2021年8月31日火曜日

ヴェノム Venom 2018

ルーベン・フライシャー監督、米、112分。

宇宙からエイリアンがやってきて人間に乗り移り、地球征服を企む。こう書くと今まで散々映画になってきた筋ではないかと思うだろう。本作も大きな筋ではその通りなのだが、宇宙人が乗り移った相手が映画の主人公なのである。元来正義派、反権力の記者である。企業取材で言いたいこと言ったために馘になり、恋人もそのせいで勤め先を馘になったので離れてしまう。ふんだり蹴ったりの記者に偶然から宇宙人が乗り移り、街を破壊し尽くす。
ところが地球征服を狙っているはずのその宇宙人、これがヴェノムという名(個人名)で自分が乗り移った記者に共鳴し(?)、地球を救おうとする。そのためあくまで地球征服を目論む別の宇宙人に戦いを挑み、阻止するという結果になるのである。
相変わらず米のアクション映画らしく、街を破壊し尽くす車の追っかけなどがあり、どの位の人が犠牲になったのかと思わせる。宇宙人ヴェノムは地球救済に乗り出してくれて、そういう意味では助かるのだが、ともかく映画では中心人物以外はどれだけ殺されても意に介しない、という原則はここでも見られる。

タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら Tucker and Dale as Evil 2010

イーライ・クレイグ監督、加、88分。

恐怖(残酷)と喜劇の要素を合わせた映画。山奥の別荘(半分壊れた小屋)にタッカーとデイルという中年の友達が休暇にやって来る。途中の店で、やはりこの地方に遊びに来た数人の男女の若者と会う。若者たちは中年どもに嫌悪しか感じない。中年親爺は別荘という名の小屋に着き、中を直して湖に釣りに行く。若者たちも泳ぎに来ていた。湖に落ちた若い女を親爺どもは助ける。しかし他の若者たちは中年どもが女を拉致したと思った。それで女を救出に小屋に向かう。

若者たちは中年どもをやっつけ、女を助けるつもりでいたのに、次々と自爆して死んでいく。最後に残った偏執的な若者との対決になる。

恐怖映画を素材にして笑い話にする映画はこれまでにも何本かあった。本作は若者たちが死んでいく様がかなり残酷に描かれ、中年親爺のドジぶりが笑いになっている。

2021年8月30日月曜日

私が生きる肌 Le piel que habito 2011

ペドロ・アルモドバル監督、西、120分。アントニオ・バンデラス主演。

バンデラスは医師である。皮膚の再生を学会では発表するが遺伝子操作で問題があると言われる。家では若い女を匿っている。年配の婦人が家政婦の役をしている。男がやって来る。婦人の息子であった。若い女が閉じ込められていると知ると、その部屋に行き襲う。その最中にバンデラスが帰って来て、男を射殺する。実はバンデラスも殺された男も婦人の息子で、父親違いであった。

時は遡りこれまでの事情が明かされる。バンデラスの妻は事故で大やけどを負った。バンデラスの手によって何とか生き延びた。しかし妻は自分の醜くなった顔を見て自殺する。バンデラスには娘がいた。知り合いの結婚式に行き、娘は服飾店の若い男と庭で抱き合う。娘は叫び、男は逃げる。娘は強姦のせいで精神がおかしくなり、最後は自殺する。バンデラスは娘の死に責任のある男を捕まえる。その男に性転換手術を施す。顔も変え、かつての妻の顔にする。その後自宅に軟禁する。

ここで映画の初めの時期に戻る。バンデラスの義理の弟は、性転換された男をかつてのバンデラスの妻と勘違いしたのである。バンデラスは性転換した男を妻と同じように可愛がりたかった。男は従順のように見えた。しかし新聞で行方不明になった、自分自身である男の写真を見た後、バンデラスを射殺する。その母親である老婦人も殺す。家を出て、元の自分の家、服飾店に行く。同僚と母親に会う。自分が息子だと名乗る。

映画でよく分からないのは、自分の娘が死んだ原因の男を、自分の妻の代わりにしようとするところである。自分の妻の面影から離れられない。自分の娘の死に責任ある男を懲らしめたい。これらは分かるのだが、なぜその男を妻にしたがるのか、理解できない。

不良少女魔子 昭和46年

蔵原惟二監督、日活、83分、夏純子主演。

夏純子扮する魔子は不良少女グループの一人である。不良少年のグループといざこざを起こし、相手側が仕掛けてきたので、魔子の兄(藤竜也)が幹部のやくざが少年たちを痛めつける。少年たちは仕返しを考える。その間、魔子と不良グループの一人の少年は相手を意識し合い、お互い好きになる。
魔子は好きな相手にやくざが扱っている麻薬に関する秘密をもらす。このため不良たちは麻薬を自分たちで捌こうと考える。しかしやくざは強いので、不良仲間の一人はやくざの配下になって儲けを企む。他の少年たちは従わない。魔子が情報を漏らしたので、兄の立場も悪くなる。不良青年と組んだ不良少女グループは、共にやくざにひどい目に会わされる。
やくざに寝返った元の少年を、魔子の恋人らは車で追いかける。事故になり恋人は死ぬ。後に魔子は誤って兄を刺し、最後は寝返った少年をプールの脇で刺し殺す。

2021年8月28日土曜日

ステート・フェア State Fair 1945

ウォルター・ラング監督、米、100分、総天然色、ミュージカル映画。

題は直訳すると州の市(いち)で、映画の字幕では共進会とあった。品評会と言ってもよく、各家庭で作った料理、農産物や家畜を出し、どれが一番かを審査する。賞をもらえれば名誉である。また遊園地の施設が併設され、そこで娯楽を楽しむ。大昔、娯楽のなかった田舎では年一回の大きな催しであったようだ。

