2021年4月30日金曜日

小沢信男『犯罪紳士録』ちくま文庫 1990

明治以降のいくつかの犯罪をまとめている。最初の3篇は古典的な有名事件である。吹上佐太郎、鬼熊こと岩淵熊次郎、坂田山心中の事件の概要である。それ以降は現代の犯罪と言ってよい。昭和40年代以降の事件を記している。女高生の監禁暴行、女による嬰児殺し、嫁の姑殺し、有名大学の兄弟同士の殺人等々。週刊誌に載せる犯罪話のような感じになる。言葉つかいも当時の流行語のような、何となく安っぽい言い方を使っており、現在では本書の価値を低くしている。

最後に犯罪紳士録、明治大正昭和と題する過去の有名な犯罪者の概要が小さい字で載っている。高橋お伝や都井睦雄から宮崎勤に至るまで有名な犯罪者の説明があり、これは役に立った。

悪魔は闇に蠢く 맨홀 2014

シン・ジェヨン監督、韓国、100分。

これまた女子連続殺害事件もの。犯人はマンホール下の地下に住み、マンホールに被害者を引っ張り込み、殺害する。映画で描かれる被害者(候補)の一人は聾啞者の少女、姉がいる。またもうひとりの少女は父がいて捜索する。今まで沢山の被害者が出ているのに、聾啞の少女は一人で姉を迎えに行き、被害に会う。姉は妹を捜しに地下に行く。また失踪した娘を捜す父親はやはりマンホール下に何かがあるとして潜っていく。韓国映画ならではというか警察が無能で何もしない。韓国映画は警察を非難するために作られているのだろうか。地下には犯人の他、少年がいてこれがなぜいるのか、被害者の味方なのか敵なのかよく分からない。地下で犯人と姉妹、及び父親との戦いがある。韓国映画では他の映画なら、殺す必要もないと思うような殺しが起こる。ここでも父は殺された娘を発見し、犯人を非難するが犯人はお前が殺したのも同然だと(助けに来なかったから)とやり返す。姉妹も悲劇に会う。

正直言って他の韓国映画に比べ感心するところは少ないが、無情さは十分描いている。

2021年4月29日木曜日

鬼はさまよう 살인의뢰 2015

ソン・ヨンホ監督、韓国、102分。

いかにも韓国映画らしく女の誘拐殺害で映画は始まる。主人公の刑事は、最初は容疑者が確定できたので喜んでいた。しかし連続誘拐殺人事件の被害者に、自分の妹がなっていると初めは知らなかった。妹の夫である義理の弟からの連絡で、もしかしたらとなる。容疑者を捕まえ、何としても妹の居場所、もう死体の在り処なわけだが、を吐かせようとする。

しかし犯人はロボットの様に全く動じない。死体の場所が分かった3人の殺害容疑で起訴、判決が出る。その判決に刑事も、夫も全く納得いかない。話の後半はややこしくなり、服役中の犯人を殺すか、あるいは逃がすような一連の動きがある。これは犯人に自ら復讐したいという固い意志の持ち主の画策だった。犯人はアメリカ映画の超人的な登場人物よろしくどれだけ痛めつけられても、不死身のようである。最後に近づくと復讐を図る男が誰か、その企みが刑事に分かるようになる。果たして私刑は許されるのか。

韓国映画は他の国の映画なら敬遠するというか、最初からそうは描かない、が不文律になっているところを遠慮会釈なく徹底的に描き尽くす。それが暴力的、残酷過ぎるように見えるが、それ故に強く迫るものがある。

2021年4月27日火曜日

悪魔は誰だ 몽타주 2013

チョン・グンソプ監督、韓国、120分。

もうすぐ時効になる誘拐殺人事件を担当する刑事。被害者の母親に犯人を捕まえると約束しこれまで捜してきた。容疑者らしき者を見つけ、追うが逃げられる。時効まで2時間で間に合わない。母親に謝る。15年経つ。別の誘拐事件が発生する。祖父が目を離しているうちに少女が誘拐された。脅迫の電話がかかってくる。以前の事件担当の刑事は、この身代金要求の手口が全く昔の事件のやり方をなぞっていると気付く。最初は狂言誘拐で祖父が孫を誘拐し、身代金を要求するつもりでいたと警察は判断し、祖父を捕まえる。祖父は無実を訴える。以前の刑事は疑問を持つ。改めて調べると声紋で奇妙な発見をする。結局祖父は無実と分かる。今回の事件では。しかし15年前の犯人だった。その時の被害者の母親が今度、犯人となってかつての犯人の身内を誘拐したのである。細かい設定が色々あるが、自分の感想を言えばあまりに作り話過ぎている。実際にこんなにうまくいくわけない、とまず思ってしまう。丁度、推理小説で綿密にからくりが仕掛けられていても読むと、実際にはこうはいかないと思ってしまうのと同じである。歳をとると以前なんとも思わなかったところが気になってくる。理屈だけ合っていれば納得できる者向けである。

