2018年10月31日水曜日

モーリアック『テレーズ・デスケールー』 Thérèse Desqueyroux 1927

世界の文学〈第33〉ジード,モーリアック (1963年)背徳者 狭き門 女の学校 ロベール テレーズ・デスケールー  知識の悪魔

夫の毒殺を図ったとして捕まった、テレーズの釈放の場面から小説は始まる。これは醜聞を拡大させないための家族の措置であった。その後、テレーズは蟄居の身となる。テレーズの心の内面と大西洋を望む松林。

極めて特異な小説である。設定はほとんど有り得ない。それでも読者は絵空事と思えず、関心を持って読み進める。
あまり他に例のない小説をたまに読むことができる。これはその一つである。

世界の文学第33巻、昭和38年、中央公論、高橋たか子訳

コールド・マウンテン Cold Moutain 2003

アンソニー・ミンゲラ監督、ミラマックス・フィルムズ、ミラージュ・エンタープライズ、ボナ・ファイド・プロダクションズ製作、155分、ジュード・ロウ、ニコール・キッドマン主演。

南北戦争を背景とし、戦争によって引き裂かれた男女が再会しようとする過程を描く。
戦争末期の戦いから映画は始まる。攻撃を受け負傷した南軍の兵士、ジュード・ロウの回想になる。
コールド・マウンテンと呼ばれる、山間の集落、そこへ来た牧師の娘がニコール・キッドマンである。大工をしていたロウと相愛の仲になる。
南北戦争が始まり、集落の男たちは出征する。キッドマンとロウは再会の約束をする。

映画は負傷し治療を受けた後、ロウがキッドマン会いたさに軍を抜け出し、故郷へ向かうさまと荒廃した故郷でキッドマンが生き抜いていくための苦労が並行していく。そのキッドマンのところにやって来たレニー・ゼルウィガーは生活力ある女であり、困難な情況を切り開いていく。
ジュード・ロウは脱走兵で見つかったら殺される。ただし主人公である彼を助ける女たちが次々現れ、他は死んでも彼だけ生き延びる。
最後に再会が叶いきやと思われるが、悲劇が待っており、ただ希望がある話として終わる。

ともかく長く、映画館で観ていて、初めて早く終わってくれないかと感じた映画である。
多くの挿話があり、有名な俳優が出演している。それでももっと簡潔にできるのではないかと思ってしまった。
次のように理解すべきであろう。これは恋愛映画ではなく、戦争の悲惨さ、ばかばかしさを描いた映画である。これでもかと繰り返される挿話も凡て戦争がもたらす悲惨さを描いているのである。

2018年10月28日日曜日

シックス・センス The Six Sense 1999

M・ナイト・シャマラン監督、ハリウッド・ピクチャーズ、スパイグラス・エンタテインメント、ザ・ケネディ/マーシャル・カンパニー、バリー・メンデル・プロダクションズ製作、108分、ブルース・ウィリス主演。

精神科医のウィリスは妻と家庭で祝っている最中、かつて治療した男が侵入し、撃たれる。
その翌年、少年の治療をする。不思議な雰囲気の子供であり、シングルマザーの母親とうまくいっていない。治療を続けていくうちに、頑なだった子供はウィリスに秘密を打ち明ける。それはその子供は死者が見える、というものだった。

ウィリスは今では妻と別れ、よりを取り戻したいと思っているものの、妻は既に新しい男を見つけている。少年が忠告する。寝ている間なら話しかけられる、と。
少年は死者と話ができるという秘密を母親に打ち明ける。しかも亡くなった祖母(母親の母親)からの伝言を告げ、それまで疎遠だった母親と心が通うようになる。

ウィリスは寝ている妻のそばに行って話しかける。寝たまま返事がある。会話中、自分の指輪が落ちる。それによって自分が既に死者であること、映画の初めに射殺されていたと知る。だから今まで妻は、全く彼に気が付かないように、振舞っていたのだ。

映画の初めに字幕が入り、そこでブルース・ウィリスの名で、この映画の「秘密」を観た後、他人に言わないようにして下さい、と出る。
少年役の子役、ヘイリー・ジョエル・オズメントが有名になった映画である。

