光文社古典新訳文庫の宣伝本である。ただ宣伝用のパンフレットでも役に立つ情報が書いてあるものがある。本書はそういうところを集めた本である。内容は光文社古典新訳文庫で出された本の訳者と文庫編集部の対談を公開で行ない、それを収録している。取り上げている翻訳は『マノン・レスコー』『消しゴム』『三つの物語』『失われた時を求めて』『ヴェネツィアに死す』『だまされた女/すげかえれた首』『幸福について』『ロビンソン・クルーソー』『すばらしい新世界』『書紀バートルビー/漂流船』『カメラ・オブスクーラ』『絶望』『賭博者』『方丈記』『崩れゆく絆』『ソクラテスの弁明』の光文社古典新訳文庫本である。読んでいて勉強になるところがあり一読の価値がある。 本書の価値を大きく損なっているのは、聞き手になっている文庫編集部である。誰でも知っているような知識をひけらかし、うるさいとしか思えない。外国のインタビュー集を読むと、聞き手が受ける側と対等に扱われていて、聞き手が重要視されていると分かる。この新書は聞き手が本の著者として名前が載っている。本当は聞かれる側が主体なのに、その理由が解説に書いてあるが全く説得的でない。ただ聞き手の自己顕示欲が強いためとしか思えない。先に書いたように大した聞き手とは思えないのに。更に企画に関与した者にも巻末に文を書かせている。読者にとってはどうでもいい文である。なぜこうも裏方である筈の編集担当が名を売ったりしてしゃしゃり出てくるのか。理解に苦しむ。
2022年3月31日木曜日
2022年3月30日水曜日
モンティ・パイソン、ライフ・オブ・ブライアン Monty Python’s Life of Brian 1979
テリー・ジョーンズ監督、英、94分。
聖書の福音書、すなわちキリストの言動のパロディとなっている映画である。しかしキリスト自身を題材、主人公にしているわけでない。キリストと同じようなブライアンという男が主人公である。民衆にむやみに評価される。何を言っても感激される。最後に磔の宣告されるところなども同じである。
ユダヤ人のローマ人への抵抗が大きな要素としてある。これを反政府勢力の権力側への反抗とも読み取れる。罪人への石投げの刑で、うっかりしたローマ兵へみんなが石を投げる。ローマ兵は帰れという文句をユダヤ人が書いていたら、ローマ兵がそのラテン語の間違いを指摘し、正しい書き方を教えるなど。
ヘッセ『郷愁、ペーター・カーメンチント』 Peter Carmenzind 1904
ヘッセが有名になった出世作の小説。27歳時の出版である。語り手であるペーターの青春彷徨記。山中で育った青年ペーターが都会に出て、友人をつくったり、3人の女と恋をする。後に山に戻り、老いた父親と暮らす。
青年期ならではの迷いや自己主張が多く出て、若い時に読むべき本であろう。何十年ぶりに読み返し、現在の自分の感性ではついていけないと思うところが結構あった。昔読んだ本の読み返しでは、感心する場合が多いのだが、主人公ペーターの自信を持った生き方は、あまり自分には縁のない話のように思えた。
高橋健二訳2022年3月29日火曜日
『加賀乙彦自伝』集英社 2013
小説家の加賀乙彦による自伝。まず当時の最近の出来事である、妻の死から東北の震災などの経験を語り、死が近づいてきたという自覚を持って自伝を書く気になったとある。
昭和4年東京に生まれた。最初の記憶は2・26事件とあり、陸軍幼年学校に入る。後、東大医学部に進む。精神医学を学び、戦後のセツルメント運動に従事した。フランス留学試験に一発で合格し、フランスで精神医学の修業をする。戻って来てから医者として勤める傍ら、文学への関心は深まる。上智大学で教鞭をとっていたが、50歳の時、小説執筆に専念するため辞職する。50歳代末に妻と共にキリスト教の洗礼を受ける。
小説執筆は若い時からしており、当時の文学仲間との交流が書いてある。驚いたのは、仲間から日本の小説であれば自然主義、私小説でなければだめだと説教されたと言う。加賀は長編小説志向だったからだ。自然主義、私小説が日本の近代文学の主流みたいなことが文学史の類に書いてあったが、人気があって読まれていたのは漱石や潤一郎であり、鴎外も高く評価され、いずれも私小説作家でない。私小説なんて読んでみると、ただただ退屈だった。面白くないから高尚なのだという理屈でもあったのか。この一節を読んで、文学を執筆する側は、実際に私小説を高く評価する者がいたと知った。