舞台はアイオワ州で主人公の兄妹は両親と一緒に市に向かう。父親は豚を出し、母親は料理を出す。妹と兄は会場で恋人を見つける。妹は記者をしている若者、兄は歌うたいである。好きになるが、妹は約束の時間に相手が現れない。記者はシカゴでのポストが得られ、すぐに行かないとなくなると言われたからだ。また兄の好きになった相手はあまり積極的になっていない。以前結婚に失敗していたと分かる。妹、兄とも失意で帰郷する。しかし妹は恋人から電話がある。シカゴでの記者の妻になってくれと。また兄は元々いた郷里の恋人と再会する。映画はやって来た記者と妹が再会するまで。

話はごく単純であり、1933年に映画化され、また1962年も再映画化されているそうで、古き良きアメリカを描いているので人気なのであろう。

獣人ゴリラ男 Ladron de Cadaveres 1956

フェルナンド・メンデス監督、墨、80分、白黒映画。

メキシコ製のフランケンシュタインもので、プロレスの男の脳をゴリラと入れ替え、再生させようとする狂人科学者と犠牲になる青年の物語。

格闘選手の死体が連続して見つかり、警察はその究明に躍起になっている。田舎から来た格闘選手希望の青年は警部と知り合いだった。女に積極的ですぐに口説き、仲良くなる。

くじを売りに来ている老人がいた。実は科学者の変装で、プロレスラーを殺し洗濯物収集の籠に入れて外に出していた。この死体の脳を入れ替え、実験で蘇生させようとするが相変わらず失敗だった。警部は格闘選手が狙われているので、友人の選手希望の青年に囮になってくれないかと頼む。警部の上司は危険と止めるが、青年は承知する。覆面レスラーで人気が出る。科学者は目をつけた。苦労してようやくその青年を手に入れる。今度は蘇った。科学者は自分は神になったと狂喜する。そのゴリラ男を覆面レスラーに戻し、また試合させる。試合の場でゴリラ男は狂暴化し、見た目も毛深くなる。試合会場は大混乱になる。ゴリラ男は自分のかつての恋人の家に行く。気絶した恋人を抱え、ゴリラ男は屋上に登る。警察も後を追う。ゴリラ男は最後は地上に落ち、死ぬ。

2021年8月26日木曜日

ヒッチコック映画術トリュフォー Le Cinema selon Alfred Hicthkock 1966

トリュフォーが尊敬する監督ヒッチコックに、制作した映画についてインタビューした内容をまとめたもの。50時間に及んだと言う長尺のインタビューで、ヒッチコックの映画制作の実際、その狙い、俳優についての諸々の評価など、ヒッチコックの映画が明かされる。本書の特色は何と言っても監督であるトリュフォーが監督ヒッチコックに、どのようにして制作したか、何が問題だったか、どれだけ狙いが実現したか、といった「作る」側からの質疑、討論という点である。鑑賞者である観客、その代表としての批評家の論とは立場が異なる。批評家はストーリーの分析をする、と書いてある。本書の立場はそうでない。

監督であるトリュフォーが質問する、あそこの場面の意図はこうでなかったかと。それに対してヒッチコックがまさにそうだと答える場合が結構ある。さすがにトリュフォーは良く観ている。もちろんすべて両者の意見が一致しているわけでない。例えば『間違えられた男』についてトリュフォーの批判のようなものがあり、それにヒッチコックはめんどくさそうに答えている。

ヒッチコックの映画哲学は第一にエモーションを作ること、第二にそのエモーションを最後まで失わずに保つこと、とある。(p.100)つまり観客に映画に対する関心を、最後まで持続させるような工夫であろう。ヒッチコックは映画で自分の意図を徹底させる気でいる。劇映画の監督とは神である(p.88)と言い切る。俳優はあくまで自分の芸術を実現するための駒であるかのようである。

有名な金髪美人好きについても説明がある。外面はクールで内面は炎のような女がいい。マリリン・モンローやブリジット・バルドーのようにセックスをむき出しにしたような女は好きでない。英独や北欧の女が好みでラテン系は好きでない。女優はクールビューティを好み、男の俳優はケイリー・グラントやジミー・スチュアートを多く使った。つまり美男美女がヒッチコック映画の常連である。インターネットの素人の評論を見ると大抵、美男美女の俳優を大根とこき下ろし、脇役の面相の良くない俳優を持ち上げて通ぶっているものが多い。ヒッチコックでは逆だ。俳優に意見など求めていない。『めまい』のキム・ノヴァクや『山羊座の下に』のイングリッド・バーグマンが色々自己主張をしたので腹を立てている。バーグマンに関しては、夫子供を捨ててロッセリーニと駆け落ちしたので、自分が使いたかったスウェーデン女優(映画『令嬢ジュリー』のヒロイン)が使えなくなったとこぼしている。この俳優といったらいつも演技が絶賛されているチャールズ・ロートンは、戦前の映画だが『巌窟の野獣』で、自分の出番では必ずクローズアップにしろと要求した、ふざけた野郎と言っている。ジミー・スチュアートをほめるのに、何もしないのがいいと言う。それが俳優に求めるものだったらしい。まさに俳優はヒッチコックの意図を実現するための手段なのである。

他にもヒッチコックはイギリスならではのunderstatementを好んでいた。ドラマチックなアイデアをさりげなく表現する、を指しヒッチコックの銘だった。またケイリー・グラントを悪人役するなど会社が許さなかった、と当時の考え方が分かる。またイギリスでは一流の俳優やシナリオライターが使えた。ところがアメリカに来てみると、ヒッチコックの映画のようなジャンルは二流視されていて、使いたいスター等が使えない。『海外特派員』でゲイリー・クーパーに頼みに行ったら断られた。後で出ておけばよかったと言われたそうである。実際にヒッチコックが使いたかった俳優が色々書いてある。

