2020年11月30日月曜日

ドストエフスキー『悪霊』 Бесы 1871~1872

 ドストエフスキーの長篇小説でも特に評価が高い、というより関心を持たれている作品である。当時のロシヤで革命集団が仲間を殺害した事件があった。それに触発されドストエフスキーは革命運動への批判という意図をもって書き始めたが、もちろん小説としてそれに留まらない。特に主人公にスタヴローギンという謎めいた青年を配し読者を惹きつける。スタヴローギンを巡る連中の革命運動や、スタヴローギンの過去が大きな関心を読者に呼び起こす。後者には少女に対する不道徳行為があって、ここの部分が当時は雑誌に発表できなかった。活字にしてまともな雑誌に載せられるような内容でないと判断されたからである。そのため作者は以降の筋を新たに工夫する必要が生じ、今日我々が読める作品は妥協の産物となった。それにしても強い印象を残す作品となっている。(翻訳多数)

リサと悪魔 Lisa e il diavolo 1973

マリオ・バーヴァ監督、伊、95分。イタリアならでの恐怖映画で不可解な展開がある。

観光でトレドに来ていた女主人公リサ、友達と離れて街を歩き、ある店に入る。売り物でないと言われる。そこにいた禿男、マネキン人形を抱えている。そのうちリサは迷子になる。あの禿男に会い、道を尋ねる。髭の男がやって来て知り合いかのように声をかける。その男を倒して逃げる。夜になる。偶然車に会い、乗せてもらう。夫婦が乗っていた。車が故障する。運転手は直らないと言う。近くにある屋敷に声をかけても、拒否の返事が奥から女主人の声で聞こえる。若い男がやってくる。リサに声をかける。これまた知り合いかのようである。若い男はそこの屋敷の息子で頑固な母親を説き伏せみんなを屋敷に入れる。ここの執事があの禿男だった。リサは昔ここにいた女と似ていて間違えられたらしい。車の夫婦のうち妻は運転手とできていた。この不気味な屋敷で次々と怪しい出来事が起こる。ほとんどの者が殺される。リサは息子の以前の婚約者と酷似で、それで不快な目にあったのだ。リサは逃げだし飛行機で帰国する。しかし飛行機は誰も乗っていない。捜すと屋敷で死んだ者たちが同乗していた。これらは幻想であった。元の屋敷で目が覚める。しかし屋敷は蔦に覆われた廃墟になっていた。そこから出た隣の空き地では子供たちが球遊びをしていた。子供たちは幽霊屋敷から来たと騒ぐ。リサは街に出てまたあの禿男と会った。

2020年11月29日日曜日

ファントマ ミサイル作戦 Fantômas contre Scotland Yard 1967

 アンドレ・ユヌベル監督、仏、105分、総天然色映画。

ファントマシリーズの最終作映画。本映画はジューヴ警視の活躍が多く、より喜劇的出来になっている。ファントマ対策のため、警視やジャン・マレー、ミレーヌ・ドモンジョはイギリスに渡る。ファントマはギャングのボスらを脅し大金を要求していた。また警視ほかが滞在するスコットランドの古城の主人を殺して化けていた。主人の妻は浮気をしていて間男と主人を殺すつもりだった。狐狩りをする。多くの犬を放ち馬に乗って主人、警視、マレーほかの面が駆ける。警視らはファントマに捕まり騙され、主人だと思い犯罪に加担させられる。マレー、ドモンジョはファントマの手下を捕まえて、主人に化けたファントマを逮捕する寸前にいく。その時ファントマの合図で警視らがマレーらに後ろから銃を突き付け、ファントマを逃がしてしまう。城の塔から発射されたロケットで逃げた模様。イギリスの空軍の飛行隊がやってきてミサイルで撃墜する。警視らはファントマの最期だと喜ぶ。その間、ファントマは自転車に乗って大金を持ち、途中で手下の車に拾われ逃走する。

2020年11月28日土曜日

オルフェの遺言-私に何故と問い給うな Le Testament d'Orphee -ou ne me demandez pas pourquoi 1960

 ジャン・コクトー監督、仏、79分、白黒映画。コクトー自身が主演。

全体的に筋が良く分からない映画である。前作の続きの場面から映画は始まる。コクトーは仏革命前の服装で現れ、科学者の子供時代ほか、その男の異なる年齢時に出てくる。科学者は子供の時、母親が驚いて落としたため後で死ぬ。その後、コクトーは現代の服装になり、殺された詩人を蘇らせ、一緒に行動する。死の女王マリア・カザレスらの前で裁判を受ける。形而上学的応答である。更に様々な場面をとおり、子供にサインをせがまれる。サインが化物みたいな像の耳に差し込まれると耳から紙が沢山出てくる。コクトーは女神の像の前に来て、その槍を胸に受け、死ぬ。みんなが死体の周囲に集まってくると、直立に起き上がる。生き返ったコクトーは白バイに止められる。あの詩人が出てきてコクトーを連れ去る。警官たちはそこを通り過ぎた若者たちが乗るオープンカーを追う。