2022年3月28日月曜日
死霊の罠 昭和63年
池田敏春監督、JHV、ディレクターズカンパニー制作、100分。
日本初、本格的スプラッター・ホラーと挿入されている当時のチラシのコピーにある。
広くホラー映画は、狭義のホラーと別に本作のようなスプラッター、またスラッシャーがある。ホラー映画は観る者に恐怖を与える映画で、例えば中川信夫の『東海道四谷怪談』は我が国のホラー映画の傑作であろう。スプラッターとは血しぶきから来た言葉のようで、残酷な映像の場面があり、それを期待して観る映画である。スラッシャーは殺人鬼が次々と人を殺していく映画で『13日の金曜日』『エルム街の悪夢』シリーズなどはその例だろう。なおここの定義は自分が今勝手に書いた物であるが、それほど一般の認識と異ならないだろうと期待する。
さて本映画はスプラッター映画である。筋は、あるテレビ局に送られてきたビデオがあり、それを撮影したと思われる場所(廃工場のようなところ)に、局の女4人と男が行き、次々と残酷に殺されていくという映画である。
映画として面白いかどうかは観る者が勝手にくだせばいいわけであるが、普通の映画なら観る者の好き嫌いと関係なく、評価があるものがある。小津の映画を退屈だと思っても、ベルイマンの映画をよくわからんと思っても、多数意見と思われる評価がある。スプラッターにそんな評価があるのか。本作にしてもより最近の『ソウ』シリーズや『ホステル』を「深く」分析した評論とかあるのだろうか。あるかもしれないが自分は知らないし、知りたくもない。スプラッターでも、スラッシャーでもないホラー映画は傑作と評価されている映画が結構ある。
さて本Bluerayは見始めて驚いた。画質が悪い!VHSなみである。昔劇場で観たのだが、この程度の画質だったのだろうか。デジタルリマスターをしてもらいたいものである。
本映画はいろいろな意味で懐かしい。監督の池田敏春はロマン・ポルノで知った監督であり、他のロマン・ポルノより面白い映画を作っていると思った。また後の『人魚伝説』も過激な映画ながら、普通の意味で傑作と言えるのではないか。また出てくる女優も懐かしい人達である。更に本映画が作られたのは昭和最後の年であり、翌年猟奇連続殺人が起こる。犯人がビデオの収集家でしかもその中にホラー映画があったというので、ホラー映画のせいにされてしまい(別に犯行と映画は関係なかったようであるが)、本作のような映画を作る、作ってよい雰囲気は完全に一掃された。それで続く作品は途絶えてしまった。それらすべて含めて時代を感じさせる(古臭いという意味で使っているのではない)映画である。
坂口安吾『堕落論』 昭和21年
終戦の明くる年、雑誌に発表された坂口安吾の評論。敗戦ですっかり世の中が変わり、価値観が見つけがたくなっている時期に、堕落を堕ちきり、それによって正しい道を見つけるべきだと説く。特攻崩れが闇屋になり、戦争未亡人が新しい男を見つける。これらを嘆かわしいと思うのは間違いで、それが人間の本性だ。とことん堕ちてこそ新しい道が開けるという主張である。
敗戦まで国家、軍によって押し付けられていた道徳、義務の意味がなくなった時に、何を生き方の指針とするのか。堕落した世を嘆いている風潮に頂門の一針となったらしい。
つくづく思うのは、終戦直後の混乱期だったからこそ、高く評価されたのだろう。論は話題になった時が大いに関係する場合がある。本論はまさにその典型である。歴史的文書と言っていいだろう。
2022年3月26日土曜日
坂口安吾『日本文化私観』 昭和17年
桂離宮はブルーノ・タウトの絶賛が有名である。他の建築等も含め多数意見と思われる評価がある。それらへの異見から始まり、建造物等は実用を第一とすべきであるという「日本文化」論である。伝統や国民性を論じるにあたっても外見的な要素に全く価値をおかず、見た目などより日本人が健康で快適な生活を送ればそれで文化や伝統が保てると主張する。建造物では法隆寺や平等院がなくなっても構わない。それに対して小菅の刑務所、築地にあったというドライアイス工場、軍艦を挙げ、これらが実用一点張りで機能美を持つと称賛する。