本書は制作側から見た、謎解きヒッチコックといった本である。本書を読むとヒッチコックの映画の見方が限定されるのではないか、という気がしないでもない。映画好きは偉そうな事を言いたい輩が多いので、そういった連中にネタを提供する本である。

最近の高齢社会には優しくない細かい活字の大型本で、情報量は多い。本の作りで言えば索引があるのがありがたい。ある経済学者が「索引のない本など本ではない」と言っていたが、索引があるので利用価値が大いに増している。

2021年8月23日月曜日

間違えられた男 The Wrong man 1956

ヒッチコック監督、米、105分、白黒映画。ヘンリー・フォンダ主演。

映画の冒頭にヒッチコックが出て、実際にあった話だと話す。フォンダは酒場でベースを弾いている音楽家。妻が歯痛で歯医者に行く金が必要である。フォンダは保険会社に行って保険証書で金を借りようとする。ところがそこを出た後、職員たちはかつて強盗に来た男とそっくりだと話し合う。警察が来てフォンダを逮捕する。あちこちの店に連れて行かれ、容疑者とそっくりだと証言を得る。犯人の書いた紙と同じ内容の文を書かされ、似ていると言われる。面通しがあり、またここでも犯人だと指摘される。高いお金を払い保釈される。弁護士のところに行く。現場不在証明はないかと言われ、過去の事件のあった日、旅行に出ていたと答える。その旅行先で知り合った連中を訪ねるが、2件とももう死んでいた。妻は自分の歯痛のせいだと気に病み、それが昂じて精神病院に入るまでになる。裁判では陪審員の一人が不当な発言をし、最初からやり直しとなる。フォンダはすっかり神経が参る。義親からの勧めで神に祈る。その時、真犯人が別の店を襲い、店員に掴まる。フォンダは釈放される。妻が入っている病院に行くがまだ精神がまともになっていない。
最後にその後妻は回復し、今は家族ともフロリダに住んでいると字幕が出て終わる。実際にはヒッチコックがトリュフォーと会談し、この映画を話した60年代半ばにもまだ入院中だったらしい。

右側に気をつけろ Soigne ta droite 1987

ジャン・リュック・ゴダール監督、仏、81分。

観ていて良く筋の分からない、考えるな、感じろと言われているような映画である。映画を作る公爵という白痴、明らかにドストエフスキーの小説を念頭に置いた、旅客飛行機内が主な舞台となっている部分。また裸の女と踊るなどを妄想する海辺のレストランのようなところにいる男。更に音楽の録音をしている音楽家らといった筋が交錯する。

ゴダールという監督でなかったら、観て評価する気になったろうか。そもそも作られたとしても上映や鑑賞の機会もなかったろう。この映画を観た、と言いたい人のための映画のように感じた。

見知らぬ乗客 Strangers on a train 1951

ヒッチコック監督、米、101分。

有名なテニス選手が列車でおかしな男に出会う。良く喋り相手が有名なので知り合いたいのかと思っていると、とんでもないことを言いだす。テニス選手は今の妻と仲が良くなく、上院議員の娘と一緒になりたがっている。この辺りの事情を相手は良く知っており、自分は父親を憎んでいる、それで交換殺人をしようと提案するのである。つまりその男が、選手の今の妻を殺すから代わりに自分の父親を殺してくれと言い出すのである。選手は呆れ、相手にせず列車から降りる。妻と会う。もう好き合っていないが、選手が有名になり離婚する気はなくなっている。列車の男は勝手にその妻を殺してしまう。その後、選手に今度はお前の番だと脅迫するのである。恋人に事情を話す。警察は選手を容疑者の一人として見張っている。妻を殺した際の証拠品の件で、男と選手は遊園地で会う約束をする。最後は回転木馬で男と選手のもみ合いがあり、急ブレーキで止めた回転木馬が壊れる。

交換殺人などあるだろうかと、そもそもの事件の枠組みに疑問を持ってしまった。

汚名 Notorious 1946

ヒッチコック監督、米、101分。イングリッド・バーグマン、ケイリー・グラント主演。

バーグマンの父はナチスの協力者という汚名を負っていた。グラントは米諜報機関に勤めており、バーグマンに近づき、南米のナチス一派の捜査に協力して欲しいと頼む。リオ・デジャネイロに行く。バーグマンも顔見知りの男がナチス一味の一人である。かつてバーグマンに求愛し振られた経験がある。探るためバーグマンは近づく。好意を持たれ求婚される。バーグマンは経過をグラントに報告する。バーグマンもグラントも相思の仲である。結婚の話を聞かされてグラントは内心動揺するが、任務遂行のため反対できない。口に出して言わない恋人同士の葛藤が伺える。屋敷に女主人として忍び込んだバーグマンは、秘密を探る。この秘密をグラントに伝える件で見どころがある。これが元でバーグマンの正体が敵に知られるが、内密に処理しようと敵方は出る。

出来がいい映画と評判だが、どうもケイリー・グラントを見ると、家庭内暴力しか思い出さなく楽しめない。

2021年8月21日土曜日

ジーン・ウェブスター『あしながおじさん』 Daddy long legs 1912

孤児だったジルーシャ・アボット(後にジュディと改称)は大学に入学させてもらう。それは匿名を条件にした評議員の行為による。その不明の恩人宛、ジュディが書いた手紙群から成る小説。作者自身の描いた挿絵、スケッチも楽しい。