訳の分からないはたまにあるが、これはその代表といえよう。

2020年11月26日木曜日

バルザック『知られざる傑作』 Le Chef-d’œuvre inconnu 1831

 

バルザックの芸術小説の中でも名高い一作。若い画家プーサンがまだ無名の時代、有名な画家を訪ね、その際、師匠に当たる者を知る。極めて優れた才能を持つ巨匠だった。長年自分の絵にふさわしい美人が見つからない。それで絵画を完成できない、と分かる。プーサンのモデルで恋人は非常な美人であった。プーサンは自分の恋人に上記巨匠のモデルになってくれと頼む。恋人は嫌がったがプーサンの頼みなのでしょうがない。プーサンともう一人の画家は、巨匠のアトリエに行く。長年かけて制作してきた絵画はどんなものか。見ると足の絵しかない。他の部分はない。巨匠が描いたつもりでいたのか。巨匠に伝えると驚く。明くる日その巨匠は死んだと分かる。

昔読んだツヴァイクの『見えないコレクション』を思い出した。もちろんバルザックの方がはるかに早い時期の創作である。

バルザック芸術/狂気小説集1には、これまでにブログで書いた小説の他、『財布』『ピエール・グラスー』が入っている。前者は、無くなった財布を取られたかと思っていた画家がその家の若い娘が刺繡してくれていたと後に分かる。後者は、富を築いたむしろ凡庸な画家を描いている。

芳川泰久訳、水声社、2010

2020年11月25日水曜日

P.フォーキン『ドストエフスキーの「信仰告白」からみた『カラマーゾフの兄弟』』

 著者のフォーキン(1965~)はロシヤのロシア国立文学博物館研究員。本年2月日本で行なった講演の記録。

ドストエフスキーのカラマーゾフをロシヤ正教の立場から分析した論文。著者によればカラマーゾフは伝統的な小説ではない。小説の形をとった作者の信仰告白という。

本論文では『カラマーゾフの兄弟』の精神的内面構成はキリスト中心的な性格を持つとする。アリョーシャをキリストと見立て、作品を理解する。イワンの語る「大審問官」も最後にアリョーシャがイワンに接吻することによって、キリストの勝利を意味すると解釈する。ドストエフスキーのキリスト教解釈の問題はいつも日本人を悩ませるが、その回答の一つの例がここにある。

岩波書店「思想」20206月号掲載

2020年11月24日火曜日

出口治明『哲学と宗教全史』 2019年

 

元は実業家ながら最近何冊か書を出している著者による哲学と宗教を解説した啓蒙本。たぶん多くの読書家が関心を持っているであろう二つの分野の概説である。著者が選択した過去から現代までの事項を説明しているため、かなりの大著になっており、難しい内容ではないが読むのに時間がかかる。著者は解説するに留まらず、自分の主張を述べたい意欲が強いようである。特に名称についてこれまで流布してきた呼び名は是正の必要を大いに感じているらしい。また偏った、誤りとされる見解についても同様に正すよう訴える。イギリスを連合王国といったり(英国でなぜいけないか書いていないが)、マホメット、メッカなどイスラム関係で多数の「不正確な」表記の正しい呼び名を書いている。

西洋の近世哲学など比較的知られている部分は、昔からおなじみの内容である。フィヒテでは『ドイツ国民に告ぐ』という政治主張の書が挙げられ、高校の参考書を思い出した。ずいぶん前に出た中公世界の名著のフィヒテの巻では、フィヒテの哲学の説明があった。

こういった類の本なのに索引がない。索引のない本など本ではないと言った学者がいた。読み捨てる本のつもりなのかと思った。(ダイヤモンド社出版)

2020年11月23日月曜日

ファントマ電光石火 Fantômas se déchaîne 1965

 アンドレ・ユヌベル監督、仏、99分、総天然色映画。1960年代ファントマ映画の第二作。ジャン・マレー。ミレーヌ・ドモンジョほか出演。

第一部で功績のあったジューヴ警視が表彰される場面から始まる。ファントマから祝辞が届く。ファントマは科学者を誘拐する。もう一人共同研究者の科学者も狙われるだろうと警戒する。ローマで会議が開かれる。その教授が出席予定である。マレーが科学者に変装して出席する。ファントマが誘拐しに来るだろうと予想して。身代わりのひどいインタビューをテレビで見ていた本物は自分が行かねばと思い、イタリアに赴く。ファントマも科学者に変装してイタリアの会場へ。同じ顔の3人の科学者が入り乱れる。本物の科学者、マレー、恋人、警視はファントマに捕まる。科学者らはテレパシーで相手を操る銃を開発する。マレーらは囚われから解放でき、逃げるファントマを追う。ファントマの乗る車は翼が出て空を飛ぶ。飛行機を見つけたマレーと警視はそれに乗って追う。警視はファントマを狙うが飛行機から落ちる。マレーがパラシュートで助けに飛び降りる。ファントマは笑って逃げていく。

2020年11月22日日曜日

亀山郁夫『謎とき『悪霊』』新潮選書 2012


 光文社古典新訳文庫のドストエフスキー翻訳で有名になったロシヤ文学者の亀山郁夫が『悪霊』を論じる。著者によれば『悪霊』は若い時から思い入れの深い書らしい。そうならかなり深い分析が期待できるだろう。

