2022年2月28日月曜日

筒井康隆『最後の喫煙者』新潮文庫 平成14年

著者の自選ドタバタ傑作集である。中身は奇想天外な空想科学小説というべきか。短篇集で内容は次のとおり。

「急流」「問題外科」「最後の喫煙者」「老境のターザン」「こぶ天才」「ヤマザキ」「喪失の日」「平行世界」「万延元年のラグビー」

「急流」は時間の流れが速くなり、それが加速していく。やや理解が難しい。全員一斉に時間が速くなれば困らないはずだ。もちろん一日が以前の半分で終われば、新1日の時間は旧2日のそれに該当する。ところがこの短篇では、自分と他の人の流れが違うので混乱する様が書いてある。地球の回転が速くなれば物理的にも色々支障が出てくるだろう。この小説では人々が右往左往する様子が書いてある。
「問題外科」では外科医師のとんでもない行動が描かれ、残酷な仕上がりである。「最後の喫煙者」は喫煙が禁止迫害され、最後の喫煙者となった語り手。
「老境のターザン」は今や高齢者になりかつてのように飛び回れないターザン。観光客用の演技をしていた。それが目覚め、年寄りらしく強烈な意地悪になり、観光客を人喰い人種に提供する。
「こぶ天才」は背中にこぶをつけると天才になるというので、猫も杓子も子供にこぶをつけさせる、その顛末。「ヤマザキ」は明智光秀の本能寺の変の後、いかにして秀吉は休戦して帰ったかの歴史小説。タクシーや電車が出てくる。
「喪失の日」は童貞喪失を計画する会社員はどう行動したか。結果はどうなったか。「平行世界」はこの世界と同じ世界が平行して、段々畑のようにあると分かった。上の自分や下の自分と会える。
「万延元年のラグビー」は桜田門外の変で井伊直弼の首を討ち取ったが、別の屋敷が奪う。その争奪で直弼の首をラグビーのボールのように投げていき、自分らの物としようとする。

町山智浩『映画の見方がわかる本』洋泉社 2002年

映画評論家の町山氏が米の70年代映画の謎解きをした本。取り上げられている映画は「2001年宇宙の旅」「俺たちに明日はない」「卒業」「イージーライダー」「猿の惑星」「フレンチ・コネクション」「ダーティハリー」「時計じかけのオレンジ」「地獄の黙示録」「タクシードライバー」「ロッキー」「未知との遭遇」である。

このうち「2001年宇宙の旅」は昔読んで、意味不明だった映画の文字通り謎解きがしてあって、目が覚める思いをしたものだ。ただここに書いてあるように、キューブリックは最初凡て説明していた版から説明を取り去り、それで訳の分からないようにして、映画の価値を高めたようだ。それなら分からない、分からないと言って観る方が正解なのかもしれない。他の映画の説明も夫々面白い。「地獄の黙示録」の撮影の実際など特に面白かった。

鮎川哲也『完璧な犯罪』光文社文庫 2013

本格派の推理小説家として知られる著者の短篇集。次の8編を収録。

「小さな孔」「或る誤算」「錯誤」「憎い風」「わらべは見たり」「自負のアリバイ」「ライバル」「夜の演出」である。いずれも倒叙形式である。最後に種明かしがあるのでなく、犯人がどうして騙そうとしたかを述べる。完全犯罪を目指したが、あっけなく見破られる。中には推理小説を参考にして犯罪を練ったと書いてある物があるが、推理小説なんてつじつまさえ合っていればそれでよいという、現実的には非常識もいいところの犯罪が書いてあるのだから、失敗するのは当然と言えよう。正直、推理小説への揶揄で書いたのかと勘ぐってしまった。

