2021年10月31日日曜日

村上春樹『古くて素敵なクラシック・レコードたち』文藝春秋 2021

小説家の村上春樹が所有するクラシック音楽のLPレコードの幾つかをジャケット写真と共に紹介し、それぞれの演奏について簡単に批評するという本である。大きさは正方形に近い15×16センチで、あまり大きな本でない。

本書は本人も断っているとおり、名曲名盤の紹介ではない。村上は約15千枚のLPを持っていてそのうち7割がジャズで2割がクラシックだそうだ。これが村上のクラシックへの関心程度である。圧倒的にジャズ愛好家なのである。クラシックのLPは中古屋を覗いてジャズで適当なものがなかった場合に買ってくるそうだ。ジャケットの良し悪しを気にする。村上はLPジャケット・フェチなのである。名盤よりも安いレコードを買ってくる。本文中にも百円で買ったとか、1ドルで買ったなど頻出する。気に入らない物は売り飛ばし、また新しいLPを買ってくる。そんな風にして集めたLPの紹介とある。これではあまり有名でないLPが多くて不思議ではない。もっとも有名な演奏も入っている。ここは所有するLPを書いているので、村上が聴いている音楽、演奏のすべてではない。CDの方をたくさん持っているであろうし、ここで挙げていない曲や演奏をガンガン聴いている可能性がある。LPでろくな演奏のない曲はCDを挙げているものがある。

LPレコードだから当然新録音はない。ステレオ初期に留まらず、モノーラル録音も結構ある。しかもモノーラルを村上は気にしていない。選曲や演奏の良し悪しは個人の好みだから他人がとやかく言ってもしょうがないだろう。ここの選択について以下の様に感じた。

ブルックナーを挙げていないがLPなら不思議でない。当時、ブルックナーは「難解な」曲と言われ、今のように人気作曲家ではなかった。今昔の感がある。オペラではタンゴばかりが有名な『真珠採り』、オペレッタではこうもりでもメリー・ウィドウでもなく、『ジプシー男爵』だけ挙げている。前者はクリュイタンス、後者はクレメンス・クラウスのLPを買ったせいらしい。たしかにオペラをLPで聴くなんて、交響曲をSPで聴くに近い。CDが登場した時、オペラ向きの媒体だと思ったものだ。その後ネットワークオーディオ化して(ジュークボックス化)、連続再生が可能になった。今ではストリーム配信(ストリーミング)の時代で全曲が1アルバム扱いだから通して聴くのは当然になっている。だからLPでオペラ系がほとんどなくても不思議ではない。もっとも村上はあまりオペラ好きではないかもしれない。ビーチャムが好きな指揮者で巻末の方に「トマス・ビーチャムの素敵な世界」を設けている。好きなLPを挙げているが、オペラがない。ビーチャムと言えばオペラというイメージがある(個人的推測)。

選曲では室内楽曲で、特にピアノ何重奏曲という形式が目につく。本人も「ピアノ五重奏曲というフォームが僕はなぜか好きだ」(p.328)と言っている。それに対して次の意見は本書中一番びっくりした。「バルトークの弦楽四重奏曲というと、よほどタフな筋金入りクラシック・ファンでなければ、まず怯(ひる)んでしまうのでないかと思う(個人的推測)。」(p.91)と言っているのである。バルトークの弦楽四重奏曲は、名曲として多くの室内楽ファンに好かれているのではないか。まるで一昔前の、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲への感想みたいである。

ピアノ何重奏という、ピアノと弦楽という全く異物の楽器による曲は、ピアノ協奏曲の小編成みたいな気がする。村上はジャズ好きである。自分はジャズは聴かないが、異質の楽器の掛け合いというのが、ジャズの一つのイメージである。そういう意味でジャズに似ているピアノ何重奏というのを好いているのだろうか。

 ピアノ・トリオ『大公』のところで「ルービンシュタイン、ハイフェッツ、フォイアマンの通称「百万ドル・トリオ」。戦前の百万ドルだから、たぶん今の一千万ドルくらいにあたるだろう。」(p.83) 百万ドル・トリオというのはThe Million dollar trioの訳で、今ならThe Billion dollar trioというべきではないか。変な文と思った。

 『キージェ中尉』でラインスドルフを愛聴盤に挙げ、「しかしこのレコードを褒めている人を、僕は僕以外に一人も知らない。どうしてだろう?」(p.233)と言っている。村上は各曲の名盤事情にかなり詳しいらしい。

 懐かしいとは昔親しんで今はなくなった、あるいは遠ざかったものに対する感情だろう。だから初見や、CDで見なれているジャケットは懐かしくない。ジャケットのデザインとは、それ自体で云々するより、自分の思い出や思い入れのあるデザインに価値がある、歳をとるとそう思う。自分が買ったLPのジャケットが載っていて、それは懐かしい。マルケヴィッチのところで10インチ盤とある。これを見てそういう大きさがあったと思いだした。25cm盤と呼んでいたような。

