2025年8月31日日曜日

安田武『昭和青春読書私史』岩波新書 1985

1923年(大正12年)生まれの著者による青春時代の読書史。まず『モンテ・クリスト伯』から始まる。昭和初年の円本時代の新潮社の全集で2巻本であったという。既に黒岩涙香の『あゝ無情』の時代ではなかったらしい。著者は漱石について、読書を漱石から始めるというのは常套過ぎて、陳腐の感があると言っているが、漱石が読書初め、というのは常套的とも思わない。自分などは、芥川龍之介の方が短編で読みやすく、早く親しんだ。

以下、読んだ本の概要や感想があるが、自分とは随分違った読み方をしていると思った。漱石では『行人』に関心があったらしい。また漱石の女の登場人物に惹かれたとある。その他、話題にしている文学は、『銀の匙』『桑の実』『ピエールとジャン』、田山花袋、『愛の妖精』『生活の探求』『父と子』水上瀧太郎、ジイド、『墨東綺譚』『雪国』『西部戦線異状なし」である。

この中でジイドが昭和10年頃の岩波文庫の『パリゥウド』や『狭き門』で有名になったとあり、勉強になった。ここで挙げられている作家や作品のうち、例えば水上瀧太郎とか『生活の探求』など今はどのくらい読まれているのだろうと思ってしまう。また最後にあるレマルクの『西部戦線異状なし』は昭和4年に出て、発禁になった。昭和17年に田舎の古本屋で見つけた時の感激が書いてある。今では簡単に読める小説であるが、これなどを読むともっと謹んで読まなければいけないかと思ってしまった。

2025年8月29日金曜日

千野栄一『外国語上達法』岩波新書 1986

著者は東京外語大で教授をしていた言語学の専門家。ここで出版年を見ると1986年、つまり昭和61年でバブル直前、まだ現在のようなグローバル化の時代でない。この前年、プラザ合意で円の価値が倍になり、猫も杓子も外国に行くようになっていた時代である。しかし本の執筆はまだ日本人が外国になじみがなく、外国人(西洋人)などほとんど日本では見かけなかった時代である。またソ連崩壊の3年前である。本の中でロシヤ語は世界の半分にとって重要な言語だから学ぶ価値があると言っている。まだそういう時代である。

それでも本書に書いてある外国語の上達法は今でも通用する。外国語の学習法は大体どの本でも同じようなことを言っている。本書を読めば十分である。まず学ぶ目的をはっきりさせよとある。今なら誰でも英語を喋れるようになりたいと思っている。この本の時代では趣味でなんとなく外国語を学ぼうとする人がいて、そういった者も想定しているらしい。

外国語の習得に必要なもの、金と時間とある。金を惜しんではならない。覚えるべきは基礎的な語彙、千くらいの語と文法である。学習書は薄い方がいい。良い先生、それは熱心な先生である。発音は最初に正しく教えるべき。だから日本人には発音しにくい言葉は弱点になっている。最後にその国の文化、広い意味で、の習得が重要である。やはり一番ためになったのは、外国語はすぐに忘れるものだ、だから何度も何度も繰り返しの勉強が必要という点である。

十八歳、海へ 昭和54年

藤田敏八監督、にっかつ、110分、森下愛子、永島敏行、小林薫出演。森下と永島は予備校生。森下は成績がトップで永島は最下位。湘南の海に二人で行った時に小林薫を知る。やはり予備校生だが夜はホテルでバイトをしている。森下は小林に興味を持つ。森下と永島は二人で海に入っていき、溺れそうになる。自殺の真似事だった。たまたま小沢栄太郎の実業家に助けられ助けられる。小沢は二人に小切手を書いてやる。

森下には姉がいる。小林はその姉が森下を捜している時に会い、姉から森下に渡してくれるよう頼まれる。森下は拒否する。その後、小林と姉は関係を持つ。小林の父親は有名な医師で、偶然小林を見つける。長い間、小林は家から出て行方不明になっていた。会った父親は小林にバイトなど辞めろと言う。ホテルを指定しそこに泊まれと小林に言う。小林はそのホテルの宿泊を森下と永島に譲る。二人はホテルの庭の木で首吊りの真似をしていた。最後は死体安置所で小林は遺体となっている森下と永島を見つける。

