2024年12月31日火曜日

恐怖の殺人養成所 Hitler’s children 1943

エドワード・ドミトリク監督、米、82分。戦時中の米国製の反ナチス映画。題にあるヒトラーの子供とは、ドイツでは子供は国家のために産んでいる、という意味である。

ベルリンのアメリカン・スクールで働いている女はナチスの軍人が来て、何人かの子供たちと連れていかれる。同僚のアメリカ人教師が問うても答えがない。女はアメリカ人なのだが、親がドイツ人なのでドイツ人とみなされ、ドイツの女としての「教育」を施すためである。連れて行ったナチス軍人は女の幼馴染であった。アメリカ人が女を取り戻そうと奔走するが、みんな恐れて協力してくれない。アメリカ人はナチスの司令部に出かける。会った軍人は女はドイツに協力的になっていると告げる。実際に女に会うと、女は満足していると答える。アメリカ人は去るが、アメリカ人を助けるための嘘を言ったのである。

幼馴染のナチス軍人は女と愛し合っており、女への鞭打ちを止めさせ、女を脱走させる。教会で女は捕まる。女を逃がした罪で軍人も裁判にかけられる。裁判は放送されるが軍人はナチス下のドイツを批判し、銃で撃たれ、女も同様に処刑される。戦時中の宣伝映画なので、ナチスが滅んだ後なら違った作り方もあったろう。

2024年12月30日月曜日

渡辺努『世界インフレの謎』講談社現代新書 2022

日銀出身の学者である著者が、世界でインフレが高進している理由や日本の状況を説明する。

近時の世界でインフレ率が上がっている理由は、圧倒的にウクライナ戦争と説明されている。しかしこれは誤りと著者は切り捨てる。ウクライナ戦争より前から物価が上昇しているからである。その前の新型コロナによる影響を重視する。コロナで人と人との接触に距離をとるよう指導された。これによって食堂や旅行などサービス部門の消費が著しく減退した。サービス消費は対面で享受するから避けられたのである。それに対して物の消費は増えた。長い間、サービス経済化が進んで来たのだが逆転した。また新型コロナの流行で在宅勤務が増えた。一度事業所から離れたら、コロナの深刻さが減っても、もう事業所勤務に戻らない者が多くなった。比較的高齢者では退職を早め、同様に仕事をする人間が減った。これらによって仕事の供給側が減少した。だから需要に対して供給が減ったので物価が上昇したのである。中央銀行は物価の安定化を使命とするが、金利引き上げは需要の抑制策で、供給の制約に対しては手段がない。

日本の状況は長年物価が低迷しデフレ状態にある点で世界と異なる。家計も企業も物価は上がらない、賃金も上がらない、を前提としていわば均衡状態にあった。それに最近の輸入物価の影響からエネルギー価格が上昇して、家計を苦しめるようになってきた。著者は物価と賃金の凍結状態という今の状況から抜け出すには、かつて安倍内閣でやったように政府が企業に賃金を引き上げるような勧告をしたらどうかと言っているようである。

わが心に歌えば With a song in my heart 1952

ウォルター・ラング監督、米、総天然色映画。実在の歌手、女優だったジェイン・フローマンをモデルにした映画。スーザン・ヘイワード主演。

フローマンは歌の応募に来て採用される。コマーシャルソングなどを歌っていた。応募で会った男と結婚する。戦争(第二次世界大戦)が始まる。フローマンは慰問で歌を歌いにあちこちに行く。イギリスに向かう飛行機はポルトガルを経由していったが、事故に会いフローマン自身も大怪我をする。脚を切断しなければならないのかと心配する。そこで会った看護婦と以降世話をしてもらう仲になる。更に飛行機の操縦士がすっかりフローマンに恋し、フローマン自身も惹かれるようになる。しかし夫がいる。夫と飛行士はフローマンを取り合う間になるが、結局のところ、夫婦仲は既に冷めているとして夫は相手に譲る。フローマンは脚に支障を抱えながら慰問を再開する。映画の最後の場面は慰問の場面で、アメリカがいかに素晴らしい国か、またアメリカの中の諸州を称える歌を歌って兵士らから喝采を浴びる。

2024年12月29日日曜日

山田風太郎『戦中派不戦日記』角川文庫 平成22年

小説家の山田風太郎が医学生だった昭和20年一年間の日記。

よく戦時下でこれだけ記録できたものだと、また戦後の混乱期も同様に書けたものだと感心する。特に戦争が終結した時の筆者も含めた当時の周りの人々の反応が興味深かった。負けるくらいなら、日本人が全員死んでも抵抗すべきだと。今までの、犠牲になった兵士らは全く浮かばれないではないか。だから敗戦などという屈辱的な選択肢は拒否すべきだと。もしそういった選択をしていたら、日本は完全に近い形で滅んでいただろう。現在の日本人はほとんど生まれていなかったはずである。戦争を何年もやってきたから、そういう気持ちになったのは、想像できないわけでない。どれほどの当時の人々が同様に感じたか、統計もないから分からない。

昔読んだ『よみがえる日本』という中央公論の日本の歴史の本では著者の蠟山政道が、戦争をやってきたのだから負けたのは悔しいが、国民は戦争が終わってほっとした気分になったのではないか、といった趣旨の記述があったと覚えている。ほっとしたのではなく、ここの記述では切歯扼腕してありえない選択だと怒り狂ったとある。

2024年12月28日土曜日

運命の饗宴 Tales of Manhattan 1942

デュヴィヴィエ監督、米、118分。燕尾服の持ち主が変わっていき、燕尾服にまつわる挿話がオムニバス形式で描かれる。有名な俳優が多く出ている。

最初の話では、シャルル・ボワイエが人妻のリタ・ヘイワースと浮気をしていて、夫に見つかり銃で脅され撃たれるが、逸れていた、自分は俳優だから撃たれたまねをしていただけたと言い、去るが実は撃たれていたというもの。次の話は今夜結婚する予定の男女が、服に入っていた別の女からの手紙がもとで仲がおかしくなり、女は夫の友人と意気投合し好き合う。幾つかの話があって、最後の話は盗んだ大金を飛行機から落としてしまい、拾った黒人の部落でそれを分け合う。いかにも最後を締めくくる話になっている。戦時中の映画らしく映画の終わりに戦時国債を買えという広告がある。

2024年12月25日水曜日

闇の波止場 The mob 1951

ロバート・パリッシュ監督、米、83分、白黒映画。潜入捜査官の映画。

主人公の刑事は恋人に宝石を買うため店にいた時、外で銃声がする。男が倒れ、そばに撃ったと思われる男が立っている。刑事は銃で撃った男に尋ねると警官だと言う。警官バッジを投げて寄こす。警察に電話すると言って店にその男は行く。巡回中のパトカーなど警察官が来る。分かったのは、警官と称する男は殺した警官のバッジを奪って、主人公の刑事に投げたのである。店に行くがもちろん男はいない。

刑事は犯人を取り逃がしたので休職になる。部長の部屋に行くと男を捕まえろと命令される。港の方にいるらしいので、刑事は港湾労働者に化け、潜り込む。余所者を歓迎しない、疑う労働者たちから散々嫌がらせを受ける。警察の方から手を回してくれたので、働けるようになるが、それがまた疑惑を持たせる。ここで仕切るボスとの確執、また最後に全体を牛耳るボスのところに仕事があるからと言われ行く。そこには恋人が捕らえられていた。刑事は銃撃戦となって恋人を助け出すがボスには逃げられる。病院に恋人の見舞いに行くと、医師に化けたボスから銃を突き付けられる。向かいの窓から警官がボスを狙撃して倒す。

2024年12月24日火曜日

新ドラキュラ/悪魔の儀式 The Satanic Rites of Dracula 1973

アラン・ギブソン監督、英、87分。怪しい研究所に潜り込んでいた捜査員が逃げ出すところから始まる。

追手を倒したものの、捜査組織に戻って報告してから死ぬ。黒ミサのようなものだけでなく、政府の高官が関与する、かなりの悪事をしているらしい。オカルト関係に詳しい教授に意見を聞く。教授の知り合いが研究所に関わっているようで、その知人の学者を訪ねる。その知人学者はペスト菌の研究をしていた。教授も危なかったが、知人は殺される。研究所に忍び込んだ捜査員らは地下で女吸血鬼に会い、からくも逃げる。教授は研究を支配している企業の社長に会う。その社長とはドラキュラだった。ドラキュラは教授を黒ミサの場所に案内する。そこでは教授の孫娘が生贄にされようとしていた。捜査員らが乗り込み、悪人どもと格闘になる。孫娘を助け出し、ドラキュラは教授に柵の杭を胸に打たれ死んで灰になる。

アイリッシュ『幻の女』 Phantom lady 1942

主人公は恋人がいるので今の妻と離婚したい。しかし妻は離婚しないと言う。腹が立って家を出た主人公は初めにバーで会った女に声をかけ、劇場に行く。南瓜型の派手な帽子を被った女である。舞台で歌っている南米出身の女歌手はあからさまに女に敵意を示す。男が女の名も聞かず別れて帰宅すると妻が殺されていた。

容疑は主人公にかかる。主人公が女といたという自分のアリバイを証明しようとするが、バーの店員や運転手、劇場の担当など男は一人で来たとしか言わない。全く女は消えてしまい誰もその女がいたと言わない。アリバイが証明できない主人公は死刑宣告を受ける。何とか無実を証明したい。それをしてくれる友人は仕事で南米にいる。呼ぶと来てくれる。友人や、主人公の有罪に疑問を持った刑事、また恋人は主人公のアリバイを確かめようとする。証言した者たちに当たっていく。手がかりがつかめたと思ったら、その者は殺されてしまう。死刑の日が近づいてくる。最後の日になって真相が分かった。奔走している友人が犯人だったのである。

2024年12月23日月曜日

鮮血の美学 The last house on the left 1972

ウェス・クレイブン監督、米、85分。ベルイマンの『処女の泉』の粗筋を元に、現代のアメリカを舞台に移して映画化。

医師と妻の娘は友人とコンサートに行く。町で友人が薬物を買おうと声をかけたら、家に連れ込まれ、しかも居た連中は殺人犯の脱獄者らであった。二人の女は捕まって車で運ばれる。車が故障して脇の林に入る。そこは娘の家に近い場所だった。両親は娘が帰ってこないので、警察に連絡する。女二人は脱獄者らと共に林の中にいた。娘の友人は隙を見て逃げ出し、曲者らは追う。娘はその間に男を説得し逃げ出だそうとする。逃げた友人は男らに捕まり刺殺される。娘もその男らと会ってしまい、友人が殺されたと知って驚愕する。男らは娘に暴行し娘が池の中に入ると銃で射殺する。男らは車もないので近くの家に行き、泊めてもらう。そこは娘の家だった。夜中に男が娘の物を付けていると知り、娘を捜し遺体を発見する。両親は男らに復讐し皆殺しにする。

2024年12月22日日曜日

センチメンタル・アドベンチャー Honkytonkman 1982

クリント・イーストウッド監督、主演、米、123分。大恐慌時代、イーストウッドは酒場のピアノ弾きで歌手を目指している。大酒のみである。

ナッシュビルでオーディションが開かれるのでそこに行く。途中で妹夫婦の家に着くが、イーストウッドの運転ぶりが危ないので、息子を運転手として一緒に行かせる。祖父は故郷で過ごしたいと言い、同行する。途中で借金を取り返すために立ち寄った家で、そこにいた娘が歌手を志望しており、秘密に車に隠れ乗り込む。車の調子が悪くなり、バスで目的地に向かう。

オーディションではイーストウッドは咳き込み、歌が続けられない。結核で本人も知っていた。たまたまオーディションを聞きに来ていたレコード会社の連中が、イーストウッドにレコード録音しないか持ち込む。録音が始まるが、やはり途中から咳で歌えない。他の者が代わりに歌う。イーストウッドは寝込む。医者に来てもらうが余命いくばくもないと言われる。イーストウッドは死に、甥と娘は墓を後にする。すれ違った車ではイーストウッドの歌を流していた。

