2026年7月12日日曜日

亀山郁夫『謎とき悪霊』新潮選書 2012

ドストエフスキーの翻訳で名をはせた著者による『悪霊』論である。全体で446ページもある大著である。しかしながら読んでよく分からないところや、驚いたところなどがある。まずよく分からないところを書く。

たくさんの話題を取り上げ、雑学的知識は増えるが、当方が関心のある事項は書かれていない。たとえば主人公となっているスタヴローギン、美貌と怪力の持ち主とは分かるが、人となりはよく分からなかった。それで神秘的になり、魅力的に見える効果があるのだろう。このスタヴローギンについて、同じ著者による『悪霊、神になりたかった男』という本を以前読んだ。内容は忘れてしまったが、この書名である。神になりたかった男とはキリーロフかと思っていたら、スタヴローギンを指すのである。『悪霊』の中にスタヴローギンが神になりたい、なんて記述があったか。(脱線だが、この本を読んだ時に一番印象に残ったのは、この著者は読者をアッと言わせたい思いが強い、という点であり、そのせいか他は忘れてしまった)

本書でスタヴローギンがどう解明されているか興味を持ったのだが、当方の読み方が不十分であろう、よく分からないままである。本書の183ページでマリヤ・レビャートキナのスタヴローギン理解にふれて、「マリヤは、わたしたち一般読者が理解しているようなスタヴローギン像を思い描いたことは、おそらく一度としてない」とある。ここで著者は、著者と読者の間に共通の理解があるように書いているが、自分など理解できていないので読んでいるのであって、著者との間に何らかの共通理解があるわけない。本書に「スタヴローギンとはだれか」という節がある。(75ページ以下)そこにはスタヴローギンのモデルとして、バクーニン、スペシネフ、フョードル・トルストイの3人の名が挙げられている。バクーニンの名くらいは知っているだろう。スペシネフもドストエフスキーに関心があれば知っているかもしれない。フョードル・トルストイなんて誰も知らない。バクーニンもアナーキストと知っているだけで、全く未知のF・トルストイを含めてこの人がモデルなんて言われても、スタヴローギンの理解につながらない。文学の世界ではモデルとなった人物を特定できれば、分かったことになるのか。

またインターネットの記事にもよくあるが、ゲーテやルソーを下敷きにしているという指摘がある。元となったゲーテやルソーの著作等について創作ノートに詳しく書いてあるのか。似ているだけというなら、西洋の文学など新旧の聖書やギリシャ神話に、元ネタを捜そうと思えばみんなできるだろう。ドストエフスキーがゲーテやルソーを元にして書いたという証拠があるのか。

この著者のドストエフスキー理解、接近の仕方の、そもそもについて述べる。本書を読んでいると驚くべき記述に出くわす。創作ノートの記述に触れ、「ドストエフスキーの脳裏に描かれていた『悪霊』とわたしたちが現に手にしている『悪霊』とはことによるとまったく別世界なのかもしれない、いった疑問さえ浮かんでくる」(本書p.54)我々が読んでいる『悪霊』はまがい物かもしれないのだ!

この著者のドストエフスキー理解の根本思想が『ドストエフスキー共苦する力』(2009)のあとがきにあった。そこには次の様にある。「わたしの考えでは、ドストエフスキーこそは、まさに「二枚舌」の天才だった。(改行)わたしのドストエフスキー理解は一貫している。それは、書かれたテクストを絶対化しない、テクストには二重構造があるという信念である。信仰の裏に不信があり、不信の闇に神は存在する。作家というのは、そうした二重性の表現においてこそ、どこまでも真剣であり、誠実なのだ。」(同書p.261)このあとがきを読んで、これこそ謎とき亀山郁夫だと思った。つまり本文などに拘泥していてはドストエフスキーの理解はできない。その底にある「真意」を読み取る作業が必要なのである。先の本の『白痴』の項で「想像はさらに膨らみます。」とあった。このように本文を読むに留まらず、その外にあるものを掴まなければならない。そんなことどうして出来るのか。普通の人では無理だろう。この著者はドストエフスキーの翻訳だけでなく、ドストエフスキーに関する本を多く出している。だからそれらを読んで真のドストエフスキー理解に達する必要がある、ということなのか。本文を絶対としない、という発想はこの著者が創作ノートを重要視している態度につながる。著者にとって創作ノートは廃棄された過去の案ではない。本文と同等に、いやそれ以上にドストエフスキーの解明にとって重要な文書なのである。それほど創作ノートが重要なら、『悪霊』本文だけでなく、創作ノートも訳してもらいたかった。『悪霊』の創作ノートの全文は、筑摩書房から出ているドストエフスキー全集の第18巻に『罪と罰』のそれと一緒に訳されている。影印本が出ているが高価であり、文庫で欲しかった。

