2025年6月24日火曜日

機動捜査班 昭和36年

小杉勇監督、日活、67分、白黒映画。覆面パトカーで街を回っている捜査班。キャバレーで暴力団の男が外から銃で撃たれる。担ぎ込まれた病院から逃げ出す。警察は暴力団同士の戦いであろうと推察する。

刑務所から釈放された男(内田良平)は一緒に出た丹波哲郎と共に妹のいる家に帰る。元いた暴力団に行くと今は勢力が落ちているらしい。病院から逃げ出した男もここの団員である。丹波がここで働きたいと言う。丹波は相手方の暴力団のところに行っても同様に、入れてもらいたいと言う。

相手方の暴力団は麻薬を扱っている男を捕まえる。ある会社の人間で、そこの会社に乗り込み、麻薬売買に関与し金をせしめようとする。最初に捕まえた会社員を殺す。警察は死体の銃弾から、暴力団が撃たれた際の物と同じと知る。暴力団はチンピラに罪を着せようと殺し、自殺に見せかけようとした。暴力団同士の対決が決まった。丹波は暴力団、警察に通報し、両者を衝突させようとしていた。警察は待機し銃撃が始まった時点で介入し、双方現行犯で逮捕する。これで暴力団は共に壊滅し、漁夫の利を得ようとしていた丹波も、双方から通報されており、警察に捕まる。

ブロードウェイ Babes on Broadway 1941

バークレイ監督、米、118分、白黒、ミュージカル映画。ミッキー・ルーニイ主演、相手役としてジュディ・ガーランドが出ている。ニューヨークのレストランでルーニイは仲間二人と歌や踊りで稼いでいる。その日来ていた女の客から大金をもらい、あくる日来いと言われる。行ってみると女は芸商売に関わっている者で、大物のプロデューサーのオーディションを受けろと言われる。内緒だと言われるが、芸能人志望が集まっている食堂で言いふらす。そのためオーディションは大勢押しかけだめになる。

食堂で泣いている女(ジュディ・ガーランド)に会う。慰め、お互いに惹かれ合う。ガーランドは貧しい子供たちの支援をしている。ルーニイは自分がデビューするのばかり考え、子供たちの支援を後回しにするので、ガーランドとやや不仲になりそうになる。ようやく古い劇場を借りて公演が出来ることになった。ところが消防法違反というので始まろうとするときに中止になる。あれやこれやで最後は大物プロデューサーにも認められ、大劇場で公演を行なう。

2025年6月23日月曜日

噓をつく男 L'homme qui ment 1968

アラン・ロブ=グリエ監督、仏伊チェコスロバキア、95分、白黒映画。舞台はチェコスロバキア、戦中と戦後が相互に入り混じる。

森の中を逃げている男。ナチスと思われる兵隊らが銃で撃つ。男は倒れる。まもなく起き上がり、ボリスと名乗る。村に着く。戦後という設定になっている。英雄ジャンの帰りを待っている。ボリスはジャンの情報を持っているという。ジャンの妻等身内のいる家に行く。そこで妻や女中といい中になろうとする。ジャンの行方は安全のために秘密にしていると当初は言っていたが、後にジャンをナチスから助け出し、匿おうとしたがジャンは殺されたと言う。映画は時間が前後する。最後にはジャンが現れ、ボリスを銃で撃つ。その後もボリスは生きているようだ。

2025年6月21日土曜日

内田舞、浜田宏一『うつを生きる』文春新書 2024

精神科医と経済学者の対談である。内田は若いうちにアメリカに渡り、今もそこで小児精神科医をしている。また浜田は経済学者として東大で教職の後、イェール大学、更に日本の経済政策にも関与した。ここで浜田は自分が鬱であり、これまでの病歴を語る。内田とは内田の母親との付き合い以来であり、通常の医師と患者よりもより親密な関係である。