(脱線の議論になるが、小菅刑務所は実用一点張りの建物ではない。監視塔はまるで鳥の首のようであり、以前、何十年前になるが、電車に乗って近所を通過する時、この建物の異様な外観に目をひかれたものである。しかもこの建物を正面から見ると、鳥が翼を広げているデザインとなっている。実用第一主義どころか、極めて凝った建築なのである。)
2022年3月23日水曜日
ゲーテ『親和力』 1809
極めて仲の良い夫婦がいる。夫エードゥアルトは友人を自宅に招こうとする。2人でうまくやっている妻シャルロッテは反対する。しかし夫は友人の大尉を招く。妻は養女オティーリエを寄宿学校から引き取る。この4人の共同生活が始まる。そのうち、エードゥアルトはオティーリエに恋するようになる。女の方もしかりである。シャルロッテは大尉に惹かれる。大尉も同様である。夫婦共に後に来た2人と恋仲になるのである。大尉は仕事があって家から去る。後にエードゥアルトも戦争に行く。
シャルロッテは妊娠し男の子を産む。なぜか大尉にそっくりであった。オティーリエは赤ん坊の面倒をみる。しかしある時、誤って男の子を湖に落として死なせてしまう。悲歎にくれる二人の女のところへエードゥアルトと大尉が戻ってくる。エードゥアルトはオティーリエへの思慕が止まず、一緒になってくれと頼むが、オティーリエは何も言わず食事もとらない。オティーリエは死ぬ。後にエードゥアルトも亡くなる。
ゲーテの小説であり、近代小説とは違って、恋情を別にすればあまり人間の感情を露わに書いていない。普通は赤ん坊が死ねば女たちは号泣するだろうし、自分の責任だと痛く感じるはずである。その辺は明瞭に書いていない。死ぬわけだから内心の痛みは大いにあったということだろうが。
2022年3月21日月曜日
蘇える金狼 昭和54年
村川透監督、角川春樹事務所、131分、松田優作主演。
普段は真面目で気弱なサラリーマンに裏の顔があり、スーパーマンのような悪漢でガバガバかねを奪っていく。この建前上のサラリーマンのようなパッとしない、しかもそれが本当の人間がほとんどだから、観ていてカタルシスを覚える映画だろう。主人公の松田は、最初は目的のために近づいた女と腐れ縁になり、それが基でうまく行き過ぎたように見える最後に破滅する。勧善懲悪の映画を作ったつもりはないと思うが、そんな見方も可能である。2022年3月20日日曜日
伊吹隼人『検証・狭山事件』社会評論社 2010
昭和38年に埼玉県狭山市で起きた女高生殺人事件についての記録集である。本事件で特徴的なのは犯人として逮捕された男が被差別民であったため、濡れ衣を着せられた、冤罪であると事件当時より叫び続けられてきた点である。差別裁判と批判されてきた。本事件は冤罪なのかという問題と部落民差別批判が混然となって議論されている。例えば岩波新書で出ている野間宏『狭山裁判』は、冒頭に誤った裁判であると宣言し、後は裁判の過程を追って批判している書である。
そもそもこの事件とはいかなる事件か、それを知りたい向きには本書が最適である。事件が起こるまで、またその後どうなったか、現在では事件の現場等どうなっているのかを写真や地図で説明する。犯人とされた男がなぜ逮捕されたか、その不自然な点はどんなところか、といったところはほとんど書いていない。
町田康『告白』中公文庫 2008年
明治26年大阪河内で起きた「河内十人斬り」という大量殺人の犯人、城戸熊太郎の生涯を描いた小説。文庫で850ページに及ぶ長篇。名前も同じの実在の人物であるが、作者が自由に空想を膨らませて書いた小説である。記録文学ではない。殺人事件そのものの描写は最後の方だけで、本書は城戸熊太郎伝と副題をつけてもいいくらい、主人公の人生の記録である。
小説内の会話は凡て河内弁である。広い意味での関西弁はテレビ、映画などで広く知られているので大体意味は分かる。たまに意味不明な言葉がある。もし他の地方の方言だったら全く分からなかっただろう。関西弁はその点恵まれている。熊太郎はよく考え事をする。というか人間だったら意識がある限り何かを考えているだろう。退屈だ、とか眠い、なども考え事である。熊太郎の頭の中の考えは地の文で説明される。小説が長くなっているのは、熊太郎の思考を追っているからである。
