2024年5月15日水曜日

清水幾太郎『倫理学ノート』講談社学術文庫 2000

昔は対象が人間であれ社会であれ包括的に全体を議論し、研究していた。しかし今日では対象は細分化し、方法も「科学的」やら数学の利用が流行り、それらが分からないと時代遅れ、古臭い知識しかないと嘲笑される。実践的意味はどの程度あるのか不明の、今の学問のあり方は本当に望ましいのか。

こういった批判をマスメディアなどで見かけるだろう。本書の内容をまとめるとそのように言っているように見える。まず20世紀初頭に出されたムーアの『倫理学原理』の名が出てくる。それからムーアもその一員だったラッセル、ケインズらのブルームズベリー・グループ(この名はここでは使っていない)が出てくる。ムーアによれば善のような倫理学の根本概念は定義できず、それを快楽のような感覚で計ろうとしたベンサムらの功利主義を攻撃した。ムーアの主張よりも、ベンサムがいかに攻撃されたかが書いてある。ベンサムは社会の改良のため努力したのに、馬鹿にされているだけである。

続いて清水の矛先は経済学に向かう。なにしろ数学的手法で自然科学化した最たる社会科学が経済学なので、清水に気に入られるはずもない。倫理の問題だから、厚生経済学を勉強した。エッジワース箱の図まで出てくる。もちろん経済学に対して怒り心頭である。経済学で基数的効用より無差別曲線が取って代わった、その理由を「謂わば個人間比較への嫌悪のようなものが最初にあって、そこから無差別曲線の利用が生じているのであろう。」(本書p.174)と書いてあるが、無差別曲線の方が基数的効用より制約が少なく一般的であるからである。清水に言わせると現実はダサくて汚いものであるから「エレガント」な分析は不適当で、分析もダサくて汚くあるべき、とのことか。

あと哲学でヴィトゲンシュタインが取り上げられる。もう以上から明らかだろう。著者は『論理哲学論考』(トラクタトゥス)でなく後期の『哲学探究』に共感を覚えている。次にヴィーコである。まるでデカルトを攻撃するため取り上げているようだ。デカルトへの攻撃は凄まじい。初めはデカルト派だったヴィーコは後に反デカルト派になる。転向したのである。次の文は清水の経歴を多少知っている者は面白く読めるかもしれない。

「一般的に言って、古来、思想の発展を担うものは、大部分、転向の能力のある人間に限られているからである。」(p.303)

これが一番書きたかった意見ではないか。さてヴィーコと言えば清水の編になる中央公論「世界の名著」続巻『新しい学』で知った者も多かろう。その著書をここでは次のように書いてがっかりさせる。

「正直な気持を言うと、私には、この書物の内部へ本気で入り込んで行く勇気がない。かつては若干の勇気があって、それを試みたことがあるけれども、この書物の大きさに加えて、何という曖昧、何という晦渋であろう。ヴィーコの眼に映った自然がそうであったと思われるが、これは全く不透明な書物である。」(p.346)

あと、コントとハロッドがある。引用されたハロッドの意見は誰でも同意すると思うが、清水は自分を代弁してくれたと喜んでいる。なお解説のp.464から465に清水自身が書いた本書の宣伝パンフレットの文が載っている。短いからすぐ読める。本書を書店で手にされたならまずここを読むよう勧めたい。本書を読んでいると後期の著者の特徴である被害者意識が感じられ、対立する意見、手法の二者択一を迫っているようだ。

それにしても清水はロールズの『正義論』をなぜ取り上げなかったのか。現代の倫理学では古典ではないか。清水は読んでいるのだが、相性が悪いとか、気分が変わって読んでいるうちに投げ出してしまったと言った、と解説に書いてある。その理由を解説(川本隆史)で推察している。


0 件のコメント:

コメントを投稿