浜田は有名な学者であり、日本の官庁で経済政策に携わった際に顔を知っていたが、鬱を病んでいるとは知らなかった。それだけでなく、息子が20代で鬱による自殺という不幸に見舞われているとは全く無知であった。ここで浜田が自分の病気を語り、医師である内田がそれに対して専門家として説明を加えるという形で対談は進む。医学も経済学も実際の治療、政策に不十分な知識で立ち向かう実践的な学問であるという話があった。

2025年6月20日金曜日

令嬢ジュリー Froken Julie 1951

シェーベルイ監督、瑞典、89分、白黒映画。ストリンドベリの有名な戯曲を元に映画化。19世紀のある貴族の娘ジェリー、館に仕える召使に男がいる。夏の祭りの際の踊りでジュリーは気まぐれに召使と踊ったりする。後にジュリーは召使と一夜を共にする。今後どうするか。外国に逃げてホテルでもしようかと計画を話したりする。

ジュリーの生い立ちの回想になる。父親は平民の娘と結婚した。母はかなり先端的な思想の持主だった。ジュリーは小さい時、男の子のように育てられた。館が火事で燃え、その費用の工面は母親がした。母親の金を貸してあった者から取り返したのである。母は貞淑な妻ではなかった。父親は自殺未遂をする。夜の間、夢想的な話をしていたジュリーと召使、もう夜が明け、父親が帰ってくる。もう妄想にふけっている暇はない。召使は召使に戻り、行き場のなくなったジュリーは自ら果てるしかなかった。

2025年6月19日木曜日

関心領域 The zone of interest 2023

ジョナサン・グレー監督、米英波蘭、105分。アウシュヴィッツ強制収容所に接して暮らす一家の日常が大きな割合を占める映画である。収容所に勤務する夫(ヘスという設定)を支える妻、また子供たちが多くいる家庭である。妻はここでの生活をいたく気に入っており、夫に転勤命令が出た時に抵抗する。

もっとも平和な家庭生活の描写ばかりでなく、収容所や別の場所での高官たちのユダヤ人処分を巡る会議の場面もある。映画の最後で収容所内部で、掃除する人の背後は死んだユダヤ人たちの靴などの遺物がぎっしり詰まっているなど、そういう意味で訴える場面もある。

壜の小鬼 The bottle imp 1891

ハワイの若い男がある壜を買い取る。その壜には悪魔が住んでいて、持ち主の願いを叶えてくれる。しかし不幸が訪れる。また手放す時は買った値段より安くしなければならない。壜の事情を話す必要もある。買い取った男は夢であった、立派な邸宅を手に入れる。しかしそれは叔父が死んだせいで土地がまず手に入り、更に叔父の遺産で邸宅を建てられたからであった。

男は若い女を見染める。相手も好きになってくれた。しかし男の体じゅうに斑点が多く出る。不死の病にかかったのだ。治す手だてはあの壜をまた見つけることだった。なんとか捜す。捜して治そうとするが、売り渡さなければ、不幸が襲う。しかも値段が既に最低の価格になっていた。絶望するが、妻はフランスなどではもっと低い貨幣の単位がある、そう言って仏領に渡る。

壜の悪魔で不幸になるのは嫌だから売れない。妻はある老人に頼んで低い値段で買ってもらい、自分がそれより低い値段で買い取る、という条件で夫から壜を買い取る。病気は治り、夫は狂喜する。しかし妻が今度は壜の所有者になった。他の者に売るが、その男は売らないというので、ようやく夫婦に幸せが訪れる。(岩波文庫、2011年)

2025年6月18日水曜日

霊魂の不滅 Körkarlen 1921

シェーストレーム監督、瑞典、93分、無声映画、ラーゲルレーヴの『幻の馬車』の映画化。大晦日の夜、救世軍に勤める若い女は死の床にあった。気にかかっていた男、デヴィッドを呼んでくれと頼む。デヴィッドは仲間と外で酒を飲んでいてふとした喧嘩で死ぬ。去年死んだ男の霊が、大晦日に死んだ者は一年間、死者の霊を集める馬車の御者をしなければならないと教える。その役がデヴィッドになる。

