リチャード・ブルックス監督、米、134分、白黒映画。
トルーマン・カポーティ原作で、1959年に起きた殺人事件を映画化した作品。バスに乗ってやって来る男。仲間から誘われ悪事に加担するためである。共に前科者で、一人が刑務所時代にカンザス州の田舎の農家に金庫があると聞いた。一万ドル入っているという。これを奪うため仲間に声をかけた。はるばる車で田舎の農家まで来る。
リチャード・ブルックス監督、米、134分、白黒映画。
トルーマン・カポーティ原作で、1959年に起きた殺人事件を映画化した作品。バスに乗ってやって来る男。仲間から誘われ悪事に加担するためである。共に前科者で、一人が刑務所時代にカンザス州の田舎の農家に金庫があると聞いた。一万ドル入っているという。これを奪うため仲間に声をかけた。はるばる車で田舎の農家まで来る。
シドニー・ピンク、ポール・バン監督、デンマーク、米、81分。デンマーク製の怪獣映画である。英語版は米人監督が指揮した。
掘削作業をしていたところ、血のついた肉片のようなものを掘り出す。コペンハーゲンの大学、水族館でその道の権威に見てもらう。古代の生物らしい。冷凍室で保管する。手違いから冷凍が切れ、肉(と言っても尻尾状)は腐るが血が出ているので生き返ったらしい。雷の激しい夜。保管していた施設は破壊される。雷で復活した古代の獣は研究者も犠牲にする。原始獣はどこに行ったのか。米軍の将校が招かれる。原始獣レプティリカスは現れた。一軒家を壊し、主人と思しき男を呑み込む。軍隊が出動する。戦車や大砲など在来兵器は役に立たない。火炎放射器で火だるまにし、海に逃げられた。海底にいるレプティリカスをやっつけるため、軍艦から機雷を放射する。レプティリカスの近くで爆破する。博士はやめろと諫める。バラバラにしたら夫々の破片でまた生き返るではないか。直ちに攻撃は中止される。
後にレプティリカスはコペンハーゲンに現れる。レプティリカスは緑色の液を吐き出す。それは毒性で人は死ぬらしい。もっとも映画では人間に緑色の画面がかぶさって、それからどうなるかは画面に出てこない。多くの民衆が避難しようとする。開閉する広い橋の上に来た時、担当の手違いで橋が開き、人々が海に転落する。固いウロコは砲弾にびくともしない。将校はこの手しかないと思いつく。口の中に強力な眠り薬を撃ちこむのである。急いで薬が製造される。バズーカ砲にそれを入れ、将校は狙いを定める。口に入った。倒れ眠りこむレプリティカス。これで万歳となる。もっとも映画の最後では海底に原始獣らしきものが写る。
イブ・メルキオー監督、米、84分。
行方不明になっていた火星探検ロケットが発見された。誘導して地球に着陸させる。乗組員4人のうち女の博士は無事だったが、機長は衰弱している。女乗組員から事情を聞く。火星に着陸してから、電波で地球と交信できなくなる。火星の場面は赤のフィルターがかかった色になる。無声映画の火事の場面と同じである。そこで人食い植物や、蝙蝠蜘蛛(顔が蝙蝠で、蜘蛛のような体と脚)に襲われたり、最後は巨大な泡状になったアメーバがロケットを取り囲み、発射を妨げる。電気で排除しようやく火星から脱出する。火星から逃げる前に火星人の伝言があった。地球に戻ってから再生すると、二度と火星に来るなという脅しであった。バート・Ⅰ・ゴードン監督、米、80分、白黒映画。
アメリカの平原、核実験をしようとしている。時間になったのに爆発しない。そこへ小型飛行機が飛んできて墜落する。塹壕で待機していた兵士は飛び出し救助に向かう。その時、核爆発が起こった。全身火傷で助かるはずもないのに、まだ生きている。婚約者が病院に駆けつける。なんと明くる朝、男は火傷がすっかり治り、元の肌に戻った。それだけではない。身体がどんどん大きくなる。もう病室に入っていられない。外にサーカス用のテントを張り、そこで暮らすようになる。世話する兵士や、慰めようとする婚約者にも当たり散らすだけである。なぜこんな目に自分が会わなくてはならないのか。ようやく治療薬が出来た。しかし巨人となった男は逃げだしていた。捜すが中々見つからない。比較的近くの都市がラスベガスでそこに行き、人々を驚かす。軍隊がやって来る。治療薬は巨人に対するため、ロケット砲のような注射器である。発射するがうまくいかず、その注射器を巨人は投げ返し、医師に当たって殺す。自分の婚約者だった女を捕まえ、近くのダムに行く。ダムで女を離せと説得され、女を下に降ろすとバズーカ砲の攻撃。巨人はダムに落ちる。