熊太郎は考え事ばかりしているのに、いざ口に出そうとするとうまく言えない。これは納得するだろう。思っていること、それ自体混沌としているので、うまく言えないのは普通だし、思っている内容凡て口に出す必要もないし、出したら社会生活はできなくなる。それでも必要なことでさえうまく言えなくて、残念な思いや後悔する等は普通ではないか。たまに弁舌さわやかというか弁の立つ者がいるが、感心する。熊太郎はまさに、考え事と喋りが比例していない。
主人公の熊太郎は甘やかされて育ったせいか、わがままな乱暴者になる。長じても何もまともな百姓仕事さえせず、無頼の徒になる。子供時代に一緒にいた仲間は普通の百姓になるが、熊太郎は発奮して、野良仕事をしようとしても出来ないと知る。
読んでいてやや理解不能と感じたのは、この主人公は成長して30代になってもまるで世間知らずで、世の中を理解ができない男としか見えないからだ。どんなに出来が悪い子でも、成長していくうちに経験が増え世知がつき、世の中がそれなりに分かっていくはずではないか。この男のように怠け者なら、すれてかなり不快な人間に成長するような気がする。ところが全く正反対で大人になったら、世間知らずが故に善人に見えてしまうくらいである。主人公を何度もだます卑劣漢に懲りずにひどい目に会わされる。全く学ばない人という感じである。とうとう最後に自分を騙した連中に復讐のため、家族子供も含め大殺戮となるわけである。
2022年3月18日金曜日
ビューティフル・デイ You were never really here 2017
リン・ラムジー監督、米英仏、90分、ホアキン・フェニックス主演。
フェニックスは私立探偵的な仕事をしており、失踪した子供を捜すのが主な守備範囲である。上院議員から、10代の娘を捜してくれるよう依頼が来る。母親の死後、家出をし、今は連絡がとれなくなっていると言う。フェニックスは居場所を突き止め、匿っている連中を倒して娘を救い出す。昭和歌謡大全集 平成15年
篠原哲雄監督、シネカノン配給、112分、松田龍平、樋口可南子ほか出演。
6人の専門学校に通う若い男たちは集まってカラオケを歌うのが趣味。また歩いている女にいきなり性の欲望を告げたりもしている。ある日そのうちの一人が、ある女に歩行中ぶつけられ、その後を追う。鉄道沿線の畑に来た時、女を脅し、反抗されるといきなりのどをナイフで切りつけ死なす。2022年3月16日水曜日
魂のゆくえ First Reformed 2017
ポール・シュレイダー監督、米、113分、イーサン・ホーク主演。
ホーク演じる牧師は以前、戦争に息子を参戦させ、戦死させた。それで従事していた従軍牧師を辞めた。苦しい過去を持つホークは、教会で知りあいの女に会い、助けを求められる。妊娠しているが、夫が出産させないと言っている。ホークは夫に会う。環境保護運動家で、将来、世界は悪化するばかりだ。そんな世界に子供を住ませたくないという理屈である。ホークは夫と定期的に会う約束をする。その夫から連絡があり、公園まで来てくれという。ホークが公園に着いたら、散弾銃で頭を吹っ飛ばして自殺した夫の死体があった。葬儀は故人の遺志で、ゴミ捨て場で行なった。ホークが所属している教会(原題のFirst Reformedはその教会の名)は250周年の記念式典を行なう予定で、責任者は色々準備している。後援している事業家に、ホークは責任者と共に会う。事業家は、自殺した男の葬儀に触れ、何か反体制的、危険思想のような印象を持つと述べる。ホークは環境保護の大切さを述べる。すると事業家はホークが自殺した男の相談にのっていたと知り、ホークを責める。
ホークは死んだ男の妻と相思の間柄になっていった。ホークも環境保護の重要性を認識し、死んだ男が持っていた、自爆用の爆弾チョッキを着て、記念祭典を爆破しようとした。しかしその時、来るなと言っておいた女が教会に現れる。爆破するわけにいかず、チョッキを脱いで、来た女と抱き合う。
ラスト・アライブ Lady Bloodfight 2016
クリス・ナオン監督、米中、101分。
「モータル・コンバット」という映画があったが、闘士を女にした映画という感じ。主人公の米の女は父親が以前失踪している。それは中国で行なわれた格闘大会の時だった。成長した娘は父親捜しに香港へ飛ぶ。パターソン Paterson 2016
