2022年7月29日金曜日

七つの弾丸 昭和34年

村山新治監督、東映、89分、白黒映画、三国連太郎主演。

三国が新橋の銀行前で銀行強盗をする計画を立てているところから映画は始まる。かつては新聞社に勤めていたが学歴詐称がばれそうになって辞める。神戸の友人を訪ねたところ不在で相手も失業中と分かる。炎天下を歩いているうち日射病にかかり派出所で寝ていた。隙を見て警官の拳銃を奪い取り銃撃して逃げる。この銃により他の土地で強盗を働く。これで金が入ったので顔見知りの女医といい仲になって豪勢な暮らしをしていたが金が尽きたので銀行強盗を企んでいた。

強盗に使う車を調達するためタクシーに乗る。郊外に行きそこで車を奪うつもりだったが、運転手が逃げ出したので撃ち殺す。銀行前の派出所には田舎から出てきて昇進試験の勉強に余念のない警官がいた。そこに落し物があったと称し入り込み、その警官を部屋に閉じ込め射殺する。そのまま出て隣の銀行に殴り込みをかける。騒いで金を取ろうとしたとき、大金の袋が目につく。それを守ろうとした銀行員を射殺し、金を奪って逃げる。この銀行員は数年前、弟が神風タクシーに轢かれて亡くしており母と二人暮らしだった。婚約者がいて結婚するつもりだったが、母が結婚式を見栄で贅沢にするため田舎の財産を処分しようとするので言い合いになっていた。銀行から逃げた三国はタクシーに乗り銃を突き付けて逃走する。このタクシーの運転手(伊藤雄之助)は元々いい加減な男で、煙突タクシーで荒稼ぎをしてタクシー会社を渡り歩き、田舎に妻子がいるのに若い女と同棲していた。事故を起こして妻が助けてくれたので心を入れ替えるつもりだった。多くのパトカーが追いかける中、逃げるタクシーで運転手がごまかして動けないと言い出したので、この運転手も殺す。車から逃げ草叢で銃を撃つがもう弾がない。これで警官隊に逮捕される。

映画ではその1年先、三国が死刑になった頃、被害者たちの消息がある。二人の息子を亡くした母親は狂っていた。婚約者の銀行員を亡くした女は結婚相手を見つけていた。タクシーの運転手の妻は店で万引きをして捕まる。

映画の内容とほぼ同じ事件が映画製作の1年前に大阪の東海銀行支店で起きていた。それを基にした映画である。

2022年7月28日木曜日

甲賀三郎『蟇屋敷の殺人』   昭和13年

戦前の探偵小説家として名高い甲賀三郎の長篇小説。昭和13年に公表。そういう古い時代の小説であるから、江戸川乱歩の長篇探偵小説のような犯罪冒険小説である。

丸の内の工業俱楽部の前に停まっていた車を調べると運転手が殺されていた。山の手にある富豪の車である。警察が調べても、富豪は知らぬと言い張り捜査に協力的でない。その邸宅が別名蟇屋敷と呼ばれている。その主人の趣味で多くの蝦蟇を邸宅内で飼っているからである。黒岩涙香の『幽麗塔』に出てくる蜘蛛屋敷を思い出す。探偵小説家が出てくる。これが警察に協力しようとする。その蟇屋敷に秘書として働いているのが、旧知の若い女であった。これを知ると探偵小説家はすっかり女を守る騎士気取りで、つまり女への恋で目がくらんだ男になり果てる。小説では屋敷内で殺人が行なわれるとか、のっぺらぼうの怪人が出没するとか、奇怪な仕掛けが出て、謎は深まっていく。