デヴィッドは放蕩者で、家族にもつらくあたっていた。死んだデヴィッドの霊は死の床にある若い娘の元に行く。娘はデヴィッドのために祈って死ぬ。デヴィッドの霊は我が家に行く。絶望した妻は自殺しようとしていた。デヴィッドの霊は妻には見えない。しかし奇蹟が起こり、デヴィッドは生き返り家族を抱きしめる。

2025年6月17日火曜日

歓喜に向かって Till Gradje 1950

ベルイマン監督、瑞典、101分、白黒映画。妻を失うところから始まり回想になる。オーケストラのヴァイオリン奏者の男と女が一緒になる。男の方は非常にひがみ根性がひどく、ともかく相手をけなさずにはおかない。指揮者の役は『不滅の霊魂』の監督、『野いちご』の俳優でもあるシェーストレームが演じる。

妻になる方はかつて結婚に失敗しており、結婚を望んでいるが、男はともかく攻撃的である。それでも一緒になる。その後、自己主張の強い夫は協奏曲で独奏をやるが間違いをやらかす。妻にあたる。また他に女を作っている。子供もできているのに、これでは夫婦生活が出来ないと言い、妻は子供を連れて出ていく。後によりが戻る。映画の最後は夫が妻の事故死の連絡を受け、その後、ベートーヴェンの第9交響曲の歓喜の合唱を演奏するところである。

2025年6月16日月曜日

女家族 昭和36年

久松静児監督、東宝、94年、総天然色。大阪郊外の家は五人の女家族である。母親が三益愛子、娘が三人で長女が新珠三千代、次女が久我美子、三女は知らない女優、更に未亡人である新玉には幼い娘がいる。

久我に見合い話がある。見合い当日、久我はどこかに失踪してしまい、ついていった三女が見合い相手の高島忠夫と意気投合し、ぜひ三女と結婚したいと高島の方から言ってくる。久我は既婚の男と恋愛関係にあった。相手は妻と別れるとこれまで口約束はあったが、全く誠意が見られない。見切りをつけた久我は男と別れ、妊娠していたので中絶する。

新玉は仕立ての仕事をしており、自分だけが家族の犠牲になっていると不満が大きい。たまたま知った若い男に口説かれ結婚して東京に行くことになる。高島は実は遊び人で、久我と三女が白浜温泉に行っていた時、芸者と戯れている高島に遭遇する。三女は高島が嫌になる。久我は高島がどんな男か見極めようとしてバーについていく。それから帰宅し、高島のような男はだめだと言明する。三女は会社の同僚から求婚され、相手が名古屋に転勤になるのでついていく。結局、家には三益と久我だけが残った。年金など全くなく年老いた親は、子供が面倒みなければならなかった時代の話である。

渇望 Torst 1949

ベルイマン監督、瑞典、85分、白黒映画。若い女が既婚の男と関係を持つ。女は最初、相手が既婚とは知らなかった。妊娠し、捨てられ中絶する。

若い男と結婚し、汽車で旅を続けている。女は昔、バレエをやっており、当時の仲間の女の話に移る。夫を亡くし、精神科医にいいようにされている。たまたま以前の別の仲間に会う。話し合い、その女の家に行く。相手が羨ましい生活を送っているように見えた。しかしすれ違いになり女は逃げる。夫と汽車の旅を続ける女は、常に夫と言い合いになる。夫が妻を絞め殺す夢を見たと言っても気にしないと答える。二人はうまくいくようである。

2025年6月15日日曜日

空飛ぶ生首 Tormented 1960

バート・I・ゴードン監督、米、75分、白黒映画。孤島の燈台の上から始まる。若い女が恋人のジャズ・ピアノ奏者に、自分を捨てて結婚しようとしているとなじる。手紙を元に脅迫できるはずだったが、燈台の手摺がはずれ女は落ちそうになる。助けてくれと手を差し伸べる女を見殺しにする。