「小さな孔」は小説家の夫を殺す女で、万年筆のインクが切れるのではないかというかなり凝った説明である。「或る誤算」は友人のせいで妻を失った男の復讐譚。アリバイのトリックなのだが、鳩時計に証拠が残っていたという話。「錯誤」はレコード会社の部長がライバルの歌手を蹴落とすために凝った殺人をする。しかし二冊の本のせいでばれる。「憎い風」は友人と買った宝籤が当たり、自分で独り占めするための殺人。停電で扇風機が止まっていて、アリバイつくりに失敗するという話。「わらべは見たり」は浮氣の相手と結婚するため妻を殺す亭主。浮気相手に妻と思わす偽の電話をかけさせ、アリバイを作ろうとする。その時電話で鳴っていた「野ばら」によってばれる。この作品は読んでいる途中、シューベルトとウェルナーの同名曲によるのではないかと思ったらその通りだった。音楽に関心があればたいてい思いつくだろう。「自負のアリバイ」は浮氣をしている褄を殺す亭主。3枚も同じレコードを買ってきてアリバイ作りをする。「ライバル」は正当防衛に見せかけ敵を殺す話で相手が隻眼と知らなかったのでばれる。「夜の演出」ではグータラで妻にたかっているだけの亭主を殺す妻はアリバイを作ったと思った。しかしながら金なし亭主は電気代未納でそのためにばれる。最後の2編はかなり短い。

本書で一番驚いたのは、解説の次の文である。

「・・・モーツァルトの歌曲「冬の旅」がひとつの・・・」(p.339)

「冬の旅」がモーツァルト作曲と思っている。この解説者も出版社の編集担当も全くクラシック音楽を聴かない人らしい。

ブルーベルベット Blue Velvet 1986

ディヴィッド・リンチ監督、米、121分。

大学から田舎に帰ってきた主人公は、草むらで切れた耳を発見する。知り合いの刑事のところに持っていく。後に経過が知りたくて訪ねるが、何も教えてくれない。その際、刑事の娘が親が話しているのが聞こえてきたといい、事情を教えてくれる。ある歌手の名が出たと。歌手がクラブで歌っている歌がブルーベルベットである。

工夫してそのアパートに忍び込む。探っているうちに本人が帰ってくる。慌てて衣装用の押し入れに隠れる。女に見つかり詰問される。女の様子は誘惑的である。その時、女の恋人のような男が来る。また女は主人公を押し入れに隠す。入ってきた中年男は女に異常な愛をする。幼児のようになって女に甘えるのである。実は女には夫と子供がいる。中年男はその二人を攫い、女を脅して愛にふけっているのである。中年男が帰った後、主人公も帰るが、また後日やってきて二人は愛人関係になる。

主人公が帰ろうとしたら、中年男が仲間と来て見つかり脅され、無理矢理女も含め、ドライブに連れ出される。着いた娼婦宿では女の子供らが匿われていた。それから更にドライブに行き、止まった場所で主人公は暴力を振るわれ、置き去りにされる。

後に主人公は中年男とその仲間を写真に撮る。刑事に見せると渋い顔をされる。そこには潜入捜査している仲間の刑事があったらからだ。刑事の娘とも仲良くなっていた主人公はダンス・パーティに連れて行く。帰りに車が追ってくる。娘の元彼氏だった。言い合いをしている時にあの女が裸のまま家から出てくる。女を連れて病院に行かせる。主人公は女の家に行く。潜入捜査の刑事や女の夫が殺されていた。切れた耳は夫のものだった。押し入れに隠れて中年男を待つ。騙して中年男を斃す。

2022年2月25日金曜日

未来世紀ブラジル Brazil 1985

テリー・ギリアム監督、英、142分。

某国が舞台で官僚政治による全体主義的国家の印象である。役所で蠅のため、タイプされた文字が狂い、別の人間を逮捕してしまう。後に誤りと分かった際、責任のなすりつけ合いに役所は汲々する。主人公は夢の中で翼を持った騎士のようになり美女を救い出す。その美女と同じ顔の女を役所の窓口で見つけ、何とかして名前を知りたく思う。そのため一度は断った別の部署への移動昇進を受け入れ、女を探る。女はトラックの運転手で、犯罪者扱いをされていたので、助けようと一切をなげうって行動し女も巻き込む。

それと並行して主人公の家の空調に問題が生じる。ダクトの修理依頼の電話をするともぐりの男がやって来て直す。すぐ後から来た役所から派遣された男達はもぐりを絶対に許さないと断言する。主人公はもぐりと役人どもの間で振り回される。

女を助けるつもりの主人公の行動はテロリストと断定され逮捕される。主人公を助けるためもぐりの修理屋は仲間たちと殴り込みをかけ、銃撃戦になる。主人公は逃げる。女と幸福な生活を送れるようになった。と思ったらそれは夢で実は主人公は処刑されていた。官僚主義を徹底的に戯画化し、悪夢のような体制を批判した映画である。

