を思い出すだろう。新興宗教は昔からあり、それが問題を引き起こす悪役となる映画は他にマルサの女シリーズにもあった。このどくろ仮面の首領、宗教団体の教祖に従っていた連中は結局教祖に騙されていたと後になって分かる。余計な信者たちを殺そうとする話は、当時なら外国の事件だが人民寺院を思い出したろう。

どうせ単純な話なので気楽に観ていけばよく、むずかしい理屈をつける映画ではない。昔の月光仮面を知っている者からすると、月光仮面の黒眼鏡が全然違っており、違和感を覚えるが、再映画化だからしょうがないだろう。

2022年1月18日火曜日

小谷野敦『日本人のための世界史入門』新潮新書 2013

自分にとっての歴史の関心は、なぜそのような出来事が起きたか、後の歴史にどのような影響を与えたか、である。しかしながら出ている多くの歴史本は、過去の事実が並べられているだけに見える。過去の出来事それ自体に興味がある、知りたいという人向きで、自分には退屈である。

ところがこの小谷野の本では歴史の出来事などは偶然で起こったに過ぎない、だから歴史は事実を並べれば良いと宣言している。本書は歴史の事実だけを述べた本で、そういう意味では今までの歴史本の延長か。しかしながら本書を読めばそういう気は起きない。

現在の歴史本が事実の列挙を基本とするのは、かつて支配的だったマルクス主義の歴史理解に対する反発の要素がありはしないか。マルクス主義歴史理解のように歴史に大法則があるなどとは愚の骨頂で、かつてこんな馬鹿馬鹿しい考えが支配的だったとは信じられないくらいである。イデオロギーによる歴史理解というか断罪は論外だが、歴史は事実だけでは記述できない。そもそもどんな事実をとりあげるか、それをどう記述するかには何らかの世界観、価値観が必要だからである。事実だけ述べればよいなら、年表だけにすればよい。

その証拠に本書は著者の価値観が大きく出ているから、普通の歴史本と違うし、面白く(著者の意見に賛成か反対かは別として)読めるわけである。入門とあるのは、今の若者は歴史を全く知らず、そういう者向けに書いた、の意であろう。それにしても本書には著者の雑学の披露が多く役に立つ物もあろうが今更の文も多い。これまた入門だからというわけであろう。

2022年1月16日日曜日

狂っちゃいないぜ Pushing Tin 1999

ニューウェル監督、米、124分。ジョン・キューザック主演。

ニューヨークで航空管制官をしているキューザックは仕事を楽しみ打ち込んでいた。そこへビリー・ボブ・ソーントンが転勤してくる。一風変わっており、以前の管制官経験ではずいぶん伝説を残している。仲間うちのパーティにソーントンの妻が来た。アンジェリーナ・ジョリーが演じる。みんな他の管制官たちはその魅力に驚いた。
ある日スーパーでジョリーが泣いているところを見かけたキューザックは話を聞き、家まで送る。それから別れようとしたが、家に入りこみジョリーと関係を持つ。

後にキューザックは妻(ケイト・ブランシェット)とレストランに来た時、ソーントンとジョリーの夫婦に出くわす。避けようとしたキューザックだったが、後からジョリーから夫に話したと聞かされ、仰天する。後悔するキューザックは他人に攻撃的になる。
ソーントンに対してもそうだし、妻ともうまく行かなくなる。妻の父親の葬儀に共に行った帰り、飛行機が乱気流で揺れる。すっかりソーントンが管制室で悪さをしていると思い込む。着陸後、管制室に行きソーントンに乱暴をふるう。あまりにキューザックの言動が異常なので、ブランシェットも気が付き、問い詰め真相を知る。ブランシェットは絶望し子供を連れて去ると言い出す。ソーントンも辞めて田舎に行く。

すっかり精神の参ったキューザックは航空管制でへまをやり、二度ももう少しで飛行機同士の衝突を引き起こしそうになる。キューザックはソーントンを追いかけて田舎に行く。会ってから男同士の分かり合いになる。最後には別れようとするブランシェットを管制官室から飛行機上に呼びかけ、元に戻ってくれるよう頼む。

2022年1月12日水曜日

キャタピラー 平成22年

若松孝二監督、87分、戦争で不具者になった軍人の帰郷してからを描く。江戸川乱歩の『芋虫』が基になっている。題名のキャタピラーは芋虫の意味。戦車や建設機械の無限軌道をキャタピラーという場合もあるが、これは外国の会社の名前が転用されている。