この島で結婚式をあげる予定だが、奇妙な現象が次々と起こる。死んだ女の幽霊が男を脅かす。最後は結婚式で見えない力が式をぶち壊す。明くる日、燈台の上で事情を知っている、婚約者の妹にあたる少女まで殺そうとしたら、女の幽霊が現れ、男は落ちて死ぬ。後に男と以前殺した女の死体が同時に発見された。

2025年6月14日土曜日

岩井克人『資本主義の中で生きるということ』筑摩書房 2024年

経済学者の岩井克人がこれまでに書いた随筆や、論文といっていい文章を集めた本。最初の方は読みやすい内容の文章から成る。かつて著者が米のイェール大学で教えていた当時の学生から電子メールが来る。内容は著者の講義が面白かったので、それが学者になった理由の一端とあった。続いて幸福論では幸福とは金で買えない物とあって経済学者が言うだけ面白いと思った。続いて読書の話、『高慢と偏見』を初め、アガサ・クリスティや吉川英治の著書なども挙げてある。それも資本主義を考える上で参考になるものは、説明している。

更に著者の専門である貨幣についての分かりやすい説明がある。また会社の概念も、経済学の主流派の理解は全く間違っているとして、説明をする。後半になるとやや高度な文章も出てくるが、最後の方は著者が人生で出会った人や追悼文などがあって、これまでの経済学者としての人生の垣間が若干伺える。

2025年6月13日金曜日

灰色の男 Man in grey 1942

レスリー・アーリス監督、英、白黒映画。競売場で偶然出会った男女は惹かれ合うが、過去に映画は戻る。19世紀の寄宿女学校で女王のようにふるまっていたクラリッサは、教師になる予定でやってきた孤児のへスターを好きになる。そのへスターは軍人と駆け落ちして学校を去る。

クラリッサは卒業後、ジェームズ・メイソン演じる貴族と結婚する。メイソンは冷たい男だった。あのへスターに再会する。駆け落ちの相手に捨てられ、今は女優をしている。へスターと連れの俳優その他をやっている若い男がいる。クラリッサはへスターを自分の子供の家庭教師にして自宅に招く。メイスンとへスターは惹かれ合う。またクラリッサは連れの若い男と惹かれ合う。若い男は西インド諸島に不動産があり、そこに行こうとする。クラリッサは連れていくよう頼むが危険なので後から呼ぶと言う。

へスターはクラリッサを追い出し、自分がメイスンと結婚して後釜に座ろうとしていた。クラリッサが付いて行かなかったので、へスターはクラリッサを病気にさせ嵐の寒い夜、窓を開け放してクラリッサを死なせる。これでメイスンと結婚できるかとへスターは思ったが、嵐の夜の出来事を外の木から召使の子供が見ていた。真相を知ったメイスンはへスターを打擲する。現代に戻り、若い男は西インドに渡った男の子孫であり、若い女はクラリッサの子孫であった。二人は結ばれるであろう。

2025年6月12日木曜日

愛欲の港 Hamnstad 1948

ベルイマン監督、瑞典、100分、白黒映画。故郷に戻って来た若者は、海に身投げをした少女を助ける。後にダンス場で会い、二人は相思の仲になる。

少女は過去に施設に入っており、同居する母親ともうまくいっていない。少女は初めは自分の過去を隠していたが、若者に過去を打ち明ける。若者は悩む。少女の施設時代の知り合いの女が妊娠し、不法な治療を受け死ぬ。少女は警察から事情を話せと問い詰められる。最初は話さなかったが、刑務所に入れられると言われ、話す。若者は二人でやり直そうと外国に行く手筈をする。しかし最後は、ここで新しい人生を送ろうと言い、外国行きは取りやめる。

