2024年5月15日水曜日

オブライエン『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』光文社古典新訳文庫 2014

オブライエンという作家は何人もいるが、これはフィッツ=ジェイムズである。(1828~1862)アイルランドで生まれ、後アメリカに渡り南北戦争で戦死した。収録作品は、

ダイヤモンドのレンズ/チューリップの鉢/あれは何だったのか?──1つの謎──/なくした部屋/墓を愛した少年/不思議屋/手品師ピョウ・ルーが持っているドラゴンの牙/ハンフリー公の晩餐

である。1850年代から61年にかけて発表された。ポーの後継者と裏カバーに書いてある。幻想的で奇想的な短編を集めている。『不思議屋』はユダヤ人の商人が人形の群れを作る。それらは動き出し、子供たちを殺すよう作られている。しかし商人が恋人たちの邪魔をしたため、偶然により人形たちが動き出し、商人やその仲間を毒の剣で突いて殺してしまう。『ダイヤモンドのレンズ』はダイヤで作った顕微鏡で水滴を見ていると少女がいてそれに見とれる話。(南條竹則訳)


シーラッハ『コリーニ事件』 Der fall Collini 2011

シーラッハ初の長編小説。ドイツの実業界の大物が殺された。犯人は直ちに自首した。イタリア人で何十年とドイツに住んでいる。これまで全く犯罪に縁がない。また被害者である高齢の実業家も過去に恨みを買うような経歴はない。

容疑者は口をつぐみ何も言わない。この事件の担当となった青年弁護士は張り切っていた。しかしその後、被害者が自分の友人の祖父であり、自分もかつて世話になった男だと知る。弁護を降りたくなったが、やはり続ける。真相は何であったか。それは第二次世界大戦時に遡る。被害者はドイツ軍の高官で、イタリア降伏後にイタリア人少女を殺していた。犯人はそのきょうだいだった。戦後になって、身内が死んだので何十年もの間、計画していた殺人を実行したのである。(酒寄進一訳、創元推理文庫、2017)

ダフネ・デュ・モーリア『情炎の海』 Frenchman’s creek 1941

デュ・モーリア原作の『フランス人の入江』の訳名『情炎の海』は、かつてこれを原作とした映画の邦題からきている。(1944年、ライゼン監督、ジョーン・フォンテーン出演)

主人公は貴族の夫人ドーナで、俗物な夫やロンドンの喧騒を逃れ、幼い子供たちとコーンウォールの海辺にある別荘に移る。ここでフランス人の海賊が付近を荒らしていると聞く。自分の領地近くの入江に海賊船を見つける。そのフランス人の船長に会う。大胆不敵で行動的であり、その男らしさにドーナは惹かれる。更に自分の別荘の家僕までフランス人の海賊の一味と分かった。元々男まさりでフランス人船長を好きになっていたドーナは男装して海賊船に乗り込む。冒険をして元の別荘に帰る。夫やその友人らが別荘にやって来る。土地の郷伸らと共に海賊を捕まえる気でいる。別荘の晩餐会でいきなり海賊が現れ、臨席の者らから金品を奪う。ドーナに疑いを持っていた夫の友人は、夫人が海賊に手を貸していると知り、ドーナと格闘になる。友人はドーナに殺された。後にドーナを助けようとした友人が海賊にやられたとみなされた。

海賊の船長はドーナを待っていて捕まる。塔の牢に閉じ込められた。ドーナは家僕らと共に船長を助ける企て、実行する。最後はドーナと船長は並んで海を見つめている。(世界大ロマン全集第2巻、デュ・モオリア、東京創元社、昭和31年)

清水幾太郎『倫理学ノート』講談社学術文庫 2000

昔は対象が人間であれ社会であれ包括的に全体を議論し、研究していた。しかし今日では対象は細分化し、方法も「科学的」やら数学の利用が流行り、それらが分からないと時代遅れ、古臭い知識しかないと嘲笑される。実践的意味はどの程度あるのか不明の、今の学問のあり方は本当に望ましいのか。

こういった批判をマスメディアなどで見かけるだろう。本書の内容をまとめるとそのように言っているように見える。まず20世紀初頭に出されたムーアの『倫理学原理』の名が出てくる。それからムーアもその一員だったラッセル、ケインズらのブルームズベリー・グループ(この名はここでは使っていない)が出てくる。ムーアによれば善のような倫理学の根本概念は定義できず、それを快楽のような感覚で計ろうとしたベンサムらの功利主義を攻撃した。ムーアの主張よりも、ベンサムがいかに攻撃されたかが書いてある。ベンサムは社会の改良のため努力したのに、馬鹿にされているだけである。

続いて清水の矛先は経済学に向かう。なにしろ数学的手法で自然科学化した最たる社会科学が経済学なので、清水に気に入られるはずもない。倫理の問題だから、厚生経済学を勉強した。エッジワース箱の図まで出てくる。もちろん経済学に対して怒り心頭である。経済学で基数的効用より無差別曲線が取って代わった、その理由を「謂わば個人間比較への嫌悪のようなものが最初にあって、そこから無差別曲線の利用が生じているのであろう。」(本書p.174)と書いてあるが、無差別曲線の方が基数的効用より制約が少なく一般的であるからである。清水に言わせると現実はダサくて汚いものであるから「エレガント」な分析は不適当で、分析もダサくて汚くあるべき、とのことか。

あと哲学でヴィトゲンシュタインが取り上げられる。もう以上から明らかだろう。著者は『論理哲学論考』(トラクタトゥス)でなく後期の『哲学探究』に共感を覚えている。次にヴィーコである。まるでデカルトを攻撃するため取り上げているようだ。デカルトへの攻撃は凄まじい。初めはデカルト派だったヴィーコは後に反デカルト派になる。転向したのである。次の文は清水の経歴を多少知っている者は面白く読めるかもしれない。

