2026年9月21日月曜日

松本清張『凶器』 昭和34年

九州の田舎で冬に殺人事件が起こる。被害者は商人でこの辺り一帯を対象として、よくこの地にもやって来た男である。丸太のような鈍器で頭部を殴られ死んだ。最後に被害者が会ったのは若い未亡人で、被害者が熱を上げていたと分かった。容疑者であるが、証拠がない。

何度かその家に赴くうち、近所の者たちにぜんざい餅を振舞っている時に出くわし、刑事たちも馳走になった。凶器を捜したが見つからない。結局犯罪は未解決で終わった。3年の後、刑事は思い当たった。凶器は硬い餅だったのだ。それを自分らは食ってしまった。凶器のアイデアはロアルド・ダールの『大人しい凶器』によっている。

松本清張『寒流』 昭和34年

主人公は某銀行の支店長、融資をした料亭の女将、若い未亡人に惹かれている。自分の女(二号)にしたく思っていた。しかし入行は同期だが、今は上司になっている、女に手の速い男が女将を横取りしてしまう。主人公は更に田舎の支店に飛ばされる。これで出世の目はなくなった。書名の『寒流』は出世コースの暖流でなく、落ち目の寒流になったという意味がある。

憤懣やるかたない主人公は、上司を引きずり下ろすため、私立探偵社に、女将の逢引の実際を調べさせる。更に写真も撮らせる。これらの材料で、大物である古株の男に摘発を頼む。ところが後にその男は主人公が渡した資料は偽物だと怒鳴り、顔を潰されたといって大金をせびる。実は相手からも金を取り、主人公からもまたふんだくったのである。主人公は探偵社の男と打合せ、上司を潰すため、高級車を泥棒したように見える工夫をする。警察がそれを発見したところで小説は終わり。

2026年9月20日日曜日

松本清張『証言』 昭和33年

主人公は丸の内に勤める課長、二号を囲っている。そのための家が西の方にある。会社と自宅の通り道ではない。この二号宅に行っていて、そこから帰る時、自宅の近くに住む保険員に会った。相手が頭を下げたので、ついこちらも下げた。なんであんな所にいるのだろうと思った。

後から保険員が殺人事件の容疑者にされていると分かった。事件は遠く離れた東の方で起きた。容疑者となった保険員は、近所に住む課長にその時間に西の方で会ったと主張し、それが通れば現場不在証明になる。しかし課長は警察に対し、それを否定する。言ったら自分の二号について話さなければいけなくなるからだ。しかし、二号に若い恋人がいて、その恋人に二号が真相を告げたため、その恋人から警察に通報し、あっさりばれてしまう。短篇だから簡単に済ませている。本編を元にした映画『あるサラリーマンの証言』では、更に後半に話を追加し、全体として面白い話にしている。

2026年9月19日土曜日

クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』 When bad things happen to good people 1989

本書は息子を年少で失ったユダヤ教のラビ(教師兼指導者)が、苦悩の中で神について考え直し、学び取った理論を書いている。かなり前から本書の存在は知っていたものの、読むには若干のためらいがあった。まず一つは邦訳名である。原題はWhen bad things happen to good people、であり、直訳では、ひどい事が善人に起きる時、か。本文p.4に「なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか?」とあってこちらの方が自然な日本語だろう。それが邦訳では「なぜ私だけが」とあって、これは我々の周りにいる、「他の連中は好き勝手なことばかりやって幸せでいるのに、自分だけが全世界の不幸を背負っている!」などと叫ぶ人を思い出してしまう。(分かりやすくするため大袈裟な言い方にした)こういう人はジコチューにしか見えない。それで抵抗を感じたのである。なぜ自分「だけ」が不幸、などという発想になるのか分からない。世の中を見れば、本を読めば本当に不幸な人がいる。