挙げられているマルケヴィッチ『春の祭典』のフィルハーモア演奏を千円盤で買った。今はこの曲あまり聴かないが、感心した唯一の春祭である。CDで聴き返したらLP時代ほど感心しなかった。LPCDは同じ録音でも音が違う。CDが出た時一番気になった点である。他にもここで挙げられているゼルキン、セルのブラームスの2番をLPで聴いた時は、重厚な響きで圧倒された。それがCDでは貧弱な音になってしまい、聴く気がしなくなった。逆にCDの方がまともにきこえた演奏がある。

以前、平野啓一郎の『葬送』を読んだら、ショパン(が登場する小説である)の演奏が、もちろん空想で書いているのであるが、鮮やか過ぎるほどの描写で、小説家というのはここまで書けるものかと感心した。それに対して本書の村上の文章は、いかにも素人のクラシック・ファンが書きそうな、定型的で陳腐という気がしてくる。なぜこの差が出るのか。平野の文章は本業の小説である。しかるにここの村上は趣味の世界なのである。手を抜いているのではない。本書は日本一の人気小説家が自分の愛聴(ばかりでないが)LPの紹介をしていて、そこに価値があるのである。クラシック・ファンなら誰でも書けると言われそうだが、一般人でなく村上春樹なのである。村上の名で売っている本なのである。

2021年10月30日土曜日

宇野功芳、中野雄、福島章恭『クラシックCDの名盤(新版)』文春新書 2008

音楽評論家の宇野功芳、音楽プロデューサーの中野雄、音楽評論家の福島章恭の三人がクラシクの名曲についてそれぞれ推薦版を書くという型式の書。このうち宇野、中野が昭和一桁生まれで、福島のみ30年くらい若い戦後世代である。3人の評があって異なる視点からの評が聞けるとの狙いらしい。実際は仲間うちであり馴れ合いとまで言わないが、それほど期待できない。宇野先生といい、福島君などと呼ぶ間柄である。

まず見て驚くのは、古い録音のオンパレードである。できる限り古い録音を選ぶようにというお達しがあったのか。LP時代へ戻ったかのような感じである。LP時代の図書の復刻版と言っても通じるかもしれない。つまりは新しい録音にはろくな演奏はないと言いたいらしい。冒頭でCDの売り上げが激減していると書いているがその論証として出したのであろう。宇野は次のように書くべきだった。

「優れた演奏は昔の録音に限る。CDの売り上げが激減しているのは当然と言えよう」

著者のうち福島は知らなかった。モントゥーとトスカニーニが好きだと明言しており、それらの録音を多く挙げている。割り引いてみる必要がある。

宇野の推薦盤は化石化している。鄭京和のような贔屓の演奏家を挙げていて過去に引き戻された。宇野は昔からブラームス嫌いを公言しており、それなのにブラームスの曲の名盤なるものを書いている。嫌いな作曲家の名演を挙げても、参考にする気が起きない。バッハなどでも名盤を挙げていないくらいだから、なぜ嫌いなものを書いているのか理解できない。

一体本書はどのような読者を対象としているのか。自分のようにある程度聴いてきた者は知らない名演を知りたいと思う。初心者向きなのか。そうならクラシックの演奏に未来はないと思わせたいのか。昔の名演をいかにうまく復刻するだけが今後の課題なのか。これがクラシック音楽の現実である、昔の演奏しか聴く価値がない、直視せよとの勇気ある提言か。ともかく昔の名盤を知りたい人にはうってつけである。

選曲も気になる。どういう基準で選んだのか。交響曲がむやみに多いが、良く聴かれる分野だからか。ベートーヴェンの交響曲など全曲一曲ずつ取り上げた上、交響曲全集まである。それに比べピアノ・ソナタは、ピアノ・ソナタ全集だけである。交響曲もまとめて書けば良いように思った。好みの問題だから言ってもしょうがないだろうが、管弦楽曲が鑑賞の中心となっているクラシック・ファンに独奏曲、室内楽曲、オペラなどでも聴けば名曲と思わせる有名曲が多い。そういった曲をもっと取り上げればいいのにと思った。

本書の新版は、以前出した同名の書が売れたので二匹目の何とかで出したらしい。正直、初版の方がここで指摘した点などで、より特徴が出ている。そういう意味で面白い。大体、本というのは初版が「迫力」があって読み応えがあるのが一般的である。教科書のようなものでさえそうである。改定した版は妥協的になり、面白くなくなるのが普通である。

武士の娘 A daughter of Samurai 1925

越後長岡の家老の娘として明示初年に生まれた杉本鉞子の自伝である。生まれた当時から明治維新の混乱、変革に巻き込まれる。結婚の相手が渡米していたので、十代でアメリカに渡る。その地で米婦人その他に世話になった。娘が誕生して米人の中で育てる。夫の事業が失敗して帰国する。(この辺り事情ははっきり書いていない)後に娘たちを連れて再び渡米する。

歴史にあるような支配層の変更といった視点からの記述でなく、一国民が経験した記録として貴重である。今では失われてしまった当時の風習等が書いてあり資料的な価値がある。

当時の日本と西洋の断絶は現在では想像不可能なほど甚だしかったはずである。それを後年の回顧とは言え、適応していった著者の苦労はそれほど語られていないため、かえって察せざるを得ない。