さて本書の特徴は何と言っても創作ノートの多用というか、本文の裏にある考えを創作ノートによって解明していくという姿勢である。この態度は正当化されるだろうか。創作ノートの中には本文の補注と言えるものがある。しかしながら大部分は過去の制作過程の資料であり、研究者にとって有用な資料であることは確かであっても、本文と同等に扱うことは出来ない。創作ノートにあるからでなく、完成された本文の理解に使える、と判断されたものに限定すべきである。もっとも著者はここで引用した創作ノートはすべてそうだと考えているのだろうか。創作ノートが小説の理解に欠かせないものなら、『悪霊』その他を翻訳する際、創作ノートも翻訳すべきだった。

ドストエフスキー論の例に従い、本文をただ普通に読者が読んでいるだけでは思いもつかない解釈、実はこれにはこういう意味があると書いてある。正直、読んでいて説得性がなく、まるで憶測に憶測を重ねているだけのように見える例が少なくない。こんな論を展開しているのが専門家なら、巻末に掲載されている原語文献など読む必要はないと思わせる。実際、こんな文献一覧より索引が欲しかった。ある学者は索引のない本は本でないとまで言った。小説などを除き、索引のない本はただ漫然と読み捨ているだけの本だと言っているようなものである。

本書で笑ってしまったのは次の文である。小説の文字通り最後の文、遺体を調べた医師たちの言を、次の様に言っているのである。

「医学にとりたてて知識のない人でも、遺体の解剖をとおして精神錯乱の有無を診断できるとは思わないはずである。ドストエフスキーの筆が滑ったか、クロニクル記者のG氏が医学の知識をまったく欠いていると作家は言いたかったのか。」(本書p.391

これはただスタヴローギンが精神がおかしくなって自殺したのでない、正常な神経で死んだのであると言いたいだけの文に過ぎない。それをこのように読む人がいるとは驚きであった。

著者はドストエフスキーの翻訳でベストセラーを出した一方、翻訳に問題があるのではないかという指摘でも話題を作った。翻訳の正確さは分からず議論できないが、本書を読む限りドストエフスキー理解にあまり感心できないと思った。

2020年11月21日土曜日

バルザック『鞠打つ猫の店』 La Maison du chat-qui-pelote 1830

 

芸術家(画家)と商人の娘の結婚が引き起こす悲劇。パリにある古い建物、4階建てで猫が鞠を打っている絵が描かれている。青年画家はその家に惹きつけられる。更に窓から見えた若い女に恋する。羅紗商人の家でそこに二人の姉妹がいた。妹は器量良しである。主人は姉から嫁に出したいと思い、一番の店員と結婚させるつもりだった。その店員は妹に恋していた。器量良しの妹を見つけたのが冒頭の画家である。妹も青年に恋した。画家の青年はその家や妹を描き、求婚する。父親は身分違いの結婚は不幸になるだけだと信じている。しかし青年が画家だけでなく、貴族と知って妻や親戚が大いに乗り気になる。本人も好いており画家と妹は結婚する。同じ日に姉と店員の結婚式もあった。

夫を愛してやまない妻だが生まれによる地が出て、上流社会に全くついていけない。何とか夫と同等になろうと勉強するが、やっても無駄だった。(この辺り『「絶対」の探求』を思い出す)夫が現を抜かしている貴族夫人のところへいって窮状を訴える。相手は同情してくれるが、夫は妻が一層嫌いになるだけだった。最後は妻は若死にする。

芸術家である夫は贅沢をし、家庭など顧みないのが当然だと思っている。バルザック自身の考え、行動に沿っているかと思われた。

澤田肇訳、バルザック/芸術狂気小説選集1、水声社

2020年11月20日金曜日

ファインディング・ニモ Finding Nemo 2004

 ディズニー、ピクサー制作の漫画映画。100分。

隠熊之実の夫婦が産卵する。鬼カマスに襲われ、妻も多くの卵も亡くす。一卵だけのこり、孵化したのがネモである。父親は子のネモを大事に育てる。大事にし過ぎて、かえってネモは反抗する。ネモが人間に捕えられたので、父親が捜しに行く、これが映画の大筋である。父親は途中で雌の南洋ハギ、ドリーに会い、一緒にネモを捜し取り返しに行く。

親と子の関係を魚に託して描いた映画である。

2020年11月19日木曜日

ファントマ危機脱出 Fantômas 1964

 アンドレ・ユヌベル監督、仏、105分、総天然色映画。

フランスの小説で有名な怪盗ファントマを、記者であるジャン・マレー、及びジューヴ警部が追う映画。

ファントマの名前は知っているが、日本人ならアルセーヌ・ルパンの方が圧倒的に有名だろう。本国フランスの事情は知らないが、1960年代半ばにファントマの映画が3本制作され、これは第1作。宝石泥棒で変装の達人、相手方のマレーや警部に化けて罪をそれらにきせる。ルパンものを思い出す。いわゆるアクション映画で喜劇要素も大きい。007シリーズの向こうを張ったような作りである。単純な映画なので理屈を言わず楽しめる。