ローベルト・ジーオトマク監督、独、90分。
若い男は女と別れたがっている。女は中々離そうとしない。男には別に好きな女がいるからだ。その兄とは親友の関係。兄妹の父親は判事である。友人は自分が女に話をつけてこようと、男からアパートの合鍵を預かる。いわゆる精神病質psychopathを説明した本である。邦訳名からとんでもない犯罪をする凶悪犯のことでも書いてあると連想するかもしれないが、原題のように、隣人にでもいる精神病質者の解説である。
この本では3人の例が載っている。いずれも一見それほど問題でもない、困った人であるが、どこにでもいるような人たちである。しかし精神病質者であるため、自分の意志を通すため、他人にどのような迷惑がかかっても何とも思わない、感じない。何とも思わないとは、自分の行為をごく自然な行動とみなし、何か人に迷惑をかけたとしても当然視しているのである。これらの人々は自分の行為を悪いと知りながら気にかけない、というのではない。全く悪いと思っていないのである。他人も自分と同じようだと思っているのである。これは普通の人と同じである。誰でもみんな自分が正常、標準と思っている。自分を基準にして他を判断する。これは精神病質者も全く同じである。よく良心に訴えるという言葉を聞くが、普通の人の言う良心というものがないのである。疚しく思う良心がないから何とも思わない。ごく普通のことをしているつもりで他人をひどい目にあわせているのである。
この本に書いてある話ではないが、何十人も殺すような連続殺人犯は、食事をしたり服を着替えたりするのと同じ感覚で人を殺すそうである。異常な行為と全く感じていないのである。だからこそ出来るのである。これは極端すぎる例であるが、もっと普通に見られる迷惑極まる行為を精神病質者は何も感じずにしているのである。本人が普通の行為と感じ、疚しい気は起きていないのであるから、反省を促しても全く無駄である。考えてみたらこれほど恐ろしいことはない。本人が迷惑行為をしている自覚無しに、他人をひどい目にあわせているのである。本人に注意等しても、精神病質者は不快にしか思わない。犯罪者を含め問題人物を更生できると思いがちだが、一部の人間には全く幻想でしかないようだ。無駄だけで終わるならまだいい。そんな人間に近づいて自分が破滅させられるかもしれない。
ワイラー監督、米、95分。ベティ・デイヴィス主演。
シンガポールの農園の夜。銃声が鳴り響く。建物からよろけて出てきた男をベティ・デイヴィスが銃を何発も撃ち、殺す。従業員らが多く駆け寄ってくる。農園の主の妻であるデイヴィスは別のところにいる夫を呼びにやらせる。夫が間もなく来る。以前から付き合いのある弁護士、その助手も来る。事情を聞く。撃たれた男は以前からの知り合いで、デイヴィスにしつこく言い寄って来て、到頭今夜殺してしまったと。これを聞いて正当防衛だから罪に問われないだろうと男たちは希望的観測を述べる。実際に男を殺しているので裁判になった。陪審員たちは無罪にしてくれるだろうと期待していた。ところがここで新たな展開になる。デイヴィスが被害者の男に出した手紙、それも事件当日に出した手紙というものが出てきたのである。持ち主は被害者の妻、東洋人の女である。そこにはデイヴィスが男に来て欲しいという要請が書いてある。これまでの供述と全く異なる。弁護士はデイヴィスに問い質す。真相は次の様。前よりデイヴィスが男に惚れていた。東洋人と結婚したので向こうは別れたい意向でいたのに、デイヴィスが執心で男に対して説得しても肯んじないので思い余って殺してしまったのである。もしこの手紙が検察側に渡ったら無罪は有り得ない。この手紙を持ち出してきた助手は、向こうがこの手紙を書いとって欲しい気でいると言う。