本書を読んで特に感ずるところは、著者を初めその母親、祖母の婦徳とも言うべきものの高さである。武家であるから当時の一般ではないだろう。それに比べて兄や夫ら男は風潮にのって古いものを馬鹿にするあたり軽薄にさえ映る。本書が出版された当時どう受け止められたか知らないが、グローバル化と言われる現代こそ読むべき価値があると思った。外国に対し迎合するだけの態度では評価を下げるばかりである。

大岩美代訳、筑摩書房世界ノンフィクション全集第8巻、昭和35

小池新『戦前昭和の猟奇事件』文春新書 2021

著者はジャーナリスト出身で、社会批判など記者らしい書き方をしている。収録されている事件は次の通り。有名な犯罪が多い。

鬼熊事件、岩の坂もらい子殺し、天国に結ぶ恋、翠川秋子の心中、日大生保険金殺人、阿部定事件、津山事件、チフス菌饅頭事件、父島人肉食事件

このうち初めて知った事件は翠川秋子心中、チフス菌饅頭事件、父島人肉食事件である。翠川秋子というのは日本初の女アナウンサーで、昭和10年、43歳の時心中した。著者がジャーナリスト出身だから関心を持ったのか。チフス菌饅頭事件とは、昭和14年、内縁の夫が博士号を取れるよう援助した女医が、その後つれなくされ、チフス菌入り毒饅頭を送った事件。本人でなく他の者が食し、弟が死亡、その他十人以上発病した。夫、女医ともに37歳の時である。当時の37歳は今より年長の感覚で、今なら40歳代半ばくらいではないか。なぜもっと確実に相手に届く手段を選ばなかったのか、よく分からない。父島の事件は終戦の年の2月、父島で捕虜となった米兵を軍人が食した事件。戦争中の事件で、他と同列に扱うのはどうかと思った。戦時中の同類食(変な言葉だが露骨な表現は避けたいので)は大岡昇平の『野火』や映画『ゆきゆきて、神軍』などでも描かれている。相手が西洋人なので特別に掲載したのか。

他の事件は知っていた。鬼熊は大正の終わりの年、千葉の田舎で起きた岩淵熊次郎(事件により鬼熊と呼ばれるようになった)が起こした殺人事件。最初2人殺し後に警官を殺した。鬼熊事件は犯した殺人そのものより、その後によって知られている。逮捕まで40日以上かかり、それは村人に匿われたとか、反権力の士みたいに書かれる傾向がある。村人など殺人犯に関わりたくなかったからではないかと推測してしまう。そもそもの殺人に関してはほとんど記述がない。岩の坂のもらい子殺しは昭和5年、当時は東京の郊外だった板橋の貧民窟で、30人以上のもらい子殺しが判明した事件。この事件の記述は結構長い。途中、貧民窟(スラム街)への偏見に反論する他者の論考がある。貧民窟だからというのでない。子供らを死なせたのが問題だから、的外れに思える。天国に結ぶ恋というのは昭和7年、神奈川大磯で起きた大学生と令嬢の心中事件を指す。後、女の死体の盗難事件まであった。純潔だったと言われ当時のミーハーが騒ぎ、映画化もされた。映画の題が『天国に結ぶ恋』で、令嬢役は無声映画時代から戦後まで活躍した女優川崎弘子が演じた。無声映画で今では残っておらず見られない。日大生殺人とは東京で起きた日大生の殺害。当初は強盗殺人と思われたが、後に家族ぐるみによる犯罪と分かった。大学生は放蕩息子だったが、それに加えて父親の医院が経済的に危うくなり、巨額の保険をかけた保険金目当てという面があった。保険金受取手続きでばれたのだが、なぜそんなドジをしたか、そっちの方が気になってくる。昭和11年の阿部定の事件は近代史上、最も有名な犯罪ではないか。単純化して言えば情人を殺して、男性自身を持ち去った事件である。今では時代も経っている。当時は大騒ぎになり、その後伝説化した。時代の影響もあろう。自分としてはそんなに重大事件かと思う。次の津山事件(昭和13年)はこれまた有名過ぎるくらい有名である。本書の記述では当時そんなに話題にならなかったとしてある。自分が初めてこの事件を知った、松本清張『闇に駆ける猟銃』(事件後30年位経ってからの執筆)でも当時話題にならなかったとある。それに対して大騒ぎになったと反論している文も読んだ(著者等失念)。この本でも全国紙に掲載されたとある。どれくらいが大騒ぎとそれほどでもないの区別をつける基準なのか。またよくあるように本書でも副題として「『八つ墓村』のモデルになった」とあるが、誤りである。小説中、津山事件を彷彿させる昔の悲劇が書いてあるが、小説『八つ墓村』は、その昔の事件の記憶を犯人が利用しようとする、犯罪を書いた小説である。そもそも今では『八つ墓村』よりも津山事件の方が有名ではないかと自分には思える。

津山事件を初め犯行の動機と思われる点が延々と書いてあるが、実際はどうか分からない。人間は誰でもなぜを知りたがる。実際は犯人以外に動機は分からない。犯人自身でさえ分かっているかどうか。何かこういう理由で起きたのだ、と自分に言い聞かせたい生きものなのである、人間は。