「一般的に言って、古来、思想の発展を担うものは、大部分、転向の能力のある人間に限られているからである。」(p.303)

これが一番書きたかった意見ではないか。さてヴィーコと言えば清水の編になる中央公論「世界の名著」続巻『新しい学』で知った者も多かろう。その著書をここでは次のように書いてがっかりさせる。

「正直な気持を言うと、私には、この書物の内部へ本気で入り込んで行く勇気がない。かつては若干の勇気があって、それを試みたことがあるけれども、この書物の大きさに加えて、何という曖昧、何という晦渋であろう。ヴィーコの眼に映った自然がそうであったと思われるが、これは全く不透明な書物である。」(p.346)

あと、コントとハロッドがある。引用されたハロッドの意見は誰でも同意すると思うが、清水は自分を代弁してくれたと喜んでいる。なお解説のp.464から465に清水自身が書いた本書の宣伝パンフレットの文が載っている。短いからすぐ読める。本書を書店で手にされたならまずここを読むよう勧めたい。本書を読んでいると後期の著者の特徴である被害者意識が感じられ、対立する意見、手法の二者択一を迫っているようだ。

それにしても清水はロールズの『正義論』をなぜ取り上げなかったのか。現代の倫理学では古典ではないか。清水は読んでいるのだが、相性が悪いとか、気分が変わって読んでいるうちに投げ出してしまったと言った、と解説に書いてある。その理由を解説(川本隆史)で推察している。


2024年5月9日木曜日

ピッグ Pig 2022

マイケル豚サルノスキ監督、米、91分、ニコラス・ケイジ主演。ケイジは森で世捨て人のような生活を送っている。豚を飼っている。愛玩用よりもトリュフを捜す目的である。豚はトリュフの在り処を見つける。

時々来る男にトリュフを売っている。ある晩、何者かに襲われ、豚を盗まれた。ケイジは捜すが町の者が取っていったらしい。ケイジは売っている男を呼び出す。町に連れて行けと命じる。ケイジが町に着いてから何人かに会うと、お前はもういないも同然だと言われる。ケイジは町で有名なレストランに予約しろと男に言う。ようやく取れて店に行く。料理をつついてケイジはシェフを呼べと言い出す。来たシェフは少し経ってから分かる。ケイジが以前のシェフだったと。ケイジは豚の行方を聞く。怖れながらシェフが答えたのは町の実力者だった。

そこに行く。やはり実力者はケイジなど相手にしない。その実力者はケイジが取引していた男の父親だった。男が父親に話したので、豚を盗んだわけである。ケイジは男やかつての知り合いに頼み食材を集める。それで料理を作る。実力者を呼ぶ。実力者は食べて涙を流す。昔、亡き妻と食いに行って感激した料理だと思い出したからだ。ケイジは作った料理は凡て覚えている、誰に出したかもと言う。実力者は豚は連れてきた連中が乱暴に扱い死んだと答える。ケイジは森に戻る。

2024年5月8日水曜日

ノー・セインツ 報復の果て There are no saints 2022

アルフォンソ・ピネダ・ウロア監督、米墨、99分。主人公は偽証言が判明し、出所できた殺人犯人。家に戻り息子に会う。元妻は嫌がる。主人公に恨みを晴らそうとしている敵が多い。

元妻は今はギャングの親分と通じていたが、主人公と寝たので親分は元妻宅を襲い、元妻を殺し息子を攫って行く。主人公は息子を取り戻そうと奔走する映画。ギャングたちを皆殺しにし、息子の在り処を聞くとメキシコにいるらしい。

メキシコに入国するため、バーで会った女に偽装の妻になってくれと頼む。メキシコに入る。連れてきた女に親分のところに探りに行かせる。更に女が親分に会うが、親分は見破る。女に乱暴を働こうとした時、主人公が現われ、親分を縛り上げる。拷問で息子の居場所を吐かせようとする。変態男に渡したと聞かされる。親分を殺す。変態男の屋敷に乗り込むが掴まる。息子が逆さに吊り下げられ、井戸の中に落とされそうになる。主人公は敵方を全滅させるが、息子は助けられなかった。

2024年5月7日火曜日

68キル 68kill 2017

ジェームズ・グリフィス監督、米、95分。気が弱い彼氏の彼女は身体を売って稼いでいる。客の一人が大金(6万8千ドル)を持っているので、奪いに行こうと彼氏に持ち掛ける。家に侵入し、客の男を斬り殺す。彼氏は呆れ怖れる。更に現れた妻まで殺す。大金を奪う。

また若い女が現われたので捕まえる。兄のところに売りに行くと言う。彼氏が車で待っていても戻らないので、彼女の兄宅に行く。すると兄は恐るべき人間で死体を切り刻んでいる。恐ろしくなって逃げ、彼氏はトランクに捕まえた女を入れたまま去る。彼女が追うが、捕まらない。彼氏は捕えた黒人の若い女と話す。意気投合する。ガソリンスタンドで彼氏が大金を見せたため、そこの女に眼をつけられる。モーテルに泊まる。明くる朝起きたら金も車も凡てなくなり、黒人の女は殺されていた。モーテルの主人をだまし、車を奪って女を追う。

ガソリンスタンドで女の行方を聞いたら、相手の女は性行為を強制する。行ってみたら銃で脅され、彼氏は縛られ、散々殴り叩かれる。彼女が来た。しかもあの狂人の兄と一緒に。相手方をやっつけ、彼氏を救うが彼女が彼氏を捕まえて離さない気でいたので、彼女を撃ち殺す。狂人の兄も敵方も凡て倒し、家に火をつけ大金を持って彼氏は逃げ去る。