最後の謎解きは今なら禁じ手を使っている。今の基準では推理小説とは言えない。先に書いたように戦前の小説ならではの雰囲気を楽しむ小説である。(河出文庫、2017

2022年7月26日火曜日

金門島にかける橋 昭和37年

松尾昭典監督、日台合作、107分、総天然色映画、石原裕次郎主演。

石原は医者役である。朝鮮動乱時、日本で負傷者の手当をしていた。その時、台湾からの若い女が男を訪ねてくる。石原がその男が死んだと知らせると女は失神する。後に女に好意を持つようになる。石原は自分が携わった手術で誤診により患者を死なせてしまったと認識しているが、病院側はそれを隠す。石原が真実を述べるので病院側も困り、自分から辞めると言い出す。その後石原はどこの病院でも採用されなかった。石原を好く蘆川いづみは製薬会社の社長の娘で、会社に石原が勤める病院を作らせようと言い出す。石原は断る。船医として勤務するようになる。昭和33年になる。この年、中国本土は台湾が支配する金門島を攻撃する。金門島は中国本土のすぐそばにあり、台湾独立以来台湾が支配してきたが、中国本土は奪うつもりでいる。石原の船がこの島に寄るとあの台湾人の女がいた。よりを戻す二人。台北には石原を慕う蘆川がはるばる来ていたが、石原は台湾人の女を好いており蘆川には冷たい。中国本土からの金門島砲撃が激しくなる。女が負傷したか、石原は女を抱く。砲撃の中に二人は見えなくなる。

金門島は常に本土からの攻撃にさらされてきたらしいが、この映画の舞台の昭和33年は特に攻撃が激しかった。今では成長した中国本土をそばに見て、本土からの観光客で成り立っているらしい。映画の時代と現代ではあまりに移り変わっている。映画の中の台湾人が今の金門島をみたらどう思うか。

ヴァン・ダイン『ドラゴン殺人事件』 The dragon murder case 1933

私立探偵ファイロ・ヴァンスが活躍するヴァン・ダインの推理小説第7作である。ヴァン・ダインの推理小説は中学時代から高校にかけて読んだ懐かしい作品である。当時、創元推理文庫の解説者がファイロ・ヴァンス物は最初の6編が傑作だが、残りの作品は駄作だと言わんばかりに書いてあった。それを読んで最初の6編しか若い時には読んでいない。ただ今思うと解説者はかなり偏ったというか、自分の好みを押し付ける風であり、大人になってから思うとあまり感心できない評論家である。

そのファイロ・ヴァンス物の第6作はかなり趣向が変わっており、一見怪奇風、空想風である。マンハッタンのはずれか、壮大な屋敷敷地で事件が起こる。そこにあるプールに飛び込んだ男が行方不明になってしまうのである。一体どこへ失せたか。この地には竜が住むという伝説があり、屋敷の老婦人は固く信じて疑わない。結局惨殺された死体が見つかる。しかもその後も同様の惨劇が繰り返されるのである。最終的な謎解きは一般的に推理小説がそうであるようにあまり現実的でない。謎が現実的でないと言ったら、ほとんどの推理小説があてはまるだろう。謎解きは他の推理小説と同様、感心しないが、ずいぶん変わった話の展開で飽きさせない。読む価値はある。(井上勇訳、創元推理文庫、1960年)