語り手ジュディが小説家志望ということもあって、読んだ小説などの作品が今となって面白い。挙げられている小説は当時のベストセラーで、今でも読まれている作品は当然多い。例えば『若草物語』を読まないで育った女の子は自分くらいだろうとか、その他『ディヴィッド・コパーフィールド』『アイヴァンホー』『ロビンソン・クルーソー』『ジェイン・エア』など。それにピープスの日記が挙がっており、少し驚いた。これは岩波新書の紹介によって我国でも有名になった日記だと思っていたら、ここにもちゃんと名前があった。さらにp.92に「マリー・パーキェフの日記」とあり、注で有名なロシヤ出身の画家となっているが、こんな人は知らない。調べてみると、名前はマリー・バシュキルツェフの日記が正しく、なぜ訳者がこんな表記にしたか不明である。マリー・バシュキルツェフはウクライナ生まれの画家で、多くの作品を残した。それに絵と同じくらい有名なのがその日記である。日本でも戦前に訳が出て戦後間もない時期に復刊された模様。戦前にはバシュキルツェフをモデルにした映画もあったらしい。なんと25歳くらいで病死したらしい。この日記を作中でジュディが話しており、今回の読者で初めてこの女流画家兼文筆家を知った次第。

新潮文庫、松本恵子訳、昭和63年改版。

2021年8月19日木曜日

救命艇 Lifeboat 1944

ヒッチコック監督、米、96分。

制作当時と同じく戦争中で、客船が独潜水艦に撃沈され、救命艇に乗った人物たちによる劇。舞台は救命艇の上だけである。まず婦人の記録作家が乗っている。次々と他の者たちが救助され乗りこんで来る。ここでドイツ人が乗ってくる。明らかに攻撃した潜水艦の乗組員で、拒否反応を示し海に放り込めと言う者がいるが、捕虜として扱う。舟の上なので縛るわけでもない。この男が医師と分かり、足の切断が必要になった男の切断手術をする。

映画の後半ではこのドイツ人が主導権を握るようになり、逆に他の連合国側の者が捕虜になる。独軍に引き渡すべく舟を漕いでいくが、最後は阻止する。映画は戦争中に制作、公表されたので、米軍人に評判が悪かったという。なぜなら登場人物のうちドイツ人が卑劣だが、有能のように描かれているからだったという。ヒッチコックは実際に戦争当初はドイツ軍が連合国軍より勝っていたからだと『映画術』で言っている。

回転木馬 Carousel 1955

ヘンリー・キング監督、米、129分、ミュージカル映画。

男が天国で星を磨いている。呼ばれる。下界で家族が困っているという。降りてみる気があるか。男は以前、下界に戻らなくていいと言っていた。男がなぜ死んだか、その経緯が語られる。元々、サーカスの回転木馬の呼び込み係だった。女主人公が男を好きになる。二人で駆け落ちしよそで生活した後、戻ってくる。男は全く何も仕事をせず、怠け者のぐうたらであり、何でも人のせいにしておよそ良心というものが全くない。戻って来てからも何もせず、盗みを働こうとして失敗し射殺される。女は子供を身ごもっていて娘を出産する。もう娘は少女になっている。男は下界に降り、娘の様子や妻がどうなっているかを見る。最後には天国に戻る。

ミュージカルなので、有名な歌としては二人で歩こうといった内容の歌が有名らしい。またダンスでは屋根の上のダンスなど見どころのある場面があって楽しめる。ただ話としては屑野郎が主人公で面白くない。これほどの屑が映画の主人公になっているのは珍しい。そのためあまり売上は良くなかったらしい。

2021年8月18日水曜日

アメリカン・スナイパー American Sniper 2014

クリント・イーストウッド監督、米、132分。実在の米軍の狙撃手を映画化した作品。

イラク戦争の戦場から、主人公の幼い日まで映画は遡る。銃がうまい主人公は軍隊に入り、その射撃の腕を認められる。恋人が出来て結婚する。ニューヨークの同時多発テロが起こる。早速主人公は対イラク戦争に参加する。何度も派遣される。戦場では多くの敵方をたおし伝説的な存在となる。仲間の被害なども経験する。何回か派遣されるので、妻は子供もおり、軍は辞めて欲しいと望む。

最後に妻の意見を聞き、辞めて故郷で後進らを指導していた。その際、同郷の後輩に殺されたと字幕が出て終わり。これは実話。壮大な葬列の模様が記録映像で映し出される。映画だから細部は創作であるが、イラク戦争で百数十人の敵を狙撃した主人公は実際にいて、故郷で殺された。犯人は20歳代半ばの元軍人で、戦争で精神がやられ回復のためその母親から頼まれて指導している時だった。犯人は釈放なしの終身刑になったという。主人公の狙撃手もさることながら、映画では字幕で片付けられている犯人についても色々考えさせられる。

堤林剣『政治思想史入門』 慶應義塾大学出版会 2016

入門となっているが、かなり個性的な政治思想史である。詳細に扱っている思想家はプラトン、アリストテレス、マキャヴェリ、ホッブス、ロック、ルソーである。著者自身があとがきで、まさかのルソーで終わってしまった、などと書いており、もっと書くつもりだったらしい。ただこう書かれると、あまり計画性のない著者なのかと思ってしまった。

正直、入門書なら政治思想史上、特に重要な思想家である上記6人で十分というか、重要な思想を丁寧に解説した方がいい、という選択肢もありえよう。あまり手を広げるだけが教科書の在り方ではない。今、入門書ならと言った。本書は入門と題にあるが、初めに書いたように結構専門的な書に見える。ここで入門書といったら宇野重規『西洋政治思想史』(有斐閣)などを念頭に置いている。本書のような著も大いに結構で、ただ題に入門を入れる必要はないと思う。最近は本書とか小野紀明『西洋政治思想史講義』(岩波)のような個性的な通史が出てきて教科書の幅が広くなっている。