2021年10月28日木曜日

ミッション・インポッシブル、フォールアウト Mission impossible fallout 2018

クリストファー・マッカリー監督、米、147分。

トム・クルーズと仲間たちは盗まれたプルトニウムを奪還すべく命をかける。トム・クルーズを怪しむCIAは腕利きの諜報員を一緒に行動させる。トムからすると監視されているようである。後のこの男の正体が分かる。
プルトニウムを巡る戦いはパリやロンドンで行なわれ、最後はカシミールの山中の村での対決である。トムはビル間を飛び移る、ヘリコプターで追っかけるなど、極めて危険な演技をしている。現代でなければ作られない、激しいアクション映画である。

G.I.ジョー G.I. Joe: The rise of cobra 2009

スティーヴン・ソマーズ監督、米、118分。

G.I.ジョーとは米軍の特殊部隊で、悪に立ち向かう組織。特殊な武器が開発された。凡ての物を食い尽くしてしまう武器である。
これを輸送中、敵の組織コブラに奪われる。武器を取り戻し悪用されないようG.I.ジョーは挑む。敵の主要人物の一人である女は主人公のかつての恋人だった。主人公が女の弟を守れず、死なせてしまったせいか、コブラで世界を破壊する側に回った。敵方は武器を使い、エッフェル塔を破壊し、それが伝染してパリ全体を破壊させようとする。G.I.ジョーは、全部は無理なものの一部は食い止める。
最後は北極基地にある敵のアジトに向かう。分かったのは死んだと思っていた女の弟は生きていて敵の首領だった。女を改心させ、ワシントン、モスクワ等に向かったミサイルを食い止めるべく映画ならではの離れ業をやってのける。

2021年10月25日月曜日

小澤征爾、村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』新潮文庫 平成26年

小説家の村上春樹が指揮者の小澤征爾に対して行なったインタビュー、というのは不正確で小澤と村上の対談である。対談はレコードを聴きながら、演奏に実際について村上が小澤に質問する。またレコードに詳しい村上が、過去の録音を再生して小澤と議論するなど。

章(対談の回)を見ると、第1回がベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を巡って、第2回がカーネギー・ホールのブラームス、第3回が1960年代に起こったこと、第4回がグスタフ・マーラーの音楽を巡って、第5回がオペラは楽しい、第6回は決まった教え方があるわけではない、その場その場で考えながらやっている、となっている。更に、厚木からの長い道のりという付録がある。

指揮者である小澤に、愛好家といえ素人の村上が質問をして小澤が答えるところなど、音楽の専門家は回答に工夫をこらそうとしている。専門家同士だったらまた違った展開になっただろう。最後の方は、小澤が主宰していた、若い音楽家たちを訓練する集まりに村上が招かれ、その印象を記録している。更に付録はジャズピアノ奏者の大西順子と小澤の共演で『ラプソディー・イン・ブルー』が実現するまでの経緯が書いてある。音楽好きなら楽しめる本であろう。

『ソーニャ・コヴァレフスカヤ』(自伝と回想)岩波文庫、1933、1978(改版)

19世紀のロシヤの女流数学者ソーニャ(ソフィヤ)・コヴァレフスカヤ(1850~1891)の自伝である若い日の回想と、その後の人生について友人であったアン・シャロト・レフラーによる伝記が収められている。

ソーニャは貴族の家に生まれ姉アンナがいた。姉に憧れる。弟がいて三人の真ん中のソーニャはあまり目立たない子だった。自伝は専ら、ロシヤにいた若い時代が対象である。その中でドストエフスキーとの家全体の交際は目に付く出来事である。作家志望だった姉がドストエフスキーの雑誌に投稿し、掲載された。それでドストエフスキーが姉を訪ねてきた。自分より30歳近く年上の作家にソーニャは憧れを抱いた。もっともドストエフスキーは姉アンナにしか関心がなかったようで、後に速記者だったアンナ・グリゴーエヴナと再婚する。数学史に残る女流数学者となる娘とドストエフスキーの邂逅は興味深い。

後半はソーニャの友人だったアン・シャーロット・レフラーによる、学者としてのソーニャの伝記である。学問に関心が強かったソーニャは勉強のため欧州行きを志すが、当時は女が一人で外国に行けなかった。それで18歳の時、学者のコヴァレフスキーと偽装結婚してドイツ、ハイデルベルクに赴く。外国へ行くための偽造結婚は当時のロシヤの新しい女たちの間でそれなりにあったようだ。後にベルリンに行き数学者ヴァイアーシュトラウスの下で研究に励む。いくらソーニャが業績を上げようが、ロシヤでは女の数学者の職はない。スウェーデンの学者レフラーの招きでストックホルムに行く。このレフラーの妹が伝記の著者である。ストックホルム大学の講師となる。後、教授になる。

数学史に名を残すが、一生は楽ではなかった。様々な苦労をし、41歳、ストックホルムで病死する。

この訳書は元々、作家の野上弥生子が英訳から大正時代末期に出された。英訳本の書名はSisters of Raefkijと筑摩の世界ノンフィクション全集第8巻にある。自伝は『ラエフスキ家の姉妹』となっている。この本では人名を変えてある。本人ソーニャはターニャとなっている。ソーニャの父親はイヴァン・セルゲーヴィチ・ラエフスキ(ー)とある。実際の父の名はヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ・コルヴィン=クルコーフスキーである。このように実際の人名と異なる名を用いる例は現代でもしばしばある。