2021年4月26日月曜日

山崎圭一『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』SBクリエイティブ 2018

本書は、ストーリーとして歴史を描き、年号を出さないという方針のもとに書かれた世界史である。構成としてはあちこちの世界の各地域に飛んで記述するのではなく、地域ごとの歴史を書く。ヨーロッパとか中東とかインド、中国など古い時代ではそれぞれの地域の歴史をまとめて書いている。その後は一体化する時代として、西洋人が東洋など他の地域に乗り出した時代以降は横のつながりで書くという構成である。

書き方の話以前で、どういう内容を取り上げているかを見ると何十年か前の世界史とは随分違うような気がする。中東の歴史をこんなに詳しく教えようとはしなかった。また中国は昔からそれなりの記述があったが、更に量を増している感じがする。最近の非西洋の重視、実際に政治的経済的に重要性を増している地域だからだろう。ただ書き方の点では気になるところがある。歴史というのはどうしてもある視点、価値観、世界観から書かざるを得ない。そうでないと書けないのである。どういう事項を、記述の対象として選んだか、それをどう書くかは著者の見方によるからである。例えば、第二次世界大戦前後の記述で、ファシズムを悪である、対照的に社会主義はスターリンが悪人だったので良くなかった、などと記述してある。これでは昔と同じである。社会主義はファシズムと変わらない、いや一層悪い体制である。なぜなら理論的に「正当化」されているので何十年も自由の束縛のみならず百万単位、いやそれより桁の多い犠牲者を出させた。史上最悪の体制である。現在ならそう分かっている。それをなぜ書かないか不思議である。

2021年4月25日日曜日

アトランティック・リム Atlantic Rim 2018

 ジャレッド・コーン監督、米、85分。

怪獣対巨大ロボットのシリーズもの。大西洋の海中からいきなり巨大な甲殻類のような怪獣が現れる。フロリダの街を襲う。対策本部はロボットで対処するため、急遽開発した研究者を呼び戻す。以前確執があり久しぶりに古巣に戻った研究者。研究者が聞くと以前と違ったOSになっていて、しかも操縦士はシミュレーション練習のみの実戦経験のない連中だけである。男と女二人である。研究者が言うには別のシステムなので操縦士を乗せても動きが鈍く、反応に遅れが生じる。それでもともかく出動するしかない。三人の乗った巨大ロボットは怪獣と対決する。動きが鈍いため一人のロボットは倒され、男の操縦士は亡くなる。後二人で怪獣を倒すが、倒れた体から無数の蜘蛛のような小型怪獣が発生する。それが街を襲う。今までの兵器ではだめなので、小型怪獣を倒しそれを解剖して調べる。女研究者が怪獣を倒す液を開発する。一方新しい怪獣が二匹現れ、上陸する。今度は開発した研究者と軍人が巨大ロボットに乗って対決する。しかし発射装置が壊れ、怪獣打倒兵器が作動しない。二匹の怪獣は合体して巨大化する。軍人操縦の巨大ロボットは体当たりの神風特攻をする。研究者も装置が壊れているので、ぶつかり装置を発射させる。倒れたロボットに救助に乗りこんだら研究者は無事だった。一番感心しないのは、最後の体当たりで相手怪獣に兵器を浴びせた筈なのに、その辺がはっきり映されない。倒れている怪獣は死に、ロボッの中で気を失っている研究者を見つける場面になるだけである。

吉田秀和『音楽を語る』(上・下)芸術現代社 1974、1975


評論家吉田秀和が大学生有志3人を相手に音楽入門とも言うべき話を、やり取りしながらした記録である。内容(目次)は次の通り。

音楽の入り方について/バロック音楽/バッハ/モーツァルト/ベートーヴェン/シューベルト/シューマン/ショパン/室内楽(以上上巻)オーケストラの伝統と文化/ワーグナー/ブラームス/ピアニスト/チャイコフスキーとロシアの音楽/日本の演奏家/ドビュッシー/マーラー/現代音楽/音楽批評(以上下巻)