内容の書き方で、これこれの思想家、事項は書かないなどとの記述があるが、このようなことは書くべきでない。書いていないが、他にももっと重要なことがあると言わんばかりの文は余計である。また参考文献を本文に載せているが、これは素人の書き方である。(哲学と宗教史とかいう本を思い出した)巻末に一覧を載せた方がいい。また巻末の注も読めと書いてあるが、だったら本文中に活字を小さくして挿入すれば読者は読みやすい。いちいち巻末をめくる作業を読者に強いている悪習が未だに続いているのは驚くべきである。専門論文ではそうすべきとなっているかもしれないが、本書は一般向けであり、読者の便を図ってもらいたい。

2021年8月16日月曜日

情婦 Witness for the Prosecution 1957

ビリー・ワイルダー監督、米、117分、白黒映画。マレーネ・ディートリヒが被告の妻、チャールズ・ロートンが弁護士役を勤める法廷劇。

金持の老婦人が殺された。付き合っていた男が容疑者となる。その弁護を引き受けてもらいたいとロートンのところへ依頼が来る。丁度病気療養の後で看護婦は止めるがおして引き受ける。容疑者の妻がディートリヒである。戦後、ドイツで知り合い結婚してイギリスに連れてきたのである。妻は当初、現場不在証明の証言をするが、妻なので信憑性は薄い。しかし後になって検察側の証人になった時、実は被告と会う前に結婚していた、更に前にした現場不在証明証言は嘘で、夫が犯人と証言する。これにロートンは仰天する。無罪は無理かとなる。そのロートンのところへ電話が入る。貴重な手紙があると。電話主の女に会ってその手紙を買い取る。そこには恋人あてで、夫を犯人に出来た、一緒になれるとあった。この手紙によって良人は無罪、ディートリヒは偽証罪で起訴される。裁判が終わった後、ディートリヒは種明かしをする。偽の手紙を自分が書き、夫を無罪にしたと。自分をドイツから連れ出してくれた夫に報いるため、自分が有罪になって構わないと。しかしその無罪になった夫は情人の女がいた。実際の犯人は夫で、亡くなった老婦人の遺産を受け継ぎ情人と旅行に出るつもりだった。それを知ったディートリヒは裁判所で夫を刺す。捕まる。ロートンは今度はディートリヒの弁護だと言って裁判所を出る。

観ていて、ディートリヒの証言は芝居だろうとは予想がつく。しかしその後、実は夫が自分を裏切っていたと分かったので刺し殺すまでは考えなかった。

2021年8月14日土曜日

断崖 Suspicion 1941

ヒッチコック監督、米、99分。ケーリー・グラント、ジョーン・フォンティーン主演。

固い家に育ったフォンティーンは、列車でグラントと知り合う。その後グラントはフォンティーンに求婚する。最初は乗り気でなかったが、父親がフォンティーンは結婚しないだろうと言っているのを聞き、結婚する気になる。グラントは調子のいい男で贅沢な新婚生活を始める。それが実は借金、更にそれにとどまらず詐欺行為までやって賄っていたと、後に分かりフォンティーンは愕然とする。不誠実極まりない、だけでない。グラントの言動からフォンティーンは、犯罪を計画しているのではないかと疑う。悪い方へ空想、危惧は膨らんでいき、自分の殺害まで企んでいるのではないかと思うようになる。

最後は大体、観ていて想像するとおりである。しかしながらトリュフォー『ヒッチコック映画術』を読むと、ヒッチコックの当初案では全く異なる結末を考えていたという。もしその結末だったらかなり驚く。上記の本によれば当時の映画界ではグラントを悪役にする気は全くなかったという。

2021年8月10日火曜日

男と女 Un homme et une femme 1966

クロード・ルルーシュ監督、仏、104分、総天然色と単色の画面が共に出てくる。

男はジャン=ルイ・トランティニャン、女はエヌーク・アーメが演じる。共に配偶者を不慮の事故で亡くしており、また幼い子供がいる。子供たちが同じ学校に通っていて、ある日、男が女を車で送るので交際が始まる。お互いの過去や仕事を話し合う。男はレース・ドライバーだった。モンテカルロ・ラリーで優勝する。女は電報を出す。単に祝福だけでなく愛を告げる。
男はモンテカルロから車を飛ばしパリまで戻ってくる。女がいないので捜し、ようやく見つける。愛を確かめ合ったが、女はまだ夫は自分の心の中で生きていると言い、一旦別れる。女は列車でパリに戻る。男はどこが悪かったか再考し、車でパリに戻り女を駅のホームで待つ。列車が着き、降りてくる女を男は見つけ抱き合う。