2021年10月23日土曜日

シュレック Shreck 2001

アンドリュー・アダムソン、ヴィッキー・ジェンソン監督、米、90分、CG漫画映画。

シュレックは緑色の怪物。お喋りの驢馬に気に入れられ、かえって迷惑する。森の中に一人で住んでいる。ある日、周りに昔話や御伽話の登場人物がいっぱい。静かにしていたいシュレックはどうしてこうなったか尋ねる。貴族が追い払ったからだと分かる。シュレックはその貴族に掛け合いにいく。
おりしも貴族方では、塔に囚われている姫を助けに行く、勇者の選抜の最中だった。シュレックは参加者の猛者どもを片付ける。貴族から姫を助け出してこい、そうすれば御伽話の連中は追い払うと約束をとった。シュレックは助けに行く。
龍を倒して姫を助け出し、帰宅の途に就く。姫はシュレックに好意を抱く。兜で顔が見えないからだった。姫はそっと驢馬に真相を打ち明ける。自分は魔法をかけられ、夜になると醜い顔になる。シュレックは半分聞いて、醜い自分が相手にされないと思い込む。貴族の元に戻る。
シュレックに嫌われた姫は貴族と結婚するしかない。式が挙げられようとする夜になると姫は怪物面になる。貴族を追い払い、姫に接吻するシュレック。これで魔法が解け、元の顔になる筈だった。ところが醜い顔のまま。その姫をシュレックは自分の妻とし、いつまでも醜く暮らした、と出て終わり。
最後に定石とおり姫が美人に戻らないのは、観客の予想を裏切り、外見で判断すべきでないという声明である。

2021年10月21日木曜日

ミシェル・マクナマラ『黄金州の殺人鬼』 I’ll be gone in the dark 2018

1970年代から80年代にかけてアメリカ、カリフォルニア州(黄金州)で起きた十件以上の殺人、五十件以上の強姦、強盗の真相究明を追った記録である。本書の特徴は犯罪に関心をもって、それまでの事件を調べていた執筆者が、解決前に亡くなってしまった点であろう。だから本書には真犯人の確定、逮捕、犯罪の原因の究明などは書かれていない。

本書は後に分かった事実から、犯罪を説明していくといった本ではない。主婦であった著者がどう調べていったか、の記録でもある。著者は2016年に病死した。犯人逮捕は2018年だから真犯人を知らぬまま著者は死んでいる。夫などが補足しているが、あくまで本書は著者の記録である。だから連続殺人事件の描写だけでなく、著者の苦労の跡が書かれ、そのため少し読みにくい気がする。
村井理子訳、亜紀書房、462ページ、2019年。

彼女について私が知っている二、三の事柄 Du ou trois choses que je sais d’elle 1966

ジャン=リュック・ゴダール監督、仏伊、90分。

公団の建設から始まる。公団住宅に住む主婦をマリナ・ヴラディが演じる。小さい子供たちがいる。夫はいるが、ヴラディは夫がいない間、売春をやっている。夫は喫茶店で若い女と話し合う。近くの卓ではノーベル賞作家が女と話している。
ゴダールらしい物語的でない映画。

2021年10月19日火曜日

最前線物語 The big red one 1980

サミュエル・フラー監督、米、113分。監督自身が経験した第二次世界大戦のアフリカ、欧州戦線での米兵の一団の戦いぶりを描く。主人公の軍曹はリー・マーヴィンが演じ、『スター・ウォーズ』公開後、それほど経っていない時期にマーク・ハミルが出ている。まさに戦場を描いた映画である。いわゆる戦闘の迫力は後のCGを多用した映画でないから、今観ると戦いの派手さでは物足りなく思うかもしれない。しかし戦争の悲惨さを見せる映画なのだから、手作り的な本作で十分狙いは達成されている。

敵兵との戦闘だけでない。母の死体を墓地まで連れていきたい少年、戦闘の後、戦車の中で出産する女から赤子を取り上げるところ、敵を追い払った後に見つけた餓死寸前の少年などが心に残る。最後の方でチェコの煉瓦倉庫のようなところで大量の死体を見つける。敵が処分した人間たちである。生き残りの敵兵を見つけたマーク・ハミルは、何度も何度も弾が空になってもまた充填し、敵を撃ち続ける。犠牲になった者たちの復讐か。

原題のbig red oneとは主人公たちの兵団の仇名で、大きな赤い1の字を徽章としているから。監督フラーが所属した実在の部隊である。

2021年10月18日月曜日

かぐや姫の物語 平成25年

高畑勲監督、ジブリ、137分。竹取物語を基にした漫画映画。かぐや姫がえらく現代的な女の子として描かれる。

竹の子から生まれたかぐや姫は急速に成長する。田舎の子供たちとの交友がある。男の子と初恋的な思いが生まれる。かぐや姫の美しさは評判になる。竹から得た黄金によってかぐや姫は翁媼と都に出る。縁談が降るようにある。翁は金の亡者となる。かぐや姫は全く正反対で物質的な贅沢には毛頭興味がない。貴公子たちの求婚がある。有名な難題を突きつける下り。みんな失敗する。月から迎えが来るという。翁媼その他の反・月勢力は月からの来た迎えに当然叶わない。かぐや姫は月に帰る。