2020年11月18日水曜日

モラン神父 Leon Morin, pretre 1961年

 ジャン=ピエール・メルヴィル監督、仏、128分、白黒映画。ジャン=ポール・ベルモンドが神父役で出ている宗教色の強い、ただし男女の愛を描いた映画。

第二次世界大戦中、占領下の仏の田舎町。女主人公は未亡人で、ユダヤ人、共産主義者なので無神論者(キリスト教徒でないの意)である。ユダヤ人、共産主義者は当時の庶民が忌み嫌った人種である。女主人公には小さい娘がいる。娘に洗礼を考え教会に行った。そこでベルモンド演じる神父に会う。二人は何度も会ううちに宗教的な議論をしたりするが、次第に惹かれ合う。本映画は女主人公の独白による進行なので神父側の心情は出てこない。神父としての務めを模範的に果たし冷静でかといって冷たい感じはしない。女主人公が働いてる職場の同僚も会いに行き神父に惹かれるようになる。

また占領下なのでドイツ軍による徴集逮捕や独軍協力者に対する制裁、逃亡するユダヤ人への支援など戦時下ならではの場面が出てくる。終戦になる。神父は聖職者がいないような片田舎に行くことになった。信者になった女主人公は自分の気持ちを告げられないまま、神父の内心はどうか確かめられず、別れるしかなかった。

ベルモンドが普段とは違うもの静かな役で印象的。本作は3時間以上あったらしいが、今は2時間ほどの版で鑑賞されている。

2020年11月17日火曜日

井上ひさし『本の運命』 1997年

 


井上ひさしの自伝と本に対する思いと理解をつづった著。

まず誕生から大学時までの生涯を振り返る。その中で本に親しんだきっかけ、小説家になろうと思ったわけ、読書法や、なぜ図書館が嫌いになったか、そのため自分の蔵書を増やしたかの経緯が述べられる。

その後の章では子供を本好きにする法がある。これまでの読書感想文を書かせる教育法を批判する。本の中身を要約させるようにせよと提言する。これは以前読んだ全然別の本で、ソ連では本の内容を要約させるとあったのと同じである。最後に自分の膨大な蔵書を故郷のホールに寄贈し、田舎では類を見ない大図書館になったとある。特に井上が執筆に際して集めた特定の事項の書籍によって、その分野で専門の図書館になっている。

文春文庫、2000

オースティン・パワーズ Austin Powers 1997

 ジェイ・ローチ監督、米、94分。マイク・マイヤーズ主演。007シリーズのパロディである喜劇映画、それに留まらず60年代への思い出、賛辞が見られる。

主演のオースティン・パワーズと悪役のイーブル、共にマイク・マイヤーズが演じる。特に悪人イーブルは007からのパクリが明瞭。主役のパワーズはやりたい放題のスパイである。60年代にイーブルを追い詰めるが、ロケットに乗って脱出、冷凍装置で30年間眠る。映画制作当時の90年代に冷凍が解け復活し、世界征服を目指す。それに対してやはり冷凍で眠っていたパワーズを元に戻す。パワーズは諜報機関の美人スパイと共にイーブルを倒しに活躍する。ふざけやパロディが満載で、60年代後半への思い出、90年代との比較などが見どころの映画である。

2020年11月16日月曜日

ホーキング『ビッグクエスチョン』 Brief Answers to the Big Questions 2018

 


著名な宇宙物理学者ホーキングが科学の難問に答えるという啓蒙書である。目次は次のとおり。

なぜビッグ・クエスチョンを問うべきなのか?/神は存在するのか?/宇宙はどのように始まったのか?/宇宙には人間のほかにも知的生命が存在するのか?/未来を予言することはできるのか?/ブラックホールの内部には何があるのか?/タイムトラベルは可能なのか?/人間は地球で生きていくべきなのか?/宇宙に植民地を建設するべきなのか?/人工知能は人間より賢くなるのか?/より良い未来のために何ができるのか?

序章である「なぜビッグ・クエスチョンを問うべきなのか?」以下で、根源的な問題についてホーキングは説明しているが、特に興味を覚えたのは最初の「神は存在するのか?」の章である。このような問題について科学者が真面目に考え、答えようとする姿勢はまさに西洋ならではである。答えそのものは常識的であり驚くようなものではないが、考え抜いて答えている。専門の研究者であるため、宇宙論についてもかなり深いところまで説明している。

また最後の方になると、ホーキングは科学がもたらす未来について全く楽観的でないと分かる。科学の発達が人類を不幸にさせる危険性を述べる。その立場そのものは環境保護運動家に通じるが、専門の学者であるから耳を傾けさせるものがある。