2024年12月21日土曜日

田中康夫『なんとなく、クリスタル』河出文庫 1983

1980年に大学在学中の田中康夫によって書かれた小説。

東京の真ん中に住む女子大学生の語りで毎日の生活を書いている。この本は半分が注(notes)で、発表当時、小説そのものより注の方が話題になっていた。感想、評では注に対してつっこみを入れていた。書いた意図を1983年の文庫で著者は語っている。これまでの日本の小説は人生いかに生きるかなどと堅苦しい話をしてきたが、1980年のクリスタルな生き方をする若者が現れる小説を書きたかったと。この小説の主人公らは当然、当時「普通にいた」若者ではない。当時、こんな生活ができたらいいなという願望を具体化した小説である。

またこれは「バブル」期を舞台にした小説ではない。文庫の裏表紙にも「バブル経済に沸く直前、」と書いている。バブルは1987年以降である。バブルとの間に7年もある。27歳の直前を20歳とは言わないだろう。正直今となっては1980年(昭和55年)というのはここ数十年の日本の時代でも最も良かった時代に思える。日本経済とその将来にすごく自信があった。米の学者が21世紀をジャパンアズナンバーワンと言ったのはこの直前である。日本は先進国の中でも優等生だった。石油危機では狂乱物価となったが、その経験から第二次石油危機(1970年代末期)はうまく乗り切り、先進国の模範だった。当時、どうして日本はこのようにうまく対応しているのだろうと不思議に思ったのを覚えている。バブルとは文字通り泡、泡沫のインチキ景気だった。だ頃から泡と消えたのである。当時は浮かれていて、懐かしく思う人がいるかもしれないが、言ってみれば薬物、ドラッグで恍惚状態によって幸せな気分になっていただけである。バブルの崩壊は今にまで影響を及ぼしている。バブルがなければ、もっと今の日本は良いはずと言ってもしょうがないが。小説の舞台の1980年は今とどう違うのか。すぐ思いつくのは外国へ行くことはほとんどできず、日本には外国人なんて珍しかった。日本とアメリカが経済では二大国で、ヨーロッパはEUを作って追いつこうとし、ソ連は末期で話題にならず、中国は鎖国状態のようなもので情報は入らず、韓国は70年代からの岩波新書の『韓国からの通信』によって独裁国家で韓国民は虐げられているというイメージしかなかった。半世紀前は本当に夢のように感じる。その頃、雰囲気的に最先端のまちがこの小説の舞台である六本木だった。今は全く日本も六本木も変わってしまった。古き良き時代の一つの記録である。

2024年12月20日金曜日

和辻哲郎『日本倫理思想史』 昭和27年

和辻による日本思想の通史で、神話時代から明治まで及ぶ。

和辻は倫理を個人の思考内の問題と考えずに、人との間柄の問題と捉えた。そのため倫理思想史と言いながら政治思想史と呼んでも差し支えない内容である。個々の叙述の、現在での妥当性に関する評価はできないが、ともかく読みやすく日本の思想史の全体像を掌握するのに良い著作である。他にも日本思想史と題する本は岩波新書やミネルヴァ書房のものなど読み始めたが、興味が続かず読むのを途中で止してしまった。(岩波文庫、4冊)

2024年12月19日木曜日

激流 昭和27年

谷口千吉監督、東宝、96分、白黒映画、三船敏郎主演。三船がダムの工事現場に着くところから始める。

岩手の花巻温泉の近くである。ダムの食堂で働いている久慈あさみに会う。ダムの工事によって村が水没する部落の反対派がいる。兄の借金のため芸者として働かされている女がいる。若山セツコは男に捨てられ、子を孕んでいて親から疎んじられている。三船の婚約者が都会から来るが工事の現場にかなり困惑する。

工事が早く済むと損する連中は工事を遅らせるため、工事現場に爆弾をしかけようとしている。それに使われたのが、若山が好きで結婚したい、そのための金が欲しい風来坊である。直前に分かり、三船が爆弾を消そうと現場に入る。全部消せずに爆破し三船は怪我をする。ダムが完成する。三船の婚約者から手紙が来て婚約を解消したいとある。本来は都会に戻り結婚する予定だったが、この手紙で他の連中と共に次の工事がある九州に向かうこととする。

2024年12月17日火曜日

ガードナー『ビロードの爪』 The case of the velvet claws 1933

自身が弁護士であったE・S・ガードナーのペリー・メイスンシリーズの第一作。

メイスンの元に女依頼人が来る。ある事件が起きた時、既婚者の自分と政治家が一緒にいた。それを赤新聞にゆすられている。なんとかして欲しい。女は自分のことは偽名で通している。秘書のデラ・ストリートは依頼人を嫌う。メイスンは調査に乗り出す。女の旦那は実力者で、実は陰で赤新聞を牛耳っていた。

夜中に女から電話がある。夫が殺されている。メイスンは女と会い、その家に行く。旦那が風呂場で銃で撃たれ死んでいる。狡猾な女は夫が誰かと一緒にいた、相手の声は聞こえた、その声はメイスンだと言う。ともかく嘘しか言わない女依頼人で、メイスンを事件に巻き込もうとする。秘書は女をビロードの下に爪を隠していると非難する。メイスンは実は夫を殺したのは女だったと見破る。女も認める。夫の残した財産は殺害者なら当然受け取れるはずもない。その後更にメイスンは事件のからくりを追い、最後に真相が明らかになる。ハードボイルド的な小説だが、犯罪の謎解きは普通の推理小説と変わらない。(山下諭一訳、世界推理小説大系、講談社、昭和47年)

2024年12月16日月曜日

幸田露伴『対髑髏』 明治23年

初めの題は『縁外縁』だった。大正五年に標記の題に変えた。

上州下州の境の山中、露伴は歩いているうちに日が暮れる。一軒家を見つける。問うと若い美人が出てきた。泊まらせてもらえないか、初めは断られたが、後に承諾する。こんな山の一軒家で稀な美人が一人住まいである。当然疑問が湧いてくる。布団を出してもらうと豪華な代物である。ますます露伴は驚く。それに寝ていると女はいつまでも起きているらしい。これは女の布団を自分が使っていると分かり、起きて女に布団を使ってくれと言う。女と露伴がお互いに布団を勧めあう。露伴は女の素性を尋ねる。

女は元は両親と暮らしていた。しかし父親が死に、後に母親も亡くなる。女はこの世に未練がなく、早く親の元に行きたいと思うようになる。女は非常に美人であったため、見染められた。華族の息子で将来が嘱望されている男である。しかし女は嫁に行く気はないと断る。ついに相手の男は恋煩いで病に伏せる。その家の使いが来て若様が危篤だから来てくれと頼まれる。女は行くが男は死んだ。女は家を出てこんな田舎に来た。明くる朝、露伴が起きてみると泊まった家などなく、髑髏が地面にあるばかりである。露伴が村に出て聞いてみると以前、癩病の女がこの地に来たと分かった。(新日本古典文学全集明治編第22巻、岩波書店、2002年)

2024年12月14日土曜日

真昼の暗黒 昭和31年

今井正監督、現代プロダクション、124分、白黒映画。八海事件を映画化した。二審判決で被告らに一審と同じ有罪判決を受けた後、弁護士の正木ひろしが著書『裁判官』を著した。この本を元に映画化した。そのため映画の最後は被告がまだ最高裁があると叫ぶところで終わっている。

まず映画は事件後、警察が現場を調べ、このような事件は単独犯では無理だと判断するところから始まる。犯人が遊郭にいるところを捕まる。警察の取り調べで犯行までの状況を供述する。警察は共犯者を言えと迫る。最初は否認していたが。知人の容疑者たちが捕まる。警察は拷問で自白させる。家人や恋人らの心配がある。裁判では二審で検事の糾弾の後、弁護士が弁護を始める。いかにこれまでの事件の経過というものが非現実か弁じる。判決に先立ち、家人らは無罪判決がとれるものと思い裁判所に出かける。ところがやはり有罪判決だった。被告の一人が母親に会い、母親が泣き崩れ、被告はまだ最高裁があると叫ぶ。

2024年12月12日木曜日

岸本佐知子『ねにもつタイプ』ちくま文庫 2010

翻訳家の岸本佐知子が書いた随筆である。

少女時代の空想妄想から現在の色々な感想を述べていて興味がある。普通なら気にしないもの、事柄へのこだわりを書いている。改めて考えると世の中おかしな、理解できないことは多い。それらを軽妙で読みやすい文で綴る。文章が読みやすく面白いと思わせるのが本として一番重要であると信じる。

2024年12月11日水曜日

海の牙 Les maudits 1947

ルネ・クレマン監督、仏、105分。第二次世界大戦の末期、オスロからドイツの潜水艦が南米に向けて出発した。戦局悪化の中、南米にナチの新拠点を作るつもりだった。

乗り込んでいるのは雑多な人々であった。イタリア人の富豪と結婚している女は潜水艦の将校の情人だった。その女が事故で怪我をする。医者は同乗していない。フランスに一時的に上陸し、近所の医師を拉致する。この医者が主人公で、映画は元の故郷に戦後戻ってきたところから始まる。医者は女の治療をする。もう潜水艦は潜航を始めていた。これで医者は否応なく潜水艦の一員となった。

そのうちにドイツが降伏したという情報が入る。南米に着き、現地の工作員に連絡するが何の返事もない。複数の者が上陸してその連絡員に会う。もうドイツの時代でないと言われる。その男を殺し、潜水艦は再び出航する。燃料がもうない。ドイツの船に連絡がとれ、給油してもらうこととなった。給油後、敵方に渡さないため船を破壊する。潜水艦の中では乗組員が反乱を起こし、潜水艦を捨ててボートで逃げ出す。医師は捉えられていたため、潜水艦に一人残される。後に米軍に助けられる。

If もしも・・・・ If…. 1969

リンゼイ・アンダーソン監督、英、111分、マルコム・マクダウェル主演。イギリスのパブリック・スクール。学校の教育やその他の出来事が描かれる。

マクダウェル扮する反抗的な不良生徒は、他の者らとつるみ問題を起こしていた。学外でも販売店からオートバイを店の者の前で盗み出し、郊外に行く。そこで働いていた女子を乱暴に引き寄せ、恋人にする。軍事教練があって、神父に模擬用でなく銃で脅し怪我をさせる。校長に呼ばれ油を搾られる。学校の記念行事の日、父兄だけでなく、先輩の軍人が来ている中、マクダウェルらはあの女子も加え、屋根の上から機関銃を浴びせかける。校長をはじめ多くの者を餌食にする。

異邦人 Lo straniero 1967

ルキノ・ヴィスコンティ監督、仏伊、104分、マルチェロ・マストロヤンニ主演。カミュの小説の映画化。

仏の植民地時代のアルジェ。マストロヤンニは母が死んだ知らせを受ける。葬式でも特に感慨はない。同僚の女と遊びに行く。泳いで、喜劇映画を観る。友人がアラブ人の女といざこざを起こす。女の兄らから友人は脅迫を受ける。銃を用意した。マストロヤンニはその銃を預かる。海岸を暑い日差しの中を歩いていたマストロヤンニ。友人を脅迫したアラブ人がいた。マストロヤンニは銃を出し、何発も撃つ。裁判になる。なぜ殺したか聞かれ、太陽のせいだと答える。検察は被告は母親が死んだのに、女と喜劇映画を観ていたと非難する。死刑の判決が下る。ギロチンによる死刑である。執行の前、神父が現れるが論争する。

トーマス・オーウェン『黒い玉』創元推理文庫 2006

ベルギーの小説家トーマス・オーウェンによる怪奇短編集。

副題に「十四の不気味な物語」とあるように14の短編から成る。不気味と言えばそうだが、気味の悪い話と言ってもいいかもしれない。必ずしも日常の中にある不気味だけでなく、超常的な話もある。14の短編の中、例えば読んで記憶に残っているのは『公園』という話。公園で女が襲われた事件があった。主人公の少女はある老人を危険視していた。その老人が近づいて来た時、少女はナイフで刺した。崩れる老人。しかしその際に誰か他の者によって公園の中に引きずり込まれていた。あるいは『売り別荘』では語り手はある別荘をそこの老人に建物の中を案内される。盛んに老人はかつての妻についてしゃべる。最上階まで連れてこられる。ある箪笥の前に陣取り、それを開けさせない。語り手は死んだ妻の死体が入っていると思い込む。老人は部屋から逃げ出し、そこには妻の死体などない。老人はこうやっておびき寄せたのはお前で何人目だと扉の外から叫ぶ。こんな話が14続く。