ジム・ジャームッシュ監督、米独仏、118分。
米の実在の町パターソン市のパスの運転手、パターソンが主人公。市と同じ名。詩を書く。妻と二人暮らし。ブルドッグを飼っている。仕事終わりにはバーに行って酒を飲む。月曜から一週間の出来事。かなり淡々とした感じの映画。少しは事件が起こるが、全体として波乱万丈と対極にある映画。
2022年3月15日火曜日
今野敏『隠蔽捜査』新潮文庫 平成23年
本書は警察庁のキャリアを主人公とした警察小説である。読み始めると、この主人公は一般に思い込まれている役人像を漫画的に誇張して、読者に迎合しようとしているようにさえ見える。ただ主人公の責任感などでやや現実に近いところも感じられる。
主人公は東大卒のキャリア官僚であり、自らの立場を強烈に意識し、エリート意識丸出しである。ステレオタイプ化された官僚そのものである。まず東大卒でエリート意識を持つ。これは官僚だけでなく一般の会社でも同様だろう。むしろ中央官庁の幹部候補生の東大卒の割合は高いから、民間に比べ希少価値は低い。出た大学を自慢するしかないのは能がない証拠である。東大卒が有利なのは上司、幹部に東大が多く仲間意識を持てるからだろう。実際の評価はいうまでもなくどれだけ有能かによる。当たり前すぎる話だがそれで決まる。東大を出ても、仕事で無能であれば(実際にそういう者がいる)、相手にされなく出世の見込みは全くない。東大が絶対的で私立などは論外のように書かれているが、そうばかりではない。私立大出(慶応)で事務次官(一般の会社で言えば社長)になった者がいる(経済企画庁)。更に岡山大卒で経産省の事務次官、女かつ高知大卒で厚生労働省の事務次官になった者がいる。これらは例外中の例外的な存在である。ただ優秀であれば次官にもなれる例である。また最近は役所全体としてできるだけバラエティをつけたいと思っているので、それほどでない大学出身の方がむしろ注目されやすいかもしれない。ただしこれまで東大卒が多かったから結果的に出世する人間も東大が多かったのは事実である。今後は東大等で官僚の人気が下がっているから、私立大の官僚が多くなっていき変わっていくはずである。
後半にキャリアである主人公に、露骨に反抗する現場の警察官が出てくる。なお警察庁は国の官庁で警察全般を管理する。各都道府県の警察が埼玉県警や、千葉県警などである。その県警に当たる東京の警察が警視庁である。県警の長は県警本部長、警視庁の長は警視総監である。かつて帝都である東京は特別な名称にしたのである。警察署や交番などの警官は地方公務員であり、主人公は警察庁に勤める国家公務員である。他の、国の官庁でも関係部局が県庁にあれば決まったポストに出向し、県庁職員として勤める。だから主人公は警察署に出向している。
さて現場の警官は地方公務員で、ここに出てくる男はたたき上げ、ノンキャリアである。警察のノンキャリアは知らないが、普通の行政官庁のノンキャリアは次の様である。この小説のようにキャリアということで反抗したりしない。キャリアは上司だからだ。上司に対する不満があるときはその上司の人格に問題がある場合で、それは上司がキャリアかノンキャリアかは関係ない。一般にノンキャリアでもキャリアの上司の方を好む。それは上司としてキャリアの方が優れている場合が多いからである。キャリアの特徴、自意識とは自分たちがこの組織(官庁)を仕切っている、指導しているという責任感である。ノンキャリアにそんな意識はあまりない。持てないからだ。それは出世のスピード、ポストの違いに明瞭だ。最近及びこれからは改善されると思うが、30年以上、40年近く勤務してノンキャリアがつける最高のポストは課長程度で、それはキャリアなら何十年も前に就いたポストと同程度である。しかもそのポストに就けるのはトップのノンキャリアで他の者は課長補佐止まりである。そういった仕組みでノンキャリアに自覚を持てと言っても無理な話である。若い時はキャリアもノンキャリアも同等に一所懸命に働く。しかし組織を仕切っているのはキャリアである。数十人いる課ないし部でもキャリアのラインで動かし、ノンキャリアがどれだけ働いても権限は限られている。あまり人数の多くない課でキャリアが大半を占め、ノンキャリアが一人ないし小数だと、情報はキャリアだけに流されるので、ノンキャリアはつんぼさじきに置かれる。
