2021年2月27日土曜日

テッド・バンディ Extremely Wicked, Shockingly Evil and Vile 2019

 ジョー・バーリンジャー監督、米、109分。連続殺人犯にあたる英語がこの男によって作られたというテッド・バンディが主人公の映画。

実在の殺人犯を描く映画となれば普通は、記録映画風、すなわち男がいかにして犯罪を行ない、警察がどのように捜査し捕えたかという展開を予想しないか。本映画は全く異なる。テッド・バンディの恋人からの視点で作られているのである。犯罪場面などは回想で若干出てくるだけである。例えば我が国で言えば、宮崎勤や神戸の連続児童殺害事件の少年Aを知る親しい者、犯罪なんて全く夢にも思わなかった者からの視点である。

実在のバンディの恋人との出会いから始まり、恋人はバンディに容疑がかかり捕えられても信じたい気でいる。裁判は公開で行なわれたそうで、実際のバンディの言動をなぞった作りである。

本映画を観ているとなぜバンディがあれほどまでに女をものにでき、更に裁判が始まってからもバンディに同情する女が絶えなかったかが分かる。

ともかく口がうまいのである。どうすれば女をものにできるか完全に知りつくている。もう一つはバンディが捕えられ、裁判にかけられている以上、バンディは「苦労」し、「迫害(は言い過ぎだろうが)」させられている存在となり、女の同情心をそそる。女は困っている男の力になってやりたいという本能がある。

ちょっと見ただけではバンディよりの作りかとも思う人がいるだろう。一つはバンディが米ではあまりに有名な殺人犯であり、単なる記録映画風よりも新しい作り方をしたかったのではとも思わせる。

トルストイ『神父セルゲイ』 Отец Сергий 1890

 中編小説、将来を嘱望されていた貴族の若い将官がその地位を捨て、神父になりその後を描く。貴族のステパンは見栄えが良く、何事にも優れ努力し、将来は約束されていた。多くの若者の憧れであった令嬢と婚約する。ところがその相手が当時のニコライ1世と関係があったと分かり、ステパンは衝撃を受ける。ステパンにとっても皇帝は最高の忠誠を捧げていた人物だから。婚約を解消し、職を凡て辞任し修道院に入る。そこでの修業を経、後に神父セルゲイと言われるようになる。厳しい自己修練をする。敬意を多くの者から受けるようになる。特に不治の娘を治療してから、より一層の尊敬を受ける。

かつて知り合いだった女の行方を捜す。会った女は今では一家を支えるために苦労していた。セルゲイは自分は神のために生きていると称しているが、実際は人のために生きていると悟る。このような女こそが神のために生きている者だと。その後は巡礼の一行に加わり、現在ではシベリヤに住んでいるという。

中村白葉訳、河出書房トルストイ全集第9巻、昭和48

2021年2月26日金曜日

オペラ座/血の喝采 Opera 1987

 ダリオ・アルジェント監督、伊、107分。歌劇の歌手が被る恐怖。

ヴェルディの『マクベス』リハーサル中、劇に使う烏がうるさいとプリマドンナが文句を言い、練習は中止になる。その歌手が帰宅しようして交通事故に会い、代役の歌手を捜す。指名された若い女歌手は自分に務まるか迷う。更に他の者が『マクベス』には関係者に不幸が訪れる劇だという。励ましに会い、女歌手(主人公)はマクベス夫人役で出る。オペラの最中、照明用の高い場所に誰かがやって来る。係が注意すると刺される。この時大きな音がしてオペラは一時中断する。再開し、女主人公は喝采され一躍スターになる。歌劇が終わった後、女主人公が恋人と一緒にいる時、覆面の何者かが侵入し縛りつける。更に目の下に針が何本も立ててあるテープを張り、それら針がまぶたの上側に向けているので目を閉じれない。閉じたら目が潰れる。隣室から戻ってきた恋人を覆面の男は殺す。惨劇はその後も続く。衣装係がやはり女主人公が同様の状態にされた前で殺される。警察の警護を受けて自宅にいるとき、女のマネージャーがやって来る。扉を叩く音がするので、鍵穴からマネージャーが覗くと銃で撃たれる。