対談で相手に講義する形であるから分かりやすい。相手の大学生も通を自認しているようであり、全く音楽を知らない相手との対談ではない。大学生らの意見は当時の音楽ファンの代表的とも言うべきであり、それを吉田が訂正と言うか自分の意見を言ったりしている。ここで話されているのは50年近く前の会話で、吉田にしてももし後年これを見返したら別の意見であったろうと思わせる。いずれにしてもやさしい音楽入門として現代でも読む価値はあると思われる。

2021年4月24日土曜日

母なる復讐 돈 크라이 마미 2012

 イ・サンヨン監督、韓国、92分。実際に起こった被害者の母が起こした復讐行動の映画化。

離婚が成立したばかりの母は娘と二人暮らしを始める。娘は高校生になったばかり、転校してきて、ある男子生徒を気に入る。その男から連絡がある。喜んで行く。実は女子生徒を暴行するための計画だった。後に知った母は驚き、犯人の男子生徒らを、示談を断り、告訴する。しかし裁判では少年法の適用で無罪であった。絶望に陥る母娘。更に娘に電子メールがあり来ないと映像をインターネットにばらまくと脅される。行って更に辱めを受け、娘は自殺する。母親は復讐を決意する。誰が主犯かを突き止めようとする。二人の男子に復讐したが三人目、実はその男が主犯と分かった時点で、警察官が殺人は止めろと制止する。

自ら復讐を行ないたくなる気持ちはもっともだし、こういう場合はままあるだろう。見ていて気になったのは、復讐した男子たちの殺し方があっさりし過ぎ。女が復讐するとなれば、特にこの映画のような場合だったら、あんなに生易しい殺し方で納得するはずがない。

レディ・キラーズ The Ladykillers 2004

イーサン&ジョエル・コーエン監督、米、104分。イギリス映画『マダムと泥棒』(1955)の再映画化、元の映画も原題はThe Ladykillersで同じ。

ミシシッピ川河畔に近い田舎町に一人で住む黒人未亡人。トム・ハンクス演じる「教授」が下宿を借りにやって来る。ルネサンス期の音楽の専門家の他の4人の仲間と、地下室で練習したいと申し出る。実はハンクスらは泥棒でミシシッピ川に横付けされている船の中のカジノから金を盗み出すのが目的だった。地下室の壁を掘り進み、船から大金を盗む計画である。毎日音楽の練習と称してトンネルを掘っていた。世話焼きの夫人がいろいろ干渉してくるのでひどく困る。最後に金を盗み出し地下室で祝いをあげていたら、トンネル埋め立て用の爆発が予定外に起こる。夫人が慌てて地下室を覗くともうもうたる煙の中で札が舞っている。驚いた夫人が説明を求める。最初は誤魔化す気でいたが、最後には真実を話さなければならなくなる。夫人が以前より寄付している大学に出すか、あるいは警察に行けという。ハンクスは仲間たちと話し合い、夫人を殺すしかないとなる。くじ引きで誰がやるか決める。次々と試みるがみんな失敗し亡くなる。夫人は誰もいなくなった地下室に札束があるので警察に連絡する。警察はもらってしまえといい、大学に寄付したらどうかと提案する。これに夫人も賛成する。

ロンドン・ブルバード London Boulvard 2010

ウィリアム・モナハン監督、英米、104分。

主人公のコリン・ファレルが刑務所から出所する。仕事を世話してくれるという話だが、犯罪はやりたくないと断る。見つけたのは、キーラ・ナイトレイ演じる女優のボディガードである。浮浪者の友人が殺害される。ファレルは金稼ぎで、数名の男達から袋叩きに会う。それを知ったギャングのボスは見どころがあるとして、ファレルを仲間になれと誘う。断る。ある黒人が捕まりこの男が痛めつけた奴かとファレルに尋ねる。否定する。するとボスは目の前で黒人の男を射殺する。これで悪事を知ったからと、ファレルにもう逃げられないと脅す。後にボスは食事に誘い、再度勧誘するが、ファレルは断る。

ギャングのボスはファレルの妹を殺させる。ファレルはボス宅に乗りこみボスを射殺する。

ファレルはナイトレイといい仲になっていた。ナイトレイの夫が死ぬ。一緒にロサンゼルスに行こうとなる。先にナイトレイは行った。後からファレルが行こうとして家を出ると不良たちに刺される。ファレルは以前友人を殺害した不良を見つけていたが、その際見逃していた。そのせいで自分がやられることになった。