2022年7月23日土曜日

警視庁物語 行方不明 昭和39年

小西通雄監督、東映、57分、白黒映画。

警視庁で刑事たちがそばなど飯を食っている。主任のところに課長から電話がある。行ってみると課長の知り合いの皮革会社の部長からの依頼で、失踪した会社の技師を捜してもらえないかと。
刑事たちは下町の皮革会社の研究室に行く。二人がいなくなった晩、かなりの言い合いをしていたとか。元々仲が良くなかった。二人がいた部屋にあった白衣に血らしきものが付着している。工場内を捜索する。また家庭や妻などを訪ねる。失踪した二人のうち若い方が名前と学歴を詐称していたと分かる。大学時代の知り合いの名を使っていて、実際は中退だった。
一人がもう一方を殺して工場内の硫酸のタンクで溶かしていた。これに先立ち実際に硫酸で溶かせるのかと、室内で鼠を硫酸のフラスコに入れて溶かす実験をしてみる。かなり酸鼻な場面で今時の映画ではこんなものは映さないだろう。まだまだ鼠が家庭内でも良く見られた時代だからだろうか。ピンサロに行っても鼠が走っている場面が出てくる。最後は犯人を追って浅草の街の大捕物帖である。犯人は新世界ビルの屋上から身投げする。目前で自殺させてしまうという警察の大黒星で映画は終わる。
本作がシリーズ最終作である。あまりの失態にチームが解散を命じられ、もう作れなくなったのかと妄想してしまう。本シリーズは昭和31年から始まり、オリンピックのあった昭和39年までと昭和30年代、東京の高度成長期を描写しており、風景や風俗が映画の主役であると言いたくなる。

警視庁物語 自供 昭和39年

小西通雄監督、東映、58分、白黒映画。

下町の川、住民がごみを投棄している汚い川で行李詰めの死体があがった。中年男で死後一週間くらいという。被害者が馬券売りと分かる。血液銀行での売血の様子などが出てくる。満洲からの引揚者で、知り合いの女がいた。そこへ顔を出していたという。この被害者と知り合いだった女が警察に連れてこられ、白状する。娘がいる。やって来る男が嫌で友達の家に行っている。この男が被害者で、満洲時代の夫だった。金をせびりに来る。嫌がると娘に自分が父親だとばらすと脅かす。そこで争いになり、誤って男は角に頭をぶつけ、死んだ。女は行李に詰め、川に流した。娘が帰ってくる。自分はならず者の娘なのか。実は満洲時代に両親を亡くした赤ん坊を引き取ったのが娘で、死んだ男の子ではないと告げる。泣いて親子の体面。

このシリーズでは珍しくお涙頂戴の場面で終わる。ゆすりの先夫を殺してしまうのは、このシリーズの「19号埋立地」と同じ。

青空に踊る The Sky’s the Limit 1943

エドワード・H・グリフィス監督、米、89分、フレッド・アステア主演。

戦時なので、アステアは飛行機乗りで零戦を落としたとか自慢する。休暇で美人のジャーナリストを知る。徹底したストーカー行為と押しの強さで仲良くなる。もちろんダンスの場面もある。アステアは自分の身分を隠しているので相手の女は仕事を紹介してやろうと自分の会社の社長を紹介したり、飛行機会社のパーティに連れ出したりする。映画ならではの展開で社長と意気投合し、美人と結婚したいと思っている社長に恋愛指南をする。おきまりに最後で身分を明かし、アステアは飛行機で去っていく。

戦時の映画はアメリカでは国民を楽しませる、勇気づける映画を作ってこれもその一つ。やたらと観る者に我慢せよと説教調の映画ばかり作っていた日本の戦時映画と大きく違っている。それでも戦後の日本の映画は世界でも高く評価される映画を多く作った。戦時の映画の評価との断絶はどう理解すればいいのだろうか。

イースターパレード Easter Parade 1948

チャールズ・ウォルターズ監督、米、107分、総天然色、アステア、ガーランド出演。

フレッド・アステアの相方の女踊り子がもう独立したいと言い出す。アステアと言い争いになり、アステアは誰でも相手方にさせてみせると言い、その時レストランで踊っていた踊り子の一人、ジュディ・ガーランドを指す。女の相手方は去り、独立して名声を博す。アステアはガーランドを仕込む。アステアが未だにかつての相方を重要視していると思っているガーランドは悲しむ。アステアはそうでないと教える。アステアとガーランドの二人の名が大きく出た劇場で二人は喝采を受ける。二人で約束してあったイースターパレードに出かける。

映画ではアステアと別れた女踊り子の見せ場も多く、決してアステアとガーランドがその踊り子を凌いで、目にもの見せてやると言った作りではない。女踊り子の踊りの方が普通に見て感心するようになっている。

