2019年1月31日木曜日

谷崎潤一郎『細雪』 昭和18~23年

昭和18年から「中央公論」に発表を始めたが、時局にふさわしくないとして禁止され、戦時中に執筆を進め、戦後23年に下巻を発行、完結した。戦時中の検閲による禁止は戦後になれば名誉となった。

大阪の旧家の四人姉妹のうち、下二人は未婚。三女の見合いの繰り返しと、末娘を巡る騒動で話は進む。次女は谷崎夫人がモデルとされ、次女の眼で見た状況、解釈が主である。
日本の小説としては長尺であるが、飽きずに読ませる谷崎の筆致には感心する。

久しぶりに再読し、実に書かれた時期、時代の反映となっていると、認識を新たにした次第である。まず作中に戦時中の出来事への言及が結構ある。三女はもう三十になっているのに未婚である。当時の三十は今ではどのくらいの感覚か、四十近いかもしれない。そんな年齢だけの話ではない。まともな家の女なら結婚以外の選択肢はない、が社会の通念であった。末娘の職業婦人としての自立志向へ本家が断固反対する。職業婦人はカネのない下層階級の家の女のすることとされた。女給には春を売っていた者もあったそうだ。だから本家の反対、干渉は当然であった。また本家の義兄は否定的に描かれているが、当時は家督制度の時代であり、干渉は義務でもあった。

それにしても結婚が家と家の結びつきである、と思い知らされる。家の格式のようなものを気にし、本人の意向をろくに聞かずに、よさそうな相手であれば義兄などどんどん進めようとする。知り合いだった白系露人の娘が欧州へ行き、自分で相手を見つけ玉の輿に乗ると、次女は感心する。妹の結婚は自分ら姉夫婦が世話すべきと信じて疑わない。

また都会人の田舎者への侮蔑と言っていい記述がある。以前見合いした相手に三女は汽車内で再会する。その相手の在の豊橋辺りを過ぎ、こんな田舎に住むなど考えられないと三女は思う。末娘の恋人が手術をする要がある、しかし田舎の両親は因循姑息で何も決められない。更に大垣の義姉の世話で名古屋の資産家と見合いする。不首尾に終わるが、彼らの手紙を見て次女は書き方等の非常識ぶりに呆れる。まともな常識は都会人にしかない、と。この辺り東京日本橋に生まれ、後年関西に移住した谷崎の感覚であろうが、昔の都会人の田舎者に対する意識は、白人の有色人種(含む日本人)に対するそれと似ていた。

美食や芸能鑑賞の記述は谷崎の趣味の反映であるが、あまりに当時の一般国民の日常とずれている。特にこの時代では、である。

以上、小説を読んで感じた時代の制約を述べてきたが、これを欠点とは全く思っていない。逆である。上に書いたような時代を感じさせるから、興味深く読めたわけである。
昔読んだ時は見合いの繰り返しくらいにしか思わず、大して印象がなかったし、映画などにすると美的側面のようなものが強調される。まさに書かれた時代の中で進行する姉妹の物語であるからこそ、新たな魅力を感じた次第。

松本清張『小説帝銀事件』 昭和34年

昭和231月、帝国銀行(三井銀行の戦時中の名)椎名町事件で起きた大量毒殺殺人事件(16人が被害、12人死亡)を、昭和34年に清張が小説化したもの。
小説帝銀事件 (角川文庫)
小説と言っても事件と捜査の記録が大部分を占める。
読んでいてやや退屈になるような検事調書まで長々とあって、その後、清張の分身と思われるジャーナリストが事件について推理をめぐらすという構成である。

現在では冤罪が当然視されている状況であるが、逮捕当時は全く逆で、未聞の大量殺人事件であり、ジャーナリズムの影響によって、真犯人と盲目的に信じられたという。
現在では多数意見に同調という風潮は全く変わらず、冤罪説が支配的になっている。

清張の推理のうち、事件当日、丸の内の義理の息子を訪ね、そこから椎名町まで犯行時間に行けたか、アリバイの検証が推理作家らしい。
平沢真犯人の決め手となるのは事件直後の大金である。それまでカネで困っていた平沢がいきなり大金を持つようになった。銀行から盗まれた金でないと証明できない限り、無実と主張できない。無実説は犯行の手口からして毒薬に慣れた者しかできず、旧軍人が犯人だと主張する。