2021年4月21日水曜日

ヒューム『二輪馬車の秘密』横溝正史訳 扶桑社文庫 2006

ファーガス・ヒューム(1859~1931)は英国生まれで豪州に一時滞在していた。その『二輪馬車の秘密』は1886年に豪州で発表された。イギリスで翌年刊行されると爆発的な人気となったそうだ。更に明くる1888年にドイルの『緋色の研究』が発表されたが、全く話題にならなかったとか。

内容は全く19世紀の長篇推理小説そのものである。メルボルンである夜、二輪馬車に乗せられた紳士が、後に殺されていたと分かる。犯人は誰か。容疑者はすぐに出てくる。ある令嬢を争っていた恋敵の男である。逮捕されるが何も話さない。黙秘を続けているのはある秘密を守るためである。逮捕された男を愛している令嬢は心を痛める。真理を求める弁護士などの努力が続く。裁判では無罪で釈放された。これで終わりではない。背後に潜んでいた秘密は何か。最後までその秘密が読者をひきつける。なお本書は抄訳だそうで完訳版もある。

解説によると有名な推理小説研究家ヘイクラフトはヒュームの小説を散々けなし、本書は読むに耐えないと言っているそうだ。どういうところがひどいと言っているのか書いて欲しい。

中島健蔵『昭和時代』岩波新書 1957

 

フランス文学者、評論家の中島健蔵(明治36年~昭和54年)の書いた、戦争終結までの自伝のようなものである。自伝のようなものとは、自分自身の生い立ちより時代社会を描きたかったと見えるからである。関東大震災の際の朝鮮人殺戮の記述がある。また第二次世界大戦中、シンガポールに派遣されてそこでの経験が書いてある。シンガポールで華僑の大量殺害があったとある。さらに向こうの人間から写真を見せられ、尋ねられた際、とっさに嘘を言ったなど。また、戦争が始まる前の日本の情勢などについての当時の手記が収録されている。

はしがきに岩波書店に勧められて、自分も書かなければ思っていたなどとある。今では過去の人となった評論家であり、目新しい情報もあまりなく一般的に大して面白い本ではないが、当時の知識人の意見、また出版当時の雰囲気が伺える。

宇野重規『未来を始める』東京大学出版会 2018

 政治学者の宇野重規が女子中高生に対して行なった、政治学の講義である。通常の政治学の講義がどのようなものが標準か知らないが、(そもそも標準的な講義があるかどうかさえ)本書は若い世代に対して話しているので、分かりやすい言葉で語っている。このように平易な語りになると講義者の力量が分かる。当然ながら話す際に具体的な事例を多くしている。

その具体的な話で少々気になる点がある。例えば資本主義と社会主義の比較で、現在の資本主義諸国は社会主義的政策を多く取り入れている。それで社会主義はそんなに悪くないと社会主義を擁護しているのである。社会主義を今時擁護しているなど、何か北朝鮮のような国家の是認につながる可能性がある。そもそも社会主義国家でこれまで行なわれてきた弾圧、処刑をどう考えるか説明してもらいたかった。さらにトランプ大統領時代の講演なので、トランプ大統領について言及している。あまりトランプを評価していないようである。どう意見を持とうが自由だが、若い者相手の講義で一方的に自分の意見を主張するのはどうか。

3講でルソー、カント、ヘーゲルを取り上げ、それらの政治思想を分かりやすく語っている。ここの部分は専門だけに白眉だろう。ルソーやカントの私生活、人生も話している。そもそも思想家の人生とその思想の評価とどう関係があるのだろうか。生徒たちに後でどの思想家を評価するか聞いて、ヘーゲルが多くルソーは少ない。ルソーの人生を聞いて感心する人はあまりいないだろう。日本人はヘーゲルが好きだなどと言っているが、そんな一般的評価など生徒たちは知らない。自分の説明のせいである。

いろいろ意見を述べたが、今の政治学でどういうところを関心事項としているか分かり有益な本である。

松本清張『ミステリーの系譜』中公文庫 1975

実際の犯罪の記録。三話あり『闇に駆ける猟銃』『肉鍋を食う女』『二人の真犯人』。初出は「週間読売」に昭和428月から434月までの連載である。

まず『闇に駆ける猟銃』は有名な津山事件の記録である。例を見ない大量殺人であり、ドイツで1913年に起こったワグナー事件の概要を、大量殺害の前例として併せて記している。多分、近代日本の犯罪史上最も有名な事件の一つではなかろうか。ところが本書の本文及び解説にはあまり知られていないと驚くような記述がある。