2022年7月19日火曜日

警視庁物語 十代の足どり 昭和38年

佐藤肇監督、東映、58分、白黒映画。

多摩川べりで犬と戯れていた男が女高生の死体を見つける。靴跡が現場に残されていた。聞き込みを始める。被害者と縁があった若い男たちを調べていく。事件当日、被害者と歩いていた若い男を見かけた者がいる。モンタージュを作る。当初疑われていた男は白だった。
真面目な大学受験の浪人二人がいた。二人がアリバイを証明していたが、それは嘘と分かる。しかも友人の浪人のために嘘をついた学生の親は産婦人科医で、友人から頼まれて親を紹介したという。その産婦人科医に会ってみると、被害者の姉が妊娠の疑いで、浪人に連れてこられたと分かった。浪人はモンタージュそっくりでその靴は残されていたものと一致した。
浪人は被害者の姉と恋人同士で、妊娠したと思っていたのだ。浪人は妹に黙っていてくれと頼むために川べりに連れてきた。被害者は姉の妊娠を全く知らなくて、聞いたのでびっくりして親に告げるとわめいた。それで浪人は絞め殺してしまった。
被害者の姉は実は妊娠などしておらず想像していたと捜査で分かる。それを聞くと驚き頭が真っ白になる。犯人が警察で自供していた頃、電話がかかってくる。姉が自殺したと。姉は自分のせいで妹が殺され、更に妊娠などしていないと分かったので耐えられなくなり自殺したのである。

2022年7月18日月曜日

裸の重役 昭和39年

千葉泰樹監督、東宝、103分、総天然色、森繫久彌主演。

森繫は商事会社の部長で仕事一筋である。娘に星由里子がいる。父子二人の家族。星が好きな男は森繫の部下であるが、無能社員とみなされ𠮟り飛ばされている。星は積極的に男に接近する。星が森繫に結婚したい旨打ち明けると激怒する。有能な社員と結婚させるつもりだった。
森繫の部下で定年になる男を、知っている製作所に紹介し、そこに就職させた。この男と星の恋人は仲が良く、恋人もその製作所に移る。頑固で意志を曲げない星に折れて、森繫も星と男の結婚を許すようになる。
森繫はその後仕事がうまくいかなくなり会社内の立場が悪くなる。気落ちした森繫を慰める街の女と親しくなる。森繫は契約がとれず辞表を出す覚悟でいた。部下を紹介した製作所の社長が来て、森繫の相手の会社の重役を知っているので、紹介するという。そのおかげで契約をとれた。これで森繫の立場も好転した。

若草の頃 Meet in St. Louis 1944

ヴィンセント・ミネリ監督、米、112分、総天然色、ジュディ・ガーランド主演。

20世紀初頭のセントルイス。万博が開かれる数年前。ジュディ・ガーランドは何人もいる姉妹の一人。隣に引っ越してきた青年に関心を持つ。姉はニューヨークにいる恋人からの連絡を待っている。家でパーティが開かれ、お目当ての青年とも知り合いになれる。父親がニューヨークの支店長に栄転するという知らせを持って帰ってきた。ところが家じゅうみんながっかりする。セントルイスが好きで離れたくないからである。

やがて数年たちニューヨークに出発の前夜になる。引っ越しの用意は済んだ。ただ庭に作った雪だるまたちは持っていけない、そうガーランドが末の妹に言うと、妹は駆けだし夜の庭で次々と雪だるまを壊していく。持っていけないなら壊した方がましだと叫ぶ。
それを見ていた父親は考え、家族を居間に集める。ニューヨークに行くのはやめにし、ここに住み続けようと言いだす。みんな大喜びになる。
万博が開催される。それを見に行った家族らは感激し、ここにいれば何でも見られると言う。

