2019年9月30日月曜日

にっぽん実話時代 昭和38年

福田純監督、東宝、83分、総天然色映画。
全く売れない経済雑誌を出している出版社。返品の山である。社長の平田昭彦は、若手の新編集長を連れてくる。高島忠夫である。
経済雑誌は止め、売れる雑誌、大衆雑誌の創刊を決める。大衆が興味を持つ下世話なネタ、スキャンダルも大いに結構。むしろ積極的に火のない所なら火をつけろという編集の方針になった。
これによって売上はうなぎ登り。大繫盛になる。

しかしあくどい手を使ってスキャンダルを作り出し、女優から訴えられるといった事態になっても、高島は訴訟大いに結構、それでまた売れると涼しい顔である。
しかしある会社社長のネタを記事にしようとしたら平田から差し止めを食らった。その会社から雑誌社にカネが出ているのである。しかしこの平田命令に高島以下の編集部員は逆らい、どうしても記事の雑誌を出そうとする。妨害に会いながら努力を続ける。

初めの方のあくどい雑誌関係の話が面白い。当時の雑誌事情を盛り込んでいる。

君も出世ができる 昭和39年

須川栄三監督、東宝、101分、総天然色映画。
オリンピック前、観光会社を舞台にしていかに出世できるかに励むフランキー堺、その友人でのんびりした高島忠夫を主人公とするミュージカル映画。

オリンピックを目前に控え、フランキー、高島らの勤める観光会社は、米大手の観光会社と提携しようと目論む。会社社長益田喜頓の娘、雪村いづみはアメリカ帰りで会社を米式合理主義で仕切ろうとする。
出世主義者のフランキーに対して、のんびり主義の高島は利益も考えず外人夫婦の世話をして雪村に叱られるが、後に却ってそれが実を結ぶという映画によるある展開になる。

当時は和製ミュージカル映画を興そうという機運があった時代で、大映の『アスファルト・ガール』も同年の作である。

愛情の都 昭和33年

杉江敏男監督、東宝、100分、総天然色映画。
司葉子は義理の姉、草笛光子の経営するバーにやって来て仕事がしたい、いさせてくれと頼む。家で結婚等を強いられる生活から逃れてきた。
会社社長の息子、宝田明は放蕩息子の生活に明け暮れている。社長が女中に産ませた子というのですねている。バーで司を見初めた宝田は結婚するつもりになった。親の勧めた白川由美との見合いもいい加減に済ませる。

宝田を以前より知っている浪花千栄子は、宝田が司を愛していると知り、二人を別れさせようと画策する。宝田は以前からの情婦、淡路恵子と別れようとしていた。
事情を知り、淡路からいずれ自分のように捨てられると言われた司はバーを飛び出し雲隠れする。ようやく宝田が捜し出すと、場末の酒場ですれっからしのような様になっていた。
最後には誤解等解け、司と宝田は仲直りする。

宝田は持ち前の美貌のせいか、道楽息子、放蕩息子の役が似合ってよくさせられた。

『チェーホフの手帖』新潮文庫

本書の目次は次のようになっている。
はしがき(訳者による)
手帖より
題材・断想・覚え書き・断片
日記

手帖はチェーホフが折に触れて書き留めた、感想、将来の作品のための腹案、スケッチ、心覚えの類を集めたものである。(1892~1904)チェーホフの死後、妻が保存していた。
題材・断想・・・も別の遺稿で、内容は同様である。
日記は1896~1903にわたる。
いずれも1行から数行の断片であり読みやすい。チェーホフの研究者にとって有意義な材料と解説にあるが、一般の読者も読んでいて面白い。
神西清訳