『江戸川乱歩座談』中公文庫 2024

江戸川乱歩が参加している座談、対談を集めている。

このうち戦前の座談会が2つある。戦前の有名な作家たちが参加している。最初の座談は昭和4年に行われている。我が国の探偵小説(推理小説)がまだ若かった時代であり、今ならできない、する気も起きない、探偵小説についてのそもそも論を話し合っている。後の「明日の探偵小説を語る」の座談会は昭和12年であり、本格的な戦争の始まった年でこれ以降、終戦まで探偵小説が逼塞状態に置かれたのは周知のとおり。

話し合っている内容を見ると探偵小説をどう捉えるか、が前提となっている。巻末の参考資料「論なき理論」(p.437~)で大下宇陀児が、探偵小説はその定義をいつまでも議論している、と言っている。自分の理解を書けば、例えば事件(犯罪)が起こり、探偵が現れ、謎解きが最後にある、といった総論的な話をしてもしょうがなく、読者がそれを探偵小説と見るか、の話である。例として『アクロイド殺害事件』に対して小林秀雄は怒っている。(p.365~)アンフェアだと。読者に詐欺を働いていると。この小説、本当に感心したので、小林の意見には驚いた。しかしそういう反応もありうるとは思った。花森安治や作家の海野十三、小栗虫太郎も同様の意見らしい。(p.413、p.108)本書で盛んに議論している探偵小説の在り方について、ここの時点から遠い将来に、東野圭吾の『超・殺人事件』という小説がある。これは現在の推理小説界の戯画化、つまり茶化した本なのであるが、現在の推理小説を読んでこれが推理小説なの、と思っていた自分には腑に落ちたところがあった。真面目に議論している本書のような時代から、東野本のような物が出る時代になっている。

戦後では乱歩の還暦祝い(昭和29年)を木々高太郎、城昌幸らがしている。芸者が入る席で、個人的恋愛観なども書いてある。「探偵小説新論争」(昭和31年)は木々高太郎、角田喜久雄、中島河太郎、大坪砂男らの座談会。こういう論を好きなのが推理小説好きなのだろう。本書中興味を感じたのは「文壇作家「探偵小説」を語る」(昭和32年)で、普通の小説家、梅崎春生、曾野綾子、中村真一郎、福永武彦、松本清張の座談会。探偵小説の創作家でなく、読者である一級の小説家の議論。松本清張は『眼の壁』の発表時期である。「「新青年」歴代編集長座談会」(昭和32年)は、あの時あの人とどこそこで会った、といった類の回想が多い。

以下は対談で「E氏との一夕」(昭和23年)は稲垣足穂との同性愛を巡る議論。「幽霊インタービュウ」(昭和28年)は長田幹彦(戦前からの作家で戦後は心霊学に関心を持った)との心霊実験に関する対談。乱歩は心霊実験に懐疑的否定的である。「問答有用」(昭和29年)は徳川無声(無声映画時代の弁士で後、俳優になった)との対談、軽妙洒脱で読んでいて一番楽しい。乱歩はこの時点で自作のうち『心理試験』『陰獣』『押絵と旅する男』『パノラマ島奇談』『鏡地獄』をベストとして挙げている。「幸田露伴と探偵小説」(昭和32年)は文豪の娘で自身も小説家である幸田文との対談。露伴が探偵小説に興味があり、私生活でシャーロック・ホームズもどきの推理をしていたなどと知り、乱歩と同様全く驚いた。「ヴァン・ダインは一流か五流か」(昭和32年)は小林秀雄との対談。先にアクロイドの評価を書いたが、将棋が機械では人間に勝てない、という主張は時代のせいもあるだろう。また題になっているヴァン・ダインは探偵ファイロ・ヴァンスが嫌いらしい。探偵小説に心理的な要素を入れたのを否定しているが、議論のあるところと思われる。「樽の中に住む話」(昭和32年)は佐藤春夫、城昌幸との対談。乱歩は推理小説を書き始めた当時、谷崎潤一郎、芥川龍之介と並んで佐藤春夫に影響を受けたとある。「本格ものの不振打開策について」(昭和33年)は花森安治(雑誌「暮らしの手帖」の編集者で昭和時代は結構有名な文化人だった)との対談。回顧談の他、題にあるようにいかにして本格推理小説を盛んにするか、を聞いている。

本書を読んで世の中推理小説好きは多いと改めて知り、なぜこんなに推理小説は読まれているのだろうかと思った。なお本書でアクロイドやYの悲劇などはネタバレが書いてあり、これらのような超絶有名作品は読んでいる読者が対象である。


2024年12月9日月曜日

正木ひろし『八海事件』

八海事件とは、昭和26年に山口県の東南部、瀬戸内海に近い八海という地区で起きた強盗殺人事件である。64歳の老夫婦が殺害され現金が盗まれた。

犯人は割と早く捕まり自供した。ところが司法側が単独犯行でないと思い込み、被疑者に共犯者の名を言うよう強要し、被疑者は知人ら5人の名を挙げた。これによってその者たちが逮捕された。裁判では全く関係ない者に死刑判決、犯人らに無期や有期の判決が下った。当然控訴する。犯人は二審で無期に服した。他の者らは当然さらに裁判を続け、最終的に無罪が最高裁で下されたのは19年近く経ってからだった。

弁護士の正木ひろしは無実で死刑判決を受けた被告から手紙をもらい弁護を頼まれる。事件を調べて、被告らの無実を信じるようになった。しかし一審も二審も有罪判決が出た。正木はこの八海事件の裁判を糾弾した著書『裁判官』を昭和30年、光文社のカッパ・ブックスで出す。更に翌年、同じカッパ・ブックスで『検察官』を出し検察が司法殺人を犯そうとしていると主張した。最終的に昭和43年に最高裁で、それまで争った被告全員に無罪判決が出て、裁判は終結した。正木はこれを受け中公新書で『八海事件』という書を出した。

事件が起きた当時二十代前半だった被告らは最終的な無罪判決が出た時には四十代になっていた。この事件を映画化した今井正監督による『真昼の暗黒』は『裁判官』をもとにしている。これら八海事件を扱った『裁判官』『検察官』『八海事件』は正木ひろし著作集第2巻(三省堂、1983年)に収められている。

2024年12月7日土曜日

ロジャー・コーマン デス・レース 2050 Death Race 2050

G・J・エクターンキャンプ監督、米、93分。未来のアメリカ。人口が増え続け、大陸横断の自動車レースでは、人をひき殺せば点数が上がるという規則であった。

数台の車の競争で、お互いをつぶそうと企む。またレジスタンスという組織がこのレースを妨害し、レーサーらを殺そうとする。フランケンシュタインというあだ名のレーサーは人気がある。同乗の補助員の女はレジスタンスからの回し者で、フランケンシュタインを殺そうとする。しかしフランケンシュタインに敵わなく、相手を知るうちに好意を抱くようになる。他の車は破壊され、フランケンシュタインの車のみゴールに入り優勝するが、仕切っている会長をひき殺し、会場は乱闘になる。

女奴隷船 昭和35年

小野田嘉幹監督、新東宝、83分、菅原文太主演。他に丹波哲郎、三ツ矢歌子ら。

第二次世界大戦末期、菅原は南方から使命を帯びて日本に向かうが、飛行機は撃墜される。ある船に救助される。その船は奴隷にする女を運ぶための貨物船だった。女ボスに三原葉子、また三ツ矢歌子は勘違いされてこの船に乗ったので、売られる運命になった。海賊船に襲われ、貨物船は沈没する。海賊の船長が丹波哲郎である。女たちは海賊船に移される。菅原は腕っぷしがいいので、丹波から一目置かれる。

海賊船は島に着き、女たちは競売にかけられる。焼き鏝を押されそうになるが抵抗して中止させる。買い主はアメリカの手先で、丹波らと争いを起こす。菅原は女たちを連れて逃げようと目論む。幾つかの争いがあって最後は菅原たちが勝ち、女たちと日本に向けて逃げ出す。

2024年12月5日木曜日

河村小百合『日本銀行 我が国に迫る危機』講談社現代新書 2023

著者は日本銀行に数年勤め、その後日本総合研究所に移った。黒田日銀体制による異次元金融緩和政策によって日銀や日本政府がどのような状態になっているかの分析である。

黒田日銀体制は物価増加率を2%に上げるべく、9年間、異次元金融政策を続けた。その結果はどうであったか。2%の目標は達成できなかった。ただ黒田前総裁等、担当者は日本経済は回復した、日銀の政策は正しかったと自画自賛のようである。ここでは達成できたかどうかの議論ではなく、異次元政策を長期に渡って続けた結果、日銀の資産負債状態はどうなったかに関心がある。発行される国債のほとんどを日銀が購入し、負債側では当座預金が圧倒的に多くなっている。かつて国債は負債の日銀券と同じ規模にするという決まりがあったが、現在では日銀券の4、5倍の国債を抱えている。

黒田前総裁は、出口戦略を問われても常に時期尚早と言うだけで具体的な回答はなかった。それは出口戦略はできないから、つまり予定通りに物価が上がり、金利が上がれば国債価格は暴落し、債務超過になる。その赤字は政府が補填補填する。各国中央銀行は一時的に異次元政策をとっても出口戦略を考えて対応してきた。それなのに日銀は全く頬かむりで知らん顔してきた。これを許してきたわが国のマス・メディアやエコノミスト(学者を含む)はどういうつもりだったのだろうか。

西野智彦『ドキュメント異次元緩和』岩波新書 2023

著者はジャーナリスト、時事通信、TBSに勤務した。

黒田日銀の金融政策の記録なのだが金融面からの分析というより、人事など下世話的な経緯を書いている。日銀にとどまらず、安倍政権など政治との関係の記述も詳しい。このような内容は関心があるだろうから、読者の期待に沿えるだろう。金融については啓蒙書が多く出ているが、ある程度の知識がないと細部まで理解できない。

21世紀に入ってからの経済の実態についてはほとんど金融面からの分析であり、良く理解できない人もいたと思われる。これは実名を出してそれらの者がどう思ったか、反応したか、の記述で読みやすい。

2024年12月4日水曜日

悪魔の受胎 Inseminoid 1981

ノーマン・J・ウォーレン監督、英、93分。宇宙が舞台で、宇宙人の子を受胎した女が巻き起こす悲劇。

某惑星で調査をしている一隊。事故が起き、二人が死ぬ。それを調査に行った者のうち、女は捉えられていつの間にか寝台に寝かせられ、女性器の中に管を入れられる。異星人が行なったのである。基地に戻ってきてから女は仲間を殺し始める。更に異星人を出産する。その後も隊員たちと戦い、とうとう殺される。女が産んだ新生児はその間、他の隊員を殺していた。後になって捜索隊がやって来る。なぜこのような大量の殺人が行なわれたか不明である。しかしいつの間にか、異星人はその捜索隊の宇宙艇に入り込んでいた。

フレッシュ・フォー・フランケンシュタイン/悪魔のはらわた Flesh for Frankenstein 1974

ポール・モリセイ監督、伊仏、92分。男爵は死体を集めて人造人間を作ろうとしていた。最も理想的な男女の人造人間を作る気でいた。頭が残っている。見栄えのよい男をさらってきてその頭を使う。

さらわれた男には男の愛人がいた(同性愛であった)。この愛人の男が男爵の妻兼姉に雇われる。この男も見栄えが良く、妻は自分の情人にもしている。その情人となった男が男爵が作った人造人間を見ると顔はさらわれた友人にそっくりである。女の人造人間をつくり男のそれと娶わせとするが、男の方は全く反応しない。同性愛者だったから。女の人造人間は助手が壊してしまう。また男爵も自分の作った男の人造人間に殺される。

2024年12月2日月曜日

愛欲の魔神島 Tower of evil 1972

ジム・オコノリー監督、英、89分。孤島に着いた船。上陸すると片腕が切られた男の死体、また首を切られた裸の女の死体が見つかる。ある部屋を開けたら、いきなり女が飛び出してきて、開けた男に剣を突き立てる。その女の精神は正常でなかった。