警視庁物語 全国縦断捜査 昭和38年

飯塚増一監督、東映、82分、白黒映画。

暗い場所、男たちの陰、一人を殴りつけ火をつける場面から映画は始まる。黒焦げの死体を見ている刑事たち。現場にベルトのバックルが落ちていた。このバックルを探っていくうちに沖縄で作られたものと分かる。
刑事の一人が沖縄に飛ぶ。返還より9年前の沖縄、人々の口から当時の沖縄の状況が語られる。ここで作られた七つのバックルの一つらしい。このバックルの持主を洗っていく。
そのうち一人が四日市にいるというのでそこに行く。同じ名の男が東京にいたと分かる。犯人は他人の名をかたっている。人を殺し、犯人が被害者になりすましていたのである。
犯人の本名が分かり、秋田に調べに行く。貧しい生まれ故郷、そこでも女を騙すなど悪事を働いていた。八郎潟の干拓も映し出される。また新しい犯人の標的、殺して自分がなりすまそうとしている、が判明した。上野駅で犯人と待ち合わせる予定である。駅に刑事たちが張り込む。接触してきた犯人に躍りかかり捕まえる。
犯人の妻は産院で子供を出産している時だった。刑事たちが乗りこんで来るので不安になる。やがて自分の夫が連続殺人犯と分かり、取り乱して生まれたばかりの赤ん坊を絞め殺そうとするが、刑事たちに取り押さえられる。絶望にくれる母親を中原ひとみが演じる。

2022年7月16日土曜日

肉の蠟人形 House of wax 1953

アンドレ・ド・トス監督、米、85分、総天然色、元は立体映画。

蠟人形の作成に凝っている芸術家がいる。それへの出資者は早く資金を回収したいので、蠟人形の館に火をつけて保険金を取ろうとする。芸術家は止めるが、火が蠟人形館に回る。芸術家自身も炎に包まれる。

後年、放火した男は何者かに殺される。蠟人形の館を再建し、あの芸術家が出てくる。若い女が殺された。帰って来た同室の女はまだ犯人が部屋にいるので、恐怖で逃げ出す。後を追う犯人。何とか女は逃げおおせた。殺された女の死体が紛失する。蠟人形の館の開館に女は行く。そこに飾ってあるジャンヌ・ダルクの蠟人形が殺された友人にそっくりで驚く。警察に調べてもらう。芸術家は手が火事で爛れたので助手を雇っている。そのうち一人が元囚人と分かった。捕まえて蠟人形館の秘密を聞きだそうとする。
女が単身蠟人形館に乗りこむ。芸術家に掴まってマリー・アントワネットの蝋人形にされそうになる。この後は定型的展開。間一髪で助かる。
その時は服を脱がされていたとなっており、観客に対するサービスの一つのつもりか。

2022年7月15日金曜日

悪魔の手 La main du diable 1943

モーリス・ターナー監督、仏、78分。

修道院を改築したホテルに夜、おかしな男がやって来る。包みを離さない。この辺りに墓地はないかと聞く。拳銃の音がして警官が乗りこんで来る。停電の時に、男が持っていた包みがなくなった。ホテルの客たちは男から過去の事情を聞く。

男は画家であまり売れなかった。恋人が見切りをつけて行ってしまったレストランで、店主から不思議な話を聞く。あるお守りがある。これを1スーで買わないか、そうすれば何でも望みが叶う。ただ死ぬまで他人に売りつけないと永遠の苦しみを味わうようになると。男はあまり考えずに承諾する。すると店主の左手が切断され、無くなった。そのお守りの包みを開けると切断された左手が入っていた。男はたちまち売れっ子になって巨額の富を得る。恋人も戻ってきた。しかしお守りを売りつけないといけない。悪魔が現れる。自分に金を出して、お守りを引き取らせよと言う。ただし才能は無くなり元の貧乏人に戻る。毎日、引き取り金額は倍増する。躊躇しているうちにお守りを手放すのに必要な金額は膨れ上がる。全財産でも賄いきれない。恋人が金を工面したと連絡がある。しかしその恋人は死んだ。画家は元々、このお守りはどこから来たのか調べる。自分より前の持主が勢揃いする。最初は中世の坊主であった。その死後、左手を悪魔が切り取って売りつけていたのである。坊主は自分の墓に左手を戻してくれるよう頼む。