青木薫訳、NHK出版、2019

バルザック『十三人組物語』 Histoire des Treize 1833~1835

中編小説『フェラギュス』『ランジェ公爵夫人』『金色の眼の娘』から成る。序文によれば13人の男達の冒険物語のはずであったが、3篇のみの物語である。

『フェラギュス』は、ある人妻に恋した青年貴族は、その妻の後をつける。ある家に入り、それを夫にも隠していたことから、情事ではないかと疑う。妻は夫婦の仲を維持していくのみが人生の目的であった。青年の詮索は迷惑極まりない。夫人の家の夜会に奇妙な老人が見られた。何者か。青年の夫人への執着は最終的にしっぺ返しを受ける。夫人の秘密とは不思議な老人は父であり、内緒で行っていたのは父の家である。夫にも言わず、妻を愛し信頼している夫は悩み傷つく。これだけひた隠しにしていた理由は、夫人の父親が元囚人であったからである。

『ランジェ公爵夫人』は男女の恋仲を描く。スペイン領である小島にある女修道院。フランスの士官がそこを訪ねる。かつての恋人が今は修道女となっているからだ。男が恋情を切々と訴えるが、女はもう来てくれるなと拒むだけである。小説の残りはそうなった過去のいきさつの説明である。パリの社交界の女王然としていたランジェ公爵夫人。アジアから戻った野人のような男がいて社交界の人気になる。その男が公爵夫人に恋し、猛烈に迫る。夫人は社交界の作法に従い男を受け流す。男は友人に聞き、女への攻略方法を替える。その後は関係が逆転する。最後通牒のような夫人からの連絡に答えがなかったので夫人は修道院に入る。大筋は以上のようであるが、男女の間の心の動きを微に入り細を穿って描写する。少し例がないくらいである。三篇中、最も長い作品である。

『金色の眼の娘』はパリの伊達男が、異国的な女を好きになる。その在り処を探る。金色の眼のスペイン語を話す娘である。男は画策して女の居所を突き止め自分のものにする。しかし女には他に男がいるのではないかと疑う。最後に娘が部屋で朱に染まって倒れている姿を発見する。誰が娘をそんな目に会わせたか。別の女であった。しかもそれが自分の姉と男は知る。男と思っていたのが真相は女だった、ここだけ取り出してみると『サラジーヌ』と同じである。

西川裕子訳、藤原書店、2002

2020年11月14日土曜日

三島由紀夫『源泉の感情』 昭和45年

 


三島由紀夫の対談集。死の直前の出版であるが、それまでなされた対談を集めたもの。目次は次の通り。

美のかたち―『金閣寺』をめぐって(小林秀雄)/大谷崎の芸術(舟橋聖一)/二十世紀の文学(安部公房)/エロチシズムと国家権力(野坂昭如)/文武両道と死の哲学(福田恆存)/演劇と文学(芥川比呂志)/七年後の対話(石原慎太郎)/文学は空虚か(武田泰淳)

日本の芸術・・・(歌舞伎(坂東三津五郎(十五代))/新派(喜多村緑郎)/能楽(喜多六平太)/長唄(杵屋栄蔵(三代)/浄瑠璃(豊竹山城少掾)/舞踊(武原はん)

あとがきによれば最初の刊行時の内容からこの文庫本では、数編割愛してあるとのこと。その理由を明記してもらいたかった。小林から武田までは当時の知識人、論客であり、日本の芸術ではその道の名人との対談である。三島は知識人で、語る内容は高度であり、ちきんと理解できたかと思う発言は結構ある。

三島の死から50年経っており、さらにそれより20年くらい前の対談も含まれる。時代を感じさせるものがあるが、内容が陳腐化していると思わない。保守派の代表的論客だった福田恆存との対談では当然ながらイデオロギーの基本的相違はない。対談がなされ、発表された当時と今の読者はかなり違った感じを持つだろう。この対談だけは確かに言える。

2020年11月12日木曜日

ジングルベル Good Tidings 2016

 W・ベッドフォード監督、英、99分。恐怖映画というかスラッシャー映画。

ホームレスたちが集まってクリスマスのパーティをしている建物、博物館か裁判所のような建物で、使われていないのでホームレスが占拠している設定、にサンタクロースの格好をした3人の男がやって来て殺人を始めるという映画である。

まずサンタクロースたちは会話がなく、そもそもどうしてここで殺戮をしたのか不明である。これは何も動機がなく大量殺人が起こっている現代の反映に見える。被害者のホームレスらはそれなりに人数がいるが、主人公であろう男とその知り合いの女たちは抵抗する。それが映画の筋になる。残酷な殺しの場面そのものは映さないが、後から死体を映す。

こんな映画のような出来事は起きて欲しくないが、例えば50年前だったらそもそも誰も作ろうとは思わなかった類の映画である。出来は褒められたものではないが、現代では映画になりうるようになった。

悦楽 昭和40年

 大島渚監督、松竹、91分、総天然色映画。

中村嘉葎雄演じる主人公の男は、自分が家庭教師をしていた少女に恋していた。その少女が大きくなり結婚することになる。かつて少女に暴行を働いた男から脅迫状が来る。金を寄こせと。中村は少女の両親から事情を聞き、金を渡しに行く。その後列車で男が帰郷する時、殺す。

その数日後、ある男が中村のところに来る。中村の犯罪を知っている。それをねたに話を持ち掛ける。男は公金を拐帯しており、3千万円を中村に預ける。自首して刑務所から出た後取りに来る。それまで保管を頼む。もし金を使うなり逃げていたら警察に中村の罪を告げる。