2025年8月26日火曜日

宇宙からの暗殺者 Killers from space 1954

W・リー・ワイルダー監督、米、71分、白黒映画。核実験を砂漠の真ん中でやる。みんな黒眼鏡をかけて見ている。ジェット機が突っ込む。搭乗員は死んだかと思ったら、なぜか同乗していた、実験に関わってきた博士のみ生きて戻ってくる。

しかし精神、挙動不審。病院に入れるが博士は逃げ出す。核実験の資料を盗み出している模様。警察から追われる。最後に捕まるが、なぜおかしな行動をしたのか。本人は喋らないので、告白薬を注射して真相を言わせる。

博士は核実験の後、宇宙人に捕まっていた。地球への侵略を考えている。爬虫類や虫を巨大化させている。その宇宙人(目玉が飛び出している)が博士に核実験の資料を持ってこいと命じた。みんなは聞いても信じられない。博士は病院から発電所に逃げる。それで発電を止めさせる。すると爆発が起こる。宇宙人は死んだ。電源を止めると宇宙人は生きていられないらしい。どうだと博士はみんなに偉そうにする。

2025年8月25日月曜日

祭りの準備 昭和50年

黒木和雄監督、ATG配給、117分。昭和30年代前半の四国中村市が舞台である。主人公の青年は信用金庫に勤めている。父親のハナ肇は他に女を作って暮らし、母親と祖父と三人で住んでいる。友人に原田芳雄がいて、奔放な原田に振り回されている。原田の兄は刑務所にいて、その妻と原田はいい仲になっている。主人公には竹下景子という憧れの女がいる。

この町の出身の、原田のきょうだいの女が都会から帰ってくる。薬のせいで頭がおかしくなっている。町の男たちとみんな寝ている。主人公も寝ようとしたところ、祖父に横取りされる。女は妊娠する。父親は祖父だと言う。祖父は大いに女を可愛がり、一緒に住み始める。しかし女が出産すると正気を取り戻し、祖父を毛嫌いするようになる。絶望した祖父は首をくくる。

竹下は左翼のオルグが都会からやってきて、その勉強会に出ているうちにその男と関係した。それを後に主人公と話しているうちに涙ながらに告白し、主人公と寝る。主人公が信用金庫の宿直で寝ている時にも来る。その晩、火事が起き、主人公は上司からさんざん絞られる。主人公は元よりシナリオライター希望で、それを叶えるべく、母親に内緒で家を出て駅に向かう。そこで原田に会う。原田は強盗殺人犯で警察に追われていた。原田にせがまれ金を渡すが、主人公が東京に行くつもりと知るとその金を返そうとする。最後は駅で列車が出て、原田が主人公に何度も手を振って見送る。

2025年8月24日日曜日

熱いトタン屋根の猫 Cat on a hot tin roof 1958

リチャード・ブルックス監督、米、108分、ポール・ニューマン、リズ・テイラー出演。テネシー・ウィリアムズの戯曲の映画化。ニューマンが夜中、運動場でハードル跳びをしている場面から始まる。途中で失敗する。ニューマンとテイラーは夫婦であるが、ニューマンはアル中で夫婦仲はあまり良くない。跳びで失敗したニューマンは松葉杖をついている。今日は父親の誕生日で、入院していた父親が戻ってくる。

ニューマンには、子供が沢山いる兄夫婦がいる。ニューマンとテイラーには子供がいない。父親の財産を兄夫婦は狙っており、テイラーも関心がある。なげやりなニューマンはどうでもいいようである。父親を大歓迎する兄夫婦とその子供たち。兄とニューマンは父が先が長くないと医者から聞いていた。父親と母には嘘をつき死なないと言っていた。