「・・・この事件はあまりひろくは世に知られていない。当時、地元の新聞はさすがに大きく報道したが、それも束の間で、すぐ消えた。」(本書p.12)この後、清張は戦争中だったから当局の好ましくないという意図が働いたかもしれないと推測を述べている。昭和42年当時はあまり有名でなかったのか。解説にも「・・・これだけの大事件でありながら犯罪学の専門家には知られているが、一般にはほとんど知られていない」(p.236)とあり驚く。文庫出版の昭和50年当時になっても無名の事件だったのか。どこで読んだか失念したが、本事件は当時から大評判になったとあって、知られていないなどとはとんでもない、という文があった。清張の文に対する反対のように思えた。

肝心の本文の記述につき述べる。犯人の名はそのまま使っているが、被害者らは仮名である。そういう意味で犯罪の記録ではない。名前などは意図的な改変だろうが、他の部分でも変更があるかもしれない。この作の最後に、東京久留米で大正時代に起こった、衝動的な殺人について簡単に触れている。この事件についてインターネットで記事があり、清張の文は事実と異なると書いてあった。

以上の記述で、本書を貶すつもりは全くない。事件について冷静に、なおかつ興味を持って読めるよう書かれている。本事件に関心がある者はまず読むべき著作である。

『肉鍋を食う女』は終戦の年に北関東の山村で起きた猟奇事件である。加害者被害者共に精神薄弱で、母親が継子を殺し食糧の足しにした。終戦後の食糧事情が影響している。もっともこの短篇では、明治時代に起きた野口男三郎事件を詳しく書いてある。こちらの方が複雑であり色々書くべき事柄が多いせいか、むしろ主になっているくらいである。もう若い世代は知らないだろうという忖度から書いたとある。共通する猟奇犯罪があるからである。

『二人の真犯人』は女が殺され、その犯人が二人出てきたという話である。まず容疑者が逮捕された。どうみても犯人に見える。自白する。ところが後になって自白を翻し、無罪だと主張する。一方で既に別の犯罪で捕まっている男が、犯人は自分だと自供するのである。最終的に犯人だとされた男の方が、清張も本当の犯人だろうと言っている。

実録を集めた本書中、最初の津山事件は驚愕的であり最も知名度が高い。次の短篇は一番猟奇的な記録である。最後は推理小説的な要素が一番強い。本格推理小説なるものの愛好家なら最後の作品を評価するであろう。

2021年4月14日水曜日

丑三つの村 昭和58年

田中登監督、松竹、105分。

昭和13年、岡山県山奥で起きた大量殺人事件を基に小説が書かれ、それの映画化。元の事件は30人もの殺人で、近代史上最も有名な犯罪の一つであろう。

閉鎖的な山村で、戦争が始まっているのに主人公の男は肺病で徴兵検査をはねられる。これ以降村人から敬遠されるようになり、風習としてあった夜這いの相手の女たちから嫌われる。精神を病み、被害妄想に陥った男は村人に復讐を誓う。ともかく正常でなかったわけでその精神を十分追えなくても当然である。

数時間で30人もの人間を猟銃で射殺か日本刀で斬り殺した。実際の事件が元である。だからそれをなぞった部分もあり、また映画あるいは小説ならではの脚色がある。映画で田中美佐子演じる好意的な女にあたる実在はいなかったのではないか。またその他、実在者との対応が分かる人物でも映画内で事件の犠牲者になる(実際は逃れた)など変更がある。随分前にこの映画は観た。当時多くあった名画座での鑑賞である。覚えているのは、田中演じる娘が関係を持っても減るものじゃないし、とか言うところだけだった。その時の映画自体はあまり感心しなかったと覚えている。数十年ぶりに観て、映画後半の、時間をかけた虐殺の場面は凄惨を極めこれほど残酷な場面が続く日本映画は他にあったかと思ったほどである。実際にあった事件だから余計そう思うのかもしれない。