2019年9月29日日曜日

R・ヒングリー『19世紀ロシアの作家と社会』 中公文庫 1977

著者は1920年にスコットランドで生まれた研究者、著述家。本書は19日のロシヤ文学の理解に必要な当時の社会背景等を説明しており、有用な本である。
ロシヤの民族、経済、農民等社会階層、宗教、都市、官吏、軍隊、教育、等々をロシヤ文学でどのように描かれているかを引用するなどして解説する。
19世紀のロシヤという我々には縁遠い社会の実情が分かるので、ロシヤ文学鑑賞の手助けとなる。ロシヤ文学の中でもドストエフスキーとなると、正教の理解が必要である。正教についても文学愛好家を対象とした解説した解説本が欲しいところである。
川端香男里訳、1984

2019年9月28日土曜日

細川博昭『身近な鳥のすごい事典』イースト新書Q 2018

雀、鳩、烏を初め我国で観察される身近な鳥を取り上げ、どんな鳥か、いつどこで見られるか、歴史の中でどう見られてきたかを解説する。
元々鳥が好きな人だけでなく、鳥に関心はあるが、詳しくない人向けの入門書として最適である。
いつも思うのは、ここでの鳥を含め動植物の名をカタカナ書きするのが現在では通例になっているが、漢字表記を原則にしてもらいたい。もちろん漢字も原則として書いてあるが、参考までに言及されている鳥でカタカナでしか書いていない例がある。元々漢字の読みで名前がついているものは漢字が書いていないとただの音になってしまう。覚えにくい。

2019年9月27日金曜日

復讐は俺に任せろ The Big Heat 1953

フリッツ・ラング監督、米コロムビア、90分、白黒映画。刑事ものの映画。
刑事が自殺する。妻はあまり悲しんでいないようである。主人公の刑事、グレン・フォードは自殺かどうか疑いを抱き捜査する。自殺した刑事は愛人と逃げる約束をしていたと知ったからである。街を牛耳る悪漢一味と警察上層部は繋がりがあり、板挟みの刑事が自殺したのである。刑事の妻は悪漢一味からカネを巻き上げていた。
自殺した刑事の愛人は、悪漢一味の幹部の女だった。刑事フォードと自分の女が頻繫に会うので嫉妬逆上した悪漢幹部は、女の顔に熱湯を浴びせかける暴行を働く。女は余計刑事フォードに近づく。
フォードが事件に深入りをしているので警察上層部は止めるが、フォードは言うことを聞かない。悪漢のボスはフォードを亡き者とするため車に爆弾を仕掛けさせる。フォードの妻が車を借りて出ようとしたら爆破し、犠牲になる。
顔が火傷になった女は、悪漢どもとつるんでうまい汁を吸っている、自殺した妻のところへ行き射殺する。悪漢一味を逮捕しようとする刑事らは悪漢どもと銃撃戦になる。火傷を負った女今度は復讐で男に熱湯を浴びせかける。男に撃たれ悪漢らが一掃された後に亡くなる。
後の映画と比べて女がよく殺される映画である。

藤森照信『天下無双の建築学入門』ちくま文庫 2019

建築史家による建築学入門である。系統だった教科書といった構成ではない。
第一部は「目からウロコ?古代の建築術」といい、縄文時代からどのように家をつくってきたかの議論を、自らの家造りとからめて論じる。
第二部は「アッと驚く住宅建築の技」と題し、日本の家屋の部分、即ち屋根だの天井だの廊下などを、なぜそうなってるか、について考察を進める。
読んでいて面白く、感心するところが多い。その反面、素人考えでどうも全面的に賛成しかねるというか本当にそうかといった疑問も出てくる。
例えば最後のところで、なぜ日本人は家に上がる時、靴を脱ぐか、についていろいろ書いてあるが、自分など日本は高温多湿で靴など履いていられない、が理由と思っていた。それで靴を脱ぎ、冬などは足袋をはいたり厚着で対応していた。これが間違っているならその理由を聞きたいが、そもそもこんな話自体取り上げていないから何も書いていない。

2019年9月25日水曜日

ゲーテ『タウリスのイフィゲーニェ』 Iphigenie auf Tauris 1787

本戯曲は、トロイア戦争時の総大将、アガメムノンにまつわる話から生じる。アガメムノンは凱旋帰還をしたものの、不貞の妻に殺害される。妻は息子オレストによって復讐される。それより以前アガメムノンは戦争の際、女神アルテミスへの謝罪として長女イフィゲーニェを捧げた。イフィゲーニェは一命をとりとめたが遠国タウリスに流され、事情を知らぬそこの王に救い出され、神官として仕える。