映画の冒頭、画家は坊主の墓を捜して、この修道院に来たのである。悪魔がお守りを盗んで逃走した。画家は追いかける。廃墟の塀の上から落ちて死ぬ。落ちた所が坊主の墓だった。これで左手は元の持主に帰った。

2022年7月14日木曜日

アトランティスのこころ Hearts in Atlantis 2001

スコット・ヒックス監督、米、101分、アンソニー・ホプキンス主演。

1960年、子供の頃。少年の家は母子家庭で豊かでない。母親は自分勝手であまり子供を顧みない。この家にアンソニー・ホプキンスが下宿としてやって来る。少年は老人のホプキンスと仲良くなる。好きな女の子との付き合いやいじめっ子との対応にホプキンスは指導してやる。何か超常的な能力を持っているかのようである。母親はホプキンスを嫌う。
ホプキンスは少年に自分を付け狙っている者たちがいると言う。そのうちやって来るとも言う。ホプキンスはスポーツの富くじを買う。当たって大金を得る。その換金を自分を狙っている者らを避けるため、少年に頼む。少年が戻ってきた時、ホプキンスは男たちに車で連れ去られていくところだった。それ以来二度とホプキンスを見かけることはなかった。

2022年7月13日水曜日

警視庁物語 ウラ付け捜査 昭和38年

佐藤肇監督、東映、58分、白黒映画

警察の留置場で夜中にいきなり男が起きて騒ぎ出すという始まりである。過去の犯罪の悪夢にうなされたといい、迷宮入りになっていた女殺人死体遺棄事件の犯人だと自白する。刑事らはこの自白の信憑性を確かめるべく裏付け捜査を始める。

男を訊問するが被害者の女の下着など事実と異なる供述をする。刑事たちは他の事件を隠すため、嘘の自白ではないかと疑う。男は女の名はユキといい、盗品を2軒の質屋に持っていかせたと言う。質屋を調べる。ユキという名の女は来ていない。しかし別の同じ名の女が2軒とも来ていた。その女は美容院に勤めていて、後にその女の女中が名を借りたと分かる。この女中がユキであった。

また自供から金の指環をユキが持っていたと分かる。その指環は故郷の新潟の男からもらっていた。刑事二人が新潟に行く。指環を与えたのは地元の若い有力者であった。男はユキと結婚するつもりはなかったが、指環を与えたと言明する。これで被害者がユキと分かった。映画の最後はオートレース場脇の廃井戸の現場に容疑者と来て検証する。

監督が「吸血鬼ゴケミドロ」など恐怖映画系の監督で、これまでの実録路線よりおどろおどろしい出来になっている。

逃亡地帯 The Chase 1966

アーサー・ペン監督、米、134分、マーロン・ブランド主演。

刑務所から二人の男が脱獄する。一人がまだ有名になる前のロバート・レットフォードで、殺人を犯した仲間に置いてけぼりにされる。レットフォードは故郷の町を目指す。妻ジェーン・フォンダがいるからだ。
その故郷の町の保安官がマーロン・ブランドである。町の有力者がいて何でも自分が思うが儘になると思っている。その息子とレットフォードとフォンダは幼馴染であった。罪をかばってレットフォードが捕まったが、その間、フォンダと有力者の息子はいい仲になっていた。
脱獄したレットフォードが戻ってくるというので、町は戦々恐々としている。レットフォードは戻って来て隠れる。知り合いの黒人にフォンダのところに使いを出す。これがつかまり牢屋に入れられる。ブランドはことを穏便に済ませたいと思い、フォンダにレットフォードに自首するよう説得してくれと頼み、黒人に会わせ場所を聞きだしてもらう。息子も一緒に行く。ならず者と言っていいような町の乱暴者どもはブランドを殴り倒し、黒人を拷問にかけ、レットフォードの居場所を聞き出す。
ポンコツ車の置き場にレットフォードは隠れていて、フォンダと息子は来る。逃げる方法を話しているうちに町の連中の車が続々と押し寄せる。連中は置き場にガソリンをまき、火をつけてあちこちで爆破させる。この際に息子は崩れた車体の下になって大怪我をする。ブランドも来てレットフォードを逮捕し、息子は救急車で運ばせる。
保安官事務所にレットフォードをブランドが入れようとしていたところ、ならず者の一人が銃で撃ちレットフォードは斃れる。ブランドはならず者を殴る。
明くる日、有力者の家の前でフォンダは待っていたが、有力者が家から出てきて息子は死んだと告げる。ブランドは妻と共に町を去る。