デイヴィスはすぐに買い取れと言う。しかし弁護士は良心の問題があり、もしそんな買収が明らかになると弁護士の資格さえ奪われる。逡巡する弁護士にデイヴィスは、自分を愛し信じている夫が、有罪になれば大打撃を受けるだろうと言って交渉をさせる。手紙を買い取ったので裁判では無罪となった。祝賀会で、夫はスマトラに移ろうと提案する。ここより条件がいい。ただそれには金がいる。しかし手紙代で貯金は消えている。なぜそんな大金が必要だったかと夫は弁護士に問う。デイヴィスはもう真相を話してもいいと告げ、夫は驚愕して聞く。しかし人の好い夫はそれでもデイヴィスが愛してくれるなら過去は問わない姿勢を見せる。デイヴィスはやはり今でも殺した男を愛していると答える。その頃、被害者の妻である東洋人の女が連れと屋敷の庭に来て、デイヴィスに復讐を図る。
フローリー監督、米、62分。ベラ・ルゴシ出演。
1845年のパリの設定。見世物小屋が立ち並んでいる。猿人を見せるという小屋があった。説明するのはルゴシ演じる科学者。進化論をぶつ。猿人を見せる。言葉も理解できるという。デュパン医師は恋人のカミーユと舞台に上って猿人の近くに行くと、カミーユの帽子が猿人に盗まれる。ルゴシ演じる博士は猿人と人間の合いの子の、より進んだ種を作るつもりでいた。そのため人間として売春婦が攫われてきて実験に使われるが、失敗ばかりで、死んだ売春婦は河に捨てた。これが数件の売春婦殺しとなっていた。手がかりをつかむため、デュパン医師は血液を分析していた。その血液がゴリラと分かる。猿人はカミーユを好きになり、ルゴシは次の実験用としてカミーユを狙っていた。カミーユの部屋に猿人が窓から侵入する。母娘ともに驚き、声を上げる。聞きつけた近所の住民、デュパン、警官がカミーユの部屋に入ろうとするが、開かない。こじ開けるとカミーユの母の死体があったが、カミーユはどこかに消えた。警察の訊問で聞こえた声はどこの国の者かで言い争いになる。デュパンはルゴシの家をめざす。その頃、ルゴシはカミーユを使って実験するつもりでいたが、猿人が暴れルゴシを殺す。カミーユを奪って屋根に逃げ出す。追ったデュパンが銃で撃ち、猿人は河に転落、無事カミーユを助け出す。
馬徐維邦監督、中国、107分。
『オペラの怪人』を大いに見習った『深夜の歌声』の続篇である。前編で主人公の男は海に落ち死んでしまった。それが生きていたという風にして話を続ける。女主人公は好きな男が死んでしまい、また別の女も犠牲になってその埋葬の場面から始まる。女主人公は父親に呼ばれる。地方の権力者である。娘を叱る。結婚予定だった男を死なせたのは、劇団の連中であると。女は死んだ男は悪い奴で、むしろ主人公や死んだ女こそ善人だった。父親は激怒し劇団は解散させると息巻く。
顔を隠した男が歩いていた。ある集会のところで見つかり、その化物じみた顔に驚かれ、乱闘して逃げる。歌を歌っている若い女。知っている女だった。男がその家に入ると驚かれる。しかし自分の身分を告げる。やってきた女の婚約者で、男は2人になぜこんな姿になったか話す。海に落ちた男はある軍艦に拾われる。なぜ死なせてくれなかったかと嘆く。その船にはまさに狂った科学者というべき医者が乗っていた。医者は治療してやると男に治療を施す。手術後、男が自分の顔を見ると完全な化物になっていた。怒って詰め寄るが医者は更に手術をすると答える。後に男は医者を殺して逃げる。自分が好きだった女主人公を訪ねていく。しかしそこは廃墟になっており、この知り合いの家に来たのだと。男は、娘が父親ともども県市に移ったと知らされる。そこを目指す。
パウル・フェヨス監督、ハンガリー、仏、68分。