この映画も漫画映画では珍しくないが、社会批評というか説教調が出てくるので気になる。

サミュエル・フラー自伝 A Third Face 2002

米の映画監督サミュエル・フラー(19121997)の自叙伝である。

幼いうちに父親を亡くし、フラーは少年時代から働きに出る。ニューヨークの新聞街での使い走りから始まる。有名な業界人に認められ、その地位を上げていく。アメリカ中を旅行し、その実際の姿を見る。おりしも恐慌時で多くの下層民の苦労をつぶさに観察する。第二次世界大戦が始まる。志願する。ジャーナリストだったので、報道関係の安全なポストを提供されるが、フラーは断り、一兵卒として歩兵になる。欧州に派遣される。北アフリカ、イタリア、ノルマンディー上陸、ドイツへの進攻の体験が書いてある。もとよりジャーナリスト、脚本家、作家で、小説をものにしていた。戦争中に自分の小説が出版され、映画化されるという連絡を受けとる。戦後は映画の監督を始める。映画制作の苦労、案が実現しなかったのはなぜか、といった映画制作の現場の苦労、裏話が面白い。

非常に大部で756ページ以上あり、二段組の厚い本である。読むのに時間がかかるが、中身はめっぽう面白い。正直、フラーの映画よりこちらの方が面白いと言えるかもしれない。もちろん晩年の回想だから、誇張は当然として記憶違いも結構あるのはしょうがない。どの自伝にもつきものである。間違いのうち幾つかは訳者の注に記してある。注にはないが『東京暗黒街・竹の家』(1955)の撮影で使った浅草松屋を20階くらいの建物と書いてある。

ともかくアメリカの20世紀史を映画人の眼で見て綴った書であり、戦前の部分など全く映画を観ない人、フラーの名さえ知らなくても面白いから勧めたい。

2021年10月15日金曜日

リトル・マーメイド The little mermaid 1989

ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ監督、米、83分、ディズニーの漫画映画。

アンデルセンの『人魚姫』を基にしている。ただし映画の後半というか、終わり方は原作と異なり幸福な結末である。海に住む人魚姫が人間の王子に憧れる。人間になりたいと強く希望する。そのため試練がある。映画では悪女を登場させ、この女が人魚姫と王子を取り合う展開になっている。漫画映画ではどう改変したか気になっていた。一つの解決法がここにある。

2021年10月14日木曜日

女は女である Une femme est une femme 1961

ジャン=リュック・ゴダール監督、仏、84分。

アンナ・カリーナはキャバレーの踊り子。仲間からもらった器械(?)で自分の妊娠日を調べる。今日1110日である。今日こそ妊娠すべき日である。カリーマは同棲する男(ジャン=クロード・ブリアリ)に子供を作ろうと迫る。相手はそんな気になれない。ジャン=ポール・ベルモンド扮するもう一人の男はカリーナが好きで追っかけている。女と男二人の話である。
筋らしい筋はほとんどないようなものである。話の展開を追っかけるとか、映画の意図するところは何か、といった見方をしていると何が何だか分からない、面白くないとしか思わないだろう。場面場面を楽しむ、鑑賞する映画と思う。

2021年10月11日月曜日

ビリー・ザ・キッド Billy the Kid 1930

キング・ヴィダー監督、米、90分。

伝説の無法者、ビリー・ザ・キッドの映画化。21歳で殺されたビリーは義賊と見なされ、今でいうアイドル的な人気があったらしい。本作でもビリーは悪漢どもをやっつける、まっとうな人物として描かれる。
西部のある町を仕切っている男、判事兼保安官その他公職を勤めている、は悪人で町はひどい目に会わされていた。抗議する紳士が殺される。ビリーが慕っていた紳士だった。ビリーは仲間と共に悪漢一味と対決する。ビリーらの立てこもる家との間で銃撃戦が行なわれる。家に火がつけられ何とか逃げだす。この間、敵味方双方に犠牲者が出た。相手のボスを殺す。
しかしビリーはお尋ね者であり、その後逃げて最後には捕まる。ビリーは牢屋から逃げ、その際残っていた悪漢を倒す。ビリーを慕う上流階級の若い女がいた。ビリーが捕まらないよう逃げるのを追っていく。ビリーの最後は映画では描かれない。

2021年10月10日日曜日

スカイスクレイパー Skyscraper 2018

ローソン・マーシャル・サーバー監督、米、110分、ドウェイン・ジョンソン主演。

香港に出来た超高層ビルを舞台にして、ジョンソンが超人並みの活躍をするアクション映画。超人の出てくる『タワーリング・インフェルノ』である。超人はジョンソンである。超高層で火災が起こり、しかもその中にはジョンソンの家族がいる。家族を助けるため、火の塊となった高層ビルへ命がけの跳躍を試みる。騒ぎを起こしたテロ軍団との戦いもある。

映画としては先に述べたように『タワーリング・インフェルノ』などの枠組みをそのまま使っておりそういう意味では新鮮味はない。ただしこのような娯楽作品を偉そうに論じても意味がない。家族を助ける父親の奮闘が描かれ、例えば家族全員が次々と犠牲になるとなどと作っていたら新味があったかもしれないが、誰もそんな展開を期待していない。型通りの作りだからこそアクション映画として楽しめるのである。ジョンソンの妻役で、『スクリーム』で人気の出たネーヴ・キャンベルが出演している。

