2024年3月22日金曜日

不敵なあいつ 昭和41年

西村昭五郎監督、日活、90分、総天然色、小林旭主演。小林はあるやくざの組織にいた。無理な殺しを渋っていると、弟分の藤竜也が引き受ける。小林は藤に殺しなどやめて女と逃げろと勧める。藤がそうすると女共々殺される。怒った小林は組と縁を切る。

横浜に着く。若い女の手引でその家が経営するバー兼ホテルに泊まる。そのホテルは暴力団から脅しを受けていた。ギターで流しをしていると同業者の東京ぼん太に会う。ぼん太はやはり暴力団から脅されていた。小林は関わろうとしなかったが、ぼん太及び泊っているホテルを守るため、暴力団と敵対せずにいられなかった。暴力団は小林の正体を知り、質らなぬ相手なので腕利きの殺し屋を手配する。暴力団のボスの女(蘆川いづみ)がバーのホステスをしていて、小林に好意を持つ。暴力団側の情報を小林に流すので、車ごと海に突き落とされ死ぬ。

小林は相手の暴力団、また過去に在籍していたやくざとの闘いになる。相手側を倒し、腕利きの殺し屋も倒すが、実はその男は泊まっているホテルの昔失踪した息子だった。

2024年3月21日木曜日

H・R・ハガード『クレオパトラ』 Cleopatra 1889

『ソロモン王の洞窟』『洞窟の女王』など秘境冒険小説で名高いハガードの歴史小説である。題名にあるようにクレオパトラを描いた小説なのだが、クレオパトラが主人公ではない。

語り手で過去を回想する、ハルマキスという男が主人公である。エジプトのファラオの末裔で神官の地位にある。エジプトをよそ者のクレオパトラが支配している。エジプト人はクレオパトラを嫌っている。それで本来のエジプトの支配者となるべき者だと、ハルマキスは成人してから初めて父親から告げられる。そのためにクレオパトラを倒し、自らがファラオだと宣誓する使命を達成すべく都に向かう。クレオパトラに仕える女官カーミオンはハルマキスに恋し、そのクレオパトラ打倒を助ける。クレオパトラと一対一になったハルマキスはクレオパトラを剣で倒すべきなのに、その色香に迷い失敗する。クレオパトラはハルマキスの企みを知っていたのだった。大失敗しただけでなく、ハルマキスはピラミッドにある財宝もクレオパトラの頼みによって、一緒に取りに行く。苦労して盗み出した財宝は凡てクレオパトラの物となる。クレオパトラは自分の恋するアントニーと一緒になり、用無しとなったハルマキスは捨てられ、今や全エジプト人の恨みを一身に集める敗残者となる。故郷に帰ると父親は死んでいた。

残りの章は如何にしてハルマキスがクレオパトラとアントニーに復讐をするかに充てられる。それが達成されたとしてもハルマキスはエジプトへの裏切り者、エジプトを地に貶めた罪悪人に違いはなく、その罪を背負わなければならない。(創元推理文庫、森下弓子訳、1985年)

千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書 2022

ここで解説する「現代思想」とはフランスのポスト構造主義の哲学である。

特にデリダ、ドゥルーズ、フーコーの三人を中心に書いている。その思想は二項対立の脱構築が鍵の概念だそうだ。二項対立とは良し悪しを二つの概念の対立として捉える。秩序と無秩序、能動と受動など、対立する概念を二項対立と言う。どちらが望ましいか、正しいかは普通常識的には分かっている。その対立の良し悪しをいったん保留にするのである。脱構築と言い、どちらが常に正しいとは必ずしも言えない場合があろう。どちらともいえない灰色領域こそ現実的ではなかろうか、と考えるのである。デリダは二項対立からのずれを差異といい、これを重視する。普通の常識的判断に反対しているのではない。他にドゥルーズは存在の脱構築、フーコーは社会の脱構築を考えたと言う。

2024年3月20日水曜日

傷だらけの天使 昭和41年

吉田憲二監督、日活、81分、総天然色、西郷輝彦主演。鹿児島が舞台である。

西郷は以前起こした、暴力沙汰の責任を一人でとり、少年院(刑務所)に送られた。出所してきた。故郷の指宿に戻る。自分の家がやっていた旅館はなくなっている。西郷の姉はなぜか自殺していた。その姉の婚約者だった家は大きなホテルを経営しており、そこの娘、松原智恵子は西郷の帰りを待っていた。松原の両親は娘の西郷との付き合いを快く思っておらず、後には禁止する。

西郷は姉の自殺の原因を突き止めようとする。松原の両親は自分の息子と西郷の姉の婚約をよく思っておらず、ならず者に姉を暴行させた。それで姉は自殺したのだった。この事実が明らかになったので松原の両親は罪に問われ、松原も好いている西郷を諦めた。最後の方の真相が非現実で、好いている者同士が一緒になれないなど変わった終わり方であった。