女の治療、過去の記憶を探る実験が行われる。催眠のようなもので過去、当該島で起きた残虐な殺しを思い出す。後になって、船で男女数人がその島に渡る。フェニキアの財宝があるかもしれないと期待してきた。島には人がいないはずだ。しかし再び、来た連中を襲う殺人が起こる。この島で死んだ夫婦、その赤ん坊も死んだと思われていたのだが、実は生きていた。その成人した男が島に来た人間を殺していたと分かる。

2024年12月1日日曜日

アン・ラドクリフ『森のロマンス』 The romance of the forest 1791

ラドクリフの出世作で1791年に出された。『ユドルフォ城の怪奇』の3年前である。

簡単なあらすじは以下の通り。17世紀、パリからラ・モット夫妻は夜逃げする。途中の宿で拘禁されていた少女アドリーヌを助ける。アドリーヌは実父からひどい仕打ちを受けていた模様。一行は森の中で見捨てられた館を見つけそこに住む。ラ・モットの息子ルイが来る。アドリーヌに気があるようである。後にこの館の所有者であるモンタルト侯爵が現れる。侯爵はいい歳だがアドリーヌを見染める。侯爵の部下であるテオドールとはアドリーヌは相思の仲になる。しかし侯爵はラ・モット夫妻にアドリーヌを我が物にせんとする手助けを要請する。館を提供されている夫妻は抵抗しにくい。アドリーヌは従者ピーターの手引きでその故郷サヴォワに逃げる。そこで神父ラ・ルック師の保護を受ける。テオドールは侯爵からアドリーヌを守るため、公然と反抗していたので窮地に陥る。最後の方は刻一刻と迫るテオドールの破滅に、アドリーヌ一派は救助できるか、といった映画的手法による展開である。

まず『ユドルフォ城の怪奇』に比べ、短いので読みやすい。少女が主人公であるのはユドルフォ城と同じ。ゴシック小説の一つであろうが、題名とおりロマンスといった感じの作品である。(三馬志伸訳、作品社、2023)

大岡昇平『現代小説作法』ちくま学芸文庫 2014

小説家の大岡昇平が昭和33年から翌年にかけて雑誌に公表したのが最初で、その後手を入れてきた。

ここでは小説を書く際には
、良い主題を持つ、さらに何が主題であるか、はっきりつかむ、これが重要であると述べる。これ以降は小説についての分析であり、作法の話でない。どう書き出すべきか、ストーリーとプロットの違い、主人公についてなど、小説を読んだり、分析する参考となる事柄を述べている。読み物として面白くいかにもためになるといった書物である。

2024年11月30日土曜日

マンディ 地獄のロード・ウォリアー Mandy 2018

パノス・コスマトス監督、ベルギー、121分。ニコラス・ケイジ主演。ケイジの妻の名がマンディ。

夫婦で田舎に住んでいた。ある時、マンディがカルト集団に見染められ、残酷な方法で捕まる。縛られたケイジの前で、マンディは生きたまま火をつけられ焼死する。ケイジは復讐を誓う。カルト集団の連中と一騎打ちで次々と対決、やっつけていく。ケイジもかなり傷づく。スプラッター風に残酷な殺し合い場面が続く映画。

クレアラ・リーヴ『イギリスの老男爵』 The old english baron 1778

ゴシック小説の 歴史の中でウォルポールとアン・ラドクリフの中間に位置する小説。

騎士フィリップはかつての友人をその城に訪ねる。するとその友人は既に亡くなっており、館は他人の手に移っていた。その今の館の主人にもてなされるが、友人を亡くした傷心で滞在する気は起きず、立ち去る。ただこの間、フィリップを世話してくれた青年エドマンド、近くの農家の者なのだが、にいたく惹かれる。非常に好青年と映った。館の主人もこのエドマンドを高く買い、息子と同様に遇している。息子は二人いて弟のウィリアムはエドマンドと親友である。兄のロバートはエドマンドを快く思っていない。更に従兄はもっとエドマンドに悪意を持っていた。エドマンドは自分の存在が屋敷に良くない影響を与えると思い、去る決心をする。

この館の古い部分は使われておらず、そこに幽霊が出るという噂があった。エドマンドは主人に言われ、そこで数夜過ごし、確かめることとする。すると実際に奇妙な体験をし、中に閉じ込められていた死骸を発見するが、隠す。後にロバートや従兄がそこで過ごすと恐怖のあまり逃げ出す。結局のところ、エドマンドはこの館の正統な領主の息子であると分かり、その義弟に殺された兄が農民に預けて育てさせていたのだった。悪徳な義弟は決闘で敗北し、エドマンドが正式な城主としておさまる。エドマンドはロバート、ウィリアムの相思の妹と結婚する。(井出弘之訳、国書刊行会、1982年)

2024年11月29日金曜日

バイヤール『読んでいない本について堂々と語る』ちくま学芸文庫 2016

邦訳名のような、読んでいない本について堂々と語るだけなら、今なら簡単な方法、インターネットがある。調べればどういう本かはすぐわかる。感想もAmazonのレビューを参考にすればよい。それでも書名を見て興味を持つ人は多いと思われる。それは本だから何か有用なことが書いてあるかもしれないと思うからだろう。著者はなぜこのような本を書いたか。著者は文学の先生で大学で教えている。本を読むのが好きでないとある。授業の際、色々な本を話題にする。その本を読んでいない場合が多い。そういう読まずにコメントするという経験から、論じてみたとある。著者のような立場の人は少ないだろう。本を読むべき、は常識化している。ただそう思っても読む気になれない、時間がない。それで読まないまま来ている。そういう人は本書に対して次のような期待が働くのではないか。1)本をきちんと読まずに内容をつかむ手法等が書いてあるのかもしれない。2)そもそも本など読まなくてもいいという主張が書いてあるかもしれない。

正直なところこの期待は大して応えられていない。読まないで済ます方法が全く書いていないわけではない。例えば「共有図書館」と著者がいうのは(p.35あたり)、自分で思いついた例では『古今和歌集』について論じるのに『古今集』そのものの精読が必要になるわけでない。『古今集』の前の『万葉集』との関係、後の『新古今和歌集』に与えた影響、それで足りなければ他の八代集との関係を言えればいいのである。本というのはそれだけで孤立しているのでなく、関連する一連の図書との関係が重要だからだ。また「ヴァーチャル図書館」なる言葉が出てくる。(p.194あたり)ある本について話し合う場合、どちらか一方、あるいは双方とも当該図書をろくに知らなくても、議論はできると言いたいらしい。つまり著者の関心は、読んでなくてもコメントできる、批評できるという点である。

本書で著者が一番主張したかったのは、本を読まなくても差し支えない、という消極的、妥協的な意見でなく、本など読まない方が望ましい、と理解した。最初の方にヴァレリーがプルーストを読まずに批評して、読んでいないからこそ良い批評になった、と書いてある。これはヴァレリーのような天才だから可能なのであって、普通の者がそれを真似していい批評が書けるか、と思ってしまう。本書名を見て『吾輩は猫である』の初回で美学者迷亭がする与太話を思い出した人は多いのではないか。読むと驚くべきことにまさに迷亭の話が引用されているのである。迷亭はハリソンの歴史小説『セオファーノ』を引用し、この小説を読んでおらずに女主人公が死ぬ場面云々とでたらめを言う。苦沙味が相手が読んでいたらどうするのだと問うと、その場合は他の本と間違えたと言えばいいと答える。ここのところで、著者は迷亭が答えたように間違いを認めるよりも、いろんな理屈をこねくりまわして、でたらめ発言を擁護している。自分には要約できない。新しい話を創造したので価値があるといいたいのか(そうでもないようだが)。本当にこの著書は何が書いてあるか、非常に分かりにくい書き方をしている。この「本など読まない方がより望ましい」という意見をもっと明瞭に分かりやすく主張すればかなり価値のある本になったと思う。この本はいかにも本を読ませずに済ませる方法を書いてあるように見せかけ、それを望んでいる読者をつかんでベストセラーを狙い、主張はかなり分かりにくい。難解な本を高級だと思う人が結構いるので、それを考えてこんな分かりにくい本にしているのかとも思ってしまう。とにかく著者のようなコメントしたり、批評をしたりするという立場ならきちんと本を読まなくていいとは、確かにそうだと思う。


2024年11月26日火曜日

不良少女モニカ Sommaren med Monika 1953

イングマール・ベルイマン監督、瑞典、94分、白黒映画。青年と少女の恋物語。

青年(少年に近い)は勤め先でいじめを受け仕事に嫌気がさしている。少女モニカは家が騒がしく、以前から不良との付き合いがある。二人は好き合う。青年は仕事を馘になり、モニカも家を飛び出す。二人でモーターボートに乗って自由な生活を満喫する。しかしそのうちモニカが妊娠する。必要な食べ物がなく、モニカは別荘に忍び込むが家人に捕まる。食べ物を取って逃げ出す。青年とまた一緒になりボートで逃げる。生まれてくる子供のために、もう家に帰るしかない。

元に戻って二人は結婚する。赤ん坊が生まれる。青年は仕事に精を出すが、モニカは全く自由のない、何も贅沢が出来ない生活にうんざりする。元の彼氏と不倫しているのを青年に発見される。二人は口論し、離婚する。赤ん坊は青年が育てる。

2024年11月23日土曜日

第27囚人戦車隊 Wheels of Terror 1986

ゴードン・へスラー監督、米英丁、105分。デンマーク製のアメリカ人監督によるナチス・ドイツの戦車隊を描いた映画。囚人らは戦役に就くことで刑務所からは出される。戦車に乗る。囚人らのかなり毒々しい会話や行動がある。上官は嫌味の権化のような人物である。成果を挙げれば、罪は帳消しになると約束する。

ロシヤの列車爆破の任務に出る。敵方戦車との戦いがある。敵の武器庫で銃器を手に入れ、ロシヤ兵の軍服で近づく。最後は列車を破壊する。元の軍に帰還したが、上官らは少しも喜んでいない。その時、基地に敵の空襲がある。上官らを兵士らは銃撃する。

ビートルジュース Beetlejuic 1988

ティム・バートン監督、米、92分、マイケル・キートン、アレック・ボールドウィン他。田舎に別荘を作って優雅な生活を送るはずだった、ボールドウィンと妻は交通事故で死んでしまう。幽霊になる。元の家は観光用に改造されている。脅そうとしても幽霊は生きている人間には見えず効果がない。

新しく家を占領している夫婦の子供、ウィノナ・ライダーは孤独な人格でライダーには幽霊が見える。生きている連中を脅かそうとビートルジュースなる幽霊を使ったが、問題ばかり起こしている問題児だった。最後には幽霊夫婦と生きている連中とはうまくやっていくようになる。

牛泥棒 The ox-bow incident 1943

ウィリアム・A・ウルマン監督、米、75分、ヘンリー・フォンダ主演。1886年のネヴァダの町にフォンダと友人がやって来る。当てにしていた女には会えなかった。そこにここの男が殺され、牛が盗まれたという情報が入る。

殺された男の友人はすぐ復讐に行こうとする。しかし捜索隊を立てて保安官の指導の下に行かなければいけないと言う者がいる。今保安官は不在である。副保安官が率いて捜索に出た。夜、寝ていた数人の男たちを見つけ起こし、縛り上げる。男らは身に覚えのないと言い張る。しかし来た連中は納得しない。裁判にかけろと要求するが聞き入れられそうにない。最後は多数決で裁判をするかどうか決める。フォンダらは裁判に賛成の立場だったが、少数派となった。そこの場所で私刑をすることになった。犯人と目された男は家族に手紙を書く。

処刑が終わって帰る途中、保安官が来る。そこで処刑した連中が無罪だったと知る。町に帰り、酒場でフォンダは男の書いた家族あての手紙を読み上げる。フォンダらは家族の元に手紙を届けるべく酒場から出た。戦争中の映画なので戦争への募金を呼び掛ける文が最後に出る。