主人公はアナベラが演じている女中である。むやみにこき使われる。仕えている家の娘が舞踏会に出る。帰りに送ってきた男は、アナベラに声をかけ、たらしこむ。後、アナベラは妊娠した。家から追い出される。新しい職を求めてさまよう。酒場で雇ってもらえた。女の子を産み落とす。幸福もつかの間、官憲が来て孤児は法律により施設に入れると言って赤ん坊を連れていってしまう。アナベラは精神がおかしくなる。放浪に出る。長い間さまよい続ける。ある教会に入る。聖母がキリストを抱いている像に近づく。そこで倒れる。天国に行った。天国でも掃除をする。年月が経つ。16年後、地上を見ると若い女、自分の娘である、が男に言い寄られている。自分の二の舞をさせまいとバケツの水を流す。地上では驟雨となって女も家に入り男から逃れる。ハンガリーの伝説に男に騙された娘を救済する、という話があるらしい。映画の初めに字幕で出る。随分単純な映画で、今なら制作されないだろう。鑑賞して以前観たと思い出した。プドフキン監督、ソ連、106分、発声映画である。
1930年のドイツの港町から始まる。造船労働者たちはストライキをうつが、必ずしも労働者たちの思惑は一致していない。組合の指示でなければすべきでないという意見もある。ストライキ崩しがやって来る。警官隊が来て、発砲し多くの労働者が斃れる。代わりの労働者を雇って今の者たちを排除しようとしている。労働者たちは集会で議論する。ソビエトへの派遣が決まる。4人の候補者はほとんど高齢者が推薦されるが、一人だけ若い男が加わる。ソ連での映像。多分実際の映像の流用なのであろう。大都会の通りに群衆がひしめいている。ドイツからやって来た者の代表が挨拶する。ソ連の素晴らしさを故郷に伝えると言う。一人だけ、あの若い男が残ってソ連で働くようになる。ディーゼル機械を開発する工場で働く。別の工場からディーゼルが来ないので仕事が出来ないと苦情が来る。労働者たちは奮励努力して予定より早く仕上げる。完成の祝いの集会。貢献のあった労働者の名前が呼ばれ称賛される。特にあのドイツから来た若い男が檀上に上がる。演説をする。ドイツ語なのでロシヤ語に通訳されて聴衆に伝える。自分はドイツの地でみんなが苦労しているのに、ここへ来たのは仕事があって金が入るという思惑からだった。いわば脱走者である。この告白に割れるような拍手が起こり、若い男を讃える。男はドイツに帰郷し働くようになる。
ビーバーマン監督、米、93分、白黒映画。
労働者が資本家と戦い、勝利を納める映画。米ニューメキシコの鉱山で働く鉱夫たち。その一人の妻が語るところから映画は始まる。社宅に住んでいる。ただしメキシコ人なので白人と比べて待遇が悪い。働いている鉱夫は安全強化を会社に訴えるが、相手にされない。会社に働きかけるための集会で妻たちも住宅の改善を訴える。妻たちは夫からまともに相手にされていない。しかしストライキで女たちもピケ張を担当する。保安官に掴まっても留置場で、大声で抗議し、最後は釈放される。その間、夫たちは子供の世話など家事で苦労していた。最後に会社側は社宅からの立ち退きを命じる。会社の者たちが社宅に来て、家具を外に運び出す。抗議してみんながそれに対抗して、また家の中に家具を運び入れる。多くの労働者たちの抵抗で、最後は諦める。会社側は鉱山の閉鎖しかないかと言って去る。
マルク・ドンスコイ監督、ソ連(キエフ撮影所)90分。
ウクライナのある村、ドイツ軍に占領され、その管理下におかれている。村の姉妹で姉はドイツ軍将校の情人となっている。妹は姉を軽蔑している。ある女が帰ってくる。今までパルチザンにいた。出産のために戻って来たのである。ドイツ軍は女にパルチザンの居場所を言えと命令するが答えない。拷問し牢屋に入れる。その女に食事を運ぼうと子供が志願する。子供は見つかり射殺される。子供の家族は死体を家に持って帰り、家の地面に埋める。ドイツ軍は子供の死体を捜すが見つからないので各家庭に押しかける。元パルチザンの女は出産する。ドイツ軍は赤ん坊に銃を突き付け、居場所を言えと命令する。答えがないので射殺する。女も崖か落とされ死ぬ。
最後にパルチザンがやって来る。ドイツ軍をけちらし、多くを殺し捕虜を生け捕る。あのドイツ軍将校の情人も、村の開放に来た実際の夫が殺す。村人たちは捕虜を殺そうと押しかけるが、女の一人が叫び止める。簡単に殺してなるものか。自分自身を、またその家族にも徹底的に恥ずかしいと思う目に会わせずにはおかないと。
ジャック・フェデー監督、独、106分。
