2024年4月30日火曜日

石坂洋次郎『乳母車』 昭和31年

この作品は日活の映画の方が有名だろう。これはその原作の短編小説である。映画の方は映画用にかなり長く話を作っている。以下、短編小説の『乳母車』についてである。

主人公は女子大生で仲間と遊んだりしている。その仲間から主人公の父親が二号を囲っていると聞かされる。母親に確かめるとそうだと肯定される。騒がないのは、妻が騒ぐと夫はそれで浮気(不倫)にけりがついたと思うから、と言うのである。主人公はその二号の家を訪れる。二号の弟の青年に会う。二号との間に赤ん坊が生まれていた。青年が赤ん坊を乳母車に乗せて公園に行く。青年が居眠りしている間に主人公は乳母車を勝手に動かして去り、赤ん坊を見る。後に二号の家に乳母車を返しに行く。後日になって青年が怒り狂っていたと知る。主人公は自分の幼い異母妹を見ていたのである。

二号の問題がものすごく前向きに書いてあって驚く小説である。

アクアマン Aquaman 2018

ジェームズ・ワン監督、米、124分。灯台守と海の女王(ニコール・キッドマン)が恋をし子供が生まれる。女王は海底の王国から戻るよう指令があり、夫と子供を守るため海に帰る。

その子供、アーサーは大きくなって無敵の存在になる。海の帝国アトランティスの王、アーサーの義弟は地上を攻撃するつもりでいる。津波が押し寄せる。アーサーらを海底の他の王国の王女が救った。海と地上の戦争を食い止めるため、アーサーはアトランティスに向かう。義弟はアーサーが王を簒奪しようとしていると見なし、アーサーと戦う。アーサーを王女が救い、王の印である三叉の矛を捜す。かつて海だったサハラ砂漠に行き、そこの地下にある宮殿の廃墟で在り処の指示を得る。地中海の島で場所を捜していると、海賊たちに襲われる。

指示された海底深くに行くとそこで死んだと思っていた母(キッドマン)に再会する。矛は怪獣が守っていると聞くがアーサーは取りに行く。怪獣と対面し刺さっている矛を抜いて本物の王だと証明する。アーサーの義弟は海底を支配するため他の国と戦っていた。そこアーサーが怪獣に乗り、戦いを蹴散らし、更に義弟と戦い自分が王だとすべての者に知らしめる。

羽仁五郎『自伝的戦後史』 1976

左翼の理論的指導者であった羽仁五郎の自伝というか、持論展開の書である。

題名には戦後となっているが復刻版全355頁の100ページを過ぎても戦前戦中の話をしている。羽仁の論は全く過去の左翼の言い分の典型で、昔左翼がどのような主張をしていたかの見本である。独占資本が支配する資本主義の国はだめで社会主義の国家、ソ連や中国を持ち上げる。今読むと滑稽にさえ感じられるが、昔はこのような主張というか雰囲気が世の中を覆い、大勢を占めていたのである。

羽仁はともかく社会主義が理想なので、敗戦の時革命が起きなかったのは、自分のような牢獄に囚われていた者を誰も助けに来なかったからだ、などと述べている。敗戦時に解放に誰も来なかったと何度も書いてあるが、三木清の獄死については三木の名は出てくるものの、あまり書いていない。羽仁が敗戦の日に解放されていれば日本は革命が起きて社会主義国家になったらしい。その他、色々な羽仁史観というか見方が書いてあり、今読むと懐かしく感じる。(スペース伽耶、2002年)

バーニング・ダウン 爆発都市  Shock wave 2 2020

ヤーマン・ラウ監督、香港・中国、121分。映画は香港の空港に核爆弾を積んだ列車が突っ込み、大爆破が起こる場面から始まる。これを防いだのが以下の通り、が映画になる。

爆弾処理班の主人公は爆弾を仕掛けてあった人々を助けるが、爆破で自分の左脚の膝から下を失う。更に記憶を失う。義足をつけて猛訓練をし元のように動けるようになったが、警察は内勤を命じる。これに不服で猛烈にくってかかる。居なくなったと思ったらホテルの爆破の犯人と目され追われる身になる。

主人公は子供の時からある男と知り合いで、男は社会を破壊する計画を立てている。それを主人公と共有していたというのだ。追われる主人公にはやはり警察官の元恋人がいた。その元恋人は主人公の記憶を取り戻させようとする。更に犯罪組織への潜入捜査をさせ、罪を帳消しにしようとする。主人公は記憶があいまいなまま犯罪組織にいて香港を爆破する計画を知り、後にこれを阻止しようとする。映画冒頭の列車爆破を阻止するため、橋を爆破させ列車を海に落とす。そこで核爆発をし香港は壊滅から免れた。主人公はその阻止作業で死んだ。

