邦訳名のような、読んでいない本について堂々と語るだけなら、今なら簡単な方法、インターネットがある。調べればどういう本かはすぐわかる。感想もAmazonのレビューを参考にすればよい。それでも書名を見て興味を持つ人は多いと思われる。それは本だから何か有用なことが書いてあるかもしれないと思うからだろう。著者はなぜこのような本を書いたか。著者は文学の先生で大学で教えている。本を読むのが好きでないとある。授業の際、色々な本を話題にする。その本を読んでいない場合が多い。そういう読まずにコメントするという経験から、論じてみたとある。著者のような立場の人は少ないだろう。本を読むべき、は常識化している。ただそう思っても読む気になれない、時間がない。それで読まないまま来ている。そういう人は本書に対して次のような期待が働くのではないか。1)本をきちんと読まずに内容をつかむ手法等が書いてあるのかもしれない。2)そもそも本など読まなくてもいいという主張が書いてあるかもしれない。
正直なところこの期待は大して応えられていない。読まないで済ます方法が全く書いていないわけではない。例えば「共有図書館」と著者がいうのは(p.35あたり)、自分で思いついた例では『古今和歌集』について論じるのに『古今集』そのものの精読が必要になるわけでない。『古今集』の前の『万葉集』との関係、後の『新古今和歌集』に与えた影響、それで足りなければ他の八代集との関係を言えればいいのである。本というのはそれだけで孤立しているのでなく、関連する一連の図書との関係が重要だからだ。また「ヴァーチャル図書館」なる言葉が出てくる。(p.194あたり)ある本について話し合う場合、どちらか一方、あるいは双方とも当該図書をろくに知らなくても、議論はできると言いたいらしい。つまり著者の関心は、読んでなくてもコメントできる、批評できるという点である。
本書で著者が一番主張したかったのは、本を読まなくても差し支えない、という消極的、妥協的な意見でなく、本など読まない方が望ましい、と理解した。最初の方にヴァレリーがプルーストを読まずに批評して、読んでいないからこそ良い批評になった、と書いてある。これはヴァレリーのような天才だから可能なのであって、普通の者がそれを真似していい批評が書けるか、と思ってしまう。本書名を見て『吾輩は猫である』の初回で美学者迷亭がする与太話を思い出した人は多いのではないか。読むと驚くべきことにまさに迷亭の話が引用されているのである。迷亭はハリソンの歴史小説『セオファーノ』を引用し、この小説を読んでおらずに女主人公が死ぬ場面云々とでたらめを言う。苦沙味が相手が読んでいたらどうするのだと問うと、その場合は他の本と間違えたと言えばいいと答える。ここのところで、著者は迷亭が答えたように間違いを認めるよりも、いろんな理屈をこねくりまわして、でたらめ発言を擁護している。自分には要約できない。新しい話を創造したので価値があるといいたいのか(そうでもないようだが)。本当にこの著書は何が書いてあるか、非常に分かりにくい書き方をしている。この「本など読まない方がより望ましい」という意見をもっと明瞭に分かりやすく主張すればかなり価値のある本になったと思う。この本はいかにも本を読ませずに済ませる方法を書いてあるように見せかけ、それを望んでいる読者をつかんでベストセラーを狙い、主張はかなり分かりにくい。難解な本を高級だと思う人が結構いるので、それを考えてこんな分かりにくい本にしているのかとも思ってしまう。とにかく著者のようなコメントしたり、批評をしたりするという立場ならきちんと本を読まなくていいとは、確かにそうだと思う。
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