逃げる天使 Chasers 1994

デニス・ホッパー監督、モーガン・クリーク・エンタテインメント・グループ製作、101分。

軍人二人が若い女囚を移送する話。明日に除隊を控えた若い男の軍人は仕事を命じられる。中年の上司と二人で、囚人の移送をするのである。
囚人を受けに来ると、なんと若い女囚である。規則では女の移送は女がやるはずだが、若い男が上司のいない間に、書類にサインしてしまったのでやるしかない。

この女囚が途中何度も逃げ出そうとし、それが映画の主な見せ場である。ただし特に若い男と情が通じ、一度逃げたものの何回か戻ってくる。上司の中年男も口はうるさいが理解を見せるようになる。最後は無事に連れて帰る。後に若い男女は二人で楽しい生活を送る。

アメリカの喜劇なので設定の現実性を云々してもしょうがないが、若くて魅力的な女の移送を罰のような感じにしている。アメリカの男のような正直過ぎる位の連中なら喜んでしょうがないだろう。途中の非現実的な展開よりも気になった。

シティ・スリッカーズ City Slickers 1991

ロン・アンダーウッド監督、フェイス・プロダクションズ、ネルソン・エンタテインメント製作、114分。

家庭など生活に疲れた中年の三人の親友が、西部劇に出てくる「牛追い」をするカウボーイを体験させる旅行に参加する。
参加者を率いる牧童たちは死んだり、勝手な行動で彼らは置いてけぼりにされる。専門家がいないので、牛を目的地まで連れていくことは無理と、他の参加者たちは離脱する。しかし三人はなんとか牛追いを続け、ようやく目的地の牧場に着く。
途中で自ら取り上げた幼い牛を主人公は都会に連れて帰る。
この子牛の出産場面は、記憶に残った。

バタリアン The Return of the Living Dead 1985

ダン・オバノン監督、フォックス・フィルムズ・リミテッド・プロダクション、ヘムデイル・フィルム・コーポレーション製作、91分。

いわゆるゾンビ物の一種なのだが、かなり喜劇的要素が強くなっている。
映画の初めにこれは実際の物語であるとの字幕が出る。
ある医療用会社の地下室に、金属製の樽が幾つか置いてある。それは軍が開発した、蘇った死人が入っていると新入社員に教える。社員が蹴る。するとガスが湧き出て二人は倒れる。

そのガスは一階に置いてある死人を蘇らせたばかりでなく、樽に入っていたミイラのような死人もいなくなっていた。一階の蘇った死人は暴れ出し、頭につるはしをぶち込んでも、切っても暴れ通しである。かけつけた社長は知り合いの死体処理業者に焼いてもらう。しかしその煙突が出た煙が雨にまじり、近くの墓地へ降り注ぐと埋葬されていた死人たちを起こしてしまう。そこへ来ていた新入社員の仲間の、不良グループに襲いかかる。

救急車が来ても警察が来ても凡て死人たちの餌食になる。
最後は連絡を受けた軍の攻撃によって辺り一帯は完全に消滅する。

題名のバタリアンは配給会社がつけた名前である。英語の大群にあたるそうだ。

2018年10月27日土曜日

ワン・フロム・ザ・ハート One from the Heart 1982

フランシス・コッポラ監督、ゾーイトロープ・ステュディオズ製作、108分。

同棲する男女に倦怠期がきて一旦別れ、よりよさそうな相手を見つけるが、やはり元の相手とよりを戻すという典型的な恋愛劇。

つくりは凝っていて、ミュージカルではないのだが全編にわたり歌が流れ、ダンスの場面も多い。ラスベガスが舞台で、そのセットも豪華、視覚的に楽しめる。
もっとも観ていて、覚めてしまうようなところがある。最後に飛行機で新しい相手と飛び立とうとする彼女を彼が引き留めるものの、搭乗してしまう。すっかり気落ちして帰宅する男、しかし彼女が戻ってくることは映画の流れからしてわかりすぎるほど、わかっている。最後が予想できる映画があるが、これなど典型的すぎる。

また男は新しい彼女を見つける。ナスターシャ・キンスキーがやっている絶世の美女という設定の女だが、うまくものにできる。しかし一晩明けるとすぐ元の彼女に電話する。全く女を消耗品扱いにしているようにしか見えず、共感ができない。
出演者では脇役のナスターシャ・キンスキーが最も有名な女優になり、彼女でやたら語られるのも映画としてはどうなんだろうと思う。