2024年4月28日日曜日

現代仁侠道 兄弟分 昭和45年

村山新治監督、東映、89分、菅原文太主演。賭場に警察の手入れが入った。菅原が責任をとり自首し、その場は収まった。

菅原が出所した後、親分の渡部文雄が引退し、後任に他の者を選んだ時、菅原は約束のシマをくれる約束はどうなったかと聞く。渡辺は不快になる。大阪の自分の組から飛び出して上京した待田京介は渡辺の組に草鞋を脱ぐ。渡辺は待田に、邪魔になった菅原を消せと命じる。待田は菅原と会ってその人間が気に入り、東京から逃げてくれと頼む。菅原はその気になったが弟子が渡辺に捕まっていると聞き、戻って渡辺に切りつける。その時現れた大親分が仲裁する。菅原は自首、服役した。

その間、待田は暴れ勢力を伸ばしていた。菅原のいない間、渡辺は弱味につけ込み菅原の妻に手を出していた。菅原出所後、妻は自殺する。大阪から待田を連れ戻しに鶴田浩二が上京してきた。渡辺は待田に、自由になりたかったら大親分を倒せと命令する。大親分、待田とも倒れる。菅原は鶴田と共に渡辺の組に乗り込み全滅させる。

井奥陽子『近代美学入門』ちくま新書 2023

西洋の近代の美学観念の変遷を追う。

artに当たる語の意味は古代では技術、近代以降芸術の意味が加わった。自由七芸でなかったartはむしろ職人の手になる技術とされた。近代以降、芸術家が確立し藝術視されるようになった。artの対象はまず美、これは均斉のとれたもの、更に崇高、これは自然の荒々しさ、最後は「絵になる」もの、これは対象は不均一だが構成によって整える。これらの美、崇高、絵になるがartとして認識されてきたのが近代である。17世紀から19世紀までの時代になる。

2024年4月27日土曜日

ジャイアント・スパイダー 巨蜘 Giant spider 2021

リー・ヤードン監督、中国、84分。秘密の研究所での研究は蜘蛛を巨大化させ、研究員をほとんど殺す。

救出に特殊部隊が赴く。また研究所を知っている博士とその護衛役の女戦闘士、アンドロイト風、日本刀のような刀の使い手が一緒に行く。荒涼たる地にある研究所に着いてみると巨大蜘蛛に襲われ部隊員の大部分が死ぬ。研究所の女所長の野望による研究が悲惨な結果をもたらしたのである。その女所長も殺され、何とか数名の者が逃げる。研究所そのものは爆破される。

ザ・レイク The lake 2022

リー・トーンカム監督、タイ、108分。タイの田舎の池或いは湖に怪物が現われ、人々を襲う。アマゾンの半魚人風?で、後ゴジラ風になる。沢山の者が犠牲になる。

幼い娘が怪物に攫われたか行方不明になる。若い姉弟のうち弟は怪物に傷つけられる。すると怪物の考え(?)が分かるようになる。捕えた小さい方の怪物を人々がやっつけようとしていると、止めに入る。幼い娘は無事だったが大きな卵を抱えている。

刑事には言う事を聞かない娘がいる。学校に迎えに行く。反抗期のような娘は父親に反発して口もきかない。怪物が現れたとの通報で娘を乗せてそこに向かう。幼い娘と卵も車に乗せる。大きい怪物が現れた。卵を取り戻しに来たと推測がつくが、怪物を仕留めるためボンベを銃で射ち大爆破となる。自分の娘が死ぬ。後に怪物の居所を捜しに、洞窟のような所に行く。

2024年4月26日金曜日

ブラックサイト 危険区域 Black site 2021

ソフィア・バンクス監督、豪米、91分。イスタンブールで病院爆破があり、それで夫の医師と娘を亡くしたCIA分析官(ミシェル・モナハン)が主役。

砂漠の様な人里離れた場所に基地があり、そこにテロの首謀者の男が移送されてくる。取り調べ中に一人で叛乱を起こし、基地の人間を次々と殺していく。この殺人者をいかにして取り押さえるかの映画。最後になって真相らしきものが分かり、ミサイルを打ち込んで基地全体を秘密保持のため爆破するが、主人公は寸前に脱出する。

清水幾太郎『現代思想』上下 岩波全書 1966

内容は次の様である。第一章「二十世紀初頭」1芸術家たち2哲学者たち3社会主義者たち、第二章「一九三〇年代」1.ナチズム2人民戦線3スペインとインテリ、以上が上巻である。以下は下巻で第三章「一九六〇年代」のみ。1.イデオロギー2電子計算機3レジャー、である。