2021年8月9日月曜日

哀しみのトリスターナ Tristana 1970

ルイス・ブニュエル監督、伊仏西、99分。スペイン語。カトリーヌ・ドヌーヴ主演。

両親を亡くしたドヌーヴは不良老人とも言うべき、落ちぶれた貴族の養女になる。不良老人はいい歳して好色、金もなく、誇りだけはある。老人はドヌーヴを女として見、とうとう自分の物にしてしまう。後にドヌーヴは若い画家と相思の間柄になる。画家はドヌーヴが老人と男女の仲と知ると驚き、怒るがドヌーヴと一緒になりたい。ドヌーヴと画家は老人から去り、街を出る。
その後の2年間で、老人の姉が死に老人は財産を相続する。あのドヌーヴと画家が街に帰って来ていると聞く。ドヌーヴは脚の病気で臥せっていると。老人と画家は久しぶりの対面をする。ドヌーヴが死ぬなら自分が育った家で死にたいと言っている。ドヌーヴに執心な老人は家に呼び寄せ医者に診てもらう。病状は悪化しており切断するしかないと。これらの治療は老人が負担した。自分の元にドヌーヴが帰って来たので喜び何くれと尽くす。その間、自分の必要性をないと感じた画家は去る。不具になったドヌーヴはどれだけ老人に良くしてもらっても、かたくなに老人を拒み、嫌い続ける。
神父の説得もあって老人とドヌーヴは結婚する。それでもドヌーヴは老人を厭う。ある吹雪の夜、ドヌーヴは老人に呼ばれた。痛くてしょうがない、医者を呼んでくれと老人は頼む。ドヌーヴは隣室で電話をするふりをする。戻って来て老人は動かない。窓を開け、寒い空気を入れる。

血は渇いている 昭和35年

吉田喜重監督、松竹、86f分、白黒映画。佐田啓二主演。

会社の便所で拳銃をいじっている佐田。屋上に行く。社長が首切の必要性を、社員を集めて演説している。やって来た佐田はいきなり拳銃をこめかみに当てて、仕事をしたい、辞めさせたら生きていけないと言い出す。周りの者が驚き、制止して弾はそれ、自殺は未遂に終わる。この事件がニュースになる。生保会社に勤める芳村真理はこの事件からあるアイデアを思いつく。自殺未遂の佐田に生保のコマーシャルをさせようと。話を持って行った当初、佐田は乗り気でなかった。しかし妻に勧められ引き受ける。拳銃をこめかみに当てた姿勢でテレビに、写真にと露出する。これが受けて佐田は有名人になり、生保の売り上げに貢献しただけでなく、本人にもあちこちから声がかかるようになる。朴訥な生真面目さが受けたのである。企画した吉村はあまりの佐田人気に、自分の手から離れてしまったと感じる。その吉村の友人で、アプレの権化のような若者がいて、有名人に嫉妬し、なんとか引きずりおろしたいと欲望に燃えている。佐田もその対象になり、佐田の妻を暴行したり、イメージをぶち壊すような目に会わせる気でいた。とうとう怒った佐田が突き飛ばし車に轢かれそうになる。これで一挙に佐田は見棄てられ生保会社から首になる。佐田は自分の意思が純粋なので認めてもらえるはずだと確信し、重役室に行って拳銃自殺を再現する。どうせ茶番だろうと思っていた重役らの前で本当に自殺する。

2021年8月8日日曜日

北京原人の逆襲 猩猩王 1977

ホー・メンファ監督、香港、90分。

香港版キングコングといった印象がまずある。キングコングと最も異なるところは女ターザンの登場と活躍である。全体的にキングコングをなぞっているような筋だが、映画の細部は破茶滅茶であり、真面目に議論する映画ではない。こういうふざけた作品が好きな人がおり、そういう人にとってはかなり面白い作品ではないか。

ヒマラヤで巨大な足跡が発見された。ヒマラヤの雪男のような話だが、それを捕まえに香港から探検隊が派遣される。主人公の探検家は失恋の痛みを癒すために参加する。隊の目的は捕まえた動物を見世物にした金儲けである。現地では巨大なコングが出現し、村を破壊する。

探検隊は目的地に行くまでかなり困難な目に会い、多くの犠牲を出す。もうこりごりだと他の隊員らは逃げて帰る。主人公は巨大な猿、映画の題で言えば猩々に掴まる。それを助けたのは女ターザンだった。金髪の西洋人で猩々(名はある)に命令し、他の動物らとも戯れる。主人公がどうして来たのかと尋ねると、幼い時両親の操縦する飛行機が落ち、自分だけ助かり猩々に育てられたと分かる。お互いに好きになり、女の命を主人公が救ったこともある。主人公は女に猩々を香港に連れて行こうと提案する。それから後は、香港を舞台にしたキングコング映画である。ただし特撮に日本の映画人が加わっているそうで、怪獣映画を観ているような趣きになる。

猩々の最後もキングコングと同じである。ただし女ターザンが加わっているので、悲劇性はより高い。女ターザンはビキニのような原始人衣装、色気担当で娯楽性を増すためだろうが、それだけでないと全体を観れば分かる。映画の前半はヒマラヤの自然で動物たちとの戯れ等があり、俗悪な文明社会の都会と比べ、自然保護をうたっているようにさえ感じてしまう。初めに真面目な映画でないと書いたが、こう理解すると元のキングコング物より深い映画かもしれない。

題名の北京原人だが、英語題名はMighty Peking Manで、北京原人を英語でPeking manという。北京原人は昔の世界史の教科書の初めの方に出てきて、名前は誰でも知っていた。後に学問的に特別に扱う存在でないと分かり、今では死語である。ただし映画公開当時は誰でも知っていたし、英語名がそれを使っているので邦題も踏襲したのだろう。また逆襲となっているが、初めて出てきて殺されるので逆襲ではない。

2021年8月7日土曜日

道中の点検 ПРОВЕРКА НА ДОРОГАХ 1971

アレクセイ・ゲルマン監督、ソ連、97分、白黒映画。

第二次世界大戦中、ドイツ軍が攻めてきているソ連の田舎。ソ連の兵士がドイツ軍捕虜から逃げてきた。一度ドイツ軍に捕えられ、その手先となって働いていた。その後ソ連軍に戻ってきた。この経緯からして信用ならない奴だと思われ、同僚の兵士やまた上官もスパイではないかと疑い、嫌がらせをする。男は独軍兵士の恰好で敵方に近づき、だまして倒す命令を受ける。ドイツ軍に殺されたソ連兵も後になって男が殺したのではないかと上官は疑る。仲間は男に同情的だが、男は感情を殺している。最後に駅の攻撃に駆り出され、派手に相手方に攻撃をしかける。