2021年10月8日金曜日

曠野に叫ぶ The Sky pilot 1921

キング・ヴィダー監督、米、74分、無声映画、染色版。

カナダの曠野にやって来た牧師。場所がないので酒場で人を集め、説教を始めるが野次を飛ばされるだけである。しかし牧師と乱暴者だった男は仲が良くなり、後には教会を建ててもらうほど地元から信頼される。反対派は教会に火をつけ、牧師も狙撃する。牧師は脚の悪かった娘に助けてもらう。気が付くと娘の脚は治っていた。敵方も友人らがやっつける。最後は親友と娘との結婚式で終わる。少し観客に対するおふざけのような場面がある。

2021年10月7日木曜日

カルメン Carmen 1915

セシル・B・デミル監督、米、65分。無声映画のカルメン、デミルの作品でも初期の映画らしい。

オペラで非常に有名なカルメンの話である。映画は浜辺で始まる。密輸をしている連中は監視している軍人のうち簡単に丸め込めない男がいる。それがドン・ホセである。カルメンを使ってホセを懐柔しようとする。オペラでは最初に出てくる煙草工場は後の方で出てくる。もちろん全体の枠は知っているとおり、カルメンによって堕落させられたホセが、心変わりしたカルメンを恨んで殺すという話である。

カルメン役は国立FAのパンフレットによると当時の米最高のプリマであったジェラルディン・ファーラーを高額で迎えたという。ただ国立FAの上映は文字通り無音で伴奏、解説など全くない。せっかくオペラの有名作で最高の歌手が出演しているのに無音とは随分皮肉に思える。

王子と踊子 The Prince and the showgirl 1957

ローレンス・オリヴィエ監督、米、116分。

マリリン・モンローが踊り子役で、欧州某国のオリヴィエ演じる大公(Prince、邦題の王子は誤訳)との仲の映画で『ローマの休日』を思い起こさせる。しかし映画の狙いや、観た感じは全く異なる。

英国に英王戴冠式で来ていたオリヴィエの大公は、招待された観劇の際、モンローを見つける。気に入った大公はモンローを大使館に呼び寄せる。一夜を過ごすつもりだった。しかしモンローとの会話では大公は鯱張った態度を崩さず、しょっちゅう電話がかかって来て政治の打ち合わせをしている。
大公は摂政でその若い息子が国王なのだが、政治の実権は摂政にある。若い国王とも、また皇太后ともモンローは親しくなる。国王は政治の実権を取り、自分の政治を実施したいと思っている。モンローはその親子の仲の調整をしたり、皇太后の命令で戴冠式まで行く馬車に乗り、劇場の仲間たちと手を振ったりする。最後にはモンローは大公と別れる。
モンローを観る映画で、映画の展開は欧州政治などに興味がなければ退屈である。

2021年10月6日水曜日

『愛の燈台守』『頓珍漢馬騒動』『ハリキリ天国』

国立FAで上映した無声映画。いずれも弁士の録音付の映画が上映された。各映画の情報は以下のとおり。

『頓珍漢馬騒動』Camping out 1918, 11分、不完全。

『ハリキリ天国』Peaceful Alley 1921,15分、部分。

『愛の燈台守』Captain January 1924, 43分。

このうち『愛の燈台守』は、女の赤ん坊を難破から助けた老燈台守が、自分の娘として育てる。少女になってからその伯母が来て、自分の妹の娘に違いないと言う。老いた燈台守は娘が可愛くてたまらないが、娘の将来を思いやり伯母の家にやる。娘の方も老父を慕って新しいうちに全く馴染まない。ある日老父の身内が老父のみやげを持って来る。娘はその男を密かに追い燈台まで戻る。老父を見つけ共に狂喜する。伯母も娘の引き取りは止め、父親と一緒に暮らさせる。
主役と言うべき子役の娘は当時非常に人気があったと国立FAのパンフレットにある。東洋人的な顔立ちでアジア人と言っても少しも驚かない。

2021年10月5日火曜日

別れの曲 Abschiedswalzer 1934

ボルヴァリー監督、独、91分。ショパンの伝記映画。

ロシヤの支配に対する革命運動が盛んなポーランド。ショパンも運動に共感し参加するつもりでいた。ショパンを慕う若い娘がいる。ショパンも好いていた。女のために練習曲(別れの曲)を作曲する。ロシヤに対する蜂起が予定されていたので、ショパンを巻き込みたくない、という判断でショパンの師と恋人は企み、女がショパンを振る。しかたなくショパンはウィーンに行く。
その後パリに師と赴く。ジョルジュ・サンドがショパンを好きになる。大ピアノ奏者であったリストもショパンを助ける。パリで大喝采を浴びる。サンドはマヨルカ島に行こうと言いショパンも喜ぶ。
その当時、ポーランドの女はショパンを慕ってパリに来ていた。ショパンの帰りを待っていた。ショパンはサンドとマヨルカ島に行くと師に嬉しそうに告げる。それを陰で聞いて悟った女は、ショパンに最後の頼みをする。自分に作ってくれた別れの曲を弾いて欲しいと。ショパンが弾く中、女と師は自分たちの役目は終わったと言う。