はしがきにマルクス主義、プラグマティズム、実存主義のような有名な思想は扱わないと言っている。一体何が書いてあるのか。初めの芸術家の部分は清水による現代芸術論である。機械の発達が影響を与えたとある。哲学者のところは認識と価値の問題が書いてある、社会主義者のところはベルンシュタインを論じる。第二章のナチズムは言うまでもないが、人民戦線と聞いて懐かしく思った。忘却の彼方の話とは言わないが、こんなことを論じているのがいかにも当時らしい。それにスペイン内戦の問題。これも昔はよく本などが出ていた。

下巻は執筆している時代、その半ばの1960年代を対象とし、イデオロギー、電算機、レジャーの話である。何が書いてあるか、興味を持つ者もいるだろうが、あまり読み進める気が起こらない、著者の本を何でも読みたいと思う人向きではなかろうか。1960年代半ばにはこのように論じる人がいたという記録である。

2024年4月25日木曜日

パニッシャー The punisher 2004

ジョナサン・ヘンズリー監督、米、123分。FBI捜査官が家族を殺されたので相手の悪党どもに復讐する物語。

主人公は潜入捜査官で、悪党どもを捕まえる際、殺された男がいた。その父親が悪党の親玉ジョン・トラボルタで、復讐を企てる。捜査官の家族は殺される。捜査官はFBIを辞め、復讐する鬼となる。ギターを弾く殺し屋やロシヤ人の大男の殺し屋などは面白い。それらを倒し、最後はトラボルタをやっつける。トラボルタは身体を鎖で縛られ、車に引きずられながら燃えて、爆破に巻き込まれ死ぬ。

ゾディアック Zodic 2007

デヴィッド・フィンチャー監督、米、158分、実際の連続殺人事件を元にした映画。1968年に若いアベック襲撃事件が起き、新聞社宛犯行声明と暗号が送られてきた。次に来た手紙にはゾディアックという署名があった。その後も事件が続く。

担当する刑事と新聞社で漫画を描く男(ジェイク・ギレイホール)が主となって事件を追っていく。実際にあった事件でいまだ未解決であるため、犯人を示唆して終わる。ギレンホールが事件に熱中して家族を顧みないので、妻は子供を連れて実家に帰る。

2024年4月24日水曜日

ジャッカル The Jackal 1997

マイケル・ケイトン=ジョーンズ監督、米、124分、ブルース・リー、リチャード・ギア出演。『ジャッカルの日』を翻案した映画。

モスクワで悪党を米FBIとロシヤ捜査官のチームを逮捕しようとし、最後は悪漢を殺す。殺された悪漢の兄であるマフィアのボスは腕利きの殺し屋"ジャッカル"を雇い、復讐を図る。ジャッカルはブルース・リーが演じるが誰もその名は知っていても顔を知らない。知っている筈の今は刑務所にいるリチャード・ギアをFBI捜査官(シドニー・ポアチエ)とロシヤの女捜査官は尋ねる。別れた妻が知っているとギアは言い、捜査協力のため一時的に刑務所から釈放される。ジャッカルはギアの元妻の再婚した家を襲い、護衛していたFBI捜査官らやロシヤの女捜査官を倒すが、元妻は助かった。

ギアは推理し、ジャッカルが狙っているのは米大統領夫人と突き止める。間一髪でポアチエは大統領夫人を守ることが出来た。逃げるジャッカルをギアは追う。地下鉄線内での逃走劇がある。ギアはジャッカルにもう少しで追いつくと思われたが、逆にジャッカルに銃を向けられ最期かと思う。その時銃声が鳴り、ジャッカルは倒れる。ギアの元妻が倒したのである。後にポアチエはギアを秘密裏に逃がしてやる。

田中美知太郎『時代と私』

ギリシャ哲学で名高い田中美知太郎の自伝である。もっとも自伝と言っても普通の自伝とはかなり異なる。自分の幼い頃の回想から始まるというのではない。過去の事件や自分の経験に対する意見を述べているところが多い。

最初の章は「合間」という題である。これは大学卒業後、東京に出て職を得るまでの期間をそう読んでいるのである。そういえば田中は京大の哲学の教授で、てっきり関西の人間かと思っていたら、新潟の出身で東京で中学校(旧)を卒業した後、上智の予科に入りそこから京大を受験し関西に行ったようだ。大学を出てからも職を得るため東京に出て、法政大学、次いで文理科大学の教員になった。戦後になって京大に招かれたわけであるが、ここではそこまで書いていない。本書の第二章は三木清がドイツに留学してあちらでどう勉強、研究したかと長々と書いてある。三木清の名は今でも知られているが、戦前は大変な有名人だったらしい。その三木清も京大の教員に採用されず、東京に行き法政の教授になった。