2024年11月22日金曜日

アイ、トーニャ  史上最大のスキャンダル I, Tonya 2017

クレイグ・ギブスピー監督、米、120分、マーゴット・ロビー主演。実際の事件を映画化している。主人公のトーニャ・ハーディングはフィギュアスケートの選手で、全米一位にもなったことがある。オリンピックを目指して猛練習をしていた。しかしこれまでの経験から審判員はトーニャに好意的でないと感じている。スピードや高さは抜群であるが、芸術性が足りないと評価されていた。

事件はトーニャのライバルの選手が脚を打たれて負傷したというものである。これにトーニャの関与があるとされた。トーニャはオリンピックに出場できたものの、順位は振るわず、オリンピック後に裁判でフィギュアスケートから追放された。その後レスリングなどをした。

映画はトーニャの母がステージ・ママで幼い日からトーニャにフィギュアスケートを仕込む。長じて結婚した相手が、その自分の夫の友人がライバルの選手を襲った。そのために事件に関わり合いがあるとされた。トーニャが技を磨き三回転を成功功させるなとの見どころがある。

野矢茂樹『言語哲学がはじまる』岩波新書 2023

20世紀の哲学は言語論的展開と言われ、言語哲学が大いに流行った。この言語哲学に貢献した三人の哲学者、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインの論について解説をしている。

順番に夫々の哲学者がどう理論を展開したか、それを説明する。著者はウィトゲンシュタインの専門家であり、ウィトゲンシュタインは前二者の議論を踏まえているので、ウィトゲンシュタインの言語理解が最も優れていると本書では読める。それにしても言語という誰もが普通に使っているものを、こうまで厳密に議論しようという取り組みには感心する。読書の途中でいったん間を空けてしまったので、以前読んだところが良く覚えておらず、全体の理解に支障が出た。続けて全体を通読しなければいけない類の本である。

岡本太郎、宗左近『ピカソ「ピカソ講義」』ちくま学芸文庫 2009

元は朝日出版社のLecture booksの一冊として昭和55年に出された。岡本太郎にピカソについて評論家の宗左近が聞き、対談する。

岡本は戦前成人になるかならないかの時期、フランス、パリに行きピカソを含む当時の芸術家や知識人と交わった。岡本が自分の経験を長々と話し、ピカソについても語る、といった感じである。あとがきで岡本は外からピカソを論じても意味がないという。いかに自分の中に感動を呼び起こしたか、が重要である。絵画など美術は視覚芸術であるから、理屈で議論する、したくなるのが普通だろう。岡本はあくまで感動する、それが美術に対する態度であるとみなしている。

相手の宗左近は美術評論もしているので、自分のピカソ論なるものをする。必ずしも議論をするというより、自分のピカソを両者が語っているという感じの対談である。

2024年11月20日水曜日

散り行く花 Broken Blossoms or The Yellow Man and the Girl 1919

D.W.グリフィス監督、米、74分、無声、リリアン・ギッシュ主演。ギッシュの父親は拳闘選手でいつもギッシュに暴力を振るっている。中国から青年が来る。仏教の教えを広める目的だった。

ある日、ギッシュが粗相すると、いつにもまして父親はギッシュを打擲した。ギッシュは家を出て、たまたま中国青年の店に入ったところで倒れる。中国青年はギッシュを介抱する。以前からギッシュを見かけていて、その美しさに惹かれていた。ギッシュは気づき、青年が世話してくれると知り、こんなに優しくされた経験はないと言う。中国人の2階にギッシュが療養しているとある男が知る。男はギッシュの父親にそれを告げる。父親は拳闘の試合が終わってから、うちに戻りギッシュがいない、教えてもらった中国人宅に行くとギッシュは寝ている。父親は狼藉の限りをつくし部屋を壊し、ギッシュを連れていく。

青年が帰ると部屋は破壊されギッシュはいない。ギッシュの家を知っているので行くとギッシュは虫の息だった。隣の部屋にいた父親が来て、青年に襲い掛かろうとする。青年は拳銃を取り出して撃ち父親は倒れる。青年はギッシュを自分の家に連れ戻す。警官が後に来て父親殺しを捕まえようとする。青年はギッシュを寝台に乗せ、自分も死ぬ。

バオ・ニン『戦争の悲しみ』 1991

バオ・ニンはヴェトナムの小説家で本名はホアン・アウ・フォン、1952年生まれ。『戦争の悲しみ』は1991年に出されたヴェトナム戦争を描いた小説。

ヴェトナム戦争を描いたといっても戦争それ自体を対象とした小説ではない。もちろん戦闘の描写もあるが、戦争が主人公など人々に与えた人生の破壊、恋人との離別、過去の体験が今に及ぼしている苦悩などを時間を行き来する手法で書いている。主人公は小説家で過去の経験を小説にしている。これは作者バオ・ニンが小説の中に現れているかのような印象を与える。作者もヴェトナム戦争で戦った。ヴェトナム戦争が終了してからの時点で小説は始まる。主人公と幼馴染の恋人との恋愛が小説の通底にある。ヴェトナムは戦勝国でありながら人々にこのような悲劇をもたらした。

この小説の評価とは全く別の話だが、日本は前の戦争で敗戦し、日本国、日本人は犯罪者になった。だから例え才能がある人がいたとしても日本ではこのような戦争文学は書けないと思った。(井川一久訳、河出書房)

2024年11月19日火曜日

残雪『暗夜』 2006

残雪は中国の女流作家(1953年生まれ、本名は鄧小華)、本書は短編集で『阿梅、ある太陽の日の愁い』『わたしのあの世界でのことーー友へ』『帰り道』『痕』『不思議な木の家』『世外の桃源』『暗夜』の7編を含む。カフカ的不条理の世界である。

このうち比較的長い『痕』は、題名が主人公の名で、むしろ織をしている。そのむしろを買いにくる不思議な男がいる。痕の村での付き合い、評判が悪くなっていき・・・という話。集の名に選ばれている『暗夜』は語り手が希望していた地に、連れて行ってもらえるようになる。夜出発する。いくら経っても着かない。不思議な体験をする・・・といった話。(世界文学全集 Ⅰ-6、近藤直子訳、河出書房)

2024年11月18日月曜日

連鎖犯罪/逃げられない女 Freeway 1996

マシュー・ブライト監督、米、102分、リース・ウィザースプーン主演。ウィザースプーンは不良少女である。母親が娼婦をしていて義父も犯罪保釈中。警察が客引きしている母を逮捕、更に義父まで連れていかれる。ウィザースプーンは福祉局の担当官をだまし逃げる。その間、ウィザースプーンの恋人である黒人は別の不良に銃で撃ち殺される。

車がエンコし、通りがかった、キーファー・サザーランドに自分の車に乗るように誘われる。不良少年の補導をしていると言う。車の中で話しているうち、嫌なことを聞かれウィザースプーンが抵抗すると、サザーランドの態度は一変し、かみそりで押さえつけられる。サザーランドは娼婦連続殺人の犯人だった。隙を見てウィザースプーンは持ってきた拳銃をサザーランドに突き付け、首を銃で撃つ。後ろから何発も撃ち、殺したかと思ったのだがサザーランドは実はまだ生きていた。後にサザーランド殺人容疑で逮捕、施設に入れられる。そこで暴れ、仲間と一緒に逃げる。

サザーランドについて警察が捜査し、ウィザースプーンが言ったように連続殺人犯だったと突き止める。妻のブルック・シールズは驚きのあまり自殺する。ウィザースプーンは祖母の家に着く。サザーランドは先回りして祖母を殺していた。ウィザースプーンも殺すつもりだった。二人の格闘が続き、最後はサザーランドの首を絞める。刑事二人がやってきて、最終場面ではウィザースプーンと刑事二人がほほ笑む。

2024年11月16日土曜日

身代金 Ransom 1996

ロン・ハワード監督、米、122分、メル・ギブソン主演。航空会社の社長のギブソンの一人息子が攫われる。身代金の要求が来る。FBIの指示に従って金を渡すつもりだったが、引き渡しの現場で現れた男を、空中からヘリコプターでFBIが急に出てきて、撃ち殺してしまう。ギブソンは怒る。

再度犯人から電話があり、金を持って車で行く途中、気が変わる。テレビ局に緊急で出て、犯人に身代金を渡すつもりはない、この金は犯人を捕まえる懸賞金にすると言い出すのである。妻やFBIは金を渡してくれと頼むが聞き入れない。再度声明を出し、懸賞金は2倍にすると言い出す。犯人と電話でお前に金を渡す気はないと言う。電話口に誘拐した息子を呼び出し、犯人は銃をぶっ放す。てっきり息子を殺害したかと思い、夫婦は絶望に陥る。

犯人は逃げ出そうとする仲間たちを銃で殺す。それで誘拐した息子のそばで横たわり、警察が来ると犯人らを殺し息子を助け出したと言う。ギブソン夫妻は息子に再会でき喜ぶ。約束の懸賞金を犯人(刑事だった)が取りに来る。その時息子は犯人と気づき怯える。ギブソンも気づく。犯人は銃を取り出し金を出せと言い、二人で銀行に行く。銀行に行って手続きをしている間、警察やFBIが来る。犯人は逃げ出す。ギブソンは追い、格闘して抑えたかと思ったが相手は脚から銃を取り出し撃とうとするので、ギブソン、FBIとも犯人を撃ち殺す。

2024年11月14日木曜日

中野翠『ウテナさん祝電です』新潮文庫 平成2年


随筆家、中野翠の本で元は昭和59年に出ている。著者にとって2番目の本だそうだが、文庫化されたのは本書が初めてである。

この本は昔、買って読んだのだが、また当時の装丁は異なっていたのだが、久方ぶりに読んで幾つかの箇所は思い出した。著者はこの本を闇から闇へと葬りたい種類の本だと文庫版のまえがきで書いているが、極めて著者らしい文が載っており、著者の本を多く読んだつもりの自分としては代表作にしてもいいのではないかと思った。よく処女作には著作家の凡てが入っているというが、本書もそうではなかろうか。

島田裕巳『宗教消滅』SB選書 2016

現在、宗教がかつてに比べ、人々の生活や意識から非常に薄くなっている。存在感が低下しているのは誰でも気づいているであろう。この実態を日本だけでなく、世界各国の実際、更に既存の伝統ある宗教だけでなく、新興宗教についても調べている。日本で寺院との関わり合いが現在低下しているのは誰でも知っているであろう。これは仏教だけでなく、戦後著しく成長、巨大化した新興宗教についても同様である。数字を挙げて、PL教団、創価学会の他、新興宗教が今如何に信者を減らしているかを述べる。

更に西洋について言えば、観念的にキリスト教が盛んであるかのような印象を抱きがちだが、ヨーロッパのキリスト教の衰退ぶりは半端でない。教会が世俗施設に売りに出されたり、回教のモスクに変わっている例が少なからずある。ヨーロッパに比べキリスト教が強いアメリカでも信者数の低下は見られる。新興宗教が戦後、急速に数を伸ばしたのは高度成長で田舎から都会にやってきた者たちが心情的な絆を求め、宗教の側でも積極的に信者獲得を図ったからである。日本の新興宗教にあたる宗教は世界的に見ればキリスト教のプロテスタントの福音派だそうだ。これは資本主義化が進む各国で数を伸ばしている。しかし急速な経済成長が一段落すれば日本の新興宗教が増えず、減っているように、世界のプロテスタント福音派も数を伸ばせなくなるだろう。

ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』 The Private Memoirs and Confessions of a Justified Sinner 1824

スコットランドの作家ジェイムズ・ホッグ(1770~1835)によるゴシック小説の一つに数えられる作品。原題は『義とされた罪人の手記と告白』でこの題で白水社から出ている。『悪の誘惑』とは昔出した時、出版社が直訳の題では不適当とし、こうなったとある。『悪の誘惑』ではあまり一般的で直訳の方が良いと思うが。

小説の舞台は17世紀末から18世紀初頭のスコットランド。領主の二人の息子は対照的な人間だった。兄は快活なスポーツマン、弟は宗教に凝り固まった傲慢な男となる。二人は別々に育てられ、長じてからの衝突が描かれる。第二部では同じ経緯を別の観点から見た記述がある。弟は不思議な男に出会い、感銘を受け心服する。外国人のようでありロシヤのピョートル大帝かと思い込む。弟はその男にそそのかされ、神からの使命に突き進んでいく。名誉革命後のスコットランドの宗教対立を承知していればより深く理解できる。(知らなくても読めるが)