戻ってきた父親は、元からニューマンが贔屓で、ニューマンと話をする。ニューマンは話したくないようだ。なぜニューマン夫婦はしっくりいっていないのか。父とニューマンの話の中で少しづつ真相が明らかになっていく。それはニューマンがかつて尊敬していた友人とテイラーの仲を疑っていたからであった。激しい言い争いの中で、ニューマンは父がもう長くないと言ってしまう。父が家族にしてきたこと。金はあったが愛情がなかったのではないかと。父親は自分が長くないと知るが、財産を狙っている兄夫婦の前では長生きするような口をきき、その野望を打ち砕くような口ぶりである。ニューマンは最後にテイラーを自室に呼び、仲を取り戻した。

2025年8月23日土曜日

怪談生娘吸血魔 Atom age vampire 1960

アントン・ジュリオ・マジャノ監督、伊仏、86分、白黒映画。踊り子をしている女主人公のところへ恋人が来て、別れようと告げられ、女は半狂乱になる。車に乗り猛スピードで飛ばす。事故になる。女が入院している病院。女は事故で顔に醜い怪我を負った。絶望に暮れる女のところに別の女がやって来て、治す方法はあると言う。女はこれまでやった方法が凡てだめだったので信用しない。しかし他に手はない。後日、その女が助手をしている医者、博士宅に来る。

この博士は放射能を利用した皮膚の治療法を研究していた。広島に行って原爆症を見ていた。博士の使う治療法を女に試してみる。何日かして顔を調べるが、変わっていない。失敗だと博士は絶望する。しかししばらくすると顔の傷はなくなっていた。女を起こし、その結果を知らせる。女は狂喜する。女は美人であった。傷の治った女を見て博士は恋情を抱くようになる。しかし助手の女が博士の情人だった。助手はいたく嫉妬する。治ったと喜んでいたが、また女の首に傷が復活していた。治療するにももう薬がない。これは生きている女から採取するしかない。博士は助手を手始めに、連続女殺人犯となる。

映画の冒頭で女を振った男が外国から戻ってきて、行方不明になっている女を捜し始める。女は博士邸に閉じ込められている。出たくてたまらないが、博士から治療を完全にするためまだ手術が必要だと言われてやむなくいる。ある時逃げ出し、偶然に(偶然すぎる)かつての恋人、今は自分を捜している、に会う。抱き合う二人だが、博士と手伝いの唖の男が、恋人の男を海に突き落とし、女を連れて屋敷に戻る。連続殺人犯を追っている警察と元恋人の男は協力していた。元恋人は助けられる。博士は女たちを殺す場合、怪物に変身していた。(放射能の影響か、原子時代の吸血鬼)殺人犯を追う警察は博士が怪しいと見て、追跡し映画館に追いつめていた。しかし博士は逃げ出し、新しい女を襲うが飼い犬に女は助けられた。博士は逃げる。博士邸で怪物化した博士と元恋人は格闘する。博士は相手を倒し、女を温室に連れていく。唖の男(女に同情していた)に刺されて倒れる。女は元恋人と抱き合い去る。

サローヤン『パパ・ユーア クレイジー』新潮文庫 Papa, you’re cazy 昭和63年

『我が名はアラム』のサローヤンによる、10歳に満たない男の子の語りによる父親との交遊。原作は1957年の発表。正直なところ、こんなに仲の良い、理想的な父親と息子の関係があるのかと思ってしまう。御伽噺といってよい。こんな親子関係が実際にもあるのだろうか。あるだろう。少ないと思うが。

サローヤンの家庭の実際がこの話とは真逆というか、ひどいものだったそうだが、これは作り話であり、だからこそ理想の極を書ける、その特権を最大限生かした作品と言えるかもしれない。翻訳は伊丹十三が、その「哲学」に基づいた「直訳調」で(もちろん本人が書いているように失敗しているが)、この解説に書いてある翻訳に対する考えを、専門の翻訳業者に読ませ、意見を聞きたいものである。伊丹十三は典型的な「昭和オヤジ」で、欧米が圧倒的に優れており、その観点から日本に説教する、という人間だった。その考えに基づいた翻訳である。