田中は日記をつけていて当時の日記を引用し、回想している。今では知る人もいないだろうが、法政で昭和十年前後に教員間の騒動があった。自分の敵方の教員を追い出そうとした騒動である。田中は教員だったから影響を受け、その経緯が書いてある。当時の法政の教授陣は有名人が多いと知った。本書で最も痛快なのは軍人に対する忌憚ない批判である。ニ・二六事件の首謀者やその後、戦争を推し進めた軍人連中を私利私欲で行動した、などと書いてあり、このような軍人批判は見たことがない。終戦の年の五月の東京空襲で田中は被災しもう少しで死ぬところだったらしい。焼夷弾からか、酷い火傷を負った。その辺りの事情が最後の方にある。(文藝春秋、昭和59年、新装版)

2024年4月21日日曜日

オンリー・ゴッド Only God forgives 2013

ニコラス・ウィンディング・レフン監督、仏丁、90分。タイが舞台の暴力映画。

バンコクで、暴力的な白人は未成年の娼婦を殺す。警官は父親に復讐をさせ、親としての義務を怠ったと片腕を斬りおとす。日本刀の使い手の警官は容赦ない。殺された男の弟は父親を追い詰めるが、兄の行為がひどかったため、復讐を止める。米から母親が飛んでくる。弟になぜ殺さなかったかと怒り、刺客を差し向け父親を殺させる。警官も兄殺しに絡んでいたと聞き、母親はその男の殺しを命ずる。

警官が同僚と食事をしていたところに殺し屋が現われる。激しい銃撃で客を大勢殺すが、警官は殺し屋を追って捕える。命令した者を聞き出し、日本刀で成敗する。命令した系統を追ってキャバレーの経営者の白人をナイフ状の食器で手足を刺し、息子を殺された女からだと答えさせる。弟は警官と素手で一対一の闘いをするが、叩きのめされる。母親は警官の一家を皆殺しにする命令を出す。子供を殺そうとする刺客は弟が殺した。警官は母親も剣で刺し殺す。最後に弟との幻想的な場面が出てきて終わり。

2024年4月20日土曜日

デュ・モーリア『愛はすべての上に』 The loving spirit 1931

ダフネ・デュ・モーリアの処女作である。作者24歳時の出版である。題名のThe loving spiritは題辞に掲げられたエミリ・ブロンテの詩(ブロンテの詩は全体だけでなく、各章の初めにもある)から来たのであろう。「愛する心 代々伝わりて/永遠(とわ)に絶ゆることなし」一家に代々伝わる生きる情熱が主題の小説とも言える。原題でも訳名でも内容は分からない。内容に沿った訳名としては『クーム家の人々』が考えられる。トーマス・マンの処女作『ブッデンブローク家の人々』を思い出したからだ。また親子代々の物語ではバックの『大地』も思い出した。『ブッデンブローク家の人々』を20歳代前半で良く書けたものだとの感心を読んだことがあるが、本書についても同様に言えるだろう。

コーンウォールの田舎の港町に住むクーム家。小説の初めは19世紀の前半で、ジャネット・クームという女、男まさりで男に生まれたかったという女の物語である。青年と結婚する。子供を何人も授かるが、その中でジョゼフという男児を特別可愛がり、ジョゼフと母親の間には緊密な愛情が生まれる。第二部はこのジョゼフの物語である。逞しく成長したジョゼフは船乗りになる。男性的であるが粗暴で専制君主である。結婚して生まれた長男が次の主人公になる。ジョゼフは最初の妻を亡くしてから、老年に近い歳になって激しい恋愛をする。これは不幸をもたらした。更にジョゼフの末弟フィリップは計算ずくの不快な男であり、小説の最後まで登場する。ジョゼフの長男クリスは父と全く似てない文弱であり、船乗りなど成りたくない。父親をいたく失望させる。何とか決意して船に乗ったが、船酔いその他船に怖れしか感じず、途中のロンドンで船を下り行方をくらます。ロンドンで下宿に住み、そこの娘と結婚する。不況で財産を亡くし、妻と田舎の港町に帰る。クリスは兄弟や親戚が経済的に困っており、叔父のフィリップに援助を頼むがにべもなく断られる。クリスは「英雄的」行為で命を落とす。クリスの妻は田舎を嫌い、ロンドンに子供を連れて帰る。クリスの娘ジェニファーが最後の主人公である。成長したジェニファーはロンドンを嫌い、父の田舎に帰る。そこで従兄に会い親しくなる。また吝嗇漢の叔父フィリップに仕返しを企てる。