それにしても字幕でウーマンリブとかナウいといった言葉が出てきて時代を感じさせ、面白かった。

2018年10月25日木曜日

「白老アイヌの生活」「イヨマンデ」

いずれも国立FAの企画「個の紡ぐ物語」で上映された、かつてのアイヌの記録映画である。

「白老アイヌ」は北大教授等をつとめた八田三郎(慶応元年~昭和10年)の監修になる無声映画。大正13年、43分。国際会議用の英語の中間字幕版。白老コタンで撮影。アイヌの家庭生活、婚礼、葬儀、熊を殺す(後の『イヨマンデ』ではこれが主題)など。

「イヨマンデ」は昭和初期(6年頃)にスコットランド出身のマンロー(1863~1942)により撮影されたフィルムを昭和40年に編集、解説、音楽等つけたもの。
「白老アイヌ」でも撮影されていた熊殺し(イヨマンデ)を記録した映画。
アイヌでは熊は(他の動物でも)神とみなしていた。元の国では服を着ていた。しかし人間界に来る時は熊の格好をしている。それを神の国に帰してやるという儀式である。この儀式をイヨマンデと呼ぶ。檻に閉じ込めてあった子熊を出す。縄で引っ張り、弓矢の標的にする。弱ったところで丸太を首の上下にはさみ、大勢が上の丸太に乗っかり殺す。その後は皮を剥ぐなど解剖をする。その後は宴会で食べたり、頭部を掲げたりする。三日間にわたり行なう、アイヌで最も重要な儀式とされた。動物愛護団体から抗議がきそうであるが、今では完全に過去となった貴重な記録である。

「白老アイヌ」でも「イヨマンデ」でも、アイヌの人々はあの写真通りの、アイヌそのままの衣装を着ていた。

2018年10月19日金曜日

のらくら兵 Tire au flanc 1928

ジャン・ルノワール監督、ネオ・フィルム〔ピエール・ブロンベルジェ〕製作、130分、無声映画。

上流家庭の青年、詩人であり、軍隊に入隊が決まる。そこの家の召使いも同様である。
家の女主人は隊長である大佐を食事に招く。入隊する甥に手加減を頼むためである。甥は身体が丈夫でなく簡単な仕事をと頼むと、大佐はのらくらということですか、とにべもない。
食事の間、召使いはドジを重ね、大佐を散々な目に会わせる。女主人は馘だと告げる。

入隊すると初年兵いじめの上級の兵がいる。この兵に散々いじめられる。
映画は教練そのほか、軍隊での生活を描きドタバタ劇になっている。召使いや詩人の恋人らがやってきて男だけの世界に巻き起こす騒動や、営倉に入れられて恋人にキスする場面など女たちも活躍する。最後はパーティでの劇で、上の兵が詩人をいじめるため、花火を火事にして大騒ぎになる。

第一次世界大戦から10年、第二次世界大戦でドイツに占領される前のフランスの古き良き時代の軍隊生活を描いた映画である。

風雲城史 昭和3年

山崎藤江監督、衣笠映画聯盟=松竹下加茂製作、68分、無声映画。

林長二郎デビュー翌年の映画。林が江戸から帰藩し、城を見ている。そこへ兄及び同士が来る。藩が危ういなどが聞かされる。しかし林が一番気にしているのは、許嫁の娘である。
登城し藩主に対面、挨拶する。驚いたことに許嫁が藩主の側室となっている。すっかり気落ちする。兄は藩主の要望でなった、もうかつての許嫁は死んだと思えと諭す。林の様子を見た、陰謀を企む家老は、自分たちに林を取り込もうとするが林は断る。

悪家老は家来の忍者隊を使って林を亡き者にしようとするが、林は退ける。
林がかつての許嫁を思い、笛を吹く。その間、あの忍者隊が城の石垣を上り、侵入しようとする。それらも侍が退治する。
明くる日、林宅へ城の侍たちが来る。なんと林が笛を吹いていたので、城への侵入者と思い込んでいるのである。弁解するが強硬な侍たちの前に、病気で臥せっている兄がはい出てきて、腹を切る。