さて本書で最も驚いたのは、ドストエフスキーの伴侶、アンナ夫人の正体を暴いていることである。いわゆる「スタヴローギンの告白」には3種の稿がある。ドストエフスキーが初校刷に手を入れた版、そこからドストエフスキーの手入れを除いた初校版そのもの、アンナ夫人の筆写版。ここで稿の違いとか、その意図を議論しようとするのではない。このうちアンナ夫人の筆写版について、アンナ夫人が主体的にドストエフスキーの原稿を改竄していると言わんばかりに書いているように見える。いや著者は夫人が手を入れたとされる一部について「夫の意図を蔑ろにしたアンナ夫人の作為と見ることはできない」(本書p.228)とあるものの、全体からは意図的な夫人の介入があったと読めるのである。先の文と同じページに、夫人の考えからして不都合な部分は切り取る必要があったと書いている。もちろん夫人の真意を当方も知らないから、著者の解釈が誤りなどと言えるわけではない。ただ夫を尊敬していたアンナ夫人が、夫の原稿に勝手に手を加えたとは思えなかったからである。

また本書には、ドストエフスキーとアンナ夫人の間はそれほど良かったものでないと言える記述がある。「・・・「家庭内検閲者」であるアンナ夫人と作家との間におそらくは小さな対立を生んだにちがいない・・・」(p.230) ここでアンナ夫人を家庭内検閲者と呼んでいる。のちの「伝記3 検閲」では検閲との戦いとして、ドストエフスキーが囲まれていた壁に、第一にロシア報知の編集部、第二に当局の検閲委員会、第三に秘密警察の皇帝官房第三課、そして第四の壁として妻アンナを挙げているのである。(p.284)アンナ夫人はドストエフスキーにとって、検閲委員会や秘密警察と同等の戦うべき敵だったのである。

またドストエフスキー夫妻がロシアに帰国する前に、『悪霊』の原稿をロシア報知の編集部に送りつけた事情についても、編集部とだけでなく、「アンナ夫人との間に何かしら複雑なやりとりがあったのではないか、と想像されるのである」(p.285)とある。以上の記述から、アンナは賢夫人であり、その内助の功によってドストエフスキーの創作に大いに貢献した、というこれまでのイメージから、実は獅子身中の虫だった!と暴露された気分になった。ともかく本書を読んでの最大の衝撃であった。


黒魔術 Black majic 1949

グレゴリー・ラトフ監督、米、105分、白黒映画、オーソン・ウェルズ主演。カリオストロ伯(実名ジョゼフ・バルサモ)をオーソン・ウェルズが演じる。ジプシーの息子だったカリオストロは両親を幼い時、貴族に殺される。長じて病気を治すなどの術で名をはせる。名前をカリオストロと変える。

マリー・アントワネットにそっくりの女を見つけ、その女を使い、フランス宮廷に乗り込む。これには、あのカリオストロの両親を殺した貴族も(カリオストロの出自を知らずに)関わっていた。陰謀が発覚し、貴族もカリオストロも捕えられる。カリオストロは貴族に自分の事実を告げ、貴族に自殺するよう、術で仕向ける。法廷では初めはカリオストロは、民衆を虜にする弁論で魅了するが、後に自分の師でもある男に、自分の正体を暴かれる。最後は塔の上で、妻とした女の恋人と闘い、敗れて落下死する。

2026年7月9日木曜日

紀田順一郎『蔵書一代』 2017

怪奇幻想文学の専門家である著者が自分自身の蔵書について語るほか、蔵書のあり方の一般論、過去の有名人の蔵書がどう処分されたかについて述べている。一般の読書家でもそうでない人から見たら随分本を持っているのが普通であろう。著者のような文筆業であれば、蔵書は恐ろしく増えていくだろう。昔「百万円の蔵書には百万円の費用がかかる」とどこかで読んだ記憶がある。

本というものは場所を取る、しかも非常に重い。これは蔵書の物理的特性だが、質的に他の蒐集と違うところは何か。切手(昔はやった)とか人形とか時計などの蒐集、あるいは骨董品集めとの違いは、本というのはその物自体より、その中の情報が、すなわち人類の叡智や文化やもっと卑近なものでも良いが、その集積である中身が重要であり、書籍自体は情報の媒体に過ぎない。しかし本としての物自体を愛で、集める人がいる。これは個人の勝手だから他人がとやかく言う話でない。ここで著者は集めた何万冊の本を数百冊残して処分したとある。がっかり極まりないのは分かるが、そう決めたのだからしょうがない。