劇はイフィゲーニェが王から求婚される場面で始まる。イフィゲーニェは断わる。執拗な王に対して自らの素性、特に先祖からの呪われた事情を話す。この時まだイフィゲーニェは両親の悲劇を知らないが、祖父以前のおぞましい悲劇を語る。事情を知った王はイフィゲーニェを疎ましく思うようになる。流れ着いた異国の者二人を処分するよう言い渡す。
この二人はイフィゲーニェの弟オレストとその従弟であった。再会し両親の事情を知ったイフィゲーニェに対し、弟らは共に逃げようと提案する。しかしイフィゲーニェは王に対して恩義を感じている。王とイフィゲーニェ、オレストとの会話が続き、最後には王はイフィゲーニェらを帰国させる。ギリシャ悲劇では女神が解決するとなっているところをゲーテは人間の心の問題として解決させた。この辺りが評価されている。
氷上英広訳、ゲーテ全集第4巻、人文書院、昭和35

ロヴェッリ『世の中ががらりと変わって見える物理の本』Sette brevi lezioni di fisica 2014

著者はイタリア人の物理学者。物理学を優しく解説した本で、イタリアではベストセラーになったそうだ。文字通り素人にも分かるように書いてある。
現代物理学の二大理論である相対性理論と量子力学の説明から始まる。この二大理論を繋ぐ考えとしては超紐理論が有名である。本書では超紐理論でなく、ループ量子重力理論を挙げている。「とくに中心的な研究」(p.68)と呼んでいる。この理論の従事者としては当然であろう。わが国では超紐理論の解説は多いが、ループ量子重力理論はあまり聞かれない。その中で本書はまず初歩的に読む著書として有益である。
関口英子訳、河出書房、2015

米原万里『打ちのめされるようなすごい本』文春文庫 2009

著者はロシヤ語通訳者、本文は第一部、第二部に分かれる。第一部は「私の読書日記」、第二部は「書評1995~2005」。第一部は2001年以降、週刊文春に、第二部は読売新聞等に書いた批評を集めている。
世の読書好きは読むに値する本の案内が好きである。面白い本はどれか、いつも捜しているからである。色々な本の紹介はそういった意味で役に立つ。
しかし読んでいて気になるところがある。以下に例示する。

著者の政治的主張が多い。
政治的な主張や社会批判が結構出てくるのである。以前、わが国で支配的であった進歩派、反権力の立場でものを言っている。どういう意見を持とうが勝手だが、ここは書評の場である。他人の政治や社会への意見など聞きたくない。

おかしな意見が書いてある。
インターネットのホームページの言語別割合が引用してあり、英語84.3%、・・・日本語3.1%とあるのを見て「言葉を失」ったとある。何に言葉を失ったかというと英語の割合の多さである。「それぞれの言語共同体のコンピュータ普及率を考えると、さほど気にすることもないかもしれない。」(p.30)と言っているのである。
これを読んでおかしいと思った人が多いのではないか。英語のHPが多いのは、言うまでもなく英語が事実上の世界共通語になっているからである。普遍的な学問の論文は英語で書かなければ受け付けられない。何でも世界に向けて発信するのであれば英語で書くしかない。言語共同体のコンピュータ普及率などの話でない。そもそもこの数字を見て英語の割合が低すぎると思った人が多いであろう。英語84.3%云々がいつの数字かも書いていない。引用元の文献名はあるが、数字についてはいつの時点か書かなければ意味がない。

必要な情報が書いていない
ロシヤで現代日本文学のアンソロジーが出た。安部公房や大江健三郎で日本文学に期待していたロシヤ人は「あまりの退屈、底の浅さに愕然とした」とある。(p.51)どんな作家のどんな作品か気になる。しかしそれが書いていない。著者も捜したが入手できなかったとある。実際に入手しないと分からないのが実情なのであろうか。