正直、いつ頃からどういう理由で冤罪説が主流となったか知りたく思う。
帝銀事件の最大の特徴は、捕まえた刑事よりも死刑を求刑した検事よりも死刑判決した裁判官よりも、平沢が長生きしたことである。日本の司法を揺るがす事件であった。
角川文庫、昭和36

2019年1月28日月曜日

カルロス 平成3年

きうちかずひろ監督、東映ビデオ=きうちかずひろ=講談社、92分。
ブラジルで警官殺しをして日本へ逃げてきた日系ブラジル人の竹中直人と弟らの一味。

「カルロス 東映vシネマ」の画像検索結果

組の跡目を継ぐため、相手方のボスを倒す必要がある男はカルロスらにその殺しを託す。しかしライバルの雇った米人殺し屋に先を越されてしまう。雇った男はカルロスを亡き者にしようとして、かえって殺される。更にカルロス兄弟が世話になっていた家族も弟と共に、相手方の米人殺し屋に殺される。カルロスはからくもその殺し屋を倒し、敵のボスを殺す。

ともかく殺しだらけで、女殺しを含め普通の映画ではやらないところまでできるのはVシネマのおかげか。最後の、やくざの仁義などとわめき、刀を振り回す相手方のボスを、あっさり銃で片付けるところはかつての東映やくざ映画に対する皮肉か。もちろんレイダースのハリソン・フォードも思い出す。

またまたあぶない刑事 昭和63年

一倉治雄監督、東映=日本テレビ、95分。
テレビで人気のあったシリーズの映画化第2弾。
「またまたあぶない刑事」の画像検索結果
横浜、港署の二人の刑事、舘ひろしと柴田恭兵のコンビによる刑事物。
犯罪の黒幕を追う二人は、その黒幕の手先が次々と殺される羽目に会う。更に殺人容疑が二人にかかり警察から追われるようになる。黒幕を取材している女記者と協力して捜査を進めていたが、その女記者が手先であったため、窮地に陥るようになっていた。一度二人は一人一億円で買収されえる。最後には黒幕を倒す。

バブル時代の空気が感じられる映画である。国立フィルムアーカイブでの上映にあたって、監督と脚本か二人(柏原寛司、大川俊道)が、上映前、檀上で思い出話をした。(126日)

2019年1月24日木曜日

正宗白鳥『何処へ』 明治41年

著者29歳時の作品である。正宗の代表作の一であろう。短篇である。
主人公は雑誌記者を勤める若い男で、周りのものをなんでもくだらないと批判しているだけである。著者自身の自伝的要素、あるいは感情や意見表明と思われる。自然主義文学がいかにつまらないかを知りたければ正宗を読めばよい。

正宗といえば明治以来の文学者の中でも著名人の一人で、昔日本文学全集が組まれる際、その中の一巻を占める場合が多かった。それがこれほど面白くないとは驚きであった。
なぜかつては評価され読まれていたのか。それは文学に志ながら全く名を上げる道がない、本人としては不遇としか思えない文学青年が多く、それらの共感を得たからではなかろうか。

読んだ全集には『人生の幸福』という戯曲も入っており、これには妹は死んだほうが幸せだと言って妹を殺そうとする兄が出てきて、あまりの非現実さというか馬鹿馬鹿しさに呆れかえった。この本は伊藤整が解説を書いていて、作品解説のところで、収録されていない小説を書いている、これもおかしいではないか。
正宗は創作より評論が優れているそうである。確かにこんな作品を読めば、評論はまだましなのだろう。
文芸春秋、現代日本文学館、第12巻、昭和44

2019年1月23日水曜日

ニューヨークUコップ 平成5年

村川透監督、東映ビデオ、88分、仲村トオル主演。
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東映Vシネマのうち、Vアメリカというシリーズの第2弾。仲村トオル扮する刑事がニューヨークを舞台に活躍する。最初の表題、配役名表示等から台詞を含め、凡て英語である。仲村トオルの独り言も英語で言っている。
内容はニューヨークに配属された仲村扮する刑事がギャング団に潜入し、麻薬取引など犯罪を暴く。たまたま悪漢どもに襲われ際、助けてくれた女をミラ・ソルヴィーノが演じる。その兄がイタリア系ギャングのボス(スティーヴ・マックーンの息子が演じている)で、彼に気に入られ一味の一員となる。しかし仲村を信用しない仲間もいる。