2025年8月21日木曜日

悪魔のようなあなた Diaboliquement vôtre 1967

ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、仏、93分、アラン・ドロン主演。街道を疾走する車の中からの映像、その車が事故を起こす。病院でアラン・ドロンは目覚める。長い間、昏睡状態だったが妻は大丈夫と言われて困惑する。妻はいないはず。その妻と称する美人が来る。記憶障害になっていた。その妻と自宅である城館に帰る。中国人の召使がいる。また友人という医師に会う。

記憶が全く確かでない。自分の名も違う名が出てくる。妻に夫婦の営みを求めるが常に拒否される。この城館で静養するうち、危険な目に会う。納屋の二階に上るといきなり床が抜ける。下に落ちたら確実に死んでいた。前に飼っていたという犬も歯向かってくる。打合せの最中、シャンデリアが落ちてきて間一髪難を逃れる。夜な夜な暗示をかける声が聞こえてくる。気が狂う前に自殺しろと命令する。ある夜起きて調べると枕の下のテープレコーダーからと分かる。庭で犬に襲われそうになる。からくも逃げ、その犬が庭を掘っているのを見る。後で調べると死体らしい。妻を連れてきてその死体を見せようとするが、死体はなくなっていた。

最後に真相が分かる。妻と医師は妻の夫を殺していた。それで記憶喪失していたドロンを連れてきて事故に見せかけ殺し、その主人がなくなったことにすればよい。医師は妻がドロンにばらしたと分かるので怒って、絞め殺そうとしたが召使に刺され死ぬ。召使も妻の愛人だった。召使を妻は銃で殺し、医師と召使の相撃ちに見せかけた。警察が来てそう説明する。ドロンはどうか。この家の主人だと答える。医師の暗示のテープレコーダーが発見され、それを聞い聞いている場面で終わり。

2025年8月20日水曜日

恐怖城 White zombie 1932

ヴィクター・ハルぺリン監督、米、67分。ハイチに結婚に来た若い男女は途中気味の悪い集団に出くわす。招かれた屋敷にいると聖職者から早く去った方がいいと忠告される。招いた屋敷の主人は花嫁に恋していた。

それで自分のものにすべくその手段をゾンビを操る男(ベラ・ルゴシ)に相談に行く。ここでゾンビとは後の映画に出てくるような死人の蘇りではなく、仮死状態になっている人間を指す。ルゴシは花嫁をゾンビにして自分の城に連れてくる。花婿の方は花嫁を取り返しに城に来る。ゾンビ化した花嫁は最初は命じられ、花婿を殺そうとするが、ルゴシ他は崖から海に落ちて死に、結婚する二人も元通りになる。

2025年8月19日火曜日

大アマゾンの半魚人 Creature from the black lagoon 1954

ジャック・アーノルド監督、米、79分、白黒映画。アマゾンの奥地で化石の手を見つける。水かきがついている。帰国して報告し、より詳しく調べるために調査団を派遣する。留守を守っていた現地人は殺されていた。半魚人のせいである。

川を進む船、泳ぐため同行している若い女が水に入る。その女の泳ぐ下を、半魚人が並行して水中を泳いでいる。半魚人を見つけた一行は捕まえるべく、痺れ薬を流す。半魚人は一旦捕まったが、逃げその際に博士を襲った。半魚人のせいで調査団は何人もの犠牲を出していた。この半魚人は女に興味があり、女を襲って奪っていく。棲み処に連れていく。後から調査団の者たちがやって来て女を奪い返し、半魚人に発砲する。半魚人は水の底深くに逃げていく。

2025年8月18日月曜日

美しき生首の禍 The brain that wouldn’t die 1962

ジョゼフ・グリーン監督、米、92分、白黒映画。若き医者は野心家で人造の身体を作ることに情熱を燃やしている。電話があり、医者の実験室のある城館に恋人と一緒に行く。

途中で事故を起こす。医者はなんともなかったが、恋人は燃え盛る車の中で瀕死となり、医者は背広でその身体の一部(頭部)のみ持って城館に着く。そこで恋人の首は実験室の、浅い容器の液に入れられ頭を線で繋ぎ、生きている状態になる。恋人は目が覚めて変わり果てた自らの姿を見て、死なせてくれと懇願する。