ロシヤ関係が多い、同一著者の本が何度も挙げられている
これは著者がロシヤ緒通訳であれば当然かもしれない。ロシヤや東欧関係が非常に多く、やや一般的な読書案内とは、ずれる。
同一著者を繰り返し挙げているのは、それらの著者が好きなのであろう。本にして売り出すなら同一著者はまとめてみたらと思ってしまった。

以上、あまりに好評の本であるから、気になった点を列挙した。
評価できるのは、索引がついていること。ある経済学者が「索引のない本は本でない」と言っていた。文学書や読み捨ての本以外で、広い意味の何らかの知識を提供するなら索引は必要である。

2019年9月12日木曜日

川上和人『鳥類学者だからといって、鳥が好きだと思うなよ』新潮社 2017

鳥類学者の著者が、どのようなことをしているのか、鳥類学とはどのようなものかを軽妙な筆致で綴っており、読んでいて楽しい本である。鳥に関する知識が増え、また今まで特に鳥に興味のない者にも、関心を持てるようになる。
特に小笠原諸島の鳥、そこでの観測が多く取り上げられており、フィールドワークの実際もわかったし、それ以外の項目も面白い。

2019年9月10日火曜日

パール・バック『大津波』 The Big Wave 1947

日本の漁村及び農村を舞台にした童話のような作品。浜辺に住むジヤの家は漁師、山の方に住むキノの家は農業をしている。二人の少年は仲良しであった。浜辺を津波が襲う。浜の家は凡て流され、ジヤは助かったものの、家族を亡くした。キノの家にジヤは住むようになる。村の長老がジヤを引き取ろうとしたが、ジヤは断る。
後に浜にはまた家が建てられるようになった。青年となったジヤは自分もまた浜に家を建てると言い出す。そしてキノの妹を嫁にもらいたいと。驚くキノだったが二人を祝す。

単純な物語で、これが全訳であろうかと思ってしまったくらいである。
北面ジョーン和子、小林直子、谷口安子、谷信代、弘中啓子訳、1988、トレヴィル社

2019年9月8日日曜日

前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』光文社新書 2017

著者は昆虫学のポスドクで自分の地位を得る論文を書くため、アフリカのモーリタニアへ渡る。倒しにではなく、バッタネタの論文を書くためアフリカへ、が正しい題である。
バッタの大量発生すると作物を食い尽くし、大被害を与える。(戦前の映画『大地』(パール・バック原作)に蝗の大群が出てくると子供の時、聞いたことを思い出した)そのため、アフリカのモーリタニアにはバッタ対策の研究所があり、そこへ赴任するのである。
何とかバッタを捜しに車で回るが、中々見つからないなどの苦労談が語られる。バッタ自体の研究書ではない。
モーリタニアという名前以外に知らなかった国についてなじみになる。入国には役人が賄賂を請求する、時間を全く守らないなど他の途上国でも聞かれたような話がある。アフリカが成長しないわけが分かる。
本書は著者がいかに苦労して栄光を勝ち取ったかの成功物語である。だからこそ大ベストセラーになったのであろう。決して科学的知見が増えるといった類の書ではない。

本書の意図とは関係ないが、最も気になった箇所を挙げる。共に経済に関する事柄である。
p.84に「日本から外国に物資を送るには「関税」なるものがかかることを初めて知る。・・・送るには税金を支払わなくてはならない。」とある。日本からの輸出税?輸入税ならわかるが意味不明であった。
もう一箇所は、日本で物乞いを見かけないのは「最近は物騒なので見ず知らずの他人に誰が恵んでくれようか」(p.95)という記述。モーリタニアでは物乞いが多いのは救いの手を差し伸べてくれる人がいるから、が著者の理解である。モーリタニア人は人情がある、それに比べ日本は物騒な国で日本人が不人情のため?
日本なら文句を言わなければ仕事はある。全く仕事が出来ず、親族もいなかったら生活保護が受けられる。だから物乞いがいないのである。(制度が整っていなかった昔にはいた)
この著者は当てずっぽうで適当なことを書く人と思った。