アメリカ映画のアクション物によるある展開で、仲村が出ていなければ、洋画に見える。
国立フィルムアーカイブでの上映の前、脚本を担当した柏原寛司氏が挨拶と映画撮影にまつわる話をした。

中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」』 2008

昭和231月に起きた帝銀事件は、容疑者平沢貞道に死刑判決が下ったものの、死刑執行はなかなかされず、平沢は拘置所内で老齢になり病死した。容疑者への死刑が確定したが、冤罪ではないかという声が多く、歴代法務大臣が死刑執行を命じなかったのも、その影響であろう。
科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理
帝銀事件は長期に渡って語られてきており、関連書籍も多く出ているが、冤罪とみなすものがほとんどである。というよりまず冤罪と前提し、そこから論を始めるといった著作が普通である。
本書はその中で平沢有罪説を主張しており、そういう意味で希少価値がある。自分と同意見の本でなければ読まない人は多いが、政治的意見ではなく、事件の真相解明であれば反対意見も聞いた方がいいだろう。

また本書の特色はその形式にもある。本書は読み物風に書かれていない。レポート形式と言ったらいいか。要点を書きその理由を述べるといった感じで、こちらの方が中身の把握にはいいのかもしれない。しかし本を読む楽しみとは離れており、学習参考書のように感じる者がいるだろう。

それでは読んだ感想とはどうか。正直、期待したほどではなかった。最後の「おわりに」を読んですむ。それ以前の記述は、例えば著者の専門のせいか(薬学部卒)、毒薬についてなど専門的事項が長々と続き、多くの読者は退屈してしまうだろう。そもそも著者は民間会社の社長であり、物書きではない。そのためやや素人臭い文章である。
色々書いたが、冤罪説が当然視されているなか、本書のように異なる意見の書がもっとあってもいいと思う。
東京図書出版会発行。

2019年1月21日月曜日

最も危険な遊戯 昭和53年

村川透監督、東映セントラルフィルム=東映芸能ビデオ、89分、松田優作主演。
殺し屋が主人公のハードボイルド映画である。
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財界要人の殺人が相次ぐというニュースから始まる。麻雀の場面では主人公、松田がいちゃもんつけてかえってボコボコにされる。ださいところを見せた後、電話がかかり会社会長から仕事が入る。誘拐された社長を救出してもらいたいと。ライバル企業の仕業だろうと言われる。相手方の用心棒幹部の女へ行き、場所を聞きだそうとする。相手方の用心棒連中は片付けたが、社長も殺される。また負傷した松田は、自分の殺した用心棒幹部の女に手当をしてもらう。

仕事を依頼した会長から今度は政治家をやってもらいたいと依頼される。ただ相手方には警察が協力しているらしいとわかる。狙撃して政治家を仕留める。松田自身も用心棒等から射撃の嵐を受ける。逃げ帰るとあの元用心棒の女で、今は松田の女になっている、を刑事が攫っていた。追い、刑事を殺す。
依頼のあった会長宅に行くと殺したはずの男と対面している。殺したのは替玉だった。もう今ではライバルと問題は解消したと会長が答える。松田は本物をその場で殺し、会長も脚を撃つ。

台詞で軽妙なものが多く、観ているうちに笑ってしまう。松田のファンには特に好かれている映画である。松田抜きで評価すると展開などはあまり褒められたものでない。

襲撃 Burnig Dog 平成3年

崔洋一監督、東映ビデオ、104分。
沖縄の米軍基地での現金強奪事件が主な内容である。実際の事件に材を取っている。

映画の前半はよく分からないところが多いが、かつての強盗事件の事後談である。
沖縄に以前の仲間たちが集まり、米軍基地の給料を奪おうと計画する。出入りの業者に化けて大型トラックで基地に入りこみ、大金のドルをせしめる。強奪そのものはうまくいったが、その後仲間内で争いになる。一部の男たちが仲間を殺し、その報復など襲撃犯では残ったのは主人公一人になる。