医者は恋人の胴体を物色に行く。つまり適当な身体を持った若い女を捜して、恋人の胴体にしようと計画する。実験室の扉の向こうからドンドンたたく音が聞こえる。医者がかつて行なった人造人間の出来損ないがいるのである。また医者に協力する男も手を実験にされ、不自由な身体である。医者は車で街の通りを走らせながら、道行く若い女の身体をなめまわしている。会った知り合いにファッションショーに行くよう勧められる。ファッションショーで出てくる女よりも身体がいいのは、医者の知っているモデルをしている女だと言われる。モデルとして写真撮影がされているスタジオに行く。医者は眠り薬で女を眠らせ自分の家に運ぶ。

実験室では医者に恨みがある扉の向こうの怪物を、首だけ女がけしかけ、医者の仲間の男を殺す。医者はモデルの女を連れて実験室にやってくるが、怪物にやはり殺される。火事が起こる。怪物は気を失っているモデルを担ぎ上げ逃げていく。火事の中、首だけ女は周りを見ている。

宇宙戦争 The war of the worlds 1953

バイロン・ハスキン監督、米、85分。火星の生物は住めなくなった故郷の星を離れて、移住先を捜している。地球は最適だった。その火星人の宇宙船が田舎に着陸する。

見に行った三人の男は光線砲で蒸発した。軍隊等が出動してくる。火星人と和睦に出かけた牧師も光線砲でやられる。軍隊がありったけ動員されるが、火星人には歯が立たない。最後の手段として核兵器を使った。それでも火星人の宇宙船には効かない。宇宙船は世界各国にやってきて破壊を尽くす。しかしなぜか急に宇宙船が落下、墜落した。中から現れた火星人も倒れる。音声の解説が入る。地球上の細菌によって火星人は倒れたのだと。

2025年8月17日日曜日

ゴア・ゴア・ガールズ The gore gore girls 1972

ハーシェル・ゴードン・ルイス監督、米、85分。ストリッパーばかり狙う連続殺人が起こる。私立探偵は若い女の記者と共に犯人を捜そうとする。

それでも新たに別のストリッパーたちが殺されていく。殺しの場面はゴードン・ルイスばりの血を沢山使う残酷描写になっている。最後に犯人を突き止める。ストリップ・バーの女給で、主人の気が他の女に移ったので、それを根に持ち女を次々と殺していったのだった。

2025年8月15日金曜日

去年マリエンバートで L'Année dernière à Marienbad 1961

アラン・レネ監督、仏、94分、白黒映画。宮殿のようなホテルに多くの男女が集まっている。その中の一人の男がある女に向かい、去年会った。どこかは覚えていない。それに対し、女は知らないという。男は去年の女との邂逅を語ってみせる。他に女には夫がいる。全編、幻想のような雰囲気の映画である。

丸谷才一『文学のレッスン』新潮選書 2017

丸谷が2008年から明くる年にかけてインタビューを受け、それが本の大半を占めている。聞き手は編集者を経て、大学教授になった者。ジャンル別に論じている。短編小説、長編小説、伝記、批評、歴史、エッセイ、戯曲、詩、である。

短編はなぜアメリカで発達したのか、雑誌が多かったせいらしい。ポーなども雑誌の編集者だった。イギリスでなぜ長編小説が発達したのか。これは18世紀からで、19世紀の小説は有名なものが多いが、18世紀でも『パミラ』とか『クラリッサ』とか『トリストラム・シャンディ』がある。この理由については「識字率の高い中流階級が長編小説を買う余裕があり、また読むのが好きだったということでしょう。」(p.43)とあって、あまり大したことを言っていない。丸谷の言では『アンナ・カレーニナ』を高く買っていない、という意見が目についた。それは登場人物が魅力的でないからという。これは賛成するかどうかは別にして、考えさせられた。『戦争と平和』も丸谷はナポレオンは魅力的だが、それ以外は登場人物を魅力的だと思っていないらしい。ドストエフスキーは登場人物が魅力的でそこがいいらしい。