欧州の戦いは自国が戦場になり、なんら戦争に関わり合いのない一般国民が、自国にやって来た敵軍兵士に多く殺された。映画で息子の死骸にすがる老婆。一方で上官からの命令は絶対なので、兵士は軍の中で恐ろしく不当に不快な目に自国の軍から会わされる。

本作は1971年に製作されながら、当時のソ連は上映禁止とし、ソ連崩壊につながる動きの中でようやく公開された。ソ連当局はこの映画の主人公のように敵方に一度寝返りした男を主人公にするような映画は認められなかったのか。ソ連時代に禁止されたという事実が今ではこの映画の価値となっている。

101匹わんちゃん 101 Dalmations 1961

ドディー・スミス監督、米、79分、ディズニーの漫画映画。

日本公開当時は『101匹わんちゃん大行進』という題であった。舞台はロンドン。ダルメシアンの雄の語り手は自分の主人である作曲家の、配偶者候補を窓から眺めて捜している。どの女も犬を連れている。お眼鏡にかなった若い女はこれまた魅力的な雌のダルメシアンを連れていた。公園で二人が出会う機会をつくる。後めでたく二人は結婚し、ダルメシアン同士も一緒になる。15匹の子犬が産まれる。若い夫婦の知り合い(親戚?)のクルエラという婦人がやって来る。毛皮のコートに身を包み、毛皮をこよなく愛している。子犬が産まれたというので、欲しいと言い出す。毛皮を作るためという。夫婦は断る。怒ったクルエラは帰る。数日後、子犬たちが行方不明になる。警察等で捜しても分からない。犬夫婦は仲間の犬やその他動物に救助を呼びかける。雄の吠え声は遠くまで伝わっていき、ある屋敷が怪しいと分かった。その屋敷を調べると実の多くのダルメシアンがいた。15匹のきょうだい以外に他から盗まれてきたのである。この屋敷の犬たちはあのクルエラが悪党によって集められ、毛皮を作る材料にされるところだった。早速遠くロンドンまで吠え声で犬夫婦に知らせる。雪の中夫婦はやってくる。夫婦して犬たちを助け出し、逃げる。悪党二人はあわてて追いかけ、また気が付いたクルエラも車で追う。逃げる101匹の犬と悪党、クルエラの追っかけごっこがある。最後には主人の若夫婦の家に101匹の犬たちは着く。主人らは大喜びし、田舎に引っ越そうと言う。

60年も昔の映画なので今ならこうはしないだろうというところが目につく。若い作曲家もクルエラも煙草を吸っている。クルエラは毛皮女のいでたちで、子犬の皮を使って毛皮を作ろうと、残酷極まる計画を立てる。動物たちの協力によって、可愛い子犬たちを悪人どもから救うため必死に努力する、が見どころの映画か。

2021年8月4日水曜日

Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち Pina 2011

ヴィム・ヴェンダース監督、独、103分。

ピナ・バウシュは女舞踏家、2009年に死去。そのピナが主宰した舞踏団の踊りの模様、またピナに指導を受けた踊り手たちがピナについての思いを語る記録映画である。

独創的な踊りが披露され、見応えがある。個人的には映画の最初の方で、鑑賞用バレエ音楽として極めて有名な『春の祭典』の一部、といってもそれなりの時間をとっている、の集団による踊りがあり、面白かった。あまりに有名な作品でありながらバレエまたは踊りとして観た経験がないからである。

多羅尾伴内、片目の魔王 昭和28年

佐々木康監督、東映、99分、白黒映画。

占領下、時代劇の禁止時代に片岡千恵蔵が主演した探偵物、変装して七つの顔を持つ男と売り出した。これは占領終了後の作品。

若い男が船から投げ出される。後に救助される。片目の魔王と呼ばれる巨大なダイヤモンドのありかを知っていた男である。ダイヤの正当な持ち主という花柳小菊と千原しのぶの姉妹は男から連絡を受ける。姉妹が生活の糧を得るため働いているキャバレーで殺人があり、男に容疑がかかる。変装して神出鬼没の片岡は真相を突き止め、姉妹に助けるべく、奔走する。最後はお決まりの銃撃戦、人質をとった悪漢どもを自動車で追っかける場面などがあって、典型的な冒険活劇になっている。

花柳小菊は後の映画の印象より上背があるように見え、千恵蔵はこういう現代劇になると背が高くないのが明瞭。ただ今ほど身長を気にしなかった時代かもしれない。また東映時代劇でお馴染みの千原しのぶは若く、後の総天然色版時代劇の印象よりまさに美人に見えた。

ぼくのエリ 200歳の少女 Låt den rätte komma in 2008

アルフレッドソン監督、瑞、115分。

主人公の少年は学校でいじめに会っている。復讐したい気持ちはあるができない。アパートの隣にエリとその父親が引っ越してくる。少年は、エリに会う。このエリは少女役と知っていないと、ちょっと見ると男っぽい。男と変わらない服装だし。すぐには無理だったが、主人公とエリは友達になる。その間、エリが中年男を襲い、血を吸う場面が出てくる。エリは吸血鬼だった。主人公はそれを映画の後の方になるまで気が付かない。エリの励ましで、いじめをしてきた連中に仕返しをする。それで血の契りをしようと主人公が血を流すと、その血に飛びついてすする。これで主人公もエリが吸血鬼であること、更に生理的に少女でないと分かる。その後もエリは殺人を重ねていく。主人公が仕返ししたいじめっ子の兄がやって来て、主人公をプールに沈めようとする。その時、エリが来て兄に残酷な方法で制裁を下す。主人公とエリはもうここにいられなくなったと、列車で去っていく。