2026年7月7日火曜日

肉体の反抗 昭和32年

野口博志監督、日活、89分、白黒映画。神戸の銀行に勤める女主人公は、同僚の大坂志郎と結婚する予定だったが、母親が病気で妹が学校に通っている事情でまだ出来ないでいる。警察から妹が宝石を盗み捕まったと聞き驚く。このせいで大坂の親から結婚を断られ、母親は死ぬ。妹を保釈に行くが、妹は姉に反抗的で、家出をしてしまう。その後横浜の海で死体として見つかったと知らせが入り、主人公は横浜に急行する。警察は自殺扱いにしたが、殺しではないかと疑っていた。

主人公は妹の復讐を誓う。妹は合いの子の外人(岡田真澄)に騙されて死んだようだ。主人公は岡田に近づく。岡田はある女と結託し、女を娼婦として集めて金儲けしていた。主人公はその娼婦館を営む女に近づき自分もその一員となり、岡田と深い仲になる。女主の息子の大学生は母親の職業を知らない。主人公はその大学生を誑し込み、岡田を復讐しようとする。これは成功したが、大学生はそのせいで殺人犯になり、主人公は大学生の誠意に報いるため出所まで待つという。大坂志郎が神戸から出てきて、主人公に復縁を迫るが、好きであるものの、もう一緒になれないと主人公は断る。

2026年7月6日月曜日

俺はトップ屋だ 第二の顔 昭和36年

井田深監督、日活、52分、白黒映画、二谷英明主演。暴走するスポーツカーは崖から落ちる。乗っていて死んだのは流行歌手の若い男。この事件を調べることになったトップ屋、二谷は歌手が出ていたクラブに行く。死んだ歌手に代わって別の歌手が歌っていた。そこのマダムは情報収集に協力的でない。

暴漢に襲われたそこの踊り子を二谷は救ってやる。クラブにいた実業家が黒幕で、踊り子を使い、多くの者を消していた。二谷の旧友まで、実は裏切り者で二谷の名を騙り悪事を働いていた。現金を手に入れそうになる直前に警察が踏み込み、実業家は逮捕されるが、踊り子と旧友は車で逃げていた。車が崖から落ちそうになり、踊り子は助かるが旧友は落ちていった。

2026年7月3日金曜日

俺はトップ屋だ 顔のない美女 昭和36年

井田深監督、日活、52分、白黒映画、二谷英明主演。夜、都会で男が銃で殺され、持っていた仏像を奪われる場面から始まる。トップ屋(独立して週刊誌等に記事を売り込む文筆記者)の二谷はある女から外国硬貨のような物を渡される。これを欲しがるバーの他の女がいる。中に男の写真があった。警察に見せると有名な密輸業者とのこと。それを渡した女を捜す。スチュワーデスらしい。

謎の男(ジェリー藤尾)が二谷の周りをうろつき、その男にあるクラブに連れていかれる。会員制でそこに入るためにはあの硬貨状が必要らしい。その硬貨を持ってきてクラブに入り、その持主のロッカーを開けると仏像が入っている。その仏像を持って帰る。二谷の事務所では硬貨を奪いに悪漢どもがやってきて、助手の禰津良子がひどい目にあっていた。あの硬貨を渡した女に会い、その仏像の中にダイヤが隠されていると知る。その時悪漢どもがやってきて仏像を奪おうとするが、警官隊も来て一網打尽となる。高跳び用に悪漢どもが用意していたヘリコプターに乗り、二谷は記事を届けに東京に飛ぶ。

2026年6月30日火曜日

矢崎美盛『物語ヘーゲル精神現象学』明月堂書店 2022

本書は矢崎美盛著『ヘーゲル 精神現象論』岩波書店、昭和11年の現代表記版である。書名が違うため別の本かと思うかもしれない。上記の『ヘーゲル 精神現象論』はヘーゲルの『精神現象学』の入門的な解説書として評価が高く、版を重ね、戦後に岩波書店から復刻版も発売された。

しかしながら戦前の出版であるため、口語体ではあるが旧字旧仮名で、昔のことだから漢字の割合が非常に高く、今では使わないような漢字や言い回しを多く使っている。そのため内容理解の前に、読解そのものに時間を取られていた。今回の現代表記で非常に読みやすくなった。