もう一つ抵抗を感じた理由は、なぜ神がいるのに、という問いである。神は全能である、世の中のすべて、人間の運命のすべてを支配している、何事も神のおぼしめしと子供の時から教えられ、そうだと思ってきた人がいる。だからこの著者のように子供を亡くすといった最大限の不幸を経験すると、なぜこのような目に会うのか。本当に神はいるのか。いるならなぜこんな目に会うのか。信じていたからこそ、騙された、詐欺にあったと思うわけである。本書はそういう問いに対して答えをだそうとしている本である。そういう本であるから、自分のように元々神など信じていない、だから「全能の神がいるのに」という問い自体、発しない。それで自分には縁のない本ではないかと思っていたのである。実際、本書は極めて宗教的な本である。著者は神を否定しない。神に対して疑問を発する者に対して、神を擁護している。それが本書の目的である。だから自分には関係ない議論を延々としているように思え、実際に読んでもそうだった。正直、日本人で神を信じている者がそんなにいるのかと思っていた。神を信じる、とは特定の宗教、キリスト教でも仏教でもイスラム教でもいいが、その教えを信じている、に留まらず、世の中のすべてを支配する超常的な力があり、自分の運命もそれによっていると思っている人も含めていいかもしれない。それなら結構いると思う。自分は一切そういったものを信じていない。神が存在していると思っていないから。だから読む気が起きなかった。しかし日本人でも神はいるのかと問い、神を信じている、信じようとしているのなら、本書は読む価値がある。

さて自分には縁のない本でも、読んだので本書のメッセージを書いておく。本書の真ん中あたりにある聖書の「ヨブ記」の解釈である。神は信心深いヨブの信仰を試すため、ヨブに対し残虐極まる目に会わせる。それでもヨブの信仰は揺るがないのか。聖書の神は信者の信仰心を度々試す。本ヨブ記だけでなく、聖書の初めの方にあるイサクの犠牲もそうである。全能の神がいるならなぜこんなひどい目に会うのか、に対する著者の答えは次のようである。神はいる。しかし全能ではない。不幸をもとより起こすわけでない。しかしその不幸、災難を止める力は神にはない。それでは神の存在意義は何か。それは不幸に会った人に対し、より添い不幸に耐える力を与える、忍耐力を与える。信仰があればこそ、苦難を乗り越えられると説く。

2026年9月16日水曜日

松本清張『天城越え』 昭和34年

短編集『黒い画集』所収。語り手が三十数年前の少年時代を回顧し、後半は現在(発表当時)が舞台となっている。大正最終年、語り手の少年は下田の鍛冶屋だった家を飛び出し、静岡に勤めている兄を頼うつもりで伊豆半島を北上する。南から天城越えをした。家出は家が面白くなかったからである。途中で商人などに出会う。到底向こうに着けないと悟り、元の道を戻る。

途中で若い女に出会う。少年にはたいそう魅力的に見えた。二人で一緒に歩いていると、土方風の男に会う。女は少年に向こうに行っていろと言い、土方と草叢に消える。後日、土方の死体が見つかった。警察は犯人を捜したが、迷宮入りとなった。この事件の記録を大人になった当時の少年が、今は印刷所に勤めている、読むのである。昔事件を担当した老年になった刑事がやってくる。語り手と会話を交わす。語り手は事件の実際を語る。当時の少年が犯人だったのである。氷室で一晩過ごした方法について、そのトリックの説明がある。

松本清張『紐』 昭和34年

短編集『黒い画集』所収。岡山の津山で神主をやっていた男が儲けを企んで、上京する。しかし考えていた計画はうまくいかなかったらしい。姉の家に泊っていたのだが、行方不明になる。何日経っても消息が分からない。岡山の妻も呼び出す。分からないまま日にちが過ぎ、妻が帰る日に男が見つかった。多摩川の河川敷で、死体となっていた。当時の多摩川の近くは寂しい場所だったようだ。

小説は死体を子供たちが発見するところから始まる。警察の見立ては、他のところで殺し、そののちここへ運んで来たのではないか、というものだった。タクシーその他車関係を調べるが不明である。死体もどこのだれか分からなかったが、新聞で見た姉が弟ではないかと警察に来て確認する。最後に判明する事実は、家族による殺人で、よそで殺して死体を運んで来たのではなく、被害者と妻と義理の兄が鉄道の駅で降り、この寂しい多摩川沿いの場所に来て殺したのだった。動機は高額の生命保険が被害者にかけてあり、受取人が妻となっていたという事実であった。

2026年9月15日火曜日

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ Joker folie a deux 2024

トッド・フィリップス監督、米、138分。『ジョーカー』の続編。前作で犯罪の限りを尽くしたジョーカーが刑務所に入り、裁判を受ける様を描いている。ジョーカーに恋する女をレディー・ガガが演じる。ジョーカーは裁判でも弁護士を解任し、自分で弁護すると言う。陪審員たちによる評決は有罪、有罪の繰り返しだった。その時、爆破が起こって法廷は破壊される。ジョーカーは恋人と逃げるが、また刑務所に戻る。最後はジョーカーの礼賛者だった他の者にナイフで刺され、倒れる。