伝記のところでは例として文学者の伝記をよく挙げている。伝記は社会に名を成した者が対象になるので、政治家や軍人、あるいは実用的な貢献をした学者、下っては実業家の伝記が多く書かれていると思ったが、自分が文学者なので文学者の伝記が気になるのか。次に歴史だが、一般人は歴史を読むとき、物語を読むように読んでいるのではないかと話は始まる。これを読んでまず思うのは、西洋語、例えばフランス語やドイツ語は歴史と物語が同じ言葉である。英語にしたってhistoryとstoryで似ている。歴史を物語のように読むなどという言い方、その発想自体が仏語や独語ではありえない。これにどう触れるのかと思ったら何にも書いていない。なんだと思った。

最後に詩を扱っているが、ここで詩と酒の話になって酒が好きな人はいいが、全く酒を飲まない、嫌いな人も多いはずで、こういった酒のことなど持ち出すべきでない。昭和時代にオヤジ連中がすぐプロ野球の話を始め、野球など興味のない者はうんざりした。文学の話をしているのだから文学だけで話をしてほしい。

2025年8月14日木曜日

筒井康隆『創作の極意と掟』講談社文庫 2017

筒井による小説作法の本である。小説をこれから書こうとする人、また既に職業小説家になっている人も対象に書いたとある。

項目は、凄味、色気、揺蕩、破綻、濫觴、表題、迫力、展開、会話、語尾、省略、遅延、実験、意識、変化、薬物、逸脱、品格、電話、羅列、形容、細部、蘊蓄、連作、文体、人物、視点、妄想、諧謔、反復、幸福、と分かれ、各品目について筒井の考え、理解を述べる。これだけ良く書いたものだと思う前に知らない単語がある、揺蕩など。品目を並べるだけでなく、それについていちいち書いているのだから感心せざるを得ない。

2025年8月12日火曜日

立花隆、佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』文春新書 2009

二人の知識人による、読書でいかに頭を鍛えるかの対談とそれぞれが推薦する図書の一覧。二人は多くの書を物している文筆家であるが、かなり異なった志向を持つ。佐藤はいわゆる人文系の知識人で、立花は多くの自然科学書を挙げている。

例えばマルクスやカントに対する評価は全く異なる。佐藤がマルクスを「今こそ、教養としてのマルクス主義、マルクス経済学の意義は大きいと思う」と言っているのに対し、立花は「マルクス思想については、もう学ぶべき対象ではないでしょう」(以上p.39)と述べる。佐藤でよくわからないのは『価値と資本』を新自由主義を把握するのに一番総合的じゃないかと言っているが、自由主義なら立花の挙げているハイエク以外ならミルトン・フリードマンあたりにしたらどうか。『価値と資本』は分析の本であって主義主張の本ではない。また経済学では『価値と資本』と並び古典視されているケインズの『一般理論』の解説では、ケインズのあまりにも常識的な話をしているだけである。本当にこれらを読んでいるのかと思いたくなる。立花のマルクス理解については、p.191以下の『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を論じているところを読むといい。マルクスの礼賛文はよく見るが、マルクスをてんから無視している者は、論じる価値なしとして何も言わない。この立花の文はマルクス批判をちゃんとしているので珍しい。

さらにカントの評価が面白い。立花は『純粋理性批判』をナンセンスと断じ、その根拠として時間と空間をアプリオリとしているが、現代の時間空間概念は変わってしまった、前提がもう今では通じないから砂上の楼閣になっている、と。立花の論がどの程度説得性を持つかどうか、ただ佐藤も反論で論破できているとは思えない。

2025年8月6日水曜日

魔の谷 Beast from haunted cave 1959

モンテ・ヘルマン監督、米、72分、白黒映画。スキー場に来ている悪漢集団。そこで山男なる者に出会い、集団のボスの情婦となっている女は惹かれる。悪漢どもは金塊を奪うため、目くらましに爆破を起こし犠牲者が出る。女は山男と一緒に逃げるつもりだった。