20世紀初めまで忘れられていた小説であり、アンドレ・ジイドの序文はネタバレがある。現在では当時のスコットランドを代表する小説の一つとされているとのこと。(高橋和久訳、国書刊行会、2012年)

2024年11月12日火曜日

ギッシュ、ピンチョン『リリアン・ギッシュ自伝』 Moveis, Mr. Griffith, and me   1968

無声映画期のスターであるリリアン・ギッシュの自伝である。題名に映画、グリフィス氏とあるようにギッシュはグリフィスに見いだされ、映画史の残る古典に出演し、その名を残したのでグリフィスの伝記も結構な部分を占める。

ギッシュは1896年、オハイオに生まれた。父親は早く失踪し、ギッシュと妹のドロシーは母親によって育てられた。母親は娘二人のために生涯を捧げた。ギッシュは母親をこの上なく称賛している。父親がいなくてもこれほどいい母親に恵まれたのは幸せだったと思う。母親とギッシュ姉妹は生活のため舞台に出ていた。アメリカのあちこちに行く。母や妹と別れて別の芝居に出ることもある。当然ながら当たらない舞台もあり苦労があった。映画の黎明期、あまり映画は評価されていなかった。グリフィスも初めは作家になるつもりで、映画への関わりは最初から熱心だったわけでない。ギッシュ姉妹は友人のメアリー・ピックフォードが出ている映画を見て、会いに行く。随分お金になると聞き驚く。その時、グリフィスに会い、それから映画に出るようになった。舞台に出ていたので、あまり映画を評価する気はなかった。これは後年、テレビが出てきたとき、映画に比べテレビが低く見られていたのを思い出させる。この後のリリアンの活躍は知られているとおりである。

無声映画に関心がある者、映画の黎明期はどのような感じであったか知りたい者には資料になるし、ともかく本書は読んでいて面白いのである。本では一番重要な点だろう。俳優の自伝を幾つか読んでいるが、高峰秀子の自伝(わたしの渡世日記)以来の面白さを感じた。文庫本になっていないのが残念。(鈴木圭介訳、筑摩書房、1990年)

2024年11月11日月曜日

岸本佐知子ほか『「罪と罰」を読まない』文藝春秋 2015

これは女3人男1人(岸本佐知子、吉田篤弘、三浦しをん、吉田浩美)による座談会、話し合いでドストエフスキーの『罪と罰』を題材とする。書名を見ると『罪と罰』を読まない!と決意表明、意志表示をするのかと思ってしまうが、それでは本にならない。『罪と罰』を読んだ人も大部分忘れてしまっているらしい。それなら読んでない者たちでも読書会を開けるのではないか。目的は数少ない情報をもとに、どんな物語か推理していく。読んでいない者だけが楽しめる遊びをしていく。読んでなくて、どんな話か、登場人物がどんな者か当てられたらよい、とのことである。

ここで直ちに思うのは、全く何の情報もなく徒手空拳で空想妄想を展開しても実際の筋にあたるわけない。もちろん有名な作品だから主人公が老婆を殺す話である、くらいは知っているであろう。要はヒントとして何を与えるか、である。まず最初と最後の本文の訳を示す。更に途中の各部から最後の部分とか、途中の部分の訳を与える。また参加者の一人が以前、影絵の短い『罪と罰』を見ていて記憶で何か言う。(ただしあまりあてにならない)こんな感じで話し合いが進んでいくので、当然ながらまとまらず、またずれていく。ヒントとなる部分が核となるところか(これは偶然に左右される)、参加者の推理力、洞察力が優れているかによって原作との適合具合は決まる。

ただこれを読んで次のような感想を持った。『罪と罰』と全く違った、別の面白い話になったら一番面白いのではないか。これは昔読んだ旅行記から思いついた。アメリカに行って演劇を観た。英語がよく分からないから、終わってから、関係者にこんな話ではないかと言ったら爆笑された。そっちの方が面白いから、その筋にしようと言われた。つまり英語が分からず誤解、勘違いをしたら瓢箪から駒になった。(小田実の『何でも見てやろう』で、記憶で書いているから正確でない)もちろん最初からウケ狙いではだめである。無理だろう。I have a dreamの世界か。

この本を面白く読むのは、どうしてずれたか、この参加者はどういったところに興味があるのか、などに関心を持ちながら読むことであろう。『罪と罰』の既読者は面白く読めるのは間違いない。読んでいない人はなぜ読むのだろう。読まなくても問題ないと思いたかったのか。本書は「読まない」座談会の後、登場人物の解説とあらすじが書いてあるが、インターネットですぐ分かるから必要ないと思う。それより参加者全員に会を終えての感想、どう思ってどう違ったのか、またこのような会合をしたいか、候補となる本はどれかなどを書いてもらいたかった。座談会ではよく発言する人もいればそれほどでない人もいるから。

更にこの後、実際に『罪と罰』を読んでからの、つまり普通の意味の『罪と罰』評があるのだが、これが一番ぶっとんでいる、というか驚いた。何しろ陰険な中年男のスヴィドリガイロフが人気なのである。悪役だからではない。小説でも映画でも悪役は人気である。そういう悪役ゆえの、個性ある人格として評価しているのでなく、劇ならヴィゴ・モーテンセンにやってもらいたいと、ヴィゴファンの三浦しをん(随筆で盛んに書いていた)が言っているのである。つまり異性として魅力あると言っている。更に好人物と思っていたラズミーヒンが全然良く思われていない。ここの評は考えさせられた。

2024年11月4日月曜日

ヴェデキント『春のめざめ』 Fuehlings Erwachen 1891

ルル二部作で有名なヴェデキントによる戯曲。青少年の性教育、男女の付き合い、大人たちの対応を描く。悲劇である。

友人たちによって交わされる、学校の進学、将来への希望、性に関する話などが出てくる。事件としては一人の男の生徒が自殺し、また女の生徒が妊娠し事故死する、が大きな要素である。大人や社会が悪いといっても何もならない。またあまり細かい事情で何々のせいと言ってもしょうがない。19世紀末のドイツの状況、当時を知る資料にはなる。今の若者の悩みにどう関わり合いを持つと言えるのか、十分理解できなかった。(酒寄進一訳、岩波文庫、2017)

2024年10月31日木曜日

血を吸う宇宙 2001年

佐々木浩久監督、オメガ・ピクチャーズ、85分。主人公は死刑囚の女で、こうなった経緯を教戒師のシスターに以下の物語を語る。

タクシーを飛ばして警察に行く。娘が誘拐されたと言う。しかし夫は娘などいないと言う。娘とは人形だと。しかし主人公は娘がいると言い張る。その時、いきなり女霊能師が現れ犯人から連絡があると言う。電話がかかってきて逆探知はできなかった。霊能師は娘の居場所を告げる。その場所に行くが家に入れない。選挙宣伝の車が来てその女宣伝員になりすまし家に入る。娘はいない。出てから選挙候補者の政治家は主人公を車に閉じ込め、行為に及ぶ。実は政治家は宇宙人で主人公は宇宙人の子供を孕む。

また主人公は不思議な男女二人組に出会う。男(阿部寛)は宇宙人の恋人に出会った経験がある。主人公の訪れた家は実は主人公の実家で、対応に出た婦人は母親だったのである。警察が来てから政治家の忠告で母親は主人公に真相を告げる。子供の名、みさとという名は火事で死んだ主人公の姉の名である。火事の後、引っ越し先で見つけた人形をみさとと名付け自分の娘としていた。更に政治家と母親が実は宇宙人だったと分かる。政治家の子供を産み、それは宇宙人の子になる。主人公は政治家と母親、更に連れていた幼児に火をつけ焼き殺す。それで捕まり死刑が宣告された。死刑の前に二人組に主人公は助けられる。死んだ政治家と母親に会う。花嫁姿になった後、娘が走っていくので、それを追いかけ車にはねられて死ぬ。

2024年10月30日水曜日

マリグナント 狂暴な悪夢 Malignant 2021

ジェームズ・ワン監督、米、111分。夫は主人公に暴力を振るっていた。妊娠している時に夫から暴力を受け流産するが、夫は何者かによって惨殺される。

主人公は退院し自宅に戻る。悪夢を見る。誰かが残虐に殺されている夢である。複数回見る。その夢が実際の殺人事件だった。主人公は殺人事件の現場にいて殺人鬼による殺人を目撃しているのである。警察に言っても全く信用されない。しかし主人公の言う通りの殺人が実際に起こっていた。

主人公はもらわれ子である。ガブリエルという名を幼い時から口にするが、空想上の友達ではない。主人公を産んだ実の母親は死んでいたと言われてきたが実はそうでなかった。主人公の体の中に物理的に入れた邪悪なガブリエルという兄がいて主人公を操っていた。夢で見たというのは実際に主人公がガブリエルに操られて行っていた殺人だった。最終的には主人公はガブリエルを閉じ込め、また自分を思ってくれる妹との愛を確認する。

C・R・マチューリン『放浪者メルモス』 Melmoth, the wanderer

アイルランドの作家マチューリンが1820年に発表した『放浪者メルモス』はゴシック小説の代表作の一つである。題名を見るとメルモスなる者が故郷を離れ、諸国を放浪する話かと想像するかもしれない。原題 Melmoth, the wanderer の直訳ではあるが「さまよえるメルモス」とでもした方がいい気がする。時空を超えて救済を求めるメルモスは、様々な者たちの運命を操る。

形式的には入れ子構造になっている。千夜一夜物語やデカメロンのような作りであり、それぞれの話はかなり長い。若いジョン・メルモスは亡くなった叔父の屋敷の主人となる。難破船から助けるつもりでかえって助けられたスペイン人からその半生を聞く。長大な物語で、スペイン人が修道院及び異端審問所で被った迫害を知らされる。更にそこから事故で抜け出し、ユダヤ人の家に隠れる。ここではインドにある島に住む無垢な美人の話となる。そこに現れた怪人(さまよえるメルモス)から教えられ、美人はメルモスに恋する。実はこの美人はスペインの貴族の娘で幼い日にさらわれ連れてこられたのである。スペインに戻ってから結婚の話は持ち上がり、メルモスと逃げる顛末がある。更にドイツ人の音楽家と結婚した娘が危篤の兄から財産が遺贈されるはずとスペインに戻る。財産を当てにして一家は贅沢を極める。ところが金がもらえないと分かり、一家は窮地のどん底に陥る。餓死寸前まで行き恐ろしい行為に出んとする。そのほかにも挿話があり、長さよりその内容の凄まじさによって特徴づけられる。

解説に次のような評価がある。「・・・夥しい数の凡庸なゴシック小説のなかで、『修道士』と『放浪者メルモス』だけが今なお読むに耐える秀作として存在しつづけているのである。」(本書p.938)(富山太佳夫訳、国書刊行会、2012年)

新東京行進曲 昭和28年

川島雄三監督、松竹、97分、白黒映画、高橋貞三主演。映画は復興した東京を飛行機で都知事が上空から眺める場面から始まる。

高橋は新聞記者である。同僚の記者に小林トシ子がいる。高橋はふとしたことから出会った淡路恵子に惹かれる。高橋は銀座の小学校の出で、同級生だった建築士も淡路を好いていたと分かる。後に高橋は淡路に求婚する。やはり同級生だった大坂志郎は都電の運転手をしており、北原美枝が恋人である。北原の父親は日守新一で警視庁の刑事である。その日守は新聞記者として知っている高橋をいたく気に入り、自分の娘の婿に迎えたいと思っている。高橋と小林は官庁の汚職を摘発しようとしていた。それに関係している某会社の担当は実は高橋の小学校時代の恩師であった。高橋と小林がその恩師の宅に駆け付けると、自殺しようとしているところだった。高橋は恩師に向かいかつての教えと逆ではないかと諫める。恩師は汚職を明らかにし新聞に公表される。