2021年10月4日月曜日

網走番外地 昭和40年

石井輝男監督、東映、92分、白黒映画、高倉健主演。

高倉健主演のシリーズ第一弾。北海道の網走刑務所に連れてこられた高倉他の罪人たち。同室の中で嵐寛寿郎演じる老年の囚人は静かだが貫禄があった。高倉は病気の母親が心配で早く出所したい。世話する役の丹波哲郎は、高倉を早く出所させようと何くれと骨を折る。
囚人仲間は脱走を企んでいた。作業に行く途中のトラックから飛び降りる。二人で手錠を繋げてあるので、高倉は意に染まないまま、手錠をつけた脱走というどこかの映画のような成り行きになる。雪の平原の中、二人で逃走を続ける。丹波は後を追う。
高倉の相手は卑劣な男だったが、怪我をしたのでほっておけない。丹波が追いついた時、高倉は早く病院に入れてくれと頼む。高倉、丹波は相手の男を病院に運ぶため雪の中を行く。

リメンバー・ミー Coco 2017

リー・アンクリッチ監督、米、105分。

メキシコを舞台にした漫画映画である。主人公の少年は音楽好き。しかし少年の家では音楽はご法度である。なぜなら昔、音楽好きの父親が家出し家族が困ったからだ。それでも少年は好きな音楽の大会に出たい。それには自分のギターが必要だがない。少年が尊敬する過去の音楽家の記念堂にギターが飾ってある。それを一時拝借に行く。ここで少年に不思議な体験が起こる。
周りの人間とぶつかっても通り抜けてしまう。盗みを働いたから少年は死者の国に行ったのである。ここで亡き両親、親戚たちに会う。メキシコでは死者の日という日本のお盆のような習慣があり、ここで死んだ人間が一時的に家族に会えるのである。少年は生の国に戻るためには死者から赦しが必要と言われる。母親がもう音楽はしないという条件をつけるので、少年は戻れない。戻るために尊敬する音楽家のところへ行って赦しをもらおうとする。たまたま会った男が音楽家を知っていると言うのでついていく。尊敬していた音楽家自分の祖先と分かって期待するのだが、思いもよらない展開になる。

メキシコというあまり映画になっていない国が舞台で、またメキシコ版お盆の死者の日という習慣を知った。

2021年10月3日日曜日

ミニオンズ Minions 2015

ピエール・コフィン、カイル・バルダ監督、米、90分。

漫画映画で、ミニオンという小さくて黄色い謎の生物の活躍を描く。ミニオンは悪党の親玉に仕えるという目的を持つ。太古の昔より様々な悪党に仕えてきた。今ではミニオン一族は仕える悪党がなく、主人を捜しに三匹のミニオンが旅立つ。フロリダで悪党を選ぶ大会があるので赴く。ボス的女悪党を見つけ、その命令でイギリス王冠を奪いに行く。図らずもイギリスではミニオンたちは、王になる運命づけられていると見なされ、王冠を授けられる。女悪党は王冠を奪いにやってくる。一度王冠を奪うが女悪党は奪い返される。新たな悪党が出現し、ミニオンたちは、その悪党を追う。

元々悪党が主人公の映画があり、ミニオンはその脇役として出ていた。本作はミニオンを主人公として作成された映画である。

黒澤明『蝦蟇の油』 1984

映画監督黒澤明の自叙伝である。明治43年に生まれた黒澤明が、『羅生門』でヴェネツィア映画祭の賞を取るまでの記録である。

明治の人間らしくきょうだいが多い(今と比べて)。これまた昔らしく、きょうだいで10代で病死する者がいた。また黒澤に大きな影響を与えた兄は20歳代で自死している。他にも成人後亡くなった兄がいる。身内が若い時に亡くなる経験を読むと身につまされる。黒澤は画家志望だったようだが、東宝の前身PCLに入社し、山本嘉次郎に仕える。監督後の活躍は誰でも知っている。

13歳の時経験した関東大震災で兄に連れられ、死体の山を見に行ったとある。兄は教育のつもりで見せようとした。酸鼻究める描写がある。自分の恩師、学校の教師や山本監督など世話になった人達への感謝の言葉がある。その一方で傲慢で不快な教師、軍事教官、映画検閲官などに呪詛を吐いている。

記述が『羅生門』で終わっているのは、自伝を書いてきて、これも『羅生門』のように色んな見方がある、人生の一つの面しか(自分の見方しか)書いていないのではないかと思ったからだと言う。誠実そうな感じを与えるが、人生の記述に「客観的」な書き方などありはしない。夫々の者の解釈しかない。人は自分をこういう人間だと認識している。しかし親友に自分をどういう人間かと叙述させればかなり違った人間像になる。どちらかが正しい、客観的だとの話ではない。『羅生門』を撮影した際、助監督が映画の意味が分からなくて、黒澤は説明したそうである。それでも分からないような者がいたと言う。まさに単細胞と言うべきで、正しいか間違っているかの二つの選択しかないと思っている者なのだろう。これまで永田雅一社長の石頭しか紹介されてきてないが、こういうところを読むと当時の理解の程度が分かる。