悪家老は藩主を亡き者とするため、毒酒を新しい側室から藩主に飲ませようとする。その際、藩主の危機を感じた林は遠くから城へ駆けつける。間一髪間に合い、家老は企みを見破られ、林を斬るよう家来に命令する。立ち回りがあり、悪家老も成敗する。
藩主は林に感謝し、褒美をとらせようとする。林はかつての許嫁を望むが、藩主は怒る。林は藩を去ることにする。かつての許嫁は、以前、林を匿ったと告白し蟄居させられていた。彼女は自害し、その遺髪を林は藩を去る際、渡された。

随分設定や展開に無理がある映画である。一番納得がいかないのは、最後に許嫁が林と一緒になれず、自害してしまうことだろう。時代劇なら功績のあった林と一緒になるべきではないか。現実的には、藩主は自分でなく以前の男を慕っていた側室を許せなく、その男に呉れてやるつもりがなくても不思議でない。しかし映画である。あるいは戦前の観客はこういう悲劇を好んでいたかもしれない。

殺陣が後年のものとかなり違う。観ていて面白かった。
一番困ったのは、中間字幕が結構長い、字もあの独特な字体である、それで読み取れないのである。封切当時の観客は字幕など見ず、弁士を聞いていたのでそれでよかったのだろう。英語の字幕が下に出て、そちらの方がわかりやすかった。正直、外国に観せたくなるような映画ではない。

成金 大正7年(1918)

ハリー・ウィリアムズ、トーマス栗原監督、東洋フィルム製作、34分、無声映画。
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有名なトーマス栗原による作品、米輸出用として製作されたそうである。前半のみ残存している。英語名はSanji Goto – The Story of Japanese Enoch Aden「後藤サンジ、和製イノックアーデン」である。

主人公の後藤は律儀な会社員である。彼の勤める会社の会計担当は、強欲な男で濫費家の白人の女に入れ揚げており、かなりのカネを使っている。ある日彼は英字新聞で、米の後藤某が死亡し相続者を捜しているという記事を読み、後藤に知らせる。後藤は自分の伯父だという。アメリカへ行けば遺産がもらえるが、旅費がない。すると会計係は自分が旅費を立て替えてやる、しかし遺産の半分を寄こせと言う。後藤は承諾する。帰宅し渡米の準備をする。若い妻と赤ん坊がいる。会計係は安い切符を後藤の家に持ってくる。

後藤の妻を見て惹かれる。彼女に仕事を世話してやろうと申し出る。彼が入れ揚げている白人女がけちで給料を払わないため、女中は怒って辞めている。その後釜にする。
彼は白人女の要求を満たすため、会社のカネに手をつけていた。それが監査でばれそうになる。工面するため白人女のところへ行きカネを取り返そうとするも、もう全くない。彼女の胸の首飾りを見てそれを何とか取る。質屋か宝石屋へ持っていき、換金する。使い込みがばれないように慌てて会社へ駆ける。

妻や会計係に見送られ、米へ向かう船上、後藤がトランクを開けると愛犬の狆が出てきた。家で準備している際、犬が勝手に入り込んだのである。

後半がどのような展開か不明。

コマローヴィチ『ドストエフスキーの青春』中村健之介訳、みすず書房、1978年

内容は「ドストエフスキーの青春」「ドストエフスキーの「世界全体の調和」」「ドストエフスキーのペテルブルク・フェリエトン」の三篇から成る。
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「ドストエフスキーの青春」ではデビュー以降、ペトラシェフスキー事件によりシベリヤ流刑となる以前の、ドストエフスキーの夢想家時代の解説である。

「ドストエフスキーの「世界全体の調和」」は、彼の理想であった全人類の兄弟的団結による調和は、キリスト教と相いれるものか。むしろジョルジュ・サンドの小説のようにドストエフスキー初期以来のユートピア社会主義思想との関係が深いのではないか。ドストエフスキーの転向問題を考えさせてくれる。

「ドストエフスキーのペテルブルク・フェリエトン」とは、彼の評論に多いフェリエトンという形式について論じる。フェリエトンとは雑録とかコラムの意味である。

ドストエフスキーについて考える際、参考になる本であろう。原著は1924年(前2篇)、1930年に公表された。

エリソー Элисо 1928

ニコライ・シェンゲラーヤ監督、ニコライ・シェンゲラーヤ製作、110分、無声映画。
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ソ連時代のグルジア製作映画。舞台もカフカスのグルジアである。時は1864年。時のロシヤ政府はチェチェン人をトルコに移住させようとしていた。これが背景である。
山段に家々が並ぶ、チェチェン人の村に近隣の若者が牧草地を借りたいと交渉に来ている。村長たちは貸してやりたいが、ロシヤの監督官の指令でできないという。若者は帰り際に村長の娘エリソーと愛の誓いを再確認する。