高橋の同級生の一人が三橋達也で、同じ新聞社の配送関係の仕事をしていたと分かる。目を傷めている。これはかつてボクシングの選手だったのだが、同級生を鍛えるため自分が打たれ役になっていた時の傷である。相手は今ではチャンピオンになろうとしている。相手には黙っていてくれと高橋は三橋から頼まれる。相手はチャンピオンになり、その祝賀会(後楽園球場のような野球場の真ん中)で三橋に再会し共に喜び合う。同じ球場で高橋は淡路に再会する。淡路の父親が高橋らが追い詰めた汚職事件の会社員だったと知る。これでは好きあっていても結婚できない。淡路と高橋は別れる。

VR ミッション:25 The call up 2016

チャールズ・バーカー監督、英、90分。敵方を倒していくというゲームが開発され、それの実験として仮想空間でゲームに参加するゲームオタクが集められる。

各人が戦闘服を着用し武装して、仮想空間の中に入り込んでいく。しかしこれはゲームなどでなく、実際に相手方に撃たれると傷つき、治療薬が間に合わないと死んでいくのである。こうして廃墟のようなビルの中で次々と参加者たちは殺されていく。最後に残った女は巨額の賞金が与えられるにもかかわらず、主催者を殺して去っていく。

マイク・ハマー俺が掟だ I, the jury 1982

リチャード・T・へフロン監督、米、111分。主人公の私立探偵ハマーのヴェトナム戦争時の戦友が殺される。ハマーは独自の調査を始める。

戦友は性的不能の問題があって女医師にかかっていた。ハマーが訪れても患者の情報は与えられないと言われる。性的問題解決のため男女混合パーティが開かれていた。そこでハマーの相手をした双子の姉妹は殺される。ヴェトナム戦争の際の上官の一人は怪しげな薬を開発しそれで儲けていた。その男や殺人犯を倒し、更に女医が戦友殺害の指示をしていたと分かったので、女医も殺す。

2024年10月29日火曜日

野口幸助『そなた・こなた・へんろちょう』音楽之友社 昭和46年

極めて印象的な書名を持つ本がある。これなどもその一つだろう。子供の時に見て今でも覚えている。

著者は音楽プロデューサーである。副題に「私の音楽マネージャー30年」とある。題の意味は今までの経験から「其方、此方を、遍路した帳(ノート)」としたのである。さて今でも気になっていたこの本をようやく読めた。著者は関西の楽壇で経験した。面白い挿話が多くある。何しろ本の出版自体が半世紀前で、その時の昔話であるから本当に関西でクラシック音楽が盛んになろうとしている時期の様子がわかる。ともかく今なら考えられないような話が出てくる。個性豊かな音楽家の実際、上演に関しての苦労、大阪万博の際のカラヤンやリヒテルのことなども書いてある。

女と男のいる舗道 Vivre sa vie 1962

ジャン=リュック・ゴダール監督、仏、84分、白黒映画、アンナ・カリーナ主演。

カリーナは連れ合いはカフェで議論し、別れる。レコード店に勤め、俳優を目指している。しかしうまくいかない。娼婦になる。カフェで老人と哲学談義をする。恋人はいるものの、ならず者たちに売られる。金が少ないと恋人は文句を言い、ならず者らは拳銃で撃つ。カリーナは倒れる。車で恋人も逃げる。

遺産相続は命がけ!? Greedy 1994

ジョナサン・リン監督、米、112分、マイケル・J・フォックス、カーク・ダグラス主演。

フォックスはボウリングのプロであるが、うまくいっていない。恋人がテレビ局で制作に携わっている。ボウリングの事業を始めたいのだが、資金がない。このフォックスには最近会っていない伯父がいた。それがカーク・ダグラスである。億万長者でもういい歳である。それでその財産を狙おうと親戚一同が何かとやってきてご機嫌をとろうとしている。ダグラスには世話をしてくれるイギリス人の若い女がいる。この女に財産をさらわれては大変と、親戚一同は今や忘れていたフォックスを呼び寄せるのである。

フォックスは幼い日、ダグラスのお気に入りだった。フォックスはやって来る。事業に必要な金を得たい一方、強欲な親戚一同にも腹を立てている。最後にダグラスは事業に失敗し、借金はあっても財産はないと言い出す。これで親戚一同は怒り、ダグラスにあたり、早く施設に入れておけば良かったとわめく。フォックスの恋人は借金で破産し住む所もなくなったダグラスを自分たちで引き取ろうと提案する。ダグラスはフォックスの恋人に招かれる。しかしこんな所に住みたくないと言い出す。文句を言うダグラスにフォックスと恋人は困るが、実は破産したというのは嘘で元の屋敷に戻るのである。

中野翠『アメーバのように。私の本棚』ちくま文庫 2010

随筆家の中野がこれまでに書いた、書評の中から特に残したいと思ったものを集めた本である。

だからこの中には以前出た本に収められた文の再録や、文庫の解説の転載などが含まれる。覚えている文に再会する。ページ数も525頁あり、著者の本の中で特に厚い。ここでは有名な作家はもちろん、また著者のお気に入りの森茉莉や尾崎翠の他、様々な作家の様々な本について著者の好みというか感想が書かれている。ここで紹介されているまだ未読の本を読みたくなる。

2024年10月27日日曜日

バナジー、デュフロ『絶望を希望に変える経済学』日経ビジネス文庫 2024

著者は共にMITで開発経済学を担当し、同じ年にノーベル経済学賞を受賞した。

開発経済学は途上国の経済社会をどうやって改善していくのか、成長を伸ばすにはどうしたらよいのかを探る分野である。二人は経済学の理論は踏まえている。ただ理論をそのまま現実に適用しても必ずしも良い結果を生まない。それは経済学の理論は仮定の下に組み立てられている仮設だからである。そうだといって理論を無視し、直観だけでの政策は効果がないだろう。これまでの途上国の経験がそれを示している。経済理論に基づいて開発政策に対し懐疑的な意見を持つ者に反論している。

経済学の特に知識のない人でも政府は色々政策を講じるべきだとは言える。ただそうした一般論だけでは効果が見込まれる具体的な方策は出てこない。総論的評論的意見は役に立たないのである。著者らはこれまで開発した方法等を駆使し、経済学の理論を踏まえて現実的で効果的と思われる政策を提示している。このように学者が専門的知識を用い、現実に対して発言する姿勢は大いに評価できる。日本の経済学者も見習って欲しい。原題はGood ecnomics for hard timesで2019年に出された。

2024年10月23日水曜日

三浦しをん『乙女なげやり』新潮文庫 平成20年

元は2004年の発行。題名は本の売れ行きに大きく影響すると思うのだが、この「乙女なげやり」という書名は感心した。

相変わらず漫画の話が多い。その中で『愛すべき娘たち』という漫画を挙げ、そこには女同士がどういう会話をしているか、描いてあるという。そこで男同士でどういう会話をしているか、著者は女なので関心があるらしい。(p.174)少し考えたが、男同士同士の会話が特別なものでないと思った。つまり男は男らしくという要請があるにしても、しゃべることに関しては特に制約を感じていない。だから男同士の時だけの会話というものがあるように思えない。

伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』新潮文庫 平成17年

伊丹のこの本は有名で、かなり昔から知っていた。退屈日記などあるからヨーロッパに行っても退屈した、とでも書いてあるかと思っていた。読んでみると全然違う。「恥ずかしい日本人を嗤う」といったところか。

まずこの本の出版は1965年、昭和40年である。第一部は映画『北京の55日』(1963年公開、北清事変を扱った映画)に出演するためヨーロッパに行った時の経験である。この当時、普通の日本人は外国など行けなかった。金があっても外貨(ドル)準備が乏しく、ドルの入手が難しく海外渡航は制約されていた時代である。行ける者は極めて限られていた。「欧米」は「先進諸国」の枕詞だった。欧米といってもヨーロッパの方がアメリカより高く評価され、特にフランスは憧れの的だった。だからこの時期にヨーロッパに行った著者はまさに高みから見下すように日本人を批判している、というかたしなめている。

日本人の英語の悪口は今でも言われるが、当時ならなおさらである。だが納得のいかないところがある。p.22に「工事中はroad work(それにしても日本のunder constructionというのはどこから出たのかね)」などと言っているが、イギリス語と米語の違いに過ぎない。「昇降機はlift(それにしても日本のelevatorというのはどこから出たのかね)」と言っているようなものだ。そのくせヴェネツィアをヴェニスと言ってはばからないし、zipperもチャックと書いてある。人を嘲笑うなら自分も少し気をつけろと言いたくなる。ともかく伊丹十三という人にはがっかりした。

2024年10月22日火曜日

ヴェデキント『地霊・パンドラの箱』岩波文庫 1984年

パプスト監督、ルイーズ・ブルックス主演の無声映画『パンドラの箱』及びアルバン・ベルク作曲の歌劇『ルル』の原作である。ルル二部作と呼ばれる戯曲で、世紀の変わり目の時期に発表された。日本式に言えば日清、日露戦役当時である。

主人公ルルはfemme fatale、妖婦の典型とみなされる。ただ男を食い物にする猛女ではない。著者もルルを「それが若くてかわいい印象を与えられるかを検討した」(解説、p.299~p.300)と書いている。上記映画のルルを演じたブルックスを見てもそんな感じである。男たちが火にいる夏の虫のようにルルに溺れ破滅していく。元の劇では会話で回想される、裁判の場面が映画にはある。最後に切り裂きジャックによって殺される。この連続殺人事件は劇が書かれた当時はごく最近であったわけで、同時代の出来事を劇に取り入れているのである。歌劇の『ルル』は多くの録音、またDVDも沢山出ており人気の作品となっている。

2024年10月16日水曜日

中野翠『コラムニストになりたかった』新潮文庫 令和5年

元の著は令和2年に発行された。随筆家、でなく本人の弁によればコラムニスト、の著者が社会に出てからの人生を当時の風潮、事件などを回想しながら書いている。自伝の一種かもしれない。

大学を出て、就職は叶わず親のつてで新聞社にアルバイトとして入社した。その後、出版社でやはり補助的業務に携わりながら、著者の文才を認める者が出てきて頼まれれば何でも書いてきたそうだ。次第に連載を持つようになる。本書の特徴として少なくとも関心のある者にとっては、有名な人々との交流が書かれている。当時の流行や事件などが書いてあるので、年長者には懐かしく若い人には情報提供になるだろう。

三浦しをん『しをんのしおり』新潮文庫 平成17年

元の著は平成14年に発行された。三浦しをんの随筆である。自らの生活を綴り、特に漫画の話題が多い。友達と旅行に行った話とか。自分の生活や世の風潮、流行について感想が書いてある。

この著者は本当に漫画が好きとよく分かる。著者の生まれは自分が社会に出た年であり、20年くらい違うと世の好みというか、標準が変わるのだろう。後の世になると、今は大人がやらない、子供のしている事を大人が普通にやるようになるのだろうか。それにしてもそれはどういうものか。既に漫画もテレビゲームも大の大人が普通にやっているし。

2024年10月15日火曜日

多井学『大学教授こそこそ日記』三五館シンシャ 2023

現役の大学教授による、如何にして大学教授となったか、大学教授の実際はどのようなものであるかを書いてある暴露本の一種。このような下世話な話は誰でも好むので随分読まれているようである。

初めから学者になろうとしたわけでなく、大手銀行にも勤めていた。あまりの過重労働に音を上げ、長野県の短期大学で教員を募集しているとつてで聞き、そこに勤めるようになった。今度はあまりの給与が低いのに驚いている。銀行では長時間労働の対価として給料が出ていたわけであり、短期大学の教員(専任講師)だから低いのは当然であろう。なお著者の専門は国際政治である。徳島大学から声がかかってそこに行く。研究費その他処遇は比較にならないくらい改善した。更に現職である関西学院大学に移る。収入は一気に一千万円を超えたという。(p.125)アラフォーで、ある。生涯働いても一千万の年収に届かない人が、中小企業ではもちろん、名の知れた大企業でも多い。大学教授がこんなに儲かる仕事とは知らなかった。大学教授としての学生対応や受験の監督など嫌な業務が書かれている。