ブレードランナー Blade Runner 1982

リドリー・スコット監督、米、115分。

制作当時から見ての未来、2019年のロサンゼルスが舞台。香港の印象、また街の猥雑な雰囲気は歌舞伎町が見本になっていると言う。

その頃になると地球外の植民地で働く人造人間、レプリカントが開発されていた。このレプリカントが脱走し、地球に来ている。レプリカントを処分する役をブレードランナーという。ハリソン・フォードは元ブレードランナーであったが、要請されてレプリカント退治につく。レプリカントを作ったのはタイレル社という巨大企業、そこへフォードは行く。対応に出た女秘書。本人は気が付いていないがレプリカントのようである。レプリカントか否かは眼の検査で分かる。
逃走レプリカントを調べていたブレードランナーの一人はレプリカントに殺されてしまう。フォードはレプリカントたちを追い、容赦なく殺していく。逆にレプリカントにやられそうになった時、女秘書に救われた。フォードと女秘書は相思になっており、レプリカント絶滅の指令が出されてもフォードは女秘書を対象外にする。
叛乱レプリカントの親玉をルトガーハウアーが演じる。自分らを作ったタイレル社に行って、寿命を長くするよう社長を脅す。レプリカントの寿命は延ばせないと言われ、社長を殺す。他のレプリカントを殺したので、最後はフォードとハウアーの対決となる。力が圧倒的に勝っているレプリカントのハウアーはフォードを倒す寸前まで行く。しかしフォードを助ける。自分の寿命が切れると分かったからである。
最後の場面は当初公開時と、ファイナル・カットという監督自身の意図を通した版では異なる。

2022年2月23日水曜日

グレムリン Gremlins 1984

ジョー・ダンテ監督、米、105分。

発明家の男は、中華街の骨董屋で、モグワイという不思議な生き物を見つける。ぬいぐるみのように見た目が可愛いので売ってくれと頼む。店主の老人は断ったが、孫が条件をつけて売る。条件とは光に当てるな、水をかけるな、夜中過ぎに食料を与えるな、である。

発明家はこのモグワイを息子に与え、喜ばれる。しかし後に水をかける、夜中過ぎに餌を与えるという禁止事項をやってしまい、大惨事になる。モグワイに水をかけると背中から玉が飛び出し、それが成長してグレムリンといういたずらをする動物になる。更に、グレムリンの奸計で夜中過ぎに食料を与えてしまう。するとグレムリンたちは狂暴になり、家や街を破壊し始める。なんとかグレムリンを止めようと躍起になる。
最後にとうとうグレムリンたちを退治する。モグワイは元のままで、可愛い動物である。
惨事が収まった後で、中華街の老人がやって来て、モグワイを連れて帰る。

ビデオドローム Videodrome 1982

クローネンバーグ監督、加、89分。

主人公はCATVの一つを経営し、猥褻映像を流していた。しかしこれまでの映像では外国製(日本のAVが出てくる)も含め、もう飽き足らない。友人が外国からと思われる衛星放送を受信した。極めて暴力的な内容で、拷問や殺人が出てくる。主人公はこれにいたく関心を持つ。
後にこの映像、ヴィデオドロームと言われる、が外国でなく、国内のピッツバーグから流されていると分かる。しかも映像は劇でなく、本物の殺人等を流していると分かる。恋人が興味を持ち、自分はこのヴィデオドロームに出たいと言い出しピッツバーグに行く。主人公もヴィデオドロームの製作者という教授に会いに行く。宗教の集会所のような建物の奧で、教授には会えなかったが、窓口を勤める娘に会う。ヴィデオテープを借りてくる。その映像を見たので、主人公はヴィデオドロームが生み出す超常的な世界、即ち神経がおかしくなって異常な世界に入り込む。これ以降の展開は意味不明になる。
本映画は、この頃はまだVHS等の時代だが、映像によって人間の精神が異常になる様を描いている。後のより一層、仮想現実が一般的になった時代を予想している。