犯人を捕まえるため工夫をする。犯人が烏を殺害していたため、烏の復讐機能を使い歌劇の最中、烏の群れに襲わせる。犯人は刑事だった。犯人の刑事は女主人公と共に部屋に閉じこもる。犯人は女主人公の母に恨みがあり、娘に復讐するつもりだった。もはやこれまでとなった犯人は火をつけ火事で娘と一緒に焼け死ぬつもりになる。娘はからくも逃げ出す。犯人は死んだ。これで安心とスイス辺りの山の別荘に、女主人公は演出家と共にいた。ところが犯人は死んでおらず、ここ別荘まで追いかけてきて、女中と演出家は殺される。逃げる女と追う犯人。警察がやって来てようやく犯人を取り押さえる。それにしても実に多くの関係者が殺される話である。

2021年2月25日木曜日

バルザック『百歳の人』 Le Centenaire ou les Deux Beringheld 1824

 バルザックが本格的な小説を書き始める前、1820年代の作品である。ゴシック小説であり、超人が出てくる怪奇小説とも言える。

百歳生きているかと思わせる高齢の巨人は長生きだけでなく、超常的な能力を持つ。人間でない。小説の初めの方、テュリエス・ベランゲルト将軍はスペインへの出征の際、巨人で同名のベランゲルトに会う。超高齢に見える風貌で、ベランゲルト将軍に似ている。老人は将軍の祖先にあたるらしい。この老人は将軍を守る。エジプト遠征の時も老人がどこともなく現れ、将軍を窮地から救う。将軍の回想録が長く続く。テュリエスは山地の城で生まれた。その出産にもあの老人が関わった。幼馴染の少女マリアニーヌと仲が良い。ラヴァンジ侯爵夫人が革命を逃れてやってきて、すっかりテュリエスは夫人に惚れ込む。パリの上流階級の夫人に主人公が恋し、その一方、少女が主人公を誠実に愛し続けるという、バルザックおなじみの構図が本小説にもある。テュリエスはナポレオンの配下で目覚ましい活躍をし出世する。革命後の政局の変転で、マリアニーヌの家は窮乏していく。長い間、テュリエスがロシヤ遠征に至るまで待ち続けるマリアニーヌは、もうテュリエスは生きていないのではと心配する。

テュリエスは実はパリに戻っていたがマリアニーヌは知らない。あの百歳の老人がマリアニーヌを地下墓所に連れて行く。そこで生きる望みを失ったマリアニーヌから命をもらい自分が永らえようとしていた。しかしマリアニーヌはテュリエスが生きていて、自分を助けにやってくると知り、会いたい気になる。テュリエスは部下を叱咤し地下墓所に行く場所を掘っている、というところで小説は終わる。資料がここで終わっているからと説明がある。

このさまよえる超人伝説というべきものが当時あり、バルザックは先人らの創作をも参考にしつつ書いたようだ。

私市保彦訳、水声社、2007

2021年2月24日水曜日

ダラスの暑い日 Executive Action 1973

 ディヴィッド・ミラー監督、米、91分。

ケネディ大統領暗殺事件は、政府の反対派の陰謀によるものとし、その計画から実行まで描いた映画。ケネディの政策(黒人や共産圏への宥和)を厭い、何としてでも止めるよう大統領の暗殺を企む大物政治家たち。その指示を受けて暗殺計画を立てる役をバート・ランカスターが演じる。狙撃を何カ所から行なう。そのため何度も訓練が行なわれる。犯人としてオズワルドを仕立て上げる工作がされる。