2021年4月13日火曜日

地の群れ 昭和45年

熊井啓監督、127分、白黒映画。

深刻な映画、を絵に描いたような作品。長崎の佐世保が舞台。原爆投下が後まで影響し、被爆者、部落民、朝鮮人とおよそ日本の差別問題を凡て盛り込んだかと思わせる映画である。時間も過去と現在が混合するが、基本的に現代である。医者をやっている男は強姦の過去がある。そのせいで子供を作りたくない、あるいは少女が強姦されたので照明してほしいと言いに来ても消極的である。その少女強姦の容疑者である少年が捕まる。実際は濡れ衣だった。少女は自分を強姦した男が手に包帯をしていたと覚えている。少女は冤罪だった少年に被爆者が多い部落で包帯をしている男の居所を聞く。家に単身乗り込む。本人も父親も知らぬ存ぜぬである。そこで少女は部落民だと知られたくないなら黙っていろと脅され、暴行を受けたと告白する。少女は追い返されるが、母親が後から来る。被爆者連中を罵る。母親は多くの投石を受け死ぬ。映画の最後は母親を殺したと非難され、少年が逃げる、男達が後を追う。

差別を直截に糾弾した映画と言える。映画としては分かりにくい作りである。それも狙っているのであろう。

2021年4月12日月曜日

吉田秀和『音楽のよろこび』河出書房 2020

 

音楽評論家吉田秀和の対談集である。以下の内容である。題の後は対談者。

来日演奏家から学んだものと学ぶもの、中島健蔵/欧米のオーケストラと音楽生活、平島正郎/最高の演奏家、遠山一行/ヨーロッパでピアノを弾くということ、園田高弘/録音と再生で広がる音楽の世界、高城重躬/調律とピアノとピアニスト、斎藤義孝/われらのテナー、歌とオペラ、藤原義江/日本のオーケストラの可能性、若杉弘/演奏と作曲と教育の場をめぐって、柴田南雄/ベートーヴェンそして現在―日本の音・西洋の音、武満徹/音楽の恵みと宿命、堀江敏幸/生と死が一つになる芸術の根源、堀江敏幸

初出時期は中島との対談は、昭和28年で最も古い。最後の堀江との対談は平成23年とほぼ60年間に渡っている。初期の頃は吉田もひどく丁寧な言い方を年長者にしている。遠山との対談「最高の演奏家」(昭和33年)はいわゆる普通の音楽評論家みたいにこの演奏家、指揮者、独奏者はいいとか悪いとか演じている。指揮者では総じてアメリカ在の評価は低く、例えばセルに関して吉田は、

「ジョルジュ・セルが女性的だ、男性的だといっても、彼自身は大したことないね。だからアメリカではあの人は通用しているけど、大指揮者ということにはなっていないですね。」と言い、評価するのはトスカニーニ、ワルター、それとミュンシュかなと言っている。更に「よその国じゃあんまり通用しないけど、アメリカじゃ格を持っているようなオルマンディ、フリッツ・ライナーがいる。」といった評価である。

真田信治『方言の日本地図』講談社+α新書 2002

 

日本方言のパターン、各地方の方言、年齢別の言葉の違いなど方言にまつわる話題を集めている。冒頭にある表1では、方言が強く残る県別順位が載っている。これを見ると沖縄、九州、東北と東京から離れた地方で残っている様子である。虚心に見ても東北地方にそんな方言が残っているかと思わないか。それでこの表の元になった調査がそこに書いてある。『日本言語地図』といい、昭和32年から40年までの調査で明治36年以前の生まれの男を対象とした調査だという。明治36年以前の生まれ、といったらこの調査の対象者は今はほとんど生存していないだろう。50~60年以上昔の調査なのである。今調査したら激変しているだろう。この表に意味がないと言っているわけでない。この頃はこうだったという情報になる。正直現在同様の調査を行ない、どの程度変化しているか見たい。

本書の他の記述は別の調査によっているものが多く、この古い調査にばかり依存しているのではない。それぞれ出典は明記してあるものの、その調査がいつかは書いていない。本書の価値を損なっている。調査がどういつ行なわれたか不明では何も言えないのである。

2021年4月10日土曜日

鈴木敦史『クラシック批評こてんぱん』新書y(洋泉社) 2001


 著者は昭和45年生まれの批評家。本書の書名を見てどう内容を推測するだろうか。クラシック音楽愛好家は特定の評論家を贔屓とする者が多いので、有名評論家に対して歯に衣着せぬ批判、こてんぱんにした文が並んでいると思わないか。しかしながら実際に読むとしごく普通の文による批評論、批評家論になっている。大袈裟な書名にして読者を釣ろうという最近珍しくないやり方であるが、内容が大したことないと思わせ、更に著者の価値も下がる危険がある。