2022年2月22日火曜日

夏目漱石『こころ』 大正3年

漱石の小説のうちでも良く読まれ、有名な作品である。

小説は3部に分かれ、最初は語り手の青年が先生と呼ぶ年長者に会って付き合うまで。次は帰郷し、病気の父親を見舞う語り手に先生から分厚い書簡が届く。最後はその書簡の中身、先生が告白した過去の出来事である。この最後の第3部が普通、『こころ』の中心部分と見なされている。そこには、親友を騙して自殺に追い込んだ先生の過去が述べられていた。

初めて読んだのは中学生くらいだろう。大人になって漱石の創作を読み返したら、唯一感心しない作品があってそれが『こころ』だった。なぜか。それは自殺によって話を終わらせているから。作者として「逃げている」と言ったら言い過ぎかもしれないが、自殺によって強制終了させているように見えるからである。

2022年2月15日火曜日

オーストラリア Australia 2008

バズ・ラーマン監督、豪米、165分、ニコール・キッドマン主演。

第二次世界大戦が始まる前、キッドマンはイギリスからオーストラリアに来る。夫の経営する牧場に向かうが夫は亡くなっていた。牧場を食い物にしていた悪徳管理人を追い出し、牛追いらと共に北部の港に向けて牛の大群を連れて行く。途中で敵方の妨害に会う。ようやく港に着く。敵方より安い値段で牛を売る。第二次世界大戦が始まって日本軍が空襲してくる。キッドマンは世話していた合いの子の少年の救助に向かう。牛追いも助ける。敵の悪人どもも死に、キッドマン、牛追い、合いの子の将来は明るい。

非常に多くの挿話が入っており、長い映画である。日本軍が北部豪州を空襲した事実を知らず、映画では脚色があって映画とおりの空襲ではないらしいが、ともかく豪州への日本軍空襲を知った次第である。

2022年2月14日月曜日

筒井康隆『ロートレック荘事件』新潮文庫(平成26年) 平成2年(初出)

ロートレック荘と呼ばれる一軒家の西洋館に集まった人々。そこで次々と殺人事件が起こる。殺人のトリックはどのようなものか。犯人は誰かという推理小説である。

あまりに古典的な仕組みである。西洋館の見取り図まで出てきて(文庫p.51)、まるでヴァン・ダインの小説のようである。推理小説というのは古典的な枠組みが好きなのか。数年前少し話題になった『かささぎ殺人事件』(ホロヴィッツ)という海外の小説も古典的な仕様だった。古典的な恰好それ自体を推理小説愛好家は評価しているのか。昔のトリックなど使い古されているので、例えばインターネットを利用した事件などなら新味を出せるのかと思うがそうでもないのか。

題名のようにロートレックの絵が飾られている屋敷で、文庫なのにロートレックの絵が何葉も色付きで挿入されている。この絵が犯罪のヒントになるかと思ったが、関係なかった。また登場人物で一度も見たこともない、読み方も当然知らない字を使う名前の男がいる。こんな見かけない字を使うから何か事件の謎に関係あるかと思ったが、そうでもない。それにしても小説の登場人物に聞かない名をつけたがるのはなぜか。トリックは小説の書き方、枠組みに関する物でクリスティの『アクロイド殺人事件』の親戚のようなものか。

それにしても推理小説で一番気になる、怖いところはこの小説でも同様だった。最後に犯人による告白がある。その言いぶりがあまりに淡々としていて、まるで行ってきた旅行の報告をするとか、みてきた映画の荒筋を聞かせるくらい落ち着いているのである。連続殺人犯は日常茶飯をするように人殺しができるというが、推理小説でも犯人の精神の異常さは半端ない。

音楽 昭和47年

増村保造監督、ATG103分。

精神科医のところへ若い女が相談に来る。音楽が聞こえないのだと言う。女は恋人がいる。田舎にいた頃、いいなづけに暴行された過去がある。今の恋人とは関係しても感じない。精神科医は音楽が聞こえないとは不感症の表れと告げる。更に過去の事情が明らかにされる。女には兄がいて、田舎から失踪して行方不明である。実は女は兄を愛していて、そのため恋人とは不感症になるのが真相だった。恋人の男は何とかして女の不感症を治してくれと医者に頼む。兄は見つかる。女と同棲していた。初めて兄の部屋に行った時には、兄の恋人から他に関係している女と思われた。後になって兄の部屋を訪ねると、既に赤ん坊が生まれていた。これで不感症は治るだろうと精神科医は告げる。兄の子供が欲しいというのが潜在意識で、そのため他の男とは感じられなかった。それが兄には子供がいる。だからもう兄の子供は産めない。それで他の男との不感症は消えるはずだと。