国立フィルムアーカイブでの上映では崔洋一監督が来て挨拶をした。

XX 美しき狩人 平成6年

小沼勝監督、東映ビデオ、90分。
女暗殺者を描く東映VシネマのXXシリーズの第2作、久野真紀子主演。
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キリスト教会に本拠を置く悪の集団によって暗殺者として育てられた女主人公、その主人公が恋に落ちて変わっていく。『ニキータ』を思わせる枠組みである。

標的の本人だけでなく、居合わせた者凡てを殺害する冷酷極まる殺人鬼である。殺人現場を写した写真家を追いつめる。普通ならすぐ殺すはずである。ところが説得されて気を変える。更に写真家と恋に落ちる。この辺り説得的でないのだが、ともかくそれ以来二人は悪の集団から逃れる。その写真家は殺される。悪の集団の本拠地教会に乗り込む。育ての親から少女の時、殺した男は父親だと聞かされる。悪人の育ての親は倒すものの、他の悪人どもが迫ってきた。

映画だから不自然なところがあってもしょうがないが、この映画で一番気になったのは、女暗殺者が恋に落ちる写真家が全く魅力的でないところである。ジョニー大倉といって他の映画でも見たことがあるが、若い女がすぐ好きになる男に全く見えない。無名の素人のような男でよいから二枚目を使って欲しかった。

時雨の記 平成10年

澤井信一郎監督、セントラル・アーツ=フジテレビジョン=東映ビデオ、116分。
吉永小百合と渡哲也による中年の恋。

会社重役の渡は、10年前会った時以来、忘れられない吉永に偶然再会し、それからは積極的に迫る。彼は妻や子供がいる、定年から遠くない歳である。吉永は今では良人はなく、生け花を生きがいとする。渡は鎌倉にある吉永宅に押しかけ、自分の思いを告げる。吉永は女らしく抑えて対応するが、もちろん内心はうれしい。二人で大和に遊ぶなど親交を深めていく。ここに二人で住みたいと渡は言う。

しかし渡には心臓に持病があり、突然死する危険があった。それが吉永宅で起こる。葬儀後、渡の妻は吉永宅に来て、渡の贈り物の陶器を投げつけ壊す。吉永は一人、渡との思い出の大和吉野に来る。

おいらくの恋と言うよりはまだ若い。それにしても中年の恋で、同様の『失楽園』に比べると当然ながら穏やかな進行である。
現在の日本のような高齢社会では、このような映画は関心を持つ者が多いと思われる。

ラブ・ストーリーを君に 昭和63年

澤井信一郎監督、東映=オスカープロモーション、104分、後藤久美子、仲村トオル主演。
死の病に侵された少女と青年の恋愛物語。吉永小百合の『愛と死をみつめて』の枠組みである。

大学の山岳部員である仲村はかつての教え子、後藤に会う。後藤の母から後藤は白血病で後、半年の命しかないと聞かされる。後藤が好いている仲村に、後藤の恋人として相手をしてくれと母は頼む。病院で寝たきりで過ごすより充実した生活を送ってもらいたい、と。

後藤は仲村が教育実習している信州の学校まで押しかける。また仲村の兄の家に行ってそこで過ごす。後藤の父親は北米にいて新しい家族と暮らしている。しかし後藤の病気を知った父親は日本までやって来て娘と再会、また仲村に娘を託す。

後藤の周囲は、病気が知られないように注意していたが、後藤自身は病気を知っていた。仲村はそれを後藤から聞かされる。
仲村は後藤を山に連れていきたいと親等に申し入れる。後藤と山頂を目指すが、途中で帰ろうとする。しかし後藤は山頂までとせがみ、仲村も連れて行きたいと言い、後藤を背負っていくうち後藤は亡くなる。

当時美少女として人気のあった後藤の記念碑的作品である。病気を背負った少女の物語なのであるが、暗い感じなく、限られた時間を精一杯前向きに生きようとする。正直、この映画を観て思ったのは、非常に優れた出来である。しかしそのために何か素直に感心したと言えないという感じである。こういう印象を持ったのは初めてである。