2024年4月10日水曜日

清水幾太郎『わが人生の断片』 昭和48年~50年

著者の清水幾太郎は評論家で多くの著作を物し、また専門であった社会学を初め西洋の著作の翻訳も多い。清水は戦後のある時期まで進歩的文化人として、特に平和運動の指導者として名高く、それ以降はかつて自分の属していた左翼陣営を批判する論客となった。ある時期とは60年安保騒動時である。なぜこのように急に変化を遂げたか、転向したか、ほとんど知らなかった。本書は著者の自叙伝で(昭和48年から50年に発表)、自伝はこれ以外もあるが、なぜ転向したかの理由が書いてある。それが本書の大きな特色である。

まず本書は第二次世界大戦当時、南方へ派遣された話から始まる。三木清(当時、彼は知的ジャーナリズムの頂点に立っていた、とp.12にある)、中島健蔵と共に徴用され、清水はビルマに行った。向こうでは高見順その他の知識人と会った。ビルマでは本を読んだり、街を歩いたり、ともかく何もしていなかったとある。ここら辺りを読むと日本の軍は全く無能のように見える。活用するあてもなくただ知識人を徴用し、何もさせない。これでは戦争に負けるはずである。

その後は自分の生い立ちへと戻る。東京日本橋に生まれ育った。後に本所に移るが同じ下町でも天地の開きがあるように書いてある。本所なぞは貧民の住むところと言わんばかりである。一体明治の東京生まれは非常に誇りが高く、誇りが高いだけならいいのだが、田舎を見下す傾向が強い。他の著で田舎出身の高校生(当時)を馬鹿にしていた。本書でも戦後の進歩的知識人による声明を著者が一次的にとりまとめ、東京だけでなく京都の文化人たちと調整する必要がある。それで関西とのすり合わせ、往復でへとへとになる。次のような当時の感想がある。「田舎者は嫌ひだ。」「・・・田舎者多くイライラするのみ。」(本書p.341)同じ日本橋出身の谷崎潤一郎の文を読んでも同じような印象を与えるところがある。

戦後、清水が活躍するようになってから、自分を評した記事の抜き書きがある。「清水は秀才である」「頭の回転が速い」「雄弁である」「長身である」「お洒落である」「苦労人である」「名文家である」「江戸っ子である」「貴族的である」「庶民的である」「教祖である」・・・(本書p.346)どの文章もこういった点を列挙しながら、その後は自分を攻撃する結論を出している、とある。また同じページに昭和27年4月に「図書新聞」が行なった、どんな人に書いてもらいたいかのアンケート結果が載っている。その順位は1)清水幾太郎、2)中野好夫、3)山本有三、4)志賀直哉、5)谷崎潤一郎、6)小林秀雄、7)南原繁、となっている。いかに人気のあった評論家であったかが分かる。

清水の不満と言えば他の知識人との比較である。他の者らは大学、それも最高学府の東大の教授(法学部が多い)として納まり、そこに安住できて都合が悪くなったら戻れる、自分はそうでないとある。次の様な文もある。「東大の研究室の窓から眺めると、安保反対の運動で飛び廻っている私は、土方か人足のように見えるのではないか」(p.441、断片的な引用だが、本音が現れているように思えた)しかし清水自身も学習院大学の教授を20年(昭和24年から44年)している。これは知人の久野収に教授の席を世話してもらいたいと依頼され、学長の安倍能成に頼んだら、だったらお前も教授になれと言われ、なったと言う。その教授職を嫌がっている文が多くある。

昭和30年前後にヨーロッパに数か月間、行った記録が書いてある。海外旅行など一般人からすると夢の夢であった時代である。随分奇妙な事が書いてあるが、一番驚いたのは「西側の諸国を訪れる最大の楽しみは、キオスクで諸国の新聞を買い込んで、それをホテルの部屋でポツポツ読んで、切り抜きを作ることである」(p.397~398)という文。わざわざ外国まで行って新聞を読んでいるとは。当時は全く外国のreal timeの情報が日本では入手出来なかったのである。現在と天地の開きがある。西洋諸国との比較で日本をけなす文が書いてある。昔はこういう批判が多かったと思い出した。

60年安保騒動時の回想がある。自分で読んで理解した、なぜ「転向」したかの理由は次の様である。反対闘争を指導した共産党がまるでなっていなく、それで安保改定を阻止出来なかった。安保改定阻止が無理と分かると他の知識人たちは民主主義擁護を目標にした。しかし民主主義に反対する者などいない。闘争の目標に掲げる物ではない。安保改定阻止が無理でも政権に徹底的に抗議し、自分らの主張を貫くべきである。それが官邸に首相に会いに行ったら面会は無理だと言われた。その時同行した他の知識人(鶴見和子、丸山眞男)が清水の頑なな座り込みも辞さない態度を批判したので、怒っている。

ともかく共産党への批判が大きい。次の様な文があってこれも驚いた。「・・・ツベコベ言わずに、共産党を信頼して、黙って見ていればよい、と友人たちは言った。或いは、言いたかったのであろう。彼らにとって、共産党は、神聖なもの、絶対のもの、不可謬のものであった。」(p.456)マルクス主義者以外も含め左翼全般がこれほど、この時期まで共産党を絶対視していたのか。この五年前の六全協(共産党の大会)で共産党は方向転換をした。六全協ではそれまでの極左冒険主義を捨て、穏健な現実路線(清水の表現ではニコニコ路線)を方針とした。(脱線だが六全協での極左冒険主義批判で、それまでそれを信じて活動してきた青年らの屈折した心情が柴田翔の『されどわれらが日々』に書いてある)

共産党の穏健路線で安保反対運動を軟化させ失敗させたのだとある。それに対して学生、全学連(全日本学生自治会総連合)への称賛は凄まじい。これほど全学連を称賛した文を読んだことがない。学生らの純粋な反対運動を評価する。安保阻止運動をダメにした共産党、そして「現実」に適応した軟弱な知識人らは清水には我慢できなかったらしい。清水は平和運動の指導者を長年してきた。それは清水にリーダーシップがあり、行動力があったからだろう。だから清水からすると安保反対運動のやり方やその終わらせ方は我慢できなかったようだ。もちろんこれらは安保以前の平和運動でも感じていた。安保騒動でその不満が頂点に達し、全くそれまでと袂を分かった。(清水幾太郎著作集第14巻、講談社、1993年)

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