今では時代遅れのフロイト理論による謎解きの映画として、ヒッチコックの『白い恐怖』とそういう意味で似ている。

肉弾 昭和43年

岡本喜八監督、ATG116分、白黒映画。

終戦近い時期、特攻に向かう兵士を描いて強烈な反戦映画となっている。最初は魚雷に乗って海に浮かんでいる男の場面。遡って説明になる。主人公の兵士は上官ににらまれて訓練も裸でやっている。特攻行きが決まる。当時特攻隊員は神様と呼ばれたらしい。最後の外出。古本屋に行く。笠智衆が主人役。厚い本を捜す。聖書があった。只だと主人は言うが、用を足すのを手伝ってくれという。B29のせいで両腕がなくなっていた。女を買いに行く。ドタバタがあって若い娘を知る。女郎屋の主人で、親や妹は空襲で死んだと言う。

明くる日太平洋岸の砂丘。米軍上陸に備えて地雷を埋める役だった。そこで女や子供の兄弟を知る。後で、あの女郎屋の娘を初め、知っていた者たちが空襲で亡くなったと聞く。米軍に体当たりする魚雷型兵器に乗る。そこで敵が来るまで過ごす。冒頭の場面に続く。ドラム缶で浮かんでいるうちに終戦になったが知らない。戦後になって汚物処理の船がやって来て、それで終戦を知る。繋いで連れて行ってくれと頼む。船に曳航される。綱が切れてドラム缶はまた海に漂う。23年経つ。この映画が作られた当時。海辺は海水浴を楽しむ人でいっぱい。ボートがドラム缶の周りを回って去る。そのドラム缶の中では白骨化したあの兵士がいた。

2022年2月12日土曜日

近頃なぜかチャールストン 昭和56年

岡本喜八監督、ATG117分、白黒映画。

主人公の若い男は夜、アベックを襲い、暴行未遂でブタ箱にぶちこまれる。留置場にいた老人たちは邪馬台国という独立国の住民だと言う。夫々大臣を名乗っている。明くる日釈放されるとその老人たちについて行き、ある住居に着く。そこは不法占拠している家で、実は男の親の所有であった。男の父親は蒸発しており、母親は不法占拠の連中を追い出そうと企む。男はこの家、すなわち邪馬台国の一員となり労働大臣に任命される。男の母親たちが寄こした、ならず者どもを片付け、母親の不倫などを追及する。その家に戦時中の不発弾があって爆発する。老人たちは新しい住居を求め放浪の旅に出る。

平和ボケの日本への批判というが、不条理な劇をみているようである。

不連続殺人事件 昭和52年

曽根中生監督、ATG140分。坂口安吾原作の推理小説の映画化。

時代は戦後間もない頃、田舎の屋敷に招かれた20数人の者たち。その屋敷内で次々と殺人が起こっていく。小説で読んだ時は、あまりに簡単に日常茶飯事のように殺人が起こるので、その非現実性に呆れたものだ。元々推理小説とは殺人など犯罪が起きて、最後に謎の解き明かしを聞いても論理的につじつまが合っているだけで全く現実的でないものがほとんどである。この小説は、小説自体が非現実的もいいところなので、推理小説的非現実性をあまり感じなくて済んだという変わり物である。

さて映画になって見ると、登場人物が実際の人間が演じているし、その映画的要素でそれほど小説を読んだ時ほど馬鹿馬鹿しさを感じなかった。ある程度は見られる。

2022年2月6日日曜日

ブラッド・シンプル Blood Simple 1984

コーエン兄弟製作監督、米、95分。妻に浮気された酒場の主人の復讐がとんでもない方向に。

田舎の酒場の主人は、探偵から自分の妻と店員の浮気を知らされる。怒った主人は探偵に二人の殺害を依頼する。巨額の報酬を約束する。主人は旅行から帰って探偵に会う。殺した証拠の写真を見せられる。約束の金を支払うと探偵は銃で打ち倒す。その銃は主人の妻のもので、侵入した際に盗んでおいた。実際は殺しておらず、写真も偽物だった。