日中戦争で出征した兵士。映画は中国の戦場から始まる。燃えさかる中、女を追いかけている兵士。女を暴行したが火事により自分は不具者となったようだ。帰郷する。その姿を見て妻は絶句する。両手両足がない達磨状で、さらに火事で顔の一部は焼け爛れ、耳は聞こえず発声もできない。しかしながら勲章を受け、生きた軍神と祭り上げられる。
妻はそんな夫を世話するしかない。リヤカーに芋虫あるいは達磨状の夫を乗せ、外に出る。みんな軍神に敬礼する。
夫は出征前、妻を石女と罵り、暴力をふるっていたのだ。芋虫となった夫に尽くしてきたが、その記憶が蘇れば今や妻は夫を虐待できる。最後には夫は庭の水溜りまで這っていき、落ちて死ぬ。ちょうど終戦となった時だった。

2022年1月9日日曜日

五味康祐『いい音いい音楽』中公文庫 2010

オーディオ好きには懐かしい小説家、五味康祐のオーディオ論、音楽論である。本書の過半を占める「一刀斎オーディオを語る」は読売新聞に昭和533月から5411月まで連載された。五味の絶筆である。翌55年初め亡くなっている。残りは音楽論、オーディオ論である。最後に五味の令嬢による父への思い出の文がある。

この五味の残した最後の連載を読んで驚いた。当時、FM放送は音楽ファンにとって重要な音源であった。多くはエア・チェックと称してFMで放送される音楽をカセットテープに録音していた。そのFM放送と、いかに録音すべきかについて延々と五味は書いているのである。カセットテープへの録音ではない。オープンリールの2トラックを利用した。レコード代を浮かすための録音でもない。バイロイトでのワーグナーの演奏の放送をしていた。その録音である。

しかしそれにしても、最高級品のオーディオ機器を鳴らして、一般人には及びもつかぬ高音質の音楽を聴いていたと思っていた五味が我々と同様、エアチェックである。随分、細かい点までこうすればよいという忠告が書いてある。今では完全に時代遅れで何も役に立たない情報である。懐かしく思う人がいるかもしれないが。拍子抜けするかもしれないし、自分たちと身近に感じられるかもしれない。

五味康祐『オーディオ巡礼』 1980年ステレオ・サウンド社

著者はオーディオ好きで知られた剣豪小説家。その五味が雑誌「ステレオ・サウンド」誌に載せた記事が主である。発表は1966年から1979年に及ぶ。五味はオーディオでは英国製タンノイのスピーカーを大いに持ち上げ、自ら所有する大型のオートグラフをクラシック鑑賞用の最上のスピーカーと喧伝した。反面、米国製のオーディオ機器はジャズ用として退けた。

本書はその五味のオーディオ論、クラシック音楽鑑賞論を集めている。本書の文章の幾つかは掲載当時、「ステレオサウンド」誌で読んだ。そのため懐かしい。ただ残念なのは、写真が載せられていない。当時、記事と共に掲載された写真は良く覚えている。オーディオ装置が訪問した先の人物と共に載っていた。「オーディオ巡礼」とは、オーディオ好きの宅に訪問し、その装置について五味があれこれ感想を述べた記事だった。ここには巡礼以外の音楽等論議も収録されている。

当時オーディオ評論家として名高かった山中敬三、瀬川冬樹、菅野沖彦、上杉佳郎への訪問記事は収録されていない。面白くて覚えているのは上杉の記事である。当時、上杉はコンデンサースピーカーKLH9を片側2台ずつ使っていた。そのKLHを五味はインディアンの音と評した。KLH9は実物を見たことが一度もなく、結構聴いてみたいスピーカーだったので余計印象に残っている。

2022年1月6日木曜日

マンハッタン Manhattan 1979

ウッディ・アレン監督、米、96分。

中年男のウッディ・アレンが主人公、恋人を十代のマリエル・ヘミングウェイが演じる。アレンの友人の教師は妻帯だが、好きな編集者の女がいた。その女はインテリ臭く、アレンと議論をする。
アレンの別れた元妻をメリル・ストリープが演じ、かつての夫婦生活を本にして出すというのでアレンは止めてくれと頼む。
アレンの恋人ヘミングウェイはロンドンに演劇の勉強しに行きたいと思っている。アレンは十代といつまでも付き合えないし、留学を勧める。相手はアレンに未練があると言う。友人は好きな女と一緒になりたいため、アレンに自分の妻を勧める。しばらく経ってからやはり友人は編集者の女が鼻につき、妻が良かったと再確認する。編集者の女と別れる。アレンは友人の妻と、ヘミングウェイと別れた後に付き合うつもりでいたが、この妻も夫である教師がいいと言い出す。
友人夫婦は元に収まるが、振られたアレンはヘミングウェイがやはり良かったと思い、家に急ぐ。ロンドンへの留学に向けて旅立つところだった。アレンは行ってくれるなと頼みこむ。ヘミングウェイは呆れるが、また6ヶ月後には戻ってくるからと答える。