2019年9月7日土曜日

マーク・トウェイン『人間とは何か』 What is Man? 1906

トウェイン晩年の作で、老人と青年の会話から成る。会話というより問答形式、プラトンの対話篇のような作品である。
内容は、人間は機械と変わらない、他からの影響で動いているに過ぎない。また凡て自分の利益のために行動する、という老人の主張に対して、青年が反発、会話が続いていくというものである。
老人の主張は別に驚くにあたらない。至極当然に見える。人間は機械と違う、理性とか崇高な義務を持つとかの青年の主張は、かつての人間は主体的に行動する理性的な存在であるという人間観の反映に過ぎない。フロイト後の現在ではそんな素朴な人間観の方が稀少であろう。
また人間が利己的な存在であるという考えに反対するのは、利己的と利他的を相反排他的に捉えているからである。情けは人の為ならずという言葉のある日本人なら老人の主張は分かりやすい。
マーク・トウェインが晩年になって厭世的になったからだなどと持ち出す必要はない。
中野好夫訳、岩波文庫、1973

鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった』ちくま文庫 2015

実際は違うのに、あるいはかなり怪しい理解でも事実として信じられている風説、それは神話あるいは伝説というべきか。これらについて例を挙げて説明していく。
本全体の題名にもなっているオオカミ少女。たいていの人は聞いているだろう。日本式に言えば大正時代の半ば頃、インドで狼に育てられたという少女二人が発見され、全く人の教育は施せず、幼年期と少女時代に亡くなった。本書によれば、確かにこの二人の少女はいたものの、狼などに育てられたわけはない。狼は人など育てない。ただ写真も残っており、専門家による著書もある。写真の疑わしさを指摘している。専門家も実際に二人の少女を観ているわけでなく、自らの理論補強に使えたので支持したらしい。
このような神話が生まれ語り継がれる理由として、人がそう思いたいからだとの指摘は納得的である。
他にもサブリミナル効果、知能の高い馬の真実、データの捏造等々、興味深い話題について解説がなされており、読んでいて面白い書である。

2019年9月6日金曜日

アルベルト・ボードウァン『オランダ領事の幕末維新』

幕末から明治維新後まで日本に滞在し、最初は商人として、後にはオランダの領事となったボードウァンが祖国の肉親に宛てた書簡から成る。
1859年に30歳のボードウァンは長崎出島に到着する。その後、兵庫や横浜からの手紙もあるが、出島発の書簡が特に幕藩期には多い。
ボードウァンは一時的に帰国した場合もあるが、最終的に1874年に日本を去るまで滞日した。
日本に着いた当初は日本人に対して不満や愚痴が多い。時間を守らない(遅れる)や仕事がのろい、といった今日、途上国の人々に対して言われる不満がそのままある。
しかし次第に、日本はオランダと比べて温暖で過ごしやすいといった肯定的評価が出てくる。もっとも長崎のせいか雨の多さには閉口したようだ。
目立って日本を評価するような文言はない。しかしオランダに帰りたくないような言もたまに出てくる。歴史に出てくる諸事件、外国人が侍に殺傷された事件なども出てくる。事実を伝えて論評などはしていない。
身内に宛てた書簡集であるから特別面白いとか刺激的な記述はない。書簡ならそういうものであろう。ともかく幕末維新にかけての外国人の記録として意味がある。
フォス美弥子訳、新人物往来社、昭和62

2019年9月5日木曜日

シドモア『日露戦争下の日本』新人物往来社 2005年

本書は日露戦争時に日本の捕虜になった軍人の妻が、夫の世話をしにロシヤから松山の捕虜収容所までやって来て、そこでの見聞や感想を述べるという内容である。

本書は同じ新人物往来社から出た1991年に出た旧版で読んだ。その際には著者名はソフィア・フォン・タイルとなっていた。語り手の婦人である。その婦人による記録としか見えない。解説もそのように書いてある。
しかしながら読んでいくうちに違和感を覚えてきた。何しろ語り手の感想とはいえ、あまりに日本を美化し絶賛としか言いようのない記述が続く。本当にこれは事実の記録か、疑問を感じないわけにはいかなかった。その本には原書名や著者名の原語による表記、出版年は書いていない。そこでアマゾンの旧版の読者評を見て、本書がシドモア女史による創作と分かった。