ドサ周りのサーカス一座。フランソワーズ・ロゼーは猛獣使いである。その息子マルセルは団長の娘イヴォンヌといい仲である。ロゼーの住居になっている車に中年男が転がりこんできた。それはロゼーのかつての夫で、16年間牢獄にいたが脱走してきたのである。追ってくる官憲にロゼーは元夫を匿う。息子のマルセルが戻ってくる。父親とは知らないので驚く。父親は器用に立ち回り、団長に気に入られサーカスで働くことになる。マルセルと娘の恋愛を初めて知った団長は二人を引き離そうと娘をイタリアの舞踏学校にいれる。しかしそこに行ってから妊娠していると分かる。イヴォンヌを団長のところへ戻そうとするが、途中で逃げられる。働こうにも妊娠中である。最後はロゼーのところへ戻る。その間、息子のマルセルは仲を裂かれた団長に反抗して、別の女とパリでサーカスをしていた。父親はかつての仲間から脅され、サーカスで悪事を働く手伝いをさせられる。そのため運悪く、ロゼーが怪我をする羽目になる。反省した父親は、息子のマルセルを呼び戻しに行く。マルセルを返そうとしない一緒にいた女は、父親の素性を警察に告げる。逃げる父親、撃ち合いになり父親はサーカスの屋上から転落する。マルセルは元のサーカスに戻って恋人と再会し、赤ん坊も生まれ幸せになる。本書は昭和4年に刊行された「世界大衆文学全集」第30巻「ポー、ホフマン集」改造社のうちポーの翻訳を抜き出したもの。同集には他にビアスの翻訳も収録されていたそうである。本文庫の収録作品は次の通り。
「黄金虫」
「モルグ街の殺人」
「マリイ・ロオジェ事件の謎」
「窃まれた手紙」
「メヱルストロウム」
「壜の中に見出された手記」
「長方形の箱」
「早過ぎた埋葬」
「陥穽と振子」
「赤き死の仮面」
「黒猫譚」
「跛 蛙」
「物言ふ心臓」
「アッシャア館の崩壊」
「ウィリアム・ウィルスン」
更に附録として江戸川乱歩による「渡辺温」と、谷崎潤一郎による「春寒」という探偵小説論を少々と渡辺温の追憶が載っている。訳者の一人渡辺温が谷崎邸を訪れた後、交通事故死しているからである。昭和5年で渡辺温は27歳だった。
江戸川乱歩名義訳とは、江戸川乱歩訳として当時刊行されたからである。実際の訳者である渡辺温、啓助兄弟を明記しての復刻である。復刻は新漢字、旧仮名遣いにしてある。戦前の本であるから漢字が多く、使い方も最近と異なっている。ただ漢字には振り仮名がふってあるから読むのに差し支えない。旧仮名を別にしても最近の文章とは調子が違う。
なぜ今このような古い翻訳の復刻が出るのか。それは本訳の評判が良く、名訳視されているかららしい。カバー裏の宣伝文には「ゴシック風名訳」とある。これが最近の文と違って読みにくく思う読者もいても不思議でない、の理由になる。解説によると比較的最近でも数編の訳が豪華版で出たそうだ。
さて本書はポーファンにとってありがたい出版であるが、初めてポーを読もうとする人には、多く出ている現代の訳書を勧めたい。なぜなら上に述べたように戦前風の文をおいても、見ると全訳でないと分かるところがある。たとえば「モルグ街の殺人」は本書では、題辞の引用文の後、次の様に始まる。
「一千八百――年の春から夏にかけて、巴里に滞在する間に、私はC・オーギュスト・デュパン氏と懇意になった。」(本書p.68)
あの分析能力が分析を許さないから始まる、遊戯を例にした論考がない。更に語り手がデュパンと一緒に住むようになったと述べた後の、夜の散歩の最中、デュパンが語り手の物思いを言い当てて驚かせる挿話も訳されていない。
別に粗捜しする気は毛頭ないのだが、文中にも訳されていないところがあった。デュパンがモルグ街に行く前、パリの警察の見当違いを批判するため、モリエールの戯曲を例にするところがある。これが本書では訳されていない。本書p.80の最後の段落とその前の段落の間にくるはず。原文は次の様。
as to put us in mind of Monsieur Jourdain's calling for
his robe-de-chambre --pour mieux entendre la musique.