先にノンキャリアでも上司はキャリアの方がいいと思うと書いたのは、キャリアは責任を取るのが仕事で、自分の部下が問題を起こせば、自分の責任となる。だから部下の管理もきちんとしようとする。ノンキャリアは管理職相当(窓際の席に座る)になってもいまだ係長程度の意識しか持っていない者がいるのである。
この小説で主人公が現場の警官に頭を下げる場面があるが、やや不自然に感じた。キャリアは役所に入って10程度で課長補佐になり、自分より全員年上の課員を部下として使うことがある。中には自分の親くらいの歳の者がいる。そうして働くことは役所なら珍しくもない。だからキャリアの管理職がノンキャリアに頭を下げるなど想像しにくい。キャリアはノンキャリアを馬鹿にしているのではない。相手にしていない、と言ったらその方が正しい。
2022年3月14日月曜日
ハウス・ジャック・ビルト The house that Jack built 2018
ラース・フォン・トリアー監督、仏独瑞丁、155分。連続殺人鬼をマット・ディロンが演じる。
映画は老人の声でディロンに過去の犯罪を尋ねるところから始まる。ディロンは当初建築家志望だった。最初の殺人。林の中を走っていたディロンは車の故障で困っている女(ユマ・サーマン)に呼び止められる。車に乗せ、工具の修理工場まで連れて行く。その後また女の希望で元の場所に向かう。女はぶしつけな発言を繰り返す。いきなり車を運転中のディロンは隣に坐っている女の顔を工具で殴りつけ殺す。女を倉庫に連れて行き隠す。
ウエスト・サイド・ストーリー West Side Story 2021
スピルバーグ監督、米、157分。
ミュージカル史上とりわけ有名な作品の再映画化。なぜ今このミュージカルを再映画化したのか。観れば分かる。以前の映画は1961年の制作、つまり白人中心主義に誰も疑いを持たない時代である。どんな下町の町工場を舞台にしても出てくるのは、白人ばかり。そういう工場もあったと思うが、今ならそんな白人だけの映画化は考えられない。
昔の映画を見た時は、『ロミオとジュリエット』のニューヨーク版のような印象で、仇同士の集団にいるための男女の悲恋に見えた。プエルトリコ人と言っても、カリブ海のどこかにある島以上の認識も関心もなかった。しかし60年経って人種に対する意識は大幅に変わった。今ではプエルトリコ人のようなラテン系、エスニック系とも言うが、の人口増加は激しく、将来は米の人口の過半を占めるともいわれる。どうでもいい存在ではない。それより意識の上で、少数派を尊重し、積極的に取り上げなければ映画界は叩かれる、そういう時代になったのである。
だから前回の映画でプエルトリコ側の主な登場人物、ベルナルドとマリアは、ジョージ・チャキリスとナタリー・ウッドという白人(グリンゴ)が演じていたが、もはやそんな配役は許されない。今回の映画ではマリアもベルナルドも完全にラテン系で、ベルナルドは以前のように色男でなく、あくの強い下品な感じさえする俳優が演じる。プエルトリコ人同士の会話はスペイン語である。この映画のプエルトリコ人と対決するチンピラ集団は東欧系である。米の移民にも序列があって、映画『天国の門』(マイケル・チミノ)で描かれたように、西欧系の移民たちは後から来た東欧系を襲撃したのである。ウェストサイド物語ではその東欧系が、カリブ海から来た移民たちを軽蔑、排撃する。それにこの映画を観ているとアジア人である自分たちは思い出してしまう。今回、疫病が流行ったせいで、黒人がアジア系を襲っているニュースを。
2022年3月13日日曜日
猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』新潮選書 2021