シドモアは親日家の米婦人で、他に『シドモア日本紀行』(講談社学術文庫)も出ている。例のポトマック河畔の桜植樹にも貢献したそうで、日本政府から叙勲を受けたこともあるそうだ。
なお原書As The Hague Ordains, by Scidmoreはやはりアマゾンの洋書で調べると何種類か今でも出版されており、kindleでは安く入手できる。

ともかくこれで本書の真相が分かった。なぜ旧版では記録文学のような扱いで出されたのか。
新版の解説によれば、原書はかなり昔に入手したもので、そこには著者名がなかったという。
それで語り手の婦人名を使ったと。旧版出版後かなり話題になったそうだ。その後読者から本署の記述内容の間違いの指摘があった。更に著者がシドモア女史と判明したと書いてある。
シドモア女史によれば本書は歴史文学だという。

新版の解説に十全に納得したわけではないが、それより昔これほど日本を称賛する米人の婦人がいたと知った方が自分には意味がある。20世紀初頭、日本と米英は友好関係にあったと聞く。その後戦争になる。敗戦後、占領軍のアメリカは日本人に徹底的な劣等感を植え付ける教育を施す。これが日本人の自己認識の基礎となった。その半世紀前、一例とはいえこれほど日本びいきのアメリカ婦人がいた。歴史とは無常なものであると改めて思った次第。

伊藤比呂美『女の一生』岩波新書 2014

著者は昭和30年生まれの詩人、もっとも本書のような随筆の類も随分書いてきたらしい。
内容は女からの人生相談に著者が答えるという形式になっている。子供時代から大人になり、老年期を迎えるまで人生の各段階の諸問題に対し、著者は明快に自信を持って答える。

大いに感心する人もいるであろうし、あまり共鳴できない人もいるであろう。
ともかくこのような本が岩波新書として出る、これが一番の驚きであった。今の岩波新書は昔と違うと感じさせられた本である。

2019年9月2日月曜日

彼奴は顔役だ The Roaring Twenties 1939

ラオール・ウォルシュ監督、107分、ジェームズ・キャグニー主演。
アメリカの狂騒の20年代が背景で、主人公のキャグニーは禁酒法下のもぐり酒場によって大儲けするなど波乱の人生を送る。

第一次世界大戦の塹壕から映画は始まる。塹壕に飛び込み知りあいとなったキャグニーとハンフリー・ボカードは戦後に商売で再会することになる。
戦後仕事が無くてあぶれているキャグニーは、慰問が沢山来た女を訪ねる。相手が高校生と知り子供と思って去る。
禁酒法時代である。もぐり酒場は大いに儲けていた。ある日酒を頼まれ運んだキャグニーは正直さで、女主人から好かれる。女主人はキャグニーを誘い酒場を拡張する。それにはボガード、更に塹壕のもう一人、弁護士志望の青年も加わる。あの女高生だった女に再会し、今度はキャグニーはすっかり惚れ込む。酒場の歌手として使う。好きになるものの、女は弁護士の青年と相思の仲になっていく。後にキャグニーもそれを知る。

儲けの関係で、キャグニーはボガードと仲を分かつ。大恐慌が起こり、キャグニーは破産、以前友人としていたタクシーの運転手に戻る。
ある日あの女を乗せる。弁護士と結婚して幸せになっていた。夫は検事になっており、ボガードを告発する予定である。女は夫を案じ、キャグニーに助けを求む。
キャグニーはボガード宅に乗りこみ、ボガードを殺すが、手下たちにやられる。

キャグニーのギャング映画(それほどギャング物に見えないが)の中でも評価の高い作品だそうである。