当時のニュース映像が多く使われ、記録映画風の作りである。こういう映画を観ていると、確かにその可能性もありうると思われ、ケネディ暗殺事件がいつまで経ってもアメリカ人の興味をひく理由が分かる。

殺人鬼 10 to midnigtt 1983

 トンプソン監督、米、103分、チャールズ・ブロンソン主演。

若い女の連続殺人が起こっている。映画では犯人青年の行動を描く。自分を侮辱した女を殺害するため裸になり、森の中でその女と恋人を殺害する。別の女の殺害では、映画館に入り若い女連れに声をかける。こうして現場不在証明を作る。映画の間に便所の窓から抜け出して女の殺害する。その後、また映画館に便所から戻り、女連れに再び声をかける。

男に目をつけたブロンソンは一応拘束するが、すぐに釈放されるのは明らかである。そのためブロンソンは容疑者の服に血がつけ、これが決定的証拠だとし、男は起訴される。容疑者の男はすぐにでっちあげだと叫ぶ。ブロンソンの相棒である若い刑事は不審に思い、ブロンソンの証拠捏造を突き止める。ブロンソンから話さないよう言われるが、刑事は偽証は出来ないとつっぱねる。裁判途中で取り下げを要請し、ブロンソンは首になる。

男をなおも執拗に付け回すブロンソンに男は怒る。ブロンソンの娘は看護婦であり、その寮に男は侵入する。ブロンソンには別の場所にいるかのように見せかけていた。寮に急ぐブロンソン。その間、男は看護婦3人を殺害していた。なおもブロンソンの娘を追い回す。娘は窓から抜け出し、走って逃げる。その後を裸で追う男。ブロンソンが立ちはだかった。男は捕まっても精神異常ですぐに釈放されるさとせせら笑う。ブロンソンの銃が火をふき、男は頭を撃ち抜かれて倒れる。

犯人の男の見栄えが良く、何人もの女を殺害する、更に最後に看護婦の寮で大量殺人が行われる。これらからしてテッド・バンディの事件を下敷きにして自由に脚色したとは明らかである。

音楽鑑賞の媒体の変化と人間

 19世紀までは音楽を鑑賞しようとしたら、生演奏を聴くしかなかった。演奏会場に行くか、街で演奏しているのを聴くか、さもなければ自分ないし身内友人などが家庭で演奏する。エジソンが蓄音機の原型を発明した時は、まさか音楽の録音による鑑賞がこれほど広まるとは予想もしていなかったとか。

ともかく録音による音楽鑑賞は、どれだけ多くの音楽愛好家を増やし、またその鑑賞の自由性を増したか想像もつかない。その媒体は初期の蝋管時代から音盤が発明され、音盤はSPStandarad Playing)からLP(Long Playing)へと収録可能な時間が飛躍的に伸びた。更に1950年代に入るとステレオ録音が普及し、音場の広がりはその音の良さを鑑賞者に知らしめた。その後テープが媒体として登場する。元々テープは録音の現場で使われており、新しい媒体ではなかったが、音楽を予め入れたテープを再生するオープンリール用のレコーデッド・テープが発売されるようになった。またテープ・レコーダーが家庭に普及し始めた。もちろんレコーダーというから録音機能があり、これが当時のオーディオマニアの関心を引いた。音楽を入れてレコードの代わりとなるレコーデッド・テープは一部を除き、それほど評価されなかった。レコード(LP)の方が音はいいというのである。テープに関しては1970年代からカセット・テープがオランダ・フィリップス社から発売された。これはその手軽な操作性から瞬く間に普及した。時をほぼ同じくしてFM放送が一部とは言え開始される。当時はLPの実質価格(他の物価と比較した価格)が非常に高く、放送された音楽をカセット・テープに録音し聴くやり方は歓迎された。カセットテープは後にソニーがウォークマンを発売するに及び音楽鑑賞の場を室内から解放し個人で楽しめるようになった。

