2015年9月30日水曜日

警察日記 昭和30年

久松清児監督による白黒映画。

東北地方(会津地方)の警察署を舞台にした様々な人間模様。
田舎町の警察署だが結構色々な事件が起こる。それをこなしていく警官たち。

当時は高度成長が始まろうとしていた時期であり、まだ日本は貧しく、特に田舎はそうであった。高年齢層には懐かしさを覚える映画であろう。

淡々とした話は、やはり警察署を舞台にした米ワイラーの『探偵物語』(1951)のドラマチックな展開と対照的である。

穢れなき悪戯 Marcelino Pan y Vino 1955

スペイン映画、監督はハンガリー出身のバホダ(ハンガリー語読みではヴァイダ)、白黒映画である。

過去の修道院にまつわる伝説的な話。
修道院の前に赤子が捨てられていた。引き取って育ててくれる家庭が見つからない。修道僧たちによって育てられることとなった。

そのマルセリーノと名付けられた赤子が少年になる。親切な修道僧たちに囲まれているものの、やはり母を恋しく思う。

ある日入ることが禁じられている屋根裏部屋に上る。物置となっているが、キリストの像がある。誰もいないはずのその部屋で男の声が聞こえる。少年は会話をし、空腹であろうと思い、パンと葡萄酒を届けるようになる。何度も屋根裏部屋で会話を続けるうち、男は少年に何か希望があるか尋ねる。少年は母に会いたいと言う。
 
最後のところをみるとアナトール・フランスの『聖母と軽業師』を思い出した。

奇跡の人 The Miracle worker 1962

アーサー・ペン監督によるヘレン・ケラーの幼少期の物語。白黒映画。

主人公はサリバン女史、アン・バンクロフトが演じる。

有名な水を認識するまでのサリバン女史とヘレンとの「格闘」が描かれる。あまりに有名な話であるから、筋はわかっているのである。それでも感動的な映画であることは変わりなく、それは元々ヘレンの「めざめ」自体が劇的なものであるからか、あるいは演技や演出が優れているかのためか、区別できない。

サリバン女史の幼いころの悲劇が回想される。これがヘレンの躾を諦めない要因になっていることがわかる。

1950年代から1960年代のアメリカ映画は言葉通りに意味で感動的な古典が多く作られている。これもその一つ。

2015年9月8日火曜日

どん底 Les Bas-Fonds 1936

ゴーリキー原作の戯曲を元にしたルノワール監督の映画。

原作の人物を借りているものの、脚色によってかなり自由に制作している。

貧民向けの宿屋を舞台にした群像劇。原作では誰が主人公と呼ぶべきか不明だが、映画ではジャン・ギャバンとルイ・ジューヴェがはっきりとした中心人物である。ジャン・ギャバン扮する泥棒とジューヴェの男爵の交流が結構な割合を占める。原作では回想として語られる男爵の落ちぶれが映画ではまず描かれる。更にその男爵の家へ泥棒として入ったジャン・ギャバンがすっかり男爵と意気投合してしまい、男爵は差し押さえをくらった後、貧宿屋へ移る。

原作で大きな役を演じる巡礼ルカはその他大勢の一人の扱いである。ある意味、この劇のクライマックスとなる宿の主人が殺される場面は、原作と同様に映画でも大きい山場となっている。

なんといっても、この映画が原作の『どん底』と一番違うのは明るい。前向きに生きていこうとする姿が描かれていることである。最終場面などはチャップリンを真似たのかと思わせる。
フランスの名優ジャン・ギャバンとルイ・ジューヴェの共演が一番の売りかもしれない。

2015年9月5日土曜日

第九交響楽 Schlussakkord 1936

ドイツのデトレク・ジールク(ダグラス・サーク)監督によるメロドラマ。


ニューヨークの大晦日から話は始まる。公園で男の死体が見つかる。ドイツ人で彼の妻を捜しあてる。彼女は夫の自殺を驚かない。金額拐帯でドイツから米国へ逃げて来ていたのだ。愛する幼児を残して。

その頃ドイツで評価の高い指揮者による第九交響曲がラジオを通じて世界に放送される。この第九を聞いた妻は絶望から立ち直り、ドイツへ愛する幼児に会いに帰ることにする。

指揮者は夫婦仲が良くなかった。妻は夫が音楽に係りきりで自分は愛されていないと思っている。それを紛らわすため占星術師と浮気をしている。夫は妻との仲を取り戻すため養子をとることにした。友人が院長をしている孤児院で男の子を気に入り、養子にする。その子こそ米国に渡っていた夫婦がドイツに残してきた幼児であった。

米国からドイツへ戻った女は、孤児院へ我が子に会いに行く。しかし子供は既に養子に出され、幸せな生活をしていると言う。頼まれた院長は一計を考え、女を養子先には事情を隠して子供の世話係りとして住み込ませるよう計らう。

我が子に再会し世話ができて喜ぶ女。しかし真実を我が子に告げられない不幸。誠実な女に指揮者も心を寄せる。しかし指揮者の妻は夫が子供係りに気があると思い、偶然女の夫が犯罪者と知り、彼女を解雇する。
指揮者の留守中、女は自分の子を連れ出しに屋敷に忍び込む。その際に妻はかつてから縁のある占星術師に付きまとわれ心身とも衰弱していた。この偶然が事故というか不幸を引き起こす。

最終的には大団円で終わるものの、真実を隠してわが子の世話係りを務めるとかメロドラマにお約束の設定、現実にはあり得ないが映画では珍しくない偶然が続くなど、いかにも映画らしい映画を見た思いがした。発声映画以来、戦前までで映画のパターンが確立し、それが映画の枠組みとして頭にあることを再確認した。

2015年9月4日金曜日

仮面/ペルソナ Persona 1966

ベルイマン監督による白黒映画。

登場人物はほぼ二人の女性に限られるというかなり実験的な映画。

舞台女優(リブ・ウルマン)は失語症になる。彼女を世話する若い看護婦。この二人の場面が映画の大部分を占める。設定からわかるように喋るのは専ら看護婦。それもかなり饒舌に喋る。
病院でなく海辺の別荘で療養を続ける二人。看護婦が回想する少年との無軌道な行動。それを女優が医師への手紙に書く。看護婦は女優が信じられなくなる。

この映画を心理学的に解釈することも可能である。しかしそういった分析は映画の「正しい」理解を一つにしてしまい、あまり面白くない気がする。

無声映画を見ていると台詞がなくても映画の面白さは十分伝わると思うことしばしばである。この映画では全く逆に、あまりに饒舌な一方の語り。それがなくては何も成立しない映画と思った。