しかしこの近所の洞窟の中で別の女が怪物に襲われた。その後も怪物は山小屋にやってきて人を攫っていく。山男と逃げた女は吹雪を避けるため洞窟に入る。そこは怪物の住処だった。先に怪物に攫われた人らが囚われている。逃げた情婦を追って洞窟に来た悪漢のボスは怪物にやられる。その仲間が怪物を火炎放射器(?)か何かで怪物を焼き殺す。怪物の恰好は、布にたくさんの紐がからまっているようななりである。

川北稔『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書 1996

「世界商品」砂糖の取引を中心にした世界史。世界商品とはそれを求めて各国で競争が生じる物。砂糖以外に茶とコーヒー、チョコレートなどがある。いずれも世界の経済の中心であった欧州では栽培できない。それで熱帯等の植民地でそれらを栽培した。

その際、労働力が必要である。その労働力はアフリカから黒人を奴隷として調達し、従事させた。奴隷の貿易と工業製品など欧米での産品との貿易が盛んに行われた。

2025年8月3日日曜日

齋藤孝『読書力』岩波新書 2002

現代は読書しなくていいといった風潮があるが、とんでもない、読書は必要だと著者は力説する。著者はいかに読書が人生に必須か、熱く語る。最近の物分かりの良いおじさんとは全く意識的にか、違う態度をとっている。著者はいかに読書が読む人に効用をもたらすかをいろんな点を挙げ、説明する。

書名の「読書力」という言葉は普通使わないだろう。どういう意味で使っているかを見ていると、読書力があるとは文庫百冊、新書五十冊読んだというものである、とある(p.8)。本書の多くの読者はもっと読んでいるだろう。改めて本書がこれから読書をしようという、普通は若い人であろう、読者を対象としていると分かる。本を読むのはそもそも読書が好きな人が多い。それで同好の士と語るのは楽しいから読書に関する本は売れる。少なくとも海辺で拾った石ころを楽しむ、というような題の本よりかは。(実はAmazonで見たらこのような本が出ていて、それなりの読者がいるとは驚いた。人間の関心は広い)

ただし、既に読書好きになっている人でなく、本書の想定する読者に、どの程度本書が届くか、本書を読む気にさせるか。そのために本書は若い人の読書の指導をする教師(役)にも向けられていると思った。最後に文庫百選として著者が勧める本の紹介がある。これを見てなぜこの本にしたのか、自分なら同じ作者のあの本にする、といったように楽しめばよい。

2025年8月2日土曜日

目玉の怪物 The eye creatures 1967

ラリー・ブキャナン監督、米、78分、総天然色映画。テレビ用の映画らしい。田舎町に空飛ぶ円盤が降りてくる。軍は調べるがパニックを避け、何も一般に知らせない。

カップルが乗っている車は何物かに衝突する。人を轢いたかと思って調べると怪物である。警察に知らせるが相手にされない。されないだけでなく、別の事故の容疑者にされてしまう。別の若者が来て、怪物が倒れているところを見ているうちに、生きている怪物が襲い、若者を殺してしまう。この若者殺しの容疑者ではないかとカップルは言われる。轢いたのは怪物でなく、若者だろうと警察は思っている。否定しても信用されない。

隙を見て警察から逃げ出し、死んだ若者の友人宅に行き、その友人を事故現場に連れていく。怪物たちが多く現れる。友人は怪物にやられそうになる。車のヘッドライトを当てると怪物は蒸発して消えてしまう。カップルはたくさんのカップルの友人を集め、車を連ねて現場に向かう。初めは暗くしておいて、怪物らが現れるとヘッドライトをつけ、怪物どもを退治する。怪物に襲われた先の友人を助ける。

題名は目玉の怪物となっており、原題もそうだが目玉の怪物でなく、全身が多くのできもの、突起物、イクラの寿司のようないでたちの怪物である。