小説の最後、p.335に家系図が載っており、必要に応じて参照したらいいだろう。(大久保康雄訳、三笠書房、1974年)

2024年4月15日月曜日

ヴォルテール『カンディード』他五篇 岩波文庫(植田祐次訳) 2005

題にある他五篇とは『ミクロメガス』『この世は成り行き任せ』『ザティーグまたは運命』『メムノン』『スカルマンタドの旅物語』である。Amazonにも書いていないので、補足する。このように入っている著作名全部が記されていない場合が結構あるが、不親切である。特に『ザティーグ』は『カンディード』と対で言及される物語である。

さて『カンディード』(1759)は『カンディードまたは最善説』(本書の訳名)が全体の著名である。主人公の青年カンディードは師パングロスの説く「最善説」を信じていたが、遍歴で様々な苦難に会い、最後は現実的になり、最善説への盲信はなくなる。この最善説を「この世のすべては善」と理解し、カンディードが最善説から目覚める話、とよく目にする。しかしこの世のすべてが善ではない、とは子供でも知っている。そんな当たり前が教訓の話?と思わないか。結論は常識でもヴォルテールの古典で論じているから意味があるのである、と言われそうだ。それでもこの最善説という言葉は気にかかる。これは当時の哲学者ライプニッツの論で、ヴォルテールは『カンディード』でそれに反論したという。ライプニッツによればこの世は神が作ったものだから可能性の中で一番いいものを作ったはずである。悪があるとしてもそれは善を引き立てるためにある。神の作った世は予定調和が実現する。この考えへの反論だそうだ。しかしよいとか善との言葉からの連想は適当だろうか。この翻訳の解説p.527には次の様にある。「最善説(オプティミスム)は当時まだ耳新しい造語であったから、ヴォルテールの秘書も口述筆記の際にこの語の綴りを知らなかったという。この語はまだ、物事をよいほうに考える楽天的な心理傾向を意味してはいなかった。」岩波文庫の旧訳(吉村正一郎訳、1956年)の扉の題は「カンディード 或は 楽天主義説」となっているが、この解説からすると適訳とは言えないようだ。

本書の原題はCandide, ou l'Optimismeであるが、当時はオプティミスムに「物事をよいほうに考える楽天的な心理傾向を意味してはいなかった」ので、むしろこれを見てoptimalという語を思い出した。これは最適と訳され、工学や経済学では良く使う。目的に適っている、適応しているという意味で、無駄がない、効率的、につながる。そこには正義が実現しているとか、道徳倫理的に見て望ましい、といった基準は一切ない。もしパングロスの説くオプティミスムをそのように解釈すると、後年のヘーゲルの『法の哲学』序にある次の句を思い出す。

「合理的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ合理的である。」

訳書を見ると「理性的であるものこそ・・・」と書いてあるが、現実との対応だから合理的と言った方がいいのではないか。哲学者は理性という言葉が好きなようだが。これは非合理なものはいつまでも続かない、存在している以上何らかの理由(合理性)がある(望ましいという意味ではない)はずである、と解釈すればごく普通の考えではないか。そういうとリンカーンの言とされる次に続かないか。

「すべての人を一時的にだますことはできる。一部の人をいつまでもだますことはできる。しかしすべての人をいつまでもだますことはできない。」

自分にはヘーゲルもリンカーンも同じような事を言っているように見える。非合理なものがいつまでも続くはずがない。パングロスをこのヘーゲル、リンカーンの流れで考えると、パングロスだけ違う。リンカーンにあるように、非合理は続かない、と言っているだけで世の中すべてが合理的、最適とは言っていない。パングロスは世の中は最適である、目的合理的であると主張している。この考えにしたところで首肯できない。世の中むだが多いし、改善の余地がある。それでも自分には世の中すべてが善である、と言うよりましな感じがする。

以下は蛇足である。自分が初めてパングロスという名を聞いたのは、経済学者がパングロスと同じだという評である。経済学では完全競争が実現していれば資源配分が効率的(最適)になる、それを基準にして考える。あくまで理論上の基準、仮説で、完全競争が普通実現しているわけでない。それを経済学者は経済が現実に完全競争の状態にあるとみなしている、という「批判」を時々見る。無知からか悪意からか、多分前者であろう。全く現実は最適とは言い難い。


2024年4月13日土曜日

レイジング・ファイア 怒火 2021

ベニー・チャン監督、中・香港、126分、軽擦映画、かつて刑事だった男たちの復讐譚。香港とヴェトナム人の麻薬取引の現場をおさえるべく警官隊が乗り込む。しかし覆面の複数の男たちが現れ、取引当事者だけでなく、警官隊もほとんどやられる。

