2026年9月22日火曜日

松本清張『草』 昭和35年

病院が舞台の話である。語り手がいて入院している。某病院は最近流行っており、病棟も新築した。ここの院長は創立者の2代目である。その院長がある日失踪する。また看護婦長も同日にいなくなった。堅いと思われていた二人だが、駆落ちかと思われ、どこかで心中するのではないかと噂された。更に薬剤師が首を括って自殺する。語り手の隣室の男は活動的な男で、院長がいなくなったのだから、入院費をまけろと病院側と交渉を始める。その交渉相手で、この病院を切り盛りしていた、やり手だった事務長は飛び降り自殺をした。

更に看護婦長の死体が山中で発見された。院長の方は不明のままだったが、後に別の所で死体が見つかった。最後になって明かされる真相は次の通り。この病院は麻薬の取引に使われていた。それを病院長が嫌がったため消された。院長も婦長もその組織に攫われたのである。薬剤師はそれに関わっていたので自殺した。隣室の男は、組織の者で監視するため入院していたのだった。事務長との交渉はその隠れ蓑だった。事務長の自殺はそのせいだった。語り手は当局の者で、部下の社員と称する男が見舞いに来ていたのは連絡のためだった。

松本清張『濁った陽』 昭和35年

劇作家は放送局からシナリオを頼まれる。役所などの汚職で全貌が明らかになる前に、中核となる課長補佐などが自殺して犯罪がうやむやになる場合がある。最近でも某公団汚職の際もそうだった。この件について若い女助手に、亡くなった補佐の未亡人について調べてくるよう命じる。ところがその未亡人は、公団の者かと思われる連中によって、隠されているような状態だった。

これに女助手も作家も不審を感じる。更に調べていくと、役所に影響力を持つ、大物と言われる男がいて、これが補佐の自殺に関与しているのではないかとなった。推理を進めると補佐の死は自殺ではなく、その大物によって殺害されたのではないかと思われた。しかし大物には鉄壁の現場不在証明がある。

またこの大物に使われていたと思われる公団の職員、女助手が調べている際に立ちふさがった男であるが、が死体となって発見された。作家は補佐を偽装自殺に見せかけた、大物による殺害可能を証明するトリックを発見する。これに結構ページを使っている。女助手は自分を妨害した公団職員の死は、自分らが捜査していたためではないかと悔やむ。

殿方ご免遊ばせ Une Parisienne 1957

ミシェル・ボワロン監督、仏、88分、総天然色、ブリジット・バルドー主演。バルドーは首相の娘で、首相の秘書をしている男に恋している。その男はもてまくりで、他にも結婚を迫られている女がいる。首相やその政敵の政治家などと狩りに行った際、男の部屋に政敵の妻のみならず、バルドーも潜り込む。男の部屋で政敵の妻は逃げることが出来たが、バルドーは見つかってしまい、結婚を親から命じられる。

男は結婚しても、依然として他の女からもてるので、バルドーは不快になる。夫に嫉妬させてやれと、折から訪仏中の他国の女王の夫(王配)と浮気してやろうと思いつく。その王配はシャルル・ボワイエが演じており、バルドーを気に入ったボワイエは高速ジェットで、彼女をニースに誘う。そこでマフィアのボスと間違えられ騒動を起こす。またジェットでパリに戻る。バルドーの夫はバルドーが王配と浮気しており、その証拠をつかもうと女王の滞在する施設に行く。運よく王配は戻ってこられ、バルドーの夫の疑いは晴れる。女王と王配が仏を去る飛行機のタラップで王配はくしゃみをする。ニースで風邪をひいたためである。夫と見送るバルドーも同じようにくしゃみをする。

2026年9月21日月曜日

松本清張『凶器』 昭和34年

九州の田舎で冬に殺人事件が起こる。被害者は商人でこの辺り一帯を対象として、よくこの地にもやって来た男である。丸太のような鈍器で頭部を殴られ死んだ。最後に被害者が会ったのは若い未亡人で、被害者が熱を上げていたと分かった。容疑者であるが、証拠がない。

何度かその家に赴くうち、近所の者たちにぜんざい餅を振舞っている時に出くわし、刑事たちも馳走になった。凶器を捜したが見つからない。結局犯罪は未解決で終わった。3年の後、刑事は思い当たった。凶器は硬い餅だったのだ。それを自分らは食ってしまった。凶器のアイデアはロアルド・ダールの『大人しい凶器』によっている。

松本清張『寒流』 昭和34年

主人公は某銀行の支店長、融資をした料亭の女将、若い未亡人に惹かれている。自分の女(二号)にしたく思っていた。しかし入行は同期だが、今は上司になっている、女に手の速い男が女将を横取りしてしまう。主人公は更に田舎の支店に飛ばされる。これで出世の目はなくなった。書名の『寒流』は出世コースの暖流でなく、落ち目の寒流になったという意味がある。