隣村は既にトルコへの移住へ向けて、全村出発していた。それを見て自分たちは反抗もしていないし、移住を強制されることはないと言い合う。しかしコサック隊は無知な村民をだまそうとする。移住するくらいならここで死んだ方がましだと村長は言い出す。それなら請願を書いたらどうかと提案され、同意し村民全員がその請願書に署名する。その後、この書類は移住の承諾書だとコサックらは言い、村民を驚愕させる。

あの若者は奔走し、その村は移住しなくていいというロシヤからの許可書を取り付けていた。エリソーを通じて村長に手渡すが、もう村を挙げて移住を始めており、手遅れだと言われる。エリソーは移住隊を抜け出し、村に帰り火を放つ。炎上する山段の集落。それを移住隊の村民が見上げる。実はこの時、映画では入道雲のような雲(か煙)が画面に現れる。夜のはずなのに昼の雲といった感じである。これで村が燃えている様を表しているらしい。特撮技術が十分でなかった時代である。エリソーは移住隊に急いで帰り、確認の点呼に間に合う。
移住隊のうち、病気の女が幼い子供をエリソーに託し死ぬ。残りの女たちは泣き叫ぶ。村長は元気を取り戻すため、音楽を始めさせ、皆に踊らせる。号泣にしろ、踊りにしろ、感情表現が豊かな民族らしい。

そこへあの青年がやってくる。村人は村から追い出されたのも、青年のせいだと非難を始める。エリソーはそれに対して移住に同意したのは村人全員ではないかと反論する。
青年にエリソーに一緒に来てくれと頼む。彼女は預けられた幼い子供を青年に渡すが、自分は父親や家族を捨てるわけにいかないと答え、トルコへ向かう村民と運命をともにする。

ヨーロッパのような大陸では、政治的要因、戦争の結果などで歴史上、何度も強制的な移住が行なわれた。この映画の題材もそのうちの一つである。

2018年10月18日木曜日

ぶどう月 Vendémiaire 1918

ルイ・フイヤード監督、ゴーモン、148分、無声映画。
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主人公の軍人は第一次世界大戦中、一時的に帰郷する。川の船中、南仏で葡萄摘みに行く一家と知り合いになる。戦時中で北部での闘いを避け、南の方へ向かう者が多い。
ドイツ兵二人はベルギー人二人を殺して、その証明書でなりすます。彼らも葡萄摘み作業に加わった。そこでカネを調達しスペインへ逃亡するつもりである。

葡萄摘みをしている主人公はジプシーの母娘と会い、その夫が戦死したと知る。管理人にかけ合い、彼女も葡萄摘み作業に加わらせる。ここの葡萄園の主は戦争で失明した、元大尉である。ドイツ人はジプシー女に罪をなすりつけ、その間カネを取ろうとする。まず彼らは盲目の大尉の帽子から財布を盗み、それをジプシー女の籠に入れておく。紛失が発覚、騒ぎになりジプシー女が犯人とされ、馘になる。主人公の男は、ジプシー女に聞いて、彼女の潔白を信じる。

ドイツ兵は給料日に給料の袋を盗む。人が来たので隠れた場所が、空きの葡萄保存所で、隣に葡萄が発酵している。そのガスが降りてくる。有毒でありそのガスを吸って死ぬ。生前、毒ガスで敵をやっつけていたと自慢していた男である。
給料袋の紛失はジプシー女のせいとされ、憲兵に引き立てられる。男の死体が見つかり冤罪は晴らされる。

葡萄摘みをしている老人は別の町に住む、結婚している娘を訪ねていく。ところがそこで娘がドイツ兵の子を産んだとの噂を聞き、絶望に陥る。ここでかなり長い過去の回想になる。その娘は夫の出征中、家をドイツ兵たちに接収された。我が物顔で振舞うドイツ兵の眼をくぐり、夫が密かに帰宅した。ドイツ兵の情報を探るためである。その間部屋に隠れており、結果として子供が産まれたが、娘は秘密にしていたのであらぬ噂を立てられたわけである。