主人の殺害の明くる日、浮気をしている店員が死体を見つける。銃が自分の愛人、主人の妻の物なので、てっきり妻がやったと思い込む。それでその死体を処理しようとする。苦労して遠くの地に運び埋める。実は主人はまだ死んでいなくて動き出すので、生き埋めにする。戻って自分の愛人、主人の妻に会うが、もちろん相手は何も知らない。店員は自分の知らない別の愛人に殺させて、とぼけているのかと疑う。

探偵は殺しの現場に忘れ物をしてきたと気づき戻る。店員も別の殺人者がいるから恐れ、部屋に愛人が入って来た時、狙撃されるから電気はつけるなと命令するが、無視してつけられ外から探偵に狙撃された。探偵は証拠の品を捜しにやって来る。妻の方はてっきり自分の夫が殺しに来たかと思い込み、相手の顔を知らずに駆け引きで倒す。探偵は死ぬ前に相手が主人と間違えていると知って笑う。

思い込みでどんどん話が発展していくのは、ドラマ、映画でおなじみであり、子供の時からあまり現実的でないと思ったものだ。

2022年2月5日土曜日

小谷野敦『このミステリーがひどい!』飛鳥新社 2015

著者がこれまで読んできた、また映像でみて来た、いわゆるミステリーを自分の経験と好みであれこれ語った本である。本だけでなく、コロンボやその後に放送したテレビドラマなども語る。結局のところ自分の好き嫌いを書いているだけなので、そういう意見もあるのかと思う本である。著者は基本的にミステリーが好きでない。書名はそれの反映である。世評に高い作品もつまらないと思えばけなす。一方で自分が好む、あるいは評価する作品も挙げている。例えば筒井康隆の『ロートレック荘事件』を称賛している。

本書は好き嫌いだけでなく、作家に関する情報もある。ミステリーに関係ない文も多い。読んでいて気になるところがある。大岡昇平の『事件』を小松川高校事件に取材した小説とある。(p.37)これを読んでびっくりした。小説も映画もみたが知らなかった。大島渚の映画『絞死刑』はまさに小松川高校事件を基にしている。厳密に言えばその犯人を描いている。『事件』もこの事件が基なのか。犯罪など似ているところがあるから、そうでないとは言えないが。基にしたところがどこなのか教えてもらいたいものである。また谷崎潤一郎と江戸川乱歩の関係について推測を述べている。(p.39)これなどは谷崎自身の文があるから、なぜそれを引用しないで忖度しているのか分からない。

なお著者がけなしているのは、ミステリーとして馬鹿馬鹿しいといった基準で、これはミステリー好きと同じ土俵での評価である。自分は謎解き要素なんて初めから当てにしていない。大人になってから読み返したら、現実には有り得ない謎解きの説明が書いてある。ミステリー好きは論理として合っていればそれでいいという評価なのであろう。自分はだから推理小説的な基準は度外視で、子供の時のなつかしさで読み返している。あるいは鮎川哲也は好きな作家で、本格派と見なされているようだが、自分は鮎川が読んで面白いから評価しているのであって、そのトリックなどの謎解きは大して興味がない。

小谷野敦『忘れられたベストセラー作家』イーストプレス 2018

書名を見るとかつては売れたが忘れられた作家を書いているのかと思うが、実際は周知の大家も取り上げている。かつて有名だった作家も併せて取り上げている近代文学に関するエッセイという感じである。結構有名な作家について、それほどでもないと評価が書いてある。さらに裏事情のような雑学も披露しており、得るところが中にはある。

こんな本を読もうとする人は読書好きだろうから、出てくる作家の大部分の名を知っているだろう。文庫になれば売れているという意味であり、かつて盛んに出されていた文学全集に入れば、それだけで古典とまで行かなくても傑作という評価を与えられたわけだから、作家としては御の字であろう。それが時代を経て評価されなくなる作家がいる。ここでは言及されていない作家だが、山本有三や武者小路実篤などは最近さっぱりのようである。逆に、松本清張を中公の日本の文学に入れるべきかの議論は有名で本書にも書いてあるが、江戸川乱歩の、それも『偉大なる夢』のような作品でさえ岩波文庫に入るようになっている。以前なら夢にも考えられなかった。そのような評価の変遷の原因についての考察があればよかった。