憤懣やるかたない主人公は、上司を引きずり下ろすため、私立探偵社に、女将の逢引の実際を調べさせる。更に写真も撮らせる。これらの材料で、大物である古株の男に摘発を頼む。ところが後にその男は主人公が渡した資料は偽物だと怒鳴り、顔を潰されたといって大金をせびる。実は相手からも金を取り、主人公からもまたふんだくったのである。主人公は探偵社の男と打合せ、上司を潰すため、高級車を泥棒したように見える工夫をする。警察がそれを発見したところで小説は終わり。

2026年9月20日日曜日

松本清張『証言』 昭和33年

主人公は丸の内に勤める課長、二号を囲っている。そのための家が西の方にある。会社と自宅の通り道ではない。この二号宅に行っていて、そこから帰る時、自宅の近くに住む保険員に会った。相手が頭を下げたので、ついこちらも下げた。なんであんな所にいるのだろうと思った。

後から保険員が殺人事件の容疑者にされていると分かった。事件は遠く離れた東の方で起きた。容疑者となった保険員は、近所に住む課長にその時間に西の方で会ったと主張し、それが通れば現場不在証明になる。しかし課長は警察に対し、それを否定する。言ったら自分の二号について話さなければいけなくなるからだ。しかし、二号に若い恋人がいて、その恋人に二号が真相を告げたため、その恋人から警察に通報し、あっさりばれてしまう。短篇だから簡単に済ませている。本編を元にした映画『あるサラリーマンの証言』では、更に後半に話を追加し、全体として面白い話にしている。

2026年9月19日土曜日

クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』 When bad things happen to good people 1989

本書は息子を年少で失ったユダヤ教のラビ(教師兼指導者)が、苦悩の中で神について考え直し、学び取った理論を書いている。かなり前から本書の存在は知っていたものの、読むには若干のためらいがあった。まず一つは邦訳名である。原題はWhen bad things happen to good people、であり、直訳では、ひどい事が善人に起きる時、か。本文p.4に「なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか?」とあってこちらの方が自然な日本語だろう。それが邦訳では「なぜ私だけが」とあって、これは我々の周りにいる、「他の連中は好き勝手なことばかりやって幸せでいるのに、自分だけが全世界の不幸を背負っている!」などと叫ぶ人を思い出してしまう。(分かりやすくするため大袈裟な言い方にした)こういう人はジコチューにしか見えない。それで抵抗を感じたのである。なぜ自分「だけ」が不幸、などという発想になるのか分からない。世の中を見れば、本を読めば本当に不幸な人がいる。

もう一つ抵抗を感じた理由は、なぜ神がいるのに、という問いである。神は全能である、世の中のすべて、人間の運命のすべてを支配している、何事も神のおぼしめしと子供の時から教えられ、そうだと思ってきた人がいる。だからこの著者のように子供を亡くすといった最大限の不幸を経験すると、なぜこのような目に会うのか。本当に神はいるのか。いるならなぜこんな目に会うのか。信じていたからこそ、騙された、詐欺にあったと思うわけである。本書はそういう問いに対して答えをだそうとしている本である。そういう本であるから、自分のように元々神など信じていない、だから「全能の神がいるのに」という問い自体、発しない。それで自分には縁のない本ではないかと思っていたのである。実際、本書は極めて宗教的な本である。著者は神を否定しない。神に対して疑問を発する者に対して、神を擁護している。それが本書の目的である。だから自分には関係ない議論を延々としているように思え、実際に読んでもそうだった。正直、日本人で神を信じている者がそんなにいるのかと思っていた。神を信じる、とは特定の宗教、キリスト教でも仏教でもイスラム教でもいいが、その教えを信じている、に留まらず、世の中のすべてを支配する超常的な力があり、自分の運命もそれによっていると思っている人も含めていいかもしれない。それなら結構いると思う。自分は一切そういったものを信じていない。神が存在していると思っていないから。だから読む気が起きなかった。しかし日本人でも神はいるのかと問い、神を信じている、信じようとしているのなら、本書は読む価値がある。

さて自分には縁のない本でも、読んだので本書のメッセージを書いておく。本書の真ん中あたりにある聖書の「ヨブ記」の解釈である。神は信心深いヨブの信仰を試すため、ヨブに対し残虐極まる目に会わせる。それでもヨブの信仰は揺るがないのか。聖書の神は信者の信仰心を度々試す。本ヨブ記だけでなく、聖書の初めの方にあるイサクの犠牲もそうである。全能の神がいるならなぜこんなひどい目に会うのか、に対する著者の答えは次のようである。神はいる。しかし全能ではない。不幸をもとより起こすわけでない。しかしその不幸、災難を止める力は神にはない。それでは神の存在意義は何か。それは不幸に会った人に対し、より添い不幸に耐える力を与える、忍耐力を与える。信仰があればこそ、苦難を乗り越えられると説く。