その夫も帰ってくる。きょうだいと自分の町を目指していると、絶望した父親に会う。娘が不義をしていたと思い込んでいたからだ。しかし夫に会い事実を知らされ孫ができたと喜ぶ。
摘み取りが終わり、全員参加のパーティが開かれる。そこでもう一人のドイツ兵、唖を装っていたが、気分が良くなりドイツ語で叫び始め、捕まる。
連合軍勝利のニュースが知らされ、歓喜に包まれる。

第一次世界大戦中の映画であり、愛国と敵の悪が全面に出ている。フィルムセンターで以前観た。久しぶりの再見で随分長い映画と感じた。

2018年10月17日水曜日

東洋の秘密   Geheimnisse des Orients/ Secrets of the East 1928

アレクサンドル・ヴォルコフ監督、ウーファ/シネ・アリアンス製作、103分、無声映画。

千夜一夜物語のような設定。カイロで靴職人をしている主人公は恐妻家で、怒鳴りつけられている。夜に来た客から革の帯の修理を頼まれた。その帯についている笛を鳴らすと、家中の者が回って踊り出す。更に笛を吹くとその回転は速くなる。踊り疲れて倒れてしまった妻たちが起きる前に男は家から逃げ出す。

某王国では隣国との戦いに勝ち、凱旋行進が行なわれている。捕虜として連れてこられた敵国の王子は立派で王女と、王の愛妾が共に恋をする。
戦勝に貢献した将軍は褒美をきかれると、王女が欲しいと言い出す。王女は不快である。王は星占いに王女の婿として誰が適当か占えと命令する。別国の王子が宝物を積んだ船で王女に求婚に来るという手紙を星占いは先に読む。そこに満月の日に来ると書いてあったので、王に満月の日に婿が決まるという。戦費で国庫が払底している王国としては僥倖である。

あの靴職人は家を出、砂漠をさまよい、ある国に着く。そこで出航しようとしている船に潜り込む。海上で見つかり、船員たちに追いかけられ、ひっくり返したランプで船は炎上沈没する。靴職人は河馬の上に乗って海岸に辿り着く。そこには王様や家来が沢山待っていた。すっかり姫に求婚するために来た他国の王子と、靴職人を勘違いしてしまったのだ。
靴職人は星占いに自分は王子でないと打ち明けるが、そんなことしたら二人とも死刑だと脅し、王子で通すようにする。

相思の王女と囚われの王子、横恋慕する愛妾は王子を自分のところへ寄こすが、王子は見向きもしない。王女が欲しい将軍は無理やり王女をさらうが、一旦逃げ出した囚われの王子は矢で将軍を殺してしまう。再び王子は捕まる。靴職人の偽王子は王に問われ、駱駝一万頭が宝を積んでやってくるという。王は王女とこの偽王子の結婚をさせようとする。
ここで宴会の場面になるのだが、ここだけそれまでの単色から総天然色になる。大勢の女性による踊りが披露されるが、衣装は頭に白いターバンのような帽子をかぶり、身体はビキニの水着、それも金色である。ここで靴職人の偽王子は勝手な発言をし、星占いを冷や冷やさせる。

靴職人は王女と囚われの王子が相思の仲と知ると二人を結婚させようとする。自分が星占いに変装し王子を逃がし、王女も一緒に逃がそうとする。あいにく二人は王の家来に捕まってしまう。逃げた靴職人を砂漠で駱駝の行列を見る。ここで盗賊どもの争いから、たまたま靴職人の乗った駱駝の尻に当たり、その駱駝が動き出すので他の駱駝もぞろぞろついて行く。

その頃、王子と星占いは処刑されようとしていた。そこへ駱駝の行列を率いた靴職人がやってくる。てっきり約束の駱駝一万頭と思った王は処刑を中止させる。靴職人は王に王女と王子の結婚を認めさせる。しかしそこへ手紙を携えた使者が来る。それを読んだ王は靴職人の正体がわかり、靴職人と星占いを縛り首に命令する。最後の願いとして靴職人が笛を吹かせてくれと頼み、承諾され吹くと全員が回って踊り出す。宮殿までも回り出す。
と、目が覚める。靴職人は元の自分の家にいたのだ。夢とわかる。怖い妻が怒っている。笛を吹いても無駄である。そこへあの修理を頼んだ客が来て革帯を持って帰る。