45ページに文学全集の意味を勝手に誤解して怒っている女学生の話が出てくるが、全くおかしくない。こんな者がいると思えないし、いたとしてもこういう話を面白く思える人はこれまた理解不能である。

「あとがき」で学校の国語の授業について、文学作品を読ませることに反対し、「論理的で明晰な文章を読ませ、書くことを教えるべき」と言っているのは全面的に賛成である。文章は簡単に書けないので、その練習を学校から始めるべきである。また議論の練習もさせるべきであろう。意味曖昧な文章を読ませ、その正しい意味を考えさせるという受け身の教育を百年以上続けてきたので、日本人は情報発信が全くできない民族になったのである。英語を小学校から始めるなど日本教育史上、最大の愚挙である。肝心の国語が受け身に徹しているのだから、カタカナ言葉が余計増えるだけに終わるのは目に見えている。英語の授業などでなく「文学」という科目を作り、文学を鑑賞させればよい。

長沼伸一郎『現代経済学の直観的方法』講談社 2020

著者は元々物理学が専門で、これまで経済数学の直観的方法という経済数学の解説書を新書で出しており、経済学徒からも注目されている。本書はその著者が経済学それ自体を解説しようとする書であり、関心が高くなる。

一般的に経済学の勉強では、3つの分野の学習が必要となる。一つはミクロ経済学で、個別の経済主体(個人や企業など)の最適化行動(満足の最大化や利潤の最大化など)を探る分野である。経済学の保守本流である。もう一つはマクロ経済学で、経済全体の動きを対象とする。GDPの成長、失業、金融政策など経済政策の問題を扱う。最後は統計学であるが、これは実証のための方法であり、経済学そのものではない。

さて本書は以上のうちマクロ経済学を解説している。マクロ経済学は多くの現実の経済問題を扱う。ミクロ経済学がかなり抽象的な議論を展開するのに対し、マクロはより実際的であり、幾つかは常識化しているだろう。政治家が景気対策のため財政支出の増大を求めたとしても、ケインズ経済学を知っていると感心する者はいないだろう。その現実と関わり合いの深いマクロ経済学が本書の対象である。

本書の記述は通常の経済学の教科書とかなり異なる。歴史と例え話を非常に多く書いている点が目に付く。経済学は人文社会科学の中で最も歴史と縁が遠い学問だろう。しかるに本書では歴史の記述が多い。中世イスラムの経済まで書いてある。更に例え話も多い。歴史や例え話で分かりやすくする効果を狙っているのか。ただし必ずしもそうは言えない場合がある。どちらにしても歴史と例え話でかなりのページを食って、全体としてページが多くなっている。肝心の経済の説明もところどころ、これでいいのかと思うところがある。多様性それ自体は望ましいので、本書のような書き方もあるだろう。ただし全体として分かりやすいとは思えない。

2022年2月3日木曜日

中野剛志『奇跡の経済教室 基礎知識編』ベストセラーズ 2019

現役経産省官僚が書いた経済の解説書。経済に関する通常の説明とかなり異なった内容になっている。

それで驚くのは確かだが、「はじめに」にあるようにこれ以上は無理というくらい分かりやすく説明した、とはとうてい言えない。最初にあるように「本書のページをめくるごとに、衝撃的な体験をすることでしょう」とはその通りかもしれない。ただそれは意味が分からない記述があって、初心者が面食らうであろうという意味である。貨幣が負債だとか、税金は貨幣を流通させるためとか、理解がすぐにはできないような言葉がいきなり出てくる。分かりやすい書き方ではない。

これらは現代貨幣理論という、最近流行りの理論の主張であって、使う前に十分に説明を尽くさなければならない。この理論の政策的含意は、政府の支出は(ある条件のもとで)いくらでも構わない、というものでケインズ派の政策を更に後押しするものである。著者が経産省官僚である点を思うと、省益に全く叶う主張である。更に貿易で保護貿易を主張しているところでその立場がより鮮明に分かるだろう。