レコードの再生に関しては1970年頃、ナショナルから直接駆動方式、ダイレクト・ドライブなるプレーヤーが発売された。それまでのモーターの回転をベルトやリムなどで減速する方式でなく、レコードと同じ回転のモーターで動かし、当時は夢のプレーヤーと言われた。更に1980年頃にコンパクト・ディスク、CDが発売される。非常に音が良く、収録時間が長いというので普及し、レコードにとって代わった。20世紀終わりにインターネットが普及し始めると、CDなど物質の媒体を買うのでなく、インターネットからダウンロードして音楽を楽しむ方法が出始めた。そして21世紀になるとインターネットを利用したストリーム配信が利用されるようになる。これは契約したストリーム・サービス会社が用意した音楽を選んで聴く、つまり媒体を所有して音楽を楽しむという方法から解放された。それに聴ける曲数に対して利用料は恐ろしく安い。

さて音楽を聴くための媒体は以上のように変化、発達してきた。ところが聴く主体の人間は変化していない。確かに廉価で多くの音楽を聴ける可能性は飛躍的に伸びた。しかし1時間の音楽を聴こうとしたら1時間の時間を費やすのである。媒体の変化があまりに急であったため、余計に聴く側の人間の制約を感じるようになった。

2021年2月22日月曜日

読書の方法(媒体)の変化と人間

 読書をするなら普通は紙で製本されている、いわゆる本によるだろう。驚くべきことに本による読書は中国で紙が発明されてきてからずっとこれまで続いてきている。もちろんそれ以前に西洋ではパピルスとか羊皮紙といった素材が使われていた。ともかく素材が何であれ紙かそのもどきに活字や手書きで記された文字を読んできたのである。それが比較的最近(20世紀終わり?)になって電子書籍なるものが出現した。電子装置に文字情報を入れ必要に応じ読む、調べるといった使い方は前からあった。しかし電子書籍はまさに読書用に開発された、紙を使わない媒体なのである。だから印刷して製本する必要がない。その電子書籍に載っている書籍の作成費用は、従来の製本に比べ驚くほど安価になったはずである。

この電子書籍には従来から紙の本で読書に親しんできた層の一部(あるいは結構な割合か)は抵抗を感じているようである。自分も実は以前はそうだった。時々見かけた意見では、紙の書籍と電子書籍を対比させ、後者の方が「優れている」かもしれないが、自分は「遅れている」前者に愛着を感じる、と言い何か自己陶酔しているかと思われる文であった。つまり自分は新しい媒体にすぐ飛びつく軽薄な人間でないと。

実際使ってみると紙の本と変わらないところが多く、一方で相違点も当然ある。使わない人は食わず嫌いなのだろう。一番気になるのは、紙か電子媒体かの二者択一で考えているところである。紙と電子媒体では夫々特徴があり、共に利用すべきなのである。この二者択一思考が人間に強いのはなぜだろうか。

2021年2月21日日曜日

読書日記『民主体制の崩壊』

 

趣味は読書であり、本を読まない日はまずない。身体が悪くなり病院に担ぎ込まれた日などを除いて。

読書には時間がかかる。映画で2時間かかるなら長い方だろう。もっとも最近の映画は長いものが多く2時間程度は普通かもしれない。それに対して、2時間で読める本はまずない。よほどの短篇を除けば、まとまった一冊の本を読むのに何日もかかる。それに読む速さはページ数だけで決まる話ではない。面白い本ならページが進むし、何を書いてあるか良く分からない、読みにくい本だと時間がかかり、なかなか進まない。

今読んでいるのはフアン・リンス著『民主体制の崩壊』、岩波文庫、2020年で、原著は1978年に出された。題名の通り、民主体制がいかに崩壊するかの考察であり、全体で第5部から成る「民主体制の崩壊」の第1部、総論部分である。2は「ヨーロッパ編」、3は「ラテンアメリカ編」、4は「チリ編」である。総論である本書を読んでいると、何を念頭に置いて書いているのかと思うところがある。それらは各論である第2部以降に関連する該当部分があるのであろう。