難しい映画で、その意図をきちんと理解しようとしたら解説でも読むしかないのか。難解な映画好き向きである。

足ながおじさん Daddy long legs 1955

ジーン・ネグレスコ監督、米、128分、ジーン・ウェブスターの原作を自由に映画化。ミュージカル映画である。フレッド・アステアとレスリー・キャロンが主演。

米の大富豪のアステアがフランスに行った際、孤児院のキャロンを見つけ、アメリカの大学に留学させてやろうとする。しかしアステアの名は一切出さないままで。キャロンは女子大に入る。手紙をいつも書いているのだが、足ながおじさんと命名した匿名の相手からの返事は一切なし。秘書らがアステアに言い、初めて手紙を全部読み、キャロンに関心を抱く。この辺り援助しておきながら、全く放っておいてアステアが非情な人間に見えてくる。大学のパーティに自分が援助者とは隠して参加し、キャロンを気に入る。その後はアステアが大富豪なので贅沢三昧させ、キャロンに恋心を抱くようになる。最後はこういう映画だから当然めでたく終わる。

この映画の製作当時、アステアは50代半ば過ぎで(現在の年齢に換算したら10歳くらい上になるだろう)、なおかつ美男子でもないから、ただただ大スターアステアとして観るわけである。もしアステアを知らない人が見たらダンスはうまいが、なんだこの爺いとなるだろう。

2021年8月2日月曜日

スペシャリスト Un Specialiste 1999

エイアル・シヴァン監督、仏、123分、白黒映画。

ナチスのユダヤ人殺戮の責任者の一人アイヒマン(1906年生まれ)の裁判、1961年にイスラエルで行なわれた、の記録映画である。元の記録映像は非常に長尺で、それを2時間に編集した。アイヒマンは戦後、南米に隠れていて、この裁判の1年前にイスラエルの警察によって逮捕された。

裁判でのアイヒマンの証言は、自分はユダヤ人移送の責任者であったが、上からの命令でやっただけだと繰り返し述べる。それは真情だったのだろう。組織の一員として特に戦時中で、命令に従うしかない。検察が野獣と変わらないと非難するが的外れにしか見えない。野獣に失礼だとかの話でない。この検察の言い分ではまるでアイヒマン(他の当時の将校軍人でもいい)が好き好んで、殺人を楽しんだと言わんばかりである。それでは真相究明にならない。ただ感情的に怒りをぶつけているだけである。ナチス高官なら仕方ない、というなら裁判などする必要はない。さっさとなぶり殺しにすればよいだけである。

命令に従って行なった、それは本当である。だからといってアイヒマンの責任がないと言っているではない。明らかにある。将校で責任者であったからある。アイヒマンに命令を与えた者はアイヒマンより責任がある。アイヒマンが命令した者の責任は相対的に少ない。アイヒマンを弁護するつもりはない。しかしアイヒマンが異常な殺人愛好家であったと、それで終わらせたいのか。この裁判から60年も経って疫病の世界的流行で、それを流行らせたというので、その民族か似た者に他の有色人種が暴行していた。他人種への憎悪は普通に見られる。ここでは疫病がそれを顕在化させた。ユダヤ人憎悪は当時の西洋で珍しくない感情だった。それをナチスが政治的に利用して、特に総統職の者が異常だったので大量殺戮が行なわれ、それに加担したアイヒマンは責任を免れない。アイヒマンが平々凡々なサラリーマンであったとは何ら驚くに当たらない、というか当然に思える。アイヒマンが言っていたように、このような悲劇を二度と繰り返してはならない、それが真の責任の取り方である。第二次世界大戦後、ユダヤ人攻撃は絶対的に禁止となった。それで終わるのではなく、他の人種間でも、個人に関係ないのに(あるいはどうしようもないのに)まとめて人種単位で非難蔑視はやるべきでない。

ライオン・キング Lion King 1994

ロジャー・アラーズ、ロブ・ミンコフ監督、米、88分、ディズニーの漫画映画。

アフリカの大地を支配するライオンに息子が誕生した。シンバという。いたずら好きで無鉄砲な行動をして、親からたしなめられる。王である父親の弟、シンバにとって叔父に当たるライオンは王の位置を狙おうと、悪だくみをする。それによって王は死ぬ。この死に自分に責任があると洗脳され、王国を去って離れた地で新しい友達を作り成長する。その間、王国は叔父ライオンによって支配され荒廃していった。シンバの幼馴染の雌ライオンがシンバのもとにやってきて王国の惨状を訴える。シンバはもう自分は王の任ではない、王国に帰る気はないと答える。しかし説得され自分の責任に目覚め、王国に帰り叔父をやっつけ新しい王に就く。

話の前半は『ハムレット』の枠組みを借用し、全体として『バンビ』のような動物の成長物語である。

2021年8月1日日曜日

ショート・サーキット Short Circuit 1986

ジョン・バダム監督、米、98分。軍事用に開発されたロボット(No.5という名)が意思を持つようになる。開発工場から逃げて、若い女の家で匿われドタバタを起こす。また捕まえに来た製作所の科学者は、最終的には女と意気投合し、新しい天地を目指し、ロボット、女と共に移住を決める。

35年も昔の映画であり、よく耳にする価値観、今となっては古い感じさえする、で作られている。ただしうまくいって映画は終わるし、難しい内容ではないので良い映画と思った。