国立FAのパンフレットによれば大胆なアールデコ様式の美術とあり、宮殿などガウディ建築のようにも見える。
題や中間字幕は凡て英語であった。

囁きの合唱 The Whispering Chorus 1918

セシル・B・デミル監督、93分、夢声映画。
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主人公はサラリーマンでしがない仕事に嫌気がさしている。妻と母がいる。妻にあたる。母から妻の優しさを聞かされ、妻が欲しがっていたコートを買いに出かける。しかし悪友に誘われ博打でカネをなくす。
会社で悪魔の囁きに負け、カネを拐帯し逃げる。水際にいると死体が流れている。その死体に自分の服を着せ、死んだと思わせる。妻は連絡を受け警察に行き、死体を夫だと認める。
男は逃げ、荷役に雇われるが事故を起こし、その後転々と裏街道を歩む人生を送る。

妻は知事に立候補する有力者から好かれ、知事になった後、その男から求婚される。しかし妻は義母がまだ息子が生きていると確信しているので、結婚はできないという。
義母は二人が愛し合っているとわかり、結婚させる。

一方完全に落ちぶれた男は、母に会いたくその家に向かう。最初は母もわからない。しかし気づき息子を抱きしめ感激する。男が母宅に入るところを見た者の通報によって警官が駆けつける。母は息子に安心し意識を失う。男は医者を呼びに出かける。医者は来るが、男が垣根から入ろうとするところを警官に捕まる。弁解を聞いてもらえない。かつての妻も来るが男を見分けられない。母は死に、証明してもらえない。それだけでなく、かつての自分を殺した犯人として起訴される。

裁判には知事夫人であるかつての妻が来るが、知らない男だと言われる。男は自分で殺した罪で裁かれるとは笑止と訴える。有罪になり死刑が決まる。
知事夫人は男の言い分が気になり、監獄に会いに行く。格子越しに見る男はかつての夫でないか。帰宅し夫の知事に男の恩赦を願い出る。理由を聞かれても答えられない。男は自分の無罪を訴えていたものの、母の死ぬ直前の言いつけを思い出す。妻に迷惑をかけるようなことをするな、との。今自分の言い分を通せば妻を不幸にするだけである。
死刑執行の日、知事は来た手紙を妻に見せる。そこには自分は知事夫人のかつての夫ではない、という男からの言があった。

設定に無理があり、現代ではつくられない映画である。そういう意味でも無声映画らしくて面白く観えた。

2018年10月16日火曜日

ハッド Hud 1963

リット監督、アメリカ映画、白黒、112分、ポール・ニューマン主演。
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ポール・ニューマン演じるハッドは牧場の息子である。30過ぎて独身であり、不良のような生活を送っている。年老いた父親と亡くなった兄の息子である甥、更に家政婦が家族である。

映画は甥がハッドを捜しているところから始まる。牛が病気になっている。獣医師が診ている。どういう病気か調べることになる。厳格な父親は放蕩息子のハッドを嫌っており、息子の方も父親に反抗的である。従順な若い甥(父親からは孫)が年老いた親を面倒見ている。
甥は不良のようなハッドをむしろ男らしいと慕っていた。

牛の病気について最悪の結果が知らされる。伝染病で牧場の牛を全部処分しなくてはならない。絶望する父親。ハッドはわかる前に牛を売ってしまえばいいと言ったり、牧場を売って油田でも掘ろうなどと言い、父親を激怒させる。実はハッドは以前、甥の父親である兄を自動車事故で死なせており、それを父が彼を嫌っている理由と思っており、ぐれていたところがある。しかし牛を処分し、父親に向かいもう耄碌して能力もない、自分が仕切ると言うと、父親は元から、事故の前からハッドを嫌っていたと言うのである。やけになったハッドは家政婦を襲おうとする。甥が止める。
気落ちした父親は落馬し、ハッドや甥の腕で息を引き取る。家政婦は牧場を出て新しい町に行く。甥ももうハッドを嫌うようになり去る。
何もなくなった牧場にハッドは一人残された。

父親と息子の確執は珍しくない。この映画では息子のハッドを父親が元から嫌っていたとはっきり宣告する。好き嫌いは個人の問題でどうしょうもないが、出来の悪い息子を父親が嫌う映画はあまりないと思った。