アメリカの友人 Der Amerikanische Freund 1977

ヴィム・ヴェンダース監督、西独、仏、128分。

ドイツのハンブルク、アメリカ人のデニス・ホッパーは絵のオークションで偽の絵を描いている額縁職人を知る。後にその職人を訪ね、額縁の注文をする。フランス人の殺し屋がいてホッパーと知りあいである。この殺し屋は職人に殺しを頼む。高額の報酬を出すと。職人は相手にしない。するとフランス人は、お前は不治の病で先がない。妻子のためにお金を残しておくべきと告げる。驚いた職人はかかりつけ医のところに行くが大丈夫と言われるだけである。
疑心暗鬼の職人はパリの医者に診てもらうと言ってパリに行き、そこで頼まれた殺人をする。戻って来てまたフランス人から別の殺人を依頼される。嫌がっていたが結局、南独に行く。職人と友人になっていたホッパーは後からつけていき、殺人の手助けをする。後にフランス人に会って自分も行ったと告げるとそれは良くない、消されると言われる。
ホッパーと職人のいるところへ悪人どもがやって来て殺そうとする。二人は悪人どもを片付ける。海に行って死体を処理しようとした。後から職人の妻が追いかけてくる。職人と妻はホッパーを残して車で去るが、職人は発作を起こして倒れる。

2022年1月4日火曜日

日本人の勲章 Bad day at Black rock 1955

ジョン・スタージェス監督、米、81分、総天然色、スペイサー・トレイシー主演。

西部の、家がまばらにしか建っていないような田舎で、トレイシーは列車を下りる。町の者たちは胡散臭げな眼付である。旅館を訪ねても、そこで町の者たちは悪意ある態度で接してくる。特にトレイシーが訪ねてきたのは、日系人のコマコに会うためと分かると町民たちの悪意は最高に達する。
真珠湾攻撃その他をした極悪の人間だと日本人をけなす。町を仕切っているボスは自分が真珠湾の後、志願したのに戦争に行けなかった。余計に日本人を憎み、徹底的にトレイシーを妨害するどころか、亡き者にしようとする。

さすがにそれまでできるだけ紳士的に振る舞ってきたトレイシーも防衛のため、ボスとその同調者に手向かう。ボスの言いなりになってきた町の者たちも微力ながら協力する。ボス一味とトレイシー派の戦いは最後にトレイシーが勝つ。
トレイシーがやって来たのは、自分が日系軍人に助けられたためであり、助けた軍人は死んだ。その勲章を父親コマコに渡すためだった。父親は殺されていた。町の再建のため、トレイシーは町の者に勲章を渡してまた列車で去る。
邦題は日系軍人の勲章とした方がより正確であるが日本で売るための便宜であろう。

2022年1月3日月曜日

五味康祐『西方の音』中公文庫 2016

オーディオ好きで知られた剣豪小説家、五味康祐(1921~1980)のクラシック音楽及びオーディオについての著述を集めている。初出は1963年から1969年まで雑誌に連載した論考で、1969年に新潮社から出版された。

昔より有名な著である。オーディオ装置関連ではタンノイをクラシック音楽鑑賞用として最も相応しいスピーカーとした。これは日本人の標準的な認識となった。自ら所有する大型スピーカー、タンノイ、オートグラフの良さを吹聴し、オートグラフ神話を作った。

クラシックは単に愛好するにとどまらず、生き方そのものを追求する音楽だった。音楽や音楽家の序列を表明する。オーディオ装置では英国等欧州を評価する。アメリカ製はジャズ用でクラシック鑑賞には向かない野蛮な製品と断ずる。日本製は言うまでもなく遅れており評価にならない。ここで展開される断定調の文は個性的に見えながら、当時のクラシック愛好家の態度を表わしている。当時の日本のクラシック音楽に対する雰囲気を知りたければ本書を読めばよい。当時だけでなく、現代に通じるところがあるかもしれない。再刊されているのもそのせいだろう。

読んでいて懐かしい本である。断定調に書いてファンの意見を代表している。悪く言えば偏見独断の塊であるが、それ故に好まれているのだろう。