2025年6月10日火曜日

北村薫、宮部みゆき編『名短篇、ここにあり』ちくま文庫 2008年

以下の短編を含む。

となりの宇宙人 / 半村良 著/冷たい仕事 / 黒井千次 著/むかしばなし / 小松左京 著/隠し芸の男 / 城山三郎 著/少女架刑 / 吉村昭 著/あしたの夕刊 / 吉行淳之介 著/穴 / 山口瞳 著/網 / 多岐川恭 著/少年探偵 / 戸板康二 著/誤訳 / 松本清張 著/考える人 / 井上靖 著/鬼 / 円地文子 著

『となりの宇宙人』はアパートの隣に宇宙船が不時着し、乗っていた宇宙人をアパートの住人がみんなで助けるという話。下町の人情譚とも言うべき作品であるが、こういう助け合いがいつ頃まであったのか。今の日本では作り話の中にしか出てこない。『冷たい仕事』は冷蔵庫の中の霜取りを喜んでやるというこれまた古い時代の家電の話。『むかしばなし』は老婆が学生たちに昔の犯罪を話し怯えさせる。『隠し芸の男』はこれまた昔の会社の宴会で、腹を出して顔を描き、踊りをやるという昔の映画に出てくる芸をする男の話。『少女架刑』は死んだ少女が自分の死体がどう扱われていくかを語るという類のない話。『あしたの夕刊』は昔の新聞の夕刊は明日の日付になっていたということから始まり、不条理な展開になる。『穴』は庭にごみを捨てるために穴を掘るという話。『誤訳』はある国の作家が国際的な賞を取り、その賞金を寄付すると当初言ったが、後に撤回する。その理由をふとしたことから推測する話。『考える人』は僧侶のミイラの話で、以前、宿で見たミイラを捜しまわる。『鬼』は女に祟りついている鬼の話。

2025年6月8日日曜日

悩まし女王 Copacabana 1947

アルフレッド・E・グリーン監督、米、92分。マルクス兄弟のうちグルーチョだけ出ている。グルーチョとブラジル人の女芸人は仕事がなく宿代も払えない。ニューヨークの有名ナイトクラブ「コパカバーナ」に売り込みに行く。

支配人は全く興味がなさそうである。女芸人に妖艶な衣装を着せ、支配人の前で踊らせる。支配人は歌手が必要だと言うので、同じ女芸人に今度はベールで顔を隠し、歌い手として登場させる。雇われることとなったが二人とも必要となり出番が次々と出てくる。女芸人はしょっちゅう服装を変え、てんてこ舞いになる。

人気が出て、ハリウッドから契約をしたい男が来て、グルーチョに約束した額の10倍以上を映画で稼ぐつもりだった。後からグルーチョは分かり激怒する。女芸人の忙しさの対策で、グルーチョは会話の中で一人を殺すと言う。これを聞いた女が殺人が行われたと思い警察に連絡する。一人がいなくなっていた中、警察が来てグルーチョを容疑者として詰問する。最後には女芸人の一人二役と分かり大団円で終わる。

頭木弘樹『絶望名人カフカの人生論』新潮文庫 平成26年

小説家カフカの書簡や雑録からカフカの人生観を集め、それを解説した本。カフカは如何に自分が生きていく上でだめな人間かをこれでもかと繰り返し語っている。自分に自信が持てない者でもこれほど自分を悪し様に言う例は多くないだろう。悲観的か気が弱いかと言ったら、自分のだめさ加減を率直に語っているわけだから、気が弱いとも思えない。冷静に自分自身を観察し、言葉に出している。これでかなり気が済んだという効果を本人にもたらしたのではないかと思われる。

例えば現在の日本では太宰治はまさに国民的作家と言っていいほど人気がある。昔はこれほどの人気はなかったと思う。太宰の小説は『人間失格』に典型的に言えるようにだめ人間を描いている。それが読者の共感を呼ぶのだろう。太宰とカフカの小説は全く異なる。それでもだめな自分を語るという点は共通している。前者は小説の中で、後者は書簡等で自分自身の事柄として。(新潮文庫、平成26年)