猟銃 昭和36年

五所平之助監督、松竹、98分、総天然色、山本富士子、岡田茉莉子、佐分利信出演。

井上靖原作の小説の映画化である。原作は昭和24年という戦後間もない時期の発表であるが、映画の方は制作時に近い時代設定。また原作では3人の女の回想する手紙から成るが、映画は時間の進行に合わせている。佐分利信は20歳も年下の岡田茉莉子と結婚している。岡田の従姉で、佐田啓二(医師)と結婚している山本富士子は夫の佐田が看護婦と情交があって子供までなしたと知り、離婚を決意する。その元看護婦(音羽信子)が置いて行った少女を自分で育てる(この辺りも原作と異なる)。佐分利は山本にいたく惹かれる。独り身になった山本に迫り、深い仲になる。たまたま岡田が二人を目撃し、どういう関係か知る。

それから8年経った。少女は女高生になりセーラー服の鰐淵晴子が演じている。8年間も不倫を隠し続けてきた。山本はもし岡田に知られたら自分は生きていけないと思っている。たまたま山本が着ていた羽織が、8年前の佐分利と一緒の時と同じだった。それを見て当時の目撃を思い出した岡田は、二人の仲を知っていると山本に告げる。衝撃を受ける山本、ついには自殺を図る。岡田は佐分利に離婚してくれと言っていた。

この話で理解できないのは、なぜ8年間も不倫を続けていたかという点である。佐分利は岡田から心が離れ山本一筋なら、時間をかけて岡田に説明し離婚して、今は独身である山本と一緒になればいいのではないか。不倫が始まった時、悪人になろうと佐分利は山本に言う。その悪人役を続けていたかったのか。岡田も最初から二人の仲を知っていたが、二人がだますなら自分もだまそうと決意したと言う。それにしても8年間、夫と従姉の不倫を知りながら、佐分利とどういう夫婦生活をしていたのだろう。全く想像できない。

恋も忘れて 昭和12年

清水宏監督、松竹、73分、白黒、桑野通子主演。桑野は横浜の酒場で働く女である。他の女たちと共に待遇改善を女主人に迫るが相手にしてもらえない。

桑野には幼い息子がいる。その息子は母親が酒場で働いているので、他の子供たちから馬鹿にされる。他の学校に転校する。その学校に桑野は付いてこなくていいと、息子は言う。桑野に気がある佐野周二がやって来て、息子に馬鹿にされていてはいけないとけしかける。次に子供たちが来た時、息子は病気だったが、それをおして相手になって喧嘩を始める。これが元となって息子は病死する。桑野は絶望に陥る。

スタイルが良いので有名だった桑野であるが、この作では洋装でなく着物姿である。

清水幾太郎『本はどう読むか』講談社現代新書 昭和47年

著者は評論家、戦後ある時期まで平和運動の指導者だった進歩的文化人、それ以降は左翼陣営を批判する論客になった。ある時期とは60年安保騒動時である。

本書は読書に際しての心掛けを述べている。筆者の個人体験を元に書いてるのが特徴であり、また実用的な読書方法について述べている。実用的読書と書いたのは、世の読書論は全く趣味としての読書についてのみ述べているものが少なくないからである。以前作家が書いた読書論を見たら「面白くなければ読書でない」などとあった。これは小説など趣味的な本を前提としているのであろう。実際に書店に行ってみると、文学書のコーナーなどはあまりなく、大部分は実用書、つまり広い意味で知識を求める本になっている。

本書では書籍を実用書、娯楽書、教養書に分けている。小説などは娯楽書であろう。自分を高めるのが教養書と言っている。本書で書いている本への接し方は賛成できるものが多いが全部ではない。例えば必要なくなった本を売るよう勧めているが賛成できない。それにこれは「本を買え」という勧めと矛盾する。本を買っておかないと後で買えなくなる場合が多いからその通りだと思う。この理屈でいくと売ってしまうと、その後にまた欲しくなっても買えないかもしれない。今いらないと思っても将来は分からない。好みや関心は変化するからである。これは著者が物書きだから売れと言っているのだろう。つまり本を書くために購入する本が多いわけで、本が完成してしまえば材料となった本は売っても差し支えない。普通の人とちょっと違う。

また本は速く読めと言っている。速く読めたのにこしたことはないが、速く読めない本はどうするのか。つまり難しい本である。速く読めるのは本の内容(と書き方)が自分の知識、理解の範囲内にあるものである。難しい本は飛ばしても良いというのか。速く読めるのは自分の実力の範囲及びそれ以下の本になるので、つまり易しい本ばかり読めとなってしまわないか。本を全部読む必要はない、ただし洋書は分からなくても全部読めといった提案は賛成できる。

最後にマスコミ時代の読書という章があるが今では時代遅れである。専らテレビラジオと印刷物がマスメディアであった時代の話である。今ではインターネットが従来のマスメディアを破壊しつつあり、その流れは加速していくだろう。本書はテレビ全盛時代の議論である。