主人公の刑事は堅物で金で懐柔しようとする悪人のいいなりにならず、警察内部でも上司からの受けが悪い。映画は数年前に戻る。要人銀行家が誘拐され、身代金が要求される。警察上部はいかなる手段をとっても解決しろと命令する。容疑者らを暴力的に叩きのめし、銀行家は救助されたが、犯人の一人が死亡する。警察内部の査問会が開かれる。主人公の刑事は部下の刑事らが死亡者に暴力をふるったか問われ、その現場を見ているので、肯定する。これによって刑事らはブタ箱送りとなった。後に出所してから警察と銀行家に復讐すべく、組んだのが映画の初めの方に出てきた覆面団である。

主人公は悪漢のアジトとなっている街に単身乗り込み、奪われた麻薬があるので問い詰めるが白を切られ、悪漢のボスは逃げる。追っかけ劇があり、最後にボスは車に轢かれて死ぬ。この車は復讐団の一人が運転していた。復讐団のボスは主人公の刑事のかつての部下で、査問会で庇ってもらえず、刑務所送りになったので恨んでいる。復讐団はかつて責任を取ると言ったが、査問会では知らぬ存ぜぬで通した警察幹部を捕まえた。爆弾をその首に巻きつけ主人公の妻が働く学校に行き、妻を人質に取る。主人公が駆けつけ、妻を救う。幹部は爆死する。復讐団の遠隔操作だった。最後に復讐団は自分らがかつて救った銀行家の銀行を襲う。大金を奪い、銀行家を殺す。車で逃げ、警察が追う。街中で銃撃戦となる。主人公は部下だった復讐団のボスを追い、教会で格闘となり最後には逮捕に至る。

2024年4月12日金曜日

太陽を盗んだ男 昭和54年

長谷川和彦監督、東宝、147分、沢田研二、菅原文太出演。沢田演じる中学の理科教師が原爆を作り、爆破させると脅すので刑事の菅原が阻止しようとする映画。

映画の初めの方、伊藤雄之助演じる老人が武器を持って、沢田らの乗るバスをバスジャックし、皇居前広場で天皇に会わせろと要求する。菅原演じる刑事が来て取り押さえる。見ていた沢田は感心する。それ以降、沢田は原爆製造に打ち込む。東海村から原料を盗み出し、他の材料を集め原爆を作る。これを使ってどうするか。まず本物の原爆を持っているのを証明するため、一つを置きそれを調べさせる。沢田は野球中継が途中で終わってしまうので、最後まで放送しろと要求する。叶い、試合終了まで放送となった。他に要求がないかと考え、たまたまラジオのDJをしている池上季実子に目をつけ、何かして欲しいことがあるか聞く。ローリングストーンズの日本公演と言われ、それを警察に要求する。また借金返済のための数億円を要求する。菅原はそれまで沢田からの電話の逆探知に失敗してきた。今度は電電公社の協力を得て沢田の居場所が渋谷の百貨店屋上だと知る。警官や菅原が追いかける。車で逃げるところは警察の追っかけがある。

ローリングストーンズの武道館公演の日、原爆を持った沢田を菅原は科学技術館の屋上まで追い詰める。いくら沢田が銃を撃っても菅原は死なない。最後は二人とも屋上から落ち、菅原は死に、沢田は助かって原爆を持って逃げる。沢田は街中を歩いている。原爆爆破の音だけ鳴って終わり。

2024年4月10日水曜日

清水幾太郎『わが人生の断片』 昭和48年~50年

著者の清水幾太郎は評論家で多くの著作を物し、また専門であった社会学を初め西洋の著作の翻訳も多い。清水は戦後のある時期まで進歩的文化人として、特に平和運動の指導者として名高く、それ以降はかつて自分の属していた左翼陣営を批判する論客となった。ある時期とは60年安保騒動時である。なぜこのように急に変化を遂げたか、転向したか、ほとんど知らなかった。本書は著者の自叙伝で(昭和48年から50年に発表)、自伝はこれ以外もあるが、なぜ転向したかの理由が書いてある。それが本書の大きな特色である。

まず本書は第二次世界大戦当時、南方へ派遣された話から始まる。三木清(当時、彼は知的ジャーナリズムの頂点に立っていた、とp.12にある)、中島健蔵と共に徴用され、清水はビルマに行った。向こうでは高見順その他の知識人と会った。ビルマでは本を読んだり、街を歩いたり、ともかく何もしていなかったとある。ここら辺りを読むと日本の軍は全く無能のように見える。活用するあてもなくただ知識人を徴用し、何もさせない。これでは戦争に負けるはずである。

