2024年4月15日月曜日

ヴォルテール『カンディード』他五篇 岩波文庫(植田祐次訳) 2005

題にある他五篇とは『ミクロメガス』『この世は成り行き任せ』『ザティーグまたは運命』『メムノン』『スカルマンタドの旅物語』である。Amazonにも書いていないので、補足する。このように入っている著作名全部が記されていない場合が結構あるが、不親切である。特に『ザティーグ』は『カンディード』と対で言及される物語である。

さて『カンディード』(1759)は『カンディードまたは最善説』(本書の訳名)が全体の著名である。主人公の青年カンディードは師パングロスの説く「最善説」を信じていたが、遍歴で様々な苦難に会い、最後は現実的になり、最善説への盲信はなくなる。この最善説を「この世のすべては善」と理解し、カンディードが最善説から目覚める話、とよく目にする。しかしこの世のすべてが善ではない、とは子供でも知っている。そんな当たり前が教訓の話?と思わないか。結論は常識でもヴォルテールの古典で論じているから意味があるのである、と言われそうだ。それでもこの最善説という言葉は気にかかる。これは当時の哲学者ライプニッツの論で、ヴォルテールは『カンディード』でそれに反論したという。ライプニッツによればこの世は神が作ったものだから可能性の中で一番いいものを作ったはずである。悪があるとしてもそれは善を引き立てるためにある。神の作った世は予定調和が実現する。この考えへの反論だそうだ。しかしよいとか善との言葉からの連想は適当だろうか。この翻訳の解説p.527には次の様にある。「最善説(オプティミスム)は当時まだ耳新しい造語であったから、ヴォルテールの秘書も口述筆記の際にこの語の綴りを知らなかったという。この語はまだ、物事をよいほうに考える楽天的な心理傾向を意味してはいなかった。」岩波文庫の旧訳(吉村正一郎訳、1956年)の扉の題は「カンディード 或は 楽天主義説」となっているが、この解説からすると適訳とは言えないようだ。

本書の原題はCandide, ou l'Optimismeであるが、当時はオプティミスムに「物事をよいほうに考える楽天的な心理傾向を意味してはいなかった」ので、むしろこれを見てoptimalという語を思い出した。これは最適と訳され、工学や経済学では良く使う。目的に適っている、適応しているという意味で、無駄がない、効率的、につながる。そこには正義が実現しているとか、道徳倫理的に見て望ましい、といった基準は一切ない。もしパングロスの説くオプティミスムをそのように解釈すると、後年のヘーゲルの『法の哲学』序にある次の句を思い出す。

「合理的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ合理的である。」

訳書を見ると「理性的であるものこそ・・・」と書いてあるが、現実との対応だから合理的と言った方がいいのではないか。哲学者は理性という言葉が好きなようだが。これは非合理なものはいつまでも続かない、存在している以上何らかの理由(合理性)がある(望ましいという意味ではない)はずである、と解釈すればごく普通の考えではないか。そういうとリンカーンの言とされる次に続かないか。

「すべての人を一時的にだますことはできる。一部の人をいつまでもだますことはできる。しかしすべての人をいつまでもだますことはできない。」

自分にはヘーゲルもリンカーンも同じような事を言っているように見える。非合理なものがいつまでも続くはずがない。パングロスをこのヘーゲル、リンカーンの流れで考えると、パングロスだけ違う。リンカーンにあるように、非合理は続かない、と言っているだけで世の中すべてが合理的、最適とは言っていない。パングロスは世の中は最適である、目的合理的であると主張している。この考えにしたところで首肯できない。世の中むだが多いし、改善の余地がある。それでも自分には世の中すべてが善である、と言うよりましな感じがする。

以下は蛇足である。自分が初めてパングロスという名を聞いたのは、経済学者がパングロスと同じだという評である。経済学では完全競争が実現していれば資源配分が効率的(最適)になる、それを基準にして考える。あくまで理論上の基準、仮説で、完全競争が普通実現しているわけでない。それを経済学者は経済が現実に完全競争の状態にあるとみなしている、という「批判」を時々見る。無知からか悪意からか、多分前者であろう。全く現実は最適とは言い難い。


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