著者は経済学者で、本書は「芸術(西洋のクラシック音楽)という創造の世界を、少し角度を変えて政治体制や経済システムとの関連から捉え直す」(p.25)を試みたとある。音楽史でも作曲家の時代背景は一応記述してある。正直、読む前は当時の思想と音楽の関係をもっと詳細に述べた本かと思っていた。しかし読んでみるともっと音楽よりの記述である。論じるにしても、ある話題について過去の偉大な思想家や演奏家、音楽学者のような専門家の言を引いてそれを考える素材を提供する。例えば生の演奏と録音との比較にあたっては、芸術の複製といえば誰でも最初に思いつくベンヤミンにとどまらず、アドルノ、更にアリストテレスやトクヴィル、演奏家としてはこれまた意見が有名なグールドの言を取り上げ、議論を進めていく。これによって問題を自分で考える際に、過去の論点が提供され、参考になる。音楽をどう捉えるかについては正しい回答があるわけではない。自分で決めるしかない。そういう意識のある者にとって有用である。
本書は読みやすい本ではない。と言ってもむずかしく書いてあるわけではない。専門家の書では自分の知識が追いつかなく、理解できないものがある。読者を煙に巻くような書き方をしているわけでもない。一文一文は理解できる。それでも著者の該博な知識と深い洞察力による考察の咀嚼には時間がかかる。
クラシック音楽ファンと言ったら、あの演奏よりこの演奏がいいとか、誰それという演奏家が好きだとか、そんな話ばかりしている人種である。そういった話を有名人が書いていて、その名前で売っているものがある。また演奏比較が大好きだから、これが名演盤だと宣託する本もある。それらは需要があるから出ているわけで、それはそれで結構であるが、本書は全く次元の異なる(別の切り口による)本である。再度述べれば本書は読者が自分で考える際の素材を与える本である。正解をのたまう書ではない。読んで勉強になる本である。
本書を読んで驚いたのは、カフカとヤナーチェクが知り合っていたという事実である。(p.110~)カフカとマックス・ブロートの関係は知っていたが、ブロートはヤナーチェクとも友人であり、ブロートを通して、二人は会っていた。カフカとヤナーチェクという、個性的な傑作をものした二人の芸術家が知り合いとは知らなかった。
2022年3月9日水曜日
宮崎伸治『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』三五館シンシャ 2020
著者は翻訳家である。出版社から約束を履行してもらえず、如何にこれまでひどい目に会ってきたかを延々と述べている。
読んでまず思うのは、著者は恐ろしく強靭な神経の持ち主で全く物怖じせず、自らの主張をあくまで曲げず、最後まで出版社と戦い抜くという強気のかたまりのような人物である。
この著者のように強気でなければ翻訳家は勤まらない、と見えるくらいだ。いやこの本は出版社の理不尽と被害にあっている翻訳家という枠組みを超えて、個人で組織に対して取引を行なう者が実際に経験しているトラブルを記述していると思う。
翻訳をとる苦労もあるが、それより出版社が約束を守らないのでいつまでも出版が延期される、挙句の果てに金額を値切られる、最悪の場合、出版そのものが中止になる。こういった状況に著者は怒り狂っていて、それはもっともだと思うものの、出版業界では珍しくないのではないか。ひどい仕打ちを受けるのは、他の翻訳者には普通にやっているので、出版社はこの著者にもやったくらいのだろう。それをこの著者は徹底的に抗議してくるので、出版社も勝手が違ったと後悔したに違いない。もちろん我慢しろ、泣き寝入りと言うつもりは全くない。ただ苦労した業務が変更される、全く使われないとか、サラリーマンなら誰もが経験しているだろう。
それにしてもこの本を読んでいる間、ずっと疑問に思っていたのは、なぜ最初の約束の際に、きちんと書類を整えておかないのか、という点である。この本の一番最後にその必要性が書いてあった。著者はしょうこりもなく、初め口約束で承知しておき、後でひっくり返されるので怒っているのである。初めての時ならともかく、何度もそれを繰り返しているのは、全く学ばない人なのかと思った。それで後になって出版社との闘争に多大なエネルギーを費やすのである。
口約束だけで、世界標準となっている契約書をきちんと結ばない、とはグローバル化の時代にあまりに遅れている。それだけはない。この著者は出版社とやりあって自分の言い分を通せた。しかし弱気な翻訳者は出版社の言いなりになる。弱気な翻訳者が翻訳者として能力が低いとは限らないだろう。翻訳者一般を保護するためにも、契約書の作成し取り交わす制度を確立すべきである。