この後、男が警察に自首してから中村は2年間で3千万円を使い尽くす計画を立てる。自分の相手の女を見つけ、月あたり百万円で相手になると約束させる。最初の女は結婚していてその情けない夫は、借金で首が回らないので中村のところに来て土下座して頼む。自分の不幸を楽しんでいる夫婦と中村は見なし、金をくれてやり問題をなくならせて、その実不幸になるだろうと期待する。

次に見つけた女は街娼であり、後で紐の男がいると分かる。男が脅すので中村は金をくれてやる。後からその男は、公金横領の男が金を託した男を捜していると中村に相談する。その横領の男は獄死したと言われる。それを聞いて中村は笑い転げる。男が出所してきた時、金がない、それで殺されるだろう、だから使いきった。もう男が死んでいるならそういう心配はない。男がきくので、中村はその金を預かった男は自分だ、ただしもう使いきったと笑う。男は怒る。中村を襲うが代わりに中村は相手を殺す。

自宅に帰るとあの結婚した、自分が好きだった女が来ている。加賀まりこが演じている。夫の会社が潰れそうだ、金があると聞いたので貸してくれと頼む。中村は無いと答える。どうして大金を手に入れたかの質問に対して、ある男を殺したのでその秘密を握られている男の言いなりになったと答える。

中村が道を歩いていると刑事が二人で中村を拘束し、殺人容疑で逮捕すると言う。少し前の殺人かと聞くと数年前の殺人だと言われ、もう一つあるなら後で聞くと言われる。誰から知ったかの問いには数年前から知っている女だと聞かされ、加賀が警察に通報したと分かった。

全体の枠組みがいかにも映画的というか、実際にはまず起こりえない話だが、映画ではよくありそうな設定である。

2020年11月11日水曜日

赤死病の仮面 The Mask of Red Death 1964

 ロジャー・コーマン監督、英、88分、総天然色。

ポーの同名の短篇小説を基本的に使い、脚色は思ったほどでない。もちろん映画化するために追加している部分がある。プロスペロ公が村の若い女を攫う。その恋人と父親が領主に反逆的で捕えらえる辺りが一番大きなところである。またポーの短篇『ちんば蛙』が組み込まれていて、劇中の舞踏会で大猿の毛皮を来て扮装している男が、火をつけられ焼死する。

ロジャー・コーマンの映画は久しぶりに観たが、ポーの映画化としてはこのようなものか。特に傑作とも思えないが、いわゆる芸術映画でなく、猟奇的通俗的な関心で作ればこういう出来になるのだろう。

2020年11月10日火曜日

鞄を持った女 La Ragazza Con La Valigia 1961

 ヴァレリオ・ズルリーニ監督、伊、121分、白黒映画。若きクラウディア・カルディナーレが主演。

スポーツカーに若い女(カルディナーレ)を乗せている男も若い。途中で女を置いてけぼりにして去る。後にその男の屋敷にカルディナーレが来る。男は弟にいないと言ってくれと頼む。カルディナーレに会った弟は一目惚れする。兄の言いつけとおり帰すが、再会では家に呼び風呂に入らせたりさせる。家は大きな屋敷で、弟は叔母と住んでおり兄は去っている。女を邪魔扱いにした男が兄と言わずに、弟は事情を聞く。カルディナーレは歌を歌って小楽団にいたが、兄が甘言で誘い出し元の仕事場と離れてしまい、困っている。兄が捨てたカルディナーレに惹かれた弟はホテルに連れていき泊まらせる。家から持ってきた金をカルディナーレに渡し、貸しだと思ってくれと言う。またドレスをホテルに贈る。後にカルディナーレと映画に行くつもりだったのに、彼女はホテルで知り合った他の連中たちとダンスをし、弟は見て待っているだけで面白くない。一緒に住んでいる叔母は甥が朝帰りしたので叱る。

後にカルディナーレのところに弟をみている神父が来て、いかにもカルディナーレが弟を誘惑したと言わんばかりである。弟と離れろと神父に言われ、カルディナーレは弟から離れるためそこを去る。元いた小楽団に戻る。カルディナーレをみていた男は何しに来た、帰れと怒鳴る。その従兄が居合わせ、カルディナーレに声をかける。美人なので気に入ったのだ。俳優にするなどうまいことを言うが、カルディナーレは信用せず離れようとするが、男はそうさせない。そこにあの弟が来た。男と喧嘩になり、男を倒し、後にカルディナーレと駅に行く。カルディナーレが立つ前に手紙を渡して弟は去る。カルディナーレは列車に乗らず駅から出る。