その後は自分の生い立ちへと戻る。東京日本橋に生まれ育った。後に本所に移るが同じ下町でも天地の開きがあるように書いてある。本所なぞは貧民の住むところと言わんばかりである。一体明治の東京生まれは非常に誇りが高く、誇りが高いだけならいいのだが、田舎を見下す傾向が強い。他の著で田舎出身の高校生(当時)を馬鹿にしていた。本書でも戦後の進歩的知識人による声明を著者が一次的にとりまとめ、東京だけでなく京都の文化人たちと調整する必要がある。それで関西とのすり合わせ、往復でへとへとになる。次のような当時の感想がある。「田舎者は嫌ひだ。」「・・・田舎者多くイライラするのみ。」(本書p.341)同じ日本橋出身の谷崎潤一郎の文を読んでも同じような印象を与えるところがある。

戦後、清水が活躍するようになってから、自分を評した記事の抜き書きがある。「清水は秀才である」「頭の回転が速い」「雄弁である」「長身である」「お洒落である」「苦労人である」「名文家である」「江戸っ子である」「貴族的である」「庶民的である」「教祖である」・・・(本書p.346)どの文章もこういった点を列挙しながら、その後は自分を攻撃する結論を出している、とある。また同じページに昭和27年4月に「図書新聞」が行なった、どんな人に書いてもらいたいかのアンケート結果が載っている。その順位は1)清水幾太郎、2)中野好夫、3)山本有三、4)志賀直哉、5)谷崎潤一郎、6)小林秀雄、7)南原繁、となっている。いかに人気のあった評論家であったかが分かる。

清水の不満と言えば他の知識人との比較である。他の者らは大学、それも最高学府の東大の教授(法学部が多い)として納まり、そこに安住できて都合が悪くなったら戻れる、自分はそうでないとある。次の様な文もある。「東大の研究室の窓から眺めると、安保反対の運動で飛び廻っている私は、土方か人足のように見えるのではないか」(p.441、断片的な引用だが、本音が現れているように思えた)しかし清水自身も学習院大学の教授を20年(昭和24年から44年)している。これは知人の久野収に教授の席を世話してもらいたいと依頼され、学長の安倍能成に頼んだら、だったらお前も教授になれと言われ、なったと言う。その教授職を嫌がっている文が多くある。

昭和30年前後にヨーロッパに数か月間、行った記録が書いてある。海外旅行など一般人からすると夢の夢であった時代である。随分奇妙な事が書いてあるが、一番驚いたのは「西側の諸国を訪れる最大の楽しみは、キオスクで諸国の新聞を買い込んで、それをホテルの部屋でポツポツ読んで、切り抜きを作ることである」(p.397~398)という文。わざわざ外国まで行って新聞を読んでいるとは。当時は全く外国のreal timeの情報が日本では入手出来なかったのである。現在と天地の開きがある。西洋諸国との比較で日本をけなす文が書いてある。昔はこういう批判が多かったと思い出した。

60年安保騒動時の回想がある。自分で読んで理解した、なぜ「転向」したかの理由は次の様である。反対闘争を指導した共産党がまるでなっていなく、それで安保改定を阻止出来なかった。安保改定阻止が無理と分かると他の知識人たちは民主主義擁護を目標にした。しかし民主主義に反対する者などいない。闘争の目標に掲げる物ではない。安保改定阻止が無理でも政権に徹底的に抗議し、自分らの主張を貫くべきである。それが官邸に首相に会いに行ったら面会は無理だと言われた。その時同行した他の知識人(鶴見和子、丸山眞男)が清水の頑なな座り込みも辞さない態度を批判したので、怒っている。

ともかく共産党への批判が大きい。次の様な文があってこれも驚いた。「・・・ツベコベ言わずに、共産党を信頼して、黙って見ていればよい、と友人たちは言った。或いは、言いたかったのであろう。彼らにとって、共産党は、神聖なもの、絶対のもの、不可謬のものであった。」(p.456)マルクス主義者以外も含め左翼全般がこれほど、この時期まで共産党を絶対視していたのか。この五年前の六全協(共産党の大会)で共産党は方向転換をした。六全協ではそれまでの極左冒険主義を捨て、穏健な現実路線(清水の表現ではニコニコ路線)を方針とした。(脱線だが六全協での極左冒険主義批判で、それまでそれを信じて活動してきた青年らの屈折した心情が柴田翔の『されどわれらが日々』に書いてある)