他書の訳文例。
「例のジュールダンどのが、音楽をもっとよく聴くために――部屋着を持ってこいと言ったことを思い出させるよ。」(佐々木直次郎訳のp.29)
「あの『町人貴族』に出てくるジュールダン氏のことを思い出させる。ほら、音楽をもっとよく聴けるようにと、部屋着を持って来させた男ですよ」(丸谷才一訳のp.28)
原文の仏語の部分はいずれの訳も仏語発音の振り仮名がふってある。フランス語が入っているからというよりモリエールの戯曲を知らなかったためだろうか。他のところでも気になる訳文があったがいちいち他訳と比較しても煩雑だから止める。
さて再度述べれば、本書の翻訳をあげつらうため書いてきたのではない。目についたところを書いただけである。昔の翻訳には全部訳してない例はそれなりにあった。ジュール・ヴェルヌの小説など周知であろう。さらに今見直すと変な訳文が目につく翻訳があった。また江戸川乱歩名義で出されていたのは売るためで、昔はよく実際の訳者と表記の訳者が違っていた。乱歩の例は有名だろうが、乱歩に限らない。偉い先生の名を使い、弟子などが実際に訳す、執筆するなどざらだった。昭和初期の刊行であるため、現在の基準で見ると批判したくなろうが、当時はたいして珍しくない。
ハンバーストン監督、米、97分、総天然色映画。
芸達者ダニー・ケイが双子の兄弟を演じ分ける。映画の初めはダニー・ケイそのままのような芸人役で出る。双子の兄である。殺人現場を目撃し裁判で証言する予定だった。それを防ぐための殺し屋どもにかかり川に捨てられる。一方弟役はインテリで図書館に通い詰め。女司書と仲良しになる。弟は兄の声がしてきて、恋人をほったらかしで公園の川に行く。幽霊となって出る兄に驚く。兄は経緯を話し、弟に自分の代わりに証言してくれと頼む。嫌がる弟、消える兄の幽霊。芸人の兄を捜していた劇場関係者が弟を引っ張って舞台に出す。何もできずに困る。後から兄の霊が乗り移り、芸を見せる。ギャングたちは見て、死んでいないのか。また消すよう殺し屋がつけまわす。弟は検察に行って事情を話そうとするが、荒唐無稽な内容に相手にされない。恋人も最初は全く弟の言うことを聞いていなかったが、実際に殺し屋が追いかけ回しているので信じる。殺し屋どもから逃げ、最後はオペラの上演最中の舞台で歌手になり、歌を歌って検察に知らせ、殺し屋どもは捕まる。
ジョン・クロムウェル監督、米、128分、白黒映画。
ミュージカル『王様と私』で知られる、19世紀の後半、英婦人がシャム王室に英語教師等として働いた経験が元になっている映画。ユル・ブリナー、デボラ・カーによるミュージカル映画は1956年の制作でこれより10年後である。更にこのミュージカルの漫画映画化『王様と私』が1999年に作られた。実写映画では同じ1999年に『アンナと王様』(ジョディ・フォスター主演)がある。同じ原作を基にした映画化で、ミュージカルの再映画化ではない。
ミュージカルの『王様と私』は誰でも知っているだろう。本『アンナとシャム王』は、同じ体験を基にした映画としては初である。丁度ミュージカル『マイ・フェア・レデイ』(オードリー・ヘプバーン主演、1964)に対する『ピグマリオン』(1938)と同じ関係にある。
原作はシャム王室で働いた婦人アンナの回顧録を基にした、1940年代に書かれた小説である。当然ながらかなり事実と違う所がある。例えば主人公の英婦人はインド生まれで英国にはシャム赴任以前に行ったことはなく、また亡夫は事務員で将校などではない。王の死に際してはイギリスに行っており、立ち会っていない。また映画中、かつての妃が恋人と共に火刑されるが、こんなこともなかったらしい。アンナに当たる婦人の回顧録自体かなり創作があり、それを別人が小説にしたものが原作なのである。正しい史実を期待する方が無理だろう。
オットー・プレミンジャー監督、米、160分、白黒映画。
ジェイムズ・スチュアートが主演の裁判物。軍人が酒場で男を射殺した。妻が暴行されたと信じていたためである。弁護士をしているスチュアートに弁護の依頼が来る。スチュアートは被告、その妻、酒場の関係者などから話を聞き、何とか無罪を勝ち取ろうとする。裁判が始まる。どう見ても被告に不利な状況になってくる。裁判終結間際になって新しい証人が呼ばれる。