カルディナーレの役名はアイーダで、弟が屋敷でヴェルディの『アイーダ』のレコードをかける。アイーダの素晴らしさを歌った部分を。

2020年11月9日月曜日

太宰治『グッド・バイ』 昭和23年

 太宰の絶筆。主人公の編集者は戦後の闇商売でしこたま儲けている。田舎にいる妻子を呼び寄せて一緒に住もうと考える。それには今まで付き合ってきた10人もの女と別れなければならない。その方法は絶世の美人を連れ、それらの女たちに会う。これが自分の妻と紹介すれば諦めて別れてくれるだろうと期待する。それでは絶世の美人はどうやって見つけるのか。以前から知り合いだった担ぎ屋の女がいる。商売をしている時は見てくれには全く構わず、見られたものでない。ところが奇麗な身なりにすると見違えるように美人になる。この美人を連れてこれまでの女の一人に行く。うまくいったようだ。しかしこの美人役の担ぎ屋の女は、実生活では身なり同様おそろしくガツガツしており、実際家であった。

沢山の女と付き合って別れなければならない、などいかにも太宰の人生から出てきた設定である。未完で終わり全部読めないのは残念。

2020年11月8日日曜日

太宰治『東京八景』 昭和16年

 何か東京名所案内のような題名であるが、太宰の自叙伝的、小説家としての日常を書いた小説である。小説を書くため温泉宿に行くところから始まる。その後は、大学入学後、何をしていたか、文学創作の苦労、また以前より知っている芸者小山初代(頭文字Hで表記)を東京に呼び出して一緒になりどうなったかなどが主な内容である。

太宰ファンなら知っているであろう、大学時代及びそれ以降の放蕩ぶり、田舎の兄らに迷惑をかけたなどが書いてある。最後は戦時中の作品らしく、義理の弟が出征するので見送りに増上寺に出かけた時の様子である。

題名の東京八景とは、名所選でなく太宰自身が気になって覚えていたところである。戸塚の梅雨、本郷の黄昏、神田の祭礼、柏木の初雪、八丁堀の花火、芝の満月、天沼の蜩、銀座の稲妻、板橋脳病院のコスモス、荻窪の朝霧、武蔵野の夕陽などである。

2020年11月7日土曜日

バルザック『海辺の悲劇』 Un drame au bord de la mer 1834

バルザックの短篇小説。海辺に住む男の過去の悲劇。

語り手は恋人と共に大西洋岸の海辺に行く。漁夫に会う。その後、海岸の岩の中に住む怪異な男を発見する。あの男はどういう者かを漁夫に尋ねる。過去の悲劇が物語られる。

男は若い時、美人の妻をもらい幸福だった。二人の間に息子が生まれる。夫婦の喜びようは大抵でなく、大事に育てる。しかしあまりの愛情に、甘やかされた男に育ってしまった。わがまま放題でやりたいことを何でもやり不良になった。家から金を盗む、近所の子供を傷つけるなど際限がない。母親は息子が可愛くしょうがないので、何でも許してやりそれにつけこむ。

最後はとうとう父親が放蕩息子を処罰する。悲しみのあまり母親も亡くなった。それ以来、男はひとりで海岸に住んでいるのである。

高山鉄男訳、世界文学全集第21巻、集英社、1978

2020年11月6日金曜日

井上ひさし『事件調書』 1978~1982

 実際にあった犯罪の記録を井上がまとめたもので、以下の20の事件が含まれる。

煉歯磨殺人事件、女青髭殺人事件、肉屋の親方殺人事件、入婿連続殺人事件、ドルース=ポートランド株式会社事件、松山城放火事件、浴槽の花嫁殺人事件、岩手山麓殺人事件、ベンダーホテル大量殺人事件、背振村騒擾事件、ピルトダウン人偽造事件、連続異常妊娠事件、愛国者H十七号事件、信濃川バラバラ事件、熊毛ギロチン事件、海賊船「大輝丸」事件、「梅枝殺し」殺人事件、福笑い殺人事件、カスペ事件、柳島四人殺し事件。

内容は日本だけでなく外国の事件も含む。

このような犯罪実録ものではよく収録され、周知とも言える事件がここにも入っている。例えば「肉屋の親方殺人事件」は1920年代のドイツであった少年が犠牲になった連続殺人事件であるし、「愛国者H十七号事件」は有名な女スパイ、マタハリの記録である。「浴槽の花嫁殺人事件」も有名であろう。「信濃川バラバラ事件」は米騒動当時、農林省のエリートによる殺人事件である。「入婿連続殺人事件」は和歌山県の海沿いの田舎の事件で、松本清張の記録とまとめ方はかなり違う。

井上ひさし短編中編小説集成第9巻、岩波書店、2015

2020年11月4日水曜日

崖 Il Bidone 1955

 フェリーニ監督、伊仏、90分、白黒映画。

詐欺師の物語。三人の詐欺師は無知な庶民をだまして金を巻き上げている。映画の初めは百姓の家に行く。司祭に化けている。死んだ犯罪者がここの土地に宝石を埋めたと自供したと言い、それを掘り起こさせる。元々埋めてあったガラクタの宝石類なるものを掘り出す。これは土地の持ち主の物になるが、教会に幾ら幾ら寄進しろと言う。そんな金はないと言われるとあるだけでいい、そう言ってだまし取る。また共同長屋のようなところに住む貧乏人たちに家に入れるようになったと言い、金を取る。