さて本書は残念ながら、自分にとって読みやすい本でなかった。各文は意味が分かる。しかし全体として興味を持って読み進められないのである。これは自分との相性が良くなかったのだろう。

2021年2月20日土曜日

読書や映画鑑賞の記録について

 今まで当ブログでは、読んだ本あるいは観た映画の要約を書いてきた。これについて若干説明したい。

インターネットに読書や映画の感想を書くサイトが幾つかある。その他個人でブログなりホームページを作って書いている人がいる。

それらのサイトを見るとあくまで「感想」を書くためのもののようだ。特に映画については、内容を書くのはネテバレとして、避けられている。書く場合はネタバレと断りをいれて、すぐに読めないような工夫をしている場合がある。こうしないとサイトを読んで内容が分かってしまうと、望ましくないとされている。つまり観る前にその映画についての感想を聞き、参考にするためのものらしい。小説でも、例えば推理小説ではトリックが読む前から分かっては良くないので解説でも触れない慣習は以前からあった。しかしながら今では、小説の宣伝文句や解説にも重要なネタバレ的な事柄は書くべきでないという意見が多いらしい。書いてあるので怒っている人をインターネットで何回か見た。

昔は今ほどネタバレなるものに非寛容でなかった。例えば、筑摩書房版世界文学全集第33巻(昭和43年)はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』2冊目で、この全集は箱入りで帯(腰巻)が箱にかけてある。帯には宣伝文、内容紹介があってそこには「ドミトリイは私生児スメルジャコフが犯した父親殺しの罪を引き受け、イワンは発狂し、アリョーシャは自己修練の旅に出る。」とある。これ以上ないネタバレである。帯の裏側は全集既刊本一覧であり、書店で手にとって読むものと言えば上にあげたネタバレしかいない。今時のネタバレを怒る人が読んだら怒りのあまり憤死してしまうかもしれない。

さて個人的意見を言えば、ネタバレを嫌うならそれが書いてある可能性のある宣伝文や解説などは読むべきでない。自分としては赤の他人の意見を聞いてもしょうがない、とまで言わないが、それより筋を知りたい場合があるのである。その映画等がどういう筋だったか知りたくてもインターネットで調べても分からない時がある。更に書いてあっても映画の筋で間違った、実際とはずれた筋を見た経験がある。映画を観たすぐ後に読んだので分かる。

以上のような思いから本サイトでは本や映画などの筋を書いているのである。もちろんここでの要約の仕方は妥当かどうかは保証できない。あくまで自分なりの要約で、適当でない、誤解などある可能性はある。

2021年2月12日金曜日

赤ひげ 昭和40年

 黒澤明監督、東宝、185分、白黒映画。

江戸時代、長崎に医学の勉強に行って帰って来た加山雄三は、小石川にある療養所に言われて寄る。ところがそこでは加山が赴任してくる前提でいた。驚く加山に赤ひげと言われる三船敏郎は取り合おうとしない。不貞腐れてごろごろして何もしない加山。次第に治療に参加させられ、次第に三船のやり方に感化させられていく。映画の主人公は加山である。劇中に話がはいっている。前半では山崎努演じる大工の自分の妻との経緯が病床で語られる。後半はドストエフスキーの『虐げられた人々』のネルリの話を二木てるみが好演している。

3時間に及ぶ長尺であり、人道主義そのものの映画である。このような映画はこれからは作られないだろう。正直今見直して、少し違和感を覚えた。それがどの辺によるか十分明らかでない。『生きものの記録』などは今見直した方が昔より感心したのだが、『赤ひげ』はそうもいかなかった。

池谷裕二『進化しすぎた脳』朝日出版社 2004

 