表題の敗者とは強い生物らが栄えている時には、陰に潜んで隠れるようにしていた生きものたちである。環境の変化によって強者が滅ぶと今度は地球上にはびこるようになる。ただ本書の意図は、これまで地球に生命が誕生して以来、38億年に渡る生物の進化の、分かりやすい例による説明であろう。具体的な例を多く挙げているところが本書の一番の読みどころである。 一見、退歩のように見えても、あるいは常識と異なっているように見えてもそれは意味がある。例えば草の方が木より後から進化したと例などである。古い生物の仕組みが今でも残っているのは意味がある。それで生きやすい環境があるからである。一見不思議に見えるような生命の現象をそうあらしめている理由を探っていく。本書後半でニッチという言葉が出てくる。経営戦略でいう隙間市場を思い出すかもしれない。生態系では隙間と限らず、当該生命が生存しうる場所、環境を指す。例えば鳥は空をニッチとしている。夫々の生物がいわば棲み分けの形でニッチを持っている。一つのニッチを巡っては競争、闘争が起こり、敗れた生物は滅んでいく。生命38億年の歴史で地上を支配していた生物はこれまで滅んできた。こう考えると人間の滅ぶ時はいつになるだろうと思ってしまう。
カレル・ライス監督、英、133分。
モダンダンスの創始者、イサドラ・ダンカンを描いた映画。20世紀初頭のヨーロッパを舞台にイサドラの自由な生き様を映画にしている。女の気まぐれ、芸術家ならではの自由奔放、恋になど自分の欲望にあくまで忠実といった生活で、正直なところあまりに「型にはまりすぎる」とさえ感じた。こういう生き方をみて憧れる人がいるだろうが、そんなにいいものだろうかと思ってしまう。
デュヴィヴィエ監督、英、118分、白黒映画。ヴィヴィアン・リー主演。
何度も映画化されているトルストイの原作をヴィヴィアン・リーが主人公を演じ、デュヴィヴィエが監督を務めた作。非常に長大な原作を映画化するにあたって、かなりの刈り込みが必要となる。本映画ではリョーヴィンとキティの話は例によってほとんど省略である。原作はアンナとヴロンスキーの破滅過程とキティ、リョーヴィンの幸福実現過程が並行して描かれ、アンナが自滅するしかない心の様がトルストイの微に入り細を穿つ筆致によって説得的に綴られる。人妻が不倫によって破滅するという通俗この上ない話を、小説の凡てが詰まっていると言われるほどの世界文学の傑作にした。
昆虫や魚など海洋生物、更には哺乳類に至るまで個々の生物がどのようにして死を迎えるかを綴った読み物。
空が見えない最期―セミ/子に身を捧ぐ生涯―ハサミムシ/母なる川で循環していく命―サケ/子を想い命がけの侵入と脱出―アカイエカ/三億年命をつないできたつわもの―カゲロウ/メスに食われながらも交尾をやめないオス―カマキリ/交尾に明け暮れ、死す―アンテキヌス、等々。
ジャック・ロジェ監督、仏伊、106分、白黒映画。
若い娘二人とテレビ局で働く男との青春映画。いわゆる新しい波の映画である。テレビ局に見学に来た仲良しの二人の娘は、そこで働く若い男と知り合いになる。男は徴兵に取られる期日が迫っている。残り少ない日々を楽しもうと女たちと付き合い、またコルシカ島に行く。そこでまた出会った同じ二人娘と付き合い、最後は船に乗って徴兵に赴く。
著者はイギリスの大学教授、犯罪学と社会政策を担当。次の様な内容である。犯罪とは何かを考える。誰が犯罪を行なうか、時系列でみて犯罪はどう変化しているのか。犯罪を測るには犯罪統計がある。当局側の統計と被害者調査を述べる。近年、欧米では数十年単位で見ていくと、90年代がピークでその後減少している。ずっと増加してきた犯罪件数は90年代を境に減少傾向に転じている。米でも英でも同様である。これはなぜか。極めて興味深い現象であるにもかかわらず、決め手となる証拠が見つからない。ニューヨークでは警官の数を大幅に増やした事実が影響していそうである。 他にも犯罪の制御や予防いついて論じる。本書は思弁的哲学的に犯罪を論じた書ではない。実証的に数字を挙げて論を進めていく。それは考察の対象である欧米諸国の数字であり、日本のそれでない。日本について同様の考察を進めていくとどうなるか。それは日本の問題であり、方法論的に参考になるが、日本の犯罪そのものは日本人の課題である。