三人の詐欺師のうち、妻と幼い娘がいる若い男がいた。だまし取った金で家族サービスをする。たまたま詐欺師の一人は、以前からの知り合いである、車に乗った金持に会う。金持は自分の家に大晦日のパーティに来いと誘う。妻娘がいる詐欺師仲間も誘って行く。沢山の者が集まっているパーティだった。そこにはもう一人の詐欺師がいて、泥棒するところを発見されてしまう。パーティから帰る途中、詐欺師が仲間と知った妻は、夫に対してずるいことをしないでくれと頼む。

年長の詐欺師には年頃になる娘がいた。久しぶりに会い親としての愛を感じる。以前詐欺にかけた男に見つかり、刑務所に入る。出てみるとかつての仲間はいない。新しい仲間と、詐欺を再開する。百姓の家に行きインチキ宝石類を掘り起させ、金をだまし取る手口である。帰りに会ったのは、その家の小児麻痺で下半身が動かない娘だが極めて純真な心の持ち主だった。司祭に化けた詐欺師は自分の娘を思い出し、逃げるように去る。

仲間から奪った金を出せと言われると、可愛そうだから置いてきたと答える。仲間は乱暴を働き、金を取る。男を崖下で傷ついたままにしておく。男は何とかして崖の上の道までよじ登るがそこで尽きる。

バルザック『赤い部屋』 L'Auberge rouge 1831

 


晩餐の席でドイツ人が話した過去の事件。まだナポレオンが各国と戦争していた時代、ドイツの町の宿屋(赤い宿屋、これが原題)での出来事である。二人のフランス人の旅人が来るものの宿には空きがない。後から来たドイツの商人と食事する。商人が大金を持っていると分かる。一人のフランス人は大金があればいいと空想する。夜中に外に出る。戻ってみると、同室のドイツ人は殺されていた。金は無くなっている。そのフランス人に嫌疑がかかる。話の語り手はその町にいた。容疑者の若者は自分ではないと主張するが聞き入れられず、死刑になる。

失踪したもう一人のフランス人が犯人ではないかと思われる。しかしこの話は語り手に重くのしかかる。なぜなら語り手が愛し結婚しようとしていた娘の家系にその逃げた男がいるからだ。語り手は悩み、他の人々に意見を聞く。最後はなんで相手の家をきいたのかと言われる。

高山鉄男訳、世界文学全集第21巻、集英社、1978

2020年11月2日月曜日

デビルズノット Devil’s Knot 2013

 アトム・エゴヤン監督、米、114分。1993年に実際に起きた事件を基に映画化。

少年3人が行方不明になり、三人とも川で遺体で見つかる。殺人だろうと捜索が始まる。オカルトに凝っていた3人の若者が捕まる。その若者の弁護に協力するため、弁護士の調査員として活躍するのが主人公である。

裁判官、警察、検事とも容疑者の有罪を信じて疑わない。色々おかしな警察側の証拠を集める。それでも多数の思いとおり、有罪判決が出る。判決後、調査員は事件の現場(デビルズ・ノット)に行く。被害者の一人の母親が立っている。自分の夫がもしかしたら事件に関係しているのかと疑う物件を見せる。

映画は最後にその後の経過を伝える。真相は不明のままである。有罪判決を受けた三人は一応釈放されたが、まだ無実と証明されていない。

2020年11月1日日曜日

風の視線 昭和38年

 川頭義郎監督、松竹、105分、白黒映画。松本清張原作の映画化。

三角関係がかなり込み入った映画である。原作の松本清張も出演、2か所に出て台詞がある。

東北へ新婚旅行に来ているカメラマンとその妻(若い岩下志麻が演じる)は、たまたま死体を見つけ早速夫はカメラマンの本領発揮で写真を撮りまくる。

夫は新妻に全く興味がなさそうである。なぜ結婚したかと観ている者は思ってしまう。夫だけでない。妻の岩下も勧められて結婚した。夫婦二人とも好きな相手がいて、共に既婚だった。それで結婚を勧められ一緒になったのである。夫は新珠三千代を好きになっていたが、既婚である。その新珠の夫は会社の社長ないし重役で、岩下を以前自分の女にしていた。つまり新珠とその夫の恋人同士を娶わせたのである。

新珠も夫の仲は冷えており、佐田啓二演じる新聞社幹部と相思の仲だった。ただし深い関係にはなっていない。新珠の夫が外国から一時帰国する。早速、夫は岩下と会う。岩下も新婚の夫が自分に興味がなく、かつての恋人が真剣に自分を愛してくれるなら、一緒になりたいと思っていたが、後の方になって相手の正体を知り幻滅する。

佐田も既婚だったが、告げ口で妻に新珠との仲を知られる。別れて新珠と一緒になりたく思う。新珠の夫は密輸で逮捕される。新珠は姑の世話で別れるわけにはいかない。岩下の夫も新珠に思いを打ち明けるがもちろん相手も自分も既婚で、一緒になるのは不可能である。

岩下は自分が思いをかけていた男の正体を知り、カメラマンの夫の元に戻る。夫も岩下を本当に好きになった。佐田は佐渡へ赴任を希望し単身で行く。2年後、新珠の姑が死亡し、佐渡の佐田の元へ新珠は向かう。佐田と一緒になるために。