この本で驚いたのは、年収とあと誤植がある。p.188に「東大や京大などの旧帝大は教授会が強く、以前としてボトムアップ型の政策決定が行なわれているようだ。」とある。「以前」ではなく「依然」だろう。本文中の誤植は珍しいので気になった。読んだのは初版であり、後の印刷では改善されているかもしれない。

はなればなれに Bande a part 1964

ゴダール監督、仏、96分、白黒映画、アンナ・カリーナ主演。英語学校でカリーナは二人の青年と知り合う。あまり優等生的な感じではない。カリーナがいる叔母の家に大金があるというので、それの強奪計画を立てる。最初はうまくいかず二度目の押し入りでは金が見つからず、叔母を縛り上げ捜す。あちこちで札束が見つかる。縛っておいた叔母を見ると息をしていない。あわてて逃げ出す。ただ家を出てから叔母の死を確かめると言って戻ったら、男が来て射殺される。札束が舞う。残りの男とカリーナは車で逃走する。男はみんなはなればなれになっていると言う。二人は南米に行こうとする。

昔観た時の思い出はジュークボックスの前で三人が踊る場面、これはジュークボックスではなかったが店の中である。またカリーナが自転車に乗って曲がる時、その方向に手を差し伸べる。昔日本でもやっていたが、最近はやらないのか。更にルーブル美術館の中を最短時間で走り抜ける挑戦。懐かしい場面である。

2024年10月13日日曜日

群ようこ『鞄に本だけつめこんで』新潮文庫 令和2年

作家であり随筆家の著者が昭和62年に公表した初期の随筆集である。

各章というか、話の区切り毎に書名、著者名がある。幸田文『父・こんなこと』とか梶井基次郎『愛撫』とか。それらの書の説明や感想だけが書いてあるわけでない。基本的に著者のこれまでの人生がどうであったかが主体で、それに引っ掛けて取り上げられた本について書いてある。

この中で特に林芙美子の『放浪記』が著者のお気に入りの本という。

今野浩『ヒラノ教授の線形計画法物語』岩波書店 2014

今野浩教授によるヒラノ教授シリーズであるが、今回は線形計画法の発展に関わる歴史を述べている。著者がスタンフォードに留学し、師事したのが単体法の開発者であるジョージ・ダンツィク教授である。

師の話というか称賛が延々と綴られる。いかに天才であったか、どれほど線形計画法の発展に貢献したか。しかしダンツィク教授は悲劇の人である。なぜならノーベル賞をもらえなかったから。当然受賞してもよいのに、ダンツィク教授のみ外された。著者の悲憤慷慨が書いてある。もっともノーベル賞の受賞のおかしなところは今まで多くある、とは誰でも知っていよう。ダンツィク教授の業績は広く知られており、高く評価されている。もっともそうだからこそノーベル賞という今では最高権威の賞を、外されたのが著者には憤懣やるかたないようである。

2024年10月7日月曜日

ジョーカー Joker 2019

トッド・フィリップス監督、米、122分。主人公の男は社会に対し不適応な人間である。精神を病んでいるのだろう。

喜劇人になりたく、今は道化師サービスを提供する会社に勤めている。店の広告のため道化師の恰好で看板を持って店の前にいる時、不良たちに看板を奪われ後を追いかけるが、不良たちに暴力を振るわれる。また同僚がくれた拳銃を、小児科病棟に行って道化師の仕事をしている最中、床に落としてしまう。これで会社は馘になった。

主人公の母親は歳で体が良くないが、富豪ウェインに何度も手紙を出し援助を求めている。主人公が手紙を読むとそこには主人公がウェインの息子で母親がウェイン邸に仕えていた時に出来た子供と分かる。主人公はウェイン邸に赴くが相手にされない。後に母親に騙されたと、母親を殺す。

主人公は地下鉄に乗っている時、からんできた男三人にひどい目に会わされる。持っていた拳銃でそれら三人の男を撃ち殺す。犯人は道化師風の男だったと噂が広まる。街はゴミの累積による不衛生に加え、人々の金持ちに対する不満が募り、道化師の仮面をかぶって狼藉を働く者が溢れた。ロバート・デ・ニーロ演じるTVショーの司会者に縁あって主人公は出てくれと呼ばれる。その際に自分が地下鉄の殺人犯だとTVで名乗り、難詰するデニーロの頭を銃で撃ち抜く。混乱に陥る。主人公がパトカーで護送される途中の街は暴動状態である。パトカーに大型車がぶつかり、主人公は救助される。英雄として祭り上げられる。劇場から出てきたウェイン親子は賊に襲われ両親が殺される。

2024年10月4日金曜日

ヴェルディ『オテロ』クライバー指揮、スカラ座、1976/12/7

カルロス・クライバーが『オテロ』をスカラ座で振った実況のDVDである。ドミンゴ、フレー二が出ている。

ずこのDVD盤の特徴を述べる。字幕が全くついていない。見始めて字幕選択が出てこないと思ったら、パッケージの一番下にIn Italian, no subtitlesとある。また2枚組である。DVDでも(Blue rayでなくとも)『オテロ』なら一枚に収まるであろう。2枚目は第4幕のみである。全体の演奏時間は143分とパッケージにあるが、一枚目、二枚目で夫々何分か不明である。そもそも中古で買ったので、中に解説書が入っていない。パッケージ及びディスクを見てもレーベル名も発行会社も書いていない。海賊盤かと思ってしまった。あと収録ではカーテンコールなども入っている。何より観客がうるさい。クライバーが棒を振り始めても、まだ何かどなっている。第4幕は冒頭にデズデモーナが柳の歌を歌うところなので、クライバーが棒を振っても観客が叫んでいるからいったん棒を下ろしてしまった。音楽を聴く、舞台を見るより騒ぎたい連中がいるのだろう。

2024年9月30日月曜日

四匹の蝿 4 mosche di velluto grigio 1971

ダリオ・アルジェント監督、伊仏、104分。主人公が夜道を歩いていると、後ろからつけてくる男がいる。主人公は男に詰め寄り、訳を問い質す。その際に男が持っていたナイフが男に突き刺さり、男は倒れる。死んだようだ。しかもいきなり遠くから灯りがついて、その様を撮影していたらしい。

主人公は気が重くなり妻には事件を話す。主人公は首を切られて処刑される夢を何度も見る。電話がかかり主人公を脅かす。実は死んだと思われていた男は実はトリックでそう見せかけただけで、生きていた。しかしその男も真犯人と思われる者に殺される。家の女中が真相に気がつくが、襲われ殺される。主人公は私立探偵を雇い調査される。同性愛の探偵で、やはり殺される。

従妹が家に来ており、これも真相を突き止め殺される。死んだ後、網膜に死ぬ直前の映像が残っているというので調べると四匹の蝿のようだ。この後、主人公は妻のペンダントを見る。するとそこには蝿が埋め込まれていた。被害者はこの動くペンダントを見て四匹の蝿が網膜に残ったのである。妻はなぜこのような凶行に及んだのか。夫への復讐のためである。妻は幼い日から父親に虐待を受け、復讐してやろうと思ったが父親が早死にしてしまう。妻に殺されそうになったが、知人が来て助かる。妻は車で逃げる。よそ見をしていた隙に大型車にぶつかる。大型車の端が車を突き、妻の首はちぎれて落ちる。

中島義道『非社交的社交性』講談社現代新書 2013

書名にある「非社交的社交性」とはカントの言葉である。(p.21)

人間は他人といると不愉快だが、全く一人で生きていくわけにもいかない。カントは自分の時間を取られるのが嫌だった。それでも自分の家を持ってから午餐に数人の客を毎日招待したそうだ。全く自分の仕事とは関係ない者たちばかりで、時間が来るとさっさと食事を止め客を帰し、自分の時間を取り戻したそうだ。こうして全くの人間嫌いにも孤立した生活でもない毎日を送ったという。

本書の第二部は著者が主宰する哲学塾に参加している者のうち、普通の言葉で言えば非常識極まりない若者の生態について述べてある。一体どうしたらこんな人間ができるのか。生い立ちを聞いてみたい気がする。幸い自分はこの歳になるまで、こんな人間と付き合うというか会ったこともなくこれた。

今野浩『工学部ヒラノ教授の事件ファイル』新潮社 2012

本書では工学部の裏事情、つまり芳しくない諸事件が述べられている。自らの体験、他人に起きた有名無名の事件がある。カラ出張、経歴詐欺(準教授なのに教授とした)、外国からの留学生を世話すれば巨額の寄付金が取れたが不調に終わる、単位を取ろうとする学生らの攻撃、違法複写、セ、アの嫌がらせ、研究費の不正使用、論文盗作、データ捏造、はては学内の殺人事件、更に東電原発事故を受けての意見などである。

こういった下世話な話題は興味を引くし、面白いと言えば面白いところがある。ただ世の中は変わっていくし、書いてある事情がいつまでもこうだとも限らないだろう。

2024年9月29日日曜日

祖父江孝男『文化人類学入門』増補改訂版 中公新書 1990

この本の紹介として次のような文がある。「文化人類学とは、社会・文化・経済・宗教をはじめ諸分野にわたって、またそれぞれに異なる世界の民族を比較検証する広範な研究対象を視野に収めた学問である。その方法論として、フィールド・ワークによる具体的でしかも忍耐強い実証的な調査が重視される。」

文化には、文化住宅など高級な、といった意味で使われる場合があるが、ここでの文化はcultureの訳語である。またフィールド・ワークとは現地調査、実地調査という意味で、そこの場所に行き、ある程度の期間を要して関心の対象を調べる。本書では文化人類学とは何かを述べた後、対象の文化の歴史や伝播を、更に経済や生活の技術、言語、婚姻や家族、宗教や儀礼、文化・心理・民族性、またその変化がもたらすもの、残された問題について述べてある。文化人類学と言えばいわゆる未開地、諸国に行きそこの生活、風俗を調べるフィールド・ワーク)の印象が強い。

本書を読んで、文化人類学とは歴史の一部かと思った。過去の今ではすたれた習慣、そこが残っている未開地に行きどういうものかを調べる。かつては世界各国で多様性に富んだ生活が営まれていた。しかし今ではほとんど廃れた。欧米先進諸国による野蛮な文化の廃絶、また最近ではグローバル化という全世界の金太郎飴化が凄まじい勢いで進んでいる。各国各地の違いなどほとんど無くなっている。だからそれを過去の違いを調べようとする学問かと思った。

2024年9月28日土曜日

今野浩『工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行』新潮文庫 平成27年

数理計画、金融工学の専門家として名高い今野教授によるアメリカ留学と、教員として行った経験とそこから得たアメリカ大学及びアメリカ事情を語った本。

大学工学部を出た著者は電力中央研究所に入る。そこでアメリカ留学の話が出た。行った先はスタンフォード大学。OR学科だった。元々は希望ではなかったが、そこで当時の最高の教授陣から薫陶を受ける。その後、ウィスコンシン大学へ客員助教授として行くが、全く同僚に太刀打ちできない。帰国後は筑波大学の計算機学科の助教授になる。すぐにウィーンの研究所に行く。ヨーロッパの価値を知る。筑波大学では雑用、教育で4年間研究が出来なかった。国際数理計画法の学会を日本で開催しないかと提案があった。その決める会議に行ってみると、ボンでやることが実は決まっていて、日本は当て馬にされたと分かり苛立たしく思う。

かつてのスタンフォード時代の知人から中西部にあるパデュー大学へ客員として来ないかと誘いがかかる。パデュー大学に行く。ここでの経験が結構書いてある。アメリカのビジネス・スクールの実際や序列、研究者としてノウハウ、身の施し方など。研究者としてもう開拓しつくされている分野はやってもダメで、まだ未開拓の分野なら論文はいくらでも書ける。また以前の分野も全く離れてしまうのでなく、後から書けるものが浮かぶ場合がある。そうして論文数絶対主義のアメリカで、多くの論文をものにすべき。この方法を著者は日本に帰ってから実践し多くの論文を書いた。後から来た慶応の、英語がうまく出来ない教授を自分の部屋に同居させ、料理上手な同教授に料理を随分ご馳走になった。またアメリカ文化で一つ挙げるとすればパーティだと言う。教授間のパーティでは若手が教授に自分を売り込む場という。