脳科学者として有名で啓蒙書が多くある著者による脳科学講義である。対象はニューヨーク在住の日本人中高生である。単に一方的な講演でなく、聴講者との質問のやり取りがある。

講義の内容では、まず脳が身体を支配しているというより、身体によって脳が制約されているというか、脳だけ進化しても身体の制約により使いこなせないところがある。これが題名のもとになっている。人間の心、これは脳の機能であり、それは言葉によって発達した。また脳は結構、あいまいなところがあり、これが汎用化の機能を持たせている。この仕組みの理解には細部だけ見るのでなく、全体を把握する必要がある。講義の最後の方ではアルツハイマー症状の原因について当時分かった知見を書いている。

ホロウェイ『若い読者のための宗教史』 A little history of religion 2016

 

宗教史、というかこれまでの宗教の概説書である。この類の本はあまり読んでいないが、比較して云々でなく、本書は優れた書である。読みやすい、それでいて益するところが多い。読者に満足を与えると思われる。

取り上げられる宗教は三大宗教はもとよりヒンドゥー教、ジャイナ教、ユダヤ教、ゾロアスター教、儒教、道教、神道などに及び、キリスト教の各派に及ぶ。特徴は単にそれらの宗教の概説でない。宗教とは何かから始まり、宗教が人間にとってどういうものかという関心により叙述されている。時々あるような百科事典的に夫々の宗教を述べて終わりといった本でない。アジアで信仰されている宗教の説明に関しても極めて分かりやすく、キリスト教やユダヤ教などと公平に扱っている。

宗教は21世紀になって再び世界の大きな関心となってきている。こういう時期に読むのにふさわしい本である。

上杉隼人、片桐恵里訳、すばる舎、2019

2021年2月9日火曜日

ゴースト・イン・ザ・シェル Ghost in the Shell 2017

 ルパート・サンダーズ監督、米、107分、スカーレット・ヨハンソン主演。

押井守の漫画映画で有名な原作を米で実写化。この実写版は原作の漫画を基に作成されているため、押井守の漫画映画と筋は同じでない。ただ大枠は同じである。

人間の身体を義体化(機械化)する未来が舞台。主人公のヨハンソン役の女が脳だけ残し、他は義体として生まれ変わるところから始まる。公安警察に勤める。北野武演じる上司の下で働く。テロ行為の取り締まりなどしていた。しかテロリスト、クゼを追っていくうち、そもそも自分の出自に疑問を持つようになる。そう概要を書くと『ロボ・コップ』を思い出すが、映画として映像として見れば、当たり前だが、全然別である。黒髪のヨハンソンを見られるだけでもいいかもしれない。

2021年2月7日日曜日

バルザック『あら皮』 La Peau de chagrin 1831

 青年ラファエルは望みが叶うあら皮を手に入れる。ただし自分の寿命と引き換えに、という小説。

ラファエルは賭博場にやってくる。金を使い果たす。もう自殺するしかない。自殺の前に骨董店を見つけ中に入る。そこであら皮を見つける。主人が言うにはこの皮によって何でも望めば叶うが、その度にあら皮は縮み、全くなくなればその時は死ぬ。

もらって外に出ると友人に出会う。その友人と酒場に行き、友人や女たちに自分がなぜ自殺する気までなったかの経過を語る。この語りが非常に長く、尺で言えば小説の大部分、と言ったら言い過ぎだが長い。ラファエルが社交界で美人のフェドーラという伯爵夫人に現を抜かす部分が大半である。バルザックならではの微に入り細を穿つ書き方で、感心するほど長い描写が続く。ラファエルを慕う娘ポーリーヌも出てくる。

あら皮を使い、ラファエルは大富豪になる。その後、やはり金持ちになったポーリーヌと再会し、二人で愛の喜びにふける。あら皮は小さくなるばかりである。つまらない決闘で相手を斃すにも使う。最後にはラファエルは死ぬ。

中山真彦訳、筑摩版世界文学全集第17巻、昭和42