内容はクラシック音楽批評の読み方、あらえびす以来の日本の評論家の概観、更に音楽批評実践講座なる章まである。これまでの日本のクラシック批評がどんなものかについてのまとめである。特別面白い話題、例えば有名な某評論家が偽音楽家を持ち上げていた、といった類が書いてあるわけではない。

一体本書はどのような者を読者として想定しているのか、というよりどういう層に有益な本か。思うにクラシック音楽評論家志望者か。批評家というのは、こんな風に書いてきた、こう書けばよい、更にこんな文を書いて評論家を名乗れるのだと情報を与えているのだろう。それしにしてもどういう経路で音楽評論家になれるのだろうか?情実?運?

2021年4月8日木曜日

柴田南雄『音楽史と音楽理論』岩波現代文庫 2014

 

日本の音楽史を軸に、対比として西洋音楽史が書かれている。これまでの音楽の歩み、いかにして人間が音楽に対してきたか、について述べている。包括的に音楽の流れを理解しようとする試みである。日本の音楽の歴史と西洋のそれが、同時期で良く似ているところがあれば指摘し、比較音楽史の体をなしている。この対応は、西洋音楽史で古典派=ロマン派の時代、日本史で言えば江戸時代後期から明治時代、で劇的に変わる。同時代の西洋音楽はまさに創造の絶頂期というか、今でも鑑賞や研究の中心となっている時期である。それに対して日本の音楽は江戸時代前期で創造が枯渇し、後期からは演奏様式の変化が見られる程度という。明治になって西洋音楽が怒涛のように入ってきた時代は受け入れで一杯だった。もっともこの時期が西洋音楽との初めての出会いでない。キリスト教が入ってきた時代、一緒に音楽も入って来たのである。このキリシタン音楽についてページを割いている。作曲家である著者らしく第二次世界大戦後の作曲家界や演奏に詳しく勉強になる。もともとは放送大学の教材で1988年に刊行された。

2021年4月7日水曜日

徳丸吉彦『ものがたり日本音楽史』岩波ジュニア新書 2019

 

著者は昭和11年生まれ、民族音楽専攻の学者。現代、音楽を鑑賞すると言えばまず洋楽、あるいはクラシック音楽、更にポップスと言われるあたりではないか。また音楽を習うにしてもピアノ等、西洋音楽の楽器である。だから昔からある邦楽、日本音楽についてはほとんど知らない人が多いだろう。日本人である以上、過去の日本の音楽の遺産に関心を持つ。その関心を満たしてくれる日本音楽史が新書で出ているのは喜ばしい。

章立ては、古代、中世、近世、近代、現代と分かれる。古代は文字通りの古代から平安時代くらいまで、近世は武士の世の中になって戦国時代の終わりまで、近世は江戸時代、近代は明治以降、現代は戦後である。

読めばこれまでの日本の音楽の種類、形式、楽器についての知識が得られる。銅鐸は楽器であった、を初め、主な音楽として雅楽、平家(平曲)、能楽など、近世になって身近な三味線や筝(琴)が現れた、近代になってからの日本の音楽への姿勢などである。最後については西洋音楽が入って来て、国を挙げてその摂取に務めた。芸術のもう一つ美術では洋画と日本画が並行して教授と創作が進められたのに、音楽は洋楽一本やりで邦楽は学問の対象とならなかった。これには邦楽は花柳界などと関係があって敬遠されたという文を昔見たことがある。その辺の事情をもっと知りたかった。また学問の話でなく、一般庶民は長く伝統的な日本音楽に親しんできた。戦前は琵琶が非常に盛んであったという。今では見たことない人がほとんどだろう。また長唄、小唄といった歌は国民の一部だろうが、習う人がいた。このあたりの記述はなく、基本的に積極面を取り上げている。このまま行けば一部、芸術的なものは国家の保護の対象になり、博物館の陳列品扱いになるのか。最後に気になったのは、著者の政治主張が書いてある。過去の侵略戦争の反省を促すとか。どういう思想を持とうが勝手だが、本書は音楽史の本であり関係ない事項など書くべきでない。人文、社会科学関係の本では主題と関係ない著者の経験とか好みとか主張が書いてあるものが目につくが、辟易する。