プリズン・ランペイジ Last Rampage 2017

ドワイト・H・リトル監督、米、93分。

アメリカで1970年代に実際にあった事件の映画化。脱獄と殺人と逃走の果てに捕まるまで。父親が収容されている刑務所に子供たちが行く。隙をみて父親と子供たちは刑務所から逃げだす。父親の知り合いだった殺人囚も一緒だった。
メキシコを目指して逃げる。途中で車を奪うため、幼児を含む一家や新婚旅行中の若い者らを容赦なく殺していく。子供たちは父親の偉大さを長年教え込まれてきたため、そのつもりだったが、次第に父親の狂気に気づいていく。一緒の殺人囚が凶悪な男で人殺しを何とも思っていない。
さすがに警察の追跡で最後は捕まる。逃走中兄弟の一人は警察に銃殺される。父親は炎天下の砂漠をさまよい野垂れ死にする。

2022年7月12日火曜日

沼野雄司『現代音楽史』中公新書 2021

現代音楽史の本はあまりない。新書という形でその間隙を埋める本書は歓迎される。本書に『現代音楽史』とある(解説p.267)のは柴田南雄の『西洋音楽史 印象派以後』だろうが、これは現代音楽史の定番だったし、また吉田秀和の『20世紀の音楽』(岩波新書)も以前読んだ。いずれも20世紀半ばないし後半に書かれた20世紀前半の音楽を主な対象とする。だからまさに現代音楽を対象としていたのである。

しかし現在では20世紀前半など百年も昔である。現代音楽史は20世紀になってからの新様式の出現という一つの基準があり、それに則って本書も記述が始まる。ただストラヴィンスキーの『春の祭典』初演時のスキャンダルなど現在では誰でも知っており、またシェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番の初演も非難の嵐だったとは知っていた。どうせ書くのなら、なぜ当時スキャンダルになったかの理由を詳しく知りたい。もちろん従来の音楽と全く異なったものだったからという一般的な理由は分かるが、それ以外の当時の事情である。従来と異なっているからといって、いつもスキャンダルになるわけではない。ストラヴィンスキーもシェーンベルクも現代では完全にクラシック音楽として鑑賞されている。『春の祭典』など最も有名なクラシック音楽の一つとなっている。正直なところ、21世紀に書く現代音楽史は第二次世界大戦後の音楽を対象とすればいいのではないか。

更に本書では20世紀以降の音楽伝達媒体の発展が書いてあるが、技術の変化それ自体を書く必要はあるのだろうか。ピアノはモーツァルト、ベートーヴェン、それ以降進化していったが、音楽史にそんな事情が詳しく書いてあったか。

ファシズムが音楽に与えた影響が書いてある。つまり音楽が政治に翻弄された記録である。社会や政治の変動が主で、音楽はそれに対応して変わっていく、これが現代音楽の大きな特徴らしい。1968年という世界的に学生運動が高揚した年(ウッドストックは翌年)、これを重要年としている。何も知らない未成年の学生相手では現代史を話していればそれですむかもしれないが、音楽に重点を置いた話を聞きたく思う。面白いのは第7章で新ロマン主義とあらたなアカデミズムと題し、調性等の復活が書いてある。ちょっと聞くとこれが音楽?というのが現代音楽と思っていたが、やはり回帰はあるらしい。