共産党の穏健路線で安保反対運動を軟化させ失敗させたのだとある。それに対して学生、全学連(全日本学生自治会総連合)への称賛は凄まじい。これほど全学連を称賛した文を読んだことがない。学生らの純粋な反対運動を評価する。安保阻止運動をダメにした共産党、そして「現実」に適応した軟弱な知識人らは清水には我慢できなかったらしい。清水は平和運動の指導者を長年してきた。それは清水にリーダーシップがあり、行動力があったからだろう。だから清水からすると安保反対運動のやり方やその終わらせ方は我慢できなかったようだ。もちろんこれらは安保以前の平和運動でも感じていた。安保騒動でその不満が頂点に達し、全くそれまでと袂を分かった。(清水幾太郎著作集第14巻、講談社、1993年)

2024年4月9日火曜日

『怪樹の腕』〈ウィアード・テールズ〉戦前邦訳傑作選

戦前に米の怪奇小説雑誌(pulp magazine)Weird talesから邦訳(翻案を含む)された小説を集めている。内容は以下の通り。

「深夜の自動車」アーチー・ビンズ/「第三の拇指紋」モーティマー・リヴィタン/「寄生手─バーンストラム博士の日記─」R・アンソニー/「蝙蝠鐘楼」オーガスト・ダーレス/「漂流者の手記」フランク・ベルナップ・ロング/「白手の黒奴」エリ・コルター/「離魂術」ポール・S・パワーズ/「納骨堂に」ヴィクター・ローワン/「悪魔の床」ジェラルド・ディーン/「片手片足の無い骸骨」H・トムソン・リッチ/「死霊」ラウル・ルノアール/「河岸の怪人」ヘンリー・W・ホワイトヒル/「足枷の花嫁」スチュワート・ヴァン・ダー・ヴィア/「蟹人」ロメオ・プール/「死人の唇」W・J・スタンパー/「博士を拾ふ」シーウェル・ピースリー・ライト/「アフリカの恐怖」W・チズウェル・コリンズ/「洞窟の妖魔」パウル・S・パワーズ/「怪樹の腕」R・G・マクレディ/「執念」H・トンプソン・リッチ/「黒いカーテン」C・フランクリン・ミラー/「成層圏の秘密」ラルフ・ミルン・ファーリー

いずれも戦前ならではの、現代なら書けるはずもない、人権意識に照らして問題のありすぎる諸作である。解説が充実している。夫々の作品ごとの解題は理解に役に立つし、巻末の解説は翻訳者に至るまで説明してマニア向けに凝っている。(会津信吾、藤元直樹編、東京創元社、2013年)

ハガード『愛の守護精霊』 Benita 1906

ハガード得意の秘境冒険小説で、題名になっているベニータという女が主人公の物語である。

ベニータは南米の父親の元に船で行こうとしている。船上で知り合った男から求婚される。その時に船はぶつかり沈没する。男はベニータを救助艇に乗せ、自分は母子を助けるため席を空け海に入る。男は死んだと思われた。ベニータは南米に着き父親と再会する。父親は以前から宛てのある、莫大な財宝を捜しており、それにドイツ系ユダヤ人と組んでいる。ベニータはその男を好きになれなかった。

父親らが財宝捜しに出るので一緒について行く。ようやく何百年も前、ポルトガル人が隠したという財宝のありそうな場所に着く。現地の者らはベニータを女神と信じる。ベニータと父親、ユダヤ人の財宝発見の苦労が延々と描かれる。最後に悪徳ユダヤ人が死に、ベニータは船で生き別れた男に会い、財宝を発見する。(菊池光訳、創元推理文庫、1976年)

2024年4月6日土曜日

ワイルド・タウン/英雄伝説 Walking tall 2004

ケヴィン・ブレイ監督、米、80分、ザ・ロック主演。ドウェイン・ジョンソンはこの映画ではレスラーの名、ザ・ロックで出ている。

軍人を辞めたロックは故郷の町に帰ってくる。就職するつもりだった製材所は廃業していた。家族に、また友人たちに暖かく迎えられるロック。友人の一人で製材所の息子だった男は今ではカジノを経営していてそのカジノが町の中心事業になっている。招待されて友人らとそのカジノに行く。知り合いの女子がストリップで働いているので驚く。相手はもっと驚いた。ルーレットでイカサマをしているのをロックは見抜く。店の者、用心棒と喧嘩になり店で暴れる。また幼い弟が麻薬で補導される。その麻薬はカジノの用心棒から入手したという。ロックは怒り狂い、カジノを破壊する。裁判にかけられる。証人らはロックの乱暴ぶりを証言するが、ロック自ら自分の弁護をする。自分が保安官になったら町を改革すると言って聴衆から拍手喝采を浴びる。

その後選挙が行なわれ、ロックは保安官になった。麻薬を扱っていた男を逮捕する。カジノの言いなりになっていた前保安官とその手下がロックとその家族を襲う。それらとカジノの経営者と対決し、粉砕する。