2021年4月6日火曜日

近藤譲『ものがたり西洋音楽史』岩波ジュニア新書 2019

 

著者は、昭和22年生まれの作曲家、大学教授。序章によれば音楽史の立場は二通りあり、一つは現在に至る音楽の流れを見る、すなわち過程を述べる物語である。もう一つは各時代の音楽様式を大切にして、その交代として音楽史を語る立場。本書は後者の考えで書いたという。つまり前者の考えによれば、過去は現在までに至る途中経過と見なす。それに対して後者であればそれぞれの時代の音楽様式は価値を持ち、それ自体として理解されるべきだと考える。もっともこう書けば、前者は価値の序列を考え、過去の価値は低いものとみなす考えであり、そんな立場を採用するはずもない。正直読んでいても、音楽史の本なのであるから変遷が書いてあるのは当然だし、「昔はこんなに幼稚で野蛮な音楽が作られていました」などと書いていないから、それぞれの時代の様式を尊重すると言いたいのか。

西洋音楽史としてグレゴリオ聖歌から始まる。それ以前は資料がないから。中世、ルネサンス、バロックまでで全体の半分近くを占め、現在クラシック音楽鑑賞の主な対象である古典派、ロマン派などが始まるのは全280ページのうち130ページほどになってからである。それまでは現代人にあまりなじみのない音楽の説明が続く。もっともそうだから読む価値があるのだろう。名前だけは聞いたことがある、しかしどんな音楽かイメージがわかないとか、そもそも知らない名前が出てくる。古典派になってから現代(20世紀の音楽)まで一つの章である。こういう歴史を書くと一番、問題になりやすいのは現在の取り扱いだろう。何しろまだ評価が定めっていない、これから変わる可能性が大きいからである。これまた古楽の時代の様に名前は聞いている、CDも持っている、しかし今でも評価されているのだろうかと思ったり、全く知らない名がたくさん出てくる。

当然誰でも知っていても出てこない名前がある。グローフェはあまり驚かないが、サン=サーンスもない。吉田秀和大先生もボロクソに言っていたし、抹殺すべき作曲家の扱いなのだろうか。人名索引、事項索引があるのは評価に値する。

2021年4月4日日曜日

『お金本』左右社 2019

 

主に文筆家による、金にまつわる文章を集めた本である。

渋沢栄一の文から始まり、永井荷風、夏目漱石などほとんどはその名を残している有名な作家である。一部、編集者のように知らない名もあるが、基本的に有名人の文章の断片集になっている。金にまつわると言えば、もちろん愚痴や不満が中心になってくる。人間という生き物は、絶対に悪い方に敏感で、恵まれていると当然と思ってしまうのである。思うに功成り名遂げた人たちなのだから、全く世に出ることなく貧乏なまま人生を終えた作家(志望)に比べれば冥加に尽きるはずなのだが。成功した連中が昔はこんなに苦労したのだぞと言っていると、何だか自慢話に聞こえてくる、と言ったら嫌味か。

本の作りで意見を言いたいのは、初出の年次、また出来れば発表媒体を明記してほしいという点である。いったいに昔の文章を集めるのであれば、初出年を書くべきではないかと常々思ってきたが、文庫その他でも書いていない場合が多い。特に本書はお金についての本だから余計思う、というか必需ではないか。物価や社会が今と恐ろしく異なる昔の文が多いのである。年が書いてあるのは、日記、書簡の類のみである。確かに例えば戦前昭和xx年のxx円と聞いても、どのくらいか実感がわかない。ただそういう時期にその話が書かれたと分かれば少しは雰囲気を想像できる。なお一般的な物価の推移は統計を見れば分かる。インターネットで調べられる。

巻末に付録として「芥川賞・直木賞 賞金」「中央公論価格表」「文壇人所得番付表」「当代文士一ヶ月製産番付」「著者紹介・出典」がある。このうち時系列に変化を見た表は当然ながら年が書いてあるが、「当代文士一ヶ月製産番付」は1978年の出典は書いてあるものの、いつの年の数字か書いていない。何しろ、中村武羅夫や三上於菟吉が最初の方に出てくるのだから最近の数字ではない。それなのにいつの時点か書いていないのである。最後に載っている著者紹介も有名人が多いし、インターネットで調べられるだろう、せいぜい本文の著者名の脇に職業を書いておけば十分だと思った。ともかく本書は、お金、というより数字に全く疎い人が作った本ではないかと思った。