この本を読もうとするのは現代音楽に関心がある者であろう。だからここにある中でもまず聴くべき現代音楽の傑作10選か20選くらい、その音源と共に載せて欲しかった。現代音楽だって音楽なら聴くものだろう、頭で理解するのではなく。

2022年7月10日日曜日

ハムスン『ヴィクトリア』 Victoria 1898

『飢え』で知られるノルウェイの作家クヌート・ハムスンの純愛小説。いわゆる身分違いの恋の悲劇を描く。青年ヨハンネスは粉屋の息子、ヴィクトリアは館に住む上流階級の娘であり、幼馴染であった。小さい時からお互いに好意を持っていた。長ずるに及んで、身分の違いがはっきり分かる。恋愛なら普通に見られる、お互い感情を隠して本心と違った言動を取る。

ヴィクトリアは財産が乏しくなっている家を助けるため、金持ちの青年と結婚してくれと父から頼まれる。これは後になって判明する事実。ヨハンネスは恋する男なら珍しくない、相手が自分を思ってくれないとすねた行動に出る。ヴィクトリアは不本意な男と婚約する。その相手は後に事故死する。その間、ヨハンネスは別の女と結婚の約束をする。相手がいなくなったヴィクトリアだが、ヨハンネスは婚約していると告げる。しかしそのヨハンネスの婚約相手の女も、心変わりして別の男と結婚する。ヨハンネスは作家として名を挙げる。ヴィクトリアと会っていなかったヨハンネスだが、ヴィクトリアが危篤だと聞かされる。更に死んだらヨハンネスに渡してくれというヴィクトリアからの手紙を受け取る。すなわちヴィクトリアは病死したのである。その遺書にはヨハンネスに対する恋情が綴ってあった。

現代ならまず誰も書かない小説である。しかし19世紀末のノルウェイの小説であるからそれで読む小説であろう。(富原眞弓訳、岩波文庫、2015年)

2022年7月3日日曜日

横溝正史『本陣殺人事件』 昭和21年

横溝が終戦の明くる年に発表した長篇推理小説。作者は昭和20年に岡山県吉備郡岡田村に疎開していたので、そこを舞台にしている。小説はまだ戦中の設定。江戸時代には参勤交代時に本陣となったという田舎の旧家で、長男が結婚式を挙げた。その夜、新郎新婦が惨殺された。犯人はどこから逃げたのか。日本家屋の密室殺人というので注目された小説である。

大人になって読み返してみると、あまりの設定の非現実さに呆れてしまう。このトリックを聞いて(或いは映画化されているので、視覚的に確かめて)現実に可能と思うか。推理小説好きはそういった現実可能性などは考えない。理屈が通っているか、だけが基準なのである。それで楽しんでいるのだろう。こんなトリックが実現するとは、毎年宝くじを1枚ずつ買ってそれが毎年1臆円以上当たる可能性より低い。

更に輪をかけてひどいのがその動機である。いくら戦前の田舎だからと言って殺人までするか。自殺までするか。しかもそれを芝居じみた、というより全く芝居にしてあっと驚かせようとするのである。更にご都合主義の極みになって協力する人間まで出して殺人が行なわれるのである。こんな子供だましについていける人は、超人的に忍耐力が強いのだろうか。子供か、今まで述べた仕組みを受け入れられる推理小説好きであろう。そういう推理小説好きでない者は対象外なのである。その対象外の者による感想である。

本作は昭和50年に映画化されている(高林陽一監督、中尾彬が金田一役)が、時代を撮影当時にしているので、犯罪動機について原作以上にくどく弁解的な説明をしている。さすがに映